一陽来復 ― 2021年12月19日 10時59分09秒
今年の冬至は今度の水曜日、22日です。
この日、昼間の長さがいちばん短くなるわけですが、これは冬至の日がいちばん日の出が遅く、日没が早いことを意味しません。
東京を基準に暦を繰ってみると、
○今シーズン、日の出がいちばん遅いのは
来年1月1日から1月13日までの、6:51
●同じく日没がいちばん早いのは、
11月28日から12月13日までの、16:28
来年1月1日から1月13日までの、6:51
●同じく日没がいちばん早いのは、
11月28日から12月13日までの、16:28
となっています。約1か月のずれがありますね。そして両者の差引勘定の結果、12月22日が、昼間の時間が最も短い日となるわけです。日の出は今も遅くなる一方ですが、日没の方は、先週からわずかに遅くなり始めて――つまり日脚が伸び始めており、冬至に先行して一陽来復の気分。
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最近、あまり自覚はしてなかったですが、ブログの更新頻度を見ると、精神の活動性が低下している…というか、やっぱりちょっと抑うつ気味なのかもしれません。
今年は両親を立て続けに亡くしましたし、季節性のうつ病とまでは言わなくても、冬場に気分がダウナーになる人は多いので、そうした影響も多分あるのでしょう。こういうときは、無理をせず自然体で過ごすのが黄金則なので、それに従うことにします。
遠からず、心にも一陽来復が訪れることでしょう。
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(冬至のストーンヘンジ。Antony Miles撮影。1986年消印のイギリスの絵葉書より)
ストーンヘンジは、夏至と冬至の日を見定めるための古代の天文観測施設だという説が昔から人気で、この両日は古代史ロマンを求めて、大勢の人が押しかけると聞きます。でも、コロナ禍の今年は、できるだけオンライン中継で我慢してほしい…とのお達しだとか。関連記事は以下。
■How to watch the Winter Solstice at Stonehenge 2021
冬至 ― 2020年12月21日 06時51分31秒
(地球の年周運動と四季の図。A. Keith Johnston(著)『School Atlas of Astronomy』1855より)
今日は冬至。
24時間太陽の姿が見えない「黒夜」エリアが極大となり、北極圏全体を覆う日です。
上は既出かもしれませんが、アラスカ中部の町・フェアバンクスを写した1940年代頃の絵葉書。撮影日はちょうど12月21日です。フェアバンクスは北緯65度で、北極圏からちょっと外れているおかげで、冬至でもわずかに太陽が顔をのぞかせています。とはいえ、何とはかなげな太陽でしょうか。
上の写真は、20分ごとにシャッターを開けて、太陽の位置を記録しています。左端が午前10時45分で日の出の直後、右端が午後1時15分で日没直前の太陽です。昼間はこれで全部。あとの20時間以上、同地の人は長い夜を過ごすことになります。
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程度の差こそあれ、日本でも事情は同じです。
冬至の日は太陽高度が最も低く、日の出から日没まで、太陽が地平線にいちばん近いカーブを描く日です。
言い換えれば、真昼の影がいちばん長い日でもあります。
冬至の正午、身長160cmの人は背丈よりずっと長い256cmの影を引きずっている計算で、太陽の低さが実感されます(他方、夏至ともなれば頭上からぎらつく太陽で、その影はわずかに34cmです)。
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この事実は昔の人も注目していて、基準となる棒を地面に立てて、その影の長さを測ることで季節の変化を知り、時の推移を知った…というところから、日時計も生まれたと言います。この棒を古来「表(ひょう)」または「土圭(とけい)」と呼びました。
考えてみると、「時計」という言葉は、音読みすれば「じけい」となるはずで、「とけい」だと「重箱よみ」になってしまいます(正確には「湯桶(ゆとう)よみ」かも)。でも、「時計」という字は、もともと「土圭」の当て字らしく、身近なところにも、いろいろ古代の天文学の名残はあるものです。
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ちょっと視点を変えれば、南半球では今日が夏至。
そして南極圏では、太陽の沈まぬ白夜が広がっています。
(上図拡大)
太陽の王冠(後編) ― 2020年05月11日 06時43分03秒
今回は、結論が見えぬまま、調べるのと書くのとを同時並行で進めているので、どうしてもくだくだしくなります。でも、ようやく出口が見えてきました。
前回を受けて、1840年代に目星をつけて、さらに深掘りしていきます。
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自分で1840年代と書いて、ピンと来た本があります。
それは、ウィリアム・ハーシェルの息子で、当代随一の碩学と言われたジョン・ハーシェル(1792-1871)が出した天文学の教科書です。
ジョン・ハーシェル(以下ハーシェル)は、1833年に『天文学要論(Treatise on Astronomy)』という本を出しています。手元には1845年に出た、その「新版(New Edition)」というのがあります。しかし、彼は天文学の発展をカバーするのに、これでは全然不十分と思ったらしく、1849年にはこれを大幅に増補し、『天文学概論(Outlines of Astronomy)』と改題した<全改訂新版>を出しました。この本は、大いに歓迎され、1873年まで12回も版を重ねています。
それらを見ると、1845年の『天文学要論(新版)』には、コロナが全く登場しませんが、1849年の『天文学概論』には、「bright ring or corona of light is seen(…).This corona was beautifully seen in the eclipse of July 7. 1842」という風に出てきます(p.235)。
(ジョン・ハーシェル『天文学概論』(1849)より)
さらに、新たな挿図として、この1842年7月の皆既日食を口絵に加えています。
(同上)
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1840年代は、やっぱり1つのターニング・ポイントだったと思います。
ここでさらに大胆に推論すると、ハーシェルをコロナづかせた(?)、この「1842年7月の皆既日食」の観測記録こそが、コロナ普及にあずかって大いに力があったのではないか…という想像も浮かびます。
天文学界への影響力、そしてハーシェル個人への影響力を考えると、その最有力候補はフランシス・ベイリー(Francis Baily、1774-1844)で、彼はハーシェルとともに王立天文学会を創設した古参メンバーです。
ベイリーの名は、日食の際、月面の凸凹(山谷)が背後の太陽の光をきれぎれに洩らし、あたかも光点の数珠のように見える現象、いわゆる「ベイリー・ビーズ」を記載した人として、天文ファンにはおなじみです。それは1836年5月15日の金環食の報告(LINK)に出てくるのですが、そこにはコロナに関する言及はありません。
ベイリーがコロナについて明確に述べているのは、彼の最晩年にあたる1842年の日食報告の中においてで、このとき彼はイタリア・ミラノの近郊、パヴィアの町に陣取って、当日を迎えました。
■Francis Baily, Esq.
Some Remarks on the Total Eclipse of the Sun, on July 8th, 1842
Monthly Notices of the Royal Astronomical Society, Volume 5, Issue 25, November 1842, Pages 208–220
Some Remarks on the Total Eclipse of the Sun, on July 8th, 1842
Monthly Notices of the Royal Astronomical Society, Volume 5, Issue 25, November 1842, Pages 208–220
報告の中で、ベイリーは例の1806年のデ・フェレールの業績にも言及しつつ、自らが見た日食をヴィヴィッドに叙述しています。
彼が前回(1836年)見たのは金環食で、皆既日食を見たのは初めてです。
彼はそれまで先人のコロナ記録を読んで、漠然と「太陽や月の暈のようなもの」を想像していましたが、実際目にしたのはまったく別物でした。「そのため、私は突如視界に広がった、その壮麗な光景に少なからず吃驚仰天してしまった」(I was therefore somewhat surprised and astonished at the splendid scene which now so suddenly burst upon my view.)と、彼は告白しています(p.211)。その上で、彼はコロナの色、広がり、形状等について、できるだけ正確に記載しようと言葉を尽くしています。
ここで注意すべきことは、彼はコロナを指すのに、すべて斜字体の「corona」――日本風に言えばカギかっこ付きの「コロナ」――を、文中一貫して用いていることで、ベイリーが「コロナ」という語に、一定の意味的負荷――「日食特有の光」というような――をかけて用いていることが明瞭です。
ハーシェルが、この論文を見たことは確実なので(『天文学概論』は、観測地にパヴィアを挙げています)、『天文学概論』に登場した「コロナ」の語も、おそらくベイリーに感化されて使用したものと想像します。
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以上はラフ・デッサンで、この「太陽の王冠」をめぐる歴史物語には、当然もっと多くの人が絡むはずです(注)。しかし、あのベイリーが使い、ジョン・ハーシェルが教科書に記したとなれば、「コロナ」が学術用語として公認されたも同然ですし、この辺から一気に用例が増えたのも事実ですから、物語の絶対年代はあまり動かない気がします。
確かにクダクダしいと言えばクダクダしい―。
でも、「コロナ」という言葉が生まれたことで、人々の注意がコロナに向き、世紀の後半には多くの分光観測がなされ、太陽の層状構造論が進歩していったわけですから、言葉というのはやっぱり大事です。
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さて、閑な人間(私のことです)が、天上のコロナを見上げている間も、地上のコロナの形勢は、刻一刻と変化しています。こちらは果たしてどんな歴史をたどるのでしょう?
(この項おわり)
(注) 19世紀の日食リスト【LINK】を見ると、デ・フェレールの1806年以降、ベイリーの1842年までに限っても、22回もの皆既日食が、地球上のどこかで起こっています。それらの観測記録の中で「コロナ」の語を用いた例は多いでしょうし、またそれを引用して論じた人はさらに多いでしょう。
太陽の王冠(中編) ― 2020年05月10日 11時32分11秒
(今日は2連投です。)
デ・フェレールの言う「luminous corona(光の王冠)」が、同時代人にとっては単なる修辞に過ぎず、学術用語と感じられなかったであろうことは、以下の本からも読み取れます。
■Duncan Bradford,
The Wonders of the Heavens.
Amwrican Stationers Company (Boston), 1837
The Wonders of the Heavens.
Amwrican Stationers Company (Boston), 1837
ブラッドフォードのこの本は、一般向けの天文書としては、ごく早期に属するものですが、その中にデ・フェレールの文章をそっくり引用している箇所があります(p.233)。でも、その言い回しは微妙に変わっていて、原文の「The lunar disk was ill defined, very dark, forming a contrast with the luminous corona」は、「(…)forming a contrast with the luminous ring」に改まっています。また、その前後を見ても、「コロナ」という語は一切登場しません。
明らかに、ブラッドフォードは「コロナ」の語に特別な意味を認めず、「リング」と置換可能と捉えていた証拠です。
(ブラッドフォード、上掲書より)
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では、「コロナ」が、明瞭に天文学上の用語となったのはいつか?
これまた余りはっきりしないんですが、例えば A. Keith Johnston の『School Atlas of Astronomy』(1855)を見ると、以下の挿図に寄せて、こう解説しています(p.7)。
「図3〔上図の中央〕は、あるドイツ人天文家のスケッチから写したものである。本図は1851年6月28日の皆既日食中に、月の暗い本体の周囲に見られたものを示している。〔…〕月は空に浮かんだ黒い球ないし円板として見えている。その周りには、あらゆる方向に向かう光の線が、輝く暈(ハロー)を形作り、これは『コロナ』と呼ばれる。」
原文だと、末尾の『コロナ』は、斜体字の corona で表示されており、1855年の時点では、「コロナ」が「王冠」の意を離れて、天文学上の用語として熟していたことが窺えます。
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さらに下って、アグネス・ギバーン(Agnes Giberne)の『Sun, Moon, and Stars』(1882)を開けば、「太陽のコロナとプロミネンス」と題する見慣れた感じの図が載っていて、もう「コロナ」といえば、断然あのコロナのことなんだ…という風に、時代は変わったことが知れます。
(ギバーン、上掲書より)
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だいぶゴチャゴチャしてきたので、話を整理します。
まず、皆既日食中に見られる光の暈を、最初に「王冠」に喩えたのは、おそらく定説通り、1806年(ないし1809年)のデ・フェレールなのでしょう。人類は皆既日食を目にするたび、コロナの光を見てきたはずですが、それに「王冠」を当てたのは、なかなか上手い見立てで、だからこそ後の人もこぞって採用したのでしょう。
でも、その呼び方がしっかり天文学の世界に定着するには、かなり長い時間が必要で、1830年代になっても、天文学入門書に登場するほどの普及ぶりには達していませんでした。その後、1850年代には、用語として明瞭な輪郭を備えるに至ったので、まあ間をとって、1840年代ころ天文学の世界に定着したんじゃないかなあ…というのが、現時点における大ざっぱな推測です。
もちろん、これはごくわずかな、しかも英語圏のみの資料に基づく想像なので、あまり自信はありません。でも、これぐらい目星をつければ、作業仮説としては十分です。
(この項さらに続く。次回完結編)
太陽の王冠(前編) ― 2020年05月10日 11時10分03秒
地にコロナあれば、天にもコロナあり。
以前、かんむり座のことを書きましたが、太陽のコロナのことはまだでした。
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皆既日食の折り、太陽を包むように神秘の輝きを放つコロナ。
上の画像、右は1851年6月28日、バルト海沿いのリクスヘフト(現ポーランド領ロジェビエ)で観測された皆既日食の図。ヨハン・メドラーが1861年に出版した、『皆既日食、特に1861年6月18日の日食について(Über Totale Sonnenfinsternisse mit besonderer berücksichtigung der finsternis vom 18. Juli 1861)』所載の図で、原図は Dr. C. Fearnley によるものです。
また、左の幻灯スライドは、スコットランドの伯爵天文家のジェームズ・リンゼイが、1870年12月22日、スペインに日食遠征して撮影した像。太陽研究の記録手段も、スケッチから写真へと、急速に変わりつつあったことが分かって、興味深いです。
ところで、この「コロナ」という言葉。
太陽本体からパーッと王冠のように広がっているから、コロナと言うのだな…ということは分かりますが、でも、いつから天文用語として使われるようになったのでしょうか?
そんな些末なことを、自粛ムードのつれづれに考えてみます。
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まず、ウィキペディアで「コロナ」の項を見ると、そこにはこう記されています。
「1809年、スペインの天文学者ホセ・ホアキン・デ・フェレールは「コロナ」という言葉を生み出した。デ・フェレールはまた、ニューヨーク州キンダーフックでの1806年の日食の観測に基づいて、コロナは月ではなく太陽の一部であると提唱した。」
念のため、デ・フェレール本人の項目(英語版)を見ても、
「1806年に、ニューヨーク州キンダーフックから観測した日食に関する記述の中で、彼は皆既日食中に観測される明るいリングを指すものとして、『コロナ』という語を作り出した」
…と書かれているので、たぶんこれが定説なのでしょう。でも、これで納得せずに、もうちょっとこだわってみます。
【2020.5.11付記】
太陽コロナの初出について、HN「パリの暇人」さんから本記事「中編」へのコメント欄でご教示いただきました。それによると、コロナの初出は、1809年どころか、さらに100年あまり前の1706年の由。一部を引用させていただくと、「南仏モンペリエで、Plantade と Clapiès の二人は、1706年の5月12日の皆既日食を観測し論文を書いていますが、その中で、≪"コロナ"(仏語でcouronne)の様な光≫と記述しています」。こうなると、以下に論ずることは抜本的に見直しが必要となりますが、その余力がないので、そのままとしておきます。
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ウィキペディアは、デ・フェレールのオリジナル論文を典拠に挙げています。
■de Ferrer, Jose Joaquin (1809). “Observations of the Eclipse of the Sun, June 16th, 1806, Made at Kinderhook, in the State of New-York”. Transactions of the American Philosophical Society 6: 264. 【LINK】
リンク先の264ページ以下が、件の論文になります。
この中に以下のような形で「corona」という言葉が出てきます。
The disk had round it a ring or illuminated atmosphere, which was of a pearl colour, and projected 6' from the limb, the diameter of the ring was estimated at 45'. The darkness was not so great as was expected, and without doubt the light was greater than that of the full moon. From the extremity of the ring, many luminous rays were projected to more than 3 degrees distance. ― The lunar disk was ill defined, very dark, forming a contrast with the luminous corona; with the telescope I distinguished some very slender columns of smoke, which issued from the western part of the moon. The ring appeared concentric with the sun, but the greatest light was in the very edge of the moon, and terminated confusedly at 6' distance. (pp.266-7)
(太陽面は一種のリングないし輝く大気に囲まれていた。それは真珠色をして、辺縁部から角度6分のところまで広がり、リングの直径は45分と推定された。暗闇は思ったほどではなく、間違いなく満月のときよりも明るかった。リングの端からは、多くの光線が3度以上の距離まで伸びていた。一方、月面はぼんやりとして非常に暗く、明るいコロナとは対照的だった。望遠鏡を使って、私は月の西側から放出された非常に細い煙の柱を識別した。リングは太陽と同心円状に見えたが、最も明るいのはちょうど月の端の部分で、角度6分の距離でぼんやりと終っていた。)
デ・フェレールの言いたいことは、同誌の巻末に載っている以下の挿図を見ると、よく分かります。
(Transactions of the American Philosophical Society 6(1809)巻末に収録)
この「corona」という語は、同じ「luminous corona」という形で、p.275にもう1回出てきます。でも、上では「明るいコロナ」と一応訳したんですが、思うにこれは文字通り「光の王冠」という、一種の比喩的修辞に過ぎず、そのように訳すべきではないか?…という疑念が、私の中にくすぶっています。
というのも、文章の前後を見ても、彼が「コロナ」を、天文学上の新語として特に意味づけている箇所はありませんし、上図の説明にあたる箇所(p.274)には、次のような簡単な記述があるだけで、「コロナ」に全く言及されていないからです。
「図版6第1図は、皆既日食を描いたものである。ここで月の周りの輝くリング(luminous ring)は、日食の最中に見えたままを正確に描いたもので、また月面中に見える光は、太陽光線が最初に出現するよりも、6.8秒だけ先行していたと述べるにとどめよう。」(p.274)
(長くなったので、ここで記事を割ります。この項続く)
昼と夜 ― 2020年01月09日 21時03分58秒
こんな玩具を買いました。
(棚から出すのが面倒なので、今日の写真はすべて商品写真の流用です)
戦後の東ドイツ製で、おそらく1950~60年代ものでしょう。タイトルの「Sonne-Mond-schießen」は、英語でいうと「Sun-Moon-shooting」の意。
吸盤のついたおもちゃの弓矢で、太陽と月の的を狙う室内ゲームです。
的に矢が当たると、太陽と月がくるくる入れ替わるのを面白がるという、至極他愛ない遊びですが、そこには昼と夜、光と闇の闘争という原始神話めいた構造がほの見えます。
★
ここで気になるのは、昼間の太陽はいいとして、「夜の顔」が月でいいのかどうか。
地球から見る月は、星座の間を縫うようにして、天球上を1年間に約12周回ります。もちろん、月が地球の周りを、1年で約12回まわっているからです。
太陽も含めて考えると、その過程で<太陽―月―地球>の位置関係になることもあるし、<太陽―地球―月>の順になることもあります。前者は太陽と共にある月、言うなれば「昼間の月」です。そして後者が、太陽とは反対に位置する「夜の月」。(月相でいえば、前者は新月の前後半月、後者は満月の前後半月です。)
結局のところ、月が顔を見せるのは昼も夜も半々で、特に夜の存在とするには当たらないのですが、どうしても夜の月のほうが目立つし、月相から言っても明るいフェーズなので、夜の顔っぽく思えるのでしょう。この月と夜の結びつきは、古今東西共通するもので、きわめて強固に人類の脳裏に刻み込まれた観念のようです。
★
ところで、月は昼間に出たり、夜に出たりするのに、なぜ太陽は昼間にしか出ないのか分かりますか? これは小さい子供に訊いても良いし、ボーッとしている大人に訊いても面白いかもしれませんね。
答はもちろん「太陽が出ている時間帯を昼間と呼ぶから」です。
でも、これは見かけほど馬鹿々々しい問いでもなくて、こういうところから、人はふと「我思う、故に我あり」の理を悟ったりするものです。
太陽シミュレーター ― 2020年01月08日 21時12分34秒
先日来、星が空をぐるっと一周する時間は23時間56分だという話をしています。
では、改めて24時間は何を意味してるのか…といえば、こちらは太陽が空を一周する時間です。そもそも太陽の日周運動を基準に、昔の人が編み出したのが、24時間制です。
ただ、これも厳密に言うと、太陽の日周運動にも季節による遅速があって、常に24時間というわけではありません。平均すると24時間ということです(地球の楕円軌道や地軸の傾きのせいです)。
そうした太陽の動きを、いちばん単純に模した時計を見つけました。
24時間表示の1本足の時計。時針のみで分針はありません。
これ以上ないというぐらいシンプルな構造ですが、これを見ていると、いろいろ考えさせられます。
真ん中を水平に区切る境界は大地です。
大地より上に太陽があれば昼、地面の下に沈めば夜で、それが太陽と月の絵でシンボライズされています。
そして、太陽の動きを表現するのは、この針の動きそのものです。
この時計の中の世界では、毎日朝6時に日が昇り、12時に南中し、18時に日没を迎えます。
実際、赤道付近や、日本でも春分や秋分の頃は、こんな風に太陽が動くわけで、太陽は天然の巨大な時針であり、太陽の動きを模して時計が生まれたことが、これを見ると素直に納得できます。
でも、ここから先はどうか?
この単純なからくりを、さらに正確な太陽シミュレーターとするには、どこを改良すればよいのか?…ということになると、話は途端に難しくなります。私にも何をどうればいいのか分かりませんが、その試みは、たぶん古代の天文学の発展のあとをなぞることになるでしょう。
ちなみに、メーカーはスヴァールバル社(Svalbard Watches Ltd.)。
タックス・ヘイヴンの関係で、キプロスが会社所在地になっていますが、実際の本拠はイギリスのようです。
日食を愛でる ― 2019年01月07日 21時55分37秒
昨日は部分日食でしたが、私は最後の寝正月を優先したので、頭上の天体ショーを楽しむことなく、寝床でグーグー寝ていました。
何はともあれ、震えるような寒さの中でも、一陽来復の春の到来。
寒期の今だからこそ、お日様を見上げて、巨大な恒星が生み出す膨大な光と熱を想像しつつ、その確かな片鱗が、いま自分の身体に降り注いでいるのだ…と、しみじみ実感することができます(夏場は、とてもそんな余裕は持てないでしょう)。
★
日食といえば、最近、こんな素敵な品を見つけました。
真鍮、ピューター、銅、三色の金属素材を組み合わせて作られた「日食ブローチ」(左右の幅は6.8cm)。
ブローチにはこんな説明書も同梱されており、これが見てくれだけでなく、正確に食現象を再現したアクセサリーであることが分かります。天文絡みのイベントに赴く際、こんなのをさりげなく身に着けたら、ちょっと気が利いているかもしれませんね。いわば胸元を飾る天体ショーです。
(綾なす半影と本影、皆既食と部分食)
宇宙の謝肉祭(その4) ― 2017年11月14日 23時05分24秒
これまたエクスに登場した天文モチーフの山車。
題して、「月の恋人たち(Amoureux de la lune)」。
キャプションには年次も回数も記載がありませんが、消印から1915年の出し物と分かります。
それにしても、これは何なんでしょう?
アンパンマン的な何かと、バイキンマン的な何かを、大勢の天文学者が望遠鏡で覗いている情景ですが、いったいこれは何を言わんとしているのか?
(一部拡大)
そのコスチュームとタイトルを見比べて、じっと考えた結論として、これは「太陽と月の結婚」である<日食>を表現しているのではないかと思いつきました。つまり、白いのが太陽、黒いのが月で、彼らがひたと頬を寄せ合うとき日食が起きる…という、古くからのイメージを表現した出し物という説です。
(Pinterestで見かけた出典不明の画像)
ただ、この前後にフランスで皆既日食が見られたら、話がきれいにまとまるのですが、どうもそういう事実はなくて、1912年4月17日に観測された皆既日食(+金環食のハイブリッド日食)が、ちょっとそれっぽく感じられる程度です。

(パリ天文台が行った飛行船観測による画像。
まあ、いくら100年前でも、3年前の出来事が「時事ネタ」になることはないでしょうから、これは特定の日食を表わしているというよりも、天文趣味に染まった山車の作り手の脳裏に、この年はたまたま日食のイメージが浮かんだ…ということかもしれません。
★
エクスの町における「宇宙の山車」の始点と終点は不明ですが、少なくとも1910-12年と1915年に登場したのであれば、当然、中間の1913-14年にも作られたでしょうし、その前後も含め、まだまだ奇想の山車はあるはず…と睨んでいます。
今後も類例が見つかったら、随時ご報告します。(我ながら酔狂な気はしますが、まあ実際、酔い狂っているのですから仕方ありません。)
(この項いったん終わり)
空の旅(15)…日食地図 ― 2017年05月04日 10時23分20秒
今回の「空の旅」はレプリカも多くて、ちょっと展示に弱さがありました。
それを補う、何かアクセントになるものを入れたいと思って、19世紀初めに出た美しい「日食地図」をラインナップに加えました。
(販売時の商品写真を流用)
■Cassian Hallaschka(著)
『Elementa eclipsium, quas patitur tellus, luna eam inter et solem versante
『Elementa eclipsium, quas patitur tellus, luna eam inter et solem versante
ab anno 1816 usque ad annum 1860』
(地球と月、そしてそれらが巡る太陽との間で生じる1816年から1860年までの
(地球と月、そしてそれらが巡る太陽との間で生じる1816年から1860年までの
日食概説)
「1816年にプラハで出版された日食地図。1818年から1860年にかけて予測される日食の、食分(欠け具合)と観測可能地点を図示したもの。日食の予報は、天文学の歴史の中でも、最も古く、最も重要なテーマのひとつでした。」
オリジナルは107ページから成る書籍ですが、手元にあるのは、その図版のみ(全22枚ののうちの11枚)を、後からこしらえたポートフォリオ(帙)に収めたものです。
その表に貼られているのは、オリジナルから取ったタイトルページで、図版はすべて美しい手彩色が施されています(各図版のサイズは、約25.5cm×19.5cm)。
(タイトルページに描かれた天文機器)
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ここでネット情報を切り貼りして、補足しておきます。
著者のフランツ・イグナーツ・カシアン・ハラシュカ(Franz Ignatz Cassian Hallaschka、1780-1847)は、チェコ(モラヴィア)の物理学者。
ウィーンで学位を取り、母国のプラハ大学で、物理学教授を長く勤めました。今回登場した『日食概説』も、同大学在職中の仕事になります。
上記のように、日食の予報は洋の東西を問わず、天文学者に古くから求められてきたもので、その精度向上に、歴代の学者たちは大層苦心してきました。
そうした中、ハラシュカが生きた時代は、ドイツのヴィルヘルム・ベッセル(1784-1846)や、カール・ガウス(1777-1855)のような天才が光を放ち、天文計算に大きな画期が訪れた時代です。ハラシュカの代表作『日食概説』も、日食計算の新時代を告げるもので、そうした意味でも、「空の旅」に展示する意味は大いにあったのです。
さらに、この地図の売り手が強調していたのは、当時まだ未踏の北極地方の表現が、地図史の上からも興味深いということで、確かにそう言われてみれば、この極地方のブランクは、科学の進歩における領域間の非対称性を、まざまざと感じさせます。(北極以外も、このハラシュカの地図には、16世紀の地図のような古拙さがあります。)
遠くの天体の位置計算がいかに進歩しようと、足元の大地はやはり生身の人間が目と足で確認するほかないのだ…などと、無理やり教訓チックな方向に話を持って行く必要もないですが、当時はまだ広かった世界のことを思い起こし、そこから逆に今の世界を振り返ると、いろいろな感慨が湧いてきます。
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▼閑語(ブログ内ブログ)
ハラシュカの地図じゃありませんが、生活者たる身として、遠い世界と同時に身近な世界のことも当然気になります。
安倍氏とその周辺は、公然と改憲を叫び、共謀罪の成立を目指しています。
その言い分はすこぶるウロンですが、それを語る目元・口元がまたウロンです。
何せ、スモモの下では進んで冠を正し、瓜の畑を見ればずかずかと足を踏み入れ、そして袂や懐を見れば、何やらこんもり重そうに膨れている…そんな手合いですから、その言うことを信じろと言う方が無理です。
彼らは冠よりもまずもって身を正すべきです。
議論は全てそれからだと私は思います。
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