首都の週末(2)…インターメディアテク(後編)2016年07月25日 20時59分58秒

インターメディアテクは、ミュージアムショップがよくない…と、以前書きました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/10/14/7458230)。

さて、最近はどうであろうかと、例によってミュージアムショップ(正式には、「IMTブティック」と呼ぶそうです)に立ち寄ったんですが、品数も幾分か増え、オリジナルの品――以前とは違って、ちゃんと収蔵品にちなむもの――も並んでいたので、ちょっと嬉しかったです。

その中でも特に目を惹いたのが、この標本壜。

(つまみを含む全高は約33cm)

古くなった保存液の風情を出すため、黄褐色の透明シートを丸めて入れてあるのが、心憎い工夫です。

ショーケースには「オリジナル標本瓶 15本限定」という以上の説明はなく、また店番のバイト氏に聞くのも覚束ない気がしたので、特に聞かなかったのですが、若干擦れや汚れがあって、まっさらの新品ではなさそうです。おそらく東大のどこかから出て来たデッドストック品ではないか…と思いました(この点は定かではありません)。


ガラス蓋のつまみ。手わざを感じさせる涼し気な練り玉。
それを透かして見る景色を見ながら、「驚異の小部屋」で見かけた、分厚い半球状のガラスに覆われた標本をぼんやり思い浮かべました。


私が行ったときは、これがショーケースに4本並んでいました。
それぞれにエディション・ナンバーが入っているのですが、そのうちの1本を見たら、「お、一番やんけ」…と、別に河内弁にならなくてもいいですが、ちょっとラッキー感があったので、思い切って購入することにしました。

そして、包んでもらった壜を手に、いそいそとインターメディアテクのゲートを出ようとしたところで、館長である西野嘉章氏とすれ違いました。別に言葉を交わしたわけでもなく、本当にすれ違っただけですが、ほんの数秒時間がずれていたら、このすれ違いも生じなかったでしょうから、まさに「袖触れ合うも多生の縁」です。

   ★


今は漫然と窓際に立ててありますが、ここは「驚異の小部屋」を見習って、もうちょっとディスプレイの仕方を考えてみます。
(さらに、この壜だけでは飽き足らず、インターメディアテクの空気を求めて、帰宅後に画策したことがありますが、それはまた別の機会に書きます。)


(この項つづく。この後は西荻窪に向います)

首都の週末(1)…インターメディアテク(前編)2016年07月24日 20時50分06秒

味のある一日であった。
…昨日経験したさまざまな出来事を、そう総括したいです。

時間にすれば一日、いやわずか半日のことですが、人間によって生きられる時間は、物理的時間以上に伸縮・濃淡に富むものです。そして、昨日は大いに時間が濃くかつ長く感じられました。

昨日出かけた主目的は、既報のごとく、池袋のナチュラルヒストリエで開催中の「博物蒐集家の応接間」のレセプションに出席することでしたが、そこに至るまでにも、いろいろなプレ・イベントがあったので、ゆるゆると流れに沿って振り返ることにします。

  ★

東京駅に着いたら、何はともあれ、インターメディアテクを訪ねなければなりません。
一途にそう思いこんだわけは、昨年10月から始まった「ギメ・ルーム開設記念展“驚異の小部屋”」を見たかったからです。

「驚異の小部屋」と名付け、インターメディアテクという巨大な驚異の部屋の中に、さらに小さな驚異の部屋が作られているという、一種の入れ子構造が面白いのですが、この「小部屋」は、デザインがまた良いのです。

インターメディアテクは相変わらず写真撮影禁止なので、その様子は下のページに載っている写真を参照するしかありません。

■大澤啓:ギメ・ルーム開設記念展『驚異の小部屋』
  「展示法」の歴史と交流―フランス人蒐集家エミール・ギメ由来の展示什器と
 その再生

 http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v20n2/v20n2_osawa.html
 (画像だけならば、手っ取り早くこちらで)

赤を基調としたメイン展示室とは対照的な、この浅緑の空間は、実に爽やかな印象を与えるもので、ヴンダーカンマー作りを目指す人に、新たなデザインの可能性を示唆するものでしょう。

(赤を基調としたメイン展示室。『インターメディアテク―東京大学学術標本コレクション』(平凡社)より)

…と、デザイン面だけ褒めるのも変ですが、実際、この展示室の目玉は、個々の展示物よりも、それを並べているフランス渡りの古風な什器(19世紀のフランス人実業家、エミール・ギメが自分のコレクションを展示するために誂えたもの)であり、それを配した「展示空間」そのものが展示物であるという、これまた奇妙な入れ子構造になっているのでした。

私は小部屋に置かれたソファに腰をかけ、展示されている「空間」を堪能しつつ、「ヴンダーカンマーとは実に良いものだ」と、今さらながら深く感じ入りました。

   ★

そして、これは全く知らずに行ったのですが、現在、特別展示として『雲の伯爵――富士山と向き合う阿部正直』というのをやっていて、これまた良い企画でした。

特別展示 『雲の伯爵――富士山と向き合う阿部正直』
 http://www.intermediatheque.jp/ja/schedule/view/id/IMT0108

「雲の伯爵」というのは修辞的表現ではありません。
本展の主人公、阿部正直(1891-1966)は、華族制度の下、本物の伯爵だった人で、その家筋は備後福山藩主にして、安政の改革を進めた老中・阿部正弘の裔に当ります。


阿部は帝大理学部で寺田寅彦に学び、1923年には1年間ヨーロッパを遊学。1927年、御殿場に「阿部雲気流研究所」を設立し、本郷西片町の本邸内にも実験室を作り、富士山麓をフィールドとした雲の研究に専心しました。

…というと、何だか気楽な殿様芸を想像するかもしれませんが、阿部は戦後、中央気象台研究部長や気象研究所長を歴任しており、その学殖の確かさを窺い知ることができます。

(阿部正直が撮影した山雲の写真。藤原咲平・著『雲』(岩波書店)所収。『雲』は日本の代表的な雲級図(雲の分類図)で、初版は1929年に出ましたが、阿部の山雲写真は、1939年の第4版から新たに収録されました。)

展示の方は、阿部の研究手法の白眉といえる、様々な光学的記録手段――雲の立体写真や、映画の手法を用いた雲の生成変化の記録などをビジュアルに体感できるものとなっています。

(同上)

広大な富士の裾野、秀麗な山容、その上空に生じる雲のドラマ。
想像するだに胸がすくようです。

(同)

上で殿様芸云々と言いましたが、潤沢な資金を用いた阿部の研究は、まさに「殿様」ならではのものであり、その研究を殿様芸と仮に呼ぶならば、その内でも最良もの…と言ってよいのではないでしょうか。

(この項つづく)

夢の望遠鏡、望遠鏡の夢2016年02月17日 19時36分48秒

来たる2016年3月13日は、日本のアマチュア天文家&望遠鏡愛好家にとって、記念すべき日になります。いや、日本ばかりでなく、世界中のファンにとってもそうでなるはずです。

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天文趣味の一大特徴は、星への愛とともに、機材への愛がうずまいていることです。
必ずしも全ての天文ファンが…というわけでもないのですが、リアル天文愛好家(望遠鏡で実際に星を眺めて楽しむ人)のうち、少なからぬ割合の人が、少なくとも一度は望遠鏡愛に目覚めたことがあるはず。これは、写真愛好家が同時にカメラマニアになるのと類似の現象です。

しかし、望遠鏡愛好家のその後のライフコースは様々です。
早くに熱が冷める人、ほどほどのところで落ち着く人、そして一生かけて機材愛を貫く人。そして、その陰で、あまたの望遠鏡が廃棄され(いちばん最後の幸福なパターンにしても、ご当人が亡くなられた後、その機材愛がご遺族に受け継がれる確率はきわめて低いのです)、貴重な光学文化遺産は日々失われつつあります。

この点は、各地の公立・私立の天文観測施設でも事情は同じです。機材の更新に伴う旧機材の廃棄もあれば、財政難によって施設が閉鎖され、大型望遠鏡が無用の長物化する例も、近年決してまれではありません。

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こうした現状を憂えた人々が、「一般社団法人・天体望遠鏡博物館」を組織し、会員諸氏のボランティア精神に支えられた息の長い取り組みの末に、ついに現実の「天体望遠鏡博物館」が、このたび開設されることになりました。


■天体望遠鏡博物館公式サイト
 http://www.telescope-museum.com/

ロケーションは香川県さぬき市。徳島との県境に近い山ふところに立つ旧・多和小学校(2012年閉校)の校舎が、来月13日、天体望遠鏡博物館として甦ります。

同館代表理事の村山昇作氏は、元日銀マンという異色の経歴のアマチュア天文家。その周囲で活動を支えてこられたのも、みなさん本業を別に持つ、熱心なアマチュア天文家の方たちと聞き及びます。まさに天の時、地の利、人の和、そのすべてが備わった末に成し遂げられた壮挙です。

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この快事は、海外でも大きな注目を集め、アメリカを中心とするアマチュア天文家の交流サイト「Cloudy Nights」の今日の記事でも大きく取り上げられています。以下は、David McGough氏による同博物館訪問記。その写真を見るだけでも、同博物館の一端に触れることができます。この記事は、先ほど Antique Telescope Society のメーリングリストでも配信されたので、今後、多くの人の共感を呼ぶことでしょう。


ヴンダーカンマーの遺風…カテゴリー縦覧:博物館編2015年05月07日 06時17分31秒

博物館の絵葉書を、これまでしょっちゅう取り上げたような気がしたのですが、意外にそうでもありませんでした。今日はこんな絵葉書です。


フランス北部、ベルギーとの国境に近いサントメールの町にある博物館の古絵葉書。
キャプションには、サントメール博物館(Musée de Saint-Omer)とありますが、現在の正式名称は「サンドラン賓館博物館(Musée de l’hôtel Sandelin)」といいます。

■サンドラン賓館博物館公式サイト
 http://www.musenor.com/Les-Musees/Saint-Omer-Musee-de-l-Hotel-Sandelin/

名前にホテルと付いていますが、ここはいわゆる「宿屋」ではなく、貴人が客をもてなす館として設けられた建物です。元はサントメールの領主館だったものを、18世紀後半にフランス貴族のサンドラン家が買い入れて改装し、後に博物館に転用された由。

最初の博物館は、1829年に同地の農林・考古学会(la Société d’Agriculture et d’Archéologie)が設置したもので、このときは主に動物の剥製、化石、民族学資料を展示する場でした。その後、徐々に中世遺物がコレクションに加わり、さらに1899年に市立博物館となるに及んで、サントメールの歴史資料と近世以降の美術作品の展示をメインとする<歴史資料館・兼・美術館>に生まれ変わりました。

この絵葉書は20世紀初頭、まだ同博物館がそれ以前の姿をとどめていた時期に作られたものでしょう。そのため、最初の画像のように、剥製がずらり並んでいるかと思えば、


こんないかめしい武具があったり、



中世にさかのぼる雑多な小像や器物が棚を埋め尽くしていたりで、一応分野別に整理されているものの、その全体はいかにも混沌としています。19世紀には、既にヴンダーカンマーは過去のものとなっていましたが、まだその遺風が辺りに漂っている感じです。

あるいは、近代博物館の展示原理の普及には、地域によってタイムラグがあり、パリを遠く離れたサントメールでは、依然ヴンダーカンマー的な展示を好む気風が強かった…ということでしょうか。まあ単に、小博物館の「脱抑制的勇み足」とも言えますが(日本でもありがちです)、そこにこそヴンダーカンマーの本質が端無くも露呈した…と言えなくもありません。

個人的には、こういう混沌とした雰囲気がわりと(いや、大いに)好きです。

博物学の相貌2015年01月15日 19時22分20秒

博物学は生物学の母。
ただし、この母は娘と比較して、その蒐集への情熱―あるいは「強迫性」―において一層際立っています。

博物学(Natural history)は、そのまま「自然史」と訳されることもありますが、この場合のヒストリーは、狭義の「歴史」ではなく、より一般的に「書き記すこと、記載すること」の意ですから、「自然」の訳の方がしっくりくる…という人もいます。(ただし、「史」の字も、本来は単に「記録する」の意ですから、これはこれで良いという主張にも理があります。)

要は「自然を丸ごと一冊の本にする」ことが、博物学の究極の目標であり、そのため「自然の目録作り」に尋常ならざる努力を傾けた、というわけでしょう。

今でも生物学の一分科として分類学があって、せっせと分類体系の整理や、新種記載に励んでいますが、少なくとも建前としては、分類学にとっての蒐集行為は「手段」であるのに対し、博物学のそれは「目的」化している観があります。

ヴンダーカンマーの画像が、ときに蒐集行為のイコンとして使われますが、近代博物学のそれは、さらに桁違いに徹底しているなあ…ということを、1枚の絵葉書を見て思いました。


裏面のキャプションによれば、Museum National d’Histoire Naturelle (Phanérogamie)、すなわちパリの国立自然史博物館(顕花植物部門)」の内部の光景です。差出の日付は1926年3月22日。

中央に掲げられた過去の偉大な(たぶん)植物学者の肖像を囲んで、三方に植物の腊葉(さくよう)標本、すなわち押し葉がぎっしり。棚の稠密感がすごいですね。何となく「モルグ」を連想しますが、たしかに棚に並ぶのは、植物の「死体」に違いありません。博物学が扱うのは、生物よりも死物なのか…とすら思ってしまいます。

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ウィキペディアによれば、同博物館には、現在、顕花植物の標本だけでも800万点が収蔵されているそうです。さすがにそれだけの点数になると、下のような機能的な保管庫の出番となりますが、詩情という点では、昔の方がまさっていることは否めません。


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ところで、古絵葉書を集める楽しみの1つは、差出人と宛名を見て、意外な人であることを発見することです。

(絵葉書の裏面)

この筆記体はとても読みづらいですが、それでも穴の開くほど凝視して検索を続けていたら、正体が半ば分かりました。

内容は献本(あるいは論文抜き刷り)の礼状で、差出人は自然史博物館所属の誰かでしょう(左下の名前が判読できません)。宛名の方は、当時パリ大学薬学部(Faculté de Pharmacie)で教鞭をとっていたエミール・ペロー教授(Emile Perrot、1867-1951)で間違いなかろうと思います。

「だからどうした」という気もしますが、碩学にちなむ品と聞けば、1枚の絵葉書にも、博物学の香気が一層濃く漂うような気がします。

鹿児島へ(2)…鹿児島県立博物館2015年01月11日 20時17分16秒

さて、いくぶん微妙な宇宙情報館を後にして、次に目指したのは鹿児島県立博物館。
…と言っても、実のところ、今回の旅はすべて行き当たりばったりです。たまたま件のうなぎ屋さんで昼食をとっていたときに、宇宙情報館のことを知り、さらにそこからフラフラと腹ごなしに歩いていたら、ちょっと変わった建物が見えたので、立ち寄ったら博物館だったというだけのことです。まあ、人生はすべからく旅ですから、それはそれで良いのです。


さて、「ちょっと変わった建物」というのはこれです。
天文館通りを抜けると、照国神社や鹿児島城跡のある城山地区に出ますが、その一角にこういう古風なビルヂングが立っていました。


交差点の角に立つ、曲線を生かしたフォルムは、街並みの添景として、よい効果を生んでいます。元は県立図書館として昭和2年(1927)に完成した建物で、昭和56年(1981)から博物館として使用されているそうです。

ここは「博物館」と言っても、歴史系ではなく、純然たる科学博物館です。
で、結論をいえば、行って良かったなあと思います。展示は主に子供の目線で行われていて、いかにも校外学習で訪れる場所という印象ですが、大人が見ても十分楽しめます。いや、大人の方が楽しめるかもしれません。



建物の古風さと相まって、館内にはいかにも懐かしい昭和の科学館の空気が漂っています。


それでも、うら寂しい感じは微塵もなくて、このマングローブ林の原寸大ジオラマなどは、結構お金がかかっている感じです。



 その一方で、素朴な手作り感のある展示も多いのですが、お金をかけてない分、手間はかけているぞと思わせるものがあって、学芸員の方のやる気が感じられます。実際に手で触れられる展示が多いのも特徴でしょう。


シロクマの剥製も、エビ・カニ類の標本も触りたい放題。


地味な「市街地の虫~虫はどこにでもいる~」の展示を見てみます。


蝿嫌いの人には申し訳ないですが、このオオクロバエの標本も、ラベルを見ると気合を入れて作っていることが分かります。作られたのは、たぶん1983年当時に在籍していた学芸員の方(マエノケイゾウさん)。わざわざ展翅もされていますね。
神は細部に宿り給う。こういうところに、博物館の本気具合は露呈するものです。


この「貝の貝」は素敵だと思いました。


アライグマへの注意を喚起する展示。
タヌキやアナグマと並んでいるのが、万人向けで分かりやすい。

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そして、この博物館のもう一つの特徴は、その強烈な郷土愛です。

展示構成は、ほぼ完全に鹿児島の自然に特化しているので、地元の人にとっては、身近な自然を捉えなおすきっかけに、また観光客にとっては、鹿児島という日本の中でもかなり特異な自然環境を大観するよい手引きとなってくれます。(これが本州の中央だと、郷土の自然といっても、他との差別化を図り難く、ちょっとインパクトの弱い展示になってしまうでしょう。)



名産のサツマイモ・黄金千貫と桜島大根の展示。

桜島といえば、写真をとりそこねましたが、桜島と鹿児島の大地を形成する鉱物についての展示室も充実していました。展示室の抽斗は自由に開けることができ、中には新古さまざまの岩石標本がびっしり入っていました。


巨大な屋久杉の年輪を示す展示。


こちらは薩摩黒豚。


説明ボードを読み、映画「もののけ姫」で、知恵に優れた老猪・乙事主(おことぬし)が、若いイノシシたちの退歩を嘆いたのは、こういうことだったのか…と思いました。


入口を入ってすぐのところに飾られている「ウシウマ」の骨格標本。
牛だか馬だかはっきりしませんが、聞いてみると「牛のような馬」で、やっぱり馬なのだそうです。秀吉が朝鮮に侵攻した慶長の役の際、当時の島津の殿様が、半島から連れ帰った馬の子孫で、やっぱり鹿児島にちなむ動物です。昭和になって最後の個体が死に絶え、今は骨のみがこうして空しく残っています。

鹿児島へ(1)…宇宙情報館2015年01月10日 12時29分44秒


(市内から見た桜島)

昨年末に鹿児島に行ってきました。
そこでの理科趣味的見聞について、メモ書きしておきます。


今回最初に訪れたのは、鹿児島の繁華街・天文館に、2年前(2013年)にオープンした宇宙情報館


まあ、ここは肉屋さんの2階にちょっとした展示があるだけなので、内容はまあ何ですが、これはこの場所にこういうスペースがあるという事実が何よりも大事です。

「天文館」の地名は、以前も書いたように、薩摩藩の天文観測施設・明時館がここにあったことにちなみます。そして、その明時館の跡地に立つうなぎ屋さんの篤志により、こうした宇宙をテーマにした展示施設が作られたのでした。

リーフレットには、

「日本唯一のロケット基地 鹿児島」
「JAXA 国立天文台 鹿児島大学 鹿児島人工衛星開発協議会 合同展示」

の文字が見え、その開館記念日は4月12日、すなわちガガーリンが世最初の有人宇宙飛行に成功した日です。そして、この肉屋さんが同居しているビルは、宇宙ビル」という壮大な名前を持っているのです。ですから、宇宙好き・ロケット好きの人は、ぜひともここに足跡をしるす必要があります。


私も館内で「はやぶさ2」のDVDを視聴し、H-IIAロケットのボールペンを買い、日本の宇宙開発(の周縁)に、ささやかな足跡を残すことができました。

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公式サイトはまだ開設されていないので、以下に参考ページを貼っておきます。地元のテンパーク通り商店街のサイトに掲載されている施設紹介です。


(この項つづく。次回は鹿児島県立博物館へ。)

インターメディアテクを、なおいっそう振起せん(後編)2014年10月15日 06時57分25秒

インターメディアテク(IMT)のミュージアム・ショップに、ぜひ並んでいてほしい品。
それは「IMTのステレオ写真セット」です。

(十文字美信、『ポケットに仏像』シリーズ、小学館)

以前、3D本ブームがありましたが、あれのIMT版を出したらどうか、いわば、『ポケットにIMT』というわけです。

スマホでせせこましくバーチャル展示を眺めるぐらいなら、ステレオ写真の不思議なリアリティに浸る方が、IMTの場合、余程気が利いている気がします。もちろん製本すると高くつくので、バラの写真カードで構いません。

   ★

…というのは、パリの自然史博物館のステレオ写真を見ていて思い付いたことです。


(いちばん下のはパリではなく、オックスフォードの自然史博物館)

19世紀のステレオ写真ブームの頃は、自然史博物館に限らず、ルーブル美術館あたりでも大量のステレオ写真が作られて、人々に歓迎されました。現在でも、自館のオリジナル・ステレオ写真を制作販売しているミュージアムは少なくないようなので、これは別に事新しい提案ではありません。

とはいえ、IMTは展示空間も奥行があるし、造形的に面白いモノが多いので、3D化のしがいがあるんじゃないでしょうか。しかも、ミュージアム・ショップがあの体たらく(失礼)ですから、ここはあえて愚説をのべてみました。

インターメディアテクを、なおいっそう振起せん(前編)2014年10月14日 06時52分50秒

東京に行く用事があると、たいてい帰りに、東京駅近くのインターメディアテク(IMT)に寄ることになります。もちろん、IMTも悪くないですが、しかし、皆さんあそこに不満はないですか?

私には若干不満があります。
その最大のものは、ミュージアム・ショップの貧弱さです。

行くたびにショップを覗くのですが、何だかあまりIMTとは関係なさそうな工芸品が、尋常でない価格で売られていて、結局、絵葉書ぐらいしか買う物がありません。あの有様は、とても本気でやっているとは思えませんし、いつも残念に思います。

もちろん、平凡社から出ている、図録兼用の書籍『インターメディアテク―東京大学学術標本コレクション』(西野嘉章編)は、1,800円という値段からすると、驚くほどの図版と情報量を含み、あれを1冊買えば、IMT土産としては十分ですが、その分、他のグッズが見劣りすること甚だしいものがあります。



そこで、私なりに考えました。
IMTのムードを損ねることなく、しかもリーズナブルで、万人に喜ばれるものを。
これはぜひ西野館長に進言申上げ、そして、私自身も手にしたいです。

(この項つづく)