銅製のゾディアック2022年11月02日 06時05分23秒

この前、マックノート氏の星図カタログを紹介しました。
あそこに載っている本で、私が持っていない本は多いですが、反対に私が持っている本で、あそこに載っていないものもまた多いです。

たとえば、関根寿雄氏の美しい星座版画集、『星宿海』
あれも英語圏で出版されていたら、きっとマックノート氏のお眼鏡にかなったんだろうなあ…と思いました。『星宿海』については、過去2回に分けて記事にしたので、リンクしておきます。

関根寿雄作『星宿海』 http://mononoke.asablo.jp/blog/2013/06/10/6851030

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その関根寿雄氏には、『黄道十二宮』という、これまた変わった本があります。

(左:外箱、右:本体。本体サイズは10×7.5cm)

■関根寿雄(造本・版画) 「黄道十二宮」
 私家版、1978年 

まず目を惹くのは、その装丁です。


著者自装によるその表紙は、星雲や太陽を思わせる形象を切り抜いた銅板の貼り合わせによって出来ており、表紙の表裏がネガとポジになっています。


関根氏は版画家として銅板の扱いには慣れていたでしょうが、かといって金工作家でもないので、その細工はどちらかといえば「手すさび」という感じ受けます。が、そこに素朴な面白さもあります。

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ただし、『星宿海』とは違って、こちらは星図集ではありません。



ご覧のように、黄道星座のシンボル絵集です。そして多色木版の『星宿海』に対して、こちらはモノクロの銅版なので、受ける感じもずいぶん違います。

(扉)

(奥付)

当時、100部限定で作られ、手元にあるのは通番98。
内容は銅版画16葉と木版3葉で、銅版16葉というのは、十二宮が各1葉、十二宮のシンボルから成る円環図、扉、奥付、そして蔵書票を加えて16葉です。

(銅版作品の間に挿入されている木版画は、いずれも天体をイメージしたらしい作品)

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掌サイズのオブジェ本。
版画作品としての完成度という点では、正直注文をつけたい部分もなくはないです。
しかし、その小さな扉の向こうに、広大な宇宙と人間のイマジネーションの歴史が詰まっている…というのが、何よりもこの本の見どころでしょう。


七宝十二星座2022年08月08日 11時34分19秒

あまり話の流れに必然性がありませんが、暇にあかせて、日ごろ登場する機会のない品を載せます。

(直径20センチ)

いつもは物陰に隠れている七宝(エナメル)の絵皿です。
5年前にふと見つけたもので、売ってくれたのはカナダのバンクーバー島の人ですから、まあ「北の海」つながりではあるかもしれません。


織部調というか、九谷調というか、緑を中心としたその美しい色合いに惹かれたのですが、いまだに「きれい」という以上の使い道はなくて、そもそもが「飾り皿」なので、飾る以外の用途は、最初から無いのかもしれません。

(皿は全体が金属製で、飾るためのフックが付いています。)

売り手は「エスニック」とか「ミッドセンチュリー」をキーワードにしていました。このフォークアートっぽい感じは、私の記憶にも触れるものがあって、あるいは1960~70年代ぐらいのものかもしれません。


周囲のうろこ模様は、内側から白・緑・黄で塗り分ける予定だったのでしょう。でも、途中から釉薬が塗られず空白のままになっています。よく見ると、星座の絵柄もところどころそうなっていて、途中で面倒臭くなったのか、色彩に変化を出したかったのか、正確な理由は不明ですが、そのいかにも気まぐれな感じが、ものぐさな私の共感を呼びます。


船と星2022年02月26日 08時59分16秒

染付の話ばかりで何ですが、ついでなのでもう少し話を続けます。

例の鬼と星と五経の図。似たような絵柄が、皿やら碗やら、あちこちに登場するということは、あれは一種の吉祥文様として描かれ、受容されたのだろう…ということを、前回の記事のコメント欄で書きました。

日用の器に登場するのは、たいていは松竹梅のようなおめでたい絵か、あるいは前々回の「赤壁賦」のように、風雅な画題のどちらかで、そこには「佳図」の意識が明瞭です。(そこからひるがえって、あれは「鬼」ではなくて、水と実りをもたらす「雷様」じゃないか…というやりとりもさせていただきました。)

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絵付けに星が登場する場合も、やっぱり縁起の良さとか、風流な景物という意味合いで描き込まれているはずで、それがやや明瞭な例を挙げます。

(径17.5cm、高さ8cm)

(底面)

時代ははっきりしませんが、幕末頃のものでしょうか。
器形としては鉢と呼ぶべき品で、見込みには旗をなびかせて堂々と進む船と、空に輝く北斗が描かれています。あまり柄杓の形には見えませんが、古図の北斗で、これぐらいの形のくずれは普通で、七星ではなく八星なのは、輔星のアルコルを加えているからでしょう。

(側面に描かれた蝙蝠。「蝠」が「福」に通じるとかで、これまた代表的な吉祥図)

北斗七星は妙見菩薩の象徴であり、北極星と共に道教的宇宙における至高の存在としてあつく崇敬されました。さらに時刻と方位を知る目印として、実生活でも重視された星です。

ということは、これは航海の無事を祈り、平穏裡に航海が成就したことを祝う絵柄だと思います。まあ、実際にこれが船乗りの家で使われる必要はなくて、「順風満帆」な「おめでたい絵」というメッセージが使い手に伝われば、作り手の意図は十分成功したことになるでしょう。

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星に願いを…といえばディズニーの歌のタイトルですが、古今東西その思いは共通しています。ウクライナでも、多くの人が祈るような気持ちで星を見上げていることでしょう。そして多くの国でもそのはずです。

星の豆皿を手に文人を気取る2022年02月20日 09時57分33秒

気分を変えて、ちょっと風雅な話題です。
天文和骨董を探しているときに、こういう染付の豆皿を見つけました。
時代的には江戸中~後期のものと思います。

(径8.5cm)

簡略化された絵柄ですが、目を凝らすと、船で川遊びをしている上に星が出ている場面のようです。しかし、それだけ分かっても、なんだかモヤモヤした気分が続きました。

(裏面)

考えてみると、こういう品は絵柄が分かっただけでは不十分で、その文化史的背景が分かって、初めてストンと肚(はら)に落ちるものです。(例えば、“お爺さんとお婆さんが掃除をしてる絵だなあ”…と思っても、「高砂」の伝承を知らなければ、その絵を十分理解したとは言えないでしょう。)

件の皿もしばらくそんな状態でしたが、あれこれ検索しているうちに、じきにその正体が知れました。これは「赤壁賦(せきへきのふ)」をテーマにした絵だそうです。

「赤壁」とは、三国志に出てくる「赤壁の戦い」の舞台。すなわち西暦208年に、劉備と孫権の連合軍が、長江(揚子江)中流域で曹操軍を迎え撃ち、劣勢を跳ね返して勝利を収めた故地です。

そして「赤壁賦」の方は、それから800年以上も経ってから――中国は実に歴史が長いです――、宋代の文人・蘇軾(そしょく、1037-1101)が、赤壁の地で舟遊びをした際に詠んだ詩の題名です。全体は、旧暦7月16日に詠んだ前編と、同じく10月15日に詠んだ後編から成ります。

その前編の一節を、マナペディア【LINK】から引用させていただきます。
(以下、原文読み下し現代語訳の順)

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壬戌之秋、七月既望、蘇子与客泛舟、遊於赤壁之下。 
清風徐来、水波不興。 
挙酒属客、誦明月之詩、歌窈窕之章。 
少焉、月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。 
白露横江、水光接天。

壬戌(じんじゅつ)の秋、七月既望(きぼう)、蘇子(そし)客と舟を泛(うか)べて、赤壁の下に遊ぶ。 
清風徐(おもむろ)に来たりて、水波興(おこ)らず。 
酒を挙げて客に属(すす)め、明月の詩を誦(しょう)し、窈窕(ようちょう)の章を歌ふ。 
少焉(しばらく)にして、月東山の上に出で、斗牛の間に徘徊す。 
白露江に横たはり、水光天に接す。

1082年の秋、7月16日、私は客人とともに舟を浮かべて赤壁の辺りで遊びました。 
すがすがしい風がゆっくりと吹いてきましたが、水面には波がたっていません。 
酒をあげて客人に勧め、「名月」の詩を唱えて、「窈窕」の詩を歌いました。 
しばらくして、月が東の山の上に出て、射手座と山羊座の間を動いていきます。 
きらきらと光る露が川面に広がり、水面の輝きは(水平線の彼方で)天と接しています。
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まさに清遊。当時の蘇軾は政争の果てに、左遷というか、事実上流罪の身でしたが、それだけに気の置けない友人との交流や、偽りのない自然の美しさに、一層感じるものがあったのでしょう。

ここで、「斗牛の間」というのが、天文史的に興味深いです。
これは、中国天文学でいう二十八宿のうちの「斗宿」「牛宿」を指します。二十八宿は天空全体を経度(赤経)に基づいて28に区分する座標システムで、これに従うと、月は毎日1つずつ隣の宿へと移動し、28日間でぐるっと天球を一周する計算になります。そして、これを黄道十二星座に当てはめると、今宵の月はいて座とやぎ座の間を移動中だ…と蘇軾は詠っているわけです。

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この皿は雑器の類でしょうけれど、そんなところにまでこうした絵柄が登場するところに、江戸の文人趣味や中国趣味――いわば「江戸のハイカラ趣味」――の隆盛をうかがうことができます。「赤壁賦」は古来愛唱されたので、当時の識字層は、こうした器物を見ても、それが何なのかすぐに分かったのでしょう。

やむを得ないこととはいえ、こういう素養は、現代の我々にはうまく引き継がれませんでした。かくいう私にしても、最初はポカーンとしていたので、大いに恥じています。でも、天文和骨董というごく狭い切り口からでもその一端を覗き見て、文人の気分を味わえれば、それはそれで意味があることと思います。

星めぐりの青い夜2020年08月18日 05時45分02秒

天文アンティークの世界に分け入って、美しいモノや、変わったモノをずいぶん見てきましたが、その中でも、これはちょっと<別格>という品があります。
“これさえあれば、生きながらえることができる―。”
何だか大げさですが、確かにそう思えるような品がいくつかあるのです。

たとえば、この古い幻燈スライド。


木枠に取り付けたハンドルを回すと、ガラスに描かれた絵柄がくるくる回る「メカニカル・ランタン」の一種で、19世紀後半にイギリスで売り出されたものです。


メーカーはロンドンの John Browning 社。
これを光にかざせば、青く輝く夜空に一面の星が広がります。


その主役は大熊と小熊。


北斗七星を基準に、小熊のしっぽの先に光る北極星を探すという、星座学習の基礎を説くものですが、その絵柄の何と繊細なことか。森の上に悠然と浮かぶ熊もいいし、木立ちの描写も美しいです。そして、空の青と星の白の爽やかなコントラスト。いかにも星ごころに満ちています。


そして、ハンドルを回せば星がゆっくりと回転し、熊たちも空の散歩を始めるのです。微笑ましくもあり、なんだか切ないような気もします。

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下界に暮らすことは辛いことです。でも、こういう品に心を慰め、頭上を振り仰げば、もうしばらくは頑張れそうです。

星座絵の系譜(6)…鯨と蟹は星図の素性を語る(下)2020年07月24日 10時25分55秒

(前回のつづき。今日は2連投です。)

しかし、16世紀のくじら座が「怪魚型」ばかりで占められていたとすると、バイエルはどこから「海獣型」を持ってきたのか?彼の異才が、オリジナルな像を作り上げたのか?…といえば、やっぱりお手本はありました。

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それは、1600年にオランダのフーゴー・グロティウス(Hugo Grotius、1583-1645)が出版した『アラテア集成(Syntagma Arateorum)』で、これは非常に古い歴史的伝統を負った本です。

題名の「アラテア」とは、紀元前3世紀のギリシャの詩人、アラトスの名に由来します。アラトスが詠んだ『天象詩(ファイノメナ)』は、ローマ時代に入ってたびたびラテン語訳され、そこに注釈が施され、愛読されました。それらの総称が「アラテア」――「アラトスに由来するもの」の意――であり、一連のアラテアをグロティウスがさらに校訂・編纂したのが『アラテア集成』です。(以上は千葉市立郷土博物館発行『グロティウスの星座図帳』所収、伊藤博明氏の「「グロティウスの星座図帳」について」を参照しました。)

注目すべきは、そこに9世紀に遡ると推定される『アラテア』の古写本(現在はライデン大学が所蔵し、「ライデン・アラテア」と呼ばれます)から採った星座絵が、銅版画で翻刻されていることです。『アラテア集成』所収の図と、ライデン・アラテアの原図を以下に挙げます。

(1600年、グロティウス『アラテア集成』より)

(9世紀の写本、「ライデン・アラテア」より)

いかにも奇怪な絵です。そこに添えられた星座名は、かに座は普通に「Cancer」ですが、くじら座のほうは、現行の「Cetus」ではなく「Pistris」となっています。ピストリスとは、本来、鯨ではなくて鮫(サメ)を指すらしいのですが、サメにも全然見えないですね。海獣というより、まさに「怪獣」です。

そして、これがバイエルに衝撃とインスピレーションを与え、3年後に「海獣型」のくじら座が生まれたのだろうと想像します。

(画像再掲。1603年、バイエル『ウラノメトリア』)

さすがに「首の長い狼」的上半身だと、怪魚型との乖離が大きすぎるので、バイエルなりにドラゴン的な造形で、バランスをとろうとしたんじゃないでしょうか。(哺乳類と魚類のキメラ像としては、すでに「やぎ座」があるので、絵的に面白くない…というのもあったかもしれません。)

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こうして俯瞰すると、海獣型のくじら座をポピュラーにしたのはバイエルの功績であり、直接それを模倣したわけではないにしろ、海獣型を採用したフラムスティードは、やっぱりその影響下にあります。そして19世紀の『ウラニアの鏡』からスタートした星座絵のルーツ探しの旅は、一気に中世前半にまで遡り、おそらく古代にまでその根は伸びているでしょう。文化の伝播とは、かくも悠遠なものです。

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最後におまけ。ヘヴェリウスやヨアン・ブラウの「くじら」の鼻先が、マレーバクみたいにとがっているのが気になったのですが、あれにも理由がありそうです。

(左:ヘヴェリウス、右:ヨアン:ブラウ)

下は紀元前1世紀、ローマ時代の著述家ヒュギヌスによる『天文詩(Poeticon Astronomicon)』の刊本に載った挿図です。

(ヒュギヌス『天文詩』、1485年ベネチア版)

(同、1549年バーゼル版)

バーゼル版の方は『アラテア』と同様、「Pistrix(サメ)」となっていて、こちらは確かにサメに見えます。そして、デューラーの「怪魚型」のルーツも、おそらくはこうした刊本や、その元となった古写本でしょうし、この象の鼻のようにとがった口先が、後に海獣型に採り入れられて、あの不思議な鼻になったのだろうと推測します。

(この項おわり)

星座絵の系譜(5)…鯨と蟹は星図の素性を語る(上)2020年07月24日 10時15分18秒

1729年に出たフラムスティードの『天球図譜』。

(画像再掲。1766年、フォルタン版・フラムスティード『天球図譜』)

その星座絵の素性を、かに座とくじら座を手掛かりに探っていきます。
昨日も触れたように、ビッグフォーの残る2人では、この両星座がどうなっているか。まずはヘヴェリウスから。

(1687年、ヘヴェリウス『ソビエスキの蒼穹―ウラノグラフィア』)

投影法の違いで、向きが反転していますが、くじら座の方は「海獣型」で、フラムスティードとの類似が認められます。しかし、かに座の方は「ザリガニ型」で、タイプが異なります。もちろん、星座絵を描く際、「丸パクリ」ではなく、複数の資料を参照しながら、「いいとこどり」をする場合もあったでしょうから、かに座のスタイルが違うからといって、ヘヴェリウスを手本にしなかったことにはなりません。

しかしこの場合、ヘヴェリウスのくじら座そのものが、彼のオリジナルではなく、オランダの有名な地図製作者、ヨアン・ブラウ(Joan Blaeu、1596-1673)のコピーであり、ブラウの天球図では、かに座も「カニ型」ですから、実はブラウこそが、フラムスティードの「仏」だった可能性があります。

(1648年、ヨアン・ブラウ天球図)

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では、ビッグフォーの最後の一人、バイエルはどうかというと、こんな絵柄です。

(1603年、バイエル『ウラノメトリア』)

うーん、これはどうでしょう。かに座は問題ないですが、くじら座の方は海獣は海獣でも、ドラゴンのような首長の姿で、フラムスティード(あるいはブラウやヘヴェリウス)のくじら座とは、異質な感じがします。ただ、フラムスティードが、バイエルを参照したのは確かですから、影響がなかったとも言い切れません。この点は、後ほどもう一度振り返ってみます。

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さて、くじら座の表現として、これまでのところは「海獣型」ばかり登場していますが、バイエル以前の16世紀の星図になると、対照的にほんとんど「怪魚型」ばかりです。例えば、座標目盛が入った、近代的な意味での「星図」は、画家のデューラーが、1515年に出版したものが最初といわれますが、その星座絵が以下です。

(1515年、デューラー天球図)

その姿は「ザリガニ型」と「怪魚型」で、このデューラーの図は、出版物という形をとったせいで、後続の星図に非常に大きな影響を与えました。以下、その系譜をたどってみます。

(1540年、アピアヌス天球図/『皇帝天文学』所収。ただし、かに座は「カニ型」)

(1541年、ヨハネス・ホンター天球図)

(1590年、トーマス・フッド天球図)

(1596年、ジョン・ブラグレイヴ天球図/『Astrolabium Uranicum Generale』所収)

そして、この怪魚のイメージは、上記ヨアン・ブラウのお父さんである、ウィレム・ブラウ(Willem Janszoon Blaeu、1571-1638)によって決定版が作られました。

(1598年、ウィレム・ブラウ制作のゴア(天球儀原図))

この恐ろしい姿をしたくじら座は、あのセラリウスの極美の天体図集『大宇宙の調和(Harmonia Macrocosmica)』にも採り入れられ、海獣型と拮抗して、後の星図にも登場し続けたのです。

(1655年、ヴィルヘルム・シッカード天球図)

(1661年、アンドレアス・セラリウス天球図/『大宇宙の調和』所収)

(1790年、ジェームズ・バーロウ天球図)

(長くなったので、ここで記事を割ります)

星座絵の系譜(4)…フラムスティードのさらにその先へ2020年07月23日 20時25分11秒

星座絵は特殊なものですから、お手本なしに描くことは難しいでしょう。とすれば、フラムスティードの星座絵は、何を参考にして描かれたのか?まあ、描いたのはフラムスティード本人ではなくて絵師ですが、絵師がお手本にしたものが、きっとどこかにあるはずです。

フラムスティードの前には、「ビッグフォー」に属する2人の巨人、すなわちバイエルヘヴェリウスがいますから、その直接・間接の影響は、真っ先に検討しなければなりません。また、星座絵のアーティスティックな表現にかけては、天球儀に一日の長がありますから、そちらへの目配せも必要です。でも、まずは先人の言に耳を傾けて、ここでもデボラ・ワーナー氏の『The Sky Explored』(1979)を参照してみます(以下、適当訳)。

 「1696年までに、フラムスティードは自身の言葉によれば、『星座絵をデザインするため、画才に富む者を求めていた。何となれば、ほぼ100年になろうかという昔、ティコ〔・ブラーエ〕の時代以降、初めてそれを絵にしたバイエルは、あらゆる星表がそれを訳し、それに従ってきたところの、かのプトレマイオスの記述とは、明らかに矛盾する形で描いていたし、他のすべての星図作者はバイエルを所持しているからだ。

2,3人の計算役を我が身に授けてくれた天祐は、また才覚のある、だが病弱な若者(ウェストン氏)を私の元に送り届け、彼はこの仕事に没頭した。私の命により、彼は星座図を見事に描いた。ある優れたデザイナーの述べたところによると、ウェストン氏は何も指図を受けることなく、下図を完璧に描き上げたそうだ。』

トーマス・ウェストンによる星図は、実際に使われることはなかったが、その後の版の基礎となったことは間違いない。1703年から4年にかけて、フラムスティードは星図のうちの幾枚かを描き直そうと思い、ウェストンがそれを準備し、P.ヴァンサム(『卓越した、だが高齢の製図家』)が星座を描いた。」(p.82)

こうして準備が進められた星図出版ですが、ニュートンやハレーとのいさかいのせいで、実際の出版は遅れに遅れました。『天球図譜』が最終的に陽の目を見たのは1729年、フラムスティードの没後10年目のことです。この間、

 「フラムスティードの星表と草稿図に基づき、アブラハム・シャープが座標を描き、恒星をプロットした。その上にジェームズ・ソーンヒル卿が(そして彼が疲れると、他の逸名画家が)星座絵を描いた。最後に、あまり腕の良くないロンドンとアムステルダムの彫師に銅版を彫らせ――というのも、セネックス〔=当時一流の地図製作者〕は、ハレーの親友だったため、その任にふさわしくないと考えられたのだ――、星図印刷の首尾が整った。」(同)

フラムスティードがバイエルを意識し、星座絵の面でも、それを凌駕する作品を狙っていたことが分かります。ただ、結局のところ、彼が何を手本にしたかは不明のままで、フラムスティード星図のそのまた「仏」探しは、実物に当って考えるしかなさそうです。

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AがBを模倣したかどうかを判断するには、白鳥のように変異に乏しく、実物を写せば自ずと似てしまうものを比べても、あまり役に立ちません。はくちょう座をたどる旅は、いったん打ち切りです。

代わりに、「ありふれているけれども、その姿が多様で、いろいろな表現を許容するもの」とか、「空想上の存在で、実物を見て描くことが不可能なもの」を採り上げることにします。ここで指標とするのは、「かに座」「くじら座」です(鯨は現実の生物ですが、当時はたぶんに空想的存在でした)。いずれも、図像学的にしばしば問題になる星座で、前者については「カニ型 vs.ザリガニ型」、後者については「怪魚型 vs.海獣型」の間で、長いこと表現が揺れてきました。

改めてジェミーソン『星図帳』(『ウラニアの鏡』もほぼ同じ)、ボーデ『ウラノグラフィア』、フォルタン版『天球図譜』(フラムスティードの原版もほぼ同じ)で、その姿を確認しておきます。(以下、星図の縮尺は不同です。)

(1822年、ジェミーソン『星図帳』)

(1801年、ボーデ『ウラノグラフィア』)

(1766年、フォルタン版・フラムスティード『天球図譜』)

いずれも「カニ型」と「海獣型」で、そのポーズからも、すべて同一系統に属するものと判断できます。「え、本当?ずいぶん違うんじゃないの?」と、思われるかもしれませんが、この後、いろいろなカニとクジラを見ていただくと、「なるほど、似ているね」と思っていただけるでしょう。

さて問題は、フラムスティードのさらにその先がどうなっているか?です。

(この項さらにつづく)

星座スタンプ2020年06月13日 08時34分36秒



星座にちなむ小物というと、こんなものを見つけました。
黄道12星座をデザインした、天球儀風の印刷ブロックです。


小物といっても、たてよこ8cm近くあって、印刷ブロックとしては結構大きいです。
おそらく1920~30年代の品。売ってくれたペンシルベニアの業者さんは、廃業した印刷屋の在庫をごそっと買い取ったらしく、他にもインクまみれの古い印刷ブロックを、たくさん売りに出していました。


刷り上がりのイメージ(左右とネガポジを反転)。

気になるのは、これを「何」に使ったかです。
もちろん印刷するために使ったわけですが、その刷ったものの用途は、はたして何であったか? まあ、普通に本の挿絵かもしれないんですが、ひょっとしたら、星占い用のシートを印刷するのに使ったのかな?…という想像もしています。


以前登場した、ホロスコープ用印刷ブロック【元記事】と似た感じを受けるからです。
(右側に写っているのがそれ。以前、記事を書いたときは、占星術師が手元でポンポンと捺して使うのだと考えましたが、これも町の印刷屋さんに一気に刷ってもらった方が便利そうです。)

上の想像の当否はしばし脇に置いて、なかなか素朴で愛らしい品です。

星座ボタン2020年06月12日 20時41分46秒



星座の範囲がカクカク定まって、科学がずんずん先に進んでも、人々の星座観は旧来のイメージを引きずっていて、その辺は今でもあまり変わりがなさそうです。(そもそも星座という存在が古代の残滓なので、古めかしくて当然です。)


上の写真に写っているのは、星座絵のガラスボタンです(直径2㎝)。
売ってくれたのはカリフォルニアの人ですが、ガラスボタンといえばチェコなので、元はチェコ製かもしれません。黒いプレスガラスに手彩色で仕上げてあります。

(ボタンの背面)

時代はよく分かりません。1930年代かもしれないし、1950年代と言われれば、そんな気もします。20世紀前半~半ばのものと言えば、大体当たっているでしょう。

それにしてもこのボタン、遠くから見たら何だかよく分からないし、近くから見てもやっぱり分かりません。至近距離でじっと見つめて、初めて星座の絵柄が分かるので、こうなると江戸小紋の美学みたいなものです。西洋の人も、こういうのを「粋」と思うんですかね。