『日本産有尾類総説』の作画者、吉岡一氏のこと2024年08月01日 18時31分41秒

世の中には検索の達人がいらっしゃるものです。
佐藤井岐雄博士の『日本産有尾類総説』の彩色図版を担当した、吉岡一画伯について、その後、ある方(Y氏とお呼びします)からメールでご教示いただきました。

(『日本産有尾類総説』 第1図版、チョウセンサンショウウオ)

当時、広島に吉岡一という洋画家がいて、動・植物の挿絵も手掛けていた…という情報で、これまた同名異人の可能性が皆無とはいえませんが、まあ普通に考えてご当人でしょう。

以下、国立国会図書館のデジタルコレクションからの情報(by Y氏)です。

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まず、吉岡氏の名前は、小林順一郎著 『普通動物学』(中文館書店、昭11/1936)に挿絵画家として登場します。同書冒頭の「序」に、「…尚此書に挿入した図版は写真版以外は殆どすべて新しく描写したので、その過半は広島の洋画家吉岡一氏の手により…」云々の記載があるのがそれです。

次いで、戦後間もない頃ですが、広島図書(本社・広島市)が発行していた子供向け科学雑誌「新科学」の昭和23年(1948)6月号で、吉岡氏は高山植物のカットを描いています。要するに吉岡氏は動・植物画をよくする職業画人で、その方面の代表作が『日本産有尾類総説』というわけです。

(「新科学」昭和23年6月号の表紙)

(同上目次と高山植物図・部分。傍線は引用者)

さらに吉岡氏の名前はちょっと変わったところにも見出されます。
広島出身の歌人・平和運動家の正田篠枝(しょうだ しのえ、1910-1965)氏の『耳鳴り : 原爆歌人の手記』(平凡社、1962)がそれです。


そこには、正田氏がGHQの検閲をくぐり抜けて秘密出版した歌集『さんげ』(奥付には昭和22年(1943)とありますが、実際は昭和21年発行の由)に掲載された、原爆ドームのカットと、絵の作者である吉岡氏の思い出が書かれています。それによると、吉岡氏は当時、広島郊外の高須(現広島市西区)に住み、妻を原爆で亡くしたため、乳飲み子を含む6人の子供を抱えて大変苦労していたこと、その後再婚したものの、間もなく亡くなられたことが記されていました。

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さて、ここまでたどってきても、吉岡氏の経歴は依然ぼんやりしています。
しかし、Y氏からもたらされた、もう一つ別の情報を追っているうちに、広島市現代美術館が1991年に開催した展覧会「広島の美術の系譜―戦前の作品を中心に」の図録中に吉岡氏の名があることを知りました。

早速、問題の図録を取り寄せたら、これが正解で、そこには氏の風貌を伝える写真とともに、その略歴がしっかり書かれていました。

吉岡 一(よしおか・はじめ) 1898-1954
 広島市に生まれる。1916年の第1回展より県美展〔※引用者注:広島県美術展覧会〕に出品。独学の後上京し、太平洋画会研究所に学ぶ。23年二科展に初入選。25年、26年、28年、29年帝展に入選。広島美術院展には26年の第1回展より出品。31年青実洋画研究所開設。32年広島洋画協会結成に参加。36年二紀会結成に参加。54年死去。

(二紀会結成。前列左から、辻潔、吉岡満助〔※引用者注:同じく画家だった吉岡一の実兄〕、田中万吉、吉岡一、後列左から、福井芳郎、實本仙、山路商)

正田篠枝氏の回想記は、吉岡氏が戦争終結後あまり間を置かずに亡くなったように読めますが、実際には戦後9年目の1954年まで存命されていたとのことです。

さらに図録には、氏の作品が2点掲載されています。

(吉岡一 燻製 1929年 油彩・キャンバス 100.0×73.0 広島市蔵)

(吉岡一 石切場 制作年不祥 油彩・キャンバス 38.0×46.0 個人蔵)

実はこの図録を手にするまで、私は何となく「洋画家」とか「画伯」というのは一種の儀礼的尊称であって、氏の実相は「挿絵をもっぱらとする画工」に近い存在ではなかろうか…と勝手に想像していました。しかし、上のような経歴を知り、その作品を眺めてみれば、吉岡氏は確かに「洋画家」であり、「画伯」と呼ばれるべき人でした。

ただ、逆にこの図録は吉岡氏の挿絵画家としての顔を伝えていません。
『日本産有尾類総説』の作画者と、帝展入選画家・吉岡一を結びつけて考える人は、同時代人を除けば少ないでしょうから、ごくトリビアルな話題とはいえ、この拙文にも多少の意味はあると思います。

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吉岡氏は、大正5年(1916)に始まった県美展の常連出品者でした。その後、昭和11年(1936)に、運営方針をめぐって脱退したものの、吉岡氏がその青年期から少壮期を托した県美展の会場こそ、広島県物産陳列館――今の原爆ドームです。

今年の8月6日も、あの鉄骨のシルエットをテレビで目にするでしょう。
そして、今年は新たな感慨がそこに付け加わるはずです。

大きな太陽、小さな太陽2024年08月03日 07時17分43秒

連日酷暑が続きます。
なんだか太陽ばかりが元気で、少し憎らしい気もしますが、最近の炎暑はもっぱら地球側の要因によるものなので、太陽を恨むのは逆恨みのような。


ガラスキューブの内部に造形された太陽。この品は既出です。


ガス球内部で生じた膨大なエネルギーは、対流と輻射によって表面まで運ばれ、目のくらむような光となり、巨大なプロミネンスや爆発するフレア、そして無数の磁力線ループを生み出します。これらは太陽がまさに生きている証しです。

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一方、こちらは原生生物の仲間、タイヨウチュウ
ウサギノネドコさんのSola cube Microシリーズの1つです。


「タイヨウチュウ」は、Helios(太陽)の名を負った欧名「Heliozoa」の直訳ですが、その姿を見れば、名前の意味するところは一目瞭然です。


球形の本体と、そこから伸びる無数の軸足。内部で絶えず生じる原形質流動。タイヨウチュウもまた、それを可能にするエネルギー代謝こそが、その生を支えています。


こうして比べてみると、自然とはつくづく不思議なものです。
でも、マクロとミクロの太陽が、いずれも<球体と中心からの放射>という共通の構造、ないし形態を持つのは、たぶん我々の宇宙の基本構造――様々なレベルでの対称性――に根差すものであって、そこには偶然以上のものがあるのかもしれんなあ…と思ったりもします。

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ところで、タイヨウチュウをあっさり「原生生物の仲間」と呼びましたが、分類学の発展に伴い、「原生生物」も、その一グループである「タイヨウチュウ」も、近年になってその位置づけにドラスティックな変化が生じているようです。

海産動物ならなんでも「魚」、けもの以外の小動物はすべて「虫」と呼んでいた状態から、昔の博物学者の努力によって、より緻密で洗練された分類体系が生まれたのと同じようなことが、今、ミクロの世界で起きているのでしょう。

生物が生きているのと同様、生物学もまた生きています。
でも、その生を支えるものは何でしょう? 

呑珠庵、渋澤龍彦を偲ぶ2024年08月04日 11時22分10秒

今週は広島、長崎の慰霊の日が続きます。
そして広島平和記念日の前日、8月5日もまた鎮魂の日です。

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文学者の渋澤龍彦(1928-1987)が亡くなったのは、今から37年前、昭和62年の8月5日のことでした。

私は渋澤の小説も訳業もほとんど読んだことがありませんが、彼の有名な北鎌倉の書斎(と隣の居間)のたたずまいは非常に好いていて、関連する本を折々手にしました。


したがって、私は渋澤龍彦のファンではないにしろ(渋澤のファンであれば、たぶん「澁澤龍彥」と書かねば気が済まないでしょう)、「渋澤の書斎のファン」ではあるのです。そういう人は意外に多いんじゃないでしょうか。

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彼の没後30年を記念して、2017年に世田谷文学館で開催されたのが、「澁澤龍彥 ドラコニアの地平」展で、その図録として刊行されたのが、同題の単行本です。

(平凡社、2017)

先日、この7年前の図録を購入して、7年間の時の厚みが加わった過去をぼんやり回顧していました。考えてみれば、彼が生きていれば100歳老人も目前だし、彼が亡くなった年に生まれた人はすでに37歳ですから、渋澤が「昔の人」となるのも無理はありません。

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図録の冒頭、「もしかしたら、ノスタルジアこそ、あらゆる芸術の源泉なのである」という渋澤の言葉が掲げられていて、虚を突かれました。


ノスタルジアを視野の外においた芸術も当然あると思うんですが、こうズバッと言われると、なんだか真理のような気もするし、何よりこのブログ自体がノスタルジアを源泉としているので、ひどく共感したということもあります。

「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば 生まれぬ先の親ぞ恋しき」
という道歌があります。

ノスタルジアというのは、自分の個人的経験を超えて、さらにその先に広がっているので、それもひっくるめれば、芸術――精神の営みといってもいいです――の多くがノスタルジアに発しているのも、また確かでしょう。


巌谷國士氏による寄稿「澁澤龍彥と文学の旅」には、ノスタルジアと並んで、「エクゾティシズム」、「インファンティリズム」、「遊び」、そして「書斎の旅」…といったタームが、渋澤を語る上でのキーワードとして出てきますが、これまた他人事ではないなあ…と感じました。


オブジェと書物を媒介として、「ここではないどこか」を旅するというのは、確かにこのブログがたどってきた道でもあります。

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この図録には、渋澤邸に鎮座する例のオブジェ棚も出てきます。


ときどきは未亡人の龍子氏が掃除されるでしょうから、モノの配置は少しずつ変わっていますが、全体のたたずまいは、渋澤が亡くなった直後に撮影された写真↓と、さほど変わっていません。

(撮影・篠山紀信、「季刊みづゑ・1987冬」号(1987)より)

しかし、或るモノを見たとき、私は30年の歳月をふと感じました。
それは棚の上のサソリの標本です。

(1987年。ちょうど本の綴じにかかって、サソリが見えにくくなっています)

(2017年)

サソリが徐々にずり落ちている…。実に些細なことだし、サソリの位置ぐらいすぐに直せるでしょうが、両者の差異は、不磨のドラコニア王国にも頽落(ディケイ)の兆しが静かに忍び寄っていることを示すものと感じられました。

一面では悲しいことです。でも、変化のない世界には、ノスタルジアもまた生れようがありません。サソリは地へと墜ち、諸物は頽落していく。だからこそ、変わらぬものに価値が生まれ、いっそう輝きを増すのです。「変わらぬもの」のうちには、もちろんモノだけでなく、記憶や、過去そのものも含まれます。

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書物は自由に時間を往還する手段を与えてくれます。
先ほど、上記展覧会の10年前に行われた没後20年展の図録、『澁澤龍彥 幻想美術館』(監修・巌谷國士、平凡社、2007)を新たに注文しました。

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偉大なる書斎の先人、渋澤龍彦氏の旅の平安を祈ります。

業火灑水(ごうかしゃすい)2024年08月06日 18時05分34秒

水がめの中を元気に泳いでいたメダカが黙って浮いていました。
連日の暑さで水が煮えてしまったせいでしょう。
メダカにとっては、この水がめの中だけが「世界」でしたから、彼らはたぶん世界が終わる地獄を見たのだと思います。不憫なことをしました。

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メダカがいなくなった水がめを前に、79年前のあの日、人々が見た光景はどんなものだったろう…とぼんやり考えます。


一杯の水を求めて亡くなった方たちへ。
甘露よりも何よりも、そのとき切実に欲したであろう一杯の水を謹んで捧げます。

洛中の夏2024年08月07日 05時58分45秒

毎日「暑い暑い」と言いながら、昔読んだ印象的な文章が頭をかすめました。

最初、予備校の現代文のテキストで読んだと思うんですが、いろいろ記憶をたどるうちに、仏文学者で評論家の杉本秀太郎氏(1931-2015)が書いたものと気づき、氏のエッセイ集『洛中生息』の中に、それを見つけました。ちくま文庫版だと169頁から始まっている「夏涼の法」という文章です。以下はその一節(太字は引用者)。

 「友人が冷暖房自在の家を、京都の南郊に建てた。暑いあいだも仕事が捗るだろうと想像されて、悪くないな、と私は思ったものだ。〔…〕新しい家での夏も、ようやく半ばという頃、その友人は、出会うなりさっそく、こんなことをいった。
 ――やっぱり夏はああ暑う、あついなあ、いうて、なにもせんと、ひっくり返ってるのがええわ。夏は暑がってるのが文化いうもんや。君がうらやましいわ。
 クーラーを使ってはいない私の苦笑もかまわず、彼はつづけて、東京の文化人のように別荘避暑地というものをもつ習性のないことを京都人の長所として指摘し、別荘避暑地代りに工夫された町なかの夏の年中行事を称賛するのであった。」

予備校生だった私は、この杉本氏の友人の言葉にいたく共感し、その後も折々反芻していました。当の杉本氏にしても、氏は先祖伝来の古い町家に住み、京の伝統文化を称揚する立場でしたから、苦笑しつつも、この友人の言葉に大いに頷くものがあったでしょう。

(祇園祭を迎えた杉本邸のしつらえ。出典:西川孟(写真)・杉本秀太郎(文)・中村利則(解説)『京の町家』、淡交社、1992)

しかし温暖化が進み、暑いうえにも暑くなった今の京都で、これが依然通用するものかどうか? 「あついなあ、いうて、なにもせんと、ひっくり返ってる」うちに、本当にひっくり返ってしまうんじゃないか、そして命をも奪われてしまうんじゃないか…という懸念なきにしもあらず。

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上の杉本氏の文章は、最初、雑誌「きょうと」72号(1973年7月)に発表されたものです。つまりほぼ半世紀前。

ここで気象庁のデータをもとに、過去の京都の気温を振り返ってみます。
下は1890年から1970年までは10年ごとに、1970年以降は5年ごとに京都市の7月の気温を拾ったものです(最後に2024年の値も入れました)。

指標となっているのは、7月の平均気温(日平均)、平均最高気温(日最高)、平均最低気温(日最低)、月間最高気温(最高)、月間最低気温(最低)の5つです。なお、上記のように横軸は時間間隔が揃ってないので、グラフの傾きを見る際は注意してください。



このグラフを見て、ただちに気づくことが3つあります。

1つ目は、温暖化と言いながら、明治のころから2020年まで、意外に気温は変わってないということです。昔の京都も、やっぱり今と同様に酷暑で、都人は耐え難い暑さと戦っていたことが分かります。

2つ目は、そうは言いつつも、各指標の中で月間最低気温だけは、顕著な上昇を示していることです。昔の京都は、7月にも肌寒さを感じるような冷涼な朝が折々ありました。今はそれがなくなった…というのが、たぶん肌感覚上の大きな違いで、京都の暑さが増しているという印象を生む原因ともなってるんじゃないでしょうか。


そして3つ目は、今年の暑さはやっぱり異常だということです。あらゆる指標がぴょこんと異常な値を示しています。こうなると、「あついなあ」とひっくり返っているだけではとても間に合わず、伝統文化も旗色が悪いです。

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来年には異常値から平常に復して、また伝統文化を楽しめればと思いますが、仮にこういう夏が今後増えていくのだとしたら、これはもう新たな文化を創出するほかなく、京都の人にはみやびな「新・夏涼の法」を編み出していただき、他の範となってほしいと思います。

(杉本邸の露地庭。出典同上)

秋立つ。2024年08月07日 19時06分22秒

暦の上では今日から秋。
…そう言われて、「馬鹿も休み休み言え」とお怒りの方もいらっしゃるでしょう。たしかに私もそう思うし、「どうも最近の暦は、大本営発表が過ぎる」とも思います。


でも、これは気温だけに注目するからそう思うので、日の出・日の入りの時刻、太陽の天球上の位置、夜空の星座の顔ぶれ…それら気温以外の天象は、すべて今が秋の入り口であることを示しています。

「暑いのが夏、涼しいのが秋」、そんな「常識」は捨て去らねばなりません。
そんなことでは、もはや季節は判別できないのです。

天を管掌した古今東西の学者たちのように、我々はじいっと太陽の運行を観測し、ただそれのみによって四季を知るしかないのです。
そう、誰が何と言おうと、すでに秋は立ったのです。

…と力説せねばならないことを悲しく思います。
地球はいったいどうなってしまうのでしょうか。

浪の下にも…2024年08月09日 17時06分23秒

浪の下にも都の候ぞ―。

二位の尼は幼い安徳帝にそう告げて、ともに壇ノ浦に沈みました。
波の底には都もあれば、山もあり、谷もあり、地上と同じように複雑な海底地形が広がっています。そこは陸地以上に広大なひとつの「世界」です。

(20万分の1 伊豆半島南方海底地形モザイク図、平成4年(1992)12月)

まあ、海の水が全部干上がってしまえば、地上も海底もなく、一連の凹凸があるだけでしょうが、水成作用が常時働いているという点で、海は陸上とは大いに異なるし、そもそも地殻の成り立ちが、陸とは少しく異なります(相対的に軽いのが陸、重いのが海)。そして常時水に覆われ、我々の目から隠されているせいで、人々に強烈な「異界感」を与えます。

(5万分の1 相模湾南西海底地形図、平成2年(1990)3月)

その異界の地図が海底地形図です。
海底地形図は、最初は船の座礁を避けるための岩礁調査や、大型船航行のための水深調査から始まり、さらに漁業振興のための漁場調査や、海底資源調査など、いろいろ実用目的で発展したのでしょうが、結果的に今ではずいぶん精密な図が作られ、ネットでも見ることができます。

(50万分の1 海底地形図「四国沖」、平成4年(1992)8月)

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南海トラフ臨時地震情報の話題で世間は緊張しています。
そもそも「トラフ」って何だろう?と思ったんですが、これは「舟状海盆」とも訳される海底地形を指す名称のひとつで、細長くのびた海底の盆地(海溝ほど深くないもの)を指すということを、さっき知りました。

トラフの成因はさまざまで、必ずしもプレート境界面に限られるものではありませんが、南海トラフや相模トラフは、ずばりフィリピン海プレートの沈降によってできたものなので、ここでプレートのひずみが解放されると、巨大地震になるということで警戒されているわけです。

今回の騒動で、例によって紙の地形図をパラパラやりたいと思い立ち、にわかに古物を購入することにしました。上の各図はすべて今回購入した商品写真の流用で、まだ現物は届いてません(何事もなく届くことを祈ります)。

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「浪の下にも盆の候ぞ。」
お盆の時期だから…というわけでもありませんが、当分は海の「盆」から目が離せない状況です。

天文古書とアールデコ2024年08月10日 14時44分53秒

最近、人に問われて魅力的な装丁の天文古書について考える機会がありました。
自分なりにいろいろ考えてお答えしたのですが、そういえば下の本はまだ話題にしてなかったのを思い出しました。


■Mary Proctor
 Evenings with the Stars
 Cassell (London), 1924. 8vo. 212p.


厚みのある本なので、背表紙も表紙絵と同じデザインで小粋に彩られています。

著者は、父リチャード(Richard Proctor、1837-1888)とともに天文啓発家として名をはせた、メアリー・プロクター(1862-1957)。ふたりは多くの一般向け天文解説書を書き、英米両国で好評を博しました(プロクター家は1881年にイギリスからアメリカに移住しました)。

(本書は亡父に捧げられています)

(タイトルページ)

まあ装丁の美しさイコール中身の美しさではないので、本書も21 枚の図表と8 枚の写真(オフセット印刷)を含むものの、ビジュアル面では特に目を引かない、中身はごくふつうの星座ガイド本です。

(内容の一部)

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しかし、この表紙はどうでしょう。1920~30年代に一世を風靡した「アールデコ」のブックデザインが洒落ています。


美しい装丁の天文古書というと、いかにもヴィクトリアンな、ときに装飾過多と思えるようなブックデザインがパッと思い浮かびますが、本書の造本感覚はそれとはちょっと趣が異なります。

アールデコとは何ぞや?…というのは、なかなか言葉で明確に述べ難いところですが、ざっくり言えば「装飾的モダニズム」であり、幾何学的・平面的・直線的デザインを多用し、オリエンタルなモチーフを、オリジナルの文脈を無視して盛んに引用するあたりが特徴かと思います。アールデコの例として真っ先に挙げられる、ニューヨークのクライスラービル(1930年竣工)の外観や内部はまさにそうですね(以下はウィキペディアから引っ張って来た写真)。



ただし、そういう外形的なものにとどまらず、アールデコというのは一種の時代精神でもあって、大戦間期の享楽的な大衆文化、いわゆる「ジャズエイジ」と切り離すことはできません。そうした軽躁的なムードは、ヴィクトリア時代を特徴づけた謹厳さとは、鋭く対立するものです。

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時代を超越しているかのような天文書でも、やっぱりそのブックデザインには時代相が如実に表れる…というのが、興味深い点で、書物もやっぱり時代の子ですね。

そして、時代精神は本のデザインばかりではなく、著者のライフスタイルにも知らず知らず影響を及ぼすのでしょう。

(Mary Proctor(1862-1957)、1932年撮影。英語版wikipediaより

ヴィクトリアンな青春を送ったはずのメアリーも、時が経てばアールデコのファッションに身を包み、その精神生活の基調音も、すっかりアメリカ風にモダナイズされていたのかなあ…と、これは純粋な想像ですが、そんなふうに思います。

アールデコの彗星2024年08月11日 13時50分08秒

アールデコの時代は、高度な工業化の時代でもあります。
昨日のクライスラービルに代表される「摩天楼」も、巨大な工場が生み出す大量の鉄筋とセメント、そして平面ガラスがなければ、実現不可能だったでしょう。

そして身近な品も、合成樹脂製品が幅を利かせるようになります。
その代表が、非石油系樹脂であるセルロイドです。

セルロイドは1920~30年代、アールデコの時代を象徴する素材で、今でこそ「なつかしい」と言われるセルロイド製品ですが、当時はモダンな新時代の空気を身に帯びていました。(まあ、当時は当時で「安っぽいまがい物」と、眉をひそめる人もいたでしょうが)。

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彗星モチーフのブローチ。



セルロイドにガラスの模造宝石を散りばめてあります。
米・バーモント州の人から購入しました。


元々安価な品ではあったでしょうが、ところどころ塗装が剥げてしまって、今では文字通り一山いくらの品です。それでもコメット・ブローチをいろいろ探している中で、アールデコの時代を強く感じさせる品として、興味をそそられました。

このブローチは、当時の女性の装いを教えてくれると同時に、彗星にアールデコの装いをさせると、どんな姿形になるのかをも教えてくれます。


元のデザイナー氏が、どこまで彗星の知識を持っていたかは分かりません。
でも、1744年のシェゾ―彗星や、1861年の大彗星(テバット彗星)は、複数の尾を派手に広げた姿が盛んに描かれましたから、このブローチもたぶんその辺が発想源ではないかと思います。そこにアールデコのデザイン感覚を重ねると、こんな姿になるというわけです。

(左上・シェゾ―彗星、右上・1861年の大彗星。William Peck(著)『A Popular Handbook and Atlas of Astronomy』(1890)より)

1910年のハレー彗星以降、20世紀前半は目立つ彗星の少ない時期だったと思いますが、それでも1927年のシェレルプ・マリスタニー彗星(C/1927 X1)のように、日中でも観測できる明るい彗星があったり、彗星は年々地球の近くを訪れましたから、人々の念頭を去ることはなかったでしょう。

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星々の間を縫って進む宇宙の放浪者。
一所不住の気まぐれ者。
颯爽としたダンディな服装と身のこなし。

彗星は、西洋流の粋を身上とする伊達者に、理想のイメージを提供したかもしれませんね。



掛図のある風景(前編)2024年08月12日 13時47分08秒

先日本棚をゴソゴソやっていたら、こんな写真が出てきました。
昔の理科室の写真です。

(台紙29.5×35.5cm、写真17.5×23.5cm)

理科室といっても、いろいろ理科の教材が並んでいるわけではなく、単に理科教育用の掛図が壁に掛かっているだけです。



掛かっているのはライオン、リス、鹿といった野生の哺乳類や淡水魚を描いた図で、左端にはさらに大判の図がちらっと見えますが、内容は不明。この教室には、ほかにもいろんな掛図が、周囲にずらっと掛けまわしてあったのかもしれません。

となると、これは今でいう「理科室」よりももうちょっと古風な、動・植物中心の「博物」の授業を行った部屋かもしれません。手前に写っている地球儀もそのためのツールで、たとえばライオンの話をするときはアフリカを指しながら、先生が面白おかしいエピソードをいろいろ語って聞かせたりしたのかなあ…と想像します。



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ときに、この写真の時代と国は?というのが問題ですが、購入したアメリカの業者は「1890年代、ヨーロッパ」としか教えてくれなかったので、キリル文字からロシア~東欧圏のものということは分かりますが、それ以上は長いこと不明でした。

(写真館のラベル拡大)

でも、さっき検索したら、同じ写真館で撮ったある家族の集合写真を紹介しているページがあって、疑問が解けました。

■The family of Avram and Simha Pinkas

この写真は、ブルガリアの北西部、セルビアやルーマニアとの国境に近いヴィディンの町で営業していた(ラテン文字に直すと)「P. T. Brasnarev」という写真師の手になるものでした。

こういう装飾的な台紙に貼り込んだ記念写真は、日本だと1900年前後のイメージですが、上の家族写真は1924年に撮られたそうですから、この教室写真も20世紀の第1四半期まで下る可能性があります(上の写真に写っている地球儀の国境線から時代を特定できるかも…と思いましたが、未勘)。

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それにしても、この写真はどうですかね。


子どもたちはみな腕組みをして、怖い顔でカメラをにらみつけているし、先生もつまらなそうな顔でぼんやり立っているし、なんだか楽しそうじゃないな…と一瞬思いました。

でも、当時のブルガリアでは、写真というのは厳粛に撮られるべきものであって、「笑顔で写真に写る」という習慣がなかったのでしょう(日本でもそういう時期が長かったと思います)。

ですから写真を撮り終えた瞬間、緊張がゆるんだ子供たちはみな笑顔になって、隣の子とワーワーキャーキャー、教室中が大騒ぎだったんじゃないでしょうか。その場面を想像すると、このあまり豊かには見えない小学校が、にわかに楽しそうな場所に思えてきます。

そういえば、写真を眺めていて気づきましたが、粗末な教室の中で、みんな何となくパリッとした格好をしていますね。きっと「明日、学校で写真を撮るんだよ」と聞かされた親たちが、わが子に「よそ行き」を着せて送り出したのでしょう。いずこも変わらぬ親心であり、そういう風習もちょっと懐かしい気がします。

(壁面の掛図に注目して、この項つづく)

【おまけ】

記事をアップしたあとで思いついて、子どもたちをAI(Dream Machine)で笑わせてみました。しかし、結果はひどくホラーチックなもので、これはちょっと失敗でした。動画は見るに堪えないので、切り取った静止画だけ挙げておきます(何だか悪夢を見ているようです)。