いつもの例の話2024年11月10日 14時26分53秒

うーむ…と思いました。
いつもの天文学史のメーリングリストに今日投稿された1通のメッセージ。

 「私は 1955 年 9 月号から 「S&T(スカイ・アンド・テレスコープ)」誌を定期購読しており、「S&T DVD コレクション」に収録されている 2010 年以前の号(厚さにして12フィート分)は、紙の雑誌の方はもはや不要なので、送料さえ負担してもらえれば、すべて寄付したい思います。どこかでお役に立てていただけないでしょうか?」

今やどこにでもある話で、その反応もある程度予想されるものです。

A氏 「あなたのS&Tに早く安住の地が見つかりますように。私の手元にある某誌もずっと寄贈先を探しているのですが、うまくいきません。」

B氏 「数年前、私は S&T やその他の天文雑誌を、すべて UNC の学部生に譲りました。私は天文学部の教授である隣人を通じて彼と知り合いましたが、何でもオンラインでアクセスできる今の時代、そのようなもののハードコピーを欲しがる人を見つけるのは本当に大変です。幸運を祈ります!」

C氏 「私が退職したときは、ケニアで教えていた同僚が、私の歴史ジャーナルのコレクションを、自分が教鞭をとっていた大学に送ってくれました。海外とご縁があるなら、同じことを試してみてもいいかもしれませんね。」

D氏 「数年前、私もS&T について同様の状況に直面し、ずっと受け入れ先が見つからなかったため、結局、観測関連の記事だけは切り抜いて、将来の観測に備えてバインダーに保存することにしました。残念ながら、それ以外のものは一切合切、地元の古紙回収ステーションに出さざるをえませんでした。」

そう、表現はさまざまですが、要するに皆さん異口同音に言うのは、「それはもうただのゴミだ!」という冷厳な事実です。まあ、私は決してゴミとは思わないんですが、世間一般はもちろん、天文学史に関心のある人にとっても既にそうなのです。それに、かく言う私にしたって、「じゃあ送料はタダでいいから、あなたのところに送りましょう」と仮に言われたら、やっぱり困ると思います。

(eBayでも大量に売られているS&Tのバックナンバー)

   ★

ただ一つのポジティブなメッセージは、アマチュア天文家にして天文学史に造詣の深いロバート・ガーフィンクル氏(Robert〔Bob〕Garfinkle)が寄せたものでした。

 「私の S&T 誌のコレクションは、前身である「The Sky」と「The Telescope」誌にまで遡ります。私も会員になっているイーストベイ天文協会の友人から、シャボット・スペース&サイエンスセンターが、製本済みのS&Tを処分すると聞いたとき、私の手元には、ほぼ完全な未製本雑誌のコレクションがありました。シャボット から譲られたのは第 1 巻から第 67-68 巻 (1984 年) までで、その間の未製本雑誌はすべて箱詰めしてあります。製本済みの方は、約 7,000 冊の天文学の本、いくつかの天文学の学術誌の全巻、数十枚の月面地図、1800 年代から今日に至るまでの数百枚の月写真、そしてローブ古典文庫の約 3 分の 1 の巻とともに、今も私の書庫の棚に並んでいます。
 なぜこんなにたくさんの本を持っているのかと何度も尋ねられました。その答は、私が原稿を書くのは夜間であり、ほとんどの図書館は夜には閉まっているからです。それに私の手元には、どの図書館も持ってない珍しい本が何冊かあります。そのうちの1冊は、これまで2冊しか存在が知られておらず、私の手元にあるのは、まさにそのうちの1冊なのです。」

いくら夜間に執筆するからといって、DVD版も出ている今、紙の雑誌を手元に置く理由にはならないですが、ガーフィンクル氏がこう言われるからには、氏にとって紙の雑誌には、デジタルメディアで置き換えることのできない価値が確かにあるのでしょう。

   ★

遠い将来、人間の思念が物質に影響を及ぼすことが証明され、さらに物質上に残された過去の人々の思念の痕跡を読み取ることができるようになったら、そのとき紙の本はたとえようもない貴重な遺産となるかもしれません。

しかし、そんな遠い未来を空想しなくても、私は古い紙の本を手にすると、ただちに元の持ち主の思いを想像するし、それが読み取れるような気がすることさえあります、そのことに価値を感じる限り、紙の本はこれからも私の身辺にあり続けるはずです。

コメント

_ S.U ― 2024年11月11日 08時38分42秒

紙の雑誌というのは、愛着がありますが、やはり取っておくとかさばるし、倉庫においておけば湿気を吸って劣化するというので、結局心を痛めることになります。私も先日、実家で雑誌を何種類か大処分しました。廃棄は廃棄で心を痛めますが、物が見えなくなるのでアキラメはつきます。
 S&T誌は世界的に参照可能な在庫が多いということがあるのでしょうね。同じ月刊誌でも、日本の『少年画報』(1950~60年代)は、1冊1万円ほどで取引されているようで、古書店も買取情報を出しています。これは、日本の少年月刊誌に特有の現象なのでしょうか。結局は、図書館にあるのとないのとの違いなのでしょうか。

_ 玉青 ― 2024年11月15日 15時02分33秒

改めて考えると、同じ紙媒体でも、雑誌は単行本とはまたちょっと違った難点を抱えていますね。多くの場合、かさばる雑誌の中に自分が必要とする情報はほんの一握りだし、不要な情報の方が圧倒的に多いですから、雑誌を個人でとっておくのはやっぱり効率が悪いです。あれは図書館みたいに、大勢の人が共同利用することを前提にして保管してナンボでしょう。

「少年画報」なんかの場合は、たぶん「必要な情報の方が多い」、あるいは情報以前に「存在そのものに愛着を感じる」からとっておく意味があるので、形態は雑誌でも、その意味合いは単行本に近いかもしれませんね。

_ S.U ― 2024年11月16日 06時01分02秒

ちょっと別の観点ですが、以前は、『少年マガジン』のような週刊誌とか、「日本〇〇小説全集」とかなどは、「全冊揃い」(週刊誌なら1年分すべて)だと高価買い取り・販売とかあり、それが非常に重要なことのように言われていましたが、最近はあまり聞かないように思います。すべて揃っていても場所を食うだけで、情報の効率が上がるわけではないので(連続ものには大いに有用ですが、密度は冊数で変わらない)、全冊揃いの有り難みも最近は落ちてきたのではないかと思います。

_ 玉青 ― 2024年11月17日 07時23分33秒

>全冊揃い

ああいうのは「コンプリート欲求」の一表現型なのでしょう。今でも「ガチャ」好きな人や、「推しのグッズはすべて欲しい」という推し活の人もいるし、趣味の世界でコンプリート欲求は健在だと思いますが、書物の社会的意味が大きく変わった(威信財ではなくなった)ことで、書物を対象にコンプリート欲求が発揮されることが減った…ということかもしれませんね。(ある意味、健全化したとも言えると思います。モノが本来持つ価値を超えて、「コンプリート性」が重視されるのは、あまり健全とは思えませんから。)

_ S.U ― 2024年11月17日 10時23分24秒

>「コンプリート性」が重視されるのは、あまり健全とは思えません
 確かに、自分においても、かつてあった「コンプリート趣味」の呪縛から、いつの間にかほぼ完全に脱却できたように思います。おそらく、世間の風潮に振り回されていたのでしょう。まあ、世の中が複雑化して、どこにも「コンプリート」がなくなってきたのかもしれません。いや、出版界だって、昔から「続編」とか「別冊」とか「外伝」とかあって、何がコンプリートかはわからず、昔からそうだったということに気づいただけかもしれません。

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