草下英明と宮沢賢治(1)2024年06月21日 18時16分28秒

宮沢賢治が「星の文学者」として認められる過程で、後に科学ジャーナリストとして世に出た、草下英明氏(1924-1991)の功績は甚だ大きいものがあったと思います。

でも、そもそも草下氏はいつ賢治に出会ったのか?
それを整理するため、草下氏の『星日記』から関係する記述を抜き出してみます(以下、敬称を略してお呼びします。なお、引用中の太字と〔 〕は引用者)。

草下英明(著)『星日記―私の昭和天文史1924~84』、草思社、1984

草下は大正13年(1924)12月、東京都荏原群駒沢村、今の世田谷に生まれました。そして満2歳を迎えた1926年12月に昭和改元があり、以後、昭和2年12月に満3歳、昭和3年12月に満4歳を迎えた…ということは、要するに彼は、昭和X年の12月に満「X+1歳」の誕生日を迎える計算で、その年の1月から11月まではぴったりX歳です。非常に分かりやすいですね。まさに昭和とともに歩んだ人生。

そんなわけで、草下がハイティーンから二十歳過ぎの青年期を過ごした時期は、終戦前後の激動期と丸被りです。

昭和17年(1942)4月に、立教大学文学部予科(予科というのは本科に進む前の教養課程)に入学したものの、勤労動員に明け暮れる日々で、とても勉強どころではありませんでした。昭和19年(1944)10月には大学を休学し、愛知県の豊橋第二予備士官学校で、幹部候補生としての速成訓練を受けます(自ら志願したわけではなく、いわゆる学徒動員です)。

明くる昭和20(1945)年6月に予備士官学校を卒業して、そのまま見習士官として名古屋の東海第五部隊に配属となり、知多半島の阿久比で「築城作戦」(という名の穴掘り作業)に従事しているとき、8月15日の終戦を迎えました。

草下が賢治を知ったのは、ちょうどこの時期です。
『星日記』 昭和20年(1945)の項の冒頭に、こうあります。


 「二十歳。私の一生の中で、二度とないような一年。価値観念が正反対に転換した年、そして今年一杯生き延びられるだろうかとまで考えていた年だった。同室の友人、美術学校出の阿井正典氏から、宮沢賢治の名を教えられたのも、この頃である。」(94頁)

ネット情報によれば、阿井正典(あいまさのり、1924—1983)は、戦後に活躍した抽象彫刻家。草下と同時期にやっぱり学徒動員され、愛知時代の草下氏と同室になったのでしょう。阿井氏はおそらく本人も自覚せぬまま、その後の宮沢賢治受容史に計り知れない影響を及ぼしたことになります。

(草下に賢治の存在を教えた、阿井正典〔後列、右から2人目〕。
出典:『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』、「第三章 第三節 昭和18年 ⑭学徒出陣」(922頁)。

   ★

戦争が終わり、昭和20年9月に無事復員。いったん信州に疎開していた両親のもとに身を寄せたあと、10月に東京に戻り、大学に復学。しかし何をする気も起らず、呆然と暮らす日々が続きました。

翌昭和21年(1946)の『星日記』の冒頭部。

 「虚脱呆然の状態はまだ続いていた。学校へはろくに行かず、やたらと本ばかり読んでごろごろしていた。野尻先生の「星を語る」「星座風景」「星座春秋」「星座神話」といった本を古書店で見つけると、値段を問わず即座に買い込んだ(ろくに金もないのに)。その他の天文書なども片っぱしから買ってしまっていた。宮沢賢治の本も、全集を除いてこの時期にほとんど揃えていた。彼の詩は一行も理解できなかったのだが。(99頁)

戦後の精神的空白の時期にあって、草下が拠り所としたのが、抱影であり、賢治であり、星の世界でした。賢治の詩は一行も理解できなかった…と草下は言いますが、その理解できない詩をも夢中で読み、そしてやっぱり深く感じるものがあったのでしょう。

(この項つづく)

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