辰から巳へ2025年01月01日 09時18分33秒

新年あけましておめでとうございます。
本ブログ恒例の<博物趣味的 干支引継式>


ヘビの方は「無毒ヘビ」と記載されているだけで種名不明。
龍のほうは、海竜モササウルスにその役をお願いしました(去年の正月に登場したのはモササウルスの歯の化石でしたが、今回は同じく脊椎骨です)。

脱皮を繰り返すヘビは、古来「再生」のシンボル。
去年一年間、世界も日本もいろいろと傷つき、その中で失われた命も多いです。
今年はぜひ世界に癒しと再生がもたらされますように。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

へびつかい些談(1)2025年01月02日 15時44分39秒

年明けの話題は自ずと蛇になります。
蛇の星座といえば、うみへび座(Hydra)や、みずへび座(Hydrus)もありますが、海蛇にしろ水蛇にしろ、蛇界ではマイナーな存在なので、ここでは普通にへび座(Serpens)へびつかい座(Ophiuchus)を採り上げます。

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へびつかい座は夏の星座で、さそり座を踏みしめ、ヘルクレスと背中合わせに立っています。今の季節だと、ちょうど近くに太陽があるので、その姿を見ることはできません。

(日本天文学会編『新星座早見・改訂版』(三省堂、1986)より)

上の星座早見に描かれた線画は、星座絵でおなじみの蛇遣いの姿そのままで、星座の中でも、へびつかい座はわりと「名」と「体」が一致している部類でしょう。

(恒星社版『フラムスチード天球図譜』より)

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ところで「蛇遣い」というと、ピーヒョロ笛を吹いて、かごの中からコブラを誘い出す「インドの蛇遣い」を連想します(あれをネタにした東京コミックショーの記憶が私の中では強烈です)。でも、星座の蛇遣いはどうもそんな風でもないし、あの人は大蛇を抱えていったい何をしているのか?

もちろん、星座神話の本をひもとけば、あれは古代ギリシャの医神アスクレピオスが天に昇った姿で、彼は蛇の絡みついた杖を携えていたことから、蛇が一緒に描かれているのだ…と書いてあります。でも星座の蛇遣いは杖も持ってないし、古代のお医者さんだって、薬草を調合したり、瀉血術を施したりするのがメインだったはずで、大蛇を抱えていては治療がしにくかろうと、なんだか釈然としないものを感じます。

(アスクレピオスの石膏像(AD 160)。後期古典期のギリシャ彫刻をローマ時代にコピーしたもの。エピダウロス考古学博物館蔵。ウィキメディアコモンズより)

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そもそも「へびつかい座」という和名が、あんまりよくないんじゃないか…と思います。原語の「Ophiuchus」にしろ、その異名である「Serpentarius」にしろ、本来の語義は「蛇を手にした者(Serpent-handler、Serpent-holder)」であり、何か積極的に蛇を使役するイメージはありません。

(Serpentariusと記されたへびつかい座。BC1世紀の著述家・ヒュギヌスの作とされる『天文詩(Poeticon Astronomicon)』のヴェネチア版刊本(1485)複製より)

明治43年(1910)に出た日本天文学会編纂の『恒星解説』では、「蛇遣(へびつかひ)」となっていて、現行の名称はこの頃定まったものと思いますが、それ以前は「提蛇宮」とも訳されていて(※)、語呂はともかく、意味としては「提蛇座」とした方が原義に忠実という気がします。

(※)明治35年(1902)刊・横山又次郎著『天文講話』。ただし直接参照したのは明治41年(1908)第5版。

(おせちを食べつくした重箱の隅をつつきながら、蛇遣いの話を続けます)

へびつかい些談(2)2025年01月03日 10時16分26秒

星座絵で蛇遣いが抱えているのは、ニシキヘビみたいな大蛇ですが、そもそもヨーロッパに大蛇はいないんじゃないでしょうか。

アスクレピオスの蛇のモデルとされるのが、ヨーロッパ原産のZamenis longissimus、英名Aesculapian snakeで、和名のクスシヘビ(薬師蛇)もアスクレピオスにちなんだ訳語です。

(クスシヘビ。荒俣宏『世界大博物図鑑』第3巻「両生・爬虫類」編より)

属レベルで異なるものの、日本のシマヘビやアオダイショウと同じナミヘビ科に属します。体長は大きいもので2mちょっと、普通は1.1~1.6mぐらいだそうなので、「大蛇」という感じでは全然ないですね(それでもヨーロッパでは最大のヘビだそうです)。

(ローマ時代のAD150年頃、より古いギリシャ彫刻を模して作られたファルネーゼ天球儀【参考LINK】の18世紀における模写図より。出典:Ian Ridpath’s Star Tales: The Farnese Atlas celestial globe

現存する最古の天球儀、「ファルネーゼ天球儀」に刻まれた蛇も、まあ大きいといえば大きいですが、それほど大蛇感はありません。

(紀元前3世紀のアラトスが著した『天象詩(Phaenomena)』のラテン語訳註解を書写した、通称「ライデン・アラテア」(複製)より)

上の9世紀の古写本に描かれた蛇もずいぶん細くて、ある意味リアルな描写だと思いますが、当時のヨーロッパの人がイメージするヘビは、まあこんなものでしょう。
16世紀以降、へび座が大蛇化したのは、大航海時代を迎えて、ヨーロッパの人が実際に大蛇に触れる機会が増えたからかもしれません。

…というような、どうでもいい話を枕に、次回は本題である蛇遣いとアスクレピオスの関係について考えてみます。

(この項、さらに続く)

へびつかい些談(3)2025年01月04日 08時28分17秒

へびつかい座とアスクレピオスの物語はいつ結びついたのでしょう?

(Giuseppe de Rossi による17世紀の天球儀の複製)

こういう考証は文献の森に分け入らないとできないので、素人のよく成し得るところではありませんが、ウィキペディアを眺めただけでも、いくつか有益な情報が得られたので、メモ書きしておきます。

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まず英語版「Ophiuchus」の項【LINK】には、へびつかい座に言及した最古の文献は、アラトス(315/310-240BC)によるもので、アラトスはエウドクソス(BC4世紀の人)の今では失われた著作を参照して、それを書いた…とあります。

アラトスの著作、「ファイノメナ(天象詩)」は、前回の記事にもちらっと出てきましたが、ローマ時代にラテン語訳され、「アラテア(アラトス集)」の名を得て、後世大いに流布しました。伊藤博明氏がそれを邦訳されているので(グロティウス「星座図帳」千葉市立郷土博物館、1993)、へびつかい座に関する箇所の訳文をお借りします。

(上掲・グロティウス「星座図帳」より)

 「膝を折り曲げた、不幸な星座[ヘルクレス座]が頭を上げている方向に、<蛇つかい>[へびつかい座]があるだろう。あなたは、まず最初に広大な両肩を、そして次に残りの部分を見いだすだろう。これらの部分では光が減じているが、他方、両肩は、月の半ばの満月のときでさえ、十分な輝きを保っている。<蛇つかい>の手は光が弱く、その間を滑っていく<蛇>[へび座]は、彼の両手によってつかまれ、彼の胴体に巻きついている。彼の両足は<蠍>[さそり座]に達しているが、左足は<蠍>の背中に押しつけ、右足は宙に浮いている。彼が手で支えている重さは等しくない。というのは、彼は右手で<蛇>のごく一部を持ち、左手でその全体を支え、そしてこの左手によって、<蛇>を<冠>[かんむり座]へ達するまで持ち上げているからである。<蛇>の顎の先端にある髪の毛のような星は、天の<冠>[かんむり座]の下で輝いている。」

これを読んでただちに分かるのは、ここに星座の形や星の配置は書かれているものの、アスクレピオスの名も、それらしい神話物語も一切出てこないことです。まあ、他の星座も全部そうなら、「そういうもの」で済むのですが、『ファイノメナ』にはちゃんと星座神話の書かれた星座もあるし、むしろその方が多いので、なんだか不思議な気がします。

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では…と、今度はギリシャ神話そのものに注目してみます。

古代における最も体系的なギリシア神話集とされる、アポロドーロス『ビブリオテーケー』高津春繁訳による邦題は『ギリシャ神話』、岩波文庫)を見ると、そこにはアポロンと人間の女性との間に生まれたアスクレピオスが、ケンタウルス族のケイロンによって育てられ、医術を学び、ついにはゴルゴンの血を使って死者をよみがえらせる技を編み出したため、ゼウスの忌避に触れ、その雷霆に撃たれて死んだ…という伝承が書かれています。でも、ここには蛇と関連する記述が何もないし、彼がその後、天に上げられて星座になったという肝心のことも書かれていません。

まあアポロドーロスが、星座神話に一切口をつぐんでいるなら分かるのですが、おおぐま座の有名な物語――アルテミスの女従者カリストが、ゼウスによって星に変えられ、「熊」と呼ばれるようになったこと――なんかはちゃんと書かれているので、これまた「うーむ」という感じです。

(長くなるので、ここでいったん記事を割ります。この項つづく)

へびつかい些談(4)2025年01月04日 08時35分01秒

(前回のつづき。今日は2連投です)

では、「蛇遣い=アスクレピオス」説が、最初に登場するのはいつか?

これまた英語版wikipediaを参照すると、ローマ時代のヒュギヌス作とされる『アストロノミカ』(AD2世紀)に、その記述があるといいます。同書はポエティコン・アストロノミコン』の名でも知られますが、 Mark Livingston によるその英訳本(1985)がネットに挙がっていたので【LINK】、それを見てみます。

(ヒュギヌス『ポエティコン・アストロノミコン』、1549年バーゼル版より)

英訳本だと、45頁から48頁にかけて、へびつかい座についての記述があり、あの蛇遣いはいったい誰なのか、諸説が開陳されています。曰く、あれは奸計によって善竜を殺したトラキアの王カルナボンの姿である。曰く、あれはリュディアで大蛇を退治したヘラクレスである。曰く、テッサリアの悪王トリオパスである。いや、トリオパスの息子、英雄ポルバスである…と諸説紛々の中、最後の方に「多くの天文学者は、あれがアスクレピオスだと信じている」と、ようやくお馴染みの説が出てきます。

(Giovanni Cinico による星座図(部分)。羊皮紙に彩飾、1469年、ナポリ。出典:George S. Snyder, MAPS OF THE HEAVENS. Abbeville Press, 1984)

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ここでウィキペディアを離れて、昨年11月に邦訳が出たばかりのマニリウス(マーニーリウス)『アストロノミカ』(竹下哲文訳、講談社学術文庫)を開いてみます。『アストロノミカ』は、AD1世紀に成立した占星術の古典です。

「大きな蜷局(とぐろ)と捩(よじ)った身体で身体に巻きつく蛇を
引き離しているのは、蛇使いと呼ばれる者。
そうして彼は、輪をなして屈曲する胴のもつれを解こうとする。
しかし、蛇はしなやかな頸を反らして振り返り、
緩めた蜷局で掌を受け流して戻ってくる。
両者の力が拮抗しているため、この戦いはいつまでも続くだろう。」

ここにもアスクレピオスの影はなく、むしろ両者は互いに力を尽くして戦っているというのですから、こうなると蛇を悠々と使役するどころの話ではありません。紀元後のローマ世界でも、「蛇遣い=アスクレピオス」は決して自明のことではありませんでした。

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これまでのところを整理すると、古代ギリシャ時代、少なくとも『ファイノメナ』が書かれた紀元前3世紀頃には、既にへびつかい座は空にあったわけですが、その頃はへびつかい座とアスクレピオスの物語は、まだ明瞭に結びついていなかったか、アスクレピオス信仰の強い土地で語られる地方伝承に過ぎず、汎ギリシャ的な共通理解には至ってなかったのではないか…と想像されるのです。「蛇遣い=アスクレピオス」の物語は、その後時間をかけて徐々に整えられ、人口に膾炙したものと思います。

これはへびつかい座に限らず、他の星座神話だって深掘りすれば異説も多いでしょうし、そもそも大元のギリシャ神話が異説だらけなので、プラネタリウムで語られる星座物語を、何か輪郭のかっちり定まったものと考えると、間違うことも多いだろうなあと、改めて思いました。

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ところで、素人考えに屋上屋を架して恐縮ですが、ローマ時代以降「蛇遣い=アスクレピオス」説が力を得たのは、アスクレピオスとローマの固い結びつきによるのかもしれんなあ…とも思いました。これは紀元前後の人であるオウィディウス『変身物語』に出てくるアスクレピオスの物語を読んで、ぼんやり感じたことです。

それは遠い神話時代の物語ではなく、もっと後の話です。
ラティウムの地(イタリア半島中部)に疫病が流行ったとき、ローマ人がエピダウロスからアスクレピオス神を勧請したことがあったのだそうです。ローマを救うためアスクレピオスは大蛇の姿に身を変え、故地・エピダウロスを後にし、イタリア船で威風堂々と進む姿を、オウィディウスは感動的に描いています。以下、中村善也訳 『変身物語(下)』(岩波文庫)より。

 「女も、男も、あらゆるひとびとが、彼を迎えるために、ほうぼうからここへ駆けつけた。トロイアから迎えたウェスタ女神の、その聖火を守る巫女たちも、そのなかにいる。みんなが、歓呼の声をあげて神にあいさつする。快速の船がさかのぼってゆく河の、その両岸には、つぎつぎに祭壇が設けられていて、香がぱちぱちと音をたて、かぐわしい煙であたりをつつんでいた。〔…〕

 はやくも、船は、世界の首府であるローマの都へはいっていた。蛇は、高く背伸びをすると、マストのてっぺんに頸をもたせかけ、それを動かしながら、住むのに適した場所を求めてあたりを見回した。

 〔…〕アポロンの子である蛇は、ローマ人の船を出ると、この島へやって来た。そして、本来の神の姿にもどって、厄災を終わらせた。この神の到来が、都を救ったのだ。」

アスクレピオスはギリシャ生まれの神様ですが、同時にローマを救った英雄にして「おらが神様」でもあり、ローマ人にとって蛇とアスクレピオスは一体不可分でしたから、「あにその雄姿、天空になかるべけんや!」というわけで、空に浮かぶ蛇遣いにアスクレピオスを重ねることは、ローマ人にとっていちばんしっくり来る解釈だったんじゃないでしょうか。

(この項つづく。次回完結予定)

へびつかい些談(5)2025年01月05日 08時43分32秒

へびつかい座とアスクレピオスの結びつきが当初は弱かったとすれば、「じゃあ、あの蛇遣いのそもそもの出自は何だろう?」というのは当然気になるところです。普通に考えると、ギリシャの星座体系の母体であるバビロニアの星座に、その元があったのでは…とは誰しも思うところでしょう。

それを実際に跡付けたのが、『Babylonian Starlore』(2008)を著したGavin Whiteで、彼によるバビロニア星座の復元案が下図です。


左手のさそり座の北、図では向かって右に「Sitting Gods(坐せる神々)」「Standing Gods(立てる神々)」がいて、これが現在のへびつかい座とヘルクレス座の付近に当たります。

私はWhiteの原著は見ていなくて、同書を紹介している近藤二郎氏の『星座神話の起源―古代メソポタミアの星座』(誠文堂新光社、2010)を通じて間接的に知るのみですが、近藤氏の解説によると、以下のような次第だそうです。

 「『ムル・アピン』粘土板文書の星表の「エンリルの道」の21番目と22番目には、「Ekur(エクル)の立てる神々」と「Ekur(エクル)の座す神々」と並んで記されています。この神々とは、元来はヘビの神々を表すものです。イラク中部のエラムとの境界付近に位置したデール(Der)市では、ニラフ(Nirah)というヘビの神が崇拝されていました。ニラフ神は、ニップル市にあったエンリル神殿では、中バビロニア時代(前16世紀初~前1030年ごろ)まで崇拝されていました。このエンリル神殿は、「山の家」の意味を持つエクル(E-kur)という名でよばれていました。つまり「エクルの立てる神々」のエクルは、ニップルにあったエンリル神殿を表していたのです。」
(近藤上掲書pp.93-94。引用に当たって漢数字を算用数字に改めました)

(同p.93掲載の図。キャプションには「図3-11 ヘビの神々。足の先がヘビになっている。アッカド時代の円筒印章の部分。(ブラックとグリーン著、Gods, Demons and Symbols of Ancient Mesopotamia, Austin, 1992)」とあります)

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へびつかい座にも前史があり、メソポタミアの蛇身の神がそこに隠れている…。もちろん、これまた仮説にすぎないとはいえ、こう鮮やかに説かれると、なるほどと頷かざるを得ません。

星座ロマンはギリシャ神話で打ち止めではなく、その向こうにさらなる悠遠の歴史があり、それらをひっくるめて「星座ロマン」なのだと思います。

(この項おわり)

鳥啼き泪涸れ果てぬ2025年01月10日 17時22分56秒

今週から仕事始め。
それと同時に鳥インフルエンザが猛威をふるい、身辺もバタバタです。

白い防疫服に身を包み、若武者に後れをとるまいと現場に赴きましたが、はかばかしい働きもせず、星空の下でいたずらに白い息を吐くばかりでした。やはり老いたる身には過酷な環境です。

殺処分の非情なることは言うまでもありません。
それでも、そこになにがしかの意味があればこそ、いくら鶏を屠っても、あとからあとから患畜が発生して、感染拡大が止まらないとなると、なんだか自分のやっていることに意味があるのかないのか、だんだん不条理な心持ちになってきます。もちろん、全部の鶏を「処分」してしまえば、それ以上の感染拡大はないわけですが、それでは意味がありません。

むしろ殺処分をやめて、斃れる個体は斃れるにまかせ、結果的に生き残った個体を「ウイルス耐性のある個体」として、継代飼養した方がよいのではないか…?
獣医学的に正しい理解かどうかはわかりませんが、そんな考えも頭をかすめます。

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破滅に瀕した世界を描く、楳図かずお氏の『14歳(フォーティーン)』。
あそこに鶏肉工場で生まれた、チキン・ジョージという鶏頭人身の天才科学者が登場します。いかにも異常なキャラクターですが、鶏とヒトの関係が極限まで歪んだ先に、彼は立っているのでしょう。


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殺処分の現場では、大地を離れた鶏たちの命が、幾筋も煙のように連なって空へと昇っていく様が、心の目にぼんやりと見えました。今宵は私も線香を一本焚くことにします。


痛!2025年01月12日 12時46分01秒

今回の労役の成果として、「座骨神経痛」をお土産にもらいました。
まあ前から症状はあって、今回も痛み止めを飲みながら作業していたのですが、帰ってきたら痛みが増悪し、椅子に座っているとお尻がずきずき痛むし、かといって立っていると今度は腰が痛くなるので、今は膝立ちでこの文章を書いています。たぶん傍から見ると、馬鹿っぽい姿に見えることでしょう。

(全高60cmとかわいいサイズの人体模型。大正頃?の日本製)

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しかし、痛みというのは実に不思議なものです。
痛みは不快な経験には違いありませんが、この「不快」というのが、昔から私にとっては大きな謎でした。

たとえば現代のロボットには、既に視覚と聴覚、さらには触覚も組み込まれています。将来的には味覚や嗅覚もそうなるでしょう。その先には当然、痛覚も…となるはずです。そのときロボット(AI)は、痛覚刺激を避け、痛覚刺激を与えられると、苦痛を表現するようプログラムされるでしょうが、彼/彼女は単にヒトの痛み反応をシミュレートしているだけで、決してヒトと同じように「不快」を経験しているわけではない…という議論は、当然起こるでしょう。

これは哲学の分野で古くから議論されている「感覚質(クオリア)」の論点で、その先には当然「意識とは何か」という問いがあり、『攻殻機動隊』のキーコンセプトである「ゴースト」の概念にもつながってきます。

まあ、この点はシンプルに「他の人間も“私と同じような”意識を持ち、感覚質を経験しているかどうかは、永遠に分からないのだから、ロボットだけ除け者にする必要はない。ロボットが痛そうにしていたら、それはすなわち“苦痛を感じている”ということだ」と考えていいのかもしれません。

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この問題は、古今東西の賢人が長年にわたって侃々諤々の議論をしても、クリアな結論はいまだないぐらい難しい問題ですが、そういう難しい問題が、今まさに私の肉体を舞台に展開されており、私の臀部は私の脳に対して「痛みとは何か?」「痛みはいかにして不快経験たりうるか?」と問いかけているのです。実に不思議なことであり、ある意味感動的な光景だとも思います。

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痛みに苦しみながら、ネットを見ていて以下の論文を見つけました。
それによると、瞑想に入ったヨガマスターは、普段どおり会話できる一方、痛覚が消失し、それは痛覚関連脳磁図の所見からも確認されたそうです(瞑想時以外には、一般健常人と同様の脳磁図所見だった由)。

■荻野祐一 他
 『痛みの感情側面と痛覚認知』
 日本ペインクリニック学会誌、Vol.15 No.1 (2008), pp.1-6.

こういうのを見ると、刺激によって引き起こされる「痛覚」と、それに伴う「不快経験」は分離可能であり、それを意識的にコントロールすることもできそうな気がしてきて、大いに希望が持てます。


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痛みはあくまでも生体のために存在するのであって、生体が痛みに圧倒され、それに遠慮するようでは、たしかに本末転倒な気はします。

ポスト・アポカリプスに希望の灯あり2025年01月14日 05時58分21秒

文明社会が滅び、荒廃した地球。
あのカタストロフを辛くも生き延び、荒野をさまようひとりの男。
男はある日、彼と同じように災厄を生き延びた人々が小さなコミュニティを作り、ささやかな「文明の灯」を守り続けているのを見い出した。信じられない思いでゲートを叩く男の前に、おごそかに現れたコミュニティの長(おさ)。それはかつて男が「師」と仰いだ人物だった…

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そんなSFチックな場面が現実にあるとは!!

いつものようにネット空間を徘徊していたとき、ふとFacebook上に「Vintage Astronomy Books」というグループが存在するのを見つけました。以下はその冒頭に書かれたグループ紹介。

 「ここは、天文古書とその著者、天文エフェメラや思い出の品にまつわるストーリー・情報・画像を共有し、これら過去の魅力的な品々の収集と保存について語り合うことに特化したフォーラムです。興味深い天文古書がオークションにかけられたり、売りに出ている場合、メンバーが該当ページにリンクを張ることもありますが、このグループは売買の場ではないことに留意してください。また上述のとおり、(天文古書と関連がある場合を除いて)新刊書や、このグループの趣旨とは関係のない、一般的な天文学の話題について投稿する場所でもありません。」

なんと天文古玩的な場所でしょう!
このグループが作られたのは2019年2月、現在のメンバーは2,656人です。
そして、このグループのモデレーター(管理者)の名前を見たとき、私は「嗚呼!」と深く嘆息したのでした。

その名は Richard Sanderson 氏
氏は以前、米マサチューセッツのスプリングフィールド博物館で学芸員をされていた方ですが、必ずしも天文の世界で有名な方とは言えません。しかし、サンダーソン氏は紛れもなく私の「師」であり、この「天文古玩」の生みの親なのです。

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このブログがスタートしたのは、2006年1月23日。
その開設直後に、私は「天文古玩の世界への招待」という連載記事を書きました。いや、書いたというか、別の方が書いたコラムを要約して翻訳しました。

それこそサンダーソン氏の文章であり、原題を『Relics of Astronomy's Past(過ぎ去りし天文学の形見)』といいます(以下、画像は過去記事より再掲)。


■天文古玩の世界への招待(1)
■天文古玩の世界への招待(2)…望遠鏡
■天文古玩の世界への招待(3)…オーラリー、天球儀
■天文古玩の世界への招待(4)…古書
■天文古玩の世界への招待(5)…星座早見盤、絵葉書、シガレットカード
■天文古玩の世界への招待(6)


連載を終えるにあたり、自分はこうも書きました。

 「以上、リチャード・サンダーソン氏の天文コラムをご紹介しました。
 真鍮製の望遠鏡、オーラリー、天球儀、アストロラーベ、古書、星座早見盤、絵葉書、シガレットカードなど、何とも魅力的なアイテムの数々です。
 観望機材にかけるお金の一部でも、こうしたモノに回せば、天文趣味もまた別の滋味を発揮するのではないでしょうか?」

私のその後の営みは、サンダーソン氏の描いた海図に従った航海に他なりません。私はサンダーソン氏という巨人の肩に乗った小人に過ぎず、このブログもサンダーソン氏のミミックに過ぎないのです。ですから、上で書いた「なんと天文古玩的な場所でしょう!」というのは真逆で、この天文古玩こそ「なんとサンダーソン氏的な場所でしょう!」と言わないといけないのでした。

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その後、サンダーソン氏とネット上で再会したのは2014年のことで、その折のことは以下の記事に書きました。

■天文古書の黄昏(1)
■天文古書の黄昏(2)


天文古書で有名な名物本屋の廃業に関して、サンダーソン氏が天文学史のメーリングリストに投稿した内容を紹介するものでしたが、天文古書の世界に弔鐘が鳴らされたようで、私もひどく暗い気持ちになったものです。

サンダーソン氏が件のMLにその後も投稿されることがあったのかどうか、少なくとも私は見た記憶がないので、氏のその後の動向はまったく分からず、おそらくサンダーソン氏の趣味の世界にも黄昏がやってきたのだろう…と勝手に思い込んでいました。

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そうした長い時の流れを経て、冒頭の出来事に戻るわけです。
最初に書いたことが決して戯言でないことが、これでお分かりいただけるでしょう。

私はFacebookを使ったことがなくて、使い方もよく分らないんですが、何はさておきグループメンバーに加えていただきました。このコミュニティが永く安住の地になるのか、再び荒野にさまよい出ることになるのか、映画のプロット的には後者ということになるのですが、これは現実世界の出来事なので、そうはならないかもしれません。

尽形寿(じんぎょうじゅ)…この身尽きるまで2025年01月18日 09時03分43秒

坐骨神経痛に苦しんでいました。

いわゆる神経痛(神経障害性疼痛)と呼ばれるものの代表が、坐骨、肋間、三叉の3種で、特に最後の三叉神経痛の痛さは耐え難いものである…と聞いていました(痛さのあまり自殺した人がいるとかいないとか)。

それに比べればまだしもですが、坐骨神経痛の痛みも相当なもので、ときには思わずうめき声が出るような激痛に襲われ、夜も眠れないような状態に陥っていました。

神経痛というのは、(大抵の場合)命を損なうことはないにしろ、QOLを大きく低下させるものであることが、経験してみて大変よく分りました。こうしてブログの趣旨を離れて、あそこが痛いだの、ここが痛いだのと、健康記事めいたものを書かざるを得ないことも、QOL低下の一端だと思います。

それでも、今は少しずつ薄紙をはぐように痛みがおさまってきているような気がします。このまま沈静化してくれることを心底願います。

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それにしても、ここに来て睡眠時無呼吸、腰痛、坐骨神経痛と来て、先週は緑内障の診断を受けました。右目の視野がだいぶ欠損していると言われて、困ったなあと思いましたが、とりあえず日常生活には支障がないので、これから薬で進行を抑えていくことになります。

もう身体中ガタが来ているんですが、この感じ、何かに似ているぞ…と、しばらく考えて「ああ、あれだ」と思いました。家電製品が壊れるとき、一斉に壊れるというやつです。同じ時期に買った家電製品はだいたい同じ時期に寿命が来て、買いなおすたびにそれがまたシンクロして…みたいなことだと思いますが、私の身体の部品も、あちこち一斉に寿命を迎えつつあるのでしょう。こちらの方は買いなおすわけにもいかないし、もう諦めて受け容れるしかないですね。

まあ、昆虫なら60世代も繰り返す期間、たった一つの肉体で乗り切ってきたのですから、それもやむを得ません。そしてヒトの60世代を超えて生きる仙人とかヴァンパイアだって、きっと最後は同じような嘆きを漏らすんじゃないでしょうか。

人に生老病死あれば、天人にも五衰あり。

(この世に生れ、育ち、老い、そして死んでいく人の一生。それもまた現象世界で永遠に繰り返される輪廻の一コマであり、そこから速やかに解脱すべきことを解く「熊野観心十界曼荼羅」(部分))

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普通の記事も少しずつ再開します。