「驚異の部屋」の誕生…カテゴリー縦覧「驚異の部屋」編(おまけ)2015年08月14日 19時39分48秒

ところで、「驚異の部屋」はいつ始まったのか?

もちろん、検索すればそれは15世紀のイタリアで始まり云々…と書いてありますが、ここではもっと身近な話題として、「驚異の部屋」というコトバ(日本語)がいつからポピュラーになったかを書き留めておきます。

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国会図書館の蔵書検索に当ると、「驚異の部屋」を冠した書籍で、最も出版年が古いのは、以下の本だと教えてくれます。

■驚異の部屋 : ハプスブルク家の珍宝蒐集室
エリーザベト・シャイヒャー 著 ; 松井隆夫, 松下ゆう子 訳.
平凡社(1990.12)

(外箱(左)と本の中身)

1990年は平成2年、今からちょうど四半世紀前です。
いわば今年は、本邦における「驚異の部屋」25周年。
昭和時代には「驚異の部屋」をタイトルにした本が全く存在しなかった…というのも、ちょっと意外な気がしました。

そして、その次は9年とんで以下の本。

■文化の「発見」:驚異の部屋からヴァーチャル・ミュージアムまで
吉田憲司 著.
岩波書店(1999.5)

ここで時代は21世紀に替わり、さらに以下のタイトルに続きます(再刊は除く)。

■マーク・ダイオンの『驚異の部屋』 = Mark Dion’s chamber of curiosities : ミクロコスモグラフィア : 東京大学総合研究博物館小石川分館開館1周年記念特別展
西野嘉章 監修.
東京大学総合研究博物館(2003.1)

 
■マーク・ダイオンの「驚異の部屋」講義録 : ミクロコスモグラフィア
西野嘉章 著.
平凡社(2004.4)

■版画でつくる驚異の部屋へようこそ!展 = Willkommen in der "gedruckten" Wunderkammer!
町田市立国際版画美術館(2011.10)


■驚異の部屋 = Chamber of Curiosities KUM Version:京都大学ヴァージョン
東京大学総合研究博物館, 京都大学総合博物館 編 、『驚異の部屋-京都大学ヴァージョン』展実行委員会 監修.
東京大学総合研究博物館(2013.11)


■ギレルモ・デル・トロ創作ノート:驚異の部屋
ギレルモ・デル・トロ 著 ; マーク・スコット・ジグリー 共著 ; 阿部清美 訳.
Du Books(c2014)


■歴史のなかのミュージアム = The museum in history:驚異の部屋から大学博物館まで
安高啓明 著.
昭和堂(2014.4)

ギレルモ・デル・トロ(=映画監督)の著作のように、歴史的な「驚異の部屋」とは直接関係ない本を加えても、わずかに8冊。さらに以下の「ヴンダーカンマー」本2冊を加えても計10冊ですから、いかにも少ないですね。これまた意外でした。
たしかにポピュラーになったとはいえ、やはりマイナーはマイナーです。

■愉悦の蒐集ヴンダーカンマーの謎
小宮正安 著.
集英社(2007.9)

 
■真夜中の博物館:美と幻想のヴンダーカンマー
樋口ヒロユキ 著.
アトリエサード(2014.5) 

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さて、そんな「驚異の部屋」の揺籃期、1992年12月の雑誌「太陽」は、澁澤龍彦の『驚異の部屋』」を特集し、その巻頭に荒俣宏さんの「<驚異の部屋>の大魔王へ」という一文を据えています。

(「驚異の部屋」には「ヴンダーカムマー」と振り仮名が付いています)

これは興味深い一文です。荒俣氏は、前年の1992年6月に、アムステルダムで「遠い世界に触れさせる―芸術と奇品、オランダ収集品1585-1735」という展覧会を見た感想を書き付けたあとに、こう書いています。

 そういえば、わが大魔王澁澤龍彦の著作から唯一学びとらなかったことばがあった、とぼくはそのとき思いついた。ほかでもない、驚異の部屋(ヴンダーカムマー)というドイツ語である。それがどういう部屋で、またどういう歴史を閲(けみ)し、いかなる内実を有したかという点では、わが大魔王はきわめて雄弁にその妖異な魅力を語りつくしていた。いや、澁澤龍彦は、ヴンダーカムマーの典型であるルドルフⅡ世の収集物を筆頭に、これらをひっくるめて妖異博物館なる名称のもとに紹介の筆を惜しまなかったのだ。そして妖異なる名称は異端魔術を連想させる。したがって澁澤龍彦の子どもであるわれわれは、当然のように、長らくこれを錬金術工房に付随するがごとき魔術の側の施設と理解してきた。

日本における「驚異の部屋」のイメージには、当初、非常に魔術的な匂いの濃い、一種のバイアスがかかっていたというのです。たしかに、「驚異の部屋」にはそういう色合いがあるので、これは必ずしも間違いではないでしょうが、それが全てでもないので、やはり偏頗な理解だったと言えると思います。

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そうしたオリエンテーションを持ってスタートした、日本の「驚異の部屋」。
さて、現況はどんなものでしょうか。


93年の「太陽」編集子は、「メリエス=ドラコニアの華麗なびっくり箱が 軽みの90年代にどう展開するか」という問いを、読者に投げかけています。22年後の我々は、はたして彼(彼女)に何と答えるべきか?

「驚異の部屋」の歴史的実体については、その後まちがいなく理解が進んだと思います。そしてそのイメージは、多くの創作家に影響を及ぼし、「驚異の部屋」は今やあらたな像を結びつつあるようにも見えます。

ただし、「驚異の部屋」の真価たる「驚異そのもの」を、我々がそこからいっそう豊かに汲み出せるようになったかどうかは、少なからず疑問です。

驚異はうつろう…カテゴリー縦覧「驚異の部屋」編2015年08月13日 19時45分43秒

「驚異の部屋」が現代の博物館のルーツだ…というのは、たぶん正しい説明だと思います。が、「驚異の部屋」と博物館にはひとつ大きな違いがあります。

それは博物館は、つぶれない限りいつまでも博物館であり続ける一方、「驚異の部屋」は放っておくとじき「驚異の部屋」でなくなってしまうということです。

「驚異の部屋」において、最も大切な要素は、もちろん「驚異」です。
しかし、「驚異」はまさに水もの。昨日目を見張った驚異も、今日はすでに見慣れたものとなり、さらに明日には陳腐極まりないものと化している…というのは、ある意味避けがたいことです。そして一旦そうなってしまえば、もはやそれは「驚異の部屋」ではなく、「陳腐な部屋」に過ぎません。

「驚異の部屋」が「驚異の部屋」であり続けるには、新たな驚異を注入し続けるしか手がありませんが、巨万の富を誇り、権勢並ぶ者なき王侯貴族にしても、そんなことは到底不可能であり、早晩限界にぶつかるのは目に見えています。そういう意味で、「驚異の部屋」とは、原理的に「不可能な趣味」だと言えるんじゃないでしょうか。

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「じゃあ、お前さんのやってることは、まるで意味がないじゃないか」と思われるかもしれません。でも、そんなことはないのです。なぜなら、私が目指しているのは、「驚異の部屋」ではなく、それと似て非なるものであるところの「お気に入りの部屋」だからです。

お気に入りのモノに囲まれて暮らすというのは、ごく穏当な願いで、多くの人が共感してくださることでしょう。そしてお気に入りのモノは、お気に入りの人と同じく、見慣れることはあっても、陳腐化することはありません。むしろ見慣れることで、魅力が増すことだって少なくありません。

「諸人よ、モノに驚異を求めるなかれ、慰藉を求めよ」…と、訓戒を垂れたい思いですが、まあよけいなお節介ですね。

(次回、「驚異の部屋」おまけ編)

ヴンダーカンマーの遺風…カテゴリー縦覧:博物館編2015年05月07日 06時17分31秒

博物館の絵葉書を、これまでしょっちゅう取り上げたような気がしたのですが、意外にそうでもありませんでした。今日はこんな絵葉書です。


フランス北部、ベルギーとの国境に近いサントメールの町にある博物館の古絵葉書。
キャプションには、サントメール博物館(Musée de Saint-Omer)とありますが、現在の正式名称は「サンドラン賓館博物館(Musée de l’hôtel Sandelin)」といいます。

■サンドラン賓館博物館公式サイト
 http://www.musenor.com/Les-Musees/Saint-Omer-Musee-de-l-Hotel-Sandelin/

名前にホテルと付いていますが、ここはいわゆる「宿屋」ではなく、貴人が客をもてなす館として設けられた建物です。元はサントメールの領主館だったものを、18世紀後半にフランス貴族のサンドラン家が買い入れて改装し、後に博物館に転用された由。

最初の博物館は、1829年に同地の農林・考古学会(la Société d’Agriculture et d’Archéologie)が設置したもので、このときは主に動物の剥製、化石、民族学資料を展示する場でした。その後、徐々に中世遺物がコレクションに加わり、さらに1899年に市立博物館となるに及んで、サントメールの歴史資料と近世以降の美術作品の展示をメインとする<歴史資料館・兼・美術館>に生まれ変わりました。

この絵葉書は20世紀初頭、まだ同博物館がそれ以前の姿をとどめていた時期に作られたものでしょう。そのため、最初の画像のように、剥製がずらり並んでいるかと思えば、


こんないかめしい武具があったり、



中世にさかのぼる雑多な小像や器物が棚を埋め尽くしていたりで、一応分野別に整理されているものの、その全体はいかにも混沌としています。19世紀には、既にヴンダーカンマーは過去のものとなっていましたが、まだその遺風が辺りに漂っている感じです。

あるいは、近代博物館の展示原理の普及には、地域によってタイムラグがあり、パリを遠く離れたサントメールでは、依然ヴンダーカンマー的な展示を好む気風が強かった…ということでしょうか。まあ単に、小博物館の「脱抑制的勇み足」とも言えますが(日本でもありがちです)、そこにこそヴンダーカンマーの本質が端無くも露呈した…と言えなくもありません。

個人的には、こういう混沌とした雰囲気がわりと(いや、大いに)好きです。

再考・ヴンダー趣味と理科室趣味2014年01月27日 21時19分32秒

五放射相称、維管束、総状花序、第三手根骨、斜方晶系、
角閃安山岩、脈翅目、ベイツ型擬態、古生代オルドビス紀、旧北区…

こうした言葉に魅かれるのが―より正確には、その向こうにある世界に魅かれるのが―いわゆる理科(室)趣味ではないでしょうか。
図書室で図鑑を眺め、理科室で標本を眺め、そこに象徴される知の世界に憧れ、自分もその世界をどこまでも探求していきたいと胸を膨らませた、あの日の記憶。

それ自体は科学的な営みでも何でもないにしろ、自分が今も標本の断片を身近に並べてみるのも、そうした感傷に支配されているせいだと思います。
この辺は人によっても違うでしょうが、少なくとも私にとっての理科(室)趣味とは、そうした色合いのものです。

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他方、ヴンダー趣味ということも度々口にしてきましたが、この辺は少し整理が必要かなあと改めて思います。そう思ったのは、最近、海外のヴンダー趣味の徒の生態をYouTubeで見られることに気づいて、頻繁に眺めているのですが、どうも彼我の違いは予想以上に大きいと感じるからです。

例えば、以下の動画。
(以下、画像は単なるキャプチャーなので、動画はリンク先をご覧ください。)


Unusual places in Paris : Visit of an old Chamber of Curiosities !
 
http://www.youtube.com/watch?v=Rfoad6K37rc

読んで字のごとく、パリ在住のヴンダーの徒のお宅訪問番組で、『Cabinets of Curiosities』(邦訳『奇想の陳列部屋』、河出書房)の著者として知られる、パトリック・モリエスの自宅も登場します。

あるいは、マンハッタンの高級アパートメントに暮らす男性。


■"Cabinet of Curiosities" In Manhattan
 http://www.youtube.com/watch?v=R3uwO9k11z0

はたまた、液浸標本や人骨を自慢げに披露する若い男性。


■Private Oddities Collection Tour

 http://www.youtube.com/watch?v=gkDixrEpy8M

関連動画をたどっていくと、他にもいろいろな人の「驚異の部屋」を見ることができます。そこには確かに標本類が並んでいます。鳥の剥製もあれば、昆虫標本もあり、壜の中で目をつぶる哺乳類もいます。

しかし、全体として見た場合、それらは理科室とはかなり異質の空間です。私のように驚異の部屋と理科室とをダイレクトに結び付けて考えるのは、現代にあっては少数派なのかもしれません。

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もう一度冒頭に戻ると、私にとっての標本類は、何よりも静謐な学問の世界を象徴するものですが、海の向こうのヴンダー趣味の徒が愛好する標本は、それとはむしろ反対向きのベクトルを持つものであり、彼らはそれが「グロテスクな美」を有し、強い生理的反応や情動を喚起するものであるがゆえに愛好しているように見えます(特に最後の男性はそうでしょう)。

もちろん、私はここで事の良し悪しを述べているわけではありません。
見た目は似ているけれど、そこに流れている論理はずいぶん違うよ、ということを指摘したいのです。たぶん、私は上の諸氏とは共通言語が乏しいし、上のような部屋で―特に猿の瓶詰を前に―心底くつろぐことはできないと思います(興味深いとは思うでしょうが)。

インターメディアテクを「驚異の部屋」や「ヴンダーカンマー」と呼ぶことは、一種の修辞としてはありえます。現に館長の西野氏自ら、そう呼んだこともあります。ただ(同館の図録に書かれているように)そこに陳列されているモノたちが「学術標本」であり、近代の学術体系を前提にしたものである限り、本来のヴンダーカンマーとは一線を画すと思います。虚心に見れば、それはやっぱり19世紀の自然史博物館にいちばんよく似ています。

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なんだか前にも書いたことを蒸し返しているだけのような気もします。
要はヴンダー趣味と理科(室)趣味は違うし、後者はヴンダーカンマーが滅失したあとに栄えた博物趣味の系譜に連なるものであり、インターメディアテクもそのともがらではなかろうか…ということを言いたかったのでした。

まあ、こういう議論はなかなかクリアに進まないもので、私自身、博物趣味とは無縁の珍物嗜好や尚古趣味がなくもない(大いにある)ので、本来の意味でヴンダーな要素が部屋に混入していることは進んで認めます。

驚異の部屋的な何か2014年01月25日 08時09分31秒

前回の記事で、“理科室風書斎」や「ひとり驚異の部屋」は、もはやほぼ完成した”と書きました。もちろんそれは言葉のアヤで、東大のインターメディアテクや、欧州の名だたるヴンダーカンマーのような空間が、我が家にあるわけではありません。

我が家の場合、スペースの問題以外に、資力の制約がきわめて大きく、その範囲では最善(変な最善ですが)を尽くしたし、これでもう上限に近いという、そういう意味での「完成」です。王侯貴族には王侯貴族の、庶民には庶民の驚異の部屋が、自ずとあるわけです。

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さて、そういう庶民的な部屋の一角に、これまでブログには登場しなかったモノが置かれています。たとえば、この蝙蝠の剥製。


嫌いな人は嫌いだろうと思います。(だから意図的に露出を避けていました。)

家人はわりと私のヴンダー趣味を理解(我慢)してくれている方だと思いますが、それでも評判が悪いのは一連の剥製で、「喘息に悪い」と言われます。たしかにそんな気もするので、申し訳ないと思います。


私だってこんな風にぬっと出られたら、やっぱりいい気持ちはしません。
でも、古びた理科室とか、驚異の部屋の風情を求めるとなると、こういう帰結になるのかなあ…とも思います。


ラベルに記された文字は「オホカハホリ」、すなわち大蝙蝠の意。
学名はPteropus pselaphonで、和名はオガサワラオオコウモリです。

明治時代に創設された、東京の某女学校(現在は女子高)の建て替えに伴い放出された理科室備品の一つで、明治とまではいかずとも、戦前の古い剥製ですから、気持ち悪かろうが何だろうが、希少なものには違いありません。そしてインターメディアテクと同じ空気が、そこはかとなく漂っているような気がします。

標本本(ひょうほんぼん)2014年01月19日 16時40分45秒

このところ玩具の話題が多いですが、もちろんそればかりに集中しているわけではなく、理科室趣味の涵養にも懈怠なく努めています。

その一環として、昨年暮れに、標本をテーマにした本をドンとまとめ買いしました。
ただ、買ってはみたものの、何となくそのままになっていたので、この機会に積ん読本の下から掘り出し、改めて山のてっぺんに置き直しました。


購入したのは、国立科学博物館が編纂した、『標本学―自然史標本の収集と管理』、東大総合研究博物館が出した、『インターメディアテク―東京大学学術標本コレクション』、京大総合博物館が出した、『標本の本―京都大学総合博物館の収蔵室から』、それに東大と京大が初めてコラボした企画展示、「驚異の部屋 京都大学ヴァージョン」展図録の計4冊。(内容的に3番目と4番目は一部モノがかぶっています。)

これだけ読めば、博物趣味とヴンダー趣味に関しては、当分おなか一杯でしょう。
そして、今後「ひとり驚異の部屋」作りを模索する上で、またとない好伴侶となってくれるはずです。

博物趣味の欠片2013年12月11日 19時50分28秒

antique Salon さんで先日購入したモノたち。


岩石標本、青い薬びん、ウサギの頭骨、古い地質図。
ちょっと取りとめのない選択ですが、こうして並べると、互いに博物趣味の香気を高め合う感じがします。

しかし、香気だけでは勿体ないし、それこそ取りとめがないので、順々にモノ語りをしてみようと思います。

(この項ゆるゆると続く)

鉱石倶楽部幻想(2)…インターメディアテクを訪ねる2013年08月14日 21時33分25秒

鉱石倶楽部のイメージを探るために、前から気になっていた場所を、今回初めて訪れました。一つは東京北区にある不思議なお店、CafeSAYAさんで、もう一つは例の(と、あえて言いましょう)東大のインターメディアテクです。

何といっても、鉱石倶楽部は「店舗」であり、同時に「或る種、博物館のような黴くさい雰囲気と、ガラン、とした広さ」を持った場所だというのですから、この2か所を訪ねることには理があります。

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(旧東京中央郵便局を改装したJPタワー。インターメディアテクは、この2~3階の一部を占めています。)

残念だったのは、インターメディアテクが写真撮影禁止だったこと。
事前に目を通したリーフレットには、「禁止マークのついている展示物の撮影およびすべてのムービー撮影はご遠慮ください」、「撮影時、フラッシュおよび三脚等カメラを固定する物はご使用にならないでください」と書かれていたので、これさえ守れば、当然撮影はOKだと思っていました。

しかし、実際に訪れたら、受付で「当面は全面撮影禁止です」と言われて肩すかし。「当面」の意味は不明ですが、どうも今のところお客さんが多いので、人の流れを妨げる行為はダメのようです。

こういうのは言葉で説明するよりも、映像を見れば一発なので、とりあえず動画にリンクを張っておきます。


■JPタワー学術文化総合ミュージアム インターメディアテク
 http://www.youtube.com/watch?v=0pX4_5HVHjE

入館してまず目に付くのは、骨、骨、骨。フロアには、クジラやエピオルニスのような大物から、魚、カエル、コウモリにいたるまで、大小さまざまな骨格標本があちこちに置かれています。

歩を進めれば、鉱物の並ぶ一角があります。貝も並んでいます。さらに蟲が並び、キノコが並び、人体が並び、怪しげな生薬が並び、鳥の剥製がびっしりと並んでいます。

並んでいるのは、他の博物館とも共通するモノたちですが、インターメディアテクが他の博物館と異なるのは、それらの配列が分類学的配列をあえて無視して、一見乱雑に置かれていること、そして展示用具として机、棚、キャビネットなど古い什器類を(古色を付けて新作されたものも含めて)積極的に使用していることです。

これらの特徴は、もちろん館長の西野氏が一貫して追求して来られた、「驚異の部屋」再生の試みや、現代の学問が負っている歴史性の視覚化といった狙いがあるのでしょう。

インターメディアテクの展示自体は、これまでの小石川分館と本郷本館の総集編といった感じで、おなじみのモノも多く、目新しさは然程なかったというのが、偽らざる感想です。総じて「新しい試み」というよりも、「これまでの集大成」の色合いが濃い施設だと感じました。(今後の展示については、この限りではありませんが。)

もちろん、「空間」としての新味はあります。しかし、学術標本の集積から、これまでにない何か新しいストーリーを紡ぎ出すという意志は、そこにあまり感じられませんでした。

(インターメディアテクのフロア構成。公式リーフレットより。シワシワですみません)

ちょっと印象的だったのは、「ナイト・ミュージアム」という語が、複数の観覧者の口から洩れていたことです。あの映画に出てきたアメリカ自然史博物館(ニューヨーク)を彷彿とさせる空間に仕上がったことは、確かに西野氏の意図が過半成功したことを物語るものかもしれません。

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この重厚な展示空間に置かれたモノたちが全部「商品」で、さらにその一角に、「パンや飲みものを注文できるカウンター」があったら、鉱石倶楽部のイメージに、かなり近いものができるかも…。

そこでCafeSAYAさん、というわけです。
こちらは気前よく写真撮り放題だったので、遠慮なしに撮らせていただきました。

(この項さらに続く)

続・東大発ヴンダーの過去・現在・未来…西野嘉章氏の軌跡をたどる(10)2013年05月07日 05時54分03秒

小石川では、「驚異の部屋」以外にも、「裏芸」系の実験的展覧会が折々開かれました。それぞれにアート色のきわめて濃いもので、西野氏の指導する博物館工学ゼミの学生さんが主体的に参加していたことから、いずれも西野氏が全面的に関与したイベントだったのでしょう。

1つは、2004年に開かれた森万里子―縄文/光の化石トランスサークル」展です(10月16日~12月19日)。
 
 「国際舞台で華々しい活躍を続ける日本人美術家森万里子とのコラボレーション展示。現代社会の「文化状況」を一身に具現する美術家が、人類先史部門の所蔵になる麻生遺跡出土縄文晩期遺品「土面」(国指定重要文化財)から強い霊感を得て、現代の先端的テクノロジーを駆使した作品を制作し、小石川分館内に仮設した。〔…〕文字通り、「アート&サイエンスの協働」の成果である」

…という内容で、何だかおどろおどろしい印象です。

もう1つは、2005年の国際協働プロジェクト―グローバル・スーク」展です(5月27日~8月28日)。

 「イタリア人建築家セルジオ・カラトローニ、ミラノ在住の服飾評論家矢島みゆき、サンパウロのカーサ・ブラジリエイラ国立美術館館長アデリア・ボルヘス、総合研究博物館西野嘉章の4 人の呼びかけにより、欧州、アフリカ、アジア、南北アメリカなど、世界各地の人々から寄せられたさまざまな人工物約300 点を観覧に供することで、人間の有する造形感覚、表現手法、価値体系がいかに多様か、その多様性を相互に認め合い、結び合う寛容さこそが、現代社会に分断をもたらしている言語、宗教、文化、人種の隔てを克服する上でいかに大切かを、視覚的かつ悟性的に理解させようとするもの。〔…〕グローバリズムとトリヴィアリズムの対立項の止揚という、優れて今日的な課題にひとつの解答を見出そうとする試み」

…という、すぐれてコンテンポラリーな、メッセージ性の強い企画で、西野氏の面目躍如たるものがあります。東大総合研究博物館という、美術プロパーでない場所でこうした企画が実現したのは、驚きを通り越して、むしろ不思議な気すらします。

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そして、小石川とインターメディアテクとを架橋する展示が2010年にありました。
オーストラリアの現代美術家、ケイト・ロードを迎えたファンタスマ―ケイト・ロードの標本室」展です(11月6日~12月5日)。


 「当館では「アート&サイエンス」をテーマのひとつに掲げ、これまでにも両世界を架橋するさまざまな展覧会や、ファッションショー、演劇などのイベントに意欲的に取り組んでまいりました。〔…〕 このたびはその一環として、特別展示『ファンタスマ―ケイト・ロードの標本室』を小石川分館にて開催する運びとなりました。本展は、丸の内地区に2012年オープン予定の総合文化施設「インターメディアテク(IMT)」のプレイベントとして位置づけられています。」

 「近世の王侯貴族たちの珍品陳列室では、ドラゴンや人魚、ユニコーンの角といった架空の動物もその一部を飾っていたように、彼女が表現する「フェイク」の動物や自然物、そして空間は「驚異の部屋」本来のあり方を今に感じさせるにふさわしい創造的で魅力的な要素となります。明治期に旺盛した擬洋風建築である小石川分館の空間内に、当館が所蔵する学術標本で構成された現代版「驚異の部屋」とロードがそれに着想を得て制作したサイトスペシフィックな新作の数々を織り混ぜたインスタレーションを展開させます。「まぼろし」「幻影」を意味する「ファンタスマ」をタイトルに掲げた本展覧会は、過去と現在、学術と芸術、実在と架空という既存の領域を横断した重層的な未知の世界へとわれわれを誘い、人々の驚きや好奇心を喚起する斬新な取り組みとなることが期待されます。」


「アート&サイエンス」をテーマにした現代版「驚異の部屋」。そこに「まぼろし」の影を重ね、過去と現在、実在と架空の境をも越える、さらなる驚異の空間を現出せしめようというのです。それをインターメディアテクのプレ行事と位置付けた西野氏の思いについては贅言無用でしょうが、インターメディアテクの、あの学術標本という「ファクト」たちの間を、黒々とした「ファンタスマ」の霧が流れていることは、銘記されてよいのではないでしょうか。

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さて、こうして話はインターメディアテクに続きます。
改めてこの連載の始まり↓に戻って、全体を通読すると、西野氏の軌跡がそこに浮かび上がるのかどうか?それは定かではありません(と言うか、我ながら論旨のはっきりしないところがたくさんあります)が、ひと月前と比べると、インターメディアテクを見る目がちょっと変わったのは確かで、それを以て自らの成果とします。

東大発ヴンダーの過去・現在・未来
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2013/04/02/6765240
続・東大発ヴンダーの過去・現在・未来…西野嘉章氏の軌跡をたどる(1)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2013/04/22/6786696


(とりあえず、この項は今回で完結です。)


【おまけ】

一昨日の駄文書き終わった後、ヴンダーカンマーについてモヤモヤしていたことに、ちょっとした気づきが得られました。ですから、あれもまったくの無駄ではありませんでした。

その「気づき」とは、ヴンダーカンマーとノスタルジーとの関係についてです。ヴンダー(英語のワンダー)は「未知」を本質とするのに、ノスタルジーは「既知」を前提にした感情ですから、両者を重ねることには、基本的に無理があるぞと気づいたのでした。

もちろん、人間には「初めて見るのに懐かしい」(déjà vu)とか、「よく知っているはずなのに、初めてのような気がする」(jamais vu)という心の動きもあるので、ヴンダーとノスタルジアが結びつく可能性もなくはないでしょう。いや、私の中では現に結びついているのですが、でも少なくとも、往時のヴンダーカンマーの作り手からすると、私の思い入れは、一寸いぶかしく感じるかもしれないなあ…と思いました。

続・東大発ヴンダーの過去・現在・未来…西野嘉章氏の軌跡をたどる(9)2013年05月06日 10時37分11秒

結局、ゴールデンウィークは何もせずダラダラしてしまい、そのおかげで小まめにブログは更新できましたが、世間のモノサシで言うと、これは非常にダメな過ごし方なのでしょう。反省と悔悟とともに、連休最終日を迎えました。

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さて、西野氏と東大ヴンダーのつづき。
西野氏は、かなり早期からヴンダーカンマーをめぐる美術界の潮流に自覚的だったと想像しますが、それを自ら実践するには、そのための器が必要であり、それが東京大学総合研究博物館・小石川分館だったのではないでしょうか。

(雨の小石川分館。2006年11月に訪問時の写真)

本郷には本郷の事情があり、官学の常として前衛的な試みを喜ばない空気もおそらくあったはずで、西野氏はそれを乗り越えるために、以前書いたところの「表芸」には本郷本館を、「裏芸」には小石川分館を、という使い分けを意識的にされていたように思います(←すべては憶測です)。

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明治の擬洋風建築である「旧東京医学校本館」を転用した小石川分館がオープンしたのは2001年11月。その開館1周年を記念する催しが、マーク・ダイオンの「ミクロコスモグラフィア」展でした。
以下、総合研究博物館のサイトにある「過去の展示」のページ(http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/index_past.html)から、小石川分館の各展示がどのように自己規定されていたかを書き抜いてみます。

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まずは、改めてMICROCOSMOGRAPHIA―マーク・ダイオンの『驚異の部屋』」展(2002年12月17日~2003年3月2日)から。

同展は、「120 年を超える東京大学の歴史のなかで蓄積されてきた多種多様な学術標本を用いたアート・インスタレーション」であり、「ミュージアムの「原風景」を、科学(サイエンス)と芸術(アート)の関わりからあらためて掘り下げてみせる展示」だと称しています。

これまで繰り返し書いたように、この展覧会は全体が1つの「アート作品」であり、アートとサイエンスの関わりを、はっきりとアート側から表現したものでした。

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次に、このコスモグラフィア展の後を受け、マーク・ダイオンの作品を換骨奪胎して、西野氏オリジナルの常展企画として始まったのが、COSMOGRAPHIA ACADEMIAE―学術標本の宇宙誌」展(2003年3月19日~2006年2月19日)でした。

本展は、医学・自然(動物・植物・鉱物)・建築・工学という4 つのセクションから構成され」、「これら〔=標本・掛図・模型・機器・什器〕のコレクションの学術的位相とともに、骨・剥製・植物・鉱物あるいは木・石・金属・なまりガラスなど、標本1 点1 点の質感のヴァリエーションを重視し、標本を支える什器も古いものを中心に厳選して相互に最適な組合せを模索することで、全体として一つのアート作品に比肩しうる三次元「小宇宙」の実現を図った」ものでした。

ここでもやはりアートへのこだわりは明瞭ですが、その一方で、タイトル通り「学術」が強調され、コレクションそのものの価値を前面に出して訴えている点に、西野色が出ているようです。

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さらにその後、6年半の長きに及ぶ驚異の部屋―The Chambers of Curiosities」展(2006年3月9日~2012年9月30日)が始まります。

本展は、常設展示「COSMOGRAPHIA ACADEMIAE―学術標本の宇宙誌」へ新たな標本や什器を加える形でスタートした」ものです。「東京大学草創期以来の各分野の先端的な知を支えてきた由緒ある学術標本をもとに、「驚異の部屋」を構築し、「大学の過去・現在・未来へ通底する学際的かつ歴史的な原点とは何なのかということ」を問いかけようという意図が込められていました。

「コスモグラフィア・アカデミアエ」展と、この「驚異の部屋」展とは何がどう違うのか?上の説明では、後者は前者に「新たな標本や什器を加える形でスタート」したとあります。私は前者を見ていないので何とも言えませんが、当時の観覧記↓を拝見する限り、両者はほとんど同じもののように見えます。

陰影礼賛:強行旅行2(by かなゑ様)
 http://undergrass.air-nifty.com/bosch/2006/02/2_172f.html
日毎に敵と懶惰に戦う:小石川から秋葉原、銀座(by zaikabou様)
 http://d.hatena.ne.jp/zaikabou/20050312/p1

結局、小石川ではマーク・ダイオンの「コスモグラフィア」展から数えて、ちょうど10年間、「驚異の部屋」をテーマにした展覧会が延々と続いていたことになります。

この間、本郷本館では多様なテーマで、実に多くの展覧会が行われたことを考えると、小石川分館の展示の「賞味期限の長さ」、つまり完成度の高さと、訴求力の持続性がよく分かりますし、西野氏の「驚異の部屋」への愛着ぶりもうかがえるように思います。

(この項、いよいよ次回完結の予定)