なつのほし(第三夜)2023年08月01日 22時06分18秒



(ぬきながら)
夏の星座には、
へびつかい座。さそり座。はくちょう座。
いて座。などゆうめいです。

―― 少しの間 ――

北の空に。ひしゃく形にならんだ、七つの
星が見えます。
〔中略〕この 北斗七星は。又 おおくま座とも
よばれています。

「ゆうめいです」というなら、それらを物語ればいいと思うのですが、紙芝居はなぜか北斗七星とおおぐま座を話題にします。一般的におおぐま座の見ごろは春ですから、いくぶん違和感もありますが、教育紙芝居として、北斗七星の話題は必ず入れないといけないという、何かしばりのようなものがあったんでしょうか。


ほら、ね。くまの かたちになった
でしょう?
さあ、こんどは アメリカのインデヤン
につたわるお話を致しましょう。

こうして、紙芝居は熊が星座になったわけを物語ります。
昔々、森の木々がそこらを歩き回っていた頃、熊が道で大きな樫の木にぶつかって、腹立ち紛れに相手を蹴飛ばすと、こんどは樫の木が怒って、「こらッ!くまのぶんざいで、この森の大王様になにをするのか!」


と、くまの尾っぽを ひとひねりして、空へ
  ブルルルルルン!
と、投げ上げました。

―― 少しの間 ――

こうして、くまは そのまま空で 星に
なって いまでも 空を廻っているのだと
いうことです。

このネイティブ・アメリカンの伝承は、野尻抱影も本に書いているので、出典はたぶん抱影でしょう。でも、これって七夕と並び立つほどの、代表的星座物語なんでしょうか。いくぶん疑問も感じますが、ギリシャ神話ほど込み入った「あや」がないし、子供でも親しめるという理由で、あえて入れたのかもしれません。ともあれ、こうして紙芝居の方は終幕を迎えます。

(ぬきながら)
このように 星に、まつわる おもしろい
伝説は まだ たくさんあります


が この空にまたたいている星は、
とても遠いところにあるのです。
七夕の 織女星などは、私たちにごく近い
星ですが、それでも 織女星からの光りは
二十六年もかかって やっと私たちに
とどくのです。
 天文学では、星への距離をあらわすのに
「光年」つまり、光りで何年かかるかと いう
ふうにいいます。織女星の距離は、二十六光年
ということになりますね。

―― 少しの間 ――

 これで 夏の星のお話は終わりますが、
皆さんも 星のきれいな夜、いっしょう
けんめい、はたを織りつづけている織女姫
の織女星や、空へ投げ上げられたおお熊の
北斗七星を さがしてみて下さい。

   ★

70年近く前の子供たちの心に、この紙芝居はどんな影響を及ぼしたか?
中には、その後豊かな天文趣味に目覚めた子もいるかもしれません。そうでなくても、先生の導きによって、空を見上げ星を探した子どもは大勢いるでしょう。

たとえ、彼/彼女らがそのことを忘れてしまったとしても、その瞳をかつて星の光が満たしたことは、この宇宙の歴史の確かな一コマですし、それはいわば「宇宙と観測者の出会い」にほかならず、その意義は無限大である…と、粗末な紙芝居を前に、そんなことを考えたりします。

(この項おわり)

【おまけ】
この『なつのほし』には、姉妹編の『冬の星』があります。そちらはまた冬の凍てつく晩に眺めようと思います。

戦火の抱影2023年08月06日 15時05分25秒

私の職場にも一応空調は入っているのですが、その設備はひどく旧式で、外気温が高い日には、どんなに頑張っても室温が30度を下回ることはありません。そんな中で一日仕事をするのですから、心身の疲労も甚だしく、夜は泥のように眠り、行き帰りの電車の中でも常に眠りこけているような有様です。絵に描いたような夏バテ状態ですね。

そんなわけで、ブログの更新もできず、コメントへもはかばかしくお返事できかねる状態で、当分はこんな感じでしょう。でも、昨日一日寝ていたので、今日は少し元気になりました。

   ★

今日は8月6日。
8月になると、メディアでは先の大戦を回顧して、戦争関連のコンテンツが多くなります。現在も戦争状態にある国や地域が多いことを思えば、こういう年中行事自体、日本が平和であることの証です。もちろん、対外戦争をしていないからといって、国内がすべて太平ともいえませんが、それでも戦火に追われたり、砲弾に怯えたりすることがないのは、ありがたいことに違いありません。

   ★


石田五郎氏の『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート)には、大戦末期の抱影の心模様の一端が綴られています(本書は『星の文人 野尻抱影伝』と改題して、中公文庫に入っています)。

そこには終戦の翌年、昭和21年(1945)8月に出た『星の美と神秘』(恒星社厚生閣)のはしがきが引用されています。同書は抱影の戦後第1作です。たまたま原著が手元にあるので、石田氏による引用の前後も含めて、引き直してみます。


 「久しい間科学は挙げて剣の奴隷だった、且つ多くがそれに殉じた。そのうち比較的に純粋さを保ち得たものに天文学があった。最近復員した或る青年は、部隊長から私の著書を自由思想の有害な読物であるとして没収されたと話して、私を苦笑させた。その私は海軍航空技術本部から、航空兵に星座知識を授ける方法に就いて、度々提案を求められてゐたのだった。」

抱影について、「自由思想の有害な読物」という見方が一部にあったというのは意外です。抱影もそのことに苦笑していますが、今となっては抱影にとって名誉な事実でしょう。

 「しかし星そのものには、同好の人たちもさうだったらうやうに、私も殆ど全く遠ざかってゐた。むしろ、下界の悲劇をよそにする彼等の冷徹な瞳に反感をさへも覚えるに至ってゐた。時にはまた絶望的に、地球がひとつ首を振ってくれれば万事一ぺんにけり〔2字傍点〕がつくのにと思ひ、それを友人にも言ったりした。愛機 LONG TOM の銘をも烙き消さうとしたり、またその献納を思ひ立って周囲から留められたりしたが、空襲が激しくなってからは、三脚と格納函を庭の樹蔭に出しぱなしにして、自然の運命にまかせておいた。五月闇の中で、梅の実が函に落ちるかたい音を、幾たびか聞いたのを憶ひ出す。」

愛機の望遠鏡すら手放そうとしたぐらいですから、にわかには信じがたいことですが、抱影は一時本当に天文と縁切りを考えていたようです。

   ★

抱影がこれほど捨て鉢な気持ちになったのは、彼の身辺の出来事も影響したのでしょう。


上は同書「はしがき」末尾です。
抱影は、亡妻の面影に似た四女みかを掌中の玉と思い、大切にしていました。みかは美しい娘で、絵の才に恵まれ、多摩美術学校を卒業後、本格的に画業に志しましたが、その明るい未来は病魔によって阻まれてしまいます。以下は石田氏の著書からの引用です。

 「黒のベレー帽をかぶり大版のスケッチ帖を小脇にかかえて大道を闊歩していたこの黄金の「画家の卵」が、やがて胸を病み、東村山のサナトリウムに入院する。〔…〕みかの命日は四月六日である。終戦の年、二十七歳の生涯を終えたその深夜は立川、八王子の大空襲で明け方まで南の地平は赤々と業火がもえていた。みかの死は早朝で、抱影は構内の竹林に入り、大地に伏して号泣した。」(石田五郎、『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』p.275)

何だかジブリの「風立ちぬ」を思わせるエピソードで、傍目には一種のロマンを感じなくもないのですが、父・抱影にしてみれば、まさに心の折れる一大痛恨事だったでしょう。このときの抱影は、あと半年で還暦という齢です。

   ★

しかし、抱影の心は、戦時中も完全に星から離れたわけではありません。以下は再び『星の美と神秘』「はしがき」から。

 「天文書の多少珍しいものだけは、故松本泰君が海を渡って来た大トランクに詰めておき、もし無事だったら寄贈することに決め、その旁ら、倖ひに生き残れたらそれだけの著述で晩年は送れさうな、多年蒐集の星の和名を全速力で整理したり、また李・杜・韓・白〔李白、杜甫、韓愈、白楽天〕はじめ唐宋の星に関する詩句を、予て作ってあった索引から、夜昼かけて筆写したりしてゐた。」

このときの抱影の心を満たしていたのは、英米の書物を通じて親しんだ星座ロマンではなく、日本の民間に伝わる星座語彙であったり、中国の古典に描かれた星宿美であったりしましたが、これは別に抱影が戦争によって米英を敵視したからではありません。戦争が終わり、世の中が落ち着きを取り戻してからも、彼は東洋美術に描かれた星の研究に熱中するなど、明らかに「東方回帰」の傾向を見せていたので、これもその一環と思います。

世間一般では、抱影イコール星座ロマンの人でしょうが、抱影自身の意識としては、それは何となく借り物の知識という思いがあったんじゃないでしょうか。余生を意識し、本当にオリジナルな世界を追求しよう、あるいは自身の魂のルーツを探そうと思ったとき、そうした東方回帰には、一種内的な必然性があったのだと思います。

(このあとも抱影にちなんで話を続けます)

衰へたる末の世とはいへど…2023年08月08日 22時11分19秒

日本の山野は気象条件に恵まれ、豊かな森林に覆われていました。

西日本であれば、常緑広葉樹が優占する、いわゆる「もののけの森」が広がっていたわけです。そこではいくら木を伐っても、後から後から植物は再生し、深い森が永続し…という時代が実際長かったように思いますが、中世以降、エネルギー源として大量の薪炭を森に求めるようになると、さしもの日本の植生も、収奪に耐えられなくなり、特に瀬戸内のように降水量の少ない地域では、はげ山化が急速に進みました。

ひとたび植物が消え、その根系が保持していた表土まで失われると、再び森が再生するには、非常に多くの努力と長い年月が必要になります。豊かな自然に甘え、「樹木なんて、ほっとけば勝手に生えて、勝手に茂るものだろう」と思って、じゃんじゃん伐りまくったツケは、必ず回ってくるものです。

(大阪府泉南市、昭和初期の山の様子。出典:大阪府の治山の歴史

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似たようなことを、現今の日本の「文化行政」にも感じます。
人々の熱意と好奇心と使命感の一方的収奪による、文化のはげ山化―。
今、我々が目にしているのは、要はそういうことでしょう。

科博のクラウドファンディングの件については、すでに多くの人が問題にしているので、そこに付け加えるべきことは、あまりありません。ただ、ここまではげ山化が進行してしまうと、「文化の森」が再生するのは、まことに前途遼遠だなあ…と嘆息したくなります。


身近なところで振り返ると、各地で図書館司書の非正規化が進行していたとき、もっと強い危機感をもって反対すべきでした。そのことに眉をひそめはしたものの、より大きな潮流の先触れという認識に欠けていました。これは私自身の大きな反省です。

博物館とともに、博物館に勤務する人も貧しくなれば、博物館や美術館の収蔵品が、いつのまにか市中やブラックマーケットに流出している…なんていう出来事が日常化するのも、もうじきでしょう。かつて先進国と呼ばれた国が、ここまで落ちぶれてしまうとは…。呆然とする他ありませんが、せめて他国の人は、以て他山の石とし、同じ轍を踏まないようにしていただきたいと願うばかりです。

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そしてまた、文化は人の心の糧であり、文化が冷遇されるということは、とりも直さず「人」が冷遇されるということでもあります。現状を直視すれば、そのことに異を唱える人も少なかろうと思います。

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以前もどこかで書きましたが、「文化で腹がふくれるか!」という人に対しては、「金銭で心が満たされるか!」と返したいと思います。(まあその金銭すら、今のわが国では乏しくなりつつあるわけで、貧すれば鈍すとは、よく言ったものです。)

赤燐十二星座2023年08月13日 16時30分53秒

依然として暑く、体調のほうも低空飛行が続いています。
前々回の記事の末尾で、ひきつづき野尻抱影を取り上げると書きましたが、それもちょっと物憂いので、抱影の件はいったん棚上げにして、いちばん最近届いた品を載せます。

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下は1973年にポーランドで発行された、12星座のマッチラベル。


参考として12星座の名前を、<日-英-の順で並べると以下のとおりです。

牡羊座-Aries-Baran、牡牛座-Taurus-Byk、双子座-Gemini-Bliźnięta
蟹座-Cancer-Rak、獅子座-Leo-Lew、乙女座-Virgo-Panna
天秤座-Libra-Waga、蠍座-Scorpio-Skorpion、射手座-Sagittarius-Strzelec
山羊座-Capricorn-Koziorożec、水瓶座-Aquarius-Wodnik、魚座-Pisces-Ryby

真ん中のは一応英語としましたけれど、これは万国共通の名称(ラテン語)で、英語にも「Ram, Bull, Twins, Crab, Lion…」という英語固有の言い方、いわば英国版やまとことばがあります。ポーランド語の名称は、それに対応する性格のものでしょう。


15~6世紀の木版画風の動物たちが、なかなか好い味を出しています。

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上のカードの配列は、牡羊座を起点に、3枚ずつ四季に配当してみました。
並べてみると、デザイナー氏は季節に応じたカラーリングを考えているようです。

(魚座のカードの色が最初の写真と違って見えますが、こちらの方が実際に近いです)

とすると、こんなふうに魚座を冒頭に持ってくるのもありかな…いや、むしろこっちの方がデザイナー氏の意図に近いんじゃないか…と思ったりしました。

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12星座はくるくる天を巡っているものですから、どこを起点にしても良さそうですが、天球上の春分点(天の赤道と黄道の交点)を基準に、そこから数え立てるのが一応慣例のようです。

占星術が成立した遠い昔、春分点は「おひつじ座」にありました。
でも、周知のように地球の歳差運動によって、春分点はじりじりと移動を続け、今では「うお座」の領域にあります。にもかかわらず、占星術の世界では、「うお座」に重ねて、依然として「白羊宮」を設定しており、12星座と12宮がずれてしまうという不思議な状態が続いています(占星術用語としては、白羊宮に続き、金牛宮、双子宮、巨蟹宮、獅子宮…という名称になります)。

いかにもややこしい話ですが、この辺はもう修正がきかないみたいです。
12星座の方は、すでに国際天文学連合によって領域が厳密に定義され、そのサイズも大小バラバラなのに対し、12宮の方は春分点を起点として機械的に30°刻みという根本的な違いもあります。結局のところ、12宮はたしかに星座名に由来するものの、今では一種の座標目盛という以上の意味を持たないわけです。

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…というわけで、このマッチラベルも、牡羊座と魚座のどちらを起点にしても理屈は通るんですが、ここはいっそ円環状に並べるのがいちばんスマートではないかと思いました。


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こうして、季節も星座も巡っていきます。
同じように暑いとはいっても、日脚は徐々に短くなっているし、蝉の声もいつの間にかツクツクボウシが交じりだしました。明日以降、台風が列島を通り過ぎれば、周囲は一気に晩夏の趣となることでしょう。

【閑語】8月15日2023年08月15日 05時52分56秒

今年も8月15日を迎えました。今年は台風の中の8月15日です。

先の大戦が終わってから今年で78年。そして今年は明治156年ですから、あの敗戦を境に、日本の近・現代史はちょうど半々に分かれるわけです。すなわち、3度の対外戦争を経験した前半と、それがなかった後半と。

8月15日は月遅れのお盆でもあるので、先年亡くなった父母、そして祖父母や曽祖父母――まさに日本のザ・庶民といえる人々がたどった156年間を思い起こして、大いに感慨深いものがあります。

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なんだかんだ言って、戦のない世が78年間も続いたのは江戸時代以来のことで、戦を知らぬまま天寿を全うした人も現に大勢いますから、これは大いに慶賀すべきことです。しかし、これからのことは、まったく予断を許しません。

憲法前文の冒頭第一文、

「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

…というのは、当時の人々が後世に託したメッセージにほかなりません。でも78年も経てば、人々の痛切な記憶も薄れ、心のありようも自ずと変わります。要は喉元すぎれば何とやらで、これは人間の性として、いかんともし難いところです。

   ★

ここで改めて自分の考え方を整理しておくと、「精神は単純でもよいが、ものの見方が単純であってはいけない」ということを強調したいです。

戦争で成り上がる人もいるし、戦争で大いに懐を肥やす人もいますが、多くの人は戦争で得るものなんてありはしません。戦争はすべきではないし、平和とはこの上なくありがたいものだ…というのが、単純な精神の例で、私自身が思っていることでもあります。

これに対して、「もちろん好きで戦争するわけじゃないけどさ、でも“向こう”が攻めてくる気満々なら、こっちも武器を取らざるを得ないんじゃないの?」という人も多いでしょう。これも単純な精神の例であって、あながちに否定はできません。

   ★

しかし、ここでさらに「ものの見方まで単純であってはいけない」ということを、私は言いたいのです。

たとえば「向こう」とは何か? 最近だと、もっぱら大陸中国が想定されているのでしょうが、習近平政権も決して永続的なものではないし、政権周辺にも一皮むけば、いろんな利害集団があって、到底一枚岩ではありません。それに共産党と人民解放軍のパワーバランスだって、相当微妙な均衡の上に成り立っているんだと思います。ましてや、そういう政治ゲームとは無縁の大多数の民衆は、われわれと同様「戦争なんて真っ平だ」と思っているはずで、もちろん同じことはロシアについても言えます。そういうのを引っくるめて「“向こう”は攻める気満々」と言ってしまうのが、単純なものの見方の例です。

平和を守りたいのだったら、互いにいろんなパイプを増やし、太くして、知恵を出し合わねばならないはずで、「“向こう”がその気なら…」と、やたら腕まくりをしたり、背後でそれを煽り立てたりするのは、賢明な振る舞いとは到底思えないです。

もちろん、交渉というのは単純な性善説でできることではなく、腹の探り合いもしょっちゅうでしょう。まあ、そこは知恵の使い所です。また信用できない輩もしばしば登場すると思いますが、でも、だからこそこちらの腹の底は、常にきれいにしておかなければならないのです。

あるいは、交渉カードとして軍備を考えるというなら、同時に軍を十分グリップできる算段をしておかないと危険であることを、我々は歴史から十分学んだはずで、そのことの目配りを欠くのは、やっぱり「単純な見方」の例だと思います。

   ★

人跡まれなブログの隅で、こんな床屋政談をしてもしょうがないとは思いますが、われらとわれらの子孫のために、あえて2023年現在の思いを書きつけました。

思えば、日本国憲法の精神というのもずいぶん単純なものであって、単純だからこそ、78年間も抑止力を発揮したのでしょう。単純なものの強さということを思います。

寝ぼけ声2023年08月29日 18時23分35秒

「ひょっとして、あいつは暑さで頓死したな?」と思われたかもしれません。
しかし、こうして無事生きています。生物界には冬眠と対になる「夏眠」というのがありますが、私も酷暑を避けてしばらく夏眠状態にあったわけです。でも、8月も終わりですから、そろそろ夏眠から覚めなくてはなりません。春の啓蟄に対し、秋の啓蟄がもう一つほしいところです。

しかし夏眠から覚めてあたりを見渡すと、世の中どうも芳しくないニュースが多いですね。目覚めの一言も、ちょっと無粋なところから始めます。

   ★

昔、中学だか高校だかの頃、アイザック・アシモフが「疑似科学」に論駁する本を読んで、おおいに溜飲を下げたことがあります。いわゆる「とんでも学説」を、まさに快刀乱麻を断つように切り捨てていく様は痛快であり、なんだか読んでいる自分まで賢くなったような気がしたものです。実際、アシモフはものすごく頭の切れる人だったのでしょう。

ただ、その中でひとつモヤっとするエピソードがありました。
健康食品に関する文章で、アシモフはヨーグルトが身体にいいという説を一蹴して、「ヨーグルトには牛乳に含まれる以上の栄養素はない!」と切って捨てていました。

それはそれで正しい陳述です。
腸内フローラの研究史は17世紀のレーウェンフックにまで遡るそうですが、その機能に関する研究はだいぶ紆余曲折があって、「ヨーグルトは不老長寿の霊薬」みたいな怪しげな言説も入り混じっていたので、アシモフがそれを疑似科学と切って捨てたのは、理解できなくもないです。ただ、結果的に彼が「食品がもたらすプラスの効果は、すべて栄養素の効果に還元できる」としたのは、あまりにも単純素朴な考えで、そこには大きな見落としがありました。

いかに既存の科学知識で武装しても――その武装がどれほど完璧なものであっても――そこには常に思考の盲点がありうるし、ときにその盲点は、広大な視野の欠落であると後に判明することもあります。アシモフほどの人でも、そこから逃れることはできませんでした。

この一件は私にとって非常に重要な教訓になっていて、今でも折に触れて思い出します。

   ★

原発「処理水」の海洋放出をめぐって、ネット上で半可通めいた人々が議論しているのを見ると、やっぱり上のことを思い出します。

最初に私の立場をはっきりさせておくと、私は海洋放出に反対です。
海洋中の物質動態は今も不明な点だらけのはずで、環境への影響を考えれば、放出には常に謙抑的であるべきです。それをごく狭い了見にもとづいて、「大丈夫、大丈夫!」と見切り発車するのは、盲者蛇に怖じずというか、蛮勇と呼ぶほかないのではないでしょうか。

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仮に海洋放出のすべてのプロセスがオープンな状況で進んでも、上の疑念は残ります。ましてや、現在コトを司っているのは民間の一企業(および彼らと多くの利害を共有する関係者)なのです。

そこには巨額の賠償責任を逃れたいという、非常に大きなバイアスが常にかかっている事実を忘れるべきではありません。その意見はたとえ科学的相貌を帯びていても、およそ公平無私なものとは言えないし、そのことをカッコに入れたまま議論するのは相当危なっかしいと思います。

   ★

以上の文章は詮ずるところ情報量ゼロであり、なにか無責任な発言に聞こえるかもしれませんが、ことの重要性に鑑み、あえて「無知を正しく畏れよ」と私は申し上げたいです。

(記事の方は徐々に平常運転に戻します。)