クリスタル・カメラ ― 2023年06月17日 07時21分59秒
銀塩カメラの中核をなすのは、レンズとフィルムです。
レンズはもちろんガラス製で、フィルムの基材も昔はガラスでした。
かつてカメラの枢要部は、すべてガラスで出来ていたわけです。
でも、文字通り「ガラスのカメラ」があったとしたら?
緻密で透明なクリスタルガラスでできたカメラのオブジェを見つけました。
ドイツのローライ社が1950~60年代に売り出した二眼レフ「ローライフレックス2.8」をモデルに、4/5サイスで再現したものです。
(ローライフレックス2.8。ウィキペディアより)
(側面)
オブジェですから写真が撮れるわけではないし、実用性はゼロなんですが、単なるオブジェにしても、これはなかなか綺麗なオブジェだと思いました。(実用性ゼロとはいえ、ブックエンドやペーパーウェイトとしてなら使えます。)
(レンズはカールツァイス・プラナー)
作ったのはアメリカのFotodiox社で、同社はカメラ機材のサプライヤーですが、これは余技としてギフト商品用に作っているようです。今回はアメリカのAmazonから購入しましたが(日本のアマゾンから買うよりリーズナブルでした)、メーカーサイトからも直接注文できるので、そちらにリンクを張っておきます。
コメント
_ S.U ― 2023年06月17日 08時38分03秒
_ 玉青 ― 2023年06月17日 12時13分03秒
ここでは「透明―不透明」の語義が厄介ですね。
「傍から見えない」という意味での透明ならば、むしろ徹底的に不透明な、保護色タイプの方が効果的かもしれません。その究極が光学迷彩で、素朴なところではピカピカの鏡も「透明」ですね(そのため、よくぶつかり事故が発生します)。
一方、葛切りとか、寒天とか、ガラスの彫刻とか、あるいはちょっと前に『世界の美しい透明な生き物』という本が出ていましたが、こういうのは全て「目にはっきり見える」という意味で、透明とも言い難いですが、でもやっぱり透明は透明ですよね。いわば「透明」vs.「透明感」の違いと言いましょうか。
+
ここで視点を変えてつらつら思うに、「人間は完全な透明になれない、なれたとしても目が見えない」…というのは、他者の存在を前提とした考えですね。もしこの世界に自分一人しかいなかったら、自分の眼球ほど透明なものはないんじゃないでしょうか(鏡を見るというのは、自分を他者化することなので、ここでは除外しましょう)。今、自分の目に見えている世界をそのまま言語化すると、自分の手足や胴体、それに鼻の頭は不透明ですが、それ以外の首から上は完全に透明です。
こういう「認識論的透明」というのは、たぶん視覚体験のみならず、人間のあらゆる認識の領域に生じているはずで、そのことを考えるとちょっと怖くなってきます。
「傍から見えない」という意味での透明ならば、むしろ徹底的に不透明な、保護色タイプの方が効果的かもしれません。その究極が光学迷彩で、素朴なところではピカピカの鏡も「透明」ですね(そのため、よくぶつかり事故が発生します)。
一方、葛切りとか、寒天とか、ガラスの彫刻とか、あるいはちょっと前に『世界の美しい透明な生き物』という本が出ていましたが、こういうのは全て「目にはっきり見える」という意味で、透明とも言い難いですが、でもやっぱり透明は透明ですよね。いわば「透明」vs.「透明感」の違いと言いましょうか。
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ここで視点を変えてつらつら思うに、「人間は完全な透明になれない、なれたとしても目が見えない」…というのは、他者の存在を前提とした考えですね。もしこの世界に自分一人しかいなかったら、自分の眼球ほど透明なものはないんじゃないでしょうか(鏡を見るというのは、自分を他者化することなので、ここでは除外しましょう)。今、自分の目に見えている世界をそのまま言語化すると、自分の手足や胴体、それに鼻の頭は不透明ですが、それ以外の首から上は完全に透明です。
こういう「認識論的透明」というのは、たぶん視覚体験のみならず、人間のあらゆる認識の領域に生じているはずで、そのことを考えるとちょっと怖くなってきます。
_ (未記入) ― 2023年06月17日 13時10分08秒
もし透明人間になれるとしても、それ自体がとんでも科学なので、
透明人間は目が見えない、なんて理屈自体が無粋
透明人間は目が見えない、なんて理屈自体が無粋
_ S.U ― 2023年06月17日 14時44分28秒
「認識論的透明」vs「物理的透明」の問題で、立場の相違があるということですね。
これは、物理学側からすると、光の波動性の観測問題と直結しているということになると思います。つまり、光をものの実在の確認手段として利用するためには波動性→粒子性への変換が必要で、それは量子論的(観測問題に関わる)限界を持っているということだと思います。いっぽう、一般的な認識論側からすると、「実在が認識できる」ということは別の概念をも含んでいるのでしょう。
別の言い方をすれば、シュレディンガーの猫の問題を量子力学で解決済みと見るか、実在論、認識論として未解決と見るかの違いに相当すると言えるかもしれません。
(未記入) 様のおっしゃるように、科学的にあり得ない仮定で結果を追求し、あるいは、そもそも架空の存在の性質を詮索するのは無粋ではあるのですが、光は吸収されない限り認識されない(自分が消滅して初めて他者に認識される)というのは、光の特徴的な重要な性質だと思うので、その見逃しがちの点を指摘した話として私は価値があると見ております。
また、これほど、電子・センサ技術が発達した現在においても、カメラや望遠鏡には依然として、ガリレオ以来のガラス、またはプラスチックのレンズ(あるいは金属メッキの凹面鏡)が使われていることも、特筆すべきことだと思います。
これは、物理学側からすると、光の波動性の観測問題と直結しているということになると思います。つまり、光をものの実在の確認手段として利用するためには波動性→粒子性への変換が必要で、それは量子論的(観測問題に関わる)限界を持っているということだと思います。いっぽう、一般的な認識論側からすると、「実在が認識できる」ということは別の概念をも含んでいるのでしょう。
別の言い方をすれば、シュレディンガーの猫の問題を量子力学で解決済みと見るか、実在論、認識論として未解決と見るかの違いに相当すると言えるかもしれません。
(未記入) 様のおっしゃるように、科学的にあり得ない仮定で結果を追求し、あるいは、そもそも架空の存在の性質を詮索するのは無粋ではあるのですが、光は吸収されない限り認識されない(自分が消滅して初めて他者に認識される)というのは、光の特徴的な重要な性質だと思うので、その見逃しがちの点を指摘した話として私は価値があると見ております。
また、これほど、電子・センサ技術が発達した現在においても、カメラや望遠鏡には依然として、ガリレオ以来のガラス、またはプラスチックのレンズ(あるいは金属メッキの凹面鏡)が使われていることも、特筆すべきことだと思います。
_ 玉青 ― 2023年06月18日 04時56分22秒
○(未記入)さま
透明‐不透明というのは、物質の境界面での光の振る舞いに関する議論に関わることですから、「とんでも科学」というよりは、基本的な物理の世界に属するものと思います。単に「人間を生きながらに透明化する」ということが、現在の技術力では、いささか荒唐無稽な話に属する…というに過ぎないでしょう。その上で、そうした話を粋と見るか、無粋と見るか、まあ寺田寅彦あたりもこの話題で大いに気を吐きましたから、あながち無粋とばかり言えない気がします。
○S.Uさま
例によって話が深いところに入ってきましたね。
ところで、透明人間は目が見えないという話。
ウィキペディアにその出所は寺田寅彦だと教えられて、さっそく原典に当たってみました。
出典は「自由画稿」と題して『中央公論』に連載されたコラムで、問題の一篇はずばり「透明人間」というタイトルでした(初出『中央公論』昭和10年4月号、岩波文庫『寺田寅彦随筆集』第5巻所収)。
寅彦自身による解説は以下のとおりです。
「かりに固体で空気と同じ屈折率を有する物質があるとして、人間の眼球がそうした物質でできているとしたらどうであろうか。その場合には目のレンズはもはや光を収斂するレンズの役目をつとめることができなくなる。網膜も透明になれば光は吸収されない。吸収されない光のエネルギーはなんらの効果をも与えることができない。換言すれば「不可視人間」は自分自身が必然に完全な盲目でなければならない。」
議論としてはすでに周知のものですが、さすがは寅彦、簡潔で引き締まった表現をするものです。
+
ここで光の波動性の観測問題について改めて考えてみましょう…となるところですが、こればかりは寅彦の視野にも入っていなかった点で、なかなか難しいですね。
S.Uさんのお話は、「光をものの実在の確認手段として利用するためには波動性→粒子性への変換が必要で、それは量子論的(観測問題に関わる)限界を持っている」という一文に集約される思います。自分なりに言い換えると、「見る、すなわち光を捉えるという行為は、必ずそこに量子論的撹乱を伴い、<透明/素通し>のままそれを行うことは出来ない」、要するに「この宇宙では、世界に影響を及ぼすことなく観測することはできないし、絶対的傍観者はいない」…というのが話の肝ですよね。
ひとつ前の自分のコメントをちょっと補足しておくと、「認識論的透明」というウロンな言葉を使ってしまいましたが、要は「対象化できないモノは、認識主体にとって透明=無に等しい」ということで、眼球は自らを対象として捉えることができませんから、眼球にとって自らは透明だ…ということを言いたかったのでした。
このふたつは、ともに「観測の不可能性」に関わる陳述という点で共通しています。
前者は「観測者は対象に影響を与えずに観測することはできない」という、この宇宙の基本的性質を述べたものであり、後者は「観測者は(自分自身のように)客体化できない対象を観測することはできない」という、認識論的限界を述べたものです。
この二つを組み合わせると、何かとても大切なことが言えるような気がするのですが、うまく考えがまとまりません。今宵の夢で何かひらめくといいのですが…。
透明‐不透明というのは、物質の境界面での光の振る舞いに関する議論に関わることですから、「とんでも科学」というよりは、基本的な物理の世界に属するものと思います。単に「人間を生きながらに透明化する」ということが、現在の技術力では、いささか荒唐無稽な話に属する…というに過ぎないでしょう。その上で、そうした話を粋と見るか、無粋と見るか、まあ寺田寅彦あたりもこの話題で大いに気を吐きましたから、あながち無粋とばかり言えない気がします。
○S.Uさま
例によって話が深いところに入ってきましたね。
ところで、透明人間は目が見えないという話。
ウィキペディアにその出所は寺田寅彦だと教えられて、さっそく原典に当たってみました。
出典は「自由画稿」と題して『中央公論』に連載されたコラムで、問題の一篇はずばり「透明人間」というタイトルでした(初出『中央公論』昭和10年4月号、岩波文庫『寺田寅彦随筆集』第5巻所収)。
寅彦自身による解説は以下のとおりです。
「かりに固体で空気と同じ屈折率を有する物質があるとして、人間の眼球がそうした物質でできているとしたらどうであろうか。その場合には目のレンズはもはや光を収斂するレンズの役目をつとめることができなくなる。網膜も透明になれば光は吸収されない。吸収されない光のエネルギーはなんらの効果をも与えることができない。換言すれば「不可視人間」は自分自身が必然に完全な盲目でなければならない。」
議論としてはすでに周知のものですが、さすがは寅彦、簡潔で引き締まった表現をするものです。
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ここで光の波動性の観測問題について改めて考えてみましょう…となるところですが、こればかりは寅彦の視野にも入っていなかった点で、なかなか難しいですね。
S.Uさんのお話は、「光をものの実在の確認手段として利用するためには波動性→粒子性への変換が必要で、それは量子論的(観測問題に関わる)限界を持っている」という一文に集約される思います。自分なりに言い換えると、「見る、すなわち光を捉えるという行為は、必ずそこに量子論的撹乱を伴い、<透明/素通し>のままそれを行うことは出来ない」、要するに「この宇宙では、世界に影響を及ぼすことなく観測することはできないし、絶対的傍観者はいない」…というのが話の肝ですよね。
ひとつ前の自分のコメントをちょっと補足しておくと、「認識論的透明」というウロンな言葉を使ってしまいましたが、要は「対象化できないモノは、認識主体にとって透明=無に等しい」ということで、眼球は自らを対象として捉えることができませんから、眼球にとって自らは透明だ…ということを言いたかったのでした。
このふたつは、ともに「観測の不可能性」に関わる陳述という点で共通しています。
前者は「観測者は対象に影響を与えずに観測することはできない」という、この宇宙の基本的性質を述べたものであり、後者は「観測者は(自分自身のように)客体化できない対象を観測することはできない」という、認識論的限界を述べたものです。
この二つを組み合わせると、何かとても大切なことが言えるような気がするのですが、うまく考えがまとまりません。今宵の夢で何かひらめくといいのですが…。
_ S.U ― 2023年06月18日 05時57分04秒
>寺田寅彦
そうなんですか。では、私は初めにその子引きを読んだのでしょう。たぶん、寺田寅彦のアイデアと書いてあったのでしょうが、忘れてしまいました。寅彦の時代から、物理的な光の観測は、やはり屈折(ここでは、波動の振動数(周波数は維持される)と吸収(ここで波が消える)のと二重の識別可能の段階があると知られていたといえそうです。ここまででは、量子力学の理屈は不要と思います。
>二つを組み合わせると
後者の認識論的限界は、自然科学には留まらず、人文科学、社会科学とも関係していて、自我(自分の心が自分の意のままにならないとか)や経済学や政治学の解明の困難性(金融緩和をしても景気がいつよくなるかわからないとか、増税をしてもいつ政権が変わるかどうかはわからないなど)の予測困難性と関係していると思います。自然科学の論理的側面からのアプローチに限れば、おっしゃるように二つは統合可能で、おそらく重要な帰結が出てきそうに思うのですが、よくわかりません。論理式を使えば、現象論としては描写できそうに思います。、根本原理の解明は、こちらは量子力学が絡んできて、観測問題の根源構造が未解明な故に現在未解決、という推定を述べるに留めたいと思います。
そうなんですか。では、私は初めにその子引きを読んだのでしょう。たぶん、寺田寅彦のアイデアと書いてあったのでしょうが、忘れてしまいました。寅彦の時代から、物理的な光の観測は、やはり屈折(ここでは、波動の振動数(周波数は維持される)と吸収(ここで波が消える)のと二重の識別可能の段階があると知られていたといえそうです。ここまででは、量子力学の理屈は不要と思います。
>二つを組み合わせると
後者の認識論的限界は、自然科学には留まらず、人文科学、社会科学とも関係していて、自我(自分の心が自分の意のままにならないとか)や経済学や政治学の解明の困難性(金融緩和をしても景気がいつよくなるかわからないとか、増税をしてもいつ政権が変わるかどうかはわからないなど)の予測困難性と関係していると思います。自然科学の論理的側面からのアプローチに限れば、おっしゃるように二つは統合可能で、おそらく重要な帰結が出てきそうに思うのですが、よくわかりません。論理式を使えば、現象論としては描写できそうに思います。、根本原理の解明は、こちらは量子力学が絡んできて、観測問題の根源構造が未解明な故に現在未解決、という推定を述べるに留めたいと思います。
_ 玉青 ― 2023年06月18日 09時36分52秒
夕べは特にアッハもエウレカもなく、暑くて寝苦しいなあ…と頭の隅で感じつつ、ひたすら惰眠を貪っていました。こうして私の方は、例によってグダグダで終わってしまうんですが、でもそこから今日の話題につながったので、とりあえず良しとしたいです。
_ S.U ― 2023年06月18日 10時25分36秒
これは、うまくつながりましたね(笑)
こううまくつながるようでは、「猫」の問題は、まだ現象論的にも未解決かもしれませんね。
こううまくつながるようでは、「猫」の問題は、まだ現象論的にも未解決かもしれませんね。
_ 玉青 ― 2023年06月19日 06時27分23秒
いやあ、つながったというより「つなげた」という方がより正確ですが、素敵なお題をいただき、ありがとうございました。
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さらに、現状の技術では、通常、一定以上の径の光束の結像にはレンズが用いられるので、透明といえども、屈折率の違い(空気とレンズの)で、外観から識別可能です。これは透明人間においても、目がレンズの技術を使っていたら同じと考えられます。