牧野富太郎の手紙 ― 2023年04月09日 07時29分51秒
(昨日のつづき)
さて、牧野富太郎の手紙の内容に入ります。
手紙の差し出しは、昭和10年(1935)12月7日、消印は12月8日付になっています。
宛先は荏原区戸越、今の品川区に住んでいた篠崎信四郎という人物です。
篠崎は伝未詳ながら、明治43年(1910)に成美堂から『最近植物採集法』という本【LINK】を上梓しています。同書は牧野の校閲を経ており、篠崎は序文で牧野を「恩師」「先生」と呼んでいます。また、牧野が明治44年(1911)に組織した「東京植物同好会」(発足時の名称は「東京植物研究会」)の会員として、1910~30年代の植物学関係の雑誌に、その名が散見されます。おそらく牧野に学び、牧野の周辺で活動を続けた、在野の植物研究者なのでしょう。
手紙は便箋2枚にペン書きされており、下がその全文。
江戸時代のくずし字ほどではないですが、今ではこうした手紙もずいぶん読みにくいものになっていて、私も首をかしげた箇所がいくつかありました。それでも凝視していると徐々に読めてくるもので、特に不都合な内容もないので、以下に書き起こしてみます(改段落は引用者。ネット情報をつまみ食いして、いくつか註も附けました)。
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貴簡をありがたく拝見いたしました。其后御変りない事と御慶び申上げます。
「趣味の植物採集」(注1)其内に御送りいたします これは三省堂の乞ひにより彼の岩波のもの(注2)や何かを集め参考して拵へたものです それに出てゐる菩多尼訶経(注3)の誤字御しらせ下され誠にありがとう存じます 私は出版語〔後〕余り気を附けて見なかったが大分訂正せねばならぬものがありますナー
神変大菩薩の碑(注4)の蘭山が若し彼の蘭山(注5)でしたらマダ誰れも知らぬ面白い事です それはそれが蘭山の手跡ならば其文字を見れば判断がつくと思ひます 拓本を作って見てはどうですか これは彼の雪花墨即ち鐘墨(ツリガネズミ)でやれは造作もなくとれます 鐘墨は鳩居堂に売ってゐます 廉価な品物です 確か一個十五銭位だと思ひます
榕菴(注6)の学識は無論貴説の通りシーボルトの感化もありませうが何を言へ蘭書など読む力が充分であった為めそれからそれへと読み行いてこそでいろいろの新知識と新知見を得たものでせう
作〔乍〕延引右御礼申上げます
御自愛を願上げます 牧野富太郎
十二月七日
篠崎賢台 机下
「趣味の植物採集」(注1)其内に御送りいたします これは三省堂の乞ひにより彼の岩波のもの(注2)や何かを集め参考して拵へたものです それに出てゐる菩多尼訶経(注3)の誤字御しらせ下され誠にありがとう存じます 私は出版語〔後〕余り気を附けて見なかったが大分訂正せねばならぬものがありますナー
神変大菩薩の碑(注4)の蘭山が若し彼の蘭山(注5)でしたらマダ誰れも知らぬ面白い事です それはそれが蘭山の手跡ならば其文字を見れば判断がつくと思ひます 拓本を作って見てはどうですか これは彼の雪花墨即ち鐘墨(ツリガネズミ)でやれは造作もなくとれます 鐘墨は鳩居堂に売ってゐます 廉価な品物です 確か一個十五銭位だと思ひます
榕菴(注6)の学識は無論貴説の通りシーボルトの感化もありませうが何を言へ蘭書など読む力が充分であった為めそれからそれへと読み行いてこそでいろいろの新知識と新知見を得たものでせう
作〔乍〕延引右御礼申上げます
御自愛を願上げます 牧野富太郎
十二月七日
篠崎賢台 机下
【注】
(1)『趣味の植物採集』は牧野の自著。1935年、三省堂より刊行。
(2)岩波書店から出た『岩波講座生物学 第8』(1932)を指すか。牧野は同書で「植物採集及び標本調製」の項を分担執筆した。
(3)『菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』は、江戸後期の蘭学者、宇田川榕菴(うだがわようあん、1798-1846)が著した植物学書。文政5年(1822)刊。「ぼたにか」とは「botanica」(羅、植物学)の意。折本仕立ての経本をまねた体裁をとっている。
(4)神変大菩薩は、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ、伝7
世紀の人)の諡号。彼の没後1100年を記念して、江戸時代の寛政11年(1799)、光格天皇より追贈された。ここに出てくる「蘭山」揮毫の碑が何を指すかは不明。
(5)小野蘭山(おのらんざん、1729-1810)。江戸時代の本草学者。蘭山は号で、本名は識博(もとひろ)。その曾孫が前々回の記事に登場した、植物学者の小野職愨(おのもとよし、1838-1890)。
(6)(3)に記した宇田川榕菴のこと。
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旧知の弟子相手ですから、いかにも心安い感じの手紙です。文章もあまり推敲せず、さらさらと書き流した感があります。
内容は最初から最後まで植物学に関連した事柄ですが、リアル植物学に加え、植物学史や植物民俗史的な話題が多いのが注目されます。同時代の野尻抱影が、各地の弟子たちと盛んに文通して、天文民俗語彙の収集に努めていたことが思い合わされるのですが、牧野の場合も弟子たちと似たようなやりとりがあったんでしょうか。(遠目から見ると、こういう動向は、柳田民俗学の隆盛とシンクロしているように感じられます。)
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昭和10年、牧野はすでに73歳になっていましたが、その活力と好奇心は衰えることなく、『牧野植物図鑑』や『(正続)植物記』等の主著を発表するのは、さらにこの後のことになります。平均寿命を考えれば、これは今よりも格段にすごいことで、この一点だけ見ても、牧野という人は文句なしに稀代の傑物です。
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