草下英明と宮沢賢治(4)2024年06月29日 19時21分46秒



草下の第一著書『宮沢賢治と星』(昭和28年、1953)に収められた文章を、発表順に並べ替えると以下のようになります(初出情報は1975年に出た改訂新版による。なお、「10. 総天然色映画…」は、「当時の時点での個人的な感想で、研究というものではなく、今考えても気恥ずかしい文章」という理由で、改訂新版からは削除されています)。


1. 『銀河鉄道の夜』の星
  「農民芸術」第4集、昭和22年9月(昭和28年5月改稿)
2. 賢治と日本の星
  「農民芸術」第6集、昭和23年3月
3. 星をどのくらいえがいたか
  「四次元」第27号、昭和27年3月
4. 賢治の星の表現について
  「新詩人」第7巻4号、昭和27年4月
5. 賢治の天文知識について
  「四次元」第29号、昭和27年6月
6. 賢治の読んだ天文書
  「四次元」第30号、昭和27年7月
7. 三日星とプレシオスの鎖
  「四次元」第31号、昭和27年8月
8. 賢治とマラルメを結ぶもの
  「四次元」第36号、昭和28年2月
9. 県技師の雲に対するステートメント
  「四次元」第42号、昭和28年5月
10. 総天然色映画『銀河鉄道の夜』
  未発表/書き下ろし
11. 宮澤賢治の作品に現れた星
  未発表/書き下ろし

年次を見ると、昭和23年(1948)から27年(1952)まで、少しブランクがあります。
前回述べたように、草下は昭和23年(1948)8月に念願の「子供の科学」編集部入りを果たし、昭和24年(1949)3月13日には、草下の仲立ちで、稲垣足穂と野尻抱影が最初で最後の顔合わせをするという、驚くべき「事件」もありましたが(過去記事にLINK)、基本的に身辺多忙を極め、独自に研究を進める余裕がなかったのでしょう。

(「子供の科学」発行元である誠文堂新光社・旧社屋(1937年築)。ブログ「ぼくの近代建築コレクション」より許可を得て転載)

しかし、その間も草下の賢治への関心は衰えることなく、昭和26年(1951)には5月と8月の2回花巻を訪れています。

〔昭和26年〕五月三~五日 連休を利用して宮澤賢治の故郷、岩手県花巻市を訪れた。「農民芸術」に二回ほど原稿をのせて頂いただけの縁なのに、厚かましくも関徳久彌氏をお訪ねし、さらに賢治の実弟である宮澤清六氏に御紹介頂いたのだから、かなり図々しいものである。〔…〕これまた粘って賢治の生原稿まで見せてもらった。「銀河鉄道の夜」や「夏夜狂躁」という詩の中で、どうしても確かめておきたい疑問の箇所があったからだ。「プレシオスの鎖」という明らかに天体を指すらしい謎めいた言葉と、「三日星(カシオペーア)」を、原稿で確かめたかったからである。〔…〕 (『星日記』127-8頁)

八月五日 友人と再び花巻市を訪れている。そのあと、仙台に移動して有名な七夕祭りに出会わした。〔…〕ただ、おどろいたのは、街を歩いていて、ばったり野尻先生と小島修介氏に出会ったことだ。野尻先生は七夕祭りに招かれて、小島氏はアストロ・サービスという天文普及の仕事兼野尻先生のボディガードで来ておられたのであった。しかし、何十万という人出の中でばったり会うなんて、まったく奇遇というべきであろう。〔…〕 (同128頁)

こうして原資料に当たり、着々と材料を揃え、翌昭和27年(1952)から、草下は立て続けに賢治と星に関する論考を発表していきます。その発表の場となったのが、「宮沢賢治友の会(後に宮沢賢治研究会)」の機関誌「四次元」です。

(昭和24年(1949)10月に出た「四次元」創刊号と、賢治没後25周年の昭和32年(1957)に出た号外の表紙。昭和57年(1982)に国書刊行会から出た復刻版のカラーコピー)

「四次元」については、ネットではよく分からなかったのですが、なんでも賢治全集を出していた十字屋書店(神田神保町)が始めた雑誌だそうで、最初は同社に「宮沢賢治友の会」事務局を置き、書店店頭でも販売していたのですが、1年もたたずに経営難から十字屋が撤退。以後は編集人の佐藤寛氏が「友の会」もろとも機関誌発行を引き継ぎ、葛飾区金町の佐藤宅がその拠点となりました。その後、氏の健康問題により昭和43年(1968)2月の第201号を以て終刊。昭和44年(1969)4月創刊の「賢治研究」(宮沢賢治研究会)がその後継誌となった…ということのようです。

(「四次元」を主宰した佐藤寛氏(1893-1970)。1972年3月発行「四次元 号外・佐藤寛追悼号」より)

   ★

草下が再び賢治研究にのめりこんだ昭和27年から28年(1952~53)は、草下のライフヒストリーでは節目の年です。

昭和27年、草下は誠文堂新光社内で「子供の科学」編集部から「科学画報」別冊編集部に配置換えとなり、そのことと関係があるのかないのか(おそらくあるでしょう)9月で同社を退社。

一時、友人が経営する小出版社に腰掛けで入ったあと、昭和28年(1953)に平凡社に転職して、『世界文化地理体系』というシリーズものの編集を手掛けることになりました。そして同年9月に出たのが第一著書『宮沢賢治と星』です。

(『宮沢賢治と星』1953年版、奥付)

こうして青年期の草下の動きを見ていると、身辺の変化と賢治との関わりが妙にシンクロして感じられます。この辺のことは活字になった『星日記』では明確に書かれていないし、ひょっとしたら草下自身意識していなかったかもしれないんですが、草下は人生の決断をするとき、賢治に何かヒントを求めていたんじゃないかなあ…という気もします。

   ★

以上、草下と賢治のかかわりを、『星日記』をざっと眺めて抜き書きしてみましたが、これは本当のラフデッサンで、これを見取り図として、これからいよいよ「草下資料」を深掘りしていこうという腹積もりです。ただ、時間もかかることなので、この件はしばらく寝かせておきます。

(この項いったん終わり)


【おまけ】
 『宮沢賢治と星』の1953年の初版には含まれず、1975年の改訂新版――こちらは正確には『宮澤賢治と星』と表記します――が出る際、新たに収録された論考についても、参考のため初出年代順に配列しておきます。

12. 賢治文学と天体
  昭和32年8月『宮沢賢治研究』(筑摩書房)掲載(昭和49年12月改稿)
13. SF作家の先駆者としての稲垣足穂と宮澤賢治
  昭和32年9月「宇宙塵」に掲載
  (改稿して「四次元」第100号、昭和33年12月に転載)
14. 『晴天恣意』への疑問
  「賢治研究」第4号、昭和45年4月
15. Xの字の天の川
  「賢治研究」第16号、昭和49年6月

草下英明と宮沢賢治(3)2024年06月25日 21時21分14秒

昭和22年から23年にかけては、草下にとって変化の多い年でした。
昭和22年(1947)には、前述のとおり賢治についてまとめた文章が初めて活字化されたのをはじめ、野尻抱影に初めて会っています(それまでも手紙のやりとりはありました)。

六月二十一日 東京、上野の国立科学博物館で開催されていた天文学普及講座に野尻抱影先生の講演があるのを知って、聴講に参加。初めて野尻先生に挨拶。「家へいらっしゃい」などというお世辞に甘えて、二十九日、さっそく世田谷桜新町のお宅を訪問しているが、何を話したのか、聞いたのか、あがってしまって覚えがない。ただ、むにゃむにゃいって一時間ほど座っていただけだった。(『星日記』105頁)

(科博の天文ドーム。過去記事より)

抱影との絡みでいうと、8月にはこんな記述もあります。このとき草下は母校・都立六中の生徒を連れて、水泳指導教師という役割で千葉県館山付近に滞在していました。

八月一日 〔…〕この日、管理人のお爺さんから、「入定星」という星があることを訊いた。〔…〕もちろんこれは房総半島の南端一帯で「布良(めら)星」の名で知られる竜骨座のα(アルファ)カノープスの別名だ。しかも、江戸時代の文献にも、僧侶が死んで星になったという伝承が記載されているもので、後日、野尻先生に報告して、いたく喜ばれた。これでかなり先生の信用(?)を得たようである。「農民芸術」の原稿とともに学生生活の最後を飾るいいお土産であった。(同105—6頁)

こうして草下は学生生活を終え、社会人になります。当時の制度がよく分かりませんが、草下の場合、秋卒業だったようです、

十月一日 大学は出たが、就職先などまったくないので、いたしかたなく、大成建設(旧大倉組)に入社。経理課へ配属されてソロバンはじきをさせられた。父が長い間、大成建設の土木課にいて、そのコネでなんとか入れてもらったが、一銭、二銭が合ったとか合わないとか、およそ次元の異なる世界だった。二十五日、初めて給料をもらったが、金一三七五円五〇銭。(同106頁)

生活するために「いたしかたなく」建設会社の経理の仕事に就いてはみたものの、草下にはまるで肌の合わない世界で、1年もしないうちに転職を果たします。以下、昭和23年(1948)の『星日記』より。

七月九日 豊島区椎名町に在住の詩人、大江満雄氏の紹介で誠文堂新光社「子供の科学」編集長、田村栄氏に紹介されて会うことになった。なんとしてでも編集部に入りたく、野尻先生に推薦状を書いてもらったり、別な知人でポプラ社の編集長をしていた水野静雄さんには、誠文堂の重役だった鈴木艮(こん)氏にも口をきいてもらった。十日後、首尾よく入社が決定したが、あとでよく聞いてみると、他にも競争者がいたらしいのだが、私の立ちまわり方、根まわしが抜群だったらしく、その抜け目なさが買われたということだった。私の性格とまったくあべこべの面が認められたというのは、いまだに信じられない。二十日に大成建設に辞表を出し、八月二日には、めでたく「子供の科学」編集部員として初出社した早業である。(同112頁)

まだ一介の新米編集部員とはいえ、これが科学ジャーナリスト・草下英明が誕生した瞬間でした。草下はその立場を活かして、人脈を徐々に広げていきます。

十一~十二月 「子供の科学」編集の仕事は楽しかったが、なにしろたった三人でやっているので、目のまわるほど忙しく、日曜日などほとんど休んでいられなかった。〔…〕
ただ編集にかこつけて、天文関係者に会えるのが嬉しく、国立科学博物館の村山定男小山ひさ子鈴木敬信(海上保安庁水路局、のち学芸大学)、神田茂(日本天文研究会)、アマチュアの中野繁原恵、東京天文台の広瀬秀雄博士といった方々に初めてお目にかかったのも、この頃である。
(同113—4頁)

そればかりではありません。草下はこのブログと切っても切れないもう一人の人物とも、この年に会っています(「遭っています」と書くべきかも)。草下は上の記述に続けてこう記します。

だんぜん印象強烈だったのは、作家イナガキタルホ氏に会った時である。その日の日記から引用すると、次の如し。

十一月二十三日(月)晴 今日も晴れて暖かく、資源科学研究所へ行ってみたが、八巻氏に会えず、仕方なく戸塚をブラブラ。真盛ホテルへ行ってみる(新宿区戸塚一の五六七、今でも建物は残っているそうだ)。なんとイナガキタルホ先生あらわれる。よれよれの兵隊服に五十がらみのおやじ、ききしにまさる怪物なり。部屋には聖書と、二、三の雑誌と、三インチの反射鏡と少しの原稿用紙以外なんにもなし。いやはや、性欲論をひとくさり、美少年趣味は二週間前に転向せり、十八の女性と結婚するとか、何処(どこ)までホントかウソか。へんな喫茶店へ行って別れる。
(同114頁)

なんだか無茶苦茶な感じもしますが、何せ時代の気分は坂口安吾で、畸人型の文士が横行しましたから、足穂も遠慮なく畸人として振る舞えたし、世間もそれをもてはやしたのかもしれません。しかし“作家、畸なるがゆえに貴からず”、足穂の本分というか、真骨頂はまた少し違ったところにあり、だからこそ草下は足穂を終生敬慕したし、謹厳な野尻抱影にしても、後に足穂をひとかどの作家と認めることになったのでしょう。

(所番地が変わったせいで正確な場所がすぐには分かりませんが、図の左寄り「早稲田大学国際会議場 井深大記念ホール」の建つ区画が昔の早大戸塚球場の跡地で、その脇を通る「グランド坂」に真盛ホテルはあった由。名前は立派ですが、ホテルとは名ばかりの安宿です。)

(真盛ホテルの自室に坐す、昭和23年当時の足穂。過去記事より)

   ★

「草下英明と宮沢賢治」というわりに、今日は賢治のことが全然出てきませんでしたが、草下の賢治への入れ込みはまだ続きます。

(この項つづく)

草下英明と宮沢賢治(2)2024年06月23日 13時45分18秒

ふと思ったんですが、今年は草下英明氏の生誕100周年ですね(12月1日が誕生日)。別に狙ったわけではありませんが、そのことを思うと、今回草下氏を取り上げることになったのも、何か偶然以上のものがあるような気がします。

   ★

前回、草下に賢治の存在を教えた人として、後に彫刻家として名を成した阿井正典(1924-1983)に触れました。それについて、草下の『宮澤賢治と星』(初版1953、改訂新版1975)にも関連する記述を見つけので、挙げておきます(「宮澤/宮沢」の表記は原文に従います)。

(『宮澤賢治と星』、1953年版(手前))

 「私が初めて宮沢賢治の名を知ったのは、「アメニモマケズ」の詩人としてでもなく、『風の又三郎』の作者としてでもない。殆どそうした予備知識なしに、或る友人から星をよく描く童話作家として教えられたのが、太平洋戦争末期であった。従って私が賢治を知った限りにおいては、比較的日も浅く、かりそめにも賢治の研究家などといえた義理ではない。だから、このささやかな著書も、あくまで賢治の研究書というようなものではなくて、賢治の作品に輝やく星を観察し分析してみただけのもので、主題は星にあるといってよい。」 (『宮澤賢治と星』、1953年版「あとがき」より)

「或る友人」とはもちろん阿井のことで、阿井は「星をよく描く童話作家」として賢治を語ったというのですから、阿井もまた具眼の士であり、阿井がそういう色彩で賢治を紹介したからこそ、草下の脳裏に賢治の名が刻まれたのでしょう。これはまことに幸運な出会いだったと思います。

(阿井正典 《果》 1968年、木、神奈川県立近代美術館蔵。

   ★

草下がただの賢治ファンでなかったのは、その作品を愛読するばかりでなく、独自の研究を進めたことです。草下は、昭和22年(1947)になっても、大学にはまったく足を踏み入れず、友人が始めた古本屋の手伝いをしながら過ごしていましたが、その間にせっせと賢治研究を進めました。

 「〔1947年〕四月二日 宮澤賢治の名作「銀河鉄道の夜」に描かれた星についての研究をまとめた私の文章が、風樹荘〔…というのは件の古本屋〕の経営者、月田亨氏を通じて、月田氏の家に同居していた賢治研究家、堀尾青史氏に紹介された。岩手県花巻市で、賢治の縁戚にあたる関登久也編集「農民芸術」にのせてもらうことになった。九月一日発行の「農民芸術」第四輯に生まれて初めて活字となった。」 (『星日記』、104頁)

このとき「農民芸術」に掲載された「『銀河鉄道の夜』の星」は、改稿した上で、前述の『宮澤賢治と星』に収録されました。これについて、草下は以下のようにも述べています。

(『宮澤賢治と星』、1975年版)

 「『銀河鉄道の夜』の星について」は、大学二年生の頃、暇にまかせて書き綴った幼稚な一文を、友人を通じて堀尾勉(青史)氏が目を通して下さり、花巻の故関登久也氏の許に御紹介頂いて、初めて活字になったもので、なんとも懐かしい思い出がある。」 (『宮澤賢治と星』、1975年版「あとがき」より)

ちょっと先回りすると、草下はこの後も精力的に賢治について文章を書き続け、それらをまとめたのが『宮澤賢治と星』です。昭和28年(1953)の出版当時のことを、草下は後にこう回想しています。

 この種の研究や文献資料は当時殆ど無いといってよく、私の試みが賢治文学を考える上での一ヒントにでもなったとすればこの上ない幸せである。

 原本刊行後も、科学者の目で、或は科学的な手法によって、賢治文学の分析が試みられた例は極めて少ない。私の知る範囲でも、須川力氏(水沢緯度観測所、天文学)の「宮澤賢治と天文学」(「四次元」、第九十三号、昭和三十三年五月)がある位で、他に昭和三十四~三十六年頃、庄司善徳氏が「秋北新聞」、「秋田文化」、「文芸風土」(いずれも秋田県地方誌)に、しばしば賢治と星の関係について言及した文章を発表している程度である。」 
(同上)

本当は、『宮澤賢治研究資料集成』(日本図書センター、全23巻)や、『宮沢賢治初期研究資料集成』(国書刊行会)のような基礎資料に当たって、草下の言い分の裏取りをしないといけないのですが、今はそこまでする必要もないでしょう。草下の視界にそれが入ってこないぐらい、「星の文学者・賢治」は当時マイナーなトピックであり、草下がこの分野のパイオニアの一人だったことは確かです。

草下は上の一文につづけて、さらにこう書きます。

 「しかし、最近は賢治のすべての草稿を比較検討分析していくという精緻無類な天沢退二郎、入沢康夫両氏の研究方法が大きな刺激となり、斎藤文一氏(新潟大学、地球物理学)、宮城一男氏(弘前大学、地質学)といった純粋科学畑の人の研究が現れたし、星の分野でも川崎寛子、阿田川真理といった若き俊秀がおられて、私なども啓発されること多大である。どうやら科学と文学の切点の問題として、賢治の作品が見直される機運が盛り上ったといってよいだろうか。」 (同上)

ここでいう「最近」とは、今から約半世紀前の1975年当時の「最近」です。1970年代頃から、賢治像にはある種の変化が――いうなれば、「アメニモマケズ」や『風の又三郎』の作者ではない賢治像が目立つようになってきた…と草下はいうのです。

こうした変化は論文や研究書ばかりでなく、一般のメディアにも及び、「星の文学者・賢治」は急速にポップカルチャー化、あるいはサブカルチャー化して、ますむらひろし鈴木翁二、あるいは鴨沢祐仁といった人たちが、賢治に取材した作品を次々と発表し、その先に松本零士の「銀河鉄道999」(「少年キング」、1977年連載開始)もあったように思います。

(新作・旧作を交えて構成された「ガロ 特集・宮澤賢治の世界」1995年9月号)

(同上掲載作、森雅之「宮沢賢治 星めぐりの歌」より)

その流れは天文界にも及び、アマチュア向けの天文雑誌である「天文ガイド」(1965~)「星の手帖」(1978~1993)あたりを丹念に見れば、賢治作品、特に「銀河鉄道の夜」に言及した記事や読者投稿が、70年代以降急速に増えていくさまを確認できるはず…と個人的には睨んでいますが、これは将来の課題とします。

(当時、京都の福知山で星好きの少年たちが結成した「西中筋天文同好会」が会誌「銀河鉄道」を創刊したのが1972年と聞けば、当時の天文界の空気が何となくわかります。この件は同会の中心メンバーであり、本ブログにいつもコメントをいただくS.Uさんから、またお話を伺う機会があると思います。)

   ★

話が前に進み過ぎたので、昭和20年代の草下の動向に話を戻します。

(この項つづく)

草下英明と宮沢賢治(1)2024年06月21日 18時16分28秒

宮沢賢治が「星の文学者」として認められる過程で、後に科学ジャーナリストとして世に出た、草下英明氏(1924-1991)の功績は甚だ大きいものがあったと思います。

でも、そもそも草下氏はいつ賢治に出会ったのか?
それを整理するため、草下氏の『星日記』から関係する記述を抜き出してみます(以下、敬称を略してお呼びします。なお、引用中の太字と〔 〕は引用者)。

草下英明(著)『星日記―私の昭和天文史1924~84』、草思社、1984

草下は大正13年(1924)12月、東京都荏原群駒沢村、今の世田谷に生まれました。そして満2歳を迎えた1926年12月に昭和改元があり、以後、昭和2年12月に満3歳、昭和3年12月に満4歳を迎えた…ということは、要するに彼は、昭和X年の12月に満「X+1歳」の誕生日を迎える計算で、その年の1月から11月まではぴったりX歳です。非常に分かりやすいですね。まさに昭和とともに歩んだ人生。

そんなわけで、草下がハイティーンから二十歳過ぎの青年期を過ごした時期は、終戦前後の激動期と丸被りです。

昭和17年(1942)4月に、立教大学文学部予科(予科というのは本科に進む前の教養課程)に入学したものの、勤労動員に明け暮れる日々で、とても勉強どころではありませんでした。昭和19年(1944)10月には大学を休学し、愛知県の豊橋第二予備士官学校で、幹部候補生としての速成訓練を受けます(自ら志願したわけではなく、いわゆる学徒動員です)。

明くる昭和20(1945)年6月に予備士官学校を卒業して、そのまま見習士官として名古屋の東海第五部隊に配属となり、知多半島の阿久比で「築城作戦」(という名の穴掘り作業)に従事しているとき、8月15日の終戦を迎えました。

草下が賢治を知ったのは、ちょうどこの時期です。
『星日記』 昭和20年(1945)の項の冒頭に、こうあります。


 「二十歳。私の一生の中で、二度とないような一年。価値観念が正反対に転換した年、そして今年一杯生き延びられるだろうかとまで考えていた年だった。同室の友人、美術学校出の阿井正典氏から、宮沢賢治の名を教えられたのも、この頃である。」(94頁)

ネット情報によれば、阿井正典(あいまさのり、1924—1983)は、戦後に活躍した抽象彫刻家。草下と同時期にやっぱり学徒動員され、愛知時代の草下氏と同室になったのでしょう。阿井氏はおそらく本人も自覚せぬまま、その後の宮沢賢治受容史に計り知れない影響を及ぼしたことになります。

(草下に賢治の存在を教えた、阿井正典〔後列、右から2人目〕。
出典:『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』、「第三章 第三節 昭和18年 ⑭学徒出陣」(922頁)。

   ★

戦争が終わり、昭和20年9月に無事復員。いったん信州に疎開していた両親のもとに身を寄せたあと、10月に東京に戻り、大学に復学。しかし何をする気も起らず、呆然と暮らす日々が続きました。

翌昭和21年(1946)の『星日記』の冒頭部。

 「虚脱呆然の状態はまだ続いていた。学校へはろくに行かず、やたらと本ばかり読んでごろごろしていた。野尻先生の「星を語る」「星座風景」「星座春秋」「星座神話」といった本を古書店で見つけると、値段を問わず即座に買い込んだ(ろくに金もないのに)。その他の天文書なども片っぱしから買ってしまっていた。宮沢賢治の本も、全集を除いてこの時期にほとんど揃えていた。彼の詩は一行も理解できなかったのだが。(99頁)

戦後の精神的空白の時期にあって、草下が拠り所としたのが、抱影であり、賢治であり、星の世界でした。賢治の詩は一行も理解できなかった…と草下は言いますが、その理解できない詩をも夢中で読み、そしてやっぱり深く感じるものがあったのでしょう。

(この項つづく)

草下氏の背を追って2024年06月19日 18時39分15秒

今後、草下英明氏(1924-1991)が残された資料【参照LINK】を深堀りするとなると、氏への言及がいきおい増えると思うので、参照の便のため「草下英明」というカテゴリーを新設しました。野尻抱影 、宮澤賢治、稲垣足穂 と並んで「夜空の大四辺形」を構成する格好です。


偉大なる先達の余光を慕い、その事績にどこまで迫れるか、非力ながらも頑張るつもりです。

(草下氏壮年期のスナップ)

夜空の大四辺形(3)2024年06月04日 18時20分20秒

この連載は長期・間欠的に続けるつもりですが、ひとつだけ先行して書いておきます。オリジナル資料を見ることの大切さについてです。

日頃、我々は文字起こしされた資料を何の疑問も持たずに利用していますが、やっぱり文字起こしの過程で情報の脱落や変形は避けられません。その実例を昨日紹介した野尻抱影の葉書に見てみます。


(文面はアドレス欄の下部に続いています)

これは前述のとおり石田五郎氏が『野尻抱影―聞書“星の文人伝”』(リブロポート、1989)の中で引用されています(291-2頁)。最初に石田氏の読みを全文掲げておきます(赤字は引用者。後述)。

 「処女著といふものは後に顧みて冷汗をかくやうなものであってはならない。この点で神経がどこまでとどいてゐるか、どこまでアンビシャスか、一読したのでは雑誌的で、読者を承服さすだけの構成力が弱いやうに感じた。特に星のは、天文豆字引の観がある。それに賢治氏の句を引合ひに出したに留まるといふ印象で、君の文学者が殺されてゐる。余計な科学を捨てて原文を初めに引用して、どこまでも鑑賞を主とし、知識は二、三行に留めるといいやうだ。吉田源治郎との連想はいい発見で十分価値がある。吉田氏はバリット・サーヴィス全写しのところもある。アルビレオもそれで、同時に僕も借りてゐる。「鋼青」は“steel blue”の訳だ。僕は「刃金黒(スティールブラック)」を時々使ってゐる。刃金青といひなさい賢治氏も星座趣味を吉田氏から伝へられたが、知識としてはまだ未熟だったやうだ。アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。「琴の足」は星座早見のαから出てゐるβγで、それ以上は知らなかったのだろう。「三目星」も知識が低かった為の誤まり、「プレシオス」は同じく「プレアデス」と近くの「ペルセウス」の混沌(君もペルシオスと言ってゐる)〔※〕「庚申さん」はきっと方言の星名と思ふ。(昭和二十八年六月二十九日)」

   ★

石田氏は同書の別の所で、「抱影の書体は〔…〕独特の文字であるが、馴れてくるとエジプトのヒエログリフの解読よりはずっと易しい」とも書いています(304頁)。しかし、その石田氏にしても、やっぱり判読困難な個所はあったようで、上の読みにはいくつかの誤読が含まれています。


たとえば上の傍線部を、石田氏は「一読」と読んでいます。おそらく「壱(or 壹)読」と読んだ上で、それを「一読」と改めたのでしょう。でも眼光紙背に徹すると、これは「走読」(走り読み)が正解です。そのことは別の葉書に書かれた、文脈上確実に「走」と読む文字と比較して分かりました。

まあ、「走り読み」が「一読」になっても、文意は大して変わりませんが、次の例はどうでしょう。


石田氏の読みは「刃金青といひなさいですが、ごらんの通り、実際には「…といひたいです。「いひなさい」と「いひたい」では意味が全然違うし、抱影の言わんとすることも変わってきます。

それと、これは誤読というのではありませんが、抱影が賢治の名前を「健治」に間違えているところがあって、石田氏はそれに言及していません。


抱影はマナーにうるさい人で、別の葉書では、草下氏が抱影の名前を変な風に崩して書いているのを怒っていますが、その抱影が賢治の名前を平気で間違えているのは、抱影の賢治に対する認識なり評価なりを示すものとして、決して小さなミスとは思えません。

その他、気付いた点として、上で赤字にした箇所は、いずれも修正が必要です。

(誤) → (正)
星の → 星の
吉田源治郎氏との連想 → …との連絡
アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。→ …見てゐたかどうか。
「ペルセウス」の混沌 → 混淆
〔※〕 → 「角川では「プレアデス」に直してゐる。」の一文が脱落

重箱の隅をつつき回して、石田氏も顔をしかめておられると思いますが、オリジナル資料に当たることの重要性は、この一例からも十分わかります。

   ★

情報の脱落や変形を避けるばかりではありません。
自筆資料を読み解くことには、おそらくそれ以上の意味――文字の書き手に直接会うにも等しい意味――があるかもしれません。

美しい筆跡を見ただけで、相手に会わぬ先から恋焦がれて、妖異な体験をする若者の話が小泉八雲にあります。肉筆の時代には、肉筆なればこそ文字にこもった濃密な思いがありました。若い頃は何でも手書きしていた私にしても、ネットを介したやり取りばかりになって、今ではその記憶がおぼろになっていますが、「書は人なり」と言われたのは、そう遠い昔のことではありません。

草下資料をひもとけば、その向こうに草下氏本人が、抱影が、足穂がすっくと現れ、生き生きと語りかけてくるような気がするのです。

(この項、ぽつりぽつりと続く)

夜空の大四辺形(2)2024年06月03日 18時43分41秒

草下英明氏の回想録『星日記』(草思社、1984)に、草下氏と抱影、それに村山定男の3氏が写っている写真が載っています。あれは元々カラー写真で、「色の着いている抱影」というのは、AIによる自動着色以外珍しいんじゃないでしょうか。


あるいは、石田五郎氏が自著『野尻抱影―聞書“星の文人伝”』(リブロポート、1989)の中で引用された、抱影が草下氏に宛てた葉書。これは抱影が宮沢賢治を評したきわめて興味深い内容ですが、その現物は以下のようなものです。


なぜ私の手元にそれがあるか?もちろん元からあったわけではありません。

これらの品は、ごく最近、藤井常義氏から私に託されたものです。藤井氏は池袋のサンシャイン・プラネタリウムの館長を務められた方ですが、プラネタリアンとしての振り出しは渋谷の五島プラネタリウムでした。そして時期は違えど、草下氏も草創期の五島プラネタリウムに在籍していたことから接点が生まれ、以後、公私にわたって親炙されました。

そうした縁から草下氏の没後、氏の手元に残された星に関する草稿・メモ・書簡類を藤井氏が引き継がれ、さらに今後のことを慮った藤井氏が、私にそれを一括して託された…というのが事の経緯です。

この資料の山に分け入ることは、ブログで駄弁を弄するようなお気楽気分では済まない仕事なので、私にとって一種の決意を要する出来事でした。「浅学菲才」というのは、こういうときのためにある言葉で、本来なら控えるべき場面だったと思いますが、しかし浅学だろうが菲才だろうが、その向こうに広がる世界を覗いてみたいという気持ちが勝ったのです。

いずれにしても、これはすぐに結果が出せるものではないので、ここはじっくり腰を据えて臨むことにします。

(この項、間欠的につづく)

夜空の大四辺形(1)2024年06月02日 10時23分20秒

「星の文学者」を日本で挙げると、野尻抱影、宮沢賢治、稲垣足穂の3人にまず指を屈することになり、この3人をかつて「夜空の大三角」と呼んだことがあります。

(宮沢賢治(1896-1933)、野尻抱影(1885-1977)、稲垣足穂(1900-1977))

■夜空の大三角…抱影、賢治、足穂(1)
 (記事の方はこのあと全5回にわたって続きました)

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この3人の中で、立ち位置がちょっと異なるのは賢治です。
彼の文名が上がったのは死後のことで、生前は目立たぬ地方詩人に過ぎなかったからです。言葉を変えると、抱影と足穂が“自らの作家像を自らの手で築いた人たち”であるのに対して、賢治の作家像は、その作品を他の人たちが読み込み、銘々がそこに多様なイメージを投影した結果の集積に他ならず、その意味で「作家・宮沢賢治」という存在は、後世の人たちが共同制作したひとつの“作品”なのだと思います。

もちろん「英雄は英雄を知る」で、繊細な詩心を持った人たちにとって、賢治は独特の魅力を放つ先人たりえたと思いますが、戦中・戦後の賢治評価を虚心に見るとき、賢治が『風の又三郎』的な「ほのぼの系童話作家」や、『雨ニモマケズ』の「通俗道徳の人」として受容され、単にそれだけで終わっていた可能性も十分にあった気がします。

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賢治が天才作家の列に加わったのは、そこに有能なプロモーターが存在したからだ…というと、賢治ファンに怒られるかもしれませんが、でも、賢治の才能に惚れぬいたプロモーターの純な心と、そのプロモーションの才能もまた正しく評価されねばなりません。

そのプロモーターとして外せないのが、草下英明(くさかひであき、1924-1991)氏です。草下氏は「科学ジャーナリスト」や「科学評論家」という肩書で語られることが多く、たしかにそうには違いありませんが、氏はそれだけにとどまらない異能の人です。賢治が「星の文学者」というイメージで語られるようになったのは、明確に草下氏の功績であり、氏がいなかったら、賢治イコール『銀河鉄道の夜』とはなっていなかったでしょう。

(「星の文学者、賢治」のイメージを決定づけた草下氏の『宮沢賢治と星』。初版は1953年に自費出版され、1975年に改稿版が学藝書林の「宮沢賢治研究叢書」に収められました。右は氏の回想録 『星日記―私の昭和天文史[1924~84]』

そして、草下氏は賢治のみならず、抱影や足穂とも密な関係を保っていました。以下、氏を夜空の大三角に輔(そ)え星して、「夜空の大四辺形」と呼びたいと思います。そして、この大四辺形は単に見かけ上の配位ではなく、重力的にも緊密に結びついた四重連星を構成しているのです。

(中央が草下英明氏)

草下氏のことはすでに「夜空の大三角」の連載の折にも触れましたが、なぜその名を今再び持ち出したか? かなりずっしりした話なので、その詳細は次回に回します。

(この項つづく)

アンドロメダのくもは2024年05月03日 18時15分47秒

草下英明氏に「賢治の読んだ天文書」という論考があります(『宮澤賢治と星』、学芸書林、1975所収)。その冒頭に次の一節があります。

 「昭和26年5月、花巻を訪れて〔実弟の〕清六氏にお会いした折、話のついでに「賢治さんが読まれた天文の本はどんなものだったんでしょうか。貴方に何かお心当りはありませんか」とお尋ねしてみたが「サア、どうも覚えがありませんですね。多分貧弱なものだったと思いますが」というご返事で…」

草下氏の一連の論考は、「星の詩人」宮澤賢治の天文知識が、意外に脆弱であったことを明らかにしています。たとえば「銀河鉄道の夜」に出てくる「プレシオス」という謎の天体名。これは草下氏以降、プレアデスの勘違いだったことが定説となっています。こんな風に、賢治作品で考証が難航した天体名は、大体において彼の誤解・誤記によるものらしい。

もちろん、それによって彼の文学的価値が減ずるわけではありませんが、後世の読者として気にはなります。

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…というのは、14年前に書いた記事の一節です(引用にあたって表記を一部変えました)。

魚の口から泡ひとつ…フィッシュマウスネビュラの話

上の記事は、賢治が作品中で使った「フィッシュマウスネビュラ」という見慣れない用語について書いたもので、賢治の天文知識のあやふやさを指弾する色彩を帯びています。すなわち、賢治が今でいうところの「環状星雲」を「フィッシュマウスネビュラ」と呼んだり、天文詩『星めぐりの歌』の中で、「アンドロメダのくもは さかなのくちのかたち」とうたったのは、彼の勘違いであり、記憶の錯誤にもとづくものだ…というようなことを、草下英明氏の尻馬に乗って書き記したのでした。

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例の「The Astronomers’ Library」を、晴耕雨読よろしく庭の片づけ仕事の合間に読んでいます。その中で、上の記事に関連して、「おや?」と思う記述を目にしました。そして、少なくともアンドロメダ銀河を賢治が「魚の口」と呼んだのは、やはり典拠のある話であり、それを賢治の誤解で片づけたのは、私や草下氏のそれこそ無知によるものではないか…と考えなおしました。

というのは、「The Astronomaers’ Library」は、ペルシャで10世紀に編纂されたアル・スーフィ『星座の書』を紹介しつつ、次のように書いているからです。

 「この本のもう一つの注目すべき点は、アンドロメダ座――あるいはアラビア語でいうところの「巨魚座 Big Fish」 にある、(アラビアの天文学者には)よく知られた「小雲(’little cloud’)」に関する最初の記録であることだ。」


さらに上図のキャプションには、こうあります。

 「ギリシャ星座のアンドロメダ座〔…〕は、またアラビア星座の巨魚座でもある。現代ではアンドロメダ銀河として知られる「小雲」は、魚の口のところに黒点の集合として示されている。」

(上図部分拡大)

巨魚の口にぼんやりと光るアンドロメダ星雲。
賢治がそんなアラビア星座の知識をもとに、あの『星めぐりの歌』を書いたのだとしたら、「賢治の天文知識って、意外にしょぼいんだよ…」と後世の人間がさかしらに言うのは大きな間違いで、むしろ並々ならぬものがあったことになるのですが、さてどんなものでしょうか?

【付記】

先ほど検索したら、この件は加倉井厚夫氏が「星めぐりの歌」に関する考証の中で、「また、アラビア星座の中に「二匹の魚」という星座があり、うち一匹の魚の口の位置がちょうどM31の位置にあたっていて、このことを賢治が知っていたかどうかも大変気になるところです。」と既に指摘されているのを知りました【LINK】

ただ、アラビアの星図の中にそれが明瞭に描き込まれていることまでは言及がなく、そのこと自体あまりポピュラーな知識とは思えないので、今後の参考として書き付けました。

あをによし奈良のサファイヤ2023年09月15日 18時27分39秒

石田茂作氏からの連想で、奈良つながりの話。

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大阪と奈良を隔てる山々といえば、大和川をはさんで北が生駒山地で、南が金剛山地です。

古来、天然の研磨剤として用いられた金剛砂(こんごうしゃ)が採れるから金剛山地なのか、はたまたその逆なのか、にわかに判然としませんが、ともかくこの地では金剛砂、すなわち柘榴石の細粒が大量に採れました。

柘榴石の英名はガーネットで、大きな美晶はもちろん宝石となりますが、小さなものは研磨剤として紙やすりにも使われるぐらい、あるところには大量にあるものだそうです。

その金剛山地の北端近くに、二上山(にじょうさん。古名は“ふたかみやま”)という山があります。この山も金剛砂の産地ですが、ここから産する砂には柘榴石に交じって、ごく微量のサファイヤ(青鋼玉、青玉)も見つかります。(サファイアは柘榴石や黒雲母とともに、二上山を形成する黒雲母安山岩中に含まれており、それが風化作用で「青い砂粒」となって、ときおり見つかるわけです。)

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先日、その美しいサファイアを含む砂を送っていただきました。
送ってくださったのは、元サンシャイン・プラネタリウム館長の藤井常義氏です。


もちろん二上山の砂は唐突に届いたわけではなく、この話には前段があります。
藤井氏は、天文解説者として、あるいは広く科学ジャーナリストとして、また宮沢賢治の研究者としても活躍された故・草下英明氏(1924-1991)と親交があり、その草下氏が遺された大量の鉱物標本を再整理するという、骨の折れる仕事にずっと取り組んでこられました。

その成果がいよいよ『草下鉱物標本箱』としてまとまり、日本ハーシェル協会を通じて知遇を得た私にも、PDF版をご恵送いただいたのですが、その礼状の中で、「私は名前が「玉青」だものですから、昔から「青玉」に親近感があって、ご恵送いただいた図鑑の劈頭で、サファイアが紹介されていたのも嬉しかったです」…云々と駄弁を弄したのに目を止めら、「それならば…」ということでお送りいただいたのが、この二上山の砂というわけです。

その際、参考資料として草下英明氏の『鉱物採集フィールドガイド』から該当箇所のコピーも送っていただきました。そこにはこうあります。

 「大阪側の春日、奈良側の穴虫、馬場といったところで、採掘している砂を少しわけてもらい、この中から鋼玉をさがしだすのだ(現場で探そうというのは無理。なにしろ最大の結晶でも0.5ミリを越えない)。
 縁のある盆に白紙を敷いて、その上に金剛砂をうすくひろげ、つま楊枝とルーペを以てはじのほうから虱つぶしに見つけるのだ。なにしろ相手はけし粒のようなものなのだから、よほど心に余裕のあるとき、ひまなとき、そして体調のよいとき(目がかすんだり、くしゃみの出そうなときはやめたほうがよい)でないとだめだろう。」

これを読むと、その青い結晶はいやが上にも小さく、まるで“ミクロの宝探し”のような趣が漂いますが、ガラス瓶の内に目を凝らしたら、そこには1~2mm角の肉眼サイズの結晶が光っていました。


しかも三方晶系であるサファイヤならではの、多段‐正三角形の成長模様(growth mark)までもが鮮やかに見て取れ、小さいながらも、これはなかなかの美晶。


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古い歴史の息づく金剛山地。
この地を往還した古人は、ひっそりと光る青い粒の存在に気付いたかどうか…。
たとえ人の方は気付かなくても、サファイヤの方では、古人の姿をしかと目に留めたはずで、そこには人と石の無言のドラマがあったことでしょう。

 「一粒の砂に世界を見、一輪の野の花に天を見る。」
 (To see a World in a Grain of Sand,
   And a Heaven in a Wild Flower)
…というウィリアム・ブレイクの詩句がふと思い出されました。