銀河と彗星 ― 2026年03月19日 18時55分01秒
2026年3月19日。
この日はある男性が花粉症を発症した日として、男性の周囲では永く記憶されるでしょう。花粉症はいきなり来る―。たびたび聞かされたことは都市伝説ではなく、きわめて正確な陳述でした。
ところで3月19日にちなむ事柄をネットで見ているうちに、次のような事実を知りました。
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1945年3月19日。
すでに本土空襲が常態化し、太平洋戦争も最末期の頃です。
その最前線で立ち働いていた米空母に「フランクリン」という艦がありました。
この日、「フランクリン」は神戸港攻撃のため、多数の艦載機を載せて高知沖を進んでいたのですが、そのとき雲を抜けて一機の日本機が突如として現れました。同機は2発の徹甲爆弾を投下し、いずれも甲板を貫通。艦上・艦内で次々と誘爆を引き起こし、フランクリンは激しい炎に包まれ、辛うじて沈没は免れたものの、死者700名あまりという大変な被害をこうむったのです。
すでに反撃能力を大幅に欠いていた日本からすれば、まさに「大殊勲」ですが、米軍の迎撃により爆裂四散したこの日本機を操ったパイロットの名も、そもそもどの部隊に属する何という機だったのかも、今では正確な資料が残っていないそうです。ただし識者よれば、おそらく第762海軍航空隊所属の陸上爆撃機「銀河」、もしくは第701海軍航空隊所属の艦上爆撃機「彗星三三型」だろうとのこと。
軍用機に「銀河」「彗星」という名を与えた関係者の思いを「ロマンチシズム」と呼ぶことにはためらいを覚えますが、やはりそこになにがしかのロマンチシズムが漂っていたことも確かでしょう。
とはいえ、「銀河」や「彗星」にまたがって洋上に散った若いパイロットが最後の瞬間に何を思ったのか、そして燃え盛る炎に焼かれたアメリカ兵たちの最期を思うとき、このロマンチシズムは、いかにも苦いです。されど…と、ここで再び逆接とともに、いくつかの言葉を飲み込むのですが、この辺はなかなか曰く言い難いですね。
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諸人の等しく安らかならんことを。
(天の川とアトラス彗星。Image by ぱくたそ)
1910 ― 2026年03月16日 22時15分54秒
ひどく分りやすい絵葉書です。
一見して、1910年を記念するニューイヤーカードとすぐ分かります。
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1910年はハレー彗星の年でした。
その近日点通過は4月20日で、さらに1か月後には地球に最接近し、その壮麗な、あるいは畏怖すべき姿を人々の目に焼き付たのです。(最接近時の距離は0.15AUといいますから、月までの距離の約60倍、火星最接近時の距離の半分弱です。遠いといえば遠いですが、この広い宇宙の中では、たしかにかなりの接近です。)
この年のハレー彗星は、「彗星騒動」の面が強調して伝えられがちですが、パニックになったのはごく一部の人で、大多数の人は「ふーん、彗星ねえ…」ぐらいの感じだったんじゃないでしょうか。当時の新聞では、彗星よりも国際紛争や景気の話題の方が大きな扱いだったことはもちろんです。
この絵葉書はハレー彗星がくる前年、1909年に作られたもので、例によってドイツ製。その繊細なクロモリトグラフと、金のエンボス加工に、ドイツ製絵葉書の黄金時代が偲ばれますが、ここでもハレー彗星は「怖いもの」というより、ひたすら「愛すべきもの」とイメージされていることが分かります。
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この絵葉書は以前、1910年のハレー彗星グッズのコレクター氏(ひどくニッチなコレクターですね)の本で見た記憶がありました。
著者の Roberta Etter と Stuart Shneider の両氏は、表紙ばかりでなくタイトルページにもこの絵葉書を登場させているので、かなり思い入れがあったのでしょう。
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絵葉書の裏面を見ると、消印は1909年12月30日付けで、あて先はシカゴに住む「Master Victor Herman」です。「マスター・ヴィクター・ハーマン」と聞いて、私は最初立派な髯の紳士を想像しましたが、AIによれば、「Master」というのは、「Mr.」未満の子どもに使う尊称で、「ヴィクター・ハーマン坊ちゃんへ」といった意味合いだそうです。髯を生やすのはもうちょっと先のようですね。
メアリー・プロクター『天空の本』 ― 2026年02月15日 08時21分01秒
円安の影響もあって、海外から天文古書を買う機会がずいぶん減りました。それでも先日、「あ、これは」と思って発注した本があります。
■Mary Proctor
The Book of the Heavens.
Harper(London)、1926. 268p.
The Book of the Heavens.
Harper(London)、1926. 268p.
著者のメアリー・プロクター(1862-1957)については、本書の2年前に出た『Evenings with the Stars』(1924)を以前紹介しました。【LINK】
(画像再掲)
そちらはアールデコの美しいブックデザインでしたが、今日の本は前代のビクトリアンな雰囲気を引きずった装丁です。
私が買ったのはジャケット(日本で言うカバー)付きが評価されて、ちょっと高かったのですが、カバー無しの状態でも、ご覧のとおり美しい造本です。
見返しには、1932年にこれを買ったペック氏と、1992年にそれを古書店で購入したゴッドフリー氏のサインが入っています。本が出てちょうど100年、私は少なくとも3代目の所有者ということになるのですが、本というのはこうして受け継がれていくのだなあ…としみじみします。
(パラパラめくったら、アンカットの頁がありました。きっと前の持ち主も通読しなかったのでしょう。そんなところにも親近感を覚えます。)
本書の内容は、言ってみれば「普通の天文入門書」です。
「第1章 太陽の話」「第2章 月の話」から始まって、惑星、彗星、流星、太陽の固有運動、著名な星座、天の川の話が続き、最後は「第21章 ウィルソン山天文台と分光器」で終わっています。
類書には事欠かないので、屋上屋を架すことになると思いましたが、それでもあえて本書を買ったのは、イヴリン・ポール(Evelyn Maude Blanche Paul、1883-1963)の描く4枚の原色挿画が入っていたからです。
(「孤独な空の番人」)
彼女はラファエル前派の影響を強く受けた、中世画風の挿絵画家として有名な人だそうですが、ここで彼女が描くのは、抒情的な美しい天文画です。
(「パリで見られたハレー彗星」
そして何よりも上の1枚。
時系列で言うと、私は上の絵がバラで切り売りされているのを見て、「ああ、なんて美しい絵だろう」と思ったのが最初の出会いでした。でも、バラものにしてはやけに高かったので、購入を断念。それでもやっぱり諦めきれず、タイトルと作者の名前から検索して、本書の存在を知りました。結果的にこれは一冊まるごと買って正解です。
まあ、もう少し時代が早ければ、この絵は繊細な多色石版で刷られたはずで、その方が一層良かったと思いますが、そこは絵自体の魅力に免じて目をつぶることにします。
Paper Comet ― 2026年02月14日 11時39分08秒
このところ、「普通の天文の話題」が少なかったですね。
先日、こういうものを見つけました。
(左右幅は約20cm)
前回のハレー彗星接近(1985~6)を見込んで販売された、彗星の軌道模型です。
(裏側から見た状態)
厚紙を抜いた小型の円形のパーツと大型の山形パーツを組み合わせてあります。
売り出されたのは1982年、販売者はカリフォルニアのDavid Chandler。
この名前には聞き覚えがあります。以前、ステレオ画で恒星宇宙を俯瞰する立体星図を話題にしたとき、1977年にチャンドラー氏が出した『DEEP SPACE 3-D』という作品を紹介したことがあります。
■3-D宇宙…『DEEP SPACE 3-D』(1977)
(上記ページより画像再掲)
どうやらチャンドラーさんは、いろいろな天文教具を工夫するのが好きだったようですね。この『COMET HALLEY 1985-1986』も、ハレー彗星の動きを、人々によりリアルに感じてもらうための工夫のようです。
ただし、裏面から見た画像↑に見える切れ込みには、本来何か別のパーツがはめ込まれていたはずで、手元の品はそれを欠いています。たぶん、ひとつは全体を支える<架台パーツ>で、もうひとつは円形パーツ(地球軌道)と山形パーツ(彗星軌道)を一定の角度に保つ<傾斜角保持パーツ>でしょう。
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ハレー彗星の公転軌道は、地球の公転軌道と同一平面上にはなく、両者の軌道面は一定の角度でクロスしています。その角度(軌道傾斜角)は約162度。
傾斜角0度の天体は、地球と同一平面上を、同一方向に公転しています(傾斜角は公転方向も考慮して決めます)。これが傾斜角180度になると、その公転面はやっぱり地球軌道と同一平面上にあるわけですが、上下がくるッとひっくり返って、公転の向きが地球と反対向きになります。同様に傾斜角162度の場合は、傾斜角18度と一見同じに見えますが、公転方向が地球と反対向きになります。
したがって、厚紙で18度の角度を作り、
下からあてがってやれば、太陽・地球・彗星の位置関係がリアルに再現されるわけです(公転方向は、地球と彗星とで最初から反対向きに印刷されています)。
あとは、1985年8月から1986年7月までの1年間、外周上のドットで表現された地球の位置と、同時期の彗星の位置(彗星の方は予想される尾の長さも表現されています)を見比べながら、両者の出会いと別れを脳内で再現し、この76年ぶりの天体ショーを楽しめば良いわけです。
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もちろん、今ならCGでその動きは簡単にシミュレートできるでしょう。
でも、これは自前の脳で再現するから、一層深い理解が得られるような気もするし、第一、紙とハサミと鉛筆で同じことができるなら、その方がスマートじゃないでしょうか。
なんとなくアインシュタインの奥さんの有名なエピソードを思い出します。(夫と共にウィルソン山天文台を訪問した際、彼女は担当者から「我々はこの巨大な望遠鏡を使って、宇宙の構造を調べているのです」と聞かされ、「あら、うちの主人は同じことを古封筒の裏と鉛筆一本でやってますわ」と答えたとかいう逸話です。ただし、この話は真偽不明だとか。)
1899年の彗星騒動(後編) ― 2025年10月05日 09時06分11秒
検索すると、さっそく次のような記事が見つかりました。
1899年の彗星騒動は、米ウィスコンシン州マニトワックの町の理髪師が、「10月13日、彗星が地球にぶつかって、俺たちゃ木っ端みじんだぞ!」と、事あるごとに吹聴したおかげで、アメリカの一角でもパニックを引き起こしましたが、そこに「いや、衝突は10月13日ではなく、11月13日だ」と主張する、Rudolph Falf 教授という人が登場します。
「However, another man, an astronomy professor, Rudolph Falf, believed the true date was Nov. 13, 1899. He professed that “We all go up in smoke on November 13th, when the comet Temple hits the Earth.”」
ただし、ここでは”テンペル”ではなく”テンプル”彗星となっていて、何となく誤伝混じりっぽい感じがします。果せるかな、Falf 教授の名は実際には Falb であり、彗星の方は、19世紀に核が分裂して消滅したビエラ彗星(Biela’s Comet)が正解らしく、英語版Wikipediaには、既に関連の記述がありました。
■Rudolf Falb
■Biela's Comet
(該当記述はこちら、「注16」が付いた一文です。原典として挙がっているのは、Fyfe, Herbert C. (1900). "How Will the World End?". Pearson's Magazine. 10 (55): 85–94.)
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(Rudolf Falb、1838-1903)
それにしてもファルプの伝を見ると、彼はなかなか興味深い人です。
粉屋の息子に生まれた彼は、修道院に入り、いったんカトリックの司祭になったものの、その後プロテスタントに改宗。この辺もちょっと不思議な感じがしますが、貴族の家庭教師をして小金をためた彼は、改めて大学に入りなおして、物理学や天文学、地質学を学びます。
かといって、彼はそのまま学界に入ることもなく、その才はもっぱらポピュラー・サイエンスの分野で発揮されました。特に彼の唱えた「月・太陽洪水説」(The lunisolar flood theory)――地震の主因は天体が地球に及ぼす潮汐力であり、月と太陽の相対的位置関係から、地震の発生を予知できるとする説――は、当時かなり人気を博した由。
さらに1883年から88年にかけて、インカ文明に関する著書を出版し、南米先住民の言語こそ「人類の原初言語」であり、それをセム語族と関連付けて新たな論争を巻き起こした…とWikipediaは説きます。この辺は、いかにも奇説めいた感じです。
そして「晩年」の項。
「脊髄麻痺性の疾患に次第に侵されながら、ファルプは1888年以降も「Critical Day」〔地震発生の要注意日〕のカレンダーの出版や、洪水神話や氷河期論を含むさらに奇抜さを増す著作の出版を続けた。その後15年間、妻と5人の子供と共に、ますます厳しい経済状況の中、彼はベルリン、故郷のオプダッハ、ライプツィヒを転々とし、最終的に再びベルリンに戻った。ルドルフ・ファルプは1903年、65歳でベルリンで没した。」
少なからず鬼気迫るものを感じます。ファルプはまさに一代の奇人です。
1899年の彗星衝突説は、この苦しい時期に唱えたもので、もちろん学界からはまともに相手にされなかったでしょうが、それでもアメリカの理髪師や、同じく脊椎カリエスで病に臥せっていた日本の俳人の心胆を寒からしめる程度の効果は発揮したわけです。
(この項、別の話題に転じつつ続く)
1899年の彗星騒動(前編) ― 2025年10月04日 14時57分29秒
高知市の寺田寅彦記念館友の会が発行している会誌 『槲(かしわ)』。
最新の第104号(令和7年9月刊)をご恵送いただきました。
冒頭に掲載された寅彦の随筆「新星―「小さな出来事」より」(大正9/1920)は、寅彦が長男に星を眺めることを手ほどきする内容で、短い中にも、彼が幼き人の興味をどう引き出そうとしたかが分かり、興味深かったです。
そしてもう一篇、さらに興味深い記事を拝見しました。
野村学氏による「寅彦と子規と彗星地球衝突説」という論考です。
要旨を述べると、明治32年(1899)、俳誌『ホトトギス』10月号に、正岡子規は「星」という随筆を寄せているのですが、その中で子規は、同年11月に彗星と地球が衝突するという説をめぐって「ある人」と問答をしたと述べています。幾分不安げな子規に対して「ある人」は、「世界中の大砲を一斉に放てば彗星は粉微塵になって消えるし、世界中の火薬弾丸が尽きて、当分は戦争のない太平の世になるだろう…」と気焔を上げて、子規を安堵させたのですが、この「ある人」こそ、同年9月に子規庵を初訪問した寺田寅彦その人ではなかろうか…というものです。
野村氏はこれを「ひとつの仮説」として提案されていますが、甚だ魅力的な説だと思いました。
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野村氏の尻馬に乗る形になりますが、ここに出てくる「彗星地球衝突説」について、純然たるこたつ記事ですが、以下にメモ書きしておきます。
野村氏は、その内容から、最初は例のハレー彗星騒動(1910)を連想されましたが、年代が合わないため、しし座流星群の母天体であるテンペル・タットル彗星のことではないかと推測されました。1899年はちょうどその回帰年に当ります。
同時代の資料を求めて、国会図書館のデジタルライブラリーで検索すると、関連する記事がいくつか見つかりますが、たとえば 『工業雑誌』 第7巻第132号(明治30/1897年9月22日発行)の雑報欄(「漫録」)に、以下のような記事が出てきます。
句読点を補い、一部用字を変更して転記してみます。
●恐るべき生類殲滅の説
地球上の生類は尽く殲滅すべし、而も其は明後年なりとは心細き限りと云はざるべからず。即ち其説の起りは、近頃墺国〔オーストリア〕維那〔ウィーン〕のファルブ教授、来る1899年11月13日を以て我地球は彗星と衝突すべし、地球は激動に堪へて能く其存在を保つと雖も、有毒瓦斯に触れて生類は悉く殲滅すべし云々との事を唱えへ出したるにあり。
地球上の生類は尽く殲滅すべし、而も其は明後年なりとは心細き限りと云はざるべからず。即ち其説の起りは、近頃墺国〔オーストリア〕維那〔ウィーン〕のファルブ教授、来る1899年11月13日を以て我地球は彗星と衝突すべし、地球は激動に堪へて能く其存在を保つと雖も、有毒瓦斯に触れて生類は悉く殲滅すべし云々との事を唱えへ出したるにあり。
雑報欄のちょい記事ですから、書き手もあまり真面目に受け止めていたとは思えませんが、それでも彗星の有毒ガスによって生物が絶滅するという、1910年のハレー彗星騒動の先蹤めいた「予言」によって、一部の人々はだいぶ不安になっていたようです。
子規と寅彦と彗星については、野村氏の仮説の紹介にとどめ、ここでは上記引用中に登場する「ファルブ教授」について追ってみます。
(この項つづく)
青色彗星倶楽部 ― 2025年02月24日 21時50分53秒
足穂の作品に登場する「赤色彗星倶楽部」ならぬ「青色彗星倶楽部」のピンバッジ。
見るなり、「む、これはタルホチック…」と思いました。
でも実際には、「Blue Comet Motorcycle Club」すなわち「青色彗星オートバイ倶楽部」と呼んだほうが、より正確です。このクラブはペンシルバニアに実在しており、立派なサイトも開設しています。
■Blue Comet Motorcycle Club
1937年に結成された、全米で最も古いオートバイクラブのひとつで、さらに歴史をさかのぼれば、1913年結成の「Black Cats」というオートバイクラブがその前身だそうです。Black Cats から Blue Comet へ―。これまた実にタルホチックな話ではないでしょうか。
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足穂の「赤色彗星倶楽部」は、彼の自伝的小説『弥勒』の中で、主人公・江美留少年の脳内に萌した幻影として登場し、
またずばり『彗星倶楽部』と題された作品の中では、「「北郊の神怪」「山手通りの覆面団」として伝えられた赤色彗星倶楽部」として言及されています。
いずれもオートバイは出てきませんが、ではオートバイと彗星はまったく関係ないかといえば、なかなかどうして、『一千一秒物語』に出てくる「彗星を取りに行った話」の主人公は、モーターサイクルにまたがって彗星狩りに出かけるし、
現実の足穂氏もバイクを憎からず思っていた形跡があります。
(妙な着物姿でバイクにまたがる足穂。山科川堤防上にて。撮影・松村實。出典:『稲垣足穂の世界―タルホスコープ』、平凡社、2007より)
…というわけで、このバッジはやっぱり足穂氏に進呈するのが至当な気がします。
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今日は草団子を作るのに、よもぎを摘みに行きました。
うららかな陽射しの中、近所の土手で草摘みをしながら、「こういうのを平和というのだろうなあ」としみじみ思いました。
ウクライナに限らず、どうか世界に平安が訪れますように。
この願いが叶うことは、おそらく私が生きている間にはないでしょうが、だからこそ祈る意味があるし、祈らずにはいられないのです。
変わる歳末風景 ― 2024年12月30日 10時39分58秒
今年は郵便代の値上げのせいで、年賀状じまいをされた方も多いと思います。
私もご多分に漏れず、今年は賀状を書くのをやめてしまいました。「年賀状じまいの挨拶」すらさぼったので、かなり義理を欠くことになりますが、まあ自分は“その筋”の関係者でもないし、それほど義理を重んじることもなかろう…と達観することにしました。
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(Prosit Neujahr ! 新年おめでとう!)
20世紀初めにドイツで刷られた古絵葉書。
空で行きずりの挨拶を交わす三日月と彗星、それを望遠鏡で見上げるスノーマン親子を、クロモリトグラフで仕上げたかわいい作品です。
消印を見ると、1909年12月31日に、ドイツ東部の田舎町ゲリングスヴァルデで投函されたものと分かります。
この種のカードは今も大量に残されていて、紙モノマーケットで一大勢力を誇っています。上のカードは日本の年賀状と同趣旨の、もっぱら新年の挨拶用ですが、クリスマスカードと一体化しているものも多く、この辺は国によっても多少習慣が異なるのでしょう。
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ときに、ふと気になったのが、昨今のクリスマスカード事情です。
ひょっとして日本の年賀状離れと同様のことが、海の向こうでも起こっているのかなあ…と考えつつ検索すると、ただちに関連記事がいくつも出てきます。
たとえば、下はWEB版「The Citizen」誌に、同誌のシニア・レポーターであるPaul Owere 氏が寄せた記事で、つい先日、今年の12月25日に掲載されたものです。
(クリスマスカードの凋落:テクノロジーはいかに祝日の伝統を衰退させたか)
かつて年末の風物詩であったカードのやりとり。
12月の声を聞くと、そそくさとカードを準備し、一通一通メッセージを書き、投函したあと、お返しのカードが届くのが待たれたあの時間―。しかし、デジタル時代の到来とともに、少しずつ変化が生じました。メールが、インスタントメッセージが、そしてSNSが、人々の意識と行動を最初はゆっくりと、やがて急速に変えたのです。
Owere氏は述べます。
「人々がカードの必要性を疑問視し始めるまで、そう時間はかからなかった。単に祝日仕様の電子カードを送信したり、インスタグラムでお祝いのミームを共有したりするだけで済むのに、なぜカードを購入する費用、時間のかかる手書きのメッセージ、郵便代を気にする必要があるのか。
〔…〕多くの点で、テクノロジーは、ホリデーシーズン中に大切な人と有意義な形でつながるという、クリスマスカードの本来の目的に取って代わったようだ。
デジタルメッセージを送ると、より速く、より効率的で、多くの場合、より気楽に感じられるようになり、紙のカードを受け取ることで得られる期待感や親密さが失われた。封筒を開いて心のこもったメッセージを見つけ、マントルピースや冷蔵庫にカードを飾るという魔法は、薄れ始めたのだ。」
〔…〕多くの点で、テクノロジーは、ホリデーシーズン中に大切な人と有意義な形でつながるという、クリスマスカードの本来の目的に取って代わったようだ。
デジタルメッセージを送ると、より速く、より効率的で、多くの場合、より気楽に感じられるようになり、紙のカードを受け取ることで得られる期待感や親密さが失われた。封筒を開いて心のこもったメッセージを見つけ、マントルピースや冷蔵庫にカードを飾るという魔法は、薄れ始めたのだ。」
日本の状況と不気味なほど似ています。
別に日本人とアメリカ人が話し合って決めたわけでもないのに、まったく同じ現象が同時に進んでいるというのは、結局、ヒトは類似の環境に置かれれば、国家・民族・宗教の違いを超えて、自ずと類似の行動をとるからでしょう。
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ただ、Owere氏も述べるように、クリスマスカード(や年賀状)の習慣がすたれ、送ることが稀になればなるほど、そこに一層明瞭な意味が生じるのもまた確かです。自分が出さずにいてなんですが、それらは温かい思いやりや、個人的親密さの表現として、たぶんロングテールで生き残るんじゃないでしょうか。
A Holy Night of Chocolate ― 2024年12月25日 09時27分49秒
1855年にフランス人、André Mauxion(1830-1905)がドイツで興したチョコレートの老舗、Mauxion社。他社に吸収合併された今も、ブランド名として生き残っています。社名としてはドイツ風に「マウクシオン」と読むのだと思いますが、下はそのマウクシオン社の広告(1925年)。
(シートサイズは25.5×20.5cm)
Mauxion wünscht fröhliche weihnachten!
マウクシオンから良いクリスマスを!
マウクシオンから良いクリスマスを!
キューピッド風の少女を引き連れ、チョコを配り歩く細身の麗人天使。
空には三日月と星、そして一筋の尾を引いて飛ぶ彗星が見えます。
冴え返った夜の気配を伝える、洒落た広告ですね。
この彗星の頭部は、西洋の城塔を模した同社のロゴで、これは創業家から経営を引き継いだエルンスト・ヒューター(Ernst Hüther)の頭文字、EとHの組み合わせだそうです。
★
この広告が出た前後、大戦間期のマウクシオン社は、高級チョコのブランドイメージ確立のため、広告戦略に力を入れており、世間の評判を呼ぶ広告を次々と発表していました。日本で言えば、後のサントリーや資生堂みたいな感じだったのでしょう。商業主義というと一寸浅薄な感じもしますが、その背景には平和な世と豊かな市民生活があったわけですから、必ずしも悪いことではありません。そして才能あるクリエイターにとっても良い時代だったと思います。
★
日本を振り返れば、稲垣足穂がまさに彗星のごとく現れた時代で、『一千一秒物語』(1923)、『星を売る店』(1926)、『第三半球物語』(1927)、『天体嗜好症』(1928)を立て続けに出した時期にあたります。
私がこの広告に惹かれた理由も、これがまさにタルホチックだからで、足穂の作品世界と、この広告の時代感覚は、必ずどこかでつながっている気がします。
黄金のコメタリウム ― 2024年12月08日 07時30分46秒
わが家にはコメタリウムが2台あります。
ひとつはSiiTaaさんからご恵贈いただいた純白のコメタリウム。
これは世界でただ1台のカスタムメイドで、それを持てたことを大いに誇っています。【LINK】。
「求不得苦」―求めて得ざる苦―と表裏して、「求めて得たる喜び」というのもあります。お釈迦様はきっとそれも迷いだと言われるでしょうが、でも、苦しみも喜びもあるのが凡夫であり、私はもちろん凡夫なので、それでも好いのです。
そしてもう一台は、アメリカのArmstrong Metalcrafts社(以下、Armstrong社)の黄金のコメタリウムです。こちらは世界で1台ということはありませんが、製品として販売されているコメタリウムとしては、今のところこれが唯一のものでしょう。
(古色が付いて「黄金」とも言い難いですが、昔はたしかに黄金色でした)
上の写真だと暗くてよくわかりませんが、メーカーの商品写真↓でお分かりのように、手前にクランクがあって、
これをくるくる回すと、
本体下部のギアが滑らかに回転し、上部にセットされた小球が、時には速く、時にはゆっくりと、リズミカルに楕円運動をします。
(下部の指針は、時計の時針のように等速運動して時間スケールを表示します。1回転に要する時間は、上部の非等速運動をする小球と同一です)
★
ところで、コメタリウムって何のために作られたか、つまり何をデモンストレーションするために工夫された装置か?というのは以前も書きました。
「え、コメタリウムなんだから、彗星の動きをシミュレートするためでしょう?」
…というのは事柄の半面にすぎず、本当の目的は「ケプラーの第2法則(面積速度一定の法則)」を視覚的に教えるためのもので、Armstrong社のコメタリウムの盤面にケプラーの肖像がエッチングされているのも、そのためです。
ケプラーの第2法則は、「惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に掃く面積(面積速度)は、一定である」というもので、要は彗星に限らず、楕円軌道を描く各惑星は、太陽に近い時は素早く、遠い時はゆっくり動くということです。
(線分で区切られた長短さまざまな扇形の面積はいずれも同一)
ケプラーがそれを見出したのは、惑星の動きの精密観測データからであり、彗星からではありません(彼は彗星が惑星の間を直線運動していると考えていました)。彗星が楕円軌道(+放物線軌道を含む円錐曲線)を描くことが分かったのは、ニュートンの時代になってからのことです。
したがって「コメタリウム(彗星儀)」という名称には、ちょっと微妙なところもあるんですが、ケプラーの第2法則が劇的に観察されるのは他ならぬ彗星だし、彗星は宇宙の人気者なので、これはやっぱりコメタリウムと呼ぶのが穏当であろうと、私が言っても何の説得力もありませんが、そう思います。
【付記】 Armstrong社の個人経営者であるジェームズ・ドネリー氏には、ちょっとした思い出があって、今でも温かなものを感じます。
■小さな世界の不思議












































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