『野尻抱影伝』再読2024年09月23日 10時28分36秒

野尻抱影(1885-1977)のことについて書くたびに、これまでたびたび石田五郎さん(1924-1992)『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート、1989)から引用してきました。しかし、原著は古書でしか手に入らないので、読み手の方にとっても不便でしょうし、今では中公文庫で簡単に読めるので、今後はそちらを引用元として挙げようと思い、文庫版を購入しました。

(判型が四六判(188×127mm)からA6判(文庫本サイズ)に小さくなりました)

中公文庫版は2019年の初版で、『星の文人 野尻抱影伝』に改題されていますが、内容はオリジナルとまったく同じです(ただし、巻末の編集付記を読むと、底本中の明らかな誤植が訂正され、難読文字にルビが付加されている由)。

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それともう一つの違いは、文庫本の常として「解説」が最後に付いており、本書では国立天文台副台長(当時)の渡部潤一氏(1960-)がその筆を執られています。同じ本を買い足すのは一見無駄なようですが、この解説文だけでも、買ってよかったと思いました。

そこには渡部氏自身の少年期の思い出が綴られています。
天文熱が高まった小学校高学年の頃に出会った石田五郎さんの『天文台日記』
これを渡部氏は「人生を変えた本」と呼んでいます。

その後、氏が本格的に天文学を志して大学に入学した際、親族から贈られたのが、抱影の『星三百六十五夜』でした。古本屋で入手したらしい、その歴史を感じさせる装丁に最初は戸惑いながらも、読み出したらこの「傑作」に「一挙に“はまって”しま」い、これこそ『天文台日記』の原典ではなかろうかと思った…とも書かれています。


専門の天文学者であると同時に、当代一流の天文啓発家である渡部潤一氏に、抱影と石田五郎さんが強烈に影響していたと知って、深く感じるものがありました。美しい星ごころが、世代を超えて伝達していくさまがまざまざと伝わってきたからです。天文学ならぬ「天・文学(てんぶんがく)」の系譜は、まことに重層的です。

(石田五郎さんと抱影。1957年5月に行われたラジオ対談の一コマ。石田さんの追悼文集『天文屋 石田五郎さんを偲ぶ』より)

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その石田五郎さんが抱影の『星三百六十五夜』に出会った思い出も、この『野尻抱影伝』には書かれています。

それは『星三百六十五夜』の初版が出た、昭和31年(1956)のことで、当時の石田さんは30代初めで、東大天文学教室の助手。当時の東京天文台長・萩原雄祐(1897-1979)に、「お前、こんな本知っているか」と差し出されたのが『星三百六十五夜』でした。

さすがに「大先生」である萩原に貸してくれとも言えず、かといって助手の給料で気楽に買える金額でもなかったので(公務員の初任給が9000円の時代、この本は定価400円でした)、石田さんはその頃麻布にあった天文学教室からの帰り道、大きな本屋をはしごしながら、ついに立ち読みで読破したといいます。

その後、普及版が出て入手は容易になりましたが、思い出の初版を手に入れようと雌伏すること30年。ついに昭和61年(1986)に、古書市で「めぐりあったが百年目、まさに盲亀の浮木、ウドンゲの花」と勢い込んで購入した顛末が、『野尻抱影伝』には書かれています。

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ふたたび渡部潤一氏の解説に戻って、氏はこうも書いています。

 「本書の中で異色な章が「第十一話 冬来菜葉、春唐辛子」である。唯一、著者である石田氏が、野尻氏との交友について紹介し、珍しく感情を吐露しているからだ。そこには学者としてだけで無く、能楽や歌舞伎、狂言などを愛する文化人として、手紙のやりとりをしていたことが紹介される。〔…〕いずれにしろ、石田氏が野尻氏を継ぐ人物なのは、十分に納得できる内容だ。そこでの手紙のやりとりを含め、〔…〕野尻氏の知られざる側面を、石田氏は本書で余すところなく紹介している。」

私もさっそく「冬来菜葉、春唐辛子」を読み返し(ときにこの章題を読めますか?「ふゆきたりなっぱ、はるとうがらし」です。もちろん「冬来たりなば春遠からじ」のもじりで、抱影はこういう伝統的な言葉遊び、地口(じぐち)」が好きでした)、さらにほかの章も再読したのですが、昔読んだ時よりも一層深い味わいがありました。

齢をとったせいで、いろいろ経験を積み、心にひだを刻んだということもあります。
さらにそればかりなく、この間に関係するモノの集積が続いたせいで、単なるイメージにとどまらない、抱影や石田五郎さんの追体験ができるようになったこと、そして両氏のリアルな体温を感じられるようになったとことが、何にもまして大きいです。

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本書を再読して、モノの力は自分が思っていた以上に大きいのかもしれないなあ…とも思いました。