青く澄んだ土星(前編)2022年12月13日 21時25分36秒

先日、天王星を思わせる青いブローチのことを記事にしました。


それに対して、透子さんからコメントをいただき、そこで教えていただいたことが気になったので、ここで文字にしておきます(透子さんに改めてお礼を申し上げます)。

まず、透子さんと私のコメント欄でのやりとりを一部抜粋しておきます。

透子さん 「今読んでいる宮沢賢治詩集の注解に、✻サファイア風の惑星 土星。と書いてあるのですが、宮沢賢治さんには土星は青いイメージだったのでしょうか?」

「土星は肉眼で見た印象も、望遠鏡で覗いても、黄色の惑星ですから、賢治はどこでサファイア色の土星のイメージを紡いだのか不思議です。これを単なる「詩人のイマジネーション」で片づけてよいか、ほかに何か理由があるのか、自分なりにちょっと調べてみようと思います。」

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問題の詩は、宮澤賢治の『春と修羅 第二集』に収められた「暁穹〔ぎょうきゅう〕への嫉妬」という詩です。ちなみに『春と修羅』は賢治の生前に出た唯一の詩集ですが、その続編たる第二集は、賢治自身せっせと出版準備を進めたものの、結局未刊に終わりました。「暁穹への嫉妬」も残っているのは下書きだけです。

筑摩版の『新修宮沢賢治全集』には、その最終形と初形が収録されています。

(最終形)

詩の冒頭近くに、「その清麗なサファイア風の惑星を/溶かさうとするあけがたのそら」という句があります。この「サファイア風の惑星」の正体は何かといえば、すぐあとのほうに「ところがあいつはまん円なもんで/リングもあれば月も七っつもってゐる」と出てくるので、常識的に土星と解釈されています。

(ベルヌイ法による合成サファイア)

しかし繰り返しになりますが、土星とサファイアは色味がまるで違うので、この比喩は不思議です。

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こういう考証ならば、天文啓発家にして賢治マニアでもあった草下英明氏の出番ですが、残念ながら今回はハズレでした。氏の『宮澤賢治と星』(學藝書林、1975)を見たら、たしかに「賢治文学と天体」の章(pp.100‐111)でこの詩が採り上げられていましたが、サファイアの謎については特に言及がありませんでした。

では…と、草下氏が賢治の天文知識の重要な情報源として挙げた、吉田源治郎(著)『肉眼に見える星の研究』(1922)も見てみましたが、「土星 洋名は、サターン。光色は鈍黄。」(p.328)とあるだけで、当然サファイアのことは出てきません。

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この詩は「あけがたの空」を詠んでいるので、徐々に明るさを増す空の青みが、惑星にも沁みとおって感じられた…ということでしょうか?

あるいは、この詩が詠まれたとされる1925年1月6日の極寒の明け方に、「過冷な天の水そこ」で光る星が、青みを帯びて感じられた…ということでしょうか?(ちなみに気象庁のデータベースによると、この日の盛岡(花巻はデータなし)の最低気温は、マイナス9.1℃だったそうです。)

そうした可能性も、もちろんあるとは思います。
でも、ここでは別の可能性も指摘しておきたいと思います。

(長くなったので、ここで記事を割ります)

あおみどりの光2022年11月30日 19時17分32秒

昨夜は本降りの雨でしたが、気まぐれで遠回りをして帰りました。
雨に濡れた路面に映る灯りがきれいに感じられたからです。乾いた町が水の中に沈み、いつもと違う光を放っているのが、夕べの心の波長と合ったのでしょう。

店舗の灯り、道路に尾を曳くヘッドライトとテールランプ、そして黒い路面にぼうっと滲んだ青信号の色。あれは実に美しいものです。
ごく見慣れたものですが、私は青信号の青緑色を美しいもののひとつに数えていて、「でも、あの色って、自然界にはあるかなあ?」と、考えながら夜の道を歩いていました。

南の海、ある種の甲虫、鳥ならばカワセミ、石ならばエメラルド。
どれも似ているけれども、どれもちょっと違うような気がしました。

考えているうちに、ふと思いついたのは「夜光貝」
サザエの仲間であるヤコウガイに限らず、磨いた貝殻の遊色の中に、あの青緑があるような気がしたのです。これは純粋に自然の色といっていいのか、もちろんそこには人為も加わっているのですが、条件によっては自然条件下で遊色を呈することもあるでしょう。

(磨き加工をしたパウア貝。手前はアンモナイトの一種(クレオニセラス)の化石。そこにも似た色合いが、かすかに浮かんでいました)

思いついたのが水に縁のあるもので、そのことがちょっと嬉しかったです。

記憶の果てに2022年10月26日 06時50分53秒



前回の記事を書いた直後に、舞い込んだ1枚のはがき。
そこには「記憶の果てに」と書かれていました。


八本脚の蝶、遠い呼び声、そして記憶の果てに――。
これは私一人の感傷に過ぎないとはいえ、こうした一連の表象が全体として新たな意味を生じ、私の心に少なからずさざ波を立てたのでした。


差出人は、「秩父こぐま座α」さん。
秩父はまだ訪れたことがなく、まったく聞き覚えのないお名前です。そこに謎めいた興味を覚え、しげしげ眺めると、はがきの隅に時計荘さんのお名前を見出し、ようやく合点がいきました。


時計荘の島津さゆりさんによる、ツイッター上での告知()を下に転記しておきます。

■時計荘展 「記憶の果てに」
 秩父・こぐま座α @cogumazaa にて
 11/11(金)~11/21(月)の金土日月曜のみ営業 11~17時 ※ワンオーダー制
 画像のような新作のほか、人形作家の近未来さん @pygmalion39 のギャラリーカフェにちなんで、人形作品を入れて遊べるジオラマ作品もお持ちします。
 いつでもお立ち寄りください。そして気軽にお声がけいただければ嬉しいです。

   ★

私から見ると遠い秩父の町。
しかし秩父の名に、私はある親しみを感じます。秩父は稲垣足穂の少年時代の思い出と連なっているからです。足穂少年が手元に置いて、日々愛読した鉱物入門書には、鉱物採集の心得として、「東京近郊には先ず秩父がある」の文句があり、足穂はなぜかこのフレーズが脳裏を離れず、皇族「秩父宮」の名を新聞で見ただけで、即座にその鉱物書を連想した…と、彼は『水晶物語』で述懐しています。

秩父は鉱物の郷であり、水晶の郷です。
そこに分け入って、時計荘さんの鉱物作品と出会う場面を想像するだけでも、私にとっては至極興の深いことです。

(遠い記憶の果ての、さらにその向こうに…)

鉱物標本を読み解く2022年10月04日 21時03分04秒

昨日、ツイッターで以下のようなツイートが流れてきて、「お、いいね」と思いました。
ツイート主は、ケンブリッジ大学ホイップル博物館の公式アカウントです。


写っているのは、同博物館に保管されている、19世紀後半~20世紀初頭の鉱物・化石の標本セットで、小さな箱にきっちりと詰まった様子が、いかにも標本らしい表情をしています。そして、単に見た目にとどまらず、その先を追ってみたら、話がいよいよ深いところに入っていったので、ますます「いいね」と思いました。

上の標本に注目し、ホイップル博物館のメイン展示室に陳列したのは、台湾出身のグエイメイ・スーさんです。たぶん漢字で書くと、徐(または許)貴美さんだと思うのですが、スーさんは、レスター大学の博物館学の学生として、ホイップル博物館でワーク・プレースメント(実習を兼ねた短期就労)を経験し、その実習の仕上げとして、オリジナルのミニ展示を企画するという課題を与えられました。

以下はスーさん自身のサイトに書かれた、事の顛末です。


スーさんに与えられたのは、わずか110×70センチ、高さは22センチのガラスケース。このスペースで、何か博物館学的に意味のある展示をせよ…という、なかなかチャレンジングな課題なのですが、スーさんが紆余曲折の末に到達したテーマが「国家収集:ナショナリズム、植民地主義、近代教育における地質学(Collecting the Nation: Geology in Nationalism, Colonialism, and Modern Education)」というものでした。

そこに展示されたのは、まずチェコで作られた教育用の小さな化石標本セット
その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます(※)。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。

あるいは、イギリスで作られた鉱物標本セットと、それに付属する論文抜き刷りの束。そこに書かれた、あからさまに植民地を軽侮する言葉の数々―。

(上記「Placement Reflection 3」より寸借)

そしてもう一品は、1960年代に頒布された、アメリカ版「○年の科学」のような理科教材(Things of Science)に含まれる鉱物・化石標本です。
これはミニサイズの鉱物標本の長い伝統と、鉱物学習においてきわめて重要な側面、すなわち「触覚的側面」を思い起こさせるものとして、展示に加えられました。この触覚的側面こそ、コロナ禍のオンライン学習では決定的に不足したものです。

これらを組み合わせて、スーさんは「国家収集:ナショナリズム、植民地主義、近代教育における地質学」という企画をされたわけです。

   ★

古い鉱物標本を見て、「趣があるねぇ…」ということは簡単です。
しかし、モノはいろいろな文脈に位置付けることができ、そこからいろいろな意味を汲み取ることができます。客観を旨とする自然科学の標本であっても、歴史的・社会的に価値フリーということはありえません。

しかも、これらの標本セットは、スーさんも指摘するように、「博物館のミニチュア」でもあって、こうした展示を博物館で行うことの入れ子構造と、博物館そのものに浸み込んだ国家主義と植民地主義を逆照射する面白さが、そこにはあります。
総じていえば、「メタの視点の面白さ」を、今回の一連の記事から感じました。

私の部屋の見慣れた品々も、掘り下げてみれば、まだまだいろいろな顔を見せてくれることでしょう。


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(※)チェコ民族復興運動との関連では以下の記事も参照。

 ■彗星と飛行機と幻の祖国と

三葉虫を懐かしむ2021年11月28日 15時54分52秒

昨日のオレノイデス社のロゴを見ながら、三葉虫のことを思い出していました。


三葉虫はその形態の多様性から、世界中にコレクターが多いと聞きます。
私ももちろん気にはなりましたが、集め出すとキリがないのを悟って、いわゆる「沼」に陥ることはありませんでした。それでも当時――というのは15年か20年ぐらい前、ゼロ年代のことです――の品が入っている引き出しを開けると、その頃の記憶や、さらに遠い理科室の思い出がよみがえってきます。


初期の小さくて単純な形状から適応放散により多様な形態へと分化し、中には驚くほど巨大な種も出現した三葉虫の仲間たち。



古生代に栄えた三葉虫は、私の個人史を1000万倍ぐらい引き延ばしたタイムスケールの存在なので、「三葉虫の化石を見て懐かしむ」なんて、考えてみればおこがましい話かもしれません。三葉虫に言わせれば、「お前さんなんかが懐かしむのは、1億年早い」といったところでしょう。

それでも、やっぱり三葉虫は懐かしいです。
何しろ、私だって10億年の生命進化の歴史を母胎内で経験しているし、生まれ落ちてからだって、三葉虫の1個体にくらべれば、優にその1000万倍を超える記憶を有しているはずだから、懐かしむ資格はあるぞ…と、三葉虫に理解を求めたいところです。

昔の鉱物趣味の七つ道具(後編)2021年04月14日 05時28分47秒

(前回の続き)

(画像再掲)

この27cm幅の木箱をパカッと開けると、


各種の器具と試薬がきっちり収まっています。


蓋の裏に貼られたラベル。この吹管分析セットは、イングランド西部・トルーローの町で営業していた「J.T. Letcher」という科学機器メーカーが、19世紀後半(1880年頃)に売り出したものです。

ラベル中央には、"SOCIETY OF ARTS. SUPERIOR BLOWPIPE SET WITH EXTRA APPARATUS"と麗々しく書かれており、「ソサエティ・オブ・アーツ監修・特上吹管セット。付属装備一式付き」といった意味合いでしょう。

「Society of arts」というのは、「Royal Society of Arts」のこと。
この「アーツ」は芸術に限らず、広く専門技術の意味で、「王立技芸協会」と訳されます。現在は対貧困やSDGsといった、社会改良運動に力点を置いているようですが、19世紀には科学教育の普及にも熱心で、リーズナブルな価格の顕微鏡のコンテストを開いたりしていましたから、この吹管セットも同じ文脈で考案されたのだと想像します。


こう見ると完品ぽいですが、この下段にもいろいろ備品を収納するスペースがあって、そちらが何点か欠失しています(だから私にも買えました)。

(右端はアルコールランプ)

内容のいちいちについては、私自身よく分かってないので立ち入りませんが、セットの主役である吹管がこちら↓になります。


ラッパだったら、この反対側に口を付けてプーと吹くわけですが、気流を集中させたい吹管の場合、それでは役に立ちません。吹管はこの「ラッパ」に口を付けて息を吹きます。


これが吹管の全体。「ラッパ」の反対側、L字型に横に突き出た尖端から空気が噴出します。


試薬一式の入ったトレーを取り外すと、その下にガラス管や小さな管ビンが収まっています。またその脇に真鍮製の円筒缶が見えますが、その中身は木炭です。そこに試料を入れたり載せたりして、吹管の炎で強く熱し、試料の変化を観察するわけです。

   ★

鉱物趣味とは、言うまでもなく鉱物を愛でること。
でも鉱物に限らず、趣味人は同じ趣味の人とつながり、互いに経験を分かち合うことことで、一層趣味に味わいが出るように思います。

そして、そうした人とのつながりは、ときに時代をも超えます。こういう古い品を前にすると、異なる時代を生きた鉱物趣味人の肉声が聞こえてくるような気がします。

朋あり遠い過去より来たる、また楽しからずや。

昔の鉱物趣味の七つ道具(中編)2021年04月12日 09時46分21秒

吹管、すいかん。

「すいかん」と言いますが、「吸う」のではなく、「吹く」のです。英語で言うと「blowpipe」。この名称は、吹き矢の意味もあるし、ガラス職人が溶けたガラスに息を吹き込むときに使う長い筒の意味でも使われます。

それが鉱物の同定とどう関係するかと言えば、その実際を見ていただくのが早いです。


■Centennial Blowpipe Demonstration
 (Smithsonian's National Museum of Natural History)

リンク先では、オイルランプの炎に吹管で息を吹き込んで、さらに高温の炎を作り、それによって木炭に載せた粉末試料を加熱し、その反応や生成物を確認しています。

ウィキペディアの「吹管分析」の項(LINK)は三省堂の『化学小事典』を引いて、以下のように述べていますが、動画と説明を見比べると、そこで行われていることが、何となくわかってきます。

 「鉱物や合金などの金属成分を検出する古典的な分析法の一つ。固体の試料粉末を四角柱に削った木炭の中心に開けた穴に詰め酸化炎や還元炎などの吹管炎を吹き付け、その変色や溶融状態、化学変化を観察し成分を判定する。なお、現在は他の分析法の発達に伴い使われる頻度は少なくなっている。」

もう少しやわらかく解説したものとして、以下のページを拝見しました。(「天文古玩」もいい加減<老舗化>していますが、こちらの個人サイトは1999年から続く老舗で、しかも今も更新が続いており、本当にすごいなと思います。理科趣味界の鉄人ですね。)

■鉱物たちの庭:ひま話(2002.1.24)

   ★

今は流行らなくなった吹管分析ですが、かつてはプロ・アマを問わず、盛んにおこなわれました。


手元に、岩崎重三(著)『実用 鉱物岩石鑑定吹管分析及地質表』(内田老鶴圃刊)という本があるんですが、初版は明治30年(1997)に出ており、手元にあるのは大正6年(1917)発行の第7版ですから、少なくとも20年にわたって息長く版を重ねていたことが分かります。


言ってみれば試料に炎を当てるだけの分析法ですが、実際にやってみるとなかなか奥が深くて、炎色反応を見たり、ガラス管や木炭上に生じる生成物をさらに分析したり、溶球試験(ホウ砂球試験やリン塩球試験)によって金属の呈色反応を見たりして、徐々に鉱物の正体に迫っていきます。



   ★

そうした吹管分析を自宅でも手軽にできるよう、19世紀には吹管分析セットが盛んに販売されました。それが今や「鉱物古玩」として、欧米の理系アンティークの店先を飾っています。

(かつてオークションに出ていたドイツ製の吹管分析セット。

これは素敵だ…というわけで、私も苦労してひとつ手に入れました。


話が長くなったので、肝心の中身については次回に回します。

(この項つづく)

昔の鉱物趣味の七つ道具(前編)2021年04月11日 09時15分57秒

先月、鉱物趣味のアイコンは「ハンマー、つるはし、スコップ」だという記事を書きました(LINK)。 かつての鉱物趣味は、半ばアウトドアで営まれるものであり、標本は「店で買うもの」というより、もっぱら「自採するもの」だったからです。

今日はその話の続きです。

古今の鉱物趣味の違いは、それだけにとどまりません。
自分で採ってきた鉱物は、自らその正体を突き止めねば、相手の素性は永遠に謎のままです。つまり同定と分類という作業が、かつては必然的に伴ったことも、両者の大きな違いです。(かく言う私にしても、売り手が付けてくれた標本ラベルがなかったら、産地はおろか鉱物種そのものも怪しいので、その部分だけ取り出せば、立派な新派です。)

   ★

同定作業が必要であり、またそれが楽しみでもある…というのは、昆虫採集や植物採集も同じでしょうが、鉱物の場合、昆虫や植物とちょっと違う点があります。それは鉱物標本の場合、「絵合わせ」で正体を突き止めることができないこと。

昆虫や植物も深みにはまっていくと、器官を解剖したり、顕微鏡で強拡大したりして、ようやく種のレベルまで同定できるケースが多いと思いますが、そこまで厳密さを求めなければ、図鑑好きの少年なら、昆虫や植物の姿かたちを見ただけで、相当いい線までいけるはずです。

しかし、鉱物の場合は、そもそも「個体」という概念がなくて、その姿形や大きさが不定だし、同じ鉱物種でも見た目が違うとか、あるいは違う鉱物種でも見た目がそっくりという例がたくさんあって、こうなるとさしもの図鑑少年もお手上げです。

   ★

前口上が長くなりましたが、上のような事情を踏まえて、昔の鉱物趣味の徒の三種の神器が「ハンマー、つるはし、スコップ」だとすれば、彼らの七つ道具といえるのが、鉱物を同定するための道具類です。

たとえば、結晶面の「面角」を測る接触測角器」とか、


おなじみのモース硬度計」とか。

(ナイフややすり、条痕板もセットになっています。ドイツのクランツ商会製)

これらは実用の具というより、理科室趣味を満足させるために買ったので、はっきりいって1回も使ったことがありません。(そういう品が私の部屋にはたくさんあります。使わない補虫網とか、胴乱とか、プランクトンネットとか。まあ、大業物に目を細める刀剣愛好家みたいなもので、あれも「実用」に供するものではありません。)

そんなわけで、私の鉱物趣味は一向に進歩しませんが、こうした測角器や硬度計は曲がりなりにも現役の品で、教育現場では今も使われていますから、新派の鉱物趣味の人にもなじみがあるでしょう。

しかし、これぞ旧派という道具があります。
それがかつて盛んに使われた、吹管(すいかん)分析器」です。
その表情を次に見てみます。

(この項つづく)

鉱物趣味のアイコンとは2021年03月24日 06時54分34秒

河の流れは常に一方向ですが、仔細に見れば早瀬もあり、淀みもあり、中には渦を巻いて、全体の流れとは逆行する動きも生じます。
常に動き行く世界の片隅で、生活の糧を得るために今も呻吟していますが、河が全体としてどちらに向かって流れているのか、それを見失わないようにしたいものです。

…とひとりごちたところで、暢気な話のつづきです。

 ★

「昆虫好きな人」といっても実態は多様でしょう。
でも、依然として最もポピュラーなのは、「昆虫採集趣味の人」じゃないでしょうか。つまり、自ら野山で網を振るって、せっせと標本をこしらえる人。最近だと、捕虫網をカメラに持ち替えて、昆虫写真のコレクションに励む人も多いかもしれません。その場合も、虫たちの住む場所まで出かけて、その場の空気を肌で感じながら…という点は同じです。要するに「現場派」ですね。

昆虫標本のコレクションを形成するには、自分で採集する以外に、よその土地の同趣味の人と標本を交換したり、専門の業者から購入することも実際多いのでしょうが、依然として「捕虫網と毒びんと三角紙が昆虫趣味のアイコンだ」というのが、当事者を含む多くの人の共通理解じゃないでしょうか。

   ★、

そんなことを持ち出したのは、鉱物趣味の立ち位置を考えたかったからです。

鉱物趣味の場合も、過去のある時期、たぶん昭和の頃までは、「自採」という活動が非常に大きなウェイトを占めていたと思います。しかし、現在、「趣味は鉱物集めです」と聞いて、リュックをしょって山に分け入る姿をイメージすることは、ほとんどありません。

もちろん、自由に動き回る昆虫と、地面にひっついている岩石や鉱物とでは、採集にあたってのハードルが異なる(=地上権や採石権が発生して、ややこしい)ので、ひとくくりにはできませんし、辺境の地に産する珍奇で美しい鉱物を入手しようと思ったら、業者からの購入に頼らざるを得ないのは当然です(後者の点は昆虫趣味も同じです)。

しかし、金銭と引き換えに手に入れた美しい鉱物を眺めながら、その産地のことを全く考えないとしたら、それはいささか寂しいことです。

そこに広がっているであろう景色、風の音、土の匂い、遠い山並みの稜線、そして鉱物の生態環境たる地質条件。そうしたものを思い浮かべつつ鉱物を手にしてこそ、大地(geo)の学問たる地質学(geology)の愛好者と称するに足るのではないか…と、地質学のことを何も知らない私が力説してもしょうがないんですが、そんなことを思います。(もっと言ってしまうと、新派の鉱物好きの人の視線が、宝石箱を覗く貴婦人のようになっているのが気になっています。)

   ★

上のような印象は、以前も文字にしました。

■「鉱石倶楽部」の会員章(後編)

その中で書いたように、昆虫趣味のアイコンが「捕虫網、毒びん、三角紙」ならば、「ハンマー、つるはし、スコップ」が、旧来の鉱物趣味の三種の神器。鉱物趣味に憧れる者として、私も象徴的にその神器を手にすることにしました。


ひとつはアメリカ生まれで、


もうひとつはオーストリア生まれです。


かつて正真のミネラロジストが手にし、あまたの岩肌に触れたであろう、古い鉱物採集用のハンマーとつるはし。自分がこれらを手にして山に行く可能性はゼロだし、全く意味のない買い物とえばそうなのですが、それを鉱物標本の傍らに置けば、石たちの声がより明瞭に聞こえてくるような気がします。

缶の中に眠る宝石2021年03月20日 07時37分37秒



昨日の標本セットには相棒がいます。


同じイギリスの業者が扱っていたものですが、こちらは「Rough Precious Stones」とラベルにあるように、貴石・半貴石のラフストーンを20種集めたもの。昨日の鉱物コレクションのラベルとは、筆跡が違って見えますが、筆記体とブロック体の違いもあるので、別筆と断ずることもできません。少なくとも木箱と中身のティン缶は全く同じで、以前の所有者も同じ(はず)です。


宝石というのはきらきらしてナンボでしょうが、ここに見られるのは、それとはずいぶん違った表情です。ここでは石そのものを愛でるというよりも、古びた金属缶、曇った板硝子、その奥に見えるザラザラした石の肌、そこに浮かぶ鮮やかな色彩…それらが一体となって醸し出す風情を愛でたい気がします。


元の所有者も、きっとこの「きっちり感」をいとおしく感じたのでしょうね。

鉱物趣味の大きな要素に「結晶の美」というのがあります。
明快で幾何学的な形象の面白さ。原子と分子のロジックが生み出す構造美。
箱の中にきっちり収まった円環の行列が放つ魅力は、ちょっとそれに似ている気がします。