天文古玩は日々新たなり…彗星のスライドセット ― 2023年02月12日 18時28分11秒
これも余録というか、先日、中川ユウヰチさんのスライドビュアーを手にしたおかげで、これまで漫然と手元にあったフィルムスライドの内容を、しっかり確認できるようになりました。
アート作品を実用に流用するのもどうかと思いますが、レンズ越しに眺めるのはすべて天文関係のものばかりなので、私の星への思慕がオリオンの一等星と感応して、新たな天界の光景がそこに現出したのだ…ということにしましょう。
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たとえば、このスライドセット。
サンフランシスコに本拠を置く太平洋天文学会(ASP)がかつて頒布したものです。
タイトルは「彗星とハレー彗星」で、日本語にするとちょっと変ですが、要は彗星の概説にハレー彗星特論をプラスしたスライドセットです。元は31枚のセットですが、手元の箱にはさらに前の持ち主が付加したらしい4枚が加わっています。
編者のジョン・C・ブラント博士(Dr. John C. Brandt)は1934年の生まれ。シカゴ大学で学位を取得後、1970~87年までNASAのゴダード宇宙飛行センターに在籍し、1986年のハレー彗星回帰に際しては、国際ハレー彗星観測計画や、彗星探査機ICE (International Cometary Explorer)の計画に携わった人です(参考LINK)。
発行年は書かれていませんが、当然1986年のハレー回帰を前に、一般の天文ファンや教育関係者向けに頒布された品でしょう。
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スライドはまず彗星の物理的な構造の解説から始まります。
(01 彗星の基本構造(数字はスライドNo。以下同じ))
(02 彗星の核:模式図)
(03 彗星のプラズマ物理学)
その後、いくつか有名な彗星の紹介が続き、
(10 コホーテク彗星〔1973〕)
(14 フマーソン(ヒューメイソン)彗星〔1961〕)
話はいよいよ本題のハレー彗星へと入っていきます。
(15 ハレー彗星〔1910〕)
とはいえ、このスライド制作の時点では、ハレー彗星の雄姿はまだ未来のことに属します。それだけに、世界中の科学者は腕をさすってハレー彗星の到来を待ち構えており、各種の彗星探査計画が熱心に進められていることを、スライドは詳説します。
(18 彗星探査機ICEの軌道)
その中には日本の科学衛星「すいせい(PLANET-A)」と「さきがけ(MS-T5)」も含まれていました。
(24 日本のPLANET-A探査機)
(25 ハレー艦隊による実験・観測計画一覧)
上の表を見ると、当時はヨーロッパ・ソ連に伍して、日本の科学力と技術力が世界的な水準にあったことが実感され、いくぶんほろ苦いものを感じますが、それはさておき、スライドセットは、この後、過去のハレ―騒動に触れて、来るべき天文ショーへの期待を高めつつ、
(31 再び姿を見せたハレー彗星)
ウィキペディアの記載によれば、再接近する彗星を最初に捉えたのは、1982年10月16日、パロマー天文台の5.1m望遠鏡とCCDイメージセンサの組み合わせだそうで、スライドにははっきりと書かれていませんが、このデジタル画像がそれじゃないかと思います。
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1986年も、もうじき40年前ですか。思えばずいぶん過去のことです。
往時のことをしっかり記憶している私にとっても、その生々しさが薄れたことは否めず、当時まだ生まれてなかった人にとっては、なおさらその「過去性」が際立つでしょう。
こうしてモノたちは、ひとつ、またひとつと天文古玩化して、過去の住人となっていきます。このスライドセットも、そこに封じ込められた熱気が懐かしい、なかなか味わいのある品だと感じます。
静と動 ― 2022年11月04日 05時34分53秒
「表面がギザギザしてて、見る角度によって違った絵柄が見えるやつ」と言って、何のことか分かっていただけるでしょうか?昔はよくシール状のものが、お菓子のおまけに入っていました。子供心に実に不思議で、表面のギザギザをボンナイフで削って、その謎を解こうと試みた思い出があります。
あれの正式名称は「レンチキュラー」というそうです。
表面の透明ギザギザシートの下には、すだれ状に細切りにした複数の画像が交互に並べてあって、ギザギザを通して見ると、光の屈折の加減で、見る角度によって特定の絵柄が浮かび上がる仕組みだとか。
上はロサンゼルスにあるJ.ポール・ゲッティ・ミュージアムのお土産にもらったブックマーク(しおり)。
牛、鹿、犬(?)の疾走する姿が、レンチキュラーでアニメーションのように見えるという、まあ他愛ないといえば他愛ない品なんですが、シンプルなものほど見飽きないもので、つい見入ってしまいます。
(しおりの裏側)
オリジナルの作者は、エドワード・マイブリッジ(Edweard J. Muybridge、1830-1904)。彼は、当時としては画期的なハイスピード撮影法を編み出し、走っている馬の脚の動きを捉えたことで知られますが、上のも同工の作品で、彼の写真帳 『The Attitudes of Animals in Motion (移動時の動物の姿勢)』(1878-81)から採った写真が、3枚組み合わさっています。
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こういうのを見ていると、「運動の本質」とか、「時間の最小単位」とか、「眼に映る変化はすべて虚妄であり、我々の生は連続する静止画に過ぎない」とか、見方によっては“中二病”的な考えがむくむくと湧いてくるんですが、これは決して軽んずべき問題ではなくて、少なくとも一度は真剣に考えないといけないものばかりだと思います。
北の海へ ― 2022年08月07日 18時16分28秒
夏の風物詩である、甲子園の熱闘が始まりました。
特に野球ファンでなくても、スイカやかき氷を食べながら甲子園を観戦することは、歳時記的な感興を催すことで、このひとときの平和に感謝しながら、ついテレビに見入ってしまいます。
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今日は涼を呼ぶ品を載せます。
昨日につづき、古い幻灯スライドです。
ハンドルを回すことで絵柄が変化する「メカニカル・ランタン」の一種で、カーペンター・アンド・ウェストリー社(ロンドン)が、19世紀半ばに売り出したものです。
その絵柄は、北の海をただよう氷山の景。
氷山は南極にも北極にもありますが、南極の氷山は、平らな棚氷がそのまま海中に漂い出したものであるのに対し、氷河がちぎれてできた北極の氷山は、こんなふうにてっぺんがギザギザしているのだそうです。
メカニカル・ランタンといえば、はでな視覚効果で見る人を楽しませるのが常ですが、この幻灯スライドは、ハンドルをくるくる回しても、「あれ?壊れているのかな?」と思うぐらい、変化がありません。でも、よーく見ているとその変化に気づきます。
下の写真は購入時の商品写真の流用で、ボックス式の外蓋を外して、内部の仕組みを見たところです(私自身はまだ中を見たことはありません)。
スライドは絵柄が3枚重ねになっていて、固定された背景の上を、2枚の絵柄がゆっくりと上下左右に、微妙に回転運動をします。それによって、手前の波の絵と、遠くを舞い飛ぶ海鳥が、妙にリアルな動きを見せてくれます(いわゆる「ぬるぬるした動き」ですね)。
その動きは決して派手ではありませんが、それだけに臨場感に富んでいて、水の音や、鳴き交わす鳥の声が、すぐ耳元で聞こえてくるような気がします。
青い鳥 ― 2022年08月06日 08時10分24秒
最近の買い物から。
いささか季節外れですが、オリオン星雲の幻灯スライドです。
販売者は、イーストロンドンのモーティマー通り82番地にあった幻灯機器の店、「W. C. ヒューズ商店」(創業者はWilliam Charles Hughes、1844-1908 【LINK】)で、ラベルを見ると「天文学シリーズ」の第49番にあたるようです。
オリオン星雲は人気の被写体ですから、そのスライドも無数に存在しますが、このスライドの特徴は、なんといってもその色合いです。青い光をまとった、ほの白い姿。空をゆく巨大な鳥のようでもあり、蝙蝠のようでもあり、天使のようでもあります。もちろん、実際の夜空はこんなふうに青みを帯びているわけではありませんから、これは人々のイメージの中だけに存在する姿です。
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今日は8月6日。
あの日焼かれた無数の魂を、天の翼がどうか平安の彼岸へと導いてくれますように。
(ルネ・マグリット「大家族」、1963)
フィルムスライドの歴史について ― 2022年02月15日 22時24分24秒
(前回のつづき)
暗闇の中で子どもたちの目と心を引きつけた幻灯会。
その「主役」であるスライドの材質とサイズが、1940年代後半から50年代半ばにかけて大きく変わったこと、すなわちその頃に大判のガラススライドから小型のフィルムスライドへの移行があったことを、先日の記事で書きました。
ただし、これは初等教育の現場という、わりと限られたフィールドでの話です。
ガラススライドの下限は天文スライドでは60~70年代まで伸びていたことを、少し前に書きました。一方、フィルムスライドの上限は40年代以前にさかのぼるのではないか…ということを、今日は書きます。
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フィルムスライドには大型の6×6判もありましたが、主役は35mmリバーサルフィルムを使ったものです。その登場がいつ頃だったか、それによってフィルムスライドの上限も決まります。手っ取り早く日本語版ウィキペディアの関連ページから抜き出してみます。
まずは、(映画撮影用ではなく)スチール写真用に開発された35mmフィルムである「135フィルム」の項目から。
「135(ISO1007)は、写真フィルムの一種。135という用語は1934年にコダックが35mm幅のスチル写真用カートリッジ式フィルム用として初めて使用した。」
次いで「リバーサルフィルム」の項より。
「イーストマン・コダック社は、世界で最初にカラーリバーサルフィルムを製造した会社である。」「〔コダクロームは〕1936年より発売されていた世界初のカラー写真フィルムであり、日本で最後まで販売されていた外式リバーサルフィルム。」
フィルムの開発史も細部に立ち入ると、なかなか難しそうですが、大雑把にいって1930年代半ばに写真撮影用の35mmカラーリバーサルが登場し、その頃から初期のフィルムスライドもあったように思えます。つまり、ガラススライドの終期とフィルムスライドの始期はかなりかぶっていて、両者の共存する時代が20年前後は続いたと想像します。
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ここで前回の記事と関連して、英語版Wikipediaから「Agfacolor」の項も見ておきます(以下は適当訳)。
「アグファカラーは、ドイツのAgfa社が製造していた一連のカラーフィルムの名称である。1932年に発表された最初のアグファカラーは、アグファカラープレート(独:Agfa-Farbenplatt)、すなわちフランスのオートクローム〔※〕に類するスクリーンプレート〔※※〕のフィルムベース版だった。1936年後半に、Agfaは「アグファカラー・ノイ」を発表し、これは今日でも使われている一般的なカラーフィルムの先駆けとなった。
アグファカラー・ノイは、元々は「スライド」やホームムービー、あるいはショートドキュメンタリー用のリバーサルフィルムだったが、1939年の頃には、ドイツの映画産業によってネガフィルムや映写フィルムとしても採用されていた。」
アグファカラー・ノイは、元々は「スライド」やホームムービー、あるいはショートドキュメンタリー用のリバーサルフィルムだったが、1939年の頃には、ドイツの映画産業によってネガフィルムや映写フィルムとしても採用されていた。」
ここでも1930年代という数字は動かなくて、やっぱりその頃にはフィルムスライドはあちこちで使われるようになっていたのでしょう。
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ここまで書くと、前回の重厚なフィルムスライドも、1930年代にさかのぼる品では…と思いたくなりますが、それはちょっと早計です。どうやら私が知らなかっただけで、金属とガラスを使ったアグファのスライドフレームは、eBayでもデッドストック品をちょくちょく見かけるので、1960年代ぐらいまで結構使われていた形跡があります。(そもそも、私に昨日のスライドセットを売ってくれた人も、「これは1950~60年代のものだ」と言っていました。)
(eBayの商品写真を寸借)
そんなわけで時代的には戦後に下るもののようですが、そこから発する透明で硬質な空気は捨てがたく、なかなかの逸品だと自分では思っています。
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〔※〕リュミエール兄弟が発明した、三原色に染色したデンプン細粒をガラス板に散布したものを原板として用いる、最初期のカラー写真技術。コダックのコダクロームが登場する1930年代まで用いられた。(参照 https://ja.wikipedia.org/wiki/オートクローム)
〔※※〕オートクロームで使われたデンプン細粒の代わりに、アグファは三原色に染色したゴム溶液を混和してガラス板に塗布することで、ガラス表面に三原色の微細なモザイク模様を作り出した。それが光のふるい(スクリーン)として働くことから、スクリーンプレートの名がある。(参照 https://filmcolors.org/timeline-entry/1337/)
指先の宇宙 ― 2022年02月13日 18時10分41秒
スライドの歴史を駆け足で振り返ったので、ここで登場させたい品があります。
8年前にドイツの人から購入したもので、この木製のスライドケースの中に、全部で74枚のフィルムスライドが収まっています。
内容はすべて天体写真。
標準的な5cm角のマウントに貼られたシールには、それぞれ細かいデータが書かれています。
反対方向から見ると、オレンジに白抜きのアグファ(Agfa)のロゴがずらり。
アグファはドイツのフィルムメーカーで、フィルムだけでなく、こうしたスライド用品も販売していました。
もっとも、ここに並ぶのは、全部がアグファ製マウントに収まったスライド――これらは以前の持ち主の自作のようです――ばかりではなく、理科機器メーカーのPHYWE社(本社ゲッティンゲン)が制作販売した、「星の世界(Welt der Sterne)」というシリーズ物や、何の表示もないものが混在しています。
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5cm角の中に程よく収まった月面。
指先に輝く天の川、あるいは白い乳の道、「ミルヒシュトラッセ」。
おおぐま座のNGC2685。銀河面に直交してリング状構造が存在する特異な銀河です。
ガラススライドは「掌の宇宙」でしたが、こちらはさらにコンパクトな「指頭(しとう)の宇宙」です。小さな小さな画面に、広大無辺な空間が封じ込められているという、そのコントラストが強く想像力を掻き立てます。
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これらのスライドで特徴的なのは、フィルムを封じたマウントがすべてガラス板であることで、何となくガラススライドをドールハウスサイズに縮めたような感じを受けます。
特にアグファのマウントは、薄い鉛色の金属片でフィルムをはさんだ上から、さらにガラス板でサンドしており、いかにも重厚な印象です。
(アグファのスライドを横から見たところ)
私が身近で接したスライドは、どれもペラペラのフィルムを、厚紙やプラスチック板ではさんだだけのものなので、その感触はだいぶ違います。
気になるのはこれらのスライドの制作年代で、その点を改めて考えてみます。
(この項つづく)
学校幻灯会…1947アメリカ ― 2022年02月08日 06時03分37秒
(前回のつづき)
1955年の日本の状況は、かなりの程度まで同時代のアメリカの状況の反映だと思いますが、その少し前、1947年のアメリカの幻灯事情を示す動画をYouTubeで見つけました。
■手作りのランタンスライドの作り方
インディアナ大学のオーディオ・ビジュアルセンターがかつて制作したもので、上の動画には制作年がありませんが、同じ動画のモノクロ版には、1947年というコピーライト表示があります。
先生や生徒が、いろいろな技法を使って、せっせとスライドを手作りしている動画ですが、ここに登場するのは、すべて昔ながらの4×3.25インチ(10×8.25cm)のアメリカン・サイズのガラススライドです。つまり、この頃までは戦前とひとつながりで、ガラススライドが教育の場でも健在だったことが分かります。
となると、フィルムスライドへの移行は、1947年から1955年までの数年間でかなり急速に生じたことになります。
そして、フィルムスライドの全盛期も長くは続かず、映画が登場し、テレビが登場し、先生たちの手作り教材はOHP(オーバーヘッドプロジェクター)に置き換わり、それもまたネットとパワポに駆逐されて現在に至る…というわけでしょう。(もっとも、フィルムスライド自体は、小中学校の授業から消えた後も、大学の講義や学会発表では長く重宝された気がしますが、それも今となっては昔語りです。)
とはいえ、1947年の先生や生徒たちの表情や手元を見ていると、何だか楽しそうだし、教育のあり様としても、そう悪くない気がします。
(この項おわり)
学校幻灯会…1955日本 ― 2022年02月06日 22時19分05秒
少し前まで幻灯の話をしていて、そこで書き洩らしたことがあるので、この機会に書いておきます。それは戦後、1950年代の小・中学校で、幻灯がどのように受容・活用されていたかについてです。
これまでも再々引用してきた、1955年に発行された学校教材カタログ(『日本教育用品総覧1956年版』、教育通信社)に、ここで再び登場してもらいます。
先に述べたように、天文分野では1960年代になってもガラスの幻灯スライドが現役でしたが、初等教育の現場は、だいぶ様相が違いました。
以下は上記カタログ掲載のスライド映写機の数々。いずれもすでに「幻灯機」というよりは、「スライドプロジェクター」というカタカナ語がふさわしい面構えになっています。
高いのも安いのもありますが、注目すべきはそのスライドサイズで、だいたい35mmシングル、ダブル、2インチ角がデフォルト。さらに6×6サイズが映写できるものもありました。
注釈しておくと、35mmは今でも流通している銀塩写真の標準フィルムサイズ。フィルムの幅が35mmで、そこに24×36mmの横長の画像が写し込まれます。
ただし、昔はこの半分の画面サイズで、倍の枚数の写真が撮れるカメラも大層人気がありました。フィルム代の節約になったからです。通常の「フルサイズ」に対して「ハーフサイズ」カメラと言いますが、上でいう「シングル」と「ダブル」は、このハーフサイズとフルサイズのことでしょう。これらは長いロールフィルムのまま、巻き上げながら映写しました。

(フルサイズとハーフサイズ)
そして、「2インチ角」というのは、フィルムのサイズではなしに、35mmスライドを挟み込んだ「マウント」のサイズを言います。スライドを整理するには、ロールフィルムよりも、1枚ずつ裁断して、金属や紙(後にはプラスチック)のマウントに挟んだほうが便利で、そのマウントの標準サイズが2インチ(5cm)角でした。これは私自身も親しく経験していて、私がイメージするスライドはまさにこれです。
(1980年代に出たとおぼしい彗星に関するスライドセット。サイズは2インチ=5cm角)
残る「6×6(ろくろく)」というのは、中判カメラで使う、より大型のフィルムで、画面サイズが6cm×6cm(有効画面サイズは56mm四方)のものです。いずれにしても、1955年当時、もはや教育現場からガラススライドは退場していて、フィルムスライドに置き換わっていたことが分かります(ただし、後述のように例外もあります)。
なお、上記の教材カタログの広告ページには、
「又6×6版の映写が出来ます故、先生方の自作スライド上映にはなくてはならない映写機です。」という文言があって、6×6判の需要がどの辺にあったかうかがい知れます。
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さて、これらの映写機を使って、どんなものを映写していたのか?
以下はカタログの広告ページに出てくる、いろいろなメーカーの口上です。
「都会に 農村に オール学芸スライド」と意気込む学芸社は、名作映画や、農村生活改善のスライド、日本民話全集などをそろえていますし、東映社は「社長自ら編集したスライド、使い易く手ごたえある、考えさせるスライド」を謳い、「幻灯の事なら何でも」と胸を張る幻灯協会は、各種機材とともに実に幻灯画4000種を商っていました。
他にも、なじみの学研を始め、大小無数のメーカーがあって、せっせと学校に売り込みを図っていたのです。いかにその需要が大きかった分かります。
具体的な題目と価格のリストも膨大ですが、その一端だけ見ておくと、たとえば園児のための物語シリーズは下のような感じで、
(「天」は天然色(カラー)、「単」は単色(モノクロ)、「彩」は彩色(モノクロに着色)の意でしょう。「コニ」(=コニカ)と「フジ」はフィルムのメーカー名。)
理科関係だと下のような感じです。
これらのうち「1コマ」と断ってないものは、おそらくすべてロールフィルム式のもので、1タイトルが複数巻に及ぶものもあります。
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既成のスライドばかりではありません。
先生たちはせっせとスライドを手作りして、授業で使っていました。もちろん、先生自らカメラを構えて撮影したフィルムもスライド化されたでしょうし、他にも手描きのスライドがありました。
上はそのための製作用具類です。
左下の「膜面つき透しスライド」というのは、5cm角のガラス板の表面に、特殊な膜面を作って、インキで描彩できるようにしたものです。上で「もはや教育現場からガラススライドは退場していて、フィルムスライドに置き換わっていた」と書きましたが、その例外がこれです。
さらに手描きのスライドには、フィルムを用いたものもあって、そのためには右上の「白ぬきフィルム」というのを使いました。要はリバーサルフィルムに白紙を写したもので、その真っ白な画面に専用の「幻灯インキ」(左上)で絵を描きました。
あるいは、「紙フィルム」(左下)というのもあって、こちらは半透明の薄葉紙に描画するものです。
フィルムの場合はそのまま上映してもよく、1コマずつ切断して、フィルムマウントにはさんで上映することもできます。前述のように、その標準サイズが2インチ(5cm)角で、右下に各種マウントの記載があります。
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知らないことを知ったかぶりして書いているので、上の記述には間違いがあるかもしれませんが、大体の様相はこんなところでしょう。
(この項さらにつづく)
天文スライド略史 ― 2022年01月11日 22時30分28秒
天文スライドはどのように発展し、どのように受容されてきたのか?その時代的特徴は?―― 天文スライドを愛好する人ならば、そうしたことを知りたく思うでしょう。
まあ、詳細を語ればキリのない話だと思いますが、そのあらましを要領よくまとめた論文を見つけたので、参考に載せておきます。
■Mark Butterworth(著)
Astronomical lantern slides.
The new magic lantern journal, vol. 10, no. 4 (Autumn 2008), pp.65-68.
Astronomical lantern slides.
The new magic lantern journal, vol. 10, no. 4 (Autumn 2008), pp.65-68.
著者のバターワース氏については、1954年~2014年という生没年と、2003年に王立天文学会に入会されたこと以外は未詳です。
全体でわずか4ページの論文ですが、17世紀のホイヘンスから説き起こして、19世紀の幻灯黄金期を中心に、天文学と幻灯スライドのかかわりを説いて、興味津々。
内容はそれぞれにご覧いただくとして、ここでは昨日の記事と関連して、天文スライドの終末期を説いた末尾の部分だけ適当訳しておきます。なお、文中に出てくる「スライド」というのは、フィルム・スライドではなくて、あくまでもガラス製の幻灯スライドのことです。
(以下、〔 〕は訳注。冒頭1字下げは原文の改段落、それ以外は引用者による。)
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19世紀の終わりには、天文・科学機器のメーカーは、同時に天文スライドを手がけるようになっていた。また世界の多くの主要天文台、特に米国のヤーキスとウィルソン山天文台では、自台で撮影された著名な写真に基づくスライドの頒布を始めていた。ロンドンでは、王立天文学会(RAS)がスライド制作を手がけ、講演や授業で用いるため、会員の多くがそれを購入した。1930年代に入ると、アマチュア団体である英国天文協会(BAA)までもがスライド頒布を行うようになり、それを会員向けに貸し出すライブラリーを設立した。RASとBAAは、今でも自前の参考図書館内にスライドのコレクションを所蔵している。
ただし、幻灯とスライド自体は、それ以前から衰退しつつあり、1920年代には、天文スライドはもっぱら学術機関内部で使用されるか、天文諸学会が利用するために制作されるものとなっていた。後期のスライドセットは、見る者に一定レベルの予備知識があることを前提としているものが多かった。
スライド制作を手掛ける会社は、ついには1、2社にまで減少した。英国で1930年代ないし1940年代初頭まで、最後の天文スライドを作り続けた会社がニュートン社(Newton & Co.)で、同社も第2次世界大戦が終結すると、結局商売を畳んでしまった。
大学と天文台は、教育目的で自前のスライドを1950年代を通して制作し続けたが、その多くは本の挿絵を撮影して作られたものだ。筆者は1970年代初頭に、セント・アンドルーズ大学で聴講した天文学の講義を思い出す。それはひどく無惨な白黒スライドを使って行われた(筆者が幻灯に興味を抱くようになるずっと前のことである)。
ただし、キーストーン社(The Keystone View Company)は1950年代に入ってもなお、あるいはおそらく1960年代初頭までは、初等教育向けのスライドセットを製造していた。NASAでさえも、初期スペースシャトル計画の広報用を含め、啓発資材の一部として1970年代初めになってもスライドを制作していた。
天文を扱ったスライドは、他のどんなテーマのスライドよりも、たぶん商業的にいちばん長命を保ったろう。最初期のメーカーに始まり、Mary Dicas〔18世紀後期の光学・科学機器メーカー〕や Philip Carpenter〔同じく19世紀前半のメーカー〕の時代、そしてヴィクトリア時代盛期を経て、さらに1970年代 ―― つまり広告以外の他のあらゆるテーマのスライドが消滅、もしくは他のメディアに移行したずっと後まで、それは存続した。だが残念ながら、他のスライドタイプと同様に、その存在と重要性は、今日の天文学者には事実上まったく知られてないし、科学史家でさえもそうである。
ただし、幻灯とスライド自体は、それ以前から衰退しつつあり、1920年代には、天文スライドはもっぱら学術機関内部で使用されるか、天文諸学会が利用するために制作されるものとなっていた。後期のスライドセットは、見る者に一定レベルの予備知識があることを前提としているものが多かった。
スライド制作を手掛ける会社は、ついには1、2社にまで減少した。英国で1930年代ないし1940年代初頭まで、最後の天文スライドを作り続けた会社がニュートン社(Newton & Co.)で、同社も第2次世界大戦が終結すると、結局商売を畳んでしまった。
大学と天文台は、教育目的で自前のスライドを1950年代を通して制作し続けたが、その多くは本の挿絵を撮影して作られたものだ。筆者は1970年代初頭に、セント・アンドルーズ大学で聴講した天文学の講義を思い出す。それはひどく無惨な白黒スライドを使って行われた(筆者が幻灯に興味を抱くようになるずっと前のことである)。
ただし、キーストーン社(The Keystone View Company)は1950年代に入ってもなお、あるいはおそらく1960年代初頭までは、初等教育向けのスライドセットを製造していた。NASAでさえも、初期スペースシャトル計画の広報用を含め、啓発資材の一部として1970年代初めになってもスライドを制作していた。
天文を扱ったスライドは、他のどんなテーマのスライドよりも、たぶん商業的にいちばん長命を保ったろう。最初期のメーカーに始まり、Mary Dicas〔18世紀後期の光学・科学機器メーカー〕や Philip Carpenter〔同じく19世紀前半のメーカー〕の時代、そしてヴィクトリア時代盛期を経て、さらに1970年代 ―― つまり広告以外の他のあらゆるテーマのスライドが消滅、もしくは他のメディアに移行したずっと後まで、それは存続した。だが残念ながら、他のスライドタイプと同様に、その存在と重要性は、今日の天文学者には事実上まったく知られてないし、科学史家でさえもそうである。
★
天文スライドは、他のスライドとは一寸違ったコースをたどったことや、大学や研究機関が、その重要な制作者であったことなど、昨日の記事と読み合わせると、当時の事情が一層立体的に浮かび上がってきます。
なお、文中に出てくる王立天文学会が制作した天文スライドは、以下に登場済みです。
■空のグリッド https://mononoke.asablo.jp/blog/2019/05/27/
■フランクリン=アダムズの天体写真 https://mononoke.asablo.jp/blog/2019/05/30/
■壮麗な天体写真 https://mononoke.asablo.jp/blog/2019/05/31/
■フランクリン=アダムズの天体写真 https://mononoke.asablo.jp/blog/2019/05/30/
■壮麗な天体写真 https://mononoke.asablo.jp/blog/2019/05/31/
幻灯スライドの時代を見直す ― 2022年01月10日 11時54分33秒
ここに来てオミクロンの波高し。
その余波もあって、記事の方はポツポツ続けます。
★
数ある天文アンティークの中でもポピュラーな品のひとつに、天体モチーフの幻灯スライドがあります。上のような19世紀の手描きの品はいかにも雅味があるし、一方で20世紀初頭のモノクロスライドは、涼しげな理科趣味にあふれています。
特に後者は数がたくさん残っているので、値段も手ごろで、手にする機会は多いと思います。そうしたガラスの中に封じ込められたモノクロの宇宙は、最新のカラフルなデジタルイメージとはまた別の魅力に満ちており、いわば現代のデジタル像が饒舌なら、昔の銀塩写真は寡黙。そして夜中に一人で向き合うには、寡黙な相手の方が好ましく、そこからいろいろ「言葉以前の思い」が湧いてきたりします。
そんなわけで、私の手元にも天体の幻灯スライドはかなりたまっていて、上の木箱や紙箱に入ったセットもその一部です。
★
ところで、最近、自分がある勘違いをしていたことに気づきました。
それは、そうした幻灯スライドの年代についてです。
上のスライドは、有名な「子持ち銀河」M51で、ウィルソン山天文台の100インチ望遠鏡を使って撮影されたもの。撮影は1926年5月15日だと、ラベルにはあります。
上の品もそうですが、この種のガラススライドは、19世紀末から1920年代いっぱい、あるいはもう少し引っ張って、せいぜい1930年代ぐらいまでの存在で、それ以後はスライドフィルムに置き換わった…というのが、私の勝手な思い込みでした。
自分の経験として、ガラススライドは既に身辺からすっかり消えていたので、かなり遠い時代のものと感じられたし、1950年代の学校教材カタログを開いても、視聴覚教材は当時既にスライドフィルム ―― つまりガラスではなくプラスチック素材に感光層が載った、ペラペラのフィルムに置き換わっていたからです(このことは後日改めて書きます)。
でもそれは間違いです。少なくとも天文分野に関しては、ガラススライドは1960年代まで「現役」だったことを、最近知りました。それは古い時代のものがその頃まで使われていた…というだけではなく、新たなガラススライドも、依然作られ続けていたという意味においてです。
例えば、下の画像。これはハーバード・スミソニアン天体物理学センターの Lindsay Smith Zrull 氏のツイートからお借りしたものですが、そこには「1957年8月22日」という日付入りで、ムルコス彗星の画像がスライド化されています(同センターに所蔵されているガラススライド・コレクションの1枚です)。
おそらく、より鮮明で情報量の多い画像を得るには、より大きな画面サイズが必要で、そうした「プロユース」にとって、一見古風なガラススライドは恰好のメディアだったのでしょう。
★
ここで、以前参考のために買ったカタログのことをにわかに思い出しました。
上の写真は、いずれも米国の天文台が頒布していた天体写真や天文スライドのカタログです。左はカリフォルニアのリック天文台が1962年に発行したもの、中央と右は、シカゴ近郊のヤーキス天文台が1960年と1911年に発行したものです。
こういう1960年代のカタログが存在すること自体、天文のガラススライドが、その頃まで商品として流通していたことを示すもので、またそうした「商売」が、20世紀初めから行われていたことも分かります。
気になるお値段は、リック、ヤーキス(1960)ともに、4.25×4インチのアメリカ標準サイズのモノクロスライドが、1枚1ドル50セント。リックはカラー版も扱っていて、そちらは5ドルとなっています(※)。
ただ、カタログの内容を見て分かったのは、上で「新たなガラススライドも、依然作られ続けていた」と書いたのは事実としても、そこにはある程度保留が必要だということです。というのは、太陽や月、惑星、星雲や星団――こういうおなじみの被写体は、やっぱり1900年初頭~1920年代に撮影されたイメージが大半で、1950年代以降の写真は、新発見の彗星などに限られるからです。(撮影年が書かれてない品も多いので、きっぱり断言もできませんが、年代が明記されているものに限れば、上の傾向は明瞭です。)
冒頭で載せた木箱・紙箱に入ったスライドは、ウィルソン山天文台(リック天文台の弟分)とヤーキス天文台のもので、20世紀初めの撮影にかかるものばかりです。でも、このスライド自体は後年に焼き増ししたものかもしれず、時代は不明というほかありません(やっぱり1960年代のものかもしれません)。
天文の幻灯スライドは、「撮影年」イコール「スライド制作年」とは即断できず、ニアイコールの場合もあれば、半世紀ぐらい乖離がある場合もある…というのが、今日の結論です。
(※)もののサイト(The Inflation Calculator)によると、1960年当時の1ドルは、2020年の8.88ドルに相当するそうです。今のレートだとモノクロが1500円、カラーが5000円ぐらい。結構高いものですね。
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