あの日、鉛筆は青いノートに虫たちの生を記録した2021年08月27日 06時27分54秒

夏休みももう終わりです。
でも、今年は夏休みが終わるのか終わらないのか、混乱している現場も多いと聞きます。夏休みが伸びて嬉しい…と、子どもたちが心底思えるならまだしもですが、やっぱりそこには不安な影が差していることでしょう。

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そういえば今年の夏休みが始まるころ、1通のメールが届きました。
古書検索サイトの「探求書リスト」に登録してあった本が見つかったという知らせでした。リストに登録したのはもう何年も前なので、一瞬キョトンとしました。

実のところ、本自体の記憶も曖昧です。しかし、小学校の図書室で繰り返し読み、それを繰り返し読んだ時の「気分」だけは、ずっと後まで残っていました。その気分をもう一度味わいたくて、一生懸命探した努力がようやく実ったのです。

それは『昆虫の野外観察』という本です。


■杉山恵一(著)
 昆虫の野外観察 (カラー版観察と実験14)
 岩崎書店、1974


内容は身近な昆虫の生態を、小学生向けにやさしく解説した本で、格別特色のあるものではありません。「では、昔の自分はなぜこの本に夢中になったのか?」と考えながらページをめくっていたら、その理由が分かりました。


それは本の最後に「野外観察のしかた」という章があって、さらに「観察記録の実例」というのが載っていたからです。子ども時代の私がくり返し読んだのは、この「観察記録の実例」でした。以下はその一例です。


「1963年4月23日 晴
 東京都町田市
 道路わきの電柱にキイロアシナガバチがとりついて、その表面からセンイをけずりとっているのを見た。頭を上にしてとまり、6本の足をふんばり、少しずつ下にさがりながら、口でセンイをけずりとっている。ときおり口をはなし、前足を口のあたりにもってゆく。センイを丸めているらしい。5分間ほどで仁丹粒ほどのかたまりをつくって飛びたった。電柱の表面には、ナメクジが通ったようなかじりあとがついていた。そのほかの箇所にも何本もこのようなあとがあるところから、この電柱にはかなり多くのハチが、巣の材料をとりにきたことがわかる。」

おそらく、著者の杉山氏自身の実見であろう、こういう観察記録がそこにはたくさん載っていました。もちろんそれまでも昆虫の生活をじっと覗き見ることはありましたが、それを客観的な記録にとどめるということが、当時の私には非常に科学的な営みに感じられたのです。単なる「虫捕り」で終わらずに、小さな昆虫学者たらんとするならば、こうした活動こそやらねば!…みたいな気分だったのでしょう。「ファーブル昆虫記は、ファーブル先生でなくても書けるぞ!」という心の弾みもあったかもしれません。

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当時、リング綴じの小さな青いノートを野帳としてポケットに入れていたのを覚えています。そこには杉山氏の文章をまねて、いくつかの観察記録が書かれていました。でも、ここが私の限界で、鈍(どん)な私はそこからさらに鋭い観察眼をはぐくむことなく、この観察ブームは一時のことで終わったのでした。

それでも一時のこととはいえ、身近な自然観察を真剣にやったのはとても良いことでした。今もその真剣さを懐かしく思うからこそ、何十年も経ってからこの本を探したのだと思います。

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これは私個人のちっぽけな経験に過ぎませんが、こういう小さな経験が人生において決定的に重要であったりします。似たような思い出のある方ならば、おそらく頷いて下さるのではないでしょうか。

望遠鏡と顕微鏡2021年03月04日 22時32分14秒

昨日の記事には、下の写真を添えると良かったかなと、後から思いました。


R.A. Proctorの『Half Hours with the Telescope』(1902)と、Edwin Lankesterの『Half Hours with the Microscope』(1898)。日本の新書版とほぼ同じサイズの、ごく小ぶりの本です。もちろん専門書ではないし、特にマニア向けの本でもありません。タイトルから分かるとおり、ひと時とは言わず、せめて半時を趣味に充てて楽しもうじゃないかと、一般の読者に呼びかけている本です。

このブックデザインは、当時、望遠鏡趣味と顕微鏡趣味を「好一対」のものと感じる人が、少なからずいたことを物語るようです。博物学が依然として隆盛だった頃ですから、せめてどちらか一方に通じていることが、紳士・淑女のたしなみだ…ぐらいの雰囲気だったかもしれません。

しかし、同じレンズを覗き込むのでも、両者の違いは歴然としていました。


望遠鏡の向こうに広がるのは、どこまでも深い闇と、かそけき光の粒と雲です。
いっぽう顕微鏡の視野を満たすのは、複雑な形象と鮮やかな色彩。

それぞれが世界の秘密を分有するビジョンとして、そこに優劣はないのでしょうが、やっぱり天文趣味は、地味は地味ですね(少なくとも眼視の場合はそうでしょう)。視力よりも想像力が求められる趣味だ…と呼ばれるゆえんです。

100年前の原始世界2021年02月11日 20時39分08秒

これもついでと言えばついでですが、前回の星図と同じ意図のもと作られた、テオドール・ライハルト・ココア社の別シリーズのカードを見てみます。

(巨大な肢骨を手に、感慨にふける古生物学者)

■Kakao-Compagnie Theodor Reichardt(編)
 『Tiere der Urwelt in 30 Kunstblättern nach wissenschaftliche 
 Material bearbeitet.』
 (科学的資料に基づく全30枚の美しい図版で見る原始世界の動物たち)
 刊年なし(1900年頃)、多色石版画 全30枚

これまた上の写真に写っているのはポートフォリオで、この中に30枚の図版カードがはさまっています。


静かにまたたく星座よりも、太古の動物は一層子供たちの心を捉えたのでしょう。
この動物セットは、その後すぐに続集が出ました。

その辺の書誌がいくぶん複雑なのですが、まず手元にあるのは、1900年ごろに出た同シリーズの第1集です。その後、あまり間をおかず、同じポートフォリオ・デザインで第2集が出て、全60枚のセットになりました。

その後、1910年代になってからだと思うのですが、上記60枚に新たに30枚を加えた全90枚を、図版の順序等を入れ替えて、新たに全3集に編集しなおした新シリーズが出ました。こちらはポートフォリオ・デザインが翼竜の表紙絵に変わっています。

(全3集からなる新シリーズ。ネット上で拾った画像です)

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さて、実際の図版をさらに見に行きます。


原始世界の動物…というと、恐竜が思い浮かびますが、その前に新生代の哺乳類もいろいろ登場します。編集の方針としては、あたかも地表から化石を掘り進めるように、新しい時代から古い時代へと、時間をさかのぼるように図版が配列されているようです。


カラフルな多色石版は、目で見て愉しいのですが、100年後の目で見ると、どれも微妙に変な感じがします。


その「変な感じ」の大きな要素は、もちろん化石骨から生体を復元する、学的水準の変化でしょう。ステゴサウルスの姿もその例にもれません。

(犬塚則久(著)『恐竜復元』、岩波書店、1997より)

上の本も、今となってはちょっと古いかもしれませんが、左上のマーシュによる1891年の復元図と、右下の1990年代の復元図とを比べれば、頭部から尻尾まで大きく逆U字を描いた「昔のステゴサウルス」と、頭をぐっと反らし、尻尾もピンと持ち上げた「今風のステゴサウルス」の違いに目を見張ります。この動物シリーズに出てくるステゴサウルスは、もちろん「昔のステゴサウルス」です。(実のところ、私の中のステゴサウルスも、こちらに近いです。)


このイクチオサウルスも、いかにも変です。今だと完全にイルカ化した姿で描かれますが、当時はそこに「恐竜っぽさ」を加味しないと、何だか落ち着かなかったのでしょう。

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ただ、ここに漂う「変な感じ」は、どうもそれだけではなさそうです。
最初は分かりませんでしたが、しばらく考えたら、その理由が分かりました。




そう、動物たちがやたらと同種で、あるいは異種で、戦っているのです。
100年前の人々にとって、原始の世界は「絶えざる闘争の世界」とイメージされており、そこらじゅうで阿鼻叫喚が上がっていた…と考えていた節があります。

そこには現実の帝国主義的な植民地獲得競争と、社会的ダーウィニズムの流行が、当然影を落としているのでしょう。

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それと、もう一つ「変な感じ」の理由を挙げることができます。


岩礁に上がり、沈む夕日をじっと見つめる古生代の甲冑魚。
甲冑魚がこんなふうに陸に上がったのかどうか、そこも不審ですが、それよりも気になるのは、この図に典型的に見られる「不自然な擬人化」です。これまた100年前の博物学には、たっぷりあった成分だと思います。

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原始世界のタイムスケールに比べて、100年という時間はいかにも短いです。
それでも結構な勢いで、原始世界のイメージは上書きされ続けています。それは取りも直さず人間世界の変化の速さの反映でしょう。

ただ、今日の記事は何となく現代の目線で、100年前の世界を指弾する調子で書いていますが、擬人化傾向ひとつとっても、本当に現代は100年前よりも「正しい」対象の捉え方に近づいているのか…というと、何だか心もとないところもあります(だからこそ「新型コロナとの戦い」みたいな言い方が好まれるのでしょう)。

科学の目…科学写真帳(後編)2020年12月20日 08時52分28秒

ミクロの世界ばかりではなく、科学の目はマクロの世界にも向けられます。


上はウィルソン山天文台の100インチ望遠鏡で撮影したオリオン座の馬頭星雲


こちらはパロマー山天文台の200インチ望遠鏡が捉えた「かに星雲」。左は赤外線、右は深紅色の帯域(crimson light)で撮影されました。波長によって対象の見え方が劇的に変わる例です。

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いずれも天文ファンにはおなじみのイメージであり、依然として興味深い天体だとは思いますが、宇宙的スケールでいうと、ずいぶん「ご近所」の天体を選んだものだなあ…という気もします。「天体、遠きがゆえに貴からず」とはいえ、この辺のチョイスは、60年余りの時を隔てた宇宙イメージの変遷を如実に物語ります。

今、もし同様の企画が立てられたら、写真の選択は随分変わるでしょう。
地球周回軌道上の宇宙望遠鏡の登場、補償光学の発展、デジタル撮像と画像処理技術の進歩によって、我々の宇宙イメージは劇的に変わったからです。天界のスペクタクルは一気に増えましたし、宇宙を見通す力は100億光年のさらに先に及び、超銀河団からグレートウォールの構造まで認識するに至りました。

科学の進歩は実に大したものです。
とはいえ、この静謐なモノクロ写真は、最新の科学映像とはまた別の美と味わいを感じさせます。そこに優劣はないのでしょう。

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ついでなので、本書に収められた写真の細部も見ておきます。


この写真集は、写真原版をハーフトーン(網点)で製版しています。


各図版の周辺には印刷時の圧痕がくっきりと見られます。圧をかけたということは凹版印刷を意味し、しかもこれだけ痕が残るのは、相当プレスした証拠です。要は、通常の印刷とは異なる一種の美術印刷なのだと思いますが、背景の黒のマットな仕上がりが美しく、いかにもアートなムードが漂います。

科学の目…科学写真帳(中編)2020年12月17日 06時56分42秒

(昨日のつづき)

こんな写真集を見つけました。


■Franklyn M. Branley(編)
 『Scientists' Choice: A Portfolio of Photographs in Science.』
 Basic Books(NY)、1958

編者のブランリーは、ニューヨークのヘイデン・プラネタリウムに在籍した人です。
表題は『科学者が選んだこの1枚』といったニュアンスでしょう。各分野の専門家が選んだ「この1枚」を全部で12枚、それをバラの状態でポートフォリオにはさみ込んだ写真集です。さらに付録として、『Using Your Camera in Science(手持ちのカメラで科学写真を撮ろう)』という冊子が付属します。


裏面の解説を読んでみます。

 「ここに収めた写真は、その1枚1枚が芸術と科学の比類なき組み合わせである。いずれも、一流の科学者が自分の専門分野の何千枚という写真の中からお気に入りの1枚を選んだものばかりだからだ。電子やウイルスから、飛行機翼や星雲に至るまで、幅広いテーマを扱ったこれら一連の写真は、多様な科学の最前線、すなわち風洞、電子顕微鏡、パロマー望遠鏡、検査室等々におけるカメラの活躍ぶりを示している。どの写真も、科学者であれ素人であれ、それを見る者すべてに、自然と物質のふるまいに関する新しい洞察をもたらし、その美しさの新たな味わい方を教えてくれる。」


1950年代に出た科学写真を見ていると、当時の科学の匂いが鼻をうちます。


表紙を飾った酸化亜鉛の電子回折像
酸化亜鉛の結晶を電子ビームが通過するとき、電子が「粒子」ではなく「波」として振る舞うことで、その向こうの写真乾板に干渉縞が生じ、ここではそれが同心円模様として現れています(形がゆがんでいるのは、電子線が途中で磁石の力で曲げられているためです)。奇妙な量子力学的世界が、写真という身近な存在を通して、その正当性をあらわに主張している…というところに、大きなインパクトがあったのでしょう。


美しい放射相称の光の矢。
これも回折像写真で、氷の単結晶のX線像です。(撮像もさることながら、単結晶の氷を作るのが大変な苦労だったと…と解説にはあります。)


科学写真が扱うのは、硬質な物理学の世界にとどまりません。こちらはショウジョウバエの染色体写真。2000倍に拡大した像です。
本書の刊行は1958年ですが、当時すでに染色体の特定の部位に、特定の形質(翅の形、目の色・大きさ等)の遺伝情報が載っていることは分かっていました。そして1953年には、あのワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造の発見があり、生命の秘密の扉が、分子生物学の発展によって、大きくこじ開けられた時代です。

   ★

ときに、「当時の科学の匂い」と無造作に書きましたが、それは一体どんな匂いなのでしょう?個人的には「理科室の匂い」です。薬品の匂いと、標本の匂いと、暗幕の匂いが混ざった不思議な匂い。

でも、それだけではありません。そこには「威信の匂い」や「偉さの匂い」も同時に濃く漂っています。この“科学の偉さ”という話題は、おそらく「科学の社会学」で取り扱われるべきテーマでしょうけれど、何にせよ当時の科学(と科学者)は、今よりも格段に偉い存在でした。本当に偉いかどうかはともかく、少なくとも世間は偉いと信じていた…という点が重要です。

「偉い」というと、何だかふんぞり返ったイメージですが、むしろ光り輝いていたというか、憧れを誘う存在でした。その憧れこそ、多くの理科少年を生む誘因となったので、当時の少年がこの写真集を手にすると、一種の「望郷の念」を覚えると思います。いわば魂の故郷ですね。そう、これはある種の人にとって、「懐かしいふるさとの写真集」なのでした(…と思っていただける方がいれば、その方は同志です)。

(この項つづく)

科学の目…科学写真帳(前編)2020年12月16日 18時36分04秒

なかなか寒いですね。昨日は初雪。

年内に雪が降るのは久しぶりな気がします。でも、今調べてみたら、この20年間で12月に初雪が降らなかったのは3回だけで(名古屋の話です)、昨シーズンが2月10日と飛び切り遅かったので、何となく早く感じただけのことです。前回の末尾で「人間の目と心は案外いい加減」と書きましたが、記憶もかなりいい加減ですね。

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昔、NHKの科学番組で「レンズはさぐる」(1972-78)というのがありました。
さまざまな事象を科学的に検証し、それをビジュアルに見せる番組で、子供の頃に見て大層おもしろかった記憶があります。


早野凡平さんが体を張って「雨の降り方が一定なら、走っても歩いても濡れ方は同じだ」と喝破した回などは、今でも知識として大いに役立っています(走れば濡れる時間は短い代わりに、前面から雨を浴びやすくなるためです)。

さらにそれ以前は、「四つの目」(1966-72)という子供番組があって、こちらは記憶が曖昧ですが、狙いは同じものでした。(4つの目とは、「拡大の目、透視の目、時間の目、肉眼の目」で、テーマに応じて、いろいろ撮影の工夫を凝らしていました)。

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この手の番組は、テレビが普及する前からあって、岩波映画製作所が老舗です(1950年設立)。ここは“雪の博士”中谷宇吉郎が中心になって設立された…というのは、さっき知ったんですが、紙媒体の「岩波写真文庫」と並んで、多くの良質の映像作品を生み出し、そのうちの1つである「たのしい科学」というシリーズは、半ば伝説化しています。

(岩波写真文庫7 『雪』、1950)

戦後の一時期、科学映画と呼ばれる一群の作品が確かにありました。
そして、風景写真や人物写真と並んで「科学写真」というジャンルもまたあったのです。これは日本だけのことではありません。

(この項つづく)

夏の日の研究室にて2020年08月15日 11時49分22秒

昨日、よんどころない事情があって――というのは、プリンターのインクカートリッジを取り換える必要があって――机脇の本を移動させました。その過程で、1冊の本が顔を出して、「おっ」と思いました。

(装丁は著者自ら行い、表紙絵も著者)

■中谷宇吉郎(著) 『寺田寅彦の追想』、甲文社、昭和22(1947)

雪の研究で知られる中谷宇吉郎(1900-1962)が、恩師・寺田寅彦(1878-1935)に寄せた随筆を、一書にまとめた文集です。(個々の文章自体は、昭和13年(1938)に出た『冬の華』(岩波書店)をはじめ、既刊の自著からの再録が多いです。)


それをパラパラ読んで、「うーむ、読書というのは良いものだな」と思いました。
名手の文章を読むのは、本当に贅沢な時間です。なんだか心に滋養分がしみこむような感じがします。

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季節柄、「寅彦夏話」というのを読んでみます(初出は昭和12年8月)。


 「先生は夏になると見違へるほど元気になられて、休み中も毎日のやうに実験室へ顔を出された。そしてビーカーに入れた紅茶を汚なさうに飲みながら、二時間くらゐ実験とはとんでもなく懸けはなれた話をしては帰って行かれた。」

‘理科系あるある’で「ビーカーでコーヒーを飲む」というのがありますが、あの風習は、どうも戦前からあるみたいですね。で、そこで出たのが「化物の話」。(〔 〕は引用者)

 「僕〔=寅彦〕も幽霊の居ることだけは認める。然しそれが電磁波の光を出すので眼に見へるとはどうも考へられない。幽霊写真といふやうなものもあるが、幽霊が銀の粒子に作用するやうな電磁波を出すので写真に写るといふ結論にはなかなかならないよ。」

寅彦先生は歯切れがいいですね。

 「海坊主なんていふものも、あれは実際にあるものだよ。よく港口へ来ていくら漕いでも舟が動かなかったといふ話があるが、あれなんかは、上に真水の層があって、その下に濃い鹽水の層があると、その不連続面の所で波が出来る為なんだ。漕いだ時の勢力(エネルギー)が全部、その不連続面で定常波を作ることに費やされてしまふので、舟はちっとも進まないといふやうなことが起るのだ。」

こんなふうに怪異を科学的に解説するところが、理学者らしいわけですが、寅彦の真骨頂は、むしろそうした尤もらしい解説以前に、現象への向き合い方に現れています。

 「人魂なんか化物の中ぢゃ一番普通なものだよ。あれなんかいくらでも説明の出来るものだ。確か、古いPhil. Mag.(物理の専門雑誌)に」

…と、具体的な誌名を挙げて、人魂に関する原論文を読むよう、若き日の中谷博士に勧め、博士はさっそくそれを実行します。

 「読んでみたら、その著者が人魂に遭ったので、ステッキの先をその中に突っ込んで暫くして抜いて、先の金具を握って見たら少し暖かかったとかいふ話なのである。〔…〕要するにそれだけのことで案外つまらなかったと云ったら、大変叱られた。」

寅彦は弟子をこう諭します。

 「それがつまらないと思ふのか、非常に重要な論文ぢゃないか。さういふ咄嗟の間に、ステッキ一本で立派な実験をしてゐるぢゃないか。それに昔から人魂の中へステッキを突っ込んだといふやうな人は一人も居ないぢゃないか。
 先生の胃の為には悪かったかもしれないが、自分にとってはこれは非常に良い教訓であった。自分は急に眼が一つ開いたやうな気がした。」

こんな風に、寅彦は暑中休暇のつれづれに弟子たちと閑談し、目の前の平凡な現象の奥に、いかに重要な論点がひそんでいるか、それを実に面白くてたまらないといった口調で語りつづけ、「時間があれば自分で実験したいのだが…」と、弟子を盛んに焚きつけます。

そこで出た話題は、線香花火の火花の形金平糖の角の生成墨流し(マーブリング)の膠質学的研究…等々で、その論を聞いて中谷博士もまた大いに悟るところがあったのでした。いかにも暢気なようですが、そこには真剣で切り結ぶような真率さもあり、真剣なようでいて、やっぱり暢気さが感じられる。実にうらやましい環境です。

   ★

この本は中谷博士の自筆献辞入りなので、大切にしていたものです。

(献呈先は丁寧に削り取られています。贈られた人が本を売り払うとき、いろいろ斟酌したのでしょう)

しかし、本の山の中に埋もれさせることを、ふつう「大切にしていた」とは言わないので、ここは中谷博士に赦しを乞わなければなりません。


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【閑語】

今年は夏休みが短いので、夏休みの宿題も例年とはずいぶん違うのでしょう。

ともあれ、夏休みの宿題への取り組み方は、その後の人生の縮図です。
最初にパッとやってしまう子、コンスタントにやり続ける子、最後の最後にようやく腰を上げる子、最初にパッとやろうとして根気が続かず、結局最後になってしまう子…そういう傾向は、大人になっても変わらないことを、私は会う人ごとに確認して、大半から「まさにその通りだ」という証言を得ています。

みんな違って、みんないい…かどうかは分かりませんが、人間、そういうものなのです。

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ここに来てしきりに思うのは、「人生の宿題」への取り組み方も、同様だということです。私は最後の最後にようやく腰を上げるタイプなので、まだ全く手つかずで、だからこそ「早くやらなくちゃ」と、ジリジリ焦りを感じています。

ただ問題は、「人生の宿題」が何であったか、忘れてしまっていることで、確かに何か宿題を与えられた気はするのですが、それが何だか思い出せません。

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夏休みも、人生も、宿題が完成しようがしまいが、容赦なく終わってしまいます。
「だから、やらなくてもいいんだ」とまで悟れれば別ですが、なかなかその境地にも達しがたいです。

墓参り2020年08月10日 11時13分30秒

今年の夏はこんな有様ですから、帰省もお墓参りもできません。
しょうがないので、よその家のお墓参りをすることにします。

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『気球に乗って。ユングフラウを越えてイタリアへ』の紹介記事を書くにあたって、著者ゲプハルト・グイヤーのことを調べていたら、ひょっこり彼のお墓の前に出ました。もちろんネット世界でのことです。


場所はチューリッヒ東郊、バウマの町の一角。
グイヤー家は鉄道事業で成功した、地元の名望家でしたから、そのお墓も立派で、ゲプハルトのお父さんにあたるアドルフ・ハインリヒの肖像を中心に、一族の名前がずらりと刻まれています。ヨーロッパにも、「○○家先祖代々の墓」みたいなのが、やっぱりあるんですね。

20代でユングフラウ鉄道の支配人を務めた、我らがゲプハルト・グイヤーは同家の三男坊。墓石を見ていくと、一族の名前の中に、ゲプハルトと妻マリーの名が、「GEBHARD GUYER 1880 – 1960」、「MARIE GUYER-LÖBENBERG 1878 – 1959」として読み取ることができます。

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ゲプハルト・グイヤーは気球に乗って広大な視野を獲得しました。
現代の我々は、たとえ懐が素寒貧でも、ネットによってさらに広大な視野を得ることに成功しています。それが良いか悪いか、まあせいぜい良いと思って、より良いものとなるよう努めるしかないんでしょうね。

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縁あってお墓に詣でたので、夫妻に花を一輪手向けておきます。


グイヤーも日ごろ目にしたであろうエーデルワイス。
花言葉は「大切な思い出」。

それ自体が花のように美しい『Atlas der Alpenflora(アルプス植物図鑑)』(Anton Hartinger & Dalla Torre(著)、Eigenthum und Verlag des Deutschen und Oester(Wien)刊、1884)の表紙から採りました。



気球に乗って(後編)2020年08月09日 12時38分10秒

今日も気球の旅を続けます。


第14図 「エーベニフルーとグレチャーホルン」

我々はスイスのベルン州を出発し、その南のヴァレー州に入ろうとしています。エーベニフルー(3962m)とグレチャーホルン(3983m)は、その州境にそびえる峰々。
山々を覆うのは白雲ばかりではありません。不気味な黒雲も飛来して、気球に迫ります。


第18図 「ユングフラウから見たメンヒとアイガー」
「オーバーラント三山」と呼ばれる、ユングフラウ(4158m)、アイガー(3970m)、メンヒ(4107m)を一望しながらの空の旅。写真に写っているのは、アイガーとメンヒで、ユングフラウは、今我々の真下にあります。現在の高度は4300m。(オーバーラント三山の名を意訳すれば、「乙女岳」、「剱岳」、「坊主岳」ですから、こうして見ると、山の名前というのは東西よく似ていますね。)


第21図 「フィンシュターアールホルン」

高度は4500mに上がりました。どちらを向いても万年雪をいただく山また山です。中央の峰は4274mのフィンシュターアールホルン。気球の位置からは、おそらく7~8km東に位置するはずですが、ここまで広い視野を獲得すると、すぐ間近に感じられます。

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ひょっとしたら、山岳写真を見慣れている人には、上の写真もあまりインパクトがないかもしれません。テレビの山番組を見ても、似たような画像には事欠きませんから。

しかし、ここで想像力を働かせてください。我々は今、グイヤーのカメラの目を借りて、114年前の気球に乗ってるんですよ。あたりは身も凍る冷気に包まれ、風の音だけがヒューヒューと鳴り、頭上には青黒い空が広がり、目の前には巨大な入道雲が見え、眼下には雪をいただく高山が果てしもなく連なっているのです。

しかも、我が身を託す「かご」はフラフラと覚束ないし、ちょっと歩けばギシギシいうし、何か突発事態が生じたら一巻の終わりだし、想像力を発揮しすぎると、即座に恐怖で縮み上がってしまいます。こんなに避暑にふさわしい場所も他にちょっとありません。

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第22図 「北東から見たアレーチュホルン」

これまた4193mの高峰です。山もすごいが、雲もすごいですね。凄絶といおうか、凄涼といおうか、間近で見たらかなり怖いでしょう。


第26図 「アレッチ氷河とメルイェレン湖」

毎年高山に供給される雪が氷となって流れ下るのが氷河です。ヴァレー州――その南はもうイタリア――にあるアレッチ氷河は、ヨーロッパ・アルプス最大の氷河。写真の手前が氷河で、そこから直角に切れ込んだ谷筋に、小湖が連なっているのがメルイェレン湖。氷河を間近で見るために、降下しながらの撮影。


第27図 「牽引してアレッチ氷河を縦走」

一行は、南北に延びるアレッチ氷河に沿って、地面すれすれの高さを飛び、一部は地上から気球を牽引して進みました(単純に、より近くから氷河を見たかったからです)。


第28図 「アレッチ氷河」
地上から見た光景。


第29図 「アレッチ氷河を振り返ったところ」

一行は氷河をあとにし、ふたたび気球に乗って上昇します。
昼過ぎに出発した旅は、現在午後6時を回ったところです。6月のスイスの日の入りは、午後9時過ぎですから、まだ辺りは明るいです。


第31図 「ブリーク上空の黄昏」

谷あいの町ブリークに差し掛かりました。日が長いとはいえ、山の端に日が沈むと、山麓は、早くも夕闇に包まれます。現在午後7時、高度は4400m。イタリアとの国境が徐々に近づいてきます。


第32図 「ベルナー・アルプス〔スイス側〕を振り返ったところ」

ブリークを過ぎ、もう一山越えればイタリアです。高度4500mから振り返ったスイスの山々。この後、本格的に夜を迎えますが、夜間も気球は休まず南下を続け、その間にイタリア入りをします。当然のことながら、夜間は写真撮影も休止です。


第33図 「アルプスの南、高度6000m」

イタリアに入り、標高1000m前後のなだらかな丘陵が続きます。夜間は低高度を保った気球ですが、夜明け前に一気に上昇し、午前8時30分には、これまでで最高の高度6000mに達しました。ちっぽけな入道雲なら、その頭頂を見下ろす高さです。これが冒険のフィナーレ。


第34図 「ジニェーゼに着陸」

その後、気球は一気に降下態勢に入り、午前9時30分、ジニェーゼの村(標高707m)に無事到着。野花の咲き乱れる下界に帰ってきました。正味21時間の空の旅でした。この後、気球もロープも一切合財をかご詰めして、陸路帰還します。

   ★

非日常から日常に戻るのはちょっぴり寂しいような、ホッとするような、微妙な感情が交錯しますね。今年の夏は、帰省もまかりならぬという、これまた非日常の夏ですが、こちらの方は、極力早く日常に戻ってほしいです。

ともあれ、こうして文字にしたら、暑中にちょっとした涼が得られました。

(この項おわり)

気球に乗って(中編)2020年08月08日 13時26分37秒

前回、「さっそく見てみましょう」と調子のいいことを言いましたが、ドイツ語がネックになって、気球の旅はいきなり逆風を受けています。まあ、あまり深く考えず、雰囲気だけでもアルプス気分を味わうことにします。

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この本には、全部で48枚の記録写真が収められています。いずれも大判の2LないしKG判相当で、1ページにつき1枚、裏面はブランクという贅沢な造り。ですから、本書は「写真集」と呼んだ方が正確です。

そのうち第1図から34図までが、この1906年6月29日から30日にかけての冒険飛行の記録で、第35図から48図までは、著者グイヤーが別の機会に空撮した、同様の山岳写真になっています。

冒険の記録は時系列に沿って並べられています。

(上の写真を含め、以下周囲に余白がないものは、原図の一部をトリミングしたもの)

第1図「充填開始」
6月29日朝、アイガーの高峰(3974m)を背景に、いよいよ「コニャック号」にガスの充填が始まりました。場所はユングフラウ鉄道のアイガーグレッチャー駅の脇です(現在は延伸されていますが、当時はここが終着駅でした)。


第3図「出発前」
飛行直前の記念撮影です。気球のバスケットに立つのが、船長のド・ボークレア。その手前、腰に手をやった偉丈夫はファルケ。左側の男女二人が、ある意味、今回の主役であるゲプハルト・グイヤーと婚約者のマリーのカップル(マリーは恥ずかしいのか顔を伏せています)。

(使用したインクの違いによって、同じ本の中でも写真によって色合いがずいぶん違います。以下、手元のディスプレイ上で、なるべく原図に近くなるよう調整しました。)

第4図「アイガーグレッチャー駅の鳥瞰」
いよいよ気球は上昇を始めます。

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ここで改めて、今回の旅の航跡を確認しておきます。下がその地図。


といっても、これだけだと画面上では何だか分からないので、航跡を書き入れた図と、グーグルマップを並べてみます。


右側の地図で、青い三角形がユングフラウ。その右上、丸で囲ったのがスタート地点・アイガーグレッチャー。そして右下の丸がゴール地点であるジニェーゼの村。
グーグルマップの方は、両地点を今なら最速4時間で車で移動できることを示していますが、グイヤーたちは、気球に乗ってのんびり1泊2日の空の旅です。でも、結構危なっかしい場面もあって、途中風にあおられたかして、航跡がグニャグニャになっている箇所があります。そして、イタリア国境を越えた後で大きく南に迂回し、いったん地図の外に飛び出してから、再び北上してジニェーゼに到達しています。

この旅の途中で、グイヤーがバスケットの中でパチリパチリと撮ったのが、一連の雄大な山岳写真です。


第6図「ユングフラウ」
気球はスタート直後からすみやかに高度を上げ、高度4000mに達したところで、目の前の乙女の姿を捉えました。大地の峰々と、雲の峰々の壮麗な対照に心が躍ります。

ユングフラウは、アイガー、メンヒと並ぶ「オーバーラント三山」の一つで、その最高峰。高さは4158m。(…というのは知ったかぶりで、私はユングフラウがどこにあるのか、さっきまで知らずにいました。以下の説明も同様です。)


モノとしての本にも言及しておくと、この図はフォトグラビュール(グラビア印刷)で制作されています(全48枚中6枚がフォトグラビュール)。

「グラビア」と聞くと、今の日本では安っぽいイメージがありますけれど、本来の「グラビア印刷」は、それとは全く別物です。その制作は、腐食銅版画を応用した職人の手わざによるもので、そこから生まれる網点のない美しい連続諧調表現は、高級美術印刷や、芸術写真のプリントに用いられました。

ですから版画と同じく、版の周囲に印刷時の圧痕が見えます。


第7図「雲の戦い(Wolkenschlacht)」
高度はさらに4300mに達し、ユングフラウ(画面左端)を足下に見下ろす位置まで来ました。しかし、その上にさらに積み重なる入道雲の群れ。雲は絶えず形を変え、雷光を放ち、自然の恐るべき力を見せつけています。

(後編につづく)