鉱物標本を読み解く ― 2022年10月04日 21時03分04秒
昨日、ツイッターで以下のようなツイートが流れてきて、「お、いいね」と思いました。
ツイート主は、ケンブリッジ大学ホイップル博物館の公式アカウントです。
写っているのは、同博物館に保管されている、19世紀後半~20世紀初頭の鉱物・化石の標本セットで、小さな箱にきっちりと詰まった様子が、いかにも標本らしい表情をしています。そして、単に見た目にとどまらず、その先を追ってみたら、話がいよいよ深いところに入っていったので、ますます「いいね」と思いました。
上の標本に注目し、ホイップル博物館のメイン展示室に陳列したのは、台湾出身のグエイメイ・スーさんです。たぶん漢字で書くと、徐(または許)貴美さんだと思うのですが、スーさんは、レスター大学の博物館学の学生として、ホイップル博物館でワーク・プレースメント(実習を兼ねた短期就労)を経験し、その実習の仕上げとして、オリジナルのミニ展示を企画するという課題を与えられました。
以下はスーさん自身のサイトに書かれた、事の顛末です。
スーさんに与えられたのは、わずか110×70センチ、高さは22センチのガラスケース。このスペースで、何か博物館学的に意味のある展示をせよ…という、なかなかチャレンジングな課題なのですが、スーさんが紆余曲折の末に到達したテーマが「国家収集:ナショナリズム、植民地主義、近代教育における地質学(Collecting the Nation: Geology in Nationalism, Colonialism, and Modern Education)」というものでした。
そこに展示されたのは、まずチェコで作られた教育用の小さな化石標本セット。
その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます(※)。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。
あるいは、イギリスで作られた鉱物標本セットと、それに付属する論文抜き刷りの束。そこに書かれた、あからさまに植民地を軽侮する言葉の数々―。
(上記「Placement Reflection 3」より寸借)
そしてもう一品は、1960年代に頒布された、アメリカ版「○年の科学」のような理科教材(Things of Science)に含まれる鉱物・化石標本です。
これはミニサイズの鉱物標本の長い伝統と、鉱物学習においてきわめて重要な側面、すなわち「触覚的側面」を思い起こさせるものとして、展示に加えられました。この触覚的側面こそ、コロナ禍のオンライン学習では決定的に不足したものです。
これらを組み合わせて、スーさんは「国家収集:ナショナリズム、植民地主義、近代教育における地質学」という企画をされたわけです。
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古い鉱物標本を見て、「趣があるねぇ…」ということは簡単です。
しかし、モノはいろいろな文脈に位置付けることができ、そこからいろいろな意味を汲み取ることができます。客観を旨とする自然科学の標本であっても、歴史的・社会的に価値フリーということはありえません。
しかも、これらの標本セットは、スーさんも指摘するように、「博物館のミニチュア」でもあって、こうした展示を博物館で行うことの入れ子構造と、博物館そのものに浸み込んだ国家主義と植民地主義を逆照射する面白さが、そこにはあります。
総じていえば、「メタの視点の面白さ」を、今回の一連の記事から感じました。
私の部屋の見慣れた品々も、掘り下げてみれば、まだまだいろいろな顔を見せてくれることでしょう。
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(※)チェコ民族復興運動との関連では以下の記事も参照。
■彗星と飛行機と幻の祖国と
アドラーは一日にして成らず ― 2021年09月05日 11時15分25秒
昨日も触れましたが、シカゴのアドラー・プラネタリウム(1930年開館)は、天文博物館を併設していて、天文分野に限っていえば、そのコレクションはヨーロッパの名だたる博物館――ロンドンの科学博物館、パリの国立工芸館、ミュンヘンのドイツ博物館等にもおさおさ劣らず、西半球最大というのが通り相場です。
しかし、それほどのコレクションがどうやってできたのか?
20世紀の強国、アメリカの富がそれを可能にしたのは確かですが、逆にお金さえあれば、それが立ちどころに眼の前に現れるわけではありません。そこには長い時の流れと熱意の積み重ねがありました。
…と、相変わらず知ったかぶりして書いていますが、創設間もない時期に出た同館のガイドブックを見て、その一端を知りました(著者のフォックスは、同館の初代館長です)。
■Philip Fox
Adler Planetarium and Astronomical Museum of Chicago.
The Lakeside Press (Chicago), 1933. 61p.
Adler Planetarium and Astronomical Museum of Chicago.
The Lakeside Press (Chicago), 1933. 61p.
以下、ネット情報も交えてあらましを記します。
結論から言うと、アドラー・コレクションの主体は、既存のコレクションを買い取ったものです。もちろん創設以来、現在に至るまで、そこに付け加わったものも多いでしょうが、核となったのは、メディチ家とならぶフィレンツェの富豪貴族、ストロッツィ家のコレクションでした。
500年近く前に始まった、同家の科学機器コレクション、それが19世紀末にパリの美術商、ラウル・ハイルブロンナー(Raoul Heilbronner、?-1941)の手に渡り、次いで第1次世界大戦後に、名うての美術商・兼オークション主催者だったアムステルダムのアントン・メンシング(Antonius Mensing、1866-1936)が、それを手に入れました。この間、ハイルブロンナーとメンシングは、それぞれ独自の品をそこに加え、コレクションはさらに拡大しました(その数は全体の3割に及ぶと言います)。
工匠の技を尽くしたアストロラーベ、ノクターナル、アーミラリー・スフィア、天球儀、日時計、古い望遠鏡…等々。その年代も、まだ新大陸が発見される前の1479年から、アメリカ建国間もない1800年にまで及ぶ、目にも鮮やかな逸品の数々。メンシングはその散逸を嫌い、アドラーが入手したときも、一括購入というのが販売の条件でした。
約600点から成る、この一大コレクションを購入した際の資金主が、百貨店事業で財を得た、地元のマックス・アドラーで、これは旧世界の富豪から、新世界の富豪への時を超えた贈り物です。

(Max Adler、1866-1952)
以上のような背景を知るにつけ、「アドラーは一日にして成らず」の感が深いです。
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気になるその購入価格は、ちょっと調べた範囲では不明でした。
ただ、箱物であるプラネタリウム本体も含めた、その建設費用の総額が約100万ドル(参考LINK )だそうで、もののサイトによるとこれは現在の1600万ドル、日本円でざっと17億円にあたります。600点のコレクションの中には、とびきり高いものも、そうでないものもあると思いますが、丸めて平均100万円とすれば6億円、建設費用全体の3分の1~半分ぐらいがコレクション購入に充てられたのでは…と想像します。
なんにせよ豪儀な話です。
では、わが家の「小さなアドラー」の方は、1点あたり平均1万円、総額600万円ぐらいで手を打つか…。私は車も一切乗りませんし、維持費が馬鹿にならない車道楽の人の出費に比べればささやかな額でしょう。それにしたって、小遣いでやりくりするのは大変で、これぐらいのところでせっせと頑張るのが、身の丈にあった取り組みという気がします。小さなアドラーだって決して一日にしては成らないのです。
(これぞホンモノの「小さなアドラー」。1933年シカゴ博のお土産品)
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最後にちょっと気になったのは、アントン・メンシングのことです。
メンシングの名前は以前も登場しました。ただ、その登場の仕方があまり芳しくなかったので、科学的な身辺調査の実施状況も含めて、「小さなアドラー」の主として、いささか御本家のことが慮(おもんぱか)られました。
■業の深い話
倫敦ヴンダーめぐり ― 2018年02月17日 10時39分16秒
十年一日のごとき拙ブログですが、それでも常に同じ位置にとどまっているわけではなくて、地球の歳差運動のように、興味の重心はゆっくり移動しています。何となく以前も書いたな…という話題が、周期的に顔を覗かせるのは、そのせいです。
ただ、それは過去の完全な焼き直しではなくて、自分としては、そこにわずか成長や成熟も感じているので、主観的にはアサガオの蔓のように、ぐるぐる回りながらも前進・上昇しているイメージです(客観的にはまた違った見方があるでしょう)。
最近の傾向は、ヴンダー路線への回帰。
しばらく話題に乏しかった、動物・植物・鉱物の「三つの王国」や、種々の珍物への関心がまたぞろ復活して、その手の品を手にすることも増えています。
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そんな気分でいたところに、素敵なサイトを知りました。

■ロンドンのミュージック&ミュージアム
書き手の清水晶子さんは、『ロンドンの小さな博物館』(集英社新書)、『ロンドン近未来都市デザイン』(東京書籍)などの著書がある、ロンドン在住のジャーナリストの方です。
ミューズから人類への偉大な贈り物である<音楽と博物館>。
清水さんの筆は、この両者をテーマに、ロンドンの過去・現在・未来の魅力を存分に紹介して止むことがありません。
2枚看板のうち、<ミュージアム>のページは、2014年にスタートして以来、博物館と展示会の情報が、ほぼ月1回のペースで、コンスタントに掲載されています。そのいずれもが、何というか内容が<濃い>んですね。下世話なことを恥じずに言えば、本当にこれをタダで読めてよいのか…というためらいすら感じます。
現在サイトの冒頭に来ている、昨年12月(LINK)と今年1月(LINK)の記事は、17世紀のコペンハーゲンで、せっせとヴンダーカンマーづくりに励んだ医師、オーレ・ワーム(1588-1654)を、2回にわたって取り上げています。(そこで紹介されている図版を見れは、驚異の部屋好きの人なら、「ああ、アレを作った人か!」とピンと来るでしょう。)
そして、オーレ・ワームの登場は、昨年11月の記事(LINK)で、ワームの後輩世代にして、これまた奇想のコレクターであった、イギリスのサー・トマス・ブラウン(1605-1682)を取り上げたことがきっかけになっています(ブラウンは、ワームのコレクション・カタログを所持していました)。
そしてさらに、ブラウンの記事からは、オカルティズムが流行したエリザベス一世治下でその名をはせた、万能の天才にして奇人、ジョン・ディー(1527-1609)の記事(LINK)へとリンクが張られ…という具合で、本当に<濃い>です。
読んでいるうちに、何だかこちらまで非常な物識りになったような気分になりますが、それは清水さんの筆が冴えているからに他なりません。
こうしたヴンダーカンマー的な展示も含め、清水さんの関心は、自然科学系・美術系の垣根を超えて広がっていますが、そこに共通するのは、いずれも「奇想のミュージアム」と呼ぶのがふさわしい内容であることです。とにかく、これはもうご覧いただいた方が早いですね。
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先日、個人ブログの可能性について思いを巡らせましたが、この「ロンドンのミュージック&ミュージアム」は、その一つの範となるものではないでしょうか。
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▼閑語(ブログ内ブログ)
読み応えのあるブログをご紹介した後で、日本の報道人にも一言申し上げたい。
好漢・枝野氏の国会での活躍を仄聞するにつけて、それに沈黙するマスコミの惰弱さが印象づけられます。
本来、報道人というのは、同僚を出し抜くこと、他社を出し抜くこと、世間を唸らせることに大いに生きがいを感じる、ケレン味の強い人たちのはずですから、これほどまでに無音状態が続いているのは、それ自体不思議なことです。そこには「寿司接待」とか「忖度」の一語で片づけられない、何か後ろ暗いことがあるんじゃないか…と、私なんかはすぐに勘ぐってしまいます。
裏の世界というのは、いつの世にもあると思いますが、いわゆる裏稼業に限らず、公の世界にも、公安をはじめ、内調とか、公調とか、きわどい仕事に手を染めている組織はいろいろあると聞きます。しかも、その中には、さらに秘匿性の高いダークな組織が存在する…と、まことしやかに囁かれていますが、そんな手合いがマスコミ対策の一翼を担っているとしたら、ジャーナリストが腰砕けになるのも頷けます。
それでも、ジャーナリストを以て自ら任じる人には、ここらで勇壮な鬨(とき)の声を挙げてほしい。別に高邁な理想で動く必要はありません。ケレンでも十分です。
とにかく唄を忘れて裏の畑に棄てられる前に、美しく歌うカナリアを、鋭く高鳴きする百舌を、深い闇夜を払う「常世の長鳴鳥」を思い出して、ぜひ一声上げてほしいと思います
ヴィクトリアン・サイエンスの夢 ― 2017年09月05日 07時23分18秒
知られざる理系アンティークショップは、まだまだ世界に多いな…と、下の写真を見て思いました。画像検索していて、偶然行き会った写真です。
有名どころの理系アンティーク・ショップは、それぞれ商品構成に特徴がありますが、こんなふうに、古風な電気実験機器をメインにした店は珍しいです。
★
…というような想像が、私の脳内を一瞬駆け抜けましたが、その画像元を見に行ったら、これはショップではなくて、博物館のスナップ写真でした。その名も『ヴィクトリアン・サイエンス博物館』。
■Museum of Victorian Science(公式サイト)
こんな素敵な博物館の存在を今まで知らずにいたのは、私の無知のせいもありますが、そればかりではなく、この場所自体、かなりマイナーな珍スポットに属するという事情もあります。
グーグルマップでその場所を訪ねると、イングランド北部、リーズ北東70kmの草深い地に…
こんな看板がぽつんと出ているだけの施設です。
しかも、公式サイトを見ると、「見学は要予約。できれば数日前に予約されたし。16歳未満は入館禁止〔別の箇所には18歳未満禁止とも〕。質問は電話でのみ受け付けます。」と、相当な偏屈ぶりを匂わせています。
とは言え、トリップアドバイザーの該当ページを見ると、「旅行者の評価」は「とても良い」が45人で、「良い、普通、悪い、とても悪い」は0人。つまり、全員が「とても良い」を付けています。たいていの観光スポットは、「とても良い」「良い」「普通」にばらけるのがふつうですから、これは例外的な好評ぶりと言って良いでしょう。
口コミの冒頭にある、イギリス・インバネスから訪問した某氏のコメント(トリップアドバイザーによる機械翻訳をそのまま転載)。
「ビクトリアの科学博物館を見学します」
「では博物館は信じられないを訪れになりました。ありがとう!" 私たちはマルコーニでは、スライド、大砲は気に入りました!! ほぼ 2 つの砲弾獲れた! ウィムズハーストマシン素晴らしかったですthe 、私たちのお気に入りは、フランケンシュタインフィナーレでした!は、紅茶、ビスケットに感謝します。もよかったです。 私達は、本当に私たちはまた来ることができますここは私たちが今までに行ったことが今まで最高の博物館だったのでいつか行きたいです!もあり、科学に興味をお持ちでない場合は、この場所ととても魅力的であるがとても気に入りました。もします。 科学博物館の裏手にある歴史的背景もありとても気に入りました。 本当にありがとうございましたまた泊まりたいです!!!!!」
「では博物館は信じられないを訪れになりました。ありがとう!" 私たちはマルコーニでは、スライド、大砲は気に入りました!! ほぼ 2 つの砲弾獲れた! ウィムズハーストマシン素晴らしかったですthe 、私たちのお気に入りは、フランケンシュタインフィナーレでした!は、紅茶、ビスケットに感謝します。もよかったです。 私達は、本当に私たちはまた来ることができますここは私たちが今までに行ったことが今まで最高の博物館だったのでいつか行きたいです!もあり、科学に興味をお持ちでない場合は、この場所ととても魅力的であるがとても気に入りました。もします。 科学博物館の裏手にある歴史的背景もありとても気に入りました。 本当にありがとうございましたまた泊まりたいです!!!!!」
不思議な日本語はさておき、そのびっくりマークの多さに、某氏の感動と興奮がダイレクトに感じられます。
全体として、館長の個性が前面に出た、いかにもアクの強い個人博物館…といった趣です。そこにこそ、得も言われぬ面白さがあり、衝撃があるのでしょう。
さあ、あなたも“現代のフランケンシュタイン博士”、素敵な館長トニーの案内で、夢多きヴィクトリアン・サイエンスの世界へ!!!!!!
パドヴァ天文台 ― 2017年02月19日 11時46分25秒
長靴型のイタリア半島の付け根、東のアドリア海に面する町がベネチアで、ベネチアの西隣に位置するのがパドヴァの町です。
ガリレオは1592年にパドヴァ大学に赴任し、1610年にフィレンツェに移るまで、この町で研究に励みました。彼の最大の功績である望遠鏡による星の観測や、『星界の報告』の公刊も、パドヴァ時代のことです。
上は、そのパドヴァの町にそびえる天文台。
1910年前後の石版刷りの絵葉書。緑のインキで刷られているところがちょっと珍しい。
左側にミシン目が入っていて、使うときは切り取って使ったものらしいです。
(一部拡大)
この塔こそ、ガリレオが星の観測に励んだ場所だ…というのは、ずいぶん昔からある伝承で、「そりゃ嘘だ。第一、時代が合わない」という声を尻目に、そう信じている地元の人も少なくないそうです。
その辺の事情を、INAF(Istituto Nazionale di Astrofisica、イタリア国立天体物理学研究所)のサイトでは、こう説明しています(以下、適当訳)。
■パドヴァ天文台博物館 「ラ・スぺコラ」
パドヴァ天文台1000年の歴史と250年の観測史
パドヴァ天文台1000年の歴史と250年の観測史
多くのパドヴァ市民(や市外の人)に伝わる誤った伝承によれば、この天文台の塔こそガリレオの塔であり、高名な科学者は、この場所から素晴らしい天文学の発見の数々を成し遂げ、人類史上初めて、天空の裡に隠された星々の特異な性質を解き明かしたとされる。これらの発見によって、彼は天文学のみならず、科学全体に革命を起こしたのだ。
このように広く信じられてはいるものの、パドヴァ天文台を、あの有名な科学者が訪れたことはない。なぜなら、この研究機関が設置されたのは(したがって、以前から存在したパドヴァの古城の主塔上に天文台が建設されたのは)ようやく1767年のことで、ガリレオがパドヴァを離れ、メディチ家の宮廷があったフィレンツェに移ってから、約150年も経ってからのことだからである。
ガリレオ云々は「神話」に過ぎないとはいえ、スぺコラを訪ねる人は、決して失望することはないだろう。この場所は、多くの魅力に富み、歴史・芸術・科学にまつわる濃厚な雰囲気に満たされた場所だからだ。実際、パドヴァ天文台では1776年〔原文のまま〕以来、高い水準の研究が行われてきたし、1994年からは、その最古の部分を市民に公開し、塔屋部分は天文博物館に改装されている。現在では、過去何世紀にも及ぶパドヴァの天文学者たちの仕事部屋を縫うようにして、塔屋全体が博物館となり、昔の天文機器が展示されている。
このように広く信じられてはいるものの、パドヴァ天文台を、あの有名な科学者が訪れたことはない。なぜなら、この研究機関が設置されたのは(したがって、以前から存在したパドヴァの古城の主塔上に天文台が建設されたのは)ようやく1767年のことで、ガリレオがパドヴァを離れ、メディチ家の宮廷があったフィレンツェに移ってから、約150年も経ってからのことだからである。
ガリレオ云々は「神話」に過ぎないとはいえ、スぺコラを訪ねる人は、決して失望することはないだろう。この場所は、多くの魅力に富み、歴史・芸術・科学にまつわる濃厚な雰囲気に満たされた場所だからだ。実際、パドヴァ天文台では1776年〔原文のまま〕以来、高い水準の研究が行われてきたし、1994年からは、その最古の部分を市民に公開し、塔屋部分は天文博物館に改装されている。現在では、過去何世紀にも及ぶパドヴァの天文学者たちの仕事部屋を縫うようにして、塔屋全体が博物館となり、昔の天文機器が展示されている。
★
その「スぺコラ博物館」の内部の様子は、同じINAFの以下のページで少し覗き見ることができます。
■SPECOLA, THE ASTRONOMICAL OBSERVATORY OF PADUA
展示の主力は18世紀後半~19世紀の天文機材で、ガリレオ時代のものは仮にあったとしても、他所から持ってきたものでしょう。それでも、13世紀にさかのぼる中世の塔に、古い天文機材が鈍く光っているのは、なかなか心を揺さぶられる光景です。
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以下、おまけ。ちょっと角度を変えて撮った絵葉書も載せておきます。
こちらはリアルフォトタイプなので、1920年代ぐらいの光景だと思います。
天文台とは関係ないですが、添景として写っている少年たちの姿がいいですね。
こんな塔のある古い町で子供時代を送ってみたかったな…と、ちょっと思います。
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■閑語(ブログ内ブログ)
沖縄のこと、福島のこと。
そしてまた南スーダン、共謀罪、森友学園の土地取得疑惑…と、政権周辺波高し。
にもかかわらず、またぞろ強行採決をもくろむとすれば、やっぱり現政権は●っているとしか思えません。でも、今日はちょっと違うことを書きます。
今朝、ふと菅元総理の「最小不幸社会」というスローガンを思い出しました。
あれは2010年のことで、その言葉がニュースで報じられるや、「なんで『最大幸福社会』と言わないんだ」と大ブーイングでした。
当時の言説をネットで読み返すと、「考えが後ろ向きだ」、「希望がない」、「覇気がない」、「敗北主義だ」とか、あまりにも感情的な言葉が並んでいるのに、ちょっと驚かされます。菅さんへの個人的好悪をさておき、私自身は、当時も今も「最小不幸社会」の実現は、政治家として至極真っ当な主張だと思っています。
金持ちがいっそう金持ちになるべく、欲望をぎらつかせることは勝手ですが、何も政府がその後押しをする必要はありません。お上は、もっと弱い立場の人に目配りしてほしい。幸福の総量が増すことと、その分配が真っ当に行われるかは別の問題ですし、仮に一部の者の幸福が、他の者の不幸の上に築かれるとしたら、それは不道徳というものです。
小石川とインターメディアテク ― 2016年10月16日 12時11分49秒
昔…といっても、まだ10年も経ちませんが、東大総合研究博物館の小石川分館で常設展示されていた「驚異の部屋展」を、この時期になると懐かしく思い出します(私の中では、小石川は秋のイメージと結びついています)。
文明開化の息吹を伝える、明治の擬洋風建築(旧医学館)の床をギシギシ、コトコト言わせて、古い標本や教具の間をゆっくり見て回るのは、とても豊かなひとときでした。あそこはいつ訪ねても人気(ひとけ)がなく、窓の外の植物園には、ときに冷たい雨が、ときに柔らかな日差しが降り注ぎ、自分はそれを眺めながら、昔のことや今のことをぼんやり考えたのでした。
★
あそこに並んでいたモノの多くは、今も丸の内のインターメディアテク(IMT)で目にすることができます。でも、それはかつての小石川の経験と等質ではありません。
別にIMTが悪いというわけではありません。
…と言いつつ、やっぱり悪口になってしまいますが、今のIMTに見られる「物量主義」と「豪華珍品主義」は、結局のところ、20年以上昔に『芸術新潮』が「東京大学のコレクションは凄いぞ!」という特集を組んだ際(1995年11月号)の、「お宝バンザイ」的なノリと何ら変わりません。あえていえば、それは「アカデミックな成金趣味」そのもので、あの展示を見ていると、「どうだ、恐れ入ったか!」と、驚嘆することを強いられているような、妙な疲労感を覚えることがあります。
★
あれ、キミらしくないね。物量と珍品こそヴンダーカンマーの本質だろ?何でそれがいかんの?
いやあ、齢のせいかな。この頃、焼肉よりお茶漬けを好むようになってね。
はは、なるほど。でも、別にIMTの物量に圧倒される必要はないよ。ありゃあ大時代な“帝国主義的博物館”の一種のパロディというか、モノを展示しているように見せて、実は“博物館的空間”を展示している、巨大なインスタレーション作品なんだから。そこに西野館長の狡猾な――もとい緻密な計算があるわけさ。
え、本当かい?そんなもんかなあ…
ああ、間違いない。あのあざとい壁の色を見れば分かる。
まあ、それなら得心がいくけど。
IMTに侘び茶の風情を求めるのはお門違いさ。IMTに行ったら、IMTそのものを楽しまなくちゃ。
うーん…でも強いて望むなら、IMTにはもっと静寂と、木々の緑と、大らかさが欲しいね。その点は、昔の小石川のほうが遥かに良かったよ。それでこそ、空間そのものをもっと楽しめる気がする。
★
…と、上の赤い人は無責任な感想を述べていますが、「あれで入館無料」という東大の太っ腹には、私も大いに敬意を払っていますし、これからも度々足を運ぶことでしょう。
そして、これは100%確実な予想ですが、もしIMTが将来閉館したら、「あんな素晴らしい、夢のような空間はなかった」と、私はしみじみ述懐するはずです。私は追憶の中でしか生きられないのかもしれません。
首都の週末(2)…インターメディアテク(後編) ― 2016年07月25日 20時59分58秒
インターメディアテクは、ミュージアムショップがよくない…と、以前書きました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/10/14/7458230)。
さて、最近はどうであろうかと、例によってミュージアムショップ(正式には、「IMTブティック」と呼ぶそうです)に立ち寄ったんですが、品数も幾分か増え、オリジナルの品――以前とは違って、ちゃんと収蔵品にちなむもの――も並んでいたので、ちょっと嬉しかったです。
その中でも特に目を惹いたのが、この標本壜。
(つまみを含む全高は約33cm)
古くなった保存液の風情を出すため、黄褐色の透明シートを丸めて入れてあるのが、心憎い工夫です。
ショーケースには「オリジナル標本瓶 15本限定」という以上の説明はなく、また店番のバイト氏に聞くのも覚束ない気がしたので、特に聞かなかったのですが、若干擦れや汚れがあって、まっさらの新品ではなさそうです。おそらく東大のどこかから出て来たデッドストック品ではないか…と思いました(この点は定かではありません)。
ガラス蓋のつまみ。手わざを感じさせる涼し気な練り玉。
それを透かして見る景色を見ながら、「驚異の小部屋」で見かけた、分厚い半球状のガラスに覆われた標本をぼんやり思い浮かべました。
それを透かして見る景色を見ながら、「驚異の小部屋」で見かけた、分厚い半球状のガラスに覆われた標本をぼんやり思い浮かべました。
私が行ったときは、これがショーケースに4本並んでいました。
それぞれにエディション・ナンバーが入っているのですが、そのうちの1本を見たら、「お、一番やんけ」…と、別に河内弁にならなくてもいいですが、ちょっとラッキー感があったので、思い切って購入することにしました。
そして、包んでもらった壜を手に、いそいそとインターメディアテクのゲートを出ようとしたところで、館長である西野嘉章氏とすれ違いました。別に言葉を交わしたわけでもなく、本当にすれ違っただけですが、ほんの数秒時間がずれていたら、このすれ違いも生じなかったでしょうから、まさに「袖触れ合うも多生の縁」です。
★
今は漫然と窓際に立ててありますが、ここは「驚異の小部屋」を見習って、もうちょっとディスプレイの仕方を考えてみます。
(さらに、この壜だけでは飽き足らず、インターメディアテクの空気を求めて、帰宅後に画策したことがありますが、それはまた別の機会に書きます。)
(この項つづく。この後は西荻窪に向います)
首都の週末(1)…インターメディアテク(前編) ― 2016年07月24日 20時50分06秒
味のある一日であった。
…昨日経験したさまざまな出来事を、そう総括したいです。
…昨日経験したさまざまな出来事を、そう総括したいです。
時間にすれば一日、いやわずか半日のことですが、人間によって生きられる時間は、物理的時間以上に伸縮・濃淡に富むものです。そして、昨日は大いに時間が濃くかつ長く感じられました。
昨日出かけた主目的は、既報のごとく、池袋のナチュラルヒストリエで開催中の「博物蒐集家の応接間」のレセプションに出席することでしたが、そこに至るまでにも、いろいろなプレ・イベントがあったので、ゆるゆると流れに沿って振り返ることにします。
★
東京駅に着いたら、何はともあれ、インターメディアテクを訪ねなければなりません。
一途にそう思いこんだわけは、昨年10月から始まった「ギメ・ルーム開設記念展“驚異の小部屋”」を見たかったからです。
「驚異の小部屋」と名付け、インターメディアテクという巨大な驚異の部屋の中に、さらに小さな驚異の部屋が作られているという、一種の入れ子構造が面白いのですが、この「小部屋」は、デザインがまた良いのです。
インターメディアテクは相変わらず写真撮影禁止なので、その様子は下のページに載っている写真を参照するしかありません。
■大澤啓:ギメ・ルーム開設記念展『驚異の小部屋』
「展示法」の歴史と交流―フランス人蒐集家エミール・ギメ由来の展示什器と
その再生
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v20n2/v20n2_osawa.html
「展示法」の歴史と交流―フランス人蒐集家エミール・ギメ由来の展示什器と
その再生
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v20n2/v20n2_osawa.html
(画像だけならば、手っ取り早くこちらで)
赤を基調としたメイン展示室とは対照的な、この浅緑の空間は、実に爽やかな印象を与えるもので、ヴンダーカンマー作りを目指す人に、新たなデザインの可能性を示唆するものでしょう。
(赤を基調としたメイン展示室。『インターメディアテク―東京大学学術標本コレクション』(平凡社)より)
…と、デザイン面だけ褒めるのも変ですが、実際、この展示室の目玉は、個々の展示物よりも、それを並べているフランス渡りの古風な什器(19世紀のフランス人実業家、エミール・ギメが自分のコレクションを展示するために誂えたもの)であり、それを配した「展示空間」そのものが展示物であるという、これまた奇妙な入れ子構造になっているのでした。
私は小部屋に置かれたソファに腰をかけ、展示されている「空間」を堪能しつつ、「ヴンダーカンマーとは実に良いものだ」と、今さらながら深く感じ入りました。
★
そして、これは全く知らずに行ったのですが、現在、特別展示として『雲の伯爵――富士山と向き合う阿部正直』というのをやっていて、これまた良い企画でした。
「雲の伯爵」というのは修辞的表現ではありません。
本展の主人公、阿部正直(1891-1966)は、華族制度の下、本物の伯爵だった人で、その家筋は備後福山藩主にして、安政の改革を進めた老中・阿部正弘の裔に当ります。
本展の主人公、阿部正直(1891-1966)は、華族制度の下、本物の伯爵だった人で、その家筋は備後福山藩主にして、安政の改革を進めた老中・阿部正弘の裔に当ります。
阿部は帝大理学部で寺田寅彦に学び、1923年には1年間ヨーロッパを遊学。1927年、御殿場に「阿部雲気流研究所」を設立し、本郷西片町の本邸内にも実験室を作り、富士山麓をフィールドとした雲の研究に専心しました。
…というと、何だか気楽な殿様芸を想像するかもしれませんが、阿部は戦後、中央気象台研究部長や気象研究所長を歴任しており、その学殖の確かさを窺い知ることができます。
(阿部正直が撮影した山雲の写真。藤原咲平・著『雲』(岩波書店)所収。『雲』は日本の代表的な雲級図(雲の分類図)で、初版は1929年に出ましたが、阿部の山雲写真は、1939年の第4版から新たに収録されました。)
展示の方は、阿部の研究手法の白眉といえる、様々な光学的記録手段――雲の立体写真や、映画の手法を用いた雲の生成変化の記録などをビジュアルに体感できるものとなっています。
(同上)
広大な富士の裾野、秀麗な山容、その上空に生じる雲のドラマ。
想像するだに胸がすくようです。
想像するだに胸がすくようです。
(同)
上で殿様芸云々と言いましたが、潤沢な資金を用いた阿部の研究は、まさに「殿様」ならではのものであり、その研究を殿様芸と仮に呼ぶならば、その内でも最良もの…と言ってよいのではないでしょうか。
(この項つづく)
夢の望遠鏡、望遠鏡の夢 ― 2016年02月17日 19時36分48秒
来たる2016年3月13日は、日本のアマチュア天文家&望遠鏡愛好家にとって、記念すべき日になります。いや、日本ばかりでなく、世界中のファンにとってもそうでなるはずです。
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天文趣味の一大特徴は、星への愛とともに、機材への愛がうずまいていることです。
必ずしも全ての天文ファンが…というわけでもないのですが、リアル天文愛好家(望遠鏡で実際に星を眺めて楽しむ人)のうち、少なからぬ割合の人が、少なくとも一度は望遠鏡愛に目覚めたことがあるはず。これは、写真愛好家が同時にカメラマニアになるのと類似の現象です。
しかし、望遠鏡愛好家のその後のライフコースは様々です。
早くに熱が冷める人、ほどほどのところで落ち着く人、そして一生かけて機材愛を貫く人。そして、その陰で、あまたの望遠鏡が廃棄され(いちばん最後の幸福なパターンにしても、ご当人が亡くなられた後、その機材愛がご遺族に受け継がれる確率はきわめて低いのです)、貴重な光学文化遺産は日々失われつつあります。
早くに熱が冷める人、ほどほどのところで落ち着く人、そして一生かけて機材愛を貫く人。そして、その陰で、あまたの望遠鏡が廃棄され(いちばん最後の幸福なパターンにしても、ご当人が亡くなられた後、その機材愛がご遺族に受け継がれる確率はきわめて低いのです)、貴重な光学文化遺産は日々失われつつあります。
この点は、各地の公立・私立の天文観測施設でも事情は同じです。機材の更新に伴う旧機材の廃棄もあれば、財政難によって施設が閉鎖され、大型望遠鏡が無用の長物化する例も、近年決してまれではありません。
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こうした現状を憂えた人々が、「一般社団法人・天体望遠鏡博物館」を組織し、会員諸氏のボランティア精神に支えられた息の長い取り組みの末に、ついに現実の「天体望遠鏡博物館」が、このたび開設されることになりました。

ロケーションは香川県さぬき市。徳島との県境に近い山ふところに立つ旧・多和小学校(2012年閉校)の校舎が、来月13日、天体望遠鏡博物館として甦ります。
同館代表理事の村山昇作氏は、元日銀マンという異色の経歴のアマチュア天文家。その周囲で活動を支えてこられたのも、みなさん本業を別に持つ、熱心なアマチュア天文家の方たちと聞き及びます。まさに天の時、地の利、人の和、そのすべてが備わった末に成し遂げられた壮挙です。
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この快事は、海外でも大きな注目を集め、アメリカを中心とするアマチュア天文家の交流サイト「Cloudy Nights」の今日の記事でも大きく取り上げられています。以下は、David McGough氏による同博物館訪問記。その写真を見るだけでも、同博物館の一端に触れることができます。この記事は、先ほど Antique Telescope Society のメーリングリストでも配信されたので、今後、多くの人の共感を呼ぶことでしょう。
■A Visit to the Museum of Astronomical Telescopes In Tawa, Japan
http://www.cloudynights.com/page/articles/cat/articles/a-visit-to-the-museum-of-astronomical-telescope-r3040
http://www.cloudynights.com/page/articles/cat/articles/a-visit-to-the-museum-of-astronomical-telescope-r3040
ヴンダーカンマーの遺風…カテゴリー縦覧:博物館編 ― 2015年05月07日 06時17分31秒
博物館の絵葉書を、これまでしょっちゅう取り上げたような気がしたのですが、意外にそうでもありませんでした。今日はこんな絵葉書です。
フランス北部、ベルギーとの国境に近いサントメールの町にある博物館の古絵葉書。
キャプションには、サントメール博物館(Musée de Saint-Omer)とありますが、現在の正式名称は「サンドラン賓館博物館(Musée de l’hôtel Sandelin)」といいます。
キャプションには、サントメール博物館(Musée de Saint-Omer)とありますが、現在の正式名称は「サンドラン賓館博物館(Musée de l’hôtel Sandelin)」といいます。
名前にホテルと付いていますが、ここはいわゆる「宿屋」ではなく、貴人が客をもてなす館として設けられた建物です。元はサントメールの領主館だったものを、18世紀後半にフランス貴族のサンドラン家が買い入れて改装し、後に博物館に転用された由。
最初の博物館は、1829年に同地の農林・考古学会(la Société d’Agriculture et d’Archéologie)が設置したもので、このときは主に動物の剥製、化石、民族学資料を展示する場でした。その後、徐々に中世遺物がコレクションに加わり、さらに1899年に市立博物館となるに及んで、サントメールの歴史資料と近世以降の美術作品の展示をメインとする<歴史資料館・兼・美術館>に生まれ変わりました。
この絵葉書は20世紀初頭、まだ同博物館がそれ以前の姿をとどめていた時期に作られたものでしょう。そのため、最初の画像のように、剥製がずらり並んでいるかと思えば、
こんないかめしい武具があったり、
中世にさかのぼる雑多な小像や器物が棚を埋め尽くしていたりで、一応分野別に整理されているものの、その全体はいかにも混沌としています。19世紀には、既にヴンダーカンマーは過去のものとなっていましたが、まだその遺風が辺りに漂っている感じです。
あるいは、近代博物館の展示原理の普及には、地域によってタイムラグがあり、パリを遠く離れたサントメールでは、依然ヴンダーカンマー的な展示を好む気風が強かった…ということでしょうか。まあ単に、小博物館の「脱抑制的勇み足」とも言えますが(日本でもありがちです)、そこにこそヴンダーカンマーの本質が端無くも露呈した…と言えなくもありません。
個人的には、こういう混沌とした雰囲気がわりと(いや、大いに)好きです。
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