『日本産有尾類総説』を読む(2)2024年07月25日 21時49分57秒

私は『日本産有尾類総説』という本を偶然知ったので、著者・佐藤井岐雄についても、恥ずかしながら何も知りませんでした。そこで『総説』を読む前に、佐藤のことを予備知識として知っておこうと思い、ウィキペディアの該当項目に立ち寄り、その記述を読んだ瞬間、しばし言葉を失いました。

そこには、佐藤が両生類研究の分野で非常に高名な人であり、42歳の若さで亡くなったことが書かれていました。彼はいったん中学校の教師になったあと、再度学問の道に志し、旧制広島文理科大学(現在の広島大学)に入学後、1941年に博士号を取得。『総説』を上梓した1943年には、同大学の助教授に昇進し、戦時下にあっても研究に余念がありませんでした。しかし、その未来は突如断たれてしまいます。以下、ウィキペディアからの引用。

 「佐藤は妻・清子との結婚後、広島市錦町(現在の広島市中区広瀬町)の妻の実家に妻の両親と同居していたが、戦争が激化すると家族を広島県世羅郡広定村(現三次市)に疎開させた。1945年8月には大学の重要書類が疎開先に送り出されるのに立ち会うため、妻とともに錦町の実家に戻り、教授への昇進を2日後に控えた8月6日朝も、大学に向かうため広電十日市町電停(爆心地から約800m)で電車を待っていたため原爆に被爆、全身火傷を負った。その後自宅で被爆した妻とともに、広島市古江(現・西区)にあった同僚の土井忠生教授宅に避難、妻たちによる看護を受けながら5日間苦しんだのち死去した。」

(十日市町電停付近(1946) Wikimedia Commonsより)

その妻も「佐藤が亡くなって間もない1945年8月26日、被爆時の傷が急に悪化して死去」。さらに「佐藤はオオサンショウウオの生態に関する研究を進めていたが、その研究は原爆死により中断した。さらに自筆原稿・標本の多くが焼失したため、オオサンショウウオの生態解明が遅れたといわれる」ともあります。

嗚呼、なんということでしょうか。
この佐藤の最期を知った上で『総説』の序文を読むとき、深い悲しみを覚えます(以下、改段落は引用者。引用にあたって新仮名遣いに改めました。)。


 「もうかれこれ十数年も前のことである。後を見返りながら鎗の大雪渓を下ったのは昼を少し過ぎた頃であったろうか。今しがたまでくっきりと聳えていた鎗の尖峰が濃霧の帷帳〔とばり〕にとざされて、追っかけるように雨霧の流れが雪渓へも匐い降りて来た。物凄い唸りをたてて断崖が崩れ落ちるのは穂高側である。しばしは立ちすくんだが、それから点々とする落石の間を一目散にすべり下りて、鎗沢に着いてはじめてほっと一息ついた――その頃のことが想い出される。

そういう想い出の中から殊にも強く予の網膜に印されていることがある。ちょうど雪渓が渓谷に消えうつろうとする辺りであったが、雪の一塊に渇を医〔いや〕そうと足下に手をおろした時のことである。従容として迫らずというか、いとも泰然と雪の上に佇む一匹の動物を見出したのであった。嵐の中からでも生れ出たようなこの動物が予の出逢った最初の日本の名宝、山椒魚だったのである。」

この涼やかな経験と、原爆の業火との無限の距離感。
平和な世であったならば、佐藤の学問はその後どれほど花開いたことか。
ただただ無惨であり、佐藤その人も無念だったことでしょう。

   ★

『日本産有尾類総説』は佐藤の主著であり、事実上の遺著でもあります。
この畢生の大著が残されたことは、佐藤にとっても我々にとっても、「不幸中の幸い」と言うべきですが、でもその「不幸」はあまりにも大きなものでした。

ともあれ『総説』は、今の時期こそ読むのにふさわしいことが分かりました。
この小文を佐藤博士へのささやかな手向けとします。

佐藤井岐雄(1902-1945)。佐藤の肖像は、X(ツイッター)で「超イケメン」として紹介されているこちらの写真が、おそらくネット上で唯一のものではないでしょうか)

(この項、心して続きます)