ワーナー・アンド・スウェイジー、夢の跡(後編)2024年04月19日 05時28分10秒

この写真集には、天文機器の写真とならんで、天文台の外観写真が何枚も載っています(全36枚の図版のうち10枚がそうした写真です)。


たとえば、ニューヨークのダドリー天文台。まさに「星の館」にふさわしい外観で、憧れを誘います。ワーナー社はここに12インチ(すなわち口径30cm)望遠鏡を提供しました。


同社の12インチ望遠鏡というと、これぐらいのスケール感。


ちょっと毛色の変わったところでは、中東シリアの首都ベイルートに立つ「シリア・プロテスタント大学」の天文台なんていうのもあります(ここはその後、無宗派の「ベイルート・アメリカン大学」となり、天文台も現存)。ここに納入したのも12インチ望遠鏡でした。


何度か名前の出たワシントンの米国海軍天文台
ワーナー社とは縁が深かったようで、ここには26インチ(約66cm)大望遠鏡をはじめ、6インチ子午環、5インチ経緯儀、さらに46フィートドーム(差し渡し14m)や26フィートドーム(同8m)といった多くの備品を供給しています。


上の写真の左端に写っている建物のアップ。
26インチ大望遠鏡はここに据え付けられました。望遠鏡以外に、昇降床やドームもワーナー社製です。


その内部に鎮座する26インチ望遠鏡の勇姿。ヤーキス天文台の40インチ望遠鏡にはくらぶべくもありませんが、それでも堂々たるものです。


海軍天文台の白亜の建物を設計したのは、著名な建築家のハント(Richard Morris Hunt 、1827—1895)で、ここは彼の最晩年の作品になりますが、そのハントの名は本書にもう1か所登場します。


それが冒頭、第1図版に登場するこの愛らしい天文台です(写真の左下にハ
ントの名が見えます)。


「ワーナー、スウェイジー両氏の個人天文台」


この小さな塔の上の


小さなドームの中で、ふたりはどんな夢を追ったのか?
巨大なドームにひそむモンスター望遠鏡ももちろん魅力的ですが、この小さな天文台をいつくしみ、写真集の巻頭に据えたワーナーとスウェイジーの心根に私は打たれます。かのハントに設計を依頼したのも、二人がここをそれだけ大切に思ったからでしょう。立派な中年男性をつかまえて可憐というのも妙ですが、その優しい心根はやっぱり可憐だし、優美だと思います。

(この項おわり)

ワーナー・アンド・スウェイジー、夢の跡(前編)2024年04月16日 18時20分15秒

19世紀最後の年、1900年にワーナー・アンド・スウェイジー社(以下、つづめて「ワーナー社」と呼びます)は、自社の天文機器をPRするための写真集を出しています。


■Warner & Swasey
 A Few Astronomical Instruments:From the Works of Warner & Swasey.
 Warner & Swasey (Cleveland)、1900

(タイトルページ。手元にあるのはノースダコタ大学図書館の旧蔵本で、あちこちにスタンプが押されています。)

本書成立の事情を、ワーナーとスウェイジーの両名による序文に見てみます。

 「我々がこれまでその計画と天文機器の製作にかかわった第一級の天文台の数を考えると、それらを一連の図版にまとめることは、単に興味ぶかいばかりではなく、現代の天文装置が有する規模と完璧さを示す一助となるように思われる。

 一連の図版は自ら雄弁に物語っているので、機器類と天文台については、ごく簡単に触れておくだけの方が、詳しい説明を施すよりも、いっそう好ましかろう。

 ここに登場する三大望遠鏡、すなわちヤーキス天文台、リック天文台、海軍天文台の各望遠鏡の対物レンズは、いずれもアルヴァン・クラーク社製であり、他の機器の光学部品については、事実上すべてJ.A.ブラッシャー氏の手になるものである。

 本書に収めた写真を提供していただいた諸天文台の天文学者各位のご厚意に、改めて感謝申し上げる。」

強烈な自負と自信が感じられる文章です。
たしかにアルヴァン・クラークとブラッシャーのレンズ加工技術は素晴らしい、だが我々の機械工作技術がなければ、あれだけの望遠鏡はとてもとても…という思いが二人にはあったのかもしれません。


当時のワーナー社の工場兼社屋。
堂々とした近代的ビルディングですが、よく見ると街路を行きかっているのは馬車ばかりで、当時はまだモータリゼーション前夜です。


この前後、19世紀末から20世紀初頭にかけて、車は内燃機関を備えた「自動車」へと姿を変え、人々の暮らしは急速に電化が進みました。そうした世の中の変化に連れて、天文学は巨大ドームとジャイアント望遠鏡に象徴される「ビッグサイエンス」へと変貌を遂げ、20世紀の人類は革命的な宇宙観の変化をたびたび経験することになります。(このブログ的に付言すると、本書が出た1900年は、稲垣足穂生誕の年でもあります。)

(この項続く)

蛮族の侵入2024年04月13日 16時06分42秒

ここに1枚の絵葉書があります。


ガートルードという女性が、友人のミス・ウィニフレッド・グッデルに宛てたもので、1958年7月31日付けのオハイオ州内の消印が押されています。――ということは、今から76年前のものですね。

「ここは絶対いつか二人で行かなくちゃいけない場所よ。きっと面白いと思うわ。早く良くなってね。アンソニーにもよろしく。ガートルード」

彼女は相手の身を気遣いながら、絵葉書に写っている天文台に行こうと誘っています。

(絵葉書の表)

改めて裏面のキャプションを読むと


「オハイオ州クリーブランド。ワーナー・アンド・スウェイジー天文台は、ケース工科大学天文部門の本部で、イーストクリーブランドのテイラー通りにある。研究スタッフである天文学者たちは、とりわけ銀河の研究に関心を向けている。また学期中は市民向けに夜間観望会を常時開催し、講義と大型望遠鏡で星を眺めるプログラムを提供している。」

   ★

ワーナー・アンド・スウェイジー(Warner & Swasey Company)は、オハイオ州クリーブランドを本拠に、1880年から1980年までちょうど100年間存続した望遠鏡メーカーです。

同社の主力商品は工作機械で、望遠鏡製作は余技のようなところがありました。
そして本業を生かして、望遠鏡の光学系(レンズや鏡)ではなく、機械系(鏡筒と架台)で実力を発揮したメーカーです。ですから、同社はたしかに「望遠鏡メーカー」ではあるのですが、「光学メーカー」とは言い難いところがあります。たとえば、その代表作であるカリフォルニアのリック天文台の大望遠鏡(口径36インチ=91cm)も、心臓部のレンズはアルヴァン・クラーク製でした。

   ★

同社の共同創業者であるウースター・ワーナー(Worcester Reed Warner 、1846-1929)アンブローズ・スウェイジー(Ambrose Swasey 、1846-1937)は、いずれも見習い機械工からたたき上げた人で、天文学の専門教育を受けたわけではありませんが、ともに星を愛したアマチュア天文家でした。

その二人が地元のケース工科大学(現ケース・ウェスタン・リザーブ大学)の発展を願って建設したのが、ワーナー・アンド・スウェイジー天文台で、1919年に同大学に寄贈され、以後、天文部門の本部機能を担っていたことは上述のとおりです。

   ★

1910年代、二人の職人技術者の善意が生み出し、1950年代の二人の若い女性が憧れた「星の館」。ここはもちろん天文学の研究施設ですが、同時にそれ以上のものを象徴しているような気がします。言うなれば、アメリカの国力が充実し、その国民も自信にあふれていた時代の象徴といいますか。

ことさらそんなことを思うのは、ワーナー・アンド・スウェイジー天文台の今の様子を伝える動画を目にしたからです。関連動画はYouTubeにいくつも挙がっていますが、下はその一例。



アメリカにも廃墟マニアや心霊スポットマニアが大勢いて、肝試し感覚でこういう場所に入り込むのでしょう。それにしてもヒドイですね。何となく「蛮族の侵入とローマ帝国の衰亡」を連想します。

もっとも、ワーナー・アンド・スウェイジー天文台は、別に廃絶の憂き目を見たわけではなく、今も名を変え、ロケーションを変えて観測に励んでいるそうなので、その点はちょっとホッとできます。そして旧天文台がこれほどまでに荒廃したのは、天文台の移転後に土地と建物を取得した個人が、詐欺事件で逮捕・収監されて…という、かなり特殊な事情があるからだそうです。まあ、たとえそうだとしても、ワーナーとスウェイジーの純な志や、建物の歴史的価値を考えれば、現状はあまりにもひどいと言わざるを得ません。

   ★

冒頭のガートルードとウィニフレッドの二人は、その後この天文台を訪問することができたのかどうか? 訪問したならしたで、しなかったらしなかったで、このお化け屋敷のような建物を目にした瞬間、きっと声にならぬ声を漏らすことでしょう。

アメリカン・ヒーローとしてのパロマー2023年05月16日 19時58分57秒

パロマーといえば、昔こんな紙ものを買ったのを思い出しました。


1960年の「トレジャー・チェスト」誌(Treasure Chest;1946-72刊)から採ったページですが、これ1枚だけ売っていたので、掲載号は不明。



うーむ、この色と線が、いかにもアメコミですね。
この一種能天気なオプティミズムこそが「時代の空気」というやつで、アメリカン・ホームドラマの世界とも地続きだと思いますが、その裏には核戦争の恐怖におびえ続けた冷戦期の過酷な現実もあり、なかなか微笑ましいとばかり言ってもおられません。



それでも、パロマーが――ひいてはミッドセンチュリーのアメリカ文化が――まとっていた一種の光輝をそこに強く感じます。

   ★

さっき調べたら、「トレジャー・チェスト」はカトリック系の雑誌で、カトリックの教区立学校で配布されていた…とWikipediaは教えてくれました。まあ、アメコミ誌の中でも、ごく「良い子」向けの雑誌だったのでしょう。なお、作者の Ed Hunter こと Edwin Hunter は同誌の常連作家らしいですが、伝未詳。


ちなみに、裏面はこんな感じで、「魔法のフリバー」という空飛ぶ車の物語が掲載されています。フリバーというのはT型フォードの愛称で、1960年当時、すでに過去のオンボロ車だったT型フォードが大活躍するお話のようです。

続・パロマー物語2023年05月13日 17時03分49秒

しばらくぼーっとしていました。
本を読むぞと宣言したわりに大して読めなかったし、というよりも本を読むと眠くなることに気が付きました。昔、年長の人がそう話すのを聞いて、そんなものかなあ…と思っていましたが、自分がその齢になってみると、これは一大真理ですね。もちろん興味のない本を読んでいるうちに、退屈して眠くなるのは分かるんですが、興味のある本でも眠くなるというのは意外な落とし穴で、残りの人生、もうあんまり本も読めないなあと思うと、ちょっぴり寂しいです。

   ★

さて、ブログもぼちぼち再開です。

先日、プラネタリウム100周年の話題を書きましたが、今年は他に75周年の話題もあることを耳にしました。すなわち、パロマー山天文台の200インチ(5.1m)望遠鏡が、1948年にお披露目されて以来、今年で75歳を迎えるという話題です。


上は先日購入した、パロマ―山天文台を描いたおまけカード。
左はイギリスのリージェント石油の「Do You Know?」シリーズ(1965)、右はオーストラリアのサニタリウム・ヘルス・フード・カンパニーの「Wonder Book of General Knowledge」シリーズ(1950-51)に含まれるカードです。

200インチ望遠鏡(ヘール望遠鏡)は、アメリカ一国にとどまらず、文字通り世界のヒーローでしたから、あちこちでこういう「パロマーもの」が作られたわけです。


上は1948年8月30日に発行された記念切手を貼った初日カバー。
この日、まさに望遠鏡の鎮座するパロマー山で投函され、その日の消印が押された記念すべき品です。
ただ、望遠鏡自体の完成記念式典は、それよりもちょっと前の6月1日から行われたので、望遠鏡はあと20日足らずで75歳の誕生日を迎えることになります。

   ★

「大宇宙を見通す目」というと、今ではジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡がその象徴でしょうが、かつてその地位を占めたのがパロマー山のヘール望遠鏡です。しかもその地位は、1976年にソ連のBTA-6望遠鏡が口径世界一の記録を塗り替えるまで、30年近く盤石でしたから、パロマーに思い入れのある天文ファンは、複数世代にまたがっているはずで、もちろん私もその中に含まれます。

   ★

自分が書いた記事に感動するというのも妙なものですが、私はパロマーと聞くと即座に16年前の記事を思い出し、読み返しては思いを新たにします。

■パロマー物語…クリスマス・イヴに寄せて

まあ、これは私が書いたといっても、地元に住むあるアメリカ人女性の文章の引用であり、彼女の記憶の中のパロマーが美しいからこそ感動するわけですが、それに感動できるということ――つまり私の中のパロマー像が彼女の記憶と共鳴するということ――それ自体、私にとっては嬉しいことです。

ウラニア劇場へ2023年04月21日 17時02分43秒

今日も「ウラニア」の絵葉書の話題です。
ただし、ところは変わって、舞台は1898年の世紀末ウィーン。

この年、時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は在位50周年を迎え、ウィーンではこの慶事を祝う大規模な博覧会が催されていました。この催しの基調は、過去半世紀に成し遂げられた産業・貿易・技術の発展を謳歌するというものでしたが、中でも特に科学の進歩に焦点を当てたパビリオンが、「ウラニア劇場(Urania-Theater)」です。


それをモチーフにしたのが、このユーゲントシュティール然とした絵葉書。



昨日の絵葉書と違って、今回のは本物オリジナルで、その消印も博覧会場で押された特製スタンプらしく、インクの残り香に1898年ウィーンの空気を感じます。

   ★

ウラニア劇場はこの博覧会のためだけに、急拵えしたものではありません。

1888年にベルリンで、科学知識の普及を旨とした市民教育のための組織「ベルリン・ウラニア協会(Die Berliner Gesellschaft Urania)」が設立され、これに刺激されて、1897年にウィーンでも「ウィーン・ウラニア組合(Das Syndikat Wiener Urania)」が結成されました。その活動拠点として作られたのが、この「ウラニア劇場」であり、博覧会側とウラニア組合側は、お互い渡りに船、ちょうどタイミングが良かったわけです。


三々五々、「星の劇場」につどう人々。


その先にそびえる科学の殿堂と、それを見下ろす星たち。

新古典様式とユーゲントシュティール(アールヌーボー)様式をミックスした建物は、800 人収容のホールを持ち、さらに200人が入れる講堂や、科学実験の実演部屋、さらに口径8 インチ(20cm)を始めとする一連の望遠鏡を備えた天文台、水族館等を擁していました。ここで日夜、幻灯講演会、科学実験、気球による気象観測等々が行われたのです。

しかし、ここはあくまでも仮設の建物に過ぎず、また経費も嵩んだことから、博覧会の終了後まもなくして閉鎖・取り壊しとなり、ウィーンのウラニア組合は、この後しばらく市内の貸会場を転々としながら、活動を続けました。

   ★

最終的にウラニア組合の落ち着いた先が、今も活動を続けているウィーンのウラニア天文台(1910年オープン)です。


同天文台については、13年前に紹介済みですが、そのときは天文台の前史であるウラニア劇場のことが、分かっていませんでした。

■妄想酒舗、ウラニア
■妄想ではなかった酒舗ウラニア

今回13年ぶりに、その経緯を知ることができたわけで、ささやかながら、これも「継続は力なり」の実例だと思います。

山峡に聳え立つドーム2023年04月20日 20時39分11秒

こんなカッコいい絵葉書を見つけました。
ただし、オリジナルではありません。1905年に制作された「ウラニア天文台」のポスターを、お土産用に絵葉書化したものです(原版はチューリッヒ・デザインミュージアム所蔵)。


ここはチューリッヒにある公共天文台で、研究成果を上げるよりも、市民に星に親しんでもらうことを目的とした施設です。

この天文台は以前も登場済み。

■そびえ立つウラニア
■チューリッヒのウラニア天文台(補遺)

ちなみに、以前の記事ではここを1907年のオープンと書きましたが、建物自体は1899年にできており、1907年は運用開始の年の由。


遠くにはアルプスの山並み、眼下には冷涼な湖と瀟洒な街並み、そのすべてを覆う満天の星。


ドームの中では望遠鏡の周りに紳士淑女や少年たちが集まり、階下のレストランでは美味しい料理が湯気を立て、人々が美酒を酌み交わしたのです。何ともうらやましい環境です。

それにしてもこのポスター。山峡に舞い降りた星の女神をたたえるに相応しい、実に美しいデザインです。

バチカンに天文学の風は吹く2023年03月29日 05時53分47秒



1891年にバチカン天文台再興の勅命を発した、教皇レオ13世の肖像を鋳込んだ銀メダル。


裏面には、その事績を記念して、天文学の女神ウラニアと、遠景にドームを頂く塔が見えます。発行年は再建と同じ1891年。

メダルの周囲に刻まれた銘文は、「Rei astronom honor in vat instauratus et auctus.」で、これをGoogleに訳してもらうと、「The honor of the astronomer was restored and increased.(天文学者の栄誉は回復され、弥増した)」といった意味らしいです。

バチカン天文台とレオ13世の関係や、この塔がいったいどの塔を指しているのか、その辺の事情は、前回独立した記事にまとめました。

そこでも触れたように、この塔は現在も残る「聖ヨハネ塔」で間違いないのですが、ウィキペディアの該当項目【LINK】には、天文台との関係を窺わせる記述がありません。この塔から望遠鏡がカステル・ガンドルフォに移されてから、まだ100年も経っていませんが、どうも歴史としては埋没しつつあるようです。

   ★

それにしても―。
ちょっとあざとい写真ですが、こんなふうに並べると一抹の感慨なきにしもあらず。

(ガリレオのメダルはこちら【LINK】に既出)

   ★

ときに、ウラニアは古代の異教の神ですから、それがバチカンに堂々と立っているのは、考えてみると不思議な気がしますが、この辺は古来の伝統ということで不問に付されているのでしょう。先ほど検索したら、バチカン美術館には今もウラニアの像が立っていることを知りました。


バチカン天文台簡史2023年03月28日 06時34分48秒

こだわるようですが、再びバチカンの話題。
その名をしばしば出しているので、バチカン天文台といえばカステル・ガンドルフォ…というイメージですが、1935年に同地に移転するまで、バチカン天文台は文字通りバチカン市国(ローマ教皇庁)の敷地内にありました。

まずバチカンとカステル・ガンドルフォの位置関係をGoogleマップで確認しておくと、こんな感じです。

(青いルートの道のりは29.1km、自動車で52分と表示されています)

   ★

ウィキペディアの「バチカン天文台」の項【LINK】には、その歴史が書かれていますが、ちょっと記述がゴチャゴチャして分かりにくいので、他のソースも交えて、自分なりに整理しておきます。

まず、バチカン天文台の前史として、16世紀の暦法改革(=グレゴリオ暦の導入)のために、太陽の南中高度を観測する作業が、「トッレ・グレゴリアーナ」、通称「風の塔」で行われた…ということがウィキには書かれています。

「風の塔」とはまた素敵な名前ですが、この「トッレ・グレゴリアーナ」、英語でいえば「グレゴリアン・タワー」【LINK】の位置は下のような感じで、サン・ピエトロの北側になります。

(バチカン全景。中央がサン・ピエトロ。北が上)

(北が右になるよう回転。サン・ピエトロ(左)と風の塔(矢印)。四角く飛び出ているのが風の塔)

   ★

このあと、18世紀後半になると、バチカンの天文研究が俄然熱を帯び、イエズス会立の教育機関である「コッレージョ・ロマーノ」に「ローマ教皇庁天文台」が設けられ(1774)、ここで本格的な望遠鏡観測が行われることになりました。場所は、教皇庁から見るとテベレ川を越えた川向うになります(上のバチカン全景図だと、写真の右側に大きくはみ出します)。恒星の分光観測で有名なセッキ神父(1818-1878)が研究を行ったのもここです。

ではこの時期、「風の塔」は完全に打ち捨てられていたかというと、そうでもなくて、1780年頃、フランチェスコ・サヴェリオ・ゼラーダ枢機卿(1717-1801)の意向で、「風の塔」は再び天文台として使用されることになり、ここを「スペコラ・バティカーナ(バチカン天文台)」とネーミングしました(以下、「旧バチカン天文台」と呼ぶことにしましょう)。ここで指揮を執ったのは、植物学や気象学も修めたジリーイ司祭(Filippo Luigi Gilii 、1756–1821)LINK】という人で、1821年に司祭が亡くなるまで同天文台は存続しました。

ですから、1800年前後の約40年間について見ると、バチカンの天文活動はバチカン市外にあった「ローマ教皇庁天文台」と、バチカン内部の「風の塔」にあった「旧バチカン天文台」の2つが並行していたことになります。名称はともかく、そのいずれもがバチカン天文台の前身と見ることができます。

   ★

しかし、天文観測にふさわしい平穏な時期も長くは続かず、19世紀の到来とともに、長く小国分立状態にあったイタリアを統一する「イタリア統一運動」が起こり、新たに成立したイタリア王国がローマ教皇領を併合すると、コッレージョ・ロマーノも接収され、1878年にセッキ神父が亡くなると同時に、かつての「ローマ教皇庁天文台」は「ローマ大学王立天文台」に改称され、バチカンの天文研究は一時中絶の憂き目を見たのでした。

   ★

このあと、バチカン天文台再興を献策する人がいて、1891年に教皇レオ13世が勅令を発し、荒廃していた「風の塔」を再整備するとともに、「写真天図計画(Carte du Ciel/全天をくまなく撮影して写真星図を作る国際的プロジェクト)」に参加するため、新たに大型機材を現在の「聖ヨハネ塔」LINK】の最上部に設置しました。

(サン・ピエトロ(右)と聖ヨハネ塔(矢印)。北が上。)

その前後の事情は、バチカン天文台の副台長を務めたジュゼッペ・ライス神父(Giuseppe Lais、1845-1921)の評伝に書かれています。ちなみにライス神父はセッキ神父の愛弟子です。

■Father Giuseppe Lais  (1845-1921) : On the Centenary of his Death 
 from the Roman College Observatory to the Vatican Observatory.
 Vatican Observatory Annual Report 2021, pp. 44-47.

16年前の記事に登場した以下の絵葉書が、その聖ヨハネ塔のドーム内部の様子で、写っているのがライス神父です(以前の記事には不正確な記述がまじっていますが、参考にリンクしておきます。LINK①LINK②)。


   ★

この後、ローマ市内の観測環境の悪化(主に光害)に伴い、1935年にバチカン天文台はカステル・ガンドルフォに移転し、さらに1980年代に入ってから、さらなる観測適地を求めて米アリゾナ州に観測拠点を移し、現在に至っている…というのは、これまでも書いたとおりです。なお、カステル・ガンドルフォには今も事務部門が残っており、バチカン天文台本部として機能しているとのことです。

   ★

以上、若干くだくだしい記述になりましたが、あるモノを紹介するのに前置きが必要と思って、その前置きとして書きました。肝心のモノについては次回登場させます。

(この項つづく)

絵葉書探偵2023年03月25日 11時41分37秒

天文台の絵葉書を整理していて、以下の1枚が目に留まりました。



これはいったいどこの天文台か?
表にも裏にも、何のキャプションもないので、こういうのが一番難しいのですが、じっと見ているうちに、この「S. Fayet」という差出人の名前に、何となく見覚えがある気がしました。


検索すると、果たしてその名はすぐに見つかりました【LINK】。

すなわち、ガストン・ファイエ(Gaston Fayet 、1874-1967)。1917年から62年まで、フランスのニース天文台長を長く務めた人です。(ファーストネームのイニシャルが「S」に見えましたが、これはフランス語の筆記体で「G」ですね。)

ならば当然、被写体はニース天文台のはず。
調べてみると、確かにこれは1883年から運用を開始した同天文台の「小赤道儀棟(Petit Équatorial)」の写真です【LINK】。

   ★

では…と、宛先にも目を凝らすと、そこにも「observatoire」の文字が見えます。


なるほど、よく見るとこの葉書は「ブザンソン天文台 ルブフ台長御夫妻」宛てなのでした。

■Observatoire de Besançon

(ブザンソン天文台。上記ページより)

■Auguste Victor Lebeuf(1859-1929)

結局、これはある天文台長が別の天文台長に送った挨拶状という、なかなか天文趣味に富んだ1枚で、買ったときはそうした事情を一切知らずにいましたから、これはちょっと得をした気分。

(消印は1914年3月1日(1月3日?)付け)

まあ後知恵で考えると、切手の消印がニースですから、それに気づけばすぐニース天文台にたどり着けたはずですが、そうするとたぶん差出人と受取人の探索はせずに終わったでしょうから、これは回り道をして正解です。


なお、写真に写っている人物がファイエだと一層興味深いのですが、この写真だけでは何とも言い難いです。ちなみにファイエは下のような面差しの人だそうです。

(前列左がファイエ。1932年の国際天文連合総会にて。© IAU/Observatoire de Paris。出典:https://www.iau.org/public/images/detail/iauga1932-ship/