アトラスの後姿2023年11月05日 09時38分53秒

1つ前の記事の冒頭で、何か身辺多忙的なことを書きました。
まあ、それは嘘ではないにしろ、でもこのところの自分の状態を振り返ると、それ以上に鬱っぽかったなあ…と思います。ちょっとしたことがひどく億劫に感じられました。

でも、その一方でモノはせっせと買っていて、むしろ精力的と言ってもいいぐらいだったので、そこだけ見ると、むしろ躁っぽいなと思ったり…。躁と鬱が混ざることもあるのかどうかは知りませんが、まあ何にせよ心のバランスを欠いた状態でした。

   ★

さて、最近の買い物から。

現在、世界最古の天球儀として知られるのが、ローマ時代の2世紀半ばに作られたアトラス神像(「ファルネーゼ・アトラス」)がかついでいる天球儀で、天球儀単体で「ファルネーゼ天球儀(Farnese Globe)」とも呼ばれます。

(ファルネーゼ・アトラス。https://en.wikipedia.org/wiki/Farnese_Atlas

紀元2世紀というだけでもずいぶん古いですが、当然のことながら、この像の背後にはさらに古いギリシャ以来の伝統が存在するわけで、往時の星座神話の世界や、その後に発展した古代の天文学が、(文字のみならず)こうした具体物によって確固とした輪郭を与えられているという点で、この像の価値には計り知れないものがあります。

16世紀のファルネーゼ枢機卿の邸宅に置かれていたことで、その名を得たファルネーゼ・アトラス―― 今はナポリ国立考古学博物館に収蔵されているその像を、天文古玩趣味の徒としては、ぜひ一度見たいのですが、なかなかナポリも遠いので、ここではこんなモノで臨場感を味わおうと思いました。


フランス東部の小さな町から届いた、19世紀後半のステレオ写真です。


今ならファルネーゼ・アトラスの鮮明な画像はいくらでも見られますが、この角度からのものは比較的珍しいでしょう。人間の心は後姿に表れるといいますが、神様も同じことで、その後姿にアトラスの懊悩が、いっそう滲んで感じられます。


そして、必然的にフェルネ―ぜ天球儀の背後も目にする機会は少ないはずです。
それに何と言っても、これは150年前の「その場」の空気を写し込んだ写真であり、19世紀人の目を通して見た像だ…というところが、すこぶる貴重です。

ちなみに発行元は、1852年、フィレンツェで設立された世界最古の写真会社、Fratelli Alinari 。フラッテリ・アリナーリとは「アリナーリ兄弟社」の意味で、ロムアルド、レオポルド、ジュゼッペのアリナーリ家の3兄弟が創始したことに由来します。なお、ここでいう写真会社というのは、撮影機材メーカーとは別に、自前の撮影スタジを構え、写真撮影を請け負い、その写真を販売していた会社のことをいいます。

コメント

_ S.U ― 2023年11月09日 09時01分30秒

ギリシア神話で天球を支えている神様が、ゼウスやヌウトやアマテラスのような天空を主宰する神自身ではなく、不本意ながらの請け負い仕事としてやっている神であることは、なにか象徴的であると思います。

_ 玉青 ― 2023年11月11日 09時52分21秒

このアトラスは、偉大な天空にかしずき、それを支える奴婢のようなイメージなのかもしれませんね。

ときに、神話のアトラスは、空が地面に落ちてこないよう一生懸命支えているのでしょうけれど、この像の背負っているのが文字通り「天球」ならば、人間や神々が住まう大地は、その中心に位置する点のような存在のはずで、これではそもそも「空が落ちてこないように支えている」ことにならないんじゃないかと、その点がすこぶる不思議です。昔の人は疑問に思わなかったんでしょうかね。

_ S.U ― 2023年11月14日 08時20分51秒

アトラスが天球を支える見解の詳細はわかりませんが、一般に、天球そのもの全体も誰かが支えないと、天球自体が下方に動いたり(地球平面説を採用した場合)、地面もろとも転がったりして、天が落ちないにしても地震のような「天震」が起こると考えたのかもしれないと思います。

ガリレオが望遠鏡で月や金星などの天体が地球と同等の物であることを見つける直前の 「慣性系の物理学」的見地で考えると、天体は、幾層かの水晶の球殻に取り付けられていて落ちてこないということになっていますが、球殻構造全体が(スムーズな回転運動以外の)加速度運動する可能性をどうやって否定するのか、気づいてみると不思議です。天が安定であることは、無意識的であっても、アトラスなりデウスなり、やはり信頼できる神のご加護があることが大前提とするしかないように思います。

_ 玉青 ― 2023年11月16日 18時52分45秒

>信頼できる神のご加護

天球運動が不変であるからには、それをかくの如く然らしめた、何か決定的存在があるはずだ…ということで、古人は「第一原因」あるいは「第一動者」を措定し、これぞ神ということになりました。これは全ての事象を因果律で説明し、「因果の連鎖を遡った根本因」として神を考えるという態度でしょうけれど、今の目で見れば、因果律自体かなり偏頗な考え方ですので、第一原因の存在を強いて考える必要もないわけですが。でも昔の人にはこれがガツンと心に響いたのでしょうね。それほど世界の中における人間の存在は不確かであり、何か確かなものにすがりたかったのだと思います。(まあ、最後の点は、今でもあまり変わらないかもしれません。)

_ S.U ― 2023年11月17日 06時30分11秒

>因果律~第一原因の存在

 なるほど。そのように考えるのですね。昔の人の気持ちが腑に落ちました。昔の人においても、何ごとにも結果にはそれに対応する原因があり、それを適度に追求してある程度理解できたことにしておくのが、社会の秩序の維持にも自身の精神衛生にも有効だという生活の知恵にもとづくものであったのだと思います。それは、今も変わりませんね。

 翻って考えてみると、現代の物理学・宇宙論においても、宇宙で起こる現象の第一原理は、粒子たる(素)粒子の存在であるとか、いくつかの次元と各次元内の(空間)対称性であるとか、広い意味での運動方程式であるとかになっているようですが、これらも、ある意味では、科学者が研究を進めやすくするための生活の知恵であるかもしれず、たまには省みてみないといけないことかもしれないと思います。

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