虫さまざま…江戸から明治へ2023年04月15日 11時42分06秒

日本画家による、日本画の絵手本としての昆虫図譜。
一昨日の森本東閣作『虫類画譜』が、まさにそうでした。もちろんそうした本も美しく魅力的であることは間違いないのですが、今一度このブログの趣旨に立ち返って、本来の博物画の文脈に沿った作品も見てみます。


『百虫画』、一名「蠕蠕集(ぜんぜんしゅう)」。

作者は、山本渓愚(やまもとけいぐ、1827-1903)
渓愚の父は京都の本草学者、山本亡羊(やまもとぼうよう、1778-1859)で、亡羊は小野蘭山に学び、シーボルトとも交流があったといいますから、その時代の雰囲気が知れます。

渓愚も父親の跡を継いで、本草学を修めました。年号でいえば、生まれたのが文政10年、亡くなったのが明治36年ですから、ほぼ江戸と明治を半々に生きた人です。明治になると新政府に仕え、明治5年(1872)には博覧会事務局に入り、明治8年(1875)には京都博物館御用掛となって…云々とウィキペディアには書かれていますが、要は江戸から明治へ、そして本草学から博物学へという過度期を生きた人です。

そうした人の手になる虫類図譜が、この明治39年(1906)に出た『百虫図』です(発行者は京都下京区の山田茂助)。刊行されたのは渓愚の没後になりますが、その辺の事情は後記に記されています(筆者は博物学者の田中芳男(1838-1916))。

(冒頭の「虫豸(ちゅうち)」は、虫類一般を指す語)

そこには、「渓愚は幼時より博物学を修め、画技を学び、動植物の写生に努め、その数は数千点に及んだ。本書はその一部を竹川友廣(日本画家)が模写したもので、絵画を志す人にとって大いに有益であろう」…という趣旨のことが書かれています。これを読むと、本書はやっぱり絵手本的な使われ方を想定していたようで、制作側の思いはともかく、受容層のニーズとしては、当時、そうした本が強く求められたことが分かります。

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本書の中身を見てみます。


ご覧のとおり先日の「花虫画」とはまったく違った画面構成です。そこに植物が描き込まれている場合も、単なる景物ではなしに、その昆虫の生活史と不可分のものとして描かれています。

(クツワムシ)

(イラガの幼虫。その上に描かれた、木の枝に付着した小さな楕円体が繭。通称「雀の担桶(スズメノタゴ)」)

虫たちの描写も真に迫っていて、博物画の名に恥じません。


カミキリムシも、ちゃんとシロスジカミキリと同定できます(一昨日の森本東閣のカミキリムシは、いささか正体不明でした)。



巻末にはラテン語の学名まで載せていますが、トカゲも蛇もミミズもすべて「百虫」のうちに数えているあたりが、博物学指向といいながら、いかにも江戸時代の<虫類観>で、ちょっと不思議な感じがします(他のページには、蛙もカタツムリも、さらに冬虫夏草まで載っています)。


本の構成も、近代の生物学的分類とは無縁の配列で、この辺も江戸時代の本草書そのままですが、まあすべては過渡期の産物であり、その過渡期らしさこそが、本書の魅力なのでしょう。


余談ですが、本書の装丁は一昨日の芸艸堂の本と比べて素っ気ないですが、よく見ると一般的な「四つ目綴じ」ではなくて、「康熙綴じ(+唐本綴じ)」になっていて、この辺がさりげなく凝っています。

歴史瑣談…鷲雪真と仁徳天皇陵古図2023年04月17日 05時29分48秒

天文趣味や理科趣味とはあまり…というか全然関係ない話題ですが、備忘のためここに書いておきます。

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今を去る30年前、私も人の親となり、大いに張り切っていました。

男の子だから端午の節句を祝うという段になって、普通に人形屋に並んでいる五月人形では面白くないとへそ曲がりなことを考えて、床の間に端午の節句にちなんだ古画を飾ることにしました。今にして思えば、若干スノビッシュな感じもしますが、当時は素敵なアイデアに思えたので、いそいそと京都まで出かけて、縄手通界隈の古美術店で一幅の具足絵を買い求めたのです(まだネット販売のなかった時代です)。


それを押し入れから出してきて、今年も飾りました。

(一部拡大)

まあ、いかに京都で風流人を気取っても、先立つものがないので、これは無名の絵師の作品に過ぎません。しかし無名とはいっても、やっぱり名前はあるわけで、絵の隅っこには「雪真鷲源正直図之」という署名があります。


印章は「鷲正直」と「雪真」の2つ。つまりこの絵を描いたのは、本姓は源、氏は鷲、名は正直、号は雪真という人です(「鷲」は珍しい苗字ですが、確かにあるそうです。ただし、これが普通に「わし」と読むのか、あるいは「おおとり」のような読み方をするのかは不明)。

(外箱蓋裏の記載。蓋表には「雪真筆 菖蒲雛画」とあります)

箱書によれば、以前の持ち主はこれを明治13年(1880)5月に調えたとあるので、絵が描かれたのはそれよりもちょっと前でしょう。

当時、書画骨董人名事典の類をいくらひっくり返しても、その名がまったく見つからなかったので、これは余っ程無名の人か、あるいは素人画家の作かもしれんなあ…と思いました。で、今年久しぶりにその軸を出してきて眺めているうちに、「その後ネット情報も充実したし、今なら何か手掛かりが得られるかもしれんぞ」と思って検索したら、たった一点ですが、同じ人の作品が見つかりました。

(出典:https://aucview.aucfan.com/yahoo/p1060857324/ 一部トリミング)

「鷲正直(雪真)槌鼠図横物」の品名で、2022年8月にヤフオクに出品されたものです。

(出典:同上)

印章も同じなので、同一人物に間違いありません。
文久4年(元治元年、1864)の段階では、「法橋」の位に叙せられているので(これは絵師の名誉称号みたいなものです)、この人は素人ではなく、やっぱり職業画家で、幕末から明治の初めにかけて活動した人なのだろうと想像されました。

これだけなら、「ああ、そうなんだ」で終わる話です。
しかし、検索結果の余波として、ここから話は妙な方向に発展します。それはあの「仁徳天皇陵」、今では「大仙陵古墳(大山古墳)」と呼ばれる巨大古墳に関係したことです(以下、話を簡単にするため、旧称の「仁徳天皇陵」を用います)。

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仁徳天皇陵は、現在は発掘はもちろん立入調査も認められていないと聞きますが、明治の初めにその前方部の一部が崩れて、そこから石室が見つかったことがあります。これは大雨によって偶然崩れたとも、当時の堺県令・税所篤(さいしょあつし、1827-1910)が意図的に発掘(あえて言えば盗掘)したのではないかとも言われます。

石室が発見されたのは明治5年(1872)9月7日のことで、ちょうど同時期に文部省の派遣した社寺宝物調査団が近畿一円で活動しており、同調査団は早くも9月19日に現地を訪れて、同行した絵師の柏木政矩(通名・貨一郎、1841-1898)が、石室と石棺の図面を描いています。

何といっても、現在は禁断の遺跡ですから、このとき描かれた図面はすこぶる貴重なものに違いなく、ただ残念ながら原本は失われて、今はいくつかの写本が残されているのみです。

その写本の1つが、国学者の落合直澄(1840-1891)がかつて所有し、現在は八王子市郷土資料館に所蔵されている「落合家旧蔵『仁徳陵古墳石棺図』」と呼ばれるものです。これはその描線や記載事項の検討から、柏木政矩が描いた原図に最も近いものと推定されています。

それがどんなものかは、八王子市郷土資料館所蔵のオリジナルを複製したものが、ウィキペディアの「大仙陵古墳」の項に掲載されているので、簡単に見ることができます(図は2枚から成ります)。



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で、肝心の鷲雪真がどこに行ったかというと、他でもない上の図を描いた(すなわち柏木の原図を模写した)のが、雪真その人なのです。

すぐ上の図の左下を拡大してみます。


そこには「明治八年四月十五日 鷲雪真模」の文字が見えます。

この書入れについて、この資料を学界に初めて報告した小川貴司氏(1983)は、以下のように述べています(太字は引用者)。

「したがって現在確認できる中では、落合家の図が柏木の原図に最も近似するという結論に達する。そしてこのことは図末の「鷲雪真模」の記述にも見ることができる。これは「鷲雪真ガ模ス」とも読めないことはないが、「鷲雪ガ真模ス」と読むべきだろう。「真模」とは本物をもとに正しく模写した意味という。とすると、本図が写しの写しという可能性はなくなり、より信憑性を高くする。」 (p.248)

「次に落合家の図末の「明治八年四月十五日鷲雪真模」の添書きだが、このような記述は今までの図にはなく、この図の由緒を明確にしている点で高く評価できる。直澄が税所らに会った正確な日付けはわからないが、模写された明治8年4月15日は丁度その前後である。とすると、直澄は模写を見て譲り受けたのではなく、柏木の原図を直接見た上で鷲雪に「真模」させたと推定される。〔…〕なお、鷲雪についてはいかなる人物かわからなかった。」 (p.249)

この推論は、その後も玉利薫氏(1992)や内川隆志氏(2020)がそのまま引用しており、本図は「鷲雪」という画家が原図を「真模」したもの…ということになっています。しかし、同じ時期に「鷲雪真」という画家が現にいた以上、これは小川氏が最初に退けた読み方、すなわち「鷲雪真ガ模ス」を採るべきだと思います。そして筆跡の上でも、「雪真」は「真」の字にやや特徴があって、この3点は私の目には同筆に見えます。

(3点の比較)

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まあ、なんだかんだ言って、鷲雪真の伝は依然として不明なわけですが、少なくとも「真模」の一語を重く見た小川氏の論には一定の留保が必要でしょうし、雪真その人の経歴や、雪真と落合直澄の関係を探るという新たな課題が、今後の歴史家には残されている…と言えるのではないでしょうか。

以上は素人の勝手な考証にすぎません。でも貴重な歴史資料にかかわる事柄なので、あえてブログの隅に書き付けました。


【引用・参考文献】

(1)小川貴司 1983 「落合直澄旧蔵の『仁徳陵古墳石棺図』について」、『考古学雑誌』 69巻2号、pp.244-253.
(2)玉利 薫 1992 「堺県令税所篤の発掘」、『墓盗人と贋物づくり―日本考古学外史―』 平凡社選書 142、pp.138-185.
(3)内川隆志 2020  「好古家柏木貨一郎の事績」、『好古家ネットワークの形成と近代博物館創設に関する学際的研究Ⅲ』 近代博物館形成史研究会、pp.3-29.
http://hcra.sakura.ne.jp/hvsiebold/wp-content/uploads/2020/07/siri2020.pdf

※「鷲正直(雪真)槌鼠図横物」の魚拓はこちら。

山峡に聳え立つドーム2023年04月20日 20時39分11秒

こんなカッコいい絵葉書を見つけました。
ただし、オリジナルではありません。1905年に制作された「ウラニア天文台」のポスターを、お土産用に絵葉書化したものです(原版はチューリッヒ・デザインミュージアム所蔵)。


ここはチューリッヒにある公共天文台で、研究成果を上げるよりも、市民に星に親しんでもらうことを目的とした施設です。

この天文台は以前も登場済み。

■そびえ立つウラニア
■チューリッヒのウラニア天文台(補遺)

ちなみに、以前の記事ではここを1907年のオープンと書きましたが、建物自体は1899年にできており、1907年は運用開始の年の由。


遠くにはアルプスの山並み、眼下には冷涼な湖と瀟洒な街並み、そのすべてを覆う満天の星。


ドームの中では望遠鏡の周りに紳士淑女や少年たちが集まり、階下のレストランでは美味しい料理が湯気を立て、人々が美酒を酌み交わしたのです。何ともうらやましい環境です。

それにしてもこのポスター。山峡に舞い降りた星の女神をたたえるに相応しい、実に美しいデザインです。

ウラニア劇場へ2023年04月21日 17時02分43秒

今日も「ウラニア」の絵葉書の話題です。
ただし、ところは変わって、舞台は1898年の世紀末ウィーン。

この年、時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は在位50周年を迎え、ウィーンではこの慶事を祝う大規模な博覧会が催されていました。この催しの基調は、過去半世紀に成し遂げられた産業・貿易・技術の発展を謳歌するというものでしたが、中でも特に科学の進歩に焦点を当てたパビリオンが、「ウラニア劇場(Urania-Theater)」です。


それをモチーフにしたのが、このユーゲントシュティール然とした絵葉書。



昨日の絵葉書と違って、今回のは本物オリジナルで、その消印も博覧会場で押された特製スタンプらしく、インクの残り香に1898年ウィーンの空気を感じます。

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ウラニア劇場はこの博覧会のためだけに、急拵えしたものではありません。

1888年にベルリンで、科学知識の普及を旨とした市民教育のための組織「ベルリン・ウラニア協会(Die Berliner Gesellschaft Urania)」が設立され、これに刺激されて、1897年にウィーンでも「ウィーン・ウラニア組合(Das Syndikat Wiener Urania)」が結成されました。その活動拠点として作られたのが、この「ウラニア劇場」であり、博覧会側とウラニア組合側は、お互い渡りに船、ちょうどタイミングが良かったわけです。


三々五々、「星の劇場」につどう人々。


その先にそびえる科学の殿堂と、それを見下ろす星たち。

新古典様式とユーゲントシュティール(アールヌーボー)様式をミックスした建物は、800 人収容のホールを持ち、さらに200人が入れる講堂や、科学実験の実演部屋、さらに口径8 インチ(20cm)を始めとする一連の望遠鏡を備えた天文台、水族館等を擁していました。ここで日夜、幻灯講演会、科学実験、気球による気象観測等々が行われたのです。

しかし、ここはあくまでも仮設の建物に過ぎず、また経費も嵩んだことから、博覧会の終了後まもなくして閉鎖・取り壊しとなり、ウィーンのウラニア組合は、この後しばらく市内の貸会場を転々としながら、活動を続けました。

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最終的にウラニア組合の落ち着いた先が、今も活動を続けているウィーンのウラニア天文台(1910年オープン)です。


同天文台については、13年前に紹介済みですが、そのときは天文台の前史であるウラニア劇場のことが、分かっていませんでした。

■妄想酒舗、ウラニア
■妄想ではなかった酒舗ウラニア

今回13年ぶりに、その経緯を知ることができたわけで、ささやかながら、これも「継続は力なり」の実例だと思います。

歴史瑣談【補遺】2023年04月22日 09時01分26秒

端午の節句の掛け軸に端を発した、鷲雪真と仁徳天皇陵古図の一件【LINK】。

でも、あの件がすでに関係者には既知のことであり、私の独り相撲だと滑稽ですし、何より手元にある絵の作者の正体を知りたいということもあって、問題の資料を所蔵する八王子市郷土資料館に、その点をお尋ねしてみました。

その後、ご担当の加藤学芸員様から大要以下のような返信をいただいたので、今後の参考として記しておきます(あくまでも大意です。文責引用者)。

●これまで多くの研究者が、石棺図の左下の記述を「鷲雪」の「真模」であるととらえてきた。これは「鷲雪真」という絵師はいないと考えていたためで、当館でもそのように理解してきた。

●「鷲雪真」という絵師の存在を指摘した研究者はいないと思われる。今後は「鷲雪真」という絵師の存在も視野に入れて検証してみたい。

●この絵図を所有していた落合直澄は、明治8年当時、伊勢神宮にいた。堺県での出来事を聞きつけて、堺県令税所篤のもとを訪れたと考えると、出身地八王子の絵師をわざわざ連れて来たとは考えづらいので、関西方面の絵師だった可能性も想定できる。

…というわけで、肝心の鷲雪真の正体は依然茫洋としていますが、とりあえず独り相撲でなくて良かったです。

冷静に考えると、この図を写した画家の素性によって、本図の持つ意味合いが変わるとか、何か新たな歴史がそこから生まれるということもないので、まあ瑣末といえば瑣末な事柄ではあるのですが、歴史においてはファクトが重要ですから、「鷲雪真という絵師の存在」を事実として提示しえたことは、まんざら無駄でもなかろう…と、総括しておきます。

それに同じ掛軸でも、上のようなエピソードを知って眺めるのと、知らずに眺めるのとでは大きな違いがありますから、私個人にとって、これは瑣末どころの話ではありません。

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末筆ながら、お忙しい中懇切なご回答をいただいた、八王子市郷土資料館の加藤典子様にこの場を借りて厚く御礼を申し上げます。

Player 1、応答せよ2023年04月25日 06時31分20秒

週末は風邪症状で、ずっと寝ていました。
1日10数時間以上も眠り続けていたので、風邪というよりは、単に疲れが溜まっていただけかもしれません。

そして、私が眠りこけている間にも世間ではいろいろな事が起こり、目覚めてみれば、国内では衆参補欠選挙で自民辛勝、国外ではスーダン情勢がさらに緊迫というニュースが流れていました。世界は常に動いていますね。

選挙のたびに投票率の低下を憂う声が上がります。私も主権者の権利放棄という意味で、それを嘆かわしいことだと感じます。でも、投票しない人もまた投票しないことによって世界を動かしていることは確かです。

今や78億に達した世界の人々は、その一人ひとりが全て歴史というゲームに参加しているプレーヤーであり、そして選挙と違って、この歴史ゲームのプレーヤーたることは、彼/彼女が生きている限り、決して棄権することができません。

…そんなことを思いながら、ニュースを見ていました。

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さて、さまざまな天文レリクス(遺物)の向こうに、往古の歴史ゲームを振り返ろうという本来の記事は次回に。

呪粉2023年04月27日 06時35分52秒

えらい目に遭いました。
こないだ風邪っぽくて、ずっと寝ていたと書きました。そしてそれは回復したとも。
実際、そうには違いないのですが、しかし、あれは前駆症状だったのかもしれません。

昨日は朝から鼻水がとまらず、くしゃみも立て続けに出るし、目も涙目だし、これはどう見ても花粉症です。私は幸いなことに、これまで花粉症とは無縁で、しかも今年のスギ花粉シーズンもそろそろ終わりですから、なんで今さら?と、まさに青天に霹靂を聞く思いでした。でも花粉症というのは、出るときは突然出るものらしいですね。

何にせよ滝のように出る鼻水には勝てないので、仕事帰りにクリニックに寄ってきました。先生曰く、「今日は朝からあなたのような人が非常に多い。症状は確かに花粉症だが、雨と風で何かが巻き上げられたのかもしれない。たとえば黄砂とか…」という話で、とりあえず薬を飲んで1週間様子を見ることになりました。

花粉症じゃないといいなあと、祈るような気持ちですが、思うに私は今まで周囲の花粉症の人に冷淡過ぎました。前非を悔い、そうした人々の輪に加わり、共感共苦の連帯の道を歩むよう天が示された、これはすなわち天意であるのかもしれません。でも、天意でも何でも、やっぱり花粉症はいやなので、1週間おとなしく様子を見ることにします。

(アグネス・チャン 「風媒花(たんぽぽ)」、1980

 届け、届け、届け、あなたに届け。
 届け、届け、届け、風に負けるな。
 届け、届け、届け、遥かな町へ思いを伝えて。

ここでアグネス・チャンさんが思いを託しているのは、タンポポの綿毛なんでしょうが、風媒花が飛ばすのは花粉であって、あんまり遥かな町まで届いてほしくはないですね(そもそもタンポポは虫媒花です)。

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結局、本来の記事はまた書けませんでした。
でも頭出しだけしておくと、今年は「プラネタリウム100年」なので、プラネタリウムの話題を書こうと思っています。

今昔プラネタリウム2023年04月29日 08時16分46秒


(伊東昌市『地上に星空を』、裳華房、1998)

今年はプラネタリウム100年。

1923年10月、カール・ツァイス社のツァイスⅠ型機がミュンヘンでお披露目され、これがドームに投影するタイプの、要するに今の我々が普通にイメージするプラネタリウムの元祖だ…というわけで、その100周年を祝うイベントがあちこちで行われています。

明石市立天文科学館の井上毅氏が、この件について簡にして要を得た解説を書かれています。関連情報へのリンクも張られているので、ご参照いただければと思います。

■プラネタリウム100周年
ただ、「プラネタリウム」という言葉自体は、それ以前からありました。
やや枝葉に入りますが、プラネタリウム100周年を祝うにあたり、その「前史」をちらっと見ておきます。

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19世紀以前、「プラネタリウム」という言葉は、「オーラリー」とほぼ同義でした。すなわち、惑星が太陽の周りを回る様子を、歯車で再現した機械装置です。オーラリーにもまた更なる前史があるわけですが、通説に従えばその登場は1712年。こちらは一足早く、2012年に「オーラリー300年」を迎えています。

(オーラリーというと真っ先に出てくる絵。ジョセフ・ライト作「オーラリーについて講義する学者(A Philosopher Lecturing on the Orrery)」1766年、ダービー博物・美術館所蔵)

では、オーラリーと同義であるところのプラネタリウムという言葉の初出はいつなのか?どこの誰が最初に使ったのか?を確認しておきます。

これについては、ネットを徘徊してもちょっと曖昧だったんですが、英語圏の話なら、オックスフォード英語辞書(OED)を見ればすぐ分かるだろうと、図書館まで見に行ってきました(大学関係者なら、わりと気楽にオンラインで見られるらしいですが、私が見てきたのは紙の辞書で、OEDの第2版というやつです)。

「planetarium」の項はわりと簡素な記述なので、オックスフォードに深謝しつつ、そのまま貼っておきます。


まず語義 a というのが、上述の「古義」にあたります。ざっと訳しておくと「惑星の運行を部品の動きによって説明する機械。オーラリー。」という意味で、その用例として、デザギュリエ(J.T. Desaguliers)が、1734年に自著の中で使ったのが古い例として挙がっています。世界は広いので、これが絶対に初出という保証もありませんが、オックスフォードの言うことですから、限りなく初出に近いと考えてよいのでしょう。辞書編纂者は、これに続けて1774年、1805年、1849年の用例も挙げています。

デザギュリエという人は、以前のブログ記事だと、彗星の公転を示す「コメタリウム」の考案者として登場しました。彼は性分として「なんとかリウム」という言葉が好きだったのかもしれませんね。

■回れ、回れ、コメタリウム!


続いて語義 b、c というのは、ちょっと変わった用法ですが、惑星系の模式図とか、あるいはずばり惑星系そのものの意味で、「プラネタリウム」を使った人がいるそうです。


最後の語義 d が、現代的な意味のプラネタリウムで、「様々な時間・場所における夜空の情景をドーム内に投影して、人々の共同視聴に供する装置。又はこの装置を備えた建物。」と説明されています。用例として挙がっているのは1929年の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の解説文です。

ちなみに、オーラリーの故国イギリスは、逆にドイツ生まれのプラネタリウムの導入は非常に遅くて、ロンドン・プラネタリウムのオープンは、戦後もだいぶ経った1958年だそうですから、フランスよりもアメリカよりも、さらにはソ連や日本よりもずっと遅かったことになります。国民感情のしからしむるところなのか、興味深いと思いました。

…と、前史をおさらいしたところで、プラネタリウムの話題で記事を続けます。

(この項つづく)
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【附記】 上述のデザギュリエとプラネタリウムの関係については、福山祥世氏がすでに論文にまとめておられました。学部の卒業論文としては随分渋いテーマと感じますが、その見識に大いに敬服しつつ拝読しました。

■福山 祥世「プラネタリウム史における デサグリエの功績」
 2015 年(平成 27 年度) 岡山理科大学 生物地球学部卒業論文

プラネタリウムの誕生2023年04月30日 08時46分10秒

100年前の1923年はどんな時代だったか?
手っ取り早くウィキペディアで1923年の「できごと」欄を見ると、日本では何と言っても関東大震災の年で、海外だとウォルト・ディズニー・カンパニーの設立や、ヒットラーがミュンヘンで武装蜂起して失敗した事件(ミュンヘン一揆)など、いろんなことが項目に上がっています。

そんな時代に産声をあげたプラネタリウム。
ちなみに、上記の「ミュンヘン一揆」が起こったのは1923年11月8日から9日にかけてのことで、ミュンヘンのドイツ博物館でプラネタリウムのお披露目があったのは、その直前の10月21日のことですから【参考LINK】、いいささか不穏な幕開けでした。

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プラネタリウム100年にちなむ「ご当時もの」を探していて、こんな絵葉書を見つけました。


地平線上の建物のシルエット、その上に広がる人工の星空、それを生み出すツァイスⅠ型機の勇姿。これぞ世界初のプラネタリウム施設、ドイツ博物館の情景で、当然のことながら「プラネタリウムを描いた絵葉書」としても世界初のはずです。

ただし、ドイツ博物館のツァイスⅠ型機は、1923年のデモンストレーションの後、いったん工場に戻されて改良が加えられ、再び同じ場所に戻ったのは1925年5月のことです。これが本格的な商用デビューなので、この絵葉書もそれを機に発行されたものと想像します。(ですから、厳密には100年前のものではなく、98年前のものですね。)


消印は9月13日付け。年次が消えていますが、末尾の数字は何となく「6」っぽいので、1926年の差し出しかな?と思います。


この絵葉書には「ドイツ博物館公式絵葉書」のマークがあって、たぶん館内でお土産として売られていたのでしょう。


文面を読めるといいのですが、まったく読めません。でも冒頭第1行に「caelum」(ラテン語で「天空」)の一語が見えます。そして宛先はリューベック。たぶん…ですが、プラネタリウムを見学した人が、ドイツ南端の町ミュンヘンから、北端の町リューベックに住む知人に宛てて、その感激を伝えているのではないでしょうか。そう思って眺めると、当時の人々の弾む心がじわじわ伝わってくるようです。

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さて表面にもどって、プラネタリム本体について。


ぱっと見、「あれ?変な形だなあ」と思われないでしょうか。ツァイス・プラネタリウムといえばおなじみの、あのダンベル型のフォルムをしていません。でも、それこそがⅠ型機の特徴で、その詳細を写した写真がwikipediaに載っていました。


そもそもあのダンベル型は、北半球の星空を投影する球体と南半球用の球体をつないだ結果生まれた形で、1926年に登場したⅡ型機から採用されたものです。Ⅰ型機はまだ北半球の星空(より正確にはドイツから見える星空)にしか対応していなかったので、このような形になっています(お皿に載ったウニのようなものが恒星投影機、その下の円筒のかご状のものが惑星投影機です。)


キャプションには「プトレマイオス式プラネタリウム」とあります。何だか大仰な言い回しだなあと思いましたが、山田卓氏がその背景を書かれているのを読み、納得しました。

■山田 卓「プラネタリウムのうまれと育ち」
それによると、ドイツ博物館(1903年オープン)を創設したオスカー・フォン・ミラー博士は、何事も実物展示志向の人で、宇宙もできればそうしたいが、それは無理なので、それに代わるものとして最新の天球儀とオーラリーを製作したい、できれば両者をドッキングさせたい…というプランを持っていたのだそうです。

 「1913年、ミラーは星の動きにモーターを使うこと、星は伝統の光を使って輝かせて。ミュンヘンの星空と同じ状態が再現できることなど、コペルニクスタイプ(オーラリー)のものも、プトレマイオスタイプ(天球儀)のものも、それぞれ彼の意図を満足させるものにしたいという条件をつけて再発注することにした。

 設計・製作を依頼されたツアイス社は、二つのタイプについて、それぞれ前者はフランツ・メイヤーFranz Mayerを、後者はウオルター・バウアスフェルドWalther Bauersfeldを中心にプロジェクトチームをつくった。

〔…〕

 ウオルター・バウアスフェルドを中心にしたプロジェクトでは、最初の計画とは逆に、星を動かすのではなく、星のプロジェクターを動かすという方式を採用し、さらに多くのアイディアを盛り込んで、ついにプロジェクター方式の近代プラネタリウムの第一号機を誕生させたのだ。」 
(上掲論文pp.9-10.)

最終的に完成したプラネタリウムは、単なる可動式天球儀というにとどまらず、そこに惑星の動きも投影できる装置となりましたが、系譜としてはミラー博士がいうところの「プトレマイオスタイプ」の発展形であり、実際そこで示される天体の動きは、すべて地球が中心ですから、これを「プトレマイオス式」と呼ぶことには理があります。

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100年にならんとする星霜。
たった1枚の絵葉書に過ぎないとはいえ、その歴史的重みはなかなかのものです。