おだやかな日曜日に2023年02月19日 11時38分11秒

立春が過ぎ、バレンタインが過ぎ、今日は二十四節気の「雨水(うすい)」。
こうなると雛祭りももうじきですね。


およそ想像もつくでしょうが、私の家は非常に乱雑で、書斎の隣の和室にも本が堆積しています。ただ、それだけだといかにも見苦しいので、部屋の隅に小机と座椅子を置いて、「ここは物置部屋じゃありませんよ、和風書斎なんですよ」と、アリバイ的にしつらえがしてあります。そもそもがアリバイ的なスペースなので、ここで読み書きすることはほとんどありません。それでも貴重な和の空間として、こんな風に季節行事に活用したりもします。


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今日はブセボロードさんから、このブログにコメントをいただき、それとは別に長いメッセージもいただきました。それは人類と戦争の古くて長い関わりに省察を迫るもので、ひるがえって日本の平和主義をどう評価するか、その平和主義が機能する前提は何かを考えさせる内容でした。

これは誰にとっても難しい問いでしょう。もちろん、私にも明快な答があるわけではありません。ただ、この問題を考える際、最大のポイントは憲法前文にいうところの「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」の一句であることは、大方の異論がないでしょう。

「そんなもん、信頼できますかいな」という人も多いと思います。

ヒトは進化の過程で巨大な「心の世界」を手に入れましたが、その一方で他者の心の世界に触れる手段は、極端に未発達のままです。相手が何を感じ、何を考えているかは、言語や表情、声色、そんなものを手がかりに、辛うじて想像できるだけです。その非対称性が「人間、腹の底では何を考えているか分からない」という諦念を生み、警戒と不信の念を掻き立て、結果として不幸な出来事がいろいろと起きたし、今も起きています。

既存の学問体系で、こうした「信頼」の問題にいちばん肉薄しているのは、おそらく哲学でも宗教学でもなく「ゲーム理論」でしょう。「信頼」というと反射的に「お花畑」と切り返す人がいますけれど、「信頼」だけ取り出すと単なる美辞に見えても、それに伴う「利得」まで考慮すれば、それはすぐれてリアルな概念です。

ゲーム理論は演算と親和的なので、そう遠くない将来、最も合理的な意思決定をするプログラムに国家の命運を委ねるというSF的な世界が実現するのかもしれません。(人類にとってそれ以上に幸福だと主張しうる選択肢を提示できないと、必然的にそうなる気がします。)

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…というようなことを考えながら、眼前の平和の有り難さをしみじみ噛み締めています。ゲーム理論もいいんですが、こういうささやかな平穏が大事であることを、すべての議論の出発点にしないと道を誤るでしょう。



青空のかけら、再び2023年02月11日 18時28分12秒

昨日、幼い子どもが泣いている夢を見ました。
その子のお兄さんが不意に亡くなってしまい、身寄りのないあの子は、これからどうやって生きていくのだろう…と、夢の中で私はしきりに案じていました。目覚めてから考えると、ここにはトルコ大地震のニュース映像が大きく影響しているようです。

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トルコ南部の大地震は言うまでもなく大変な惨状を呈していますが、この災害に複雑な影を落としているのが、被災地域にトルコとシリアの国境線が通っていることです。

地図を見ながら、ふと「なぜここに国境線があるのだろう?」と思い、本棚から歴史地図を引っ張り出してきて、夢の中の幼児を思い出しながら、ページを眺めていました。そして、自分がトルコの歴史を何も知らないことを、改めて思い知らされました。

トルコの歴史といっても、遠い過去の話ではありません。
オスマン帝国の近代化につづく第1次世界大戦への参戦と敗北、その後の帝国弱体化とトルコ共和国の成立――そんな19世紀末~20世紀前半のトルコ激動の歴史を、私はほとんど知らずにいたのです。

そうしたトルコの近・現代史は、イスラム世界を「切り取り次第」の草刈り場とみなした西欧列強の露骨な振る舞いと表裏一体のものです。彼らのパワーゲームの中でトルコとシリアの国境線は引かれ、今に続くシリア国内の政情不安も、そこから糸を引いているわけです。

(出典:マリーズ・ルースヴェン、アズィーム・ナンジー(著)『イスラーム歴史文化地図』、悠書館、2008)

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以前も登場したセルジューク・トルコの青いタイル。


元の記事を読み返したら、あのときの自分も2020年7月豪雨を受けて、「こんな青空が一日も早く戻ってきますように」と願っていました。


寒空のトルコにも、早くまばゆい青空をと切に願いますが、被災者の心に青空が広がるのは、多分ずっと先のことでしょう。あるいは、あの幼児に象徴される多くの人々のことを思うと、青空は永遠に来ないかもしれない…と心が曇りますが、それでもいつかはと願うばかりです。

賢治と土星と天王星2022年12月17日 11時24分30秒

先日話題にした、賢治の詩に出てくる「輪っかのあるサファイア風の惑星」

(詩の全文。元記事 http://mononoke.asablo.jp/blog/2022/12/13/9547757

コメント欄で、件の惑星は、やっぱり天王星という可能性はないだろうか?という問題提起が、S.Uさんからありました。これは想像力をいたく刺激する説ですが、結論から言うと、その可能性はやっぱりないんじゃないかなあと思います。

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1970年代後半に、恒星の掩蔽観測から発見された天王星の環ですが、そのはるか昔、18世紀の末にも天王星の環を見たという人がいました。他でもない、天王星の発見者であるウィリアム・ハーシェル(1738-1822)その人で、彼は天王星本体のほかに、天王星の衛星と環を発見したという追加報告を行っています(※)

しかし、他にこの環は見たという人は誰もいないので、まあハーシェルの見間違いなんだろう…ということで、その後無視され続けていました(父を尊敬していた息子のジョン・ハーシェルでさえも、自著『天文学概論』(1849)で、「天王星に関して我々の目に映るものは、小さな丸く一様に輝く円盤だけである。そこには環も、帯も、知覚可能な斑文もない」と、にべもない調子で述べています)。

当然、明治以降に日本で発行された天文書で、それに言及するものは皆無です。
この点も含めて、取り急ぎ手元にある天文書から、関係する天王星と土星の記述(色とか、「まん円」かどうかとか、衛星の数とか)を抜き出してみたので、参考としてご覧ください。


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それともうひとつ気になったのは、これもS.Uさんご指摘の「7個の衛星」の謎です。
土星の衛星は17世紀に5個(タイタン、テティス、ディオーネ、レア、ヤペタス)、18世紀に2個(ミマス、エンケラドス)、19世紀に2個(ヒペリオン/1848、フェーベ/1899)発見されており、その後1966年にヤヌスが発見されて、都合10個になりました。賢治の時代ならば9個が正解です。

ただし、19世紀には上に挙げた以外にも、キロンやテミスというのが報告されており、後に誤認と判明しましたが、同時代の本はそれを勘定に入れている場合があるので、土星の衛星の数は、書物によって微妙に違います(上の表を参照)。
いずれにしても、サファイア風の惑星が土星であり、その衛星が7個だとすれば、それは19世紀前半以前の知識ということになります。

賢治の詩に出てくる

 ところがあいつはまん円なもんで
 リングもあれば月も七っつもってゐる
 第一あんなもの生きてもゐないし
 まあ行って見ろごそごそだぞ

というのは、夜明けにサファイア風の惑星に見入っている主人公ではなくて、脇からそれに茶々を入れている「草刈」のセリフです。粗野な草刈り男だから、その振り回す知識も古風なんだ…と考えれば一応話の辻褄は合いますが、はたして賢治がそこまで考えていたかどうか。賢治の単純な勘違いかもしれませんし、何かさらに深い意味があるのかもしれませんが、今のところ不明というほかありません。


(※)ハーシェルは彼の論文「ジョージの星〔天王星〕の4個の新たな衛星の発見について」(On the Discovery of four additional Satellites of the Georgium Sidus, Philosophical Transaction, 1798, pp.47-79.)の中で、以下の図7、8のようなスケッチとともに、1787年3月に天王星の環を見たという観測記録を提示しています。



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【閑語】

岸田さんという人は、もともとハト派で、どちらかというと「沈香も焚かず屁もひらず」的な人だと思っていました。でも、途中からどんどん印象が悪くなって、尾籠な言い方で恐縮ですが、どうも屁ばかりひっているし、最近は動物園のゴリラのように、それ以上のものを国民に投げつけてくるので、本当に辟易しています。

まあ岸田さんの影にはもっとよこしまな人が大勢いて、岸田さんを盛んに揺さぶっているのでしょうが、でも宰相たるもの、そんな簡単に揺すられ放題ではどうしようもありません。

それにしても、今回の国民的増税の話を聞くと、ここ数年、政府がマイナンバーカードの普及に血道を上げていた理由もよく分かるし、大盤振る舞いをもくろんでいる防衛費が、めぐりめぐって誰の懐に入るのか、雑巾や油粕のように搾り取られる側としては、大層気になります。

ゼロの方程式2022年11月29日 20時07分11秒

今日、天文学史のメーリングリストに変わった投稿がありました。

現在、中国各地で習政権による「ゼロ・コロナ政策」への激しい抗議活動が起きていますが、デモの参加者は、何かメッセージを掲げても、報道の際は検閲で削除されてしまうので、最初から白紙を掲げてプロテストしている…と報じられています。しかし、中にはやっぱりメッセージを掲げる学生がいるらしく、件の投稿は、そのメッセージに反応したメンバーからのものでした。

そのメッセージがこちらです。


これは「フリードマン方程式」と呼ばれるもので、一般相対性理論によって導かれる宇宙膨張を表す方程式…だそうですが、その含意が分かりますか? 学生たちには、「どうだ、これが分かるか?」と、政権の無能ぶりを揶揄する気持ちもあるのかもしれませんが、政権の要人と同様、私にもさっぱりです。

リストメンバーの意見に耳を傾けると、眼前の膨張宇宙を認める限り、アインシュタインが忌み嫌った「宇宙項」は必ず存在し、その係数である「宇宙定数」もゼロにはできない。同様に、新型コロナをいくら忌み嫌っても、それをゼロにはできない…という主張がこめられているのでは?というのが一説。もうひとつは、単に Friedmann の名前をFreed man(解き放たれた人間)」に掛けているのだという説。

いずれももっともらしいし、まあ両方の意味がこもっているのかもしれません。
分かりにくいといえば、いかにも分かりにくいですが、落語の「考えオチ」みたいなもので、分かりにくいからこそ面白いともいえます。(さらにリンク先の記事では、「フリードマン方程式は「開かれた」(膨張する) 宇宙を表しているので、“自由で「開かれた」中国”を象徴しているのでは?」という別の意見も紹介しています。)

こういうのは一種のネットミームとして、思わず人に言いたくなりますけれど、理解できないまま触れ回るのも馬鹿っぽいので、フリードマン通の方に、より詳しい解説をお願いできればありがたいです。

【閑語】妖しの筒が青い空を飛び、青い海に墜つるとかや2022年11月03日 11時12分27秒

今日は11月3日、文化の日。
特異日の名に恥じず、今年も快晴です。

穏やかな気持ちで朝食の席に着き、テレビを付けたら、全局が北朝鮮のミサイル発射のニュースを流していました。えらいお祭り騒ぎだなあ…と思うと同時に、建物内に避難するよう真顔で呼びかけるアナウンサーの声に、何だか茶番めいた印象も持ちました。

朝刊に目を落とせば、原発の運転期間延長のニュースが紙面を飾っていて、「そういえば、原発にミサイルを撃ち込まれたら、日本は即座に詰むぞ…と言われた件、あれは今どうなっているのかな?」と思いました。他国のミサイルの脅威を目一杯あおりつつ、同時に日本海側に原発を多数展開するというのは、たしかに整合しない話です。

このことについて、国の公式見解はどうなっているのか?
関連する成書も多いとは思いますが、新聞報道や国会でのやりとりをパパッと見た限りでは、今でもあまり本気で考えているようには見えませんでした。

例えば、国の原子力規制員会は、環境省の外局として原発の安全策を担う部署ですが、委員会の立場としては、武力攻撃に対する防御策を電力会社には求めず、それは防衛省の役割というスタンスのようです。一方、自衛隊は、ミサイルが飛んで来れば、空・海・陸から対空ミサイルで迎撃するわけですが、それは国土一般に共通の話で、特に原発だけを手厚く守っているわけでもありません。撃ち漏らしてミサイルが原子炉を直撃した場合どうなるかは、原子炉の対爆性能が非公表のため、全くのブラックボックスです。仮に直撃に耐えても、外部電源を喪失すればメルトダウンは避けられず…ということで、なかなかお寒い感じです。

もちろん、ミサイルは撃つ方が悪いのです。
でも、それを奇貨として、敵基地先制攻撃能力だ何だと煽り立てるのは、考える順番が違うし、ましてやそれを新たな金儲けの種にしようとか、すわ支持率アップの好機とほくそ笑むなどというのは、不徳義な振る舞いと言わざるをえません。


------------------<以下参考:赤字は引用者>----------------------

■東京新聞(2022年3月4日)

【見出し】
原発に攻撃、日本の備えは…「ミサイルで全壊、想定していない」 テロ対策施設の未完成、再稼働した5基も

【リード】
 ロシア軍によるウクライナ最大のザポロジエ原発への攻撃。日本の原発は2011年3月の東京電力福島第一原発事故以降、地震津波対策は厳しくなったが、大規模な武力攻撃を受けることは想定外だ。航空機衝突などテロ対策で義務付けられた設備は、再稼働した原発の一部でしか完成しておらず、外部からの脅威に弱い。(小野沢健太)

【記事本文】
 「武力攻撃に対する規制要求はしていない」。政府が次の原子力規制委員長の候補とした山中伸介規制委員は4日、参院の議院運営委員会で原発が戦争に巻き込まれた際の対策を問われ、答えた。規制委事務局で原発の事故対策を審査する担当者も取材に、「ミサイル攻撃などで原子炉建屋が全壊するような事態は想定していない」と説明した。

 原子炉は分厚い鉄筋コンクリートの建屋にあり、炉も厚さ20センチの鋼鉄製だ。どの程度の攻撃に耐えられるかは、規制委も電力各社も非公表。しかし炉が難を逃れても外部電源を失えば、原発停止後に核燃料を冷やせず、福島第一原発のようにメルトダウン(炉心溶融)に至るリスクを抱える。

 航空機衝突などで中央制御室が使えなくなった場合は、テロ対策として秘匿された構内の別の場所に設置する「特定重大事故等対処施設(特重)」で炉内の冷却などを続ける。ただ再稼働済みの10基のうち、特重があるのは5基。5基は特重が未完成のまま稼働している。

 廃炉中を含め全国18原発57基の警備は電力会社、警備会社、機関銃などで武装した警察、海上保安庁が担う。自衛隊が配備されるのは「有事」となってからだ。

◆国会で何度も質問も、政府「一概に答えられない」
 日本国内の原発への「軍事攻撃」に対する危険性は過去の国会で何度も取り上げられたが、政府側は言葉を濁してきた。(市川千晴)

 2015年の参院特別委員会で、参院議員だった山本太郎氏(現れいわ新選組代表)は、原発がミサイル攻撃に備えているか質問。原子力規制委員会は「(電力会社に)弾道ミサイルが直撃した場合の対策は求めていない」と説明。当時の安倍晋三首相は「武力攻撃は手段、規模、パターンが異なり、一概に答えることは難しい」とかわした。

 民進党(当時)の長妻昭氏は17年の衆院予算委で、原発がミサイル攻撃を受ければ事故以上に被害が大きくなり「核ミサイルが着弾したような効果を狙える」と指摘し、対応を質問。規制委は「そもそもミサイル攻撃は国家間の武力紛争に伴って行われるもので、原子力規制による対応は想定していない」と答えた。
 
同年の参院審議でも、自民党の青山繁晴氏がミサイル攻撃があった場合の避難想定の不十分さを指摘。「地域住民の不安、社会的混乱もすさまじいと思われる」と対策を求めたが、政府側は「武力攻撃による被害は一概に答えられない」としていた。



■第208回国会 参議院 外交防衛委員会 第15号 令和4年6月7日

○羽田次郎君 〔…〕山口原子力防災担当大臣が、ミサイルが飛んできて、それを防げる原発はないと、世界に一基もないと、これからもできないと五月十三日の会見でおっしゃっていますが、これは、政府として、防衛大臣としても同じ御認識ということでよろしいのでしょうか。

○国務大臣(岸信夫君) 我が国に飛翔します弾道ミサイルに対しましては、まず海自のイージス艦による上層での迎撃、それから空自のPAC3による下層での迎撃、これらを組み合わせた多層防衛で対処するということとしています。また、巡航ミサイル等については、航空機、艦艇、地上アセットから発射します各種の対空ミサイルで対応している、することとしております。〔…〕

○羽田次郎君 その山口大臣の、担当大臣のその記者会見のお話だと、今後も迎撃というか、ミサイル攻撃から守れることはないというふうにおっしゃっているように感じたんですが、その認識とは防衛大臣とは違うということでよろしいのでしょうか。

○政府参考人(増田和夫君) お答え申し上げます。五月十三日の山口大臣の会見の中で、委員おっしゃるとおり、ミサイルが飛んできて、それを防げる原発はありませんと、世界に一基もありませんと、このように申しておりますが、〔…〕その前の段階で質問、記者から質問を受けて山口大臣は、原発の防衛を高めるということということはもう当然のこととして受け止めておりますと、これはもう防衛省に関わることでありますと。
 ですから、原発の防衛という観点から申し上げますと、先ほど岸大臣が申し上げたとおり、我々としては、上層、下層での弾道ミサイル防衛、そして巡航ミサイルに対しては各種のアセットで対応すると、その中には当然原発の防衛というのも入っていると、こういうふうに思っているところでございます。

○羽田次郎君 結局、明らかに、ミサイルが飛んできてそれを防げる原発はない、これからもできないというふうに明言されているのとは何かちょっと違うような感じはしますが、防衛省、そして防衛大臣がしっかりと守っていけるとおっしゃるんであれば、その言葉を信じたいとは思いますが。〔…〕

遠い呼び声2022年10月24日 21時02分45秒

昨日につづいて、天文とはあまり関係のない話をします。

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2~3年前に、ある凄愴な、あるいは荒涼とした光景を見たことがあります。

私が使っているプロバイダー(ASAHIネット)は、ブログサービスだけでなく、以前「電子フォーラム」というサービスを提供していました。電子フォーラムというのは、ASAHIネットの会員だけが書き込める専用の掲示板です。SFとか、俳句とか、お絵描きとか、そこにはいろいろなテーマの板があり、モデレーター(管理人)を中心に、同じ趣味の人がネット上で交流を楽しむという体のもので、今から思えば非常に素朴なメディアでしたが、当時は「ネットで交流する」こと自体が、多くの人にとって新鮮な経験でしたから、一時はなかなか盛況だったのです。時代でいえば、およそ90年代いっぱいから、せいぜいゼロ年代初頭までのことです。

ASAHIネットは非常にマイナーなプロバイダーですから、管理も十分行き届いてないところがあって、そのため、電子フォーラムの存在が人々の意識から消え去った後も、過去の書き込みが消されることなく、そっくりそのまま残されていました(最終的に閉鎖されたのは、ごく最近のことです)。

偉そうに書いたわりに、私自身は電子フォーラムを使った経験はないのですが、2~3年前、ふとした好奇心から、電子フォーラムをのぞき見したことがあります。そして、20年以上昔の人々の書き込みを眺めては、あれこれ感慨にふけったのでした。

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そのとき、ふと気がついたのです。
1人の高齢者が、亡霊のようにさまざまな板で書き込みを続けていたことに。
それはイタズラでもなんでもなく、ときに体調の不良を嘆きながら、ときに政治への不満をもらしつつ、誰かほかに書き込む仲間はいないか、必死に友を求め続ける声でした。

もちろん私は疑問に思いました。なぜ彼はツイッターでも始めて、新たな交流を求めないのか? 「でも…」とすぐに思い直しました。彼にとって、電子フォーラムはかけがえのない場であり、きっと最後の一人になっても、その活動の火を消したくないのだろうと。

その光景は、私にたむらしげるさんの作品「夢の岸辺」(初出1983)を思い起こさせました。



これは多義的な作品です。植物状態に陥った人の「脳内人格」の懊悩のようでもあり、「死せる宇宙」に残された最後の人間が、外宇宙との交流を必死に求めているようでもあります。いずれにしても、そこにあるのは絶対的な孤独です。

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昨日の記事を書いてから、心が少し感じやすくなっているのか、ゆくりなく上のことを思い出しました。そして電子フォーラムばかりでなく、この「天文古玩」も、今や同じ道をたどっていることを強く意識します。

ここは確かにネット上にオープンな形で存在しますけれど、2022年現在、ここは幹線道路や主要駅から隔絶した、「ぽつんと一軒家」状態で、訪れる人もまれです(今、この文字を読んでいる方はとてもご奇特な方です)。

このブログは、主に備忘とデータ集積のために続けているようなものですが、交流の目的が皆無というわけではありません。趣味の上で、同好の士と語らうというのは、心のなごむ経験ですから、ぜひそうしたいとは思います。でも、時代に適合しないものはどうしようもありません。


「こちらLesabendio、こちらLesabendio」


【おまけ】
ついさっき知った事実。たむらしげるさんが使った「Lesabendio」というのは、世紀末ドイツで活躍した奇想の文学者、パウル・シェーアバルト(Paul Karl Wilhelm Scheerbart、1863-1915)の作品、『LESABÉNDIO』に由来する言葉のようです。『LESABÉNDIO』は、小惑星パラスを舞台にしたSFチックな一種の寓話で、タイトルは作中に登場する人物名から採られています。

(シェーアバルト『星界小品集』、工作舎、1986)

【おまけのおまけ】
上に書いたことは、例によってネットで知りました。
「レザベンディオ」は、写真に写っている工作舎の『星界小品集』には、残念ながら未収録なのですが、もう1冊の邦訳書『小遊星物語』(桃源社、のちに平凡社ライブラリー)には入っているそうでなので、そちらも購入してみようと思います。

2023年の空に向かって2022年10月23日 12時38分18秒

名古屋市科学館で開かれていた、「ウィリアム・ハーシェル没後200年記念展」が先週で終わり、その撤収作業がありました。その際、「そういえば、来年はプラネタリウム100周年だそうですね」という話になりました。

現代のプラネタリウムの元祖である、ツァイス社の投影式プラネタリウムが誕生したのが1923年で、来年でちょうど100年。名古屋市科学館でも、それを記念する企画が進行中とのことで、今から楽しみです。のみならず、国際プラネタリウム協会(IPS)を中心に、世界中で関連の催しがあるのだとか。

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YouTubeに荒井由実さんの「雨の街を」がアップされているのに気付きました。

 夜明けの雨はミルク色
 静かな街に ささやきながら 降りて来る 妖精たちよ
 誰かやさしくわたしの肩を抱いてくれたら
 どこまでも遠いところへ 歩いてゆけそう

…で始まる、静かな、心の深いところにしみる曲です。
この曲のファンは多いと思いますが、私はこの曲を聞くと、あるひとつの情景が繰り返し浮かんできます。

The Alqueva´s Dawn sky © Miguel Claro)

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来年はプラネタリウム100周年。
そしてあの出来事から20年。

2003年4月26日の夜明けの空に向かって、一羽の蝶が静かに飛び立ちました。
その蝶が普通とちょっと違ったのは、八本の脚をもっていたことです。

■二階堂奥歯 『八本脚の蝶』

私には彼女のいう「恐怖」がどれほどのものだったかは分かりません。
そして、彼女は震えながら、長い間それに抗った末に、ひとつの選択をしました。

夜空の底に青がにじみ、星明りも徐々に消え、やがてブドウ色になる頃。
そのとき彼女の目に見えていた景色が、私には何となく荒井由実さんの歌と重なって感じられるのです。もちろん、それは私の勝手な思い入れに過ぎません。でも、その世界があくまでも透明であったことを強く願います。

『八本脚の蝶』は、彼女が自死した直後にネットで話題となり、時を隔てて文庫にもなりました。彼女の問いかけは、今も多くの人の心に、一種の宿題を残していると思います。

我ながらいかにも唐突な記事だと思いますが、いろいろなことが重なって、私の中で急にひとつの像を結んだので、文字にしておきます。

空を見上げて宿題の答を探す日々は、これからも続くことでしょう。

閑語2022年09月23日 09時50分23秒

世上かまびすしい「国葬」の問題。
安倍さんの国葬については、私ももちろん反対です。

世間一般では、法的裏付けのない、内閣が勝手に決めた違法な国葬だから…という声も強いですが、ただ、あまりそれにこだわると、「じゃあ、臨時国会を開いて、手続きを踏んで決定したものならいいんだね?」と言われたとき、ぐうの音も出なくなる気がします。

もちろん、岸田さんの不法行為は、それ自体咎められねばならないですが(法治国家なので当然です)、それよりも私が安倍さんの国葬に反対するのは、私には彼がそれにふさわしい人物とは到底思えないというのがひとつ。

それと、そもそも国家が人間の死を序列化する(=国葬に値する人とそうでない人を、国が選別する)ことに、強烈な違和感を覚えるからです(靖国思想をちょっと連想します)。

後者は、安倍さんの問題とは離れた、国葬という制度そのものに対する批判なので、議論の際には分けて考える必要があります。それに、後者をつきつめると、私自身が「安倍さんは国葬にふさわしくない人だ」と主張するのも矛盾じゃない?という点にも跳ね返ってきます。まあ、私のは「彼は別に褒めそやすような人物ではない」という個人の感想に過ぎないので、国家の意思決定と同列に論じることはできないでしょう。

国葬は、このままなし崩しに挙行されるのかもしれません。
でも、おぼしきこと言わぬは腹ふくるるわざですから、はっきり反対であることを、ここに書きつけておきます。

ブセボロードさんのウクライナだより2022年09月19日 17時32分45秒

ウクライナのアストロラーベ作家、ブセボロードさんから台風見舞いをいただきました。そのお礼を述べる中で、最近、ウクライナ軍が東部戦線で攻勢に出ていることに触れたら、ブセボロードさんからさらに返信がありました。

 「ええ、我々もここ数週間、ウクライナ防衛軍の前進状況に関する報道を目にしています。私が主にチェックしているのは、以下のインタラクティブ・マップです。
https://deepstatemap.live/en#6/49.411/29.290

今月に入ってから解放された地区は、被占領地域の約6%と見積もられています。それは予想を上回る戦果ですが、全面的な成功にはまだ程遠い状況です。全ての変化が地図に反映されるまで若干タイムラグがありますが、それはもっぱらサイト運営者が、信頼できるデータを提供しようとしているためです。

一方には暗い側面もあり、解放地域では多くの陰鬱な発見がなされ、そうした写真の何枚かは、すでにネットにも上がっています。ボランティアでパラメディカルスタッフをしているリヴィウとニーコポリ〔註:それぞれウクライナの西部と東部の町〕出身の私の友人たちも、現在そうした地域で遺体発掘の仕事に従事しています。彼らは決してすべてを語ろうとしませんが、そのメッセージのトーンから、彼らが目にしなければならなかったものは、彼らが決して見たくなかった類のものだろうと感じます。」

たしかにこれも伝聞情報に過ぎないとはいえ、生身の人間から伝わってくる情報は、やはり生々しさが違います。そして「決してすべてが語られない状況」をぼんやり想像して、身の毛がよだつ思いです。

(参考までにブセボロードさんに教えてもらったDeepStateマップの画像サンプルを挙げておきます。9月19日現在の状況)

(マップ右上のインフォメーションボタンを押すと出てくる凡例)

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敵国に立ち向かうには、外交を含む戦略と武器があればいいのかもしれません。
では、我々は何をもって人間の残酷さに立ち向かえばいいのか?

それは宗教だという人もいるし、教育だという人もいます。
でも、まだそれに成功したという話は聞きません。敵国を華々しく打ち破った猛将・知将は、歴史上数多くいますけれど、人間の内なる残酷さに打ち勝った人は多分まだいないので、後者の方が格段に難しい課題であることは確かです。

なぜそんなに難しいかといえば、おそらく「残酷さに打ち勝つという思考の中に、すでになにがしかの残酷成分(排除と殲滅)が含まれているからで、だとすれば残酷さに対しては、打ち勝つのではなく、それとうまく共存する方法を見出すことこそ、人間になしうる最善のことではないか…とか何とか、例によって下手の考え休むに似たりですが、台風の空を眺めながら考えました。

臆面のはなし2022年08月14日 12時15分05秒

今朝の朝日新聞の朝刊を見ていて、ひどく驚いたので記事を書きます。
驚いたのは本紙の内容ではなく、1面の下に載っている書籍広告欄で、そこに載った著者の名前を見て、大いに驚いたのです。


そこには、『アルコール症―病院精神医学の四十年―』(メディカル・ジャーナル社)の著者として、石川文之進の名前がありました。しかも、その隣の隣には、『精神医学と俳句』(幻冬舎ルネッサンス新社)と題して、そこにも「石川文之進・著」とあります。

石川という人は、あの酸鼻をきわめた「宇都宮病院事件」の舞台となった報徳会宇都宮病院の当時の院長です。宇都宮病院事件は、日本の精神医療行政の曲がり角となった事件として記憶に刻まれ、今も関係書籍には必ず記載されていますが、その人の著書がなぜ今こうして広告欄に登場するのか? しかも、『アルコール症』は2003年、『精神医学と俳句』は2008年に出た本で、新刊書でも何でもありません。その辺のからくりが謎といえば謎です。

石川氏は、自身の文章【LINK】で、「昭和59年のいわゆる宇都宮病院事件の折には、諸先生方、医学会及び精神科学会各位に大変御迷惑をおかけいたしましたこと、心からお詫び申し上げます。」と述べており、「諸先生方」、「医学会及び精神科学会各位」には頭を下げていますが、患者さんには一言も反省の弁がないことに、その姿勢がよく現れています。そして、事件によって病院の経営から身を引くでもなく、驚くべきことに96歳の現在も「社主」として病院のトップにいます。

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世間には「臆面もなく」という言葉があります。
「臆面」というのは「気おくれした顔つき」のことで、人間あんまりおどおどしても良くないのかもしれませんが、多少は臆面があったほうが人間らしいし、好感が持てます。

ポスト安倍の政局において、いろいろな人間模様を見るにつけ、「よくもまあ臆面もなく」と思うことがしばしばですが、この新聞広告にも似た感慨を覚えました。