アンドロメダのくもは ― 2024年05月03日 18時15分47秒
草下英明氏に「賢治の読んだ天文書」という論考があります(『宮澤賢治と星』、学芸書林、1975所収)。その冒頭に次の一節があります。
「昭和26年5月、花巻を訪れて〔実弟の〕清六氏にお会いした折、話のついでに「賢治さんが読まれた天文の本はどんなものだったんでしょうか。貴方に何かお心当りはありませんか」とお尋ねしてみたが「サア、どうも覚えがありませんですね。多分貧弱なものだったと思いますが」というご返事で…」
草下氏の一連の論考は、「星の詩人」宮澤賢治の天文知識が、意外に脆弱であったことを明らかにしています。たとえば「銀河鉄道の夜」に出てくる「プレシオス」という謎の天体名。これは草下氏以降、プレアデスの勘違いだったことが定説となっています。こんな風に、賢治作品で考証が難航した天体名は、大体において彼の誤解・誤記によるものらしい。
もちろん、それによって彼の文学的価値が減ずるわけではありませんが、後世の読者として気にはなります。
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…というのは、14年前に書いた記事の一節です(引用にあたって表記を一部変えました)。
■魚の口から泡ひとつ…フィッシュマウスネビュラの話
上の記事は、賢治が作品中で使った「フィッシュマウスネビュラ」という見慣れない用語について書いたもので、賢治の天文知識のあやふやさを指弾する色彩を帯びています。すなわち、賢治が今でいうところの「環状星雲」を「フィッシュマウスネビュラ」と呼んだり、天文詩『星めぐりの歌』の中で、「アンドロメダのくもは さかなのくちのかたち」とうたったのは、彼の勘違いであり、記憶の錯誤にもとづくものだ…というようなことを、草下英明氏の尻馬に乗って書き記したのでした。
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例の「The Astronomers’ Library」を、晴耕雨読よろしく庭の片づけ仕事の合間に読んでいます。その中で、上の記事に関連して、「おや?」と思う記述を目にしました。そして、少なくともアンドロメダ銀河を賢治が「魚の口」と呼んだのは、やはり典拠のある話であり、それを賢治の誤解で片づけたのは、私や草下氏のそれこそ無知によるものではないか…と考えなおしました。
というのは、「The Astronomaers’ Library」は、ペルシャで10世紀に編纂されたアル・スーフィの『星座の書』を紹介しつつ、次のように書いているからです。
「この本のもう一つの注目すべき点は、アンドロメダ座――あるいはアラビア語でいうところの「巨魚座 Big Fish」 にある、(アラビアの天文学者には)よく知られた「小雲(’little cloud’)」に関する最初の記録であることだ。」
さらに上図のキャプションには、こうあります。
「ギリシャ星座のアンドロメダ座〔…〕は、またアラビア星座の巨魚座でもある。現代ではアンドロメダ銀河として知られる「小雲」は、魚の口のところに黒点の集合として示されている。」
(上図部分拡大)
巨魚の口にぼんやりと光るアンドロメダ星雲。
賢治がそんなアラビア星座の知識をもとに、あの『星めぐりの歌』を書いたのだとしたら、「賢治の天文知識って、意外にしょぼいんだよ…」と後世の人間がさかしらに言うのは大きな間違いで、むしろ並々ならぬものがあったことになるのですが、さてどんなものでしょうか?
【付記】
先ほど検索したら、この件は加倉井厚夫氏が「星めぐりの歌」に関する考証の中で、「また、アラビア星座の中に「二匹の魚」という星座があり、うち一匹の魚の口の位置がちょうどM31の位置にあたっていて、このことを賢治が知っていたかどうかも大変気になるところです。」と既に指摘されているのを知りました【LINK】。
ただ、アラビアの星図の中にそれが明瞭に描き込まれていることまでは言及がなく、そのこと自体あまりポピュラーな知識とは思えないので、今後の参考として書き付けました。
青い鳥 ― 2022年08月06日 08時10分24秒
最近の買い物から。
いささか季節外れですが、オリオン星雲の幻灯スライドです。
販売者は、イーストロンドンのモーティマー通り82番地にあった幻灯機器の店、「W. C. ヒューズ商店」(創業者はWilliam Charles Hughes、1844-1908 【LINK】)で、ラベルを見ると「天文学シリーズ」の第49番にあたるようです。
オリオン星雲は人気の被写体ですから、そのスライドも無数に存在しますが、このスライドの特徴は、なんといってもその色合いです。青い光をまとった、ほの白い姿。空をゆく巨大な鳥のようでもあり、蝙蝠のようでもあり、天使のようでもあります。もちろん、実際の夜空はこんなふうに青みを帯びているわけではありませんから、これは人々のイメージの中だけに存在する姿です。
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今日は8月6日。
あの日焼かれた無数の魂を、天の翼がどうか平安の彼岸へと導いてくれますように。
(ルネ・マグリット「大家族」、1963)
虚空の花…かに星雲 ― 2021年09月25日 13時57分20秒
(パロマーの巨人望遠鏡が捉えた、今ではちょっと懐かしい「かに星雲」のイメージ。
メシエ目録の栄えある1番、M1星雲である「かに星雲」。
「かに星雲」といえば『明月記』…そう刷り込まれていたので、私はずいぶん長いこと『明月記』の作者、藤原定家(1162-1241)が超新星爆発を夜空に見て、それを自分の日記に記したのだと思っていました。
もちろんそれは間違いで、「かに星雲」の元となった超新星の出現は1054年のことですから、定家とは時代が全然ちがいます。定家はたしかに空に新天体を見ましたが、彼が見たのは彗星で、それを日記に書く際、参考として約180年前の古記録を併せて記したのでした(1230年のことです)。
しかも以下の論考によると、『明月記』の該当箇所は定家の自筆ではなくて、「客星」(普段の空には見られない星)について、陰陽寮の安倍泰俊(晴明七代の裔)に問い合わせた折に、先方から受け取った返書を、そのまま日記に綴じ込んだものらしく、そうなると定家と「かに星雲」の関係は、さらに間接的なものということになります。
■白井 正 氏(京都学園大学)
京都の天文学(4) 藤原定家は、なぜ超新星の記録を残したか
星空ネットワーク会報「あすとろん」第5号(2009年1月1日)
京都の天文学(4) 藤原定家は、なぜ超新星の記録を残したか
星空ネットワーク会報「あすとろん」第5号(2009年1月1日)
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1054年は和暦でいうと天喜2年で、後冷泉天皇の御宇にあたります。
この帝の乳母をつとめたのが、紫式部の娘、大弐三位(だいにのさんみ)だと聞けば、いかにも平安の代にふさわしい、「王朝」の薫香をそこに感じます。
その王朝の空に光を放ち、その後千年かけて宇宙にほころんだ花、それが「かに星雲」です。
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その花をガラスに閉じ込めて、好きな角度から眺められるようにした品があります。
(LEDステージに載せたところ)
6センチ四方のガラスキューブに、レーザーで「かに星雲」が造形されています。
3Dモデルというと、今では3Dプリンターが幅を利かせていますが、こんなフラジャイルな構造はとてもプリント不可能でしょうし(そもそも不連続で離散的な表現はできません)、透明なガラスならではの魅力というのも、やはりあるわけです。
7200光年先に浮かぶ星雲の背後に回って、その後姿を眺める…なんてことも、これなら簡単。人間、神様にはなれないしにしろ、神様の気分を味わうことはできます。
差し渡し10光年の光塊を、手のひらに載せてクルクル回す喜び。
1000年前には公卿・公達でも味わえなかった愉悦でしょう。
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7200光年先の爆発を、1000年前の人が目撃した…ということは、超新星爆発が起こったのは今から8200年前で、ようやく1000年前に、その光が地球人の目に飛び込んだわけです。そして、今我々が見ているのは、当然7200年前の星雲の姿です。
以下のサイトで、1950年から2100年までの150年間におよぶ膨張変化を、GIFアニメで見ることができます。「現在のかに星雲」、すなわち「7200年後に我々が目にするであろう、かに星雲」は、この調子でさらに大輪の花を咲かせていることでしょうね。
科学の目…科学写真帳(後編) ― 2020年12月20日 08時52分28秒
ミクロの世界ばかりではなく、科学の目はマクロの世界にも向けられます。
上はウィルソン山天文台の100インチ望遠鏡で撮影したオリオン座の馬頭星雲。
こちらはパロマー山天文台の200インチ望遠鏡が捉えた「かに星雲」。左は赤外線、右は深紅色の帯域(crimson light)で撮影されました。波長によって対象の見え方が劇的に変わる例です。
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いずれも天文ファンにはおなじみのイメージであり、依然として興味深い天体だとは思いますが、宇宙的スケールでいうと、ずいぶん「ご近所」の天体を選んだものだなあ…という気もします。「天体、遠きがゆえに貴からず」とはいえ、この辺のチョイスは、60年余りの時を隔てた宇宙イメージの変遷を如実に物語ります。
今、もし同様の企画が立てられたら、写真の選択は随分変わるでしょう。
地球周回軌道上の宇宙望遠鏡の登場、補償光学の発展、デジタル撮像と画像処理技術の進歩によって、我々の宇宙イメージは劇的に変わったからです。天界のスペクタクルは一気に増えましたし、宇宙を見通す力は100億光年のさらに先に及び、超銀河団からグレートウォールの構造まで認識するに至りました。
科学の進歩は実に大したものです。
とはいえ、この静謐なモノクロ写真は、最新の科学映像とはまた別の美と味わいを感じさせます。そこに優劣はないのでしょう。
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ついでなので、本書に収められた写真の細部も見ておきます。
この写真集は、写真原版をハーフトーン(網点)で製版しています。
各図版の周辺には印刷時の圧痕がくっきりと見られます。圧をかけたということは凹版印刷を意味し、しかもこれだけ痕が残るのは、相当プレスした証拠です。要は、通常の印刷とは異なる一種の美術印刷なのだと思いますが、背景の黒のマットな仕上がりが美しく、いかにもアートなムードが漂います。
歳末と終末 ― 2019年12月31日 08時07分55秒
いよいよ大晦日。
一年の終わりに当たり、ちょっとそれらしいことを考えてみました。
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宇宙は広大で、その歴史は長い。
…それは確かにそうです。でも、宇宙が広大なのは認めるにしても、その歴史はあんまり長くないんじゃないかなあ…と、子どものころから感じていました。
改めて最新の数字で考えてみます。
宇宙の大きさを、とりあえず人間が認識可能な「可視宇宙」に限定しても、その直径は930億光年に及びます。メートルにすれば、8.8×10の26乗メートル。すなわち、宇宙の大きさに比べて、人間の大きさは10の26乗分の1の、そのまた5分の1ぐらいしかありません。(そして「本当の宇宙の大きさ」は、「可視宇宙」より遥かに大きいとも言われます。)
(差し渡し約3億光年、ガラスの中の超銀河団。過去記事参照)
でも、時間的に見ると、宇宙の年齢はわずか138億歳です。
われわれ人間だって、100歳以上生きる人が結構いるのですから、人間の寿命は、宇宙の年齢の1億分の1、すなわち10の8乗分の1もあります。
人間を空間的に1億倍しても、月までの距離の半分にしかなりませんが、時間的に1億倍すれば、宇宙の年齢に匹敵する…というのが、何だか非対称な感じです。空間的スケールでは、宇宙は無限ともいえるほど巨大ですが、時間的スケールでは、宇宙は驚くほど若く、人間は驚くほど長生きです。
ですから人生の短さを嘆くには及びません。人生は十分に長いのです。
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むしろ、真に嘆くべきことがあるとすれば、それは「宇宙の華やぎの短さ」です。
雑誌『ニュートン』最新号(2020年2月号)の特集は、「宇宙の終わり」。
これを読んで、子どものころ感じた、上のようなモヤモヤを思い出しました。
「地球や星はいつか死をむかえるのだろうか?宇宙に「終わり」はあるのだろうか?太陽系から銀河、宇宙全体にいたるまで、さまざまなスケールの宇宙の未来を徹底解説」…と謳う2月号。
記事は、まず星の一生と、80億年後に訪れるであろう、我らが太陽系の終末図を描いたあと、「PART2 天体の時代の終わり」に筆を進めます。
1000億年後には、多くの銀河団が合体して「超巨大楕円銀河」が生まれ、我々の可視宇宙には、ただ1つの超巨大楕円銀河が存在するだけになる…と、ニュートン編集子は述べます。この巨大な星の集団の外には何もない、ある種孤独な世界です。
そして10兆年後、超巨大楕円銀河に含まれるすべての星が燃え尽き、世界は真の闇へと沈んでいきます。
さらに、10の20乗年が経過すると、そうした星の残骸の多くが銀河中心のブラックホールに飲み込まれ、巨大なブラックホールが、暗黒の中にいっそう暗い表情で浮かんでいるだけの、虚無的な世界が出現します。
そして10の34乗年後には陽子の多くが崩壊して、わずかに残った物質も無に帰し、10の100乗年後にはブラックホールすらも蒸発して、完全なる無が訪れる…。
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もちろん、以上のことは現時点での理論的予測(の1つ)であり、今後シナリオが書き変わることも十分ありえます。それにしても、空に輝く星々が、いずれ輝きを失うことは確実ですから、子ども時代の私が宇宙に「若さ」を感じたのは、事実、宇宙が若いからに他ならないのでした。
宇宙はこれから後、これまでよりも桁外れに長い時を生き続けるでしょう。そのことを考慮すれば、やっぱり人間は宇宙にかないません。
でも、そうした宇宙の「全人生」を考えたとき、そこに星が輝き、生命が盛んに生まれ出る豊饒な期間は、驚くほど短く、その後に続く衰亡と退嬰の時間の長さを思うと、まこと花の命は短くて、空しきことのみ多かりき…。
(ハッブル宇宙望遠鏡が捉えた宇宙の華やぎ。Wikipediaより)
何はともあれ、我々がここにこうして存在していることは、宇宙の若さの帰結であり、我々はみな宇宙の青春そのものだ…と考えると、大いに気分が若やぐではありませんか。
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皆さま、どうぞ良いお年を!
壮麗な天体写真 ― 2019年05月31日 05時52分30秒
実は昨日の写真↑には「仲間はずれ」が混じっています。一番下に写っているのがそれです。
(No.11 Neb. about η Argus, 3/3/92)
ラベルに書かれた「アルゴ座イータ星周辺の星雲」とは、すなわち今の「イータカリーナ星雲」のことで、昔のアルゴ座の一部に当たる「りゅうこつ座」のイータ星を取り巻くように広がる巨大な星雲です。撮影日は1892年3月3日。
これもグリッドを重ね焼きした天体写真ですが、こちらの撮影者はデイビッド・ギル(Sir David Gill、1843-1914)。彼はアマチュアではなく、れっきとしたプロの天文学者です。1879年から南アフリカの喜望峰で南天観測を続け、その成果を『ケープ写真掃天星表』(1896-1900)にまとめました。上の1枚も、当然その元になった写真でしょう。
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上の写真、壮麗の一語に尽きます。
しかし、現代の我々がこれを見て感じる感じ方と、同時代の人が感じた感じ方は、かなり違うでしょう。ズバリ言ってしまうと、我々の目には、もはやこの壮麗な写真も、“ありふれたイメージ”に過ぎないと思います(「ああ、テレビや雑誌やネットでよく見るアレね」…というわけです)。
しかし、19世紀人の心の内に分け入ってみたらどうか?
恒星宇宙を見つめる巨大なガラスの瞳(望遠鏡)は既に存在したものの、受光手段の方は、血の通った肉眼しかない…という時代が、19世紀に入っても長く続きました。機材は大型化しても、結局目で見えるものが全てだったのです。
その後、19世紀も第4四半期に入ってようやく、乾板式の「ガラスの網膜」と、対象を長時間追尾できる「金属の眼筋」が発展し、人類は初めて無数の星と星間ガスが一面にうねる宇宙像に接することができるようになりました。そのドラマチックな画面が、どれほど当時の人々を興奮させたか。写真術は天文学に革命をもたらすと同時に、世間の宇宙イメージにも革命的変化をもたらしたのです。
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…と、見てきたように書いていますが、この辺は同時代の証言を少し拾ってみる必要があります。たぶん当時の一般向け天文書を通覧すれば、いろいろ興味深い証言が得られることでしょう(例によって竜頭蛇尾)。
フランクリン=アダムズの天体写真 ― 2019年05月30日 06時29分33秒
前回登場した、フランクリン=アダムズ撮影の天体写真。
手元には、王立天文学会(R.A.S.)が作成した同様の幻灯スライドが、他にも何枚かあるので、ついでに見ておきます。
(No.265 Nubecula Major.)
「大マゼラン雲」
(No.269 Region of Ophiuchi.)
「へびつかい座領域」
(No.272 Nebula h 3501)
中央の二裂した丸っこいのが「h3501」。これはジョン・ハーシェルによるカタログ番号で、一般的なNGC番号でいえば「NGC5128」。強力な電波を放っている系外銀河で、「電波銀河ケンタウルスA」の名で知られます。
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これらの写真は、星図の基礎資料として撮影されたものですから、その美景を愛でることが主目的ではなかったはずですが、当のフランクリン=アダムズにしろ、他の同時代の天文家にしろ、これを「美」という観点から眺めなかったことは、ちょっと考えにくいです。それぐらい見事な写真です。
頭抜けて豊富な財産があったにせよ、これを撮影したのが、中年の手習いで天文趣味に染まった一人のアマチュアであり、撮影されたのは100年以上前であるという事実が、見る者を驚かせます。
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【余録】
凄惨な事件が心に重いものを投げかけます。
今回の件とは直接関係ないですが、ニュースで、「通り魔事件」という言い方をよく耳にします。私自身、特に何の疑問も持たず使ってきましたが、民俗学者の宮田登氏によれば、本来の「通り魔」――江戸の人は「通り悪魔」と呼びました――は、ああいう事件の犯人ではなく、犯人にとり憑いた一種の邪鬼を指したものらしいです。つまり「通り魔」は、往来にふと現れる妖魔であり、そばにいる人がそれに憑依されると、突如狂気を発して、恐ろしい凶行に及ぶというのです(『妖怪の民俗学』)。
語の成り立ちからしても、用例からしても、確かにそれが古来の観念なのでしょう。と同時に、これは行為者と行為の責任とを切り分ける考え方ですから、そこが妙に現代的にも感じられます。
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なかなか呑み込み難い事件です。
それだけに、いろいろな観点から見ていくことが一層大事だと思います。
銀河の教会 ― 2019年02月13日 20時24分16秒
最近、こんな絵葉書を目にして驚きました。
巨大な渦巻銀河をモチーフにしたステンドグラスです。
上の絵葉書は絵柄が鮮やかに浮かび上がるよう、黒白のコントラストが強調されていますが、実際の光景はこんな感じだそうです。
(究極のソース不明ながら、Flickrで見かけた画像)
このステンドグラスは、イングランド南西部のドーセット州に立つセント・ニコラス教会を飾る作品。当然、古い時代のものではなくて、1984年に設置されたもので、作者は、詩人にしてガラス彫刻家のローレンス・ウィスラー(Sir Laurence Whistler、1912-2000)。
(St Nicholas' Church。英語版Wikipediaより[ LINK ])
同教会は、大戦中に甚大な空襲被害を受け、戦後修復・再建されました。
その目玉ともいえるのが、1955年以降、順次設置された一連のウィスラー作品で、この銀河のステンドグラスは、その掉尾を飾るものです(もう一点、ウィスラーの死後に設置された曰くつきの作品がありますが、ここでは割愛)。
教会のステンドグラスというと、光と色の洪水でむせ返るような作品が多いですが、これらは透明なガラスを、ルーターやサンドブラストで加工したもので、むしろキリッとさわやかな印象。でも、壮麗な<光の芸術>であることにかけては、色鮮やかなステンドグラスに劣らず魅力的です。
銀河の造形は、伝統的な教会建築として一寸異質な感じもしますが、おそらく広大な宇宙を描くことで、宇宙を統(す)べる神の御稜威(みいつ)を高らかに示そうという意図があるのでしょう。
この教会で、重厚なパイプオルガンの音や、美しい聖歌を耳にしたら、なかなか気分が高揚するでしょうね。と同時に、暗黒卿や、男勝りの姫君が登場する、スペースオペラの一場面を連想するかもしれません。
“A long time ago in a galaxy far far away…”
ミクロの銀河 ― 2017年08月06日 17時51分00秒
「視点の置き所によっては、巨大な銀河もちっぽけな点に過ぎないし、反対に、針の先ほどの物体の中にも、実は広大な宇宙が蔵されているのだ。」
子供はよく、そんなことを夢想します。
まあ、大人になってからも、そんなことを考えていると、一種の現実逃避と嗤われたりしますが、でも「現実」なんて薄皮一枚のもので、そんなに大したものじゃないよ…というのも真実でしょう。(むしろ、薄皮一枚の破れやすいものだから、大切に扱わないといけないのです。)
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宇宙を揺曳する賢治さんや足穂の面影を追って、今日はアンドロメダ銀河を覗いてみました。
ただし、望遠鏡ではなしに顕微鏡で。
これは19世紀に流行った「マイクロフォトグラフ」の復刻品で、他の天文モチーフのスライドとセットになっていました。
カバーグラスの下に見える、米粒の断面よりも小さな四角い感光面。
その黒は宇宙の闇を表わし、中央に白くにじむように見えるのが、直径20万光年を超えるアンドロメダ銀河です。
レンズの向うに見える、遥かな遠い世界。
その光芒は、1兆個の星が放つ光の集合体であることを、我々は知っています。
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望遠鏡を通した像をカメラで撮影し、それを縮小して焼付け、それを再度拡大して覗く。―― リアルな現実からは幾重にも隔てられた、人工的な経験に過ぎないとは言え、いろいろ空想を誘う品であることは確かで、しかも空想力さえ働かせれば、ここから世界の真実を、いかようにでも掴み出すことができるのではないでしょうか。
【参考】
上のスライドと同じセットに含まれていた、満月のマイクロフォトグラフと、マイクロフォトグラフの歴史については、以下の記事で取り上げました。
■驚異の名月(上)(下)
■極微の写真のものがたり
天文古書に時は流れる(3)…天体写真と宇宙のイメージ ― 2016年09月18日 15時14分00秒
何だか、ひさしぶりの休みのような気がします。
記事の方も、こう間延びすると何を書こうとしていたのか忘れてしまいがちです。
予定では、印刷技術の面から、1883年版に続いて、1900年版と1923年版の特徴を挙げようと思ったのですが、あまり上手く書けそうにないので、要点だけメモ書きしておきます。
予定では、印刷技術の面から、1883年版に続いて、1900年版と1923年版の特徴を挙げようと思ったのですが、あまり上手く書けそうにないので、要点だけメモ書きしておきます。
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1883年版には石版の月写真が登場しました(前回の記事参照)。
それに続く印刷技術の大きな変革がハーフトーン(網点)の出現です。1900年版に載っている、この↑月面写真もハーフトーン印刷ですが、これによって天文古書は、我々が見慣れた表情にぐっと近づいてきます。
それに続く印刷技術の大きな変革がハーフトーン(網点)の出現です。1900年版に載っている、この↑月面写真もハーフトーン印刷ですが、これによって天文古書は、我々が見慣れた表情にぐっと近づいてきます。
そして、1923年版↑となれば、天体写真の技術も大いに進歩し、星団や星雲など被写体にも事欠かず、印刷メディアを通して、宇宙の名所は多くの人にとって身近な存在になる…という変化をたどります。
このような天体写真の一般化と、印刷による複製技術の進歩は、我々の「宇宙」イメージを前代とは大いに異なるものとし、『銀河鉄道の夜』に出てくる次の一節も、そうした背景の中で生まれたのだ…ということは、以前も書きました。
「けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。そうだ僕は知っていたのだ、勿論カムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒な頁いっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。」
このジョバンニの経験は、ある程度まで宮沢賢治(1896-1933)自身の経験でもあるのでしょう。彼が、もし「まっ黒な頁いっぱいに白い点々のある美しい」銀河の写真を、多感な時期に目にしなければ、あの作品は生まれなかったかもしれません。
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印刷技術という点で言うと、1900年版と1923年版には同じ原版に拠った、りょうけん座の子持ち銀河(M51)の写真が、共通して載っています。
(1900年版)
(1923年版)
しかし、両者を見比べると、1900年版のホワイトノイズが乗ったような、ザラザラした灰色っぽい写真に比べて、1923年版では漆黒といってよい宇宙空間が表現されており、印刷術の進歩による表現力の向上を、そこにはっきり見て取ることができます。
(この項、竜頭蛇尾気味に一応終わり)
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