『日本産有尾類総説』の作画者、吉岡一氏のこと ― 2024年08月01日 18時31分41秒
世の中には検索の達人がいらっしゃるものです。
佐藤井岐雄博士の『日本産有尾類総説』の彩色図版を担当した、吉岡一画伯について、その後、ある方(Y氏とお呼びします)からメールでご教示いただきました。
(『日本産有尾類総説』 第1図版、チョウセンサンショウウオ)
当時、広島に吉岡一という洋画家がいて、動・植物の挿絵も手掛けていた…という情報で、これまた同名異人の可能性が皆無とはいえませんが、まあ普通に考えてご当人でしょう。
以下、国立国会図書館のデジタルコレクションからの情報(by Y氏)です。
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まず、吉岡氏の名前は、小林順一郎著 『普通動物学』(中文館書店、昭11/1936)に挿絵画家として登場します。同書冒頭の「序」に、「…尚此書に挿入した図版は写真版以外は殆どすべて新しく描写したので、その過半は広島の洋画家吉岡一氏の手により…」云々の記載があるのがそれです。
次いで、戦後間もない頃ですが、広島図書(本社・広島市)が発行していた子供向け科学雑誌「新科学」の昭和23年(1948)6月号で、吉岡氏は高山植物のカットを描いています。要するに吉岡氏は動・植物画をよくする職業画人で、その方面の代表作が『日本産有尾類総説』というわけです。
(「新科学」昭和23年6月号の表紙)
(同上目次と高山植物図・部分。傍線は引用者)
さらに吉岡氏の名前はちょっと変わったところにも見出されます。
広島出身の歌人・平和運動家の正田篠枝(しょうだ しのえ、1910-1965)氏の『耳鳴り : 原爆歌人の手記』(平凡社、1962)がそれです。
そこには、正田氏がGHQの検閲をくぐり抜けて秘密出版した歌集『さんげ』(奥付には昭和22年(1943)とありますが、実際は昭和21年発行の由)に掲載された、原爆ドームのカットと、絵の作者である吉岡氏の思い出が書かれています。それによると、吉岡氏は当時、広島郊外の高須(現広島市西区)に住み、妻を原爆で亡くしたため、乳飲み子を含む6人の子供を抱えて大変苦労していたこと、その後再婚したものの、間もなく亡くなられたことが記されていました。
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さて、ここまでたどってきても、吉岡氏の経歴は依然ぼんやりしています。
しかし、Y氏からもたらされた、もう一つ別の情報を追っているうちに、広島市現代美術館が1991年に開催した展覧会「広島の美術の系譜―戦前の作品を中心に」の図録中に吉岡氏の名があることを知りました。
早速、問題の図録を取り寄せたら、これが正解で、そこには氏の風貌を伝える写真とともに、その略歴がしっかり書かれていました。
吉岡 一(よしおか・はじめ) 1898-1954
広島市に生まれる。1916年の第1回展より県美展〔※引用者注:広島県美術展覧会〕に出品。独学の後上京し、太平洋画会研究所に学ぶ。23年二科展に初入選。25年、26年、28年、29年帝展に入選。広島美術院展には26年の第1回展より出品。31年青実洋画研究所開設。32年広島洋画協会結成に参加。36年二紀会結成に参加。54年死去。
広島市に生まれる。1916年の第1回展より県美展〔※引用者注:広島県美術展覧会〕に出品。独学の後上京し、太平洋画会研究所に学ぶ。23年二科展に初入選。25年、26年、28年、29年帝展に入選。広島美術院展には26年の第1回展より出品。31年青実洋画研究所開設。32年広島洋画協会結成に参加。36年二紀会結成に参加。54年死去。
(二紀会結成。前列左から、辻潔、吉岡満助〔※引用者注:同じく画家だった吉岡一の実兄〕、田中万吉、吉岡一、後列左から、福井芳郎、實本仙、山路商)
正田篠枝氏の回想記は、吉岡氏が戦争終結後あまり間を置かずに亡くなったように読めますが、実際には戦後9年目の1954年まで存命されていたとのことです。
さらに図録には、氏の作品が2点掲載されています。
(吉岡一 燻製 1929年 油彩・キャンバス 100.0×73.0 広島市蔵)
(吉岡一 石切場 制作年不祥 油彩・キャンバス 38.0×46.0 個人蔵)
実はこの図録を手にするまで、私は何となく「洋画家」とか「画伯」というのは一種の儀礼的尊称であって、氏の実相は「挿絵をもっぱらとする画工」に近い存在ではなかろうか…と勝手に想像していました。しかし、上のような経歴を知り、その作品を眺めてみれば、吉岡氏は確かに「洋画家」であり、「画伯」と呼ばれるべき人でした。
ただ、逆にこの図録は吉岡氏の挿絵画家としての顔を伝えていません。
『日本産有尾類総説』の作画者と、帝展入選画家・吉岡一を結びつけて考える人は、同時代人を除けば少ないでしょうから、ごくトリビアルな話題とはいえ、この拙文にも多少の意味はあると思います。
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吉岡氏は、大正5年(1916)に始まった県美展の常連出品者でした。その後、昭和11年(1936)に、運営方針をめぐって脱退したものの、吉岡氏がその青年期から少壮期を托した県美展の会場こそ、広島県物産陳列館――今の原爆ドームです。
今年の8月6日も、あの鉄骨のシルエットをテレビで目にするでしょう。
そして、今年は新たな感慨がそこに付け加わるはずです。
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