宝暦暦一件2024年05月30日 18時32分26秒

渋川春海が心血を注いだ貞享暦
しかしそれも完璧ではありえず、時代が下るとともに、改暦の声がぽつぽつ出てきます。まあ、実際には貞享暦もまだまだ現役で行けたのですが、将軍吉宗の鶴の一声で、最新の蘭学を採り入れた新暦プロジェクトが動き出し、それを受けて宝暦5年(1755)から使われるようになったのが「宝暦暦」です(「宝暦」という年号は「ほうれき」と読むのが普通だと思いますが、暦のほうは「ほうりゃくれき」と呼びます)。

(明和3年(1766) 宝暦暦)

しかし、この暦には芳しからぬ評判がついて回ります。
その点についてウィキペディアの「宝暦暦」の項は以下のように記します。

 「将軍徳川吉宗が西洋天文学を取り入れた新暦を天文方に作成させることを計画したが、吉宗の死去により実現しなかった。結局陰陽頭・土御門泰邦〔つちみかどやすくに、1711-1784〕が天文方から改暦の主導権を奪い、宝暦4年(1754年)に完成させた宝暦暦が翌年から使用されたが、西洋天文学にもとづくものではなく、精度は高くなかった。」

 「騙し騙し使っていたものの、先の暦である貞享暦よりも出来が悪いという評価は覆し難く、日本中で様々な不満が出て、改暦の機運が年々高まっていく事となった。結局、幕府や朝廷は不満の声に抗しきれず、改暦を決定した。評判の高かった天文学者の高橋至時〔たかはしよしとき、1764—1804〕を登用し、寛政暦が作成され、宝暦暦はその役割を終えた。」

(同上。部分拡大)

渋川春海の「貞享暦」と高橋至時の「寛政暦」。
実力隠れなき2人の俊才が、知恵と努力を傾けた2つの暦の間にあって、宝暦暦は「ダメな暦」の代表であり、それはひとえに土御門泰邦という愚かな「公家悪(くげあく)」のせいなんだ…というのが、一般的な見方でしょう。

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歴史物語は往々にして「悪者」や「敵役」を欲するので、土御門泰邦も実際以上に悪者とされている部分があると思います。泰邦にだって、きっと言い分はあるでしょう。

兄たちが次々に早世する中で、土御門兄弟の末弟でありながら当主の役割を負った泰邦。彼の行動は私利というよりも、暦に関する権能を幕府天文方から取り戻し、土御門家の栄光を再び輝かすことに動機づけられており、当時の「家の論理」に照らせば、それは一種の「正義」とすら言えます。

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宝暦の改暦をめぐっては、渡辺敏夫氏が『近世日本天文学史・上巻』で、70頁余りを費やして詳しく論じています。それによると、泰邦も最初から横車を押してきたわけではなく、改暦の準備作業のため江戸から派遣された天文方の西川正休(にしかわまさやす、1693-1756)に対して、当初はまずまず穏当な対応をしていました。しかし、西川の表裏ある性格や、明らかな実力不足を知るに及び、「それならば…」と暦権奪還に向けて舵を切ったことが窺い知れるのです。

愚昧という点でいえば、西川正休の方がよほど愚昧だったかもしれません(西川が作成した新暦案に土御門側は数々の疑問を呈しましたが、それらは一応筋の通ったもので、西川はそれに返答することができませんでした)。その意味で、泰邦とその周辺にいた人物は、たしかに暦学について一通りの見識を備えていたのです。

しかし問題は、改暦の大仕事は「一通りの見識」でできるようなものではなかったということで、そこを無視して改暦に手を染めたのは、やはり無謀だったと言わざるを得ません。

(同上)

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暦というのは、天体の運行と人間生活が出会うところに生まれるものなので、本来的に人間臭いところがあります。そして宝暦暦を見ると、改暦というイベントはそれに輪をかけて人間臭いなあ…と思います。