抱影の短冊2024年10月06日 08時14分34秒

野尻抱影は、あの世代の文人にしては、短冊をあまり書かなかった人だと思います。彼は無数の随筆を書き、それが散文詩の域に達している感もありますが、あまり俳句や短歌の類は詠まなかったので、短冊を乞われても断っていたのかもしれません(一応、「銅駝楼」という俳号を持っていましたが、「どうだろう?」というのは、あまり真面目に付けたとは思えません)。

ですから、先日抱影の短冊を目にしたとき、「おお、これは珍しい」と思い、そそくさと購入の手続きをとりました。


 雪すでに 野麦を断てり 稲架の星  抱影

金砂子を散らした雲紙短冊に抱影が自句を筆で記したもので、抱影の肉筆物はたいていペン書きですから、筆文字というだけでも珍しい気がします。


野麦に註して「(峠)」とあるので、これは飛騨高山と信州松本を結ぶ野麦街道の最大の難所である「野麦峠」を詠んだものです。信州に出稼ぎに行く製糸女工の哀話を記録した山本茂美(著)『あゝ野麦峠』で全国的に有名ですが、この本が出たのは1968年と意外に遅いので、たぶん抱影の句の方が同書に先行しているでしょう。

(『新版 あゝ野麦峠』、朝日新聞社、1972)

(野麦峠関連地図。山本上掲書より)

季語は雪、もちろん冬の句です。里に先駆けて降る雪で、早くも野麦峠は通行不能となり、空には稲架(はざ)の星が冷たい光を放っている…というのです。

ここにいう「稲架の星」とは、「稲架の間(はざのま)」のことで、これはオリオンの三つ星をいう飛騨地方の方言です。以下は抱影の『日本の星 星の方言集』からの引用です(初版は1957年、中央公論社。ここでは2002年に出た中公文庫BIBLIO版を参照しました)。

 「ハザは稲架で、普通はハサである。田の中やあぜに竹や木を組んで立て、刈った稲をかけて乾すものである。ハザノマは、おそらく、三つ星が西へまわって横一文字になった姿に、三本の柱でくぎったハサの横木を見たものであろう〔…〕

 わたしは、この名から信飛国境の連山の新雪が朝夕の眼にしみて来るころ、もう棒ばかりとなったハザの彼方に、三つ星のさし昇る光景を思い浮かべた。その後高山に住んでいた女性から、そこで見る三つ星は、乗鞍の平たい頂上から現れると報ぜられて、この方言の実感がいっそう濃くなった。そして、それ以来長くたつが、他の地方からはハサノマ、または類似の名を入手していない。方言は面白いものである。」

(文庫版 『日本の星「星の方言集」』 pp.228-9より)

上の句はまさに抱影が「信飛国境の連山の新雪が朝夕の眼にしみて来るころ、もう棒ばかりとなったハザの彼方に、三つ星のさし昇る光景を思い浮かべ」て詠んだ想像句でしょう。しかし想像句とはいえ、彼は若い頃、甲府中学校の英語教師を務め、登山にも親しんでいましたから、山ふところで見る星の姿には深い実感がこもっている気がします。

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ところで、この短冊でひとつ気になることがあります。
それは、こうした藍と紫の雲形を漉き込んだ短冊を用いる場合、空を意味する藍が上、大地を意味する紫を下とするのが定法だからです。それをあえて天地逆に用いるのは、人の死を悼むような特殊な場合に限られるそうなので【参考LINK】、抱影がそれを知ってか知らずか、もし知ってそうしたなら、何か只ならぬものをそこに感じます。

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…というような情趣が、いわゆる「和星」の味わいで、私はしみじみいいなあと思うんですが、どうでしょう、やっぱり地味でしょうか。

洋星と和星2024年10月04日 18時32分13秒

先日、『野尻抱影伝』を読んでいて、抱影の天文趣味の変遷を記述するために、「洋星」「和星」という言葉を思いつきました。つまり、彼が最初、「星座ロマン」の鼓吹者として出発し、その後星の和名採集を経て、星の東洋文化に沈潜していった経過を、「洋星から和星へ」というワンフレーズで表せるのでは?と思ったのです。


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骨董の世界に西洋骨董と和骨董(中国・朝鮮半島の品を含む)の区別があるように、星の世界にも「洋星」と「和星」の区別がある気がします。もちろん星に洋の東西の区別はありませんが、星の話題・星の文化にはそういう区別が自ずとあって、ガリレオやベツレヘムの星は「洋星」の話題だし、渋川春海や七夕は「和星」の話題です。

(Wikimedia Commons に載っている Occident(青)vs. Orient(赤) の図)

もっとも洋の東西とはいっても、単純ではありません。
たとえばエジプトやメソポタミアは「オリエント」ですから、基本的に東洋の一部なんでしょうが、こと星の文化に関しては、古代ギリシャ・ローマやイスラム世界を通じて、ヨーロッパの天文学と緊密に結びついているので、やっぱり「洋星」でしょう。


じゃあ、インドはどうだろう?ぎりぎり「和星」かな?
…と思ったものの、ここはシンプルに考えて、西洋星座に関することは「洋星」、東洋星座に関することは「和星」と割り切れば、インドは洋星と和星の混交する地域で、ヘレニズム由来の黄道12星座は「洋星」だし、インド固有の(そして中国・日本にも影響した)「羅睺(らごう)と 計都(けいと)」なんかは「和星」です。

その影響は日本にも及び、以前話題にした真言の星曼荼羅には黄道12星座が描き込まれていますから、その部分だけとりあげれば「洋星」だし、北斗信仰の部分は中国星座に由来するので「和星」です。つまり、星曼荼羅の小さな画面にも、小なりといえど洋星と和星の混交が見られるのです。


近世日本の天文学は、西洋天文学の強い影響を受けて発展したものの、ベースとなる星図は中国星座のそれですから、やっぱり「和星」の領分です。いっぽう明治以降は日本も「洋星」一辺倒になって、「銀河鉄道の夜」もいわば「洋星」の文学作品でしょう。

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とはいえ世界は広いので、「洋星」と「和星」の二分法がいつでも通用するわけではありません。サハラ以南のアフリカや、中央アジア~シベリア、オセアニア、あるいは南北のネイティブアメリカンの星の文化は、「洋星」とも「和星」とも言い難いです。

非常に偏頗な態度ですが、便宜的にこれらを「エスニックの星」にまとめることにしましょう。すると、私が仮に『星の文化大事典』を編むとしたら、洋星編、和星編、エスニック編の3部構成になるわけです。一応これで話は簡単になります。

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「洋星」と「和星」をくらべると、一般に「洋星」のほうが人気で、「和星」はちょっと旗色が悪いです。まあ「洋星」の方が華やかで、ロマンに満ちているのは確かで、対する「和星」はいかにも地味で枯れています。

しかし抱影と同様、私も最近「和星」に傾斜しがちです。
「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」という古川柳がありますけれど、元気な若い人はまだ見ぬ遠い世界に憧れ、老いたる人は懐かしい故郷に自ずと惹かれるものです。

たしかに私は抱影ほど伝統文化に囲まれて育ったわけでもないし、幼時からなじんでいるのはむしろ「洋星」ですが、それでもいろいろ見聞するうちに、抱影その人へのシンパシーとともに、「和星」思慕の情が徐々に増してゆくのを感じています。

野間仁根とタコと星(後編)2024年09月29日 12時03分48秒

(本日は2連投です。前回のつづき)

さて、それを読んだ草下氏の所感が「野間仁根と星」です。


日付けは昭和22年(1947)10月23日、大倉土木株式会社の社用箋にペン書きされています。

昭和22年というのは、草下氏が大学を卒業した年。
まだ大学生だった4月、「銀河鉄道の夜」に出てくる星について書いた文章が、岩手の「農民芸術」誌に掲載され、これは氏にとって自分の文章が活字化された最初の経験です。6月には上野の科博で野尻抱影と初対面の挨拶を交わし、その自宅を訪問しています。そして10月から父親のコネで大倉土木(現・大成建設)に入社したものの、経理の仕事がまったく性に合わず、翌年「子供の科学」編集部に転職。

そんな時期に、22歳の若者が仕事のつれづれに書いた文章が「野間仁根と星」です。あくまでも個人的感想として書いたもので、たぶん活字化されることもなかったでしょう。用箋2枚のごく短い文章なので、これも全文書き写しておきます。

「野間仁根と星  「改造22.9より」

仁根といふのはどう読むのか知らなくて、私はジンコン、ジンコンと呼んでゐた。絵は上手なのか、下手なのか、サッパリ分らないが、この人とか、小山内龍(死んでしまった)、清水嵓の動物画、鈴木信太郎などの絵には何となく好感を持ってゐる。

最近改造九月号の広告を見てゐたら、「タコと星」野間仁根といふ標題を見つけた。「タコと星」か、「イカと星」なら分らんこともないがとくびをひねりながら、人に借りて見たら、何処かの海岸でタコを捕へてよろこぶ話が書いてあり、その晩はすてきな星空で、私は何んにも星のことは知らないが、小学生全集の星の巻をたよりに楽しみにしてゐるとか書いてあり、子供二人が砂浜に坐り、無雑作な天の川が流れ、天の川のわきにカシオペアとぺガススがハッキリ書いてあるのを見て、思はず微笑した。

その時ふと、新潮社版の宮澤賢治童話集「銀河鉄道の夜」のさし絵を書いたのはこの人だっけと思った。星の絵などといふものは、どうせいくら実感を出したところで、本物の星と比較するに由なき様な代物なのだから、かへって仁根のこんな風な絵の方が面白味もあるし、我々などにはともかく絵画の中に星座を発見出来たといふことは、日本画壇では始めてなのではないかと思はれて嬉しくなった。

ところが最近、友人と数寄屋橋際の日動画廊といふのをのぞいてみたら、野間仁根の「白夜」「星」と題して二つの絵に星が描かれてあるのを発見した。「星」の方は何んの星座を書いたものかよく分らなかったが、「白夜」と題する方は昭和二十二年の七月二十日(?)とかの夜の作品とかで、何かビルマか南方の風俗を思はせる人物と海浜の景色の上に、一杯に例の如き荒ッポイ星座がひろがってゐたが、それは正しく蝎座であり、アンタレスは赤く、木星もハッキリと輝いており、その間に六、七日位の月が書かれてあった。その他の星座も、特に射手座などもシッカリ書かれてゐる筈なのであらうが、ハッキリ認められなかったが、ともかく蝎座だけは見事に現れてゐた。

絵画としての星座は本当にこれが始めてなのではないか。が、それにしてももう少しなんとか他に書きようはないものか。仁根の絵は、好感は持つが、私としては星の美をそこなふ以外の何物でもないやうな気がするのだが。

氏の星に対する開眼をよろこび、一日も早く小学生全集からおそらく未知の野尻さんへと進展することを期待する。」

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野間を画家として評価しつつ、その星の絵にはちょっと点数が辛いですね(私も同じ意見です)。そして、草下氏も野間仁根を『銀河鉄道の夜』の挿絵画家として想起した…というのも嬉しい点で、時を隔てて同じ思路をたどった「同志」のような気がします。

草下氏は1982年に『星の文学・美術』(れんが書房新社)を上梓し、その「あとがき」の中で、「なお、この本に取り上げた対象は、古典古美術が大部分で、明治以後の近代文学・美術については、未だかなりの資料をあたためているのだが、全体の体裁を考慮して、割愛させていただいた。それらについては、また稿をあらため、他日を期したいと思っている。」と書いています。


氏が言う「かなりの資料」は、今後、草下資料の中に見つかるかもしれませんが、結局、本の形で実現することはなく、草下氏も1991年に亡くなられました。でも、その構想の中では、きっと野間仁根についても1章を割り当てていたことでしょう。

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稲垣足穂に「銀河鉄道の夜」を読ませたのも草下氏だし、抱影と足穂を引き合わせたのも草下氏です。ここでは抱影と野間を直接引き合わせたわけではありませんが、このあと野間は現に抱影と親しくなり、その著書の挿絵まで手がけるわけですから、事態は草下氏の予言どおりに進んだことになります。

草下氏は独特の嗅覚で、互いにくっつきそうな素材を見つけては、自らがその結合を促し、それまで存在しなかった化合物や合金を生み出しました。一種の触媒的存在であり、それこそがジャーナリストの本領なのかもしれませんが、それにしても草下氏というのはつくづく稀有な人だなあと思います。

野間仁根とタコと星(中編)2024年09月29日 11時57分25秒

今回の「野間仁根とタコと星」というタイトル。「野間仁根と星」はいいとして、「タコ」っていったい何だね?…と思われるかもしれませんが、野間仁根は「タコと星」という一文をかつて草しており、それを見た草下英明氏が今度は「野間仁根と星」という一文を書いているので、両者を合体させたわけです。

ここであらかじめお断りしておくと、私は草下資料を今年の6月に引き継ぎ【LINK】、資料内容を確認する際に、上記の表題を見て知ってはいました。でも、その内容に目を通すのは今日が初めてです。「野間仁根とタコと星(前編)」を書いた時点でも、まだ読んでいませんでした。

こういう行き当たりばったりが許されるのが個人ブログのいいところで、そこにライブ性やグルーヴ感が生まれるわけです(適当なことを書いています)。
しかし、実際にそれを読んでひどく驚きました。
あまりにも予定調和的な内容だったからです。

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まず、野間仁根の「タコと星」を見てみます。
これは雑誌「改造」昭和22年(1947)9月号に掲載されたものです。私は現物を見ていませんが、草下氏がその一節を書き写したメモがあるので、それを孫写しします。


「タコと星  野間仁根  改造.22.9

…私の土から掘りとったのは、穴ダコといふのでまるで小さかった。この晩、星が美しかった。

夜釣に出て、この無数の星に対すると目じるしがない為に、いつも新しく、なじみがなかった。それで心淋しかったのであるが、近来やゝ目じるしが出来たのである。妻も子供のチビまでが「星を見に出るんですか」といふやうになった。亦やってゐるなとでも思ふのであらう。とにかく星の夢を二回見たのである。夜が更けやうが、明け方であらうが、楽しみが一つ出来たのである。小学生全集の星の巻が唯一の手引である。これで星の小学生である。」

昭和4年(1929)『天文の話・鉱物の話』(小学生全集62)。「小学生全集」と銘打ったシリーズ物は、戦後も保育社や筑摩書房から出ていますが、年代的に合致するのは、この戦前に出た文藝春秋社・興文社の共同発行版だけです。「天文の話」の章は、山本一清の執筆)

前段がはしょられているので、文意がはっきりしませんが、夜釣りやタコ捕りの折に見上げた星空の美しさに目を見張り、遅まきながら小学生全集で星座入門をした経緯を訥々と綴った文章です。

(長くなるので、ここで記事を割ります。後編につづく)

野間仁根とタコと星(前編)2024年09月27日 14時10分15秒

前回、野尻抱影の『星三百六十五夜』を採り上げた際、その挿画を担当した野間仁根(のまひとね/じんこん、1901―1979)の名前がチラッと出てきました。

(初版(1955)・表紙絵)

(同・タイトルページ挿画)

(その後、恒星社版の外函デザインにもなった双子座の図)

これら童画風の絵が上手いのかどうか、なんとなく素人目には下手にも見えますが、野間は専門的な画家修行を経て、独自の画風を追求した末に、こうした画境に到達したので、見る人が見れば、やはりそこに優れた芸術性があるのでしょう。

その経歴をウィキペディアの記述を切り貼りすれば、以下の通りです。

 「大正~昭和の洋画家。明るい色彩の瀬戸内海の油絵で知られる。愛媛県伊予大島の津倉村(現・今治市)で生まれ、東京美術学校(現・東京芸術大学)に学ぶ。1928年(昭和3年)の第15回二科展に出品した『夜の床』で樗牛賞を受賞。1933年(昭和8年)に二科会へ入会。1955年(昭和30年)に二科会を去り、一陽会を創設。釣りと海を愛し、東京に転居後も故郷・瀬戸内の海を描き続けた。画業を通じて熊谷守一や藤田嗣治と、挿絵の仕事等を通じて井伏鱒二や川端康成などと交流があった。」

抱影が自著の挿絵を野間に依頼した事情は、『星三百六十五夜』の初版「あとがき」に簡潔に記されています。

 「野間仁根氏は瀬戸内海の魚介と、併せて星を描くことでは画壇第一人である。私は十年前、この書のプランと共に、氏を意中の人に選んでゐた。遂にその望みがかなって、十二ヶ月の扉画と美しい装幀もしていただけたことは喜びに堪へない。また、これによってこの著に海の星の新鮮な息吹をも加へることができた。」

さらに、『野尻抱影伝』には、抱影と野間の交友のきっかけを伝える私信が引用されており(p.226)、両者の出会いは、1950年(昭和25)にさかのぼるようです。

 「二、三日前、銀座へ出て、二科で星の画を多くかいている野間仁根といふ人の画会を見ました。瀬戸内の大島の人で、ぼくの本からその趣味に入ったさうで、ひどく喜んでくれ一時間近く話しました」(中野繁宛、昭和25年10月24日)

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そして野間は、抱影の『星三百六十五夜』ばかりでなく、賢治の『銀河鉄道の夜』初版本の装丁と挿絵も手がけています。


日本の天文趣味史における最重要著作2冊を、その筆で飾ったのですから、彼は海の画家であるばかりでなく、抱影も言うように「星の画家」と言って差し支えないでしょう。

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野間のことが気になったのは、草下資料にもその名を見出したからです。
些末な話題のような気もするのですが、ここは興味の赴くままに筆を進めます。

(この項つづく)

『星三百六十五夜』の書誌2024年09月24日 18時11分42秒

石田五郎氏『野尻抱影伝』(中公文庫)を手に取り、昨日も触れた抱影の『星三百六十五夜』との出会いのくだりを読んでいて、「あれ?」と思ったことがあります(最近「あれ?」が多いですね)。

ちょっと長くなりますが、以下に一部を引用します(引用文中、読みやすさを考慮し、年代を示す漢数字をアラビア数字に改めました。太字は引用者)。

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 「抱影の『星三百六十五夜』が中央公論社から出版されたのは昭和31(1956)年のことである。「お前、こんな本知っているか」といって突然私の目の前にさし出されたのが赤い表紙の真四角のこの本で、開いてみると扉には星座の絵がある。」(p.220)

 「〔…〕さりとて助手の身分で楽に買える値段でもなく、奥付をしっかり目に入れて、帰り途の本屋で探した。麻布飯倉から虎の門、新橋、銀座、有楽町と大きな本屋の店頭で何軒もの「立ちよみ」のハシゴをした。〔…〕立ち読みの姿勢で最後の頁を閉じた。しかし四百円の定価は手が出せない。」(pp.226—9)

続いて30年後、思い出深いこの初版本に古書市で再会したくだり。

 「〔…〕何とか初版本が手に入らぬものかと心がけていたが、〔…〕昭和61年、池袋東武の古書セールの初日の雑踏の中で出会った。めぐりあったが百年目、まさに盲亀の浮木、ウドンゲの花である。六千円で「親の仇」を手に入れた。〔…〕カラフルな記憶は茶色の絵具を刷毛ではいたような外函の装幀であった。真紅の表紙に黒点を点じた蛇遣い座の絵も記憶の通りであった。」(pp.229-30)

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今回の「あれ?」は、私の手元にある『星三百六十五夜』(下の写真)は、1956年ではなく1955年の発行であり、定価も400円ではなく800円、そして真紅の表紙ではなく青い表紙だったからです。

(表紙絵は、野間仁根による水瓶座と南の魚座)

(裏表紙には蠍座が描かれています)

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世はネット時代。机の前に座ってカチャカチャやるだけで、上の疑問はすぐ解けました。その書誌を概観してみます。(なお、以下に掲載の画像は自前の写真ではなく、各種の販売サイトで見かけた画像を寸借したものです。各撮影者の方に深甚の謝意を表します。)

『星三百六十五夜』は出版社を変え、判を変えていくたびも出ていますが、その「本当の初版」は1955年(昭和30)に出ています。それと石田氏が述べていた1956年(昭和31)版の奥付を並べた貴重な画像があって、これを見てようやく事情が分かりました。


上に写っているのは、昭和30年11月25日印刷、同年12月1日発行「本当の初版」で、青い表紙の本です。1500部の限定出版で定価は800円。これが私の手元にある本です。

そして下は昭和31年2月20日印刷、同年2月25日発行で、特に「新装版」とも「第2版」とも銘打っていないので、これだけ見ると「初版」のように見えますが、正確にいえば「普及版・初版」で、定価は半額の400円。表紙は赤です。

(1956年・普及版表紙)

(外函のデザインは、限定版も普及版も同じ)

あとから気づきましたが、この辺の事情は、1969年に恒星社から出た「新版」に寄せた抱影自身の「あとがき」にすでに書かれていました。

 「『星三百六十五夜』は初め、敗戦後の虚脱感から救いを星空に求めて日夜書きつづけた随筆集であった。それが図らずも中央公論社から求められて、一九五五年の秋に豪華な限定版を出し、次いで普及版をも出したその後しばらく絶版となっていたが、六〇年の秋、恒星社の厚意で改装新版を出すこととなり、添削を添えた上に約二十篇を新稿と入れ代えた。
 ここにさらに新版を出すに当たって再び添削加筆し、同時にこれまで「更科にて」の前書きで配置してあった宇都宮貞子さんの山村の星日記をすべて割愛して、二十四篇の新稿とした。従ってスモッグの東京となってからの随筆も加わっている。」

…というわけで、石田五郎氏の記述にはちょっとした事実誤認があります。

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この2冊を皮切りに、『星三百六十五夜』はいろいろな体裁で出版され、上記のように時期によって内容にも少なからず異同があります。本書は多くの星好きが手にした名著ですが、人によって違ったものを見ている可能性があるので、コミュニケーションの際には注意が必要です。以下、参考として発行順にそれぞれの画像を挙げておきます。

(恒星社厚生閣「新版」、1960)

恒星社から最初に出た版です。
恒星社版は、この後も一貫して横長の判型を採用していますが、おそらく俳句歳時記にならった体裁だと思います。上述のとおり、改版にあたり約20篇が新しい文章に置き換わっています。

(恒星社厚生閣「愛蔵版」、1969)

恒星社から出た1960年版をもとに、さらに添削加筆したもの。
これ以前の版では「更科にて」と前書きして、信濃在住の宇都宮貞子さんが綴った星日記から、毎月2、3篇ずつを選んで収録していましたが、これらをすべて削除し、24篇を抱影自身の新稿に置き換えてあります。

(中央公論社, 1978年1月~2月)

中公から文庫版で出た最初のもので、上・下2巻から成ります。
カバーデザインは初版の外函のデザインから採っていますが、内容は恒星社から出た新版を底本にしているのでは?と想像するものの、未確認。

(恒星社厚生閣「新装版」、1988)

外函のデザインが変わりましたが、中身は69年版と同じです。

(恒星社厚生閣「新装版」、1992)

再度の新装版。外函デザインが本体に合わせて横長になりました。

(中央公論新社、2002年8月~2003年5月)

この間、中央公論社は経営難から読売グループの傘下に入り、「中央公論新社」として再出発しました(1999)。その3年後に、中公文庫BIBLIOから「春、夏、秋、冬」の4巻構成で出たバージョンです。

(中央公論新社、2022)

一昨年、クラフト・エヴィング商會のブックデザインで出た最新版。
再び「春・夏」、「秋・冬」の2巻構成に戻りました。

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みなさんの記憶の中にある、あるいは書架に並んでいる『星三百六十五夜』はどれでしょう? こうして振り返ると、本当に息長く愛されてきた本で、まさに抱影の代表作と呼ぶにふさわしい作品です。来年で出版70年を迎えますが、これからもきっと長く読み継がれることでしょう。

『野尻抱影伝』再読2024年09月23日 10時28分36秒

野尻抱影(1885-1977)のことについて書くたびに、これまでたびたび石田五郎さん(1924-1992)『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート、1989)から引用してきました。しかし、原著は古書でしか手に入らないので、読み手の方にとっても不便でしょうし、今では中公文庫で簡単に読めるので、今後はそちらを引用元として挙げようと思い、文庫版を購入しました。

(判型が四六判(188×127mm)からA6判(文庫本サイズ)に小さくなりました)

中公文庫版は2019年の初版で、『星の文人 野尻抱影伝』に改題されていますが、内容はオリジナルとまったく同じです(ただし、巻末の編集付記を読むと、底本中の明らかな誤植が訂正され、難読文字にルビが付加されている由)。

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それともう一つの違いは、文庫本の常として「解説」が最後に付いており、本書では国立天文台副台長(当時)の渡部潤一氏(1960-)がその筆を執られています。同じ本を買い足すのは一見無駄なようですが、この解説文だけでも、買ってよかったと思いました。

そこには渡部氏自身の少年期の思い出が綴られています。
天文熱が高まった小学校高学年の頃に出会った石田五郎さんの『天文台日記』
これを渡部氏は「人生を変えた本」と呼んでいます。

その後、氏が本格的に天文学を志して大学に入学した際、親族から贈られたのが、抱影の『星三百六十五夜』でした。古本屋で入手したらしい、その歴史を感じさせる装丁に最初は戸惑いながらも、読み出したらこの「傑作」に「一挙に“はまって”しま」い、これこそ『天文台日記』の原典ではなかろうかと思った…とも書かれています。


専門の天文学者であると同時に、当代一流の天文啓発家である渡部潤一氏に、抱影と石田五郎さんが強烈に影響していたと知って、深く感じるものがありました。美しい星ごころが、世代を超えて伝達していくさまがまざまざと伝わってきたからです。天文学ならぬ「天・文学(てんぶんがく)」の系譜は、まことに重層的です。

(石田五郎さんと抱影。1957年5月に行われたラジオ対談の一コマ。石田さんの追悼文集『天文屋 石田五郎さんを偲ぶ』より)

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その石田五郎さんが抱影の『星三百六十五夜』に出会った思い出も、この『野尻抱影伝』には書かれています。

それは『星三百六十五夜』の初版が出た、昭和31年(1956)のことで、当時の石田さんは30代初めで、東大天文学教室の助手。当時の東京天文台長・萩原雄祐(1897-1979)に、「お前、こんな本知っているか」と差し出されたのが『星三百六十五夜』でした。

さすがに「大先生」である萩原に貸してくれとも言えず、かといって助手の給料で気楽に買える金額でもなかったので(公務員の初任給が9000円の時代、この本は定価400円でした)、石田さんはその頃麻布にあった天文学教室からの帰り道、大きな本屋をはしごしながら、ついに立ち読みで読破したといいます。

その後、普及版が出て入手は容易になりましたが、思い出の初版を手に入れようと雌伏すること30年。ついに昭和61年(1986)に、古書市で「めぐりあったが百年目、まさに盲亀の浮木、ウドンゲの花」と勢い込んで購入した顛末が、『野尻抱影伝』には書かれています。

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ふたたび渡部潤一氏の解説に戻って、氏はこうも書いています。

 「本書の中で異色な章が「第十一話 冬来菜葉、春唐辛子」である。唯一、著者である石田氏が、野尻氏との交友について紹介し、珍しく感情を吐露しているからだ。そこには学者としてだけで無く、能楽や歌舞伎、狂言などを愛する文化人として、手紙のやりとりをしていたことが紹介される。〔…〕いずれにしろ、石田氏が野尻氏を継ぐ人物なのは、十分に納得できる内容だ。そこでの手紙のやりとりを含め、〔…〕野尻氏の知られざる側面を、石田氏は本書で余すところなく紹介している。」

私もさっそく「冬来菜葉、春唐辛子」を読み返し(ときにこの章題を読めますか?「ふゆきたりなっぱ、はるとうがらし」です。もちろん「冬来たりなば春遠からじ」のもじりで、抱影はこういう伝統的な言葉遊び、地口(じぐち)」が好きでした)、さらにほかの章も再読したのですが、昔読んだ時よりも一層深い味わいがありました。

齢をとったせいで、いろいろ経験を積み、心にひだを刻んだということもあります。
さらにそればかりなく、この間に関係するモノの集積が続いたせいで、単なるイメージにとどまらない、抱影や石田五郎さんの追体験ができるようになったこと、そして両氏のリアルな体温を感じられるようになったとことが、何にもまして大きいです。

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本書を再読して、モノの力は自分が思っていた以上に大きいのかもしれないなあ…とも思いました。

草下英明と宮沢賢治(3)2024年06月25日 21時21分14秒

昭和22年から23年にかけては、草下にとって変化の多い年でした。
昭和22年(1947)には、前述のとおり賢治についてまとめた文章が初めて活字化されたのをはじめ、野尻抱影に初めて会っています(それまでも手紙のやりとりはありました)。

六月二十一日 東京、上野の国立科学博物館で開催されていた天文学普及講座に野尻抱影先生の講演があるのを知って、聴講に参加。初めて野尻先生に挨拶。「家へいらっしゃい」などというお世辞に甘えて、二十九日、さっそく世田谷桜新町のお宅を訪問しているが、何を話したのか、聞いたのか、あがってしまって覚えがない。ただ、むにゃむにゃいって一時間ほど座っていただけだった。(『星日記』105頁)

(科博の天文ドーム。過去記事より)

抱影との絡みでいうと、8月にはこんな記述もあります。このとき草下は母校・都立六中の生徒を連れて、水泳指導教師という役割で千葉県館山付近に滞在していました。

八月一日 〔…〕この日、管理人のお爺さんから、「入定星」という星があることを訊いた。〔…〕もちろんこれは房総半島の南端一帯で「布良(めら)星」の名で知られる竜骨座のα(アルファ)カノープスの別名だ。しかも、江戸時代の文献にも、僧侶が死んで星になったという伝承が記載されているもので、後日、野尻先生に報告して、いたく喜ばれた。これでかなり先生の信用(?)を得たようである。「農民芸術」の原稿とともに学生生活の最後を飾るいいお土産であった。(同105—6頁)

こうして草下は学生生活を終え、社会人になります。当時の制度がよく分かりませんが、草下の場合、秋卒業だったようです、

十月一日 大学は出たが、就職先などまったくないので、いたしかたなく、大成建設(旧大倉組)に入社。経理課へ配属されてソロバンはじきをさせられた。父が長い間、大成建設の土木課にいて、そのコネでなんとか入れてもらったが、一銭、二銭が合ったとか合わないとか、およそ次元の異なる世界だった。二十五日、初めて給料をもらったが、金一三七五円五〇銭。(同106頁)

生活するために「いたしかたなく」建設会社の経理の仕事に就いてはみたものの、草下にはまるで肌の合わない世界で、1年もしないうちに転職を果たします。以下、昭和23年(1948)の『星日記』より。

七月九日 豊島区椎名町に在住の詩人、大江満雄氏の紹介で誠文堂新光社「子供の科学」編集長、田村栄氏に紹介されて会うことになった。なんとしてでも編集部に入りたく、野尻先生に推薦状を書いてもらったり、別な知人でポプラ社の編集長をしていた水野静雄さんには、誠文堂の重役だった鈴木艮(こん)氏にも口をきいてもらった。十日後、首尾よく入社が決定したが、あとでよく聞いてみると、他にも競争者がいたらしいのだが、私の立ちまわり方、根まわしが抜群だったらしく、その抜け目なさが買われたということだった。私の性格とまったくあべこべの面が認められたというのは、いまだに信じられない。二十日に大成建設に辞表を出し、八月二日には、めでたく「子供の科学」編集部員として初出社した早業である。(同112頁)

まだ一介の新米編集部員とはいえ、これが科学ジャーナリスト・草下英明が誕生した瞬間でした。草下はその立場を活かして、人脈を徐々に広げていきます。

十一~十二月 「子供の科学」編集の仕事は楽しかったが、なにしろたった三人でやっているので、目のまわるほど忙しく、日曜日などほとんど休んでいられなかった。〔…〕
ただ編集にかこつけて、天文関係者に会えるのが嬉しく、国立科学博物館の村山定男小山ひさ子鈴木敬信(海上保安庁水路局、のち学芸大学)、神田茂(日本天文研究会)、アマチュアの中野繁原恵、東京天文台の広瀬秀雄博士といった方々に初めてお目にかかったのも、この頃である。
(同113—4頁)

そればかりではありません。草下はこのブログと切っても切れないもう一人の人物とも、この年に会っています(「遭っています」と書くべきかも)。草下は上の記述に続けてこう記します。

だんぜん印象強烈だったのは、作家イナガキタルホ氏に会った時である。その日の日記から引用すると、次の如し。

十一月二十三日(月)晴 今日も晴れて暖かく、資源科学研究所へ行ってみたが、八巻氏に会えず、仕方なく戸塚をブラブラ。真盛ホテルへ行ってみる(新宿区戸塚一の五六七、今でも建物は残っているそうだ)。なんとイナガキタルホ先生あらわれる。よれよれの兵隊服に五十がらみのおやじ、ききしにまさる怪物なり。部屋には聖書と、二、三の雑誌と、三インチの反射鏡と少しの原稿用紙以外なんにもなし。いやはや、性欲論をひとくさり、美少年趣味は二週間前に転向せり、十八の女性と結婚するとか、何処(どこ)までホントかウソか。へんな喫茶店へ行って別れる。
(同114頁)

なんだか無茶苦茶な感じもしますが、何せ時代の気分は坂口安吾で、畸人型の文士が横行しましたから、足穂も遠慮なく畸人として振る舞えたし、世間もそれをもてはやしたのかもしれません。しかし“作家、畸なるがゆえに貴からず”、足穂の本分というか、真骨頂はまた少し違ったところにあり、だからこそ草下は足穂を終生敬慕したし、謹厳な野尻抱影にしても、後に足穂をひとかどの作家と認めることになったのでしょう。

(所番地が変わったせいで正確な場所がすぐには分かりませんが、図の左寄り「早稲田大学国際会議場 井深大記念ホール」の建つ区画が昔の早大戸塚球場の跡地で、その脇を通る「グランド坂」に真盛ホテルはあった由。名前は立派ですが、ホテルとは名ばかりの安宿です。)

(真盛ホテルの自室に坐す、昭和23年当時の足穂。過去記事より)

   ★

「草下英明と宮沢賢治」というわりに、今日は賢治のことが全然出てきませんでしたが、草下の賢治への入れ込みはまだ続きます。

(この項つづく)

夜空の大四辺形(3)2024年06月04日 18時20分20秒

この連載は長期・間欠的に続けるつもりですが、ひとつだけ先行して書いておきます。オリジナル資料を見ることの大切さについてです。

日頃、我々は文字起こしされた資料を何の疑問も持たずに利用していますが、やっぱり文字起こしの過程で情報の脱落や変形は避けられません。その実例を昨日紹介した野尻抱影の葉書に見てみます。


(文面はアドレス欄の下部に続いています)

これは前述のとおり石田五郎氏が『野尻抱影―聞書“星の文人伝”』(リブロポート、1989)の中で引用されています(291-2頁)。最初に石田氏の読みを全文掲げておきます(赤字は引用者。後述)。

 「処女著といふものは後に顧みて冷汗をかくやうなものであってはならない。この点で神経がどこまでとどいてゐるか、どこまでアンビシャスか、一読したのでは雑誌的で、読者を承服さすだけの構成力が弱いやうに感じた。特に星のは、天文豆字引の観がある。それに賢治氏の句を引合ひに出したに留まるといふ印象で、君の文学者が殺されてゐる。余計な科学を捨てて原文を初めに引用して、どこまでも鑑賞を主とし、知識は二、三行に留めるといいやうだ。吉田源治郎との連想はいい発見で十分価値がある。吉田氏はバリット・サーヴィス全写しのところもある。アルビレオもそれで、同時に僕も借りてゐる。「鋼青」は“steel blue”の訳だ。僕は「刃金黒(スティールブラック)」を時々使ってゐる。刃金青といひなさい賢治氏も星座趣味を吉田氏から伝へられたが、知識としてはまだ未熟だったやうだ。アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。「琴の足」は星座早見のαから出てゐるβγで、それ以上は知らなかったのだろう。「三目星」も知識が低かった為の誤まり、「プレシオス」は同じく「プレアデス」と近くの「ペルセウス」の混沌(君もペルシオスと言ってゐる)〔※〕「庚申さん」はきっと方言の星名と思ふ。(昭和二十八年六月二十九日)」

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石田氏は同書の別の所で、「抱影の書体は〔…〕独特の文字であるが、馴れてくるとエジプトのヒエログリフの解読よりはずっと易しい」とも書いています(304頁)。しかし、その石田氏にしても、やっぱり判読困難な個所はあったようで、上の読みにはいくつかの誤読が含まれています。


たとえば上の傍線部を、石田氏は「一読」と読んでいます。おそらく「壱(or 壹)読」と読んだ上で、それを「一読」と改めたのでしょう。でも眼光紙背に徹すると、これは「走読」(走り読み)が正解です。そのことは別の葉書に書かれた、文脈上確実に「走」と読む文字と比較して分かりました。

まあ、「走り読み」が「一読」になっても、文意は大して変わりませんが、次の例はどうでしょう。


石田氏の読みは「刃金青といひなさいですが、ごらんの通り、実際には「…といひたいです。「いひなさい」と「いひたい」では意味が全然違うし、抱影の言わんとすることも変わってきます。

それと、これは誤読というのではありませんが、抱影が賢治の名前を「健治」に間違えているところがあって、石田氏はそれに言及していません。


抱影はマナーにうるさい人で、別の葉書では、草下氏が抱影の名前を変な風に崩して書いているのを怒っていますが、その抱影が賢治の名前を平気で間違えているのは、抱影の賢治に対する認識なり評価なりを示すものとして、決して小さなミスとは思えません。

その他、気付いた点として、上で赤字にした箇所は、いずれも修正が必要です。

(誤) → (正)
星の → 星の
吉田源治郎氏との連想 → …との連絡
アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。→ …見てゐたかどうか。
「ペルセウス」の混沌 → 混淆
〔※〕 → 「角川では「プレアデス」に直してゐる。」の一文が脱落

重箱の隅をつつき回して、石田氏も顔をしかめておられると思いますが、オリジナル資料に当たることの重要性は、この一例からも十分わかります。

   ★

情報の脱落や変形を避けるばかりではありません。
自筆資料を読み解くことには、おそらくそれ以上の意味――文字の書き手に直接会うにも等しい意味――があるかもしれません。

美しい筆跡を見ただけで、相手に会わぬ先から恋焦がれて、妖異な体験をする若者の話が小泉八雲にあります。肉筆の時代には、肉筆なればこそ文字にこもった濃密な思いがありました。若い頃は何でも手書きしていた私にしても、ネットを介したやり取りばかりになって、今ではその記憶がおぼろになっていますが、「書は人なり」と言われたのは、そう遠い昔のことではありません。

草下資料をひもとけば、その向こうに草下氏本人が、抱影が、足穂がすっくと現れ、生き生きと語りかけてくるような気がするのです。

(この項、ぽつりぽつりと続く)

夜空の大四辺形(2)2024年06月03日 18時43分41秒

草下英明氏の回想録『星日記』(草思社、1984)に、草下氏と抱影、それに村山定男の3氏が写っている写真が載っています。あれは元々カラー写真で、「色の着いている抱影」というのは、AIによる自動着色以外珍しいんじゃないでしょうか。


あるいは、石田五郎氏が自著『野尻抱影―聞書“星の文人伝”』(リブロポート、1989)の中で引用された、抱影が草下氏に宛てた葉書。これは抱影が宮沢賢治を評したきわめて興味深い内容ですが、その現物は以下のようなものです。


なぜ私の手元にそれがあるか?もちろん元からあったわけではありません。

これらの品は、ごく最近、藤井常義氏から私に託されたものです。藤井氏は池袋のサンシャイン・プラネタリウムの館長を務められた方ですが、プラネタリアンとしての振り出しは渋谷の五島プラネタリウムでした。そして時期は違えど、草下氏も草創期の五島プラネタリウムに在籍していたことから接点が生まれ、以後、公私にわたって親炙されました。

そうした縁から草下氏の没後、氏の手元に残された星に関する草稿・メモ・書簡類を藤井氏が引き継がれ、さらに今後のことを慮った藤井氏が、私にそれを一括して託された…というのが事の経緯です。

この資料の山に分け入ることは、ブログで駄弁を弄するようなお気楽気分では済まない仕事なので、私にとって一種の決意を要する出来事でした。「浅学菲才」というのは、こういうときのためにある言葉で、本来なら控えるべき場面だったと思いますが、しかし浅学だろうが菲才だろうが、その向こうに広がる世界を覗いてみたいという気持ちが勝ったのです。

いずれにしても、これはすぐに結果が出せるものではないので、ここはじっくり腰を据えて臨むことにします。

(この項、間欠的につづく)