巨星墜つ2023年06月01日 20時14分41秒

しばらく体調を崩していました。

といって、寝込んだとか、病院の世話になったとかいうのではないんですが、この間の急な暑さと梅雨入りで、ずっと身体がだるくて、朝もなかなか起きられないし、夜も食事をして風呂に入ると、すぐ床に倒れ込むような感じだったので、ブログの方も自ずと休業状態になっていました。

今からこんなでは、先が思いやられますが、そういう方は他にもいらっしゃると思います。まあ、お互い無理せずやっていきましょう。

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さて、いつもの天文学史のメーリングリストは、ここ2,3日、稀代の碩学 オーウェン・ギンガリッチ氏 の訃と、それを悼む声一色でした。

ギンガリッチ氏は、日本では『誰も読まなかったコペルニクス』(早川書房、2005)の著者として、いちばんよく知られていると思います。


同書カバーに簡単な紹介が載っていたので、書き写しておきます。

 「オーウェン・ギンガリッチ Owen Gingerich 1930年生まれ。スミソニアン天文台名誉教授、ハーバード大学天文学・天文学史教授。著書に、本書で描かれたコペルニクスにかかわる書誌的研究の学術的成果をまとめた An Annotated Census of Copernicus’ De Revolutionibus など。」

そのギンガリッチ氏を悼む人々は、一様にその温かい人柄を偲び、惜しみない助言に感謝し、氏が「真のジェントルマン」だったと述べています。各人の文章からは、それがお座なりな言葉ではなく、掛け値なしに真実であることが伝わってきます。(昔、私がメーリングリストでごく初歩的な質問をしたときも、ギンガリッチ氏は真摯に、懇切に答えてくださいました。あとは推して知るべしです。)

(ギンガリッチ氏の肉声 https://www.youtube.com/watch?v=cyXVYsQrSwU

それにしても、最近の政界の醜状を目にし、耳にするにつけ、「真のジェントルマン」は世に得難いものだなあ…と思いますが、でもそう呼ばれ、敬慕される人が現にいるということに、大きな慰謝と希望を感じます。

ギンガリッチ氏のご冥福を心からお祈りします。

空の上、空の下2023年06月03日 12時16分32秒

台風一過の青空が明るく広がっています。
今回のは台風そのものというよりも、その影響で前線上に発生した線状降水帯による被害、というのが正確かもしれませんが、とにかく激しい雨と風でした。
東京に出かけた家人が帰れなくなったり、身近なところにも影響がありました。

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ギンガリッチ氏の死に触発されて、あれこれ考えていました。
何にせよ、人というのはいつかいなくなってしまうものですね。

井伏鱒二は「サヨナラだけが人生だ」といい、寺山修司は「サヨナラだけが人生ならば、人生なんかいりません」といいました。でも、その二人ともすでに亡くなって久しく、「人生は短く、芸術は長し」の箴言だけが、今はひらひらと青空をただよっているようです。

こんなブログを書いている私自身に限らず、おしなべて古物を愛好する人は、身の回りに過去の遺物を積み上げて生活されているんじゃないかと思いますが、そのひとつひとつのモノの向こうに、今は亡き人の姿を思い浮かべると、突如自分がカタコンベのただ中にいるような気がしてきます。

それに対して、ゾッとするような思いを抱くのが真っ当な神経というものかもしれませんが、今は静かな安心感の方が大きいです。「自分もまもなく…」という気落ちが自然と湧いてくるからです。(たぶん本物のカタコンベに行っても同様でしょう。)

特に起承転結のない文章ですが、暗い部屋から青空を見上げて、そんなことを考えていました。


ニコラウス、おめでとう2023年06月04日 19時01分21秒

そういえば…なのですが、ギンガリッチ氏の『誰も読まなかったコペルニクス』の序文は今から20年前の2003年の7月に書かれています(原著刊行は翌2004年)。

その30年前、つまり今から半世紀前の1973年には、ポーランドで大々的な科学イベントが開催されています。すなわち1473年に生まれたニコラウス・コペルニクスの生誕500年を祝う国際的な学術集会です。

(ワルシャワにあるコペルニクスの像。1927年の消印を持つ古絵葉書)

当時、少壮のギンガリッチ氏もその準備に忙しく飛び回っており、自身の研究発表のために、コペルニクスの主著『回転について』を調査している際、英国で詳細な書き込みのある初版本(1543)を見つけたことが、氏の壮大なライフワークの始まりでした。すなわち、現存する全ての初版本(後には1566年刊行の第2版も)を調査し、本の書き込みを読み解くことで、地動説の理解と普及がどう進んだかを解明するという、気の遠くなるような作業です。

(同上・一部拡大)

それから50年が経ちました。
そんなわけで、今年はプラネタリウム誕生100年、パロマー誕生75年、そしてコペルニクス誕生550年というわけで、なかなかにぎやかな年です。

上記のとおり、コペルニクスの『回転について』は1543年に初版が出ており、彼はそれから間もなく没したので、今年は刊行480周年であり、同時にコペルニクス没後480周年に当たります。まあ、こちらの方はあまりキリのいい数字ではありませんが、20年後の2043年には、『回転について』の刊行とコペルニクスの没後500年を記念するイベントが、きっと世界中で大々的に催されることでしょう。

「〇〇周年」という数字それ自体に、あまり意味があるとも思えませんが、人は忘れっぽい存在ですから、キリのいいところで思いを新たにするというのは、好い工夫です。

(コペルニクスとギンガリッチ氏のことで話をさらに続けます。)

柱の傷はおととしの…ギンガリッチ氏を柱にして2023年06月05日 19時44分01秒

(昨日の続き)

ギンガリッチ氏の『誰も読まなかったコペルニクス』は、一般向けの読み物として書かれていますが、テーマは間違いなく硬派だし、カタカナの固有名詞が多いので、読んでいて頭が追いつかない箇所が多々あります。言い換えると、再読の度に新しい気づきがある本です。

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今回再読していて、ギンガリッチ氏がバチカンで「風の塔」を見学するくだりがあるのに気づきました(以前も読んだはずですが、頭に残っていませんでした)。

「風の塔」のことは、今年3月にバチカン天文台のことを書いたときチラッと触れましたが【LINK】、それが念頭にあったからこそ今回気付けたわけで、こういうのがブログを書く効用のひとつです。

(「風の塔」(左はサン・ピエトロ寺院のドーム)。Wikipediaより)

―― 曰く、風の塔には、ユリウス暦と実際の季節のずれを示す、一種の日時計を設けた部屋があり、聖書に出てくる「南風の寓話」がフレスコ画で描かれていることから「風の塔」と呼ばれたこと。その逸話からさらに100年後の17世紀半ばに、スウェーデン女王のクリスティナが、プロテスタントからカトリックに改宗するためバチカンにやってきたとき、教皇が彼女にあてがったのがこの部屋であり、クリスティナを気遣って、北風の絵の下に書かれた「悪いことはすべて北からやってくる」という文句を塗りつぶしたこと。このときクリスティナが携えてきた宝物類には、『回転について』の初版本(1543)が含まれていたこと…等々。

いずれも興味深いエピソードです。

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バチカンは(禁書扱いしたくせに)『回転について』の初版本を複数冊所蔵しています。そのうちクリスティナ女王由来の本には、やはり詳細な書き込みがあり、その書き込みをした人物を突き止めたのが、他ならぬギンガリッチ氏です。

その人物とは、驚くべきことに、あのティコ・ブラーエ(1546-1601)でした。
しかもその書き込みは、ブラーエがプトレマイオスともコペルニクスとも異なる、独自の惑星体系を考案する途上にあったことを示す重要なもので、これは天文学史における一大発見です。

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ブラーエは、さらに『回転について』の第2版(1566)も生前所有しており、そこにもびっしり書き込みをしています。それは現在チェコ国立図書館が所蔵し、チェコの学者ズデニェク・ホルスキーの手によって、1971年に精確な複製本が作られました。おそらくこれもコペルニクス生誕500年を見越した記念出版でしょう。ギンガリッチ氏は、やはり1973年にパリで開かれたコペルニクス会議に出席した折に、ホルスキー自身からこの複製本を贈られています。

「筆跡を見たとき、私の心臓は踊りだしそうになった。というのも、ついこのあいだ、ローマ〔バチカン〕であれだけ熱心に見てきた筆跡に怪しいほど似ていたのだ。」(ギンガリッチ上掲書、p.105)

叙述が前後しましたが、これがきっかけとなって、氏は上に述べた「一大発見」に至ったわけです。

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つまらない自慢話をすると(そのためにこの一文を書きました)、この「ティコ・ブラーエが書き込みをした『回転について』第2版」の複製本は、私の手元にもあります。ギンガリッチ氏の本に教えられて、その後手に入れたものです。

(左・表紙、右・付属の解説冊子)

もちろん私にはまったく読めないし、理解もできません。でも、だから意味がないとは言えません。仮に読めない本に意味がないんだったら、「ヴォイニッチ手稿」も「ロンゴロンゴ」もぜんぶ燃やしてしまえ…という話になりますが、もちろんそうはなりません。いずれも潜在的には、いつか理解できる可能性があるし、読めないまでも、その「有難味」は確実に人に影響を与えるものです。

(タイトルページ)

(細かい字でびっしり書かれたティコ・ブラーエのメモ)

(同上)

この場合、ブラーエの筆跡から彼の体温と息遣いを感じることができれば、今の私には十分です。

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こういう些細なエピソードから、自分の知識とコレクションが、今も少しずつ成長を続けていることを感じます。いや、少なくともそう信じたいです。(コレクションはともかく、知識の方はこれから徐々に退歩するかもしれませんが、だからこそ時間を大事にしないといけないのです。)

星はゆふづつ2023年06月06日 15時12分20秒

清少納言は金星(ゆふづつ)を、すばる・ひこぼしと並んで、見どころのあるものとしました。そのまばゆく澄んだ光は、清少納言ならずとも美しく感じることでしょう。

金星は今、夕暮れの西の空にあって見頃です。
6月4日には東方最大離角の位置に来て、望遠鏡でみると半月形をしていたはずです。これから金星は徐々に三日月形に細くなっていきますが、地球との距離が近づくので、明るさはむしろ増し、7月10日に最大光度マイナス4.5等級に達すると、星空情報は告げています。

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こんな絵葉書を見つけました。

(1910年発行のクロモリトグラフ)

「金星をご覧あれ。5セント」という看板をぶら下げた、望遠鏡の街頭実演家を描いたコミカルな絵葉書です。これは昔、実際にあった商売で、道行く人に望遠鏡で星を見せ、初歩的な天文学の知識をひとくさり語って聞かせて、お代を頂戴するというものです。


場面は、貧しげな風体の男が望遠鏡をのぞくと、樽の中から少年がさっと現れて、ロウソクの炎を金星と偽って見せているところ。三者三様の表情がドラマを感じさせます。まあ、こんな詐欺行為までが実景だったとは思いませんが、こうした見世物の客層が、主に貧しい人々だったのは事実らしいです。


右肩の「Things are looking up」というフレーズは、「こいつは運が向いてきたぞ」という意味の慣用句。金星はたしかに美の化身ですが、ラッキーシンボルというにはありふれているので、それを見たから格別どうということもないと思うのですが、この場合、腰をかがめて「looking up」している男の動作と慣用句を重ねて、一種のおかしみを狙っているのでしょう。

(絵葉書の裏面。版元はニューヨークのJ. J. Marks、「コミックス」シリーズNo.15と銘打たれています)

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宮廷住まいの清少納言とはいかにも縁遠い風情の絵葉書ですが、もし彼女がこれを見たら何と言ったでしょう?「いとをかし」か、「いとわろし」か、それとも「すさまじ(興ざめだ)」か?

まあ勝ち気な彼女も、晩年には「月見れば老いぬる身こそ悲しけれ つひには山の端に隠れつつ」などという歌を詠んで、人生の哀感を深く味わっていたようですから、このユーモラスな絵葉書の底ににじむペーソスも、十分伝わったんじゃないでしょうか。

街頭の望遠鏡商売2023年06月08日 06時10分52秒

前回登場した「望遠鏡の街頭実演家」について、アラン・チャップマン氏は『ビクトリア時代のアマチュア天文家』(産業図書、2006)の中で、特に一章を設けて詳述しています(「第9章 1回覗けば1ペニー:大衆の天文学講座」)。

チャップマン博士が例として挙げたのは、19世紀半ばにロンドンで商売をしていたトレジェント氏なる人物で、同書の挿絵をお借りすると、その商売の様子は下のような塩梅でした。

(出典:上掲書p.250。図のキャプションは、「トレジェント氏、およびその街頭での望遠鏡の実演。[出典:H.メイヒュー著 『ロンドンの労働とロンドンの貧民 第3巻(London Labour and London Poor III)』(ロンドン、1861)82頁]」)

トレジェント氏の本業は服の仕立て屋でしたが、ふとしたきっかけで望遠鏡熱に火が付き、副業として望遠鏡商売に乗り出したといいます。

「メイヒューがインタビューした1856年10月の時点では、トレジェントは80ポンドの費用をかけた最高倍率300倍という口径4¹/₄インチ〔約11cm〕の屈折望遠鏡を筆頭に、一連の望遠鏡〔…〕を所有していた。この機材を使って、彼は一覗き1ペニーで天文学を「教授」した(他にもっと小ぶりの1台を息子に任せて、歩道の別の一角で使わせた)。」(邦訳p.176)

その商売は以下のように、一種の大道芸的な技能を伴ったものでした(改行引用者)。

「メイヒューの速記は、トレジェントが講演する語り口のニュアンスを実に見事に捉えており、権威ある意見の開陳、1ペニー払った生徒が一覗きする前にその期待を高める前口上、ユーモラスなからかいの文句、これらが混じり合って、彼がいかに成功を収めたかを示している。

トレジェントは単なる街頭実演家ではなく、大衆相手の講演家であり、教師でもあった。彼は語っている。「私が展示をするときは、客が覗き込んでる間、ふつう短い講義をします。忙しくないときなら、客自身に説明をさせます。例えば木星を見せているとしましょう。客たちの注意を引こうと思えば、こんなふうに言います。『月はいくつ見えますか?』客は答えるでしょう。『右側に3つ、左側に1つ』。そこでこういう言うと、まあ笑いが起こるでしょうよ。『月が3つ!嘘でしょう!月は1つに決まってるじゃありませんか』。こうして覗いている人が何が見えるか言うのを聞くと、みんな自分も覗きたくなるんですよ」。

ここにあるのは、商売と娯楽と真の教育との巧妙なブレンドである。」
(同pp.176-7.)

トレジェント氏によれば、こうした望遠鏡実演家が当時のロンドンには4人いたそうで、人通りの多いところで商売をする彼らの姿は、地元の人にはおなじみだったでしょう。さらに、トレジェント氏よりも「何十年も昔にレスター広場で講演を行った先人」がおり、「ウイリアム・ワーズワース〔1770-1850〕がそれを目撃して、詩に詠み込んだ」とも、同書は述べています(同p.177)。この商売もなかなか歴史が長いようです。

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望遠鏡商売は、トレジェント氏の時代からさらに半世紀経った20世紀初頭にも依然続いていました。前回の絵葉書もその証左ですが、下の絵葉書にはそのリアルな実景が写っています。


ロンドンのど真ん中、ウェストミンスター橋のたもとに立つ、「ボアディケアの像」を写したもので、その足元に望遠鏡商売の男が映り込んでいます。時代は1910年前後です(ちなみにボアディケア――ウィキペディアだと「ブーディカ」――は、古代ローマの属州だったブリテン島でローマ帝国軍に公然と反旗を翻し、武勲をあげたケルトの女王だとか)。

(上の場所の現況。向かって右手はすぐテムズ川。像の視線の先には、通りをはさんでビッグベンがそびえています)

ストリートビューで見ると、男が商売をしていたのは、現在、常設の露店が置かれている場所で、これは方位でいうと像の南側にあたり、南天をにらむ形で望遠鏡は置かれていました。


なかなか立派な望遠鏡であり、立派な風采の男ですね。
架台にべたべた貼られたビラやチラシの内容が気になりますが、画像からはちょっと読み取れません。

これは昼間の光景なので、明るい時間帯には、太陽の黒点とか、地上の光景を見せてたんじゃないでしょうか。でも、接眼部に付いているのは正立プリズムらしく、正立プリズムを必要としたということは、とりも直さずこの望遠鏡は天体(夜間)観測用のはずで、当然、夜は夜で月や星を見せたのでしょう。

(絵葉書裏面。版元はエセックス州の C.F. Castle)

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たしかに彼らが語ったのは、ごく初歩的な、ときにウロンな知識に過ぎなかったかもしれません。それでも、日々の生活に疲れ、足元に視線を落とした人々に、空を見上げるよう仕向け、星への憧れを掻き立て、たとえ一時的にせよ、その精神を地上の桎梏から解き放った功績は、はなはだ大きなものがあったと思います。

31億5576万秒物語2023年06月10日 12時01分47秒

今年は「○○が□□周年を迎えた」という記事が多いです。
すなわち、コペルニクス生誕550年、パロマー天文台開設75年、プラネタリウム誕生100年…などなど。

そんな中、ひとつ大きな忘れ物をしていることに気づきました。
すなわち、稲垣足穂著『一千一秒物語』の刊行100周年です。

(初版本(復刻版)表紙)

(佐藤春夫による序文)

このブログでそれを忘れていたのは失態で、そのことをコメント欄で教えていただいたNowhere☆clubさまに、改めて御礼申し上げます。

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『一千一秒物語』の愛読者は多いでしょうが、あの不思議な作品を読んだとき、人々はいちばん最初に何を感じるのでしょうか?

私の場合、真っ先に思ったのは「あの街に行きたい」ということでした。
こういうことが私の場合はよくあって、私がある作品に心惹かれるということは、その作品世界に入り込みたいというのと、ほとんど同義です。

三角形の屋根と円錐形の塔が並ぶ街。その街では、月と問答し、月と格闘し、月を食べてしまうなんてことは日常茶飯事だし、路傍には土星や彗星が佇み、蝙蝠と黒猫、紳士と辻強盗に密造酒造り、そして真夜中の怪事件…そんなものに事欠きません。

その街に至ることはなかなか難しいのですが、平板な現実の中でも、何かの瞬間に一千一秒の匂いがふと鼻を打ったり、一瞬その気分が心に蘇ることがあります。

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足穂は「私の其の後の作品は――エッセイ類も合わして――みんな最初の『一千一秒物語』の註である」と書きました(「『一千一秒物語』の倫理」)。

この「天文古玩」というブログも、(全部がそうだとは言いませんが)たしかに『一千一秒物語』の気配を追って、その世界を眼前に現出せしめるべく続けている部分があります。その意味で、『一千一秒物語』は私にとって重要な準拠枠のひとつです。

(13年前につくった「タルホの匣」は、今でもそのまま手元にあります)

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100年間は、60秒×60分×24時間×365.25日×100年の時の積み重なりで、ざっと31億5576万秒です。

若い日の足穂が1001秒に凝縮した秘密は、それだけの長い時を経ても解き尽くされることなく――作者自身の手によってもそれは成し遂げられませんでした――今でも変わらず「其処」にあります。それはこの後さらに31億秒が経過しても、たぶん変わらないでしょう。あえて幸いなことと言うべきだと思います。

(初版本巻末の辞)

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そういえば、今日は時の記念日でした。




追記:足穂 in 京都2023年06月10日 12時28分52秒

先ほどの記事で触れた、『一千一秒物語』100周年についてコメントをいただいた、Nowhere☆club さんからは、来る6月24日に京都で行われる記念イベントについても、お知らせをいただきました。

■一千一秒物語~100th Memorial, 1923-2023~
 あがた森魚☆宇宙的郷愁を唄う

京都下京のお寺で、あがた森魚さんらのトークと音楽に耳を傾けるという得難い機会なので、私もぜひ参加できればと計画中です。

心のなかの神戸へ2023年06月11日 17時58分43秒

京都での足穂イベントに無事参加できることになり、今からワクワクです。
そして同時に、6人の作家によるオマージュ展「TARUHO《地上とは思い出ならずや》」が、神戸で開催中であることを知りました。


■稲垣足穂オマージュ展「TARUHO《地上とは思い出ならずや》」
○会期: 2023年6月4日〜25日 13:00〜18:00(休館日:水木)
○会場: ギャラリーロイユ
     (兵庫県神戸市中央区北長狭通3-2-10 キダビル2階)
○出品作家
 内林武史、大月雄二郎、桑原弘明、建石修志、鳩山郁子、まりの・るうにい
○料金: 無料

実に錚々たる顔ぶれですね。
京都に行くついでに、何とかハシゴ出来ないかと一瞬思いましたが、やっぱり無理っぽいので、こちらは涙を飲みます。

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しかし神戸はやっぱりいいです。
今、本棚に1冊の美しい画集があります。


■『画集・神戸百景~川西英が愛した風景』
 (発行)シーズ・プランニング、(発売)星雲社、2008


港を望む異人館の並ぶ神戸。


海洋気象台とモダン寺(本願寺神戸別院)がそびえる神戸。

版画家の川西 英(1894-1965)が描く神戸は、どこまでも明るく、屈託がありません。タルホチックな、いつも夕暮れと夜の闇に沈んでいる不思議な神戸もいいのですが、こうした子どもの笑顔が似合う神戸もまた好いです。いずれにしても、神戸はいつだってハイカラで、人々の夢を誘う町です。


画集の隅に載っているのは、戦前の神戸で発行されたメダル。
円い画面の中に海があり、カモメが飛び、街並みが続き、その向こうに六甲の山がそびえています。直径35ミリという小さな「窓」の向こうに、広々とした世界が広がっていることの不思議。


このメダルは皇紀2595年、すなわち1935年(昭和10)に「みなとの祭」体育会が開かれた折の記念メダルです。「みなとの祭」は、現在の「みなとまつり」ではなしに、系譜的には「神戸まつり」に連なるもので、その前身のひとつ。第1回は1933年に開催されました。


こちらも「みなとの祭」にちなむ、戦前~戦後のエフェメラ。下のバス記念乗車券は、川西英さんのデザインっぽいですが、違うかもしれません。

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上の品々は、ちょうど10年前、長野まゆみさんの『天体議会』の舞台を神戸に見立てて、いろいろ考察していた頃(それは中途半端な試みに終わりましたが)、「第3章 変わり玉」で描かれる「開港式典」の雰囲気を偲ぶために入手したものです。

 「翌日は開港式の当日で、街の中にはいつもと違うざわめきが溢れた。学校は休みになり、満艦飾の汽船が次々と入港して埠頭を賑わした。昨日来の雨は気象台の予報どおりに明け方にはやみ、おかげで碧天(あおぞら)は透徹(すきとお)るような菫色をして目に沁みた。」

 「式典の晴れがましい雰囲気に煽られてか、誰しもが常より昂ぶって喋る結果として、銅貨はめまぐるしい喧騒に包まれ、人波に押し流されて歩いていた。しまいに渦を巻く人々のうねりからはじき飛ばされ、埠頭に建つ真四角な積出倉庫の壁にもたれて、ざわめきに身をゆだねていた。」

 「毎年、劇場(テアトル)では開港式典の行事として演奏会などが催され、学校からも音楽部の生徒たちが参加することになっていた。なかでも鷹彦の独唱(ソプラノ)の入る合唱曲はかなりの聴きものだ。銅貨や水蓮も、毎年欠かさず入場券(チケ)を買っており、今年も早々と席を確保していたのだ。」

主人公たちの目に映った、明るい喧騒に満ちたカラフルな港の光景。
そして音楽会ではなく体育会ですが、作中のムードをこんな乗車券(チケ)やメダルに託して偲んでみようと思ったことを、今こうして10年ぶりに思い出しました。

神戸モノがたり補遺2023年06月12日 21時25分59秒

ゴソゴソしているうちに、昨日の記事に関連してこんな品も見つけました。


神戸市役所が発行した、「開港五十年祝賀記念」の絵葉書です。


神戸開港50年というのは、大正10年(1921)のことですから、だいぶ古い話です(一昨年が開港150年でした)。


中身は美しい石版刷りで、神戸市役所も相当力が入っていたようですね。

10年前の『天体議会』をめぐる企画は、相当ねちっこいものだったので、このブログの本筋からはみ出して、いろいろなモノに手を出していました。この絵葉書も、「“みなとの祭”もいいんだけれど、もうちょっと「開港式典」の語感に近い品はないかな?」と探していて、見つけたんだと思います。まあ、これは「祭典」というよりも、単なるアニバーサリーグッズに過ぎないんですが、他の品と並べて、そこに「開港」の2文字を添えてみたらどうだろう…と思ったわけです。今にして思えば、要らざる努力だったような気もします。


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返す刀で、昭和8年(1933)に始まった「第1回みなとの祭」の記念絵葉書も入手しました。



こちらは雲母(きら)の入った紙に木版摺りという、露骨に和の風情で、『天体議会』の世界からは随分遠いのですが、これも歴史の一断面であり、神戸が持つ多彩な表情のひとつにほかなりません(外袋に刷られた「菊水」は楠木正成の紋所で、正成を祀る湊川神社が市内にあることに由来します)。

(手前の影の部分で目立ちますが、全面に雲母が散っています)


ここまでくると、もはや「神戸もの」というカテゴリーを新設してもいいぐらいですが(十分それだけの記事はこれまで書いてきましたから)、他とのバランスもあるので、これもとりあえず長野まゆみさんのカテゴリーに入れておきます。