戦火の星2023年01月08日 12時48分53秒

先月最接近した火星は、まだまだ明るいです。
下は「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」誌、1909年11月27日号表紙より、「火星」と題されたイラスト(額装用に表紙だけバラして売っていました)。


作者は、画家・版画家のPierre Marie Joseph Lissac(1878-1955)で、こういうカリカチュアを描くときは「Pierlis」を名乗ったので、サインもそのようになっています。


火星を闊歩するのは、古代ローマ風の男性兵士と、それを指揮・督励している女性士官たち。


キャプションには「婦人参政権論者が雲上から地上に降臨させることを夢見るマーシャル文明」とあって、この「マーシャル」は、「戦闘的」と「火星の」のダブルミーニングでしょう。明らかに当時の「新しい女性」を揶揄した絵柄です。「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」誌は、1863年から1970年まで刊行された老舗総合誌で、誌名から想像されるような、いわゆる「女性誌」ではなかったので、こんなアイロニカルな挿絵も載ったのでしょう。

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火星は軍神マルスの星で、古来戦争と関連付けられてきました。火星の惑星記号♂も、盾と槍を図案化したものと聞けば、なるほどと思います。

野尻抱影は火星について、こんなふうに書いています。

 「何となく不気味で、特に梅雨の降りみ振らずみの夜などに赤い隻眼を据えてゐるのを見ると、不吉な感さへも誘ふ。西洋でこれを血に渇く軍神の星としたのも、支那で熒惑〔けいこく〕と呼び凶星として恐れてゐたのも、この色と、光と、及び軌道が楕円上であるため動きが不規則に見えるのとに由来してゐた。」(野尻抱影『星の美と神秘』、1946)

火星に不穏なものを感じるのは、洋の東西を問いません。
こうして「マーシャル」という形容詞が生まれ、上のようなイラストも描かれたわけです。

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【閑語】

ロシアがウクライナにふっかけた戦争を見ていると、そして過去の戦争を思い起こすと、戦争というのはつくづく損切りが難しいものだと思います。戦争というのは、そもそも構造的にそれができにくい仕組みになっているのでしょう。

なぜなら、自国の兵士が亡くなれば亡くなるほど、「彼らの流した血を無駄にするな!」という声が強まり、「徹底抗戦」へと世論が誘導されていくからです。本当は「これ以上犠牲を増やさないために、戦争を早く終わらせるべきだ」という判断のほうが、はるかに合理的な局面は多いと思うんですが、いつだって白旗を掲げるのは、損益分岐点を<損側>に大きく越えてからです。

この辺はギャンブラーの心理を説明した「プロスペクト理論」とか、現象としては「コンコルド効果」として知られるものと同じですが、戦場における人間の狂気と並んで、為政者(と国民)が下す判断の不合理性も、戦時における特徴として、ぜひ考えておきたいところです。その備えがないと、あまりにも大きなものを失うことになると思います。

「星座」の誕生(後編)2020年06月07日 13時32分05秒

昨日のエピソードに似たことは、抱影の評伝を書いた石田五郎氏も自身の経験として述べています(『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』、リブロポート(1989)、p.186)。

「また東北地方の山奥にこけしを買いに入ったとき老木地師に尋ねても
 「サア、孫たちはオリオンとか北斗七星とかいってますが…」
という返事である。
小学校の天文教育やテレビの科学番組が、古きよき神々を追放したのであろう。」

公教育の普及によって、古い星名が消滅することは、ひとつの文化が消え去ることに等しく、それを惜しむ気持ちはよく分かります。そして消え去る前に、それを記録しておくことは、同時代人の責務だと思います。

とはいえ、民間語彙を駆逐する立場にある、科学のボキャブラリーにしたって、やっぱり消長と盛衰があって、一つの言葉が生まれれば、一つのことばが消えていくのが常でしょう。

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今回のテーマは「星座」という言葉の誕生をめぐってです。

これは、5月31日の記事に対する、S.Uさんのコメントが元になっています。
その中で、S.Uさんは constellation という外国語が「星座」と訳された時期、そして個々の星座を「○○座」と呼ぶようになった時期を問題にされ、明治30年代に画期があったのでは?という仮説を述べられました。

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ここでもう一度抱影に登場してもらって、彼のヒット作、『星座巡礼』(研究社、大正14/1925)を開くと、そこには「北冠座」とか「蛇遣座」とかの項目が並んでいます。

(手元にあるのは昭和6年(1931)の第7版です)

「北冠座」というのは、今でいう「かんむり座」のことで、後者も今は「へびつかい座」とかな書きすることになっているので、古風といえば古風ですが、そう違和感はありません。そして、抱影以後は、誰もがこういう言い方に親しんでいます。「おおぐま座」とか「オリオン座」とか、個別の星座を「○○座」と呼ぶのは、確かに便利な言い方で、コミュニケーションにおいて言葉の節約になります。

でも、昔はそうではありませんでした。

そもそも「コンステレーション」に伝統的な日本語を当てれば「星宿」であり、実際そのように呼ぶ人が、昔は大勢いたのです。そして「星座」の訳語が生まれても、そこからさらに「○○座」の表現が使われるまでには、結構タイムラグがありました。

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さっそく実例を見てみます。

明治時代の天文書における表記の変遷(「星座」vs.「星宿」、および個々の星座の呼び方)をたどってみます。ここでは便宜的に、明治時代を3区分して、「前期」(鹿鳴館の時代まで、1868~1883)、「中期」(日清戦争を経て日英同盟まで、1884~1902)、「後期」(日露戦争と大正改元、1903~1912)とします。

【明治前期】
〇関藤成緒(訳)『星学捷径』(文部省、明治7/1874)
 「星座」(星座例:“「ヘルキュルス」星座”、“「オライオン」星座”)
〇西村茂樹(訳)『百科全書 天文学』(文部省、明治9/1876)
 「星宿 コンステルレーション」
 (星座例:“大熊 ウルサマジョル”、“阿良〔「オリオン」とルビ〕”
〇鈴木義宗(編)『新撰天文学』(耕文舎、明治12/1879)
 「星宿
〇内田正雄・木村一歩(訳)『洛氏天文学』(文部省、明治12/1879)
 「星座」〔「コンステレーション」と左ルビ〕
 (星座例:“ユルサマジョル グレートビール(大熊)”、“リブラ バランス(秤衡)”、“ヘルキュレス ヘルキュレス(神ノ名)”、“オリオン オリオン”)

(『洛氏天文学』より。下も同じ)


【明治中期】
〇渋江保(訳)『初等教育 小天文学』(博文館、明治24/1891)
 「星宿」(星座例:“グレート、ビーア(大熊星)”、“ヅラゴン(龍星)”、“オリオン”)
〇須藤伝治郎『星学』(博文館、明治33/1900)
 「星宿」(星座例:“ウルサメージョル(大熊)”、“シグナス”、“ライラ(織女)”、“ヲライヲン(参宿)”)
〇横山又次郎(著)『天文講話』(早稲田大学、明治35/1902)
 「星座」(星座例:“大熊宮”、“かしおぺや宮”、“獅子宮”、“おりよん宮”)

【明治後期】
〇一戸直蔵(訳)『宇宙研究 星辰天文学』(裳華房、明治39/1906)
 「星座」(星座例:“大熊星座”、“かっせおぺあ星座”)
〇本田親二(著)『最新天文講話』(文昌閣、明治43/1910)
 「星座」(星座例:“大熊星座”、“獅子座”、“カシオペイア座”)
〇日本天文学会(編)『恒星解説』(三省堂、明治43/1910)
 「星座」(星座例:“琴(こと)”、“琴座のα星”、“双子座β星”)

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こうして見ると、「星座」という言い方は結構古くて、明治の初めにはすでに使われていました。しかし、「星宿」も頑張っていて、最終的に「星座」で統一されたのは、明治も末になってからです。日本天文学会が創設され(明治41/1908)、用語が統一されたことが大きかったのでしょう。

「星座」vs.「星宿」に関しては、最終的に新語が勝ち残った形です。
単に明治人が新し物好きだから…ということなら、「Astronomy」も、古風な「天文学」ではなしに、新語の「星学」が採用されても良かったのですが、結果的に定着しませんでした。この辺はいろいろな力学が作用したのでしょう。

いっぽう「〇〇座」の言い方ですが、これもいろいろ試行錯誤があって、「○○星座」とか、「○○宮」とかを経て、最終的に「○○座」が定着したのは、これも明治の末になってからです。

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ときに先のコメント欄で、S.Uさんが「以下は私論ですが」と断られた上で、
「星座は境界のある「空の区域」を示すものですから、単に星座の絵柄の名前でなく「座」をつけるのが正式とされたのだと思います。」「少なくとも学術的には星座は常に空の区域の名称ですから、星座名としての「オリオン」は間違いではないとしても、正式名称は「オリオン座」でその省略形と見なされるのではないかと思います。」
と述べられたのを伺い、なるほどと思いました。

要は、棍棒を振り上げて、雄牛とにらみ合っているのは、たしかに空の狩人「オリオン」ですけれど、オリオンを含む空の一定エリアを指すときは「オリオン座」と呼ぶのだ…という理解です。たしかに、1930年に国際天文学連合が、星座間の境界を確定して以降は、このように星座のオリジナルキャラと、「○○座」という空域名は、明瞭に区別した方が便利で、実際そのように扱われることが多いのではないでしょうか。

(天界の土地公図。『Délimitation Scientifique des Constellations』(1930)表紙)

とはいえ、改めて考えてみると、東洋天文学で「参」と「参宿」を区別したように、現代の「空域としての星座」は、むしろ「星宿」の考え方に近く、オリオン座も「オリオン宿」と呼んだ方がしっくりするのですが、これはもうどうしようもないですね。

「星座」の誕生(前編)2020年06月06日 14時52分18秒

野尻抱影は、星の民俗を考える上で非常に示唆的な話を、自著『星三百六十五夜』(改装新版1969〔初版1955〕)の中に綴っています。一夜一話形式のこのエッセイ集の5月16日の項に出てくる「マタギの星」というのがそれです。

  「飯豊・朝日の山間、小国郷〔引用者注:山形県小国町〕はマタギ(猟夫)の本場として聞こえている。カモシカの皮の甚平に麻のたっつけ(袴)、村田銃と朱房のついた七尺ヤリを携えたのは、一時代昔のことだろうが、私のおいは、その奥も奥の、戸数八戸という越戸部落の山元、熊狩の統率では神の如く崇められていた、当時八十四才のM老人と親交があった。そして、私のために。その部族に伝わる星の名を問い合わせてくれた。」

(マタギ装束、大正6年。出典:新庄デジタルアーカイブ

抱影が日本古来の星名に関心を持ったのは、大正末年からで、その蒐集活動は昭和20年代いっぱい続きました。これはその時期のエピソードです。文中の「山元」というのは、文脈からすると、山の狩猟権を保有するマタギの棟梁という意味合いのようですが、上の問い合わせに対して、山元のM老人とは別のAという人から返事が来ました(太字は原文傍点)。

 「星さまでは、北極星を当方では北の明星といって、大そう崇めて、この方向には鉄砲を打たないことにしてあります。その星の近くにあるたくさんの星を当方では熊座と崇めて毎夜拝んでいます。山元の家では、この方角に当って不浄をさえしないように気をつけております。熊祭には特にこの熊座に灯明を捧げて一同礼拝します 云々」

マタギの古俗に根差したらしい、いかにも野趣に富んだ話です。

 「私はこの手紙を手にして、一応は首をひねった。何よりも熊座の「座」が気になったからだ。けれど、これは北の明星(北極星)を熊猟でも北のしるべとして崇めるところから、自然その周囲の星々に熊の名をつけたもので、大熊・小熊とは偶然の符号だろうと思い返した。」

昔の囲炉裏を切った民家では、主人が座るのは「横座」、妻は「かか座」、客人は「客座」と、人々の座る位置が厳密に決まっていました。そこから類推すると、北極星のまわりで、神聖な熊が座を占めるべき位置を「熊座」と呼んだのは、さして突飛とも思われません。

でも、やっぱりこの話にはオチがあったのです。
翌年、抱影のおいは直接小国郷を訪ね、その真相を抱影に知らせて寄こしました。

 「Aという人は、この部落で二十年からいる、六十を越した先生だったのは意外でした。字のたっしゃな人が居らぬため返信を頼まれたのだそうで、熊座が果して小学読本からのものだったのにはがっかりしました。」

そう、古俗でも何でもなく、「熊座」の名は小学校の副読本に出てくる「おおぐま座、こぐま座」の引用だったのです。


 「もっとも先生の教育宜しきを得るためか、八十四の山元のMじいさんまで、大熊座と小熊座とは、シチョーノホシとネノホシ〔引用者注:北斗七星と北極星のこと〕附近の古来からの別称と思ってるらしいのです。この二つの名を、黄いろい前歯が一本だけの老人の口から聞い〔原文ママ〕時の感じを御想像下さい。云々

 私も苦笑するほかはなかった。そして、教育もよくもまあ普及したものだと思った。」

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その教育の片棒をかついだのは、他ならぬ抱影自身ですから、彼も苦笑いするばかりでは済まんぞ…と思いますが、まあこういうことは明治以降、各地で絶えず起こったでしょう。

近代に限らず、江戸時代も出版文化は非常に盛んでしたから、地方の知識人が書物から得た知識を元に、その土地の古俗に国学的解釈をまぶして、それがまた地誌に記録されて、いつのまにか確固たる「事実」に転化したり…なんてことは、いくらでもあったと思います。

こういう民俗調査の陥穽には、よくよく注意しなければなりません。

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…ということを実は書きたかったわけではなく、今では当たり前の「○○座」という言い方が、明治以降、どのように普及したかを書こうと思ったのでした。前置きが長くなったので、本題は次回に。

(この項つづく)

レンズの向こうには星があり、夢があった2018年06月18日 11時45分28秒

日本はまさに地震列島。雨の降り注ぐ本州がまた大きく揺れました。
何はさておき地震お見舞い申し上げます。
ヘンリ・ライクロフトの植物記は、1回お休みです。

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この土日は関東に下向し(と、京都中心主義を振りかざす必要もありませんが、東京中心主義も良くないので、バランスを取ってあえてこう書きましょう)、横浜で野尻抱影の愛機「ロングトム」を実見し、さらに「日本望遠鏡史を語る夕べ」といった趣旨の会合に参加してきました。これが何と男性限定、R50の会合で…と、別にそんな制限があったわけではありませんが、趣旨が趣旨なので、どうしてもそういう渋い顔ぶれになるわけです。

ごく私的な会合なので、詳細はぼかしますが、そこでいただいたお土産が下のシールだと申せば、どんな雰囲気だったか、お察しいただけるでしょう。


…と言っても伝わりにくいので、注釈をつけると、「ダウエル」という望遠鏡メーカーがかつてあったのです(「成東商会」という別名義もありました)。かつての天文少年は、その名を科学雑誌の広告欄で目にするたびに、激しく心を揺さぶられました。

それはなぜか? ダウエル望遠鏡は、同スペックの他社製品に比べて、お値段が格段に安かったからです。そして安くて高性能なら万々歳ですが、世の中そう上手くは行かないわけで、ダウエルに手を出した少年たちは、その名に微妙な感じを終生抱き続け、先日の会合でも一同シールを見るなり、破顔一笑したのです。

ダウエル――。それは望遠鏡ではなく、夢を売る会社であった…と、ここでは美しくまとめておきましょう。

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ロングトムのこともここに書いておきます。(「ロング・トム」と中黒を入れることもあります。抱影自身は「ロングトム」、「ロング・トム」両方の書き方をしています。)

ロングトムは、野尻抱影(1885-1977)が愛用した望遠鏡。
昭和3年(1928)、当時の円本ブームに乗って訳出したスチーブンソンの『宝島』が売れに売れ、抱影はその印税で、当時はなはだ高価だった、日本光学(ニコン)製、口径10センチの屈折望遠鏡を買い入れました。

「ロングトム」は、抱影自らが名付けたその愛称です。現在は、抱影の実弟である作家・大仏次郎(おさらぎじろう〔本名・野尻清彦〕、1897-1973)の記念館に保管されています。ロングトムは有名なので、画像では何度も目にしましたが、やはり実物を見るにしくはなしです。


港の見える丘公園から見下ろす曇天の横浜。


その公園の一角、イングリッシュガーデンの向こうに、瀟洒な「大仏次郎記念館」はあります。


2階展示サロンの隅に、ロングトムが立っていました。




丁寧に作られた木箱の表情がいいですね。


蓋の裏に書かれた抱影自筆の覚え書き。


架台に貼られた銘板。ピンぼけですが、「日本光学工業株式会社/第101号/昭和3年」の銘が見えます。


世田谷の自宅で観望会を開く抱影の写真パネル。


この接眼部を、抱影が繰り返し覗いたのか…と思うと、感慨深いです。


その視野を支えた三脚の石突き。


仰ぎ見る雄姿。抱影もこのシルエットをほれぼれと眺めたことでしょう。

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日本光学が入念に仕上げたロングトム。
少年たちがなけなしのお小遣いで手に入れたダウエル望遠鏡。

モノとしての在り様はずいぶん違うし、その見え味にも大きな差があったと思いますが、共通するのは、どちらもレンズの向こうに輝く夢があったということです。そして、夢がなければ、どんな望遠鏡も覗く価値はない…というと言い過ぎかもしれませんが、それも半ば真実じゃないでしょうか。

甲府の抱影(後編)2017年09月21日 05時48分22秒

(昨日のつづき)

抱影が、甲府中学校の理科室に備えられた2インチ径の望遠鏡を使って、夜ごと星を眺めていたことは、彼の随筆『星三百六十五夜』から、以前一文を引いたことがあります(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/10/16/)。

同旨の文章になりますが、ここでは抱影が別のところに書いた一文を、石田五郎氏の上掲書から孫引きしてみます。(原典は甲府中校友会誌第35号。原題は「星を見るまで」。引用中、「……」は石田氏による挿入。改行は管理人による。)

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 白根の頂に雲の浮ばなかった日は風のない静かな昼が静かな夜と暮れる。こういう夜僕はよく中学校へ望遠鏡で星を覗きに行ったものだ。県庁横のあの灯火の少い通りを歩きながら瑞々しくかがやいている星の中をあれかこれかと予め選んでゆくその心持は察してくれる人が少い。

……理科の機械室の戸口に立止って、錠にガチリと音をさせて戸を開けるとその途端に一種の冷い匂いが顔を打った。提灯のそぼめく光にまわりの硝子戸棚の滑かな面とその中にある多くは黄銅製の種々の器械とがぼんやりと光って、硝子戸は足音でぴりりとかすかな音を立てた。窓ぎわにほの白いカーテンの前には望遠鏡が長い三脚をふんばって突立っている。白いさらしの布で巻かれている黄銅の筒はいくど僕の手でなでられた事だろう。

……望遠鏡を抱え上げると、何かに追われるようにその部屋を出、いそいで後ろに戸をたてて提灯を吹き消し、そして太い三脚をちぢめて肩に担いだ。黄銅の筒はぐたりと縦に背にもたれかかって、町の辻に立ってチャルメラを吹く飴売りの首をぐたりと垂れたひょろ長い人形を思わせた。

……昼はテニスコートに使われる真暗な庭へ出て、柔い土へ三脚を拡げて立てた。円筒のくびをするすると伸し、その口をひき出し、口許のレンズの小さい鋼鉄の蓋を爪先で探って開けた。これまでの一切の処置が何のこだわりもなく躊躇なく進行する事にいつも満足を感じた。背を屈めて望遠鏡の口を覗くと両手の親指と人差指とで作った程の円い平たいレンズの面が筒の内部の暗黒とやや見分けのつく位の仄明るさに夜の空を映していた。そこで何時も度を合す標準に使う北斗の第二星(二重星)へ筒口をぐーっと向けて覗くとそれがぽっと大きく拡がつて見えた。右手でネジを小心に回しはじめると、筒の胴はそれに連れて伸びたり縮んだりした。その中に当の星は形を小さくまとめて強い堅い光を放った。そのすぐ側に、真黒な空間を隔てて、それに付属の星が永劫近付き難い淋しさをあきらめている様に幽かに光っていた。

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ちっぽけな望遠鏡とはいえ、明治の末、まだ日本では趣味の天体観測がほとんど行われていない時期のことですから、その経験はすこぶる貴重です。

抱影がそれを存分に楽しんだのは、一種の「役得」に他なりませんが、同じ教師仲間でそのアドバンテージを生かしたのは、ひとり抱影のみですから、これは抱影の才覚と内証の良さを褒めるべきでしょう。

ともあれ、「星の文学者」としての抱影の下地が、紙の上の知識のみならず、リアルな観測経験によっても練られたことは、その後、抱影に導かれた日本の天文趣味にとって、大いに幸いなことだったと思います。

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さて、その抱影が見た星空を、この目で見ようというのが、今回の旅の大きな楽しみのひとつで、幸い天候にも恵まれましたが、結論から言うと、星そのものは見られず、夕暮れの甲府城(舞鶴城)を散策するだけで終わりました。

以下は舞鶴城公園からの景観です。


陰々たる古城の黄昏。
甲府中学校の寄宿舎裏には、昔、小姓か腰元を切りこんで埋めたという石の六角井戸があり、抱影は生徒たちを集めて、肝試しをやったそうです。


盆地に位置する甲府は、当然ながら東西南北すべて山。
秋分間近のこの日、太陽は真西にあたる千頭星山(せんとうぼしやま)へと沈み、町は急速に暮色を深めます。(ちなみに、中央の巨大なオベリスクは、明治天皇を奉賛する城内の謝恩碑。抱影時代の甲府にはまだありませんでした。)


対する東に目を向ければ、連山の頂にうかぶ白雲が、美しい茜色に染まっています(右端は富士山)。きっと100年前も、あの雲の遠い祖先が、あそこであんなふうに浮かんでいたことでしょう。それが灰白になり、暗い闇に溶け込むとき、抱影はお城の脇を速足で歩きながら、これから始まる天体ショーに、胸を高鳴らせたのです。


北の空を見上げたところ。
抱影の天体観測は、北極星とおおぐま座からスタートするのが常でした。
地平から35.7度の位置に北極星が光り、その周囲に大熊が姿を見せるのも、もうじきです。

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さんざん煽っておきながら、いったいキミは夜は何をしていたのかね?

…と思われるかもしれませんが、夜は夜で甲州ワインを飲んだり、地鶏を食べたりで忙しかったのです。まあ、連れもいたので、全てが自分の自由にはならなかったというのもありますが、山梨の魅力はそれだけ多彩である、ということです。

甲府の抱影(前編)2017年09月20日 13時21分53秒

この連休に、老いた両親を見舞ってきました。
その帰り途、いつもとコースを変えて、ちょっと甲府に足を延ばしました。

(昇仙峡から望む甲府盆地と富士)

昇仙峡見物や、信玄の館跡である武田神社詣でなど、普通の観光もしつつ、初めて訪れる甲府で楽しみにしていたのが、一時甲府で暮らした、野尻抱影(1885-1977)の面影を偲ぶことでした。

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抱影の甲府生活は、明治40年(1907)5月に始まりました。
前年に早稲田の英文科を卒業した青年英語教師として、旧制甲府中学校(現・甲府第一高校)に赴任するためです。その甲府生活は、明治45年(1912)に、東京の麻布中学校へ転任するまで、満5年間続きました。

(甲府中時代の抱影。石田五郎(著) 『野尻抱影 ― 聞書“星の文人”伝』 より)

前回の記事でも触れた、1899年のしし座流星群は、日本の新聞でも盛んに取り上げられ、それに触発されて、抱影少年は初めて天文趣味に目覚めた…ということが、石田五郎氏の『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート、1989)には書かれています。

その天文趣味は、この山国の満天の星の下、さらに進歩を遂げ、都会育ちの彼が山岳や自然一切の魅力に開眼したのも、この甲府での生活があったればこそです。甲府暮しがなければ、おそらく後の抱影はなかったでしょう。

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抱影が赴任した甲府中学校は、今の山梨県庁のところにありました。

(甲府駅周辺地図)

上の地図だと、甲府駅のすぐ南が甲府城(舞鶴城)跡で、その西側に山梨県庁があります。今は甲府城の城地が大幅に狭まっていますが、旧幕時代は県庁一帯もお城の内で、二の丸の一部を構成していました。

(城の南側から甲府駅方面を見たところ。道路を挟んで左が山梨県庁、右が舞鶴城公園)

明治13年(1880)創設の甲府中学校が、この場所に新築・移転したのは、明治33年(1900)です。その後、昭和3年(1928)に、現在の甲府一高の地に移転し、その跡地に県庁が引っ越してきました。

上の地図で、「山梨・近代人物館」と表示された建物が、昭和5年(1930)に竣工した県庁旧庁舎です。さらに、その北隣の建物が、旧庁舎と同時にできた県会議事堂で、このあたりが甲府中学校の跡地になります。

(山梨県庁旧庁舎(現・県庁別館))

抱影は、学校近くの下宿屋から、当時はまだあった内堀(今は埋め立てられて県庁西側の大通りになっています)にかかった太鼓橋を渡って、毎日学校に通いました。

(大正~昭和初期の甲府城跡。奥に見えるのが中学の校門。甲府市のサイト掲載の白黒写真を、試みにAIで着色してみました。)

(記事が長くなるので、ここで記事を割ります。以下次回につづく)


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▼閑語(ブログ内ブログ)

しばらく政治向きのことは静観していましたが、ここにきて、「大義なき解散」の話が持ち上がり、これについては大義どころか小義もないし、安倍晋三という人は、つくづく姑息な人だなあ…と改めて歎息しています。

で、歎息ついでに、ふと「姑息」というのは、なんで「しゅうとめの息」なんだろうと思いました。「姑の息」は、そんなに邪悪なものなんでしょうか?

調べてみると、「姑息」とは「一時しのぎ」の意味で、これを「卑怯」の意味に使うのは誤用である…と多くの人が指摘しています。これは、「(歌の)さわり」とか、「情けは人の為ならず」と同様、今や誤用の方が主流に転じた例でしょう。

何でも「姑」という字には、「しゅうとめ」の意味の他に、もともと「一時的」の意味があって(たぶん同音他字の意味を借りたのでしょう)、そこから「姑息」イコール「一時的に息(やす)むこと」、すなわち「一時しのぎ」の意味になったんだそうです。

でも、この「姑息」という字句は、一時的どころか、ずいぶん長い歴史のある言葉です。出典は四書五経のひとつ『礼記』で、孔子の弟子に当る曽子が、臨終の間際、曽子の身を気遣う息子を叱って、「お前の言い分は君子のそれではない」と言ったことに由来する(「君子の人を愛するや徳を以てす。細人の人を愛するや姑息を以てす。」 君子たる者は大義を損なわないように人を愛するが,度量の狭い者はその場をしのぐだけのやり方で人を愛するのだ。)…ということが、文化庁のサイトで解説されていました。

こうして、日本では「一時しのぎは卑怯なり」と受け止められて、「姑息」の意味が変容しましたが、一方現代中国語にも「姑息」という語は生きており、そちらはもっぱら「甘い態度をとること、無原則に許すこと」の意味に使われるそうです。文化の違いというのは、なかなか面白いものです。(ちなみに今の中国語だと、「姑」は主に「夫の姉妹」、すなわち「こじゅうと」の意味で使われることも、さっき辞書で知りました。)

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さて、話が一周して、安倍晋三という人がやることは、一時しのぎだし、卑怯だし、身内に大甘で、あらゆる意味において「姑息」だなあ…と改めて思います。かの宰相は、まこと君子に遠き細人なるかな。

天と地にアークトゥルスが輝く夜2017年05月23日 06時43分33秒

春は北斗の季節。

北斗の柄杓の柄が描くゆるいカーブを、そのままぐっと延長すると、ちょうど北斗と同じぐらいの間を置いて、うしかい座のアークトゥルスに到達し、さらにその先にはおとめ座のスピカが明るく輝いています。この空を横切る雄大なカーブが、いわゆる「春の大曲線」

アークトゥルスは、日本では「麦星(むぎぼし)」の名でも知られます。
これは野尻抱影が、一時熱心に取り組んだ星の和名採集の成果で、当の抱影も、知人に教えてもらうまで、「麦星」のことはまるで知らずにいましたが、彼はこの名を耳にするや、いたく感動したようです。

 「わたしはこれを季節感の濃やかないい名だと思った。麦生の岡に夕ひばりが鳴き、農夫が家路につくころ、東北の中空で華やかな金じきに輝き出るこの星を表わして、遺憾がないし、麦の赤らんだ色にも通じていると思った。」 (野尻抱影、『日本の星』、中公文庫p.51)

たしかに、農事の土の匂いとともに、可憐な美しさをたたえた良い名前で、スピカの「真珠星」とともに、これぞ抱影のGJ(グッジョブ)。

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ところで、「アークトゥルス」の名を負ったモノで、土の匂いとはおよそ対照的な、硬質なカッコよさを感じさせる逸品があります。

それがアメリカで、1920年代後半~40年代初頭まで操業していた真空管メーカー「アークトゥルス」と、その製品群です。(ただし、真空管ファンは「アークチューラス」の呼び名を好むようなので、真空管を指すときは、ここでも「アークチューラス」と呼ぶことにします。)


単に真空管というだけでも十分カッコいいのに、この天文ドームと星々のイメージデザインは、何だかカッコよすぎる気がします。


しかも、上のアークチューラスは「ふつうの真空管」ですが、同社が真空管ファンの間で有名なのは、青いガラスを使った「ブルーバルブ」(バルブとは真空管のこと)の製造を手がけていたことです。

こうなるとカッコよすぎる上にもカッコよすぎる話で、いい歳をした大人が「カッコイイ」を連発するのは、あまりカッコよくないと思いますが、そんな反省をする暇もないほどです。

もちろん手元にはブルーバルブもしっかりホールドしていますが、それはまた別の機会に登場させます。

『星恋』のこと2017年01月02日 14時54分59秒

星の文学者・野尻抱影(1885-1977)と、星を愛した俳人・山口誓子(1901-1994)が著した句文集、『星恋』(初版1946)。その冒頭に置かれたのが、誓子の「星恋のまたひととせのはじめの夜」という一句です。

「星恋」というフレーズが何とも良いし、明るい星々がきらきら輝く今の時期の空を見上げて、冷たく澄んだ空気を胸に吸い込んだときの清新な気分は、星好きの人にとって言わずもがなの情趣でしょう。

敬愛する霞ヶ浦天体観測隊http://kasuten.blog81.fc2.com/)のかすてんさんは、毎年この句でブログ開きをされるのを嘉例としていて、私もそのマネをしてみたいと思います。

   ★

といって、私の方は地上の話題に終始するのですが、私の手元には『星恋』が5冊あります。なんでそんなにあるかといえば、『星恋』には終戦直後の昭和21年(1946)に鎌倉書房から出た初版と、昭和29年(1954)に中央公論社から出た版とがあり(この2つは内容が多少異なります)、さらに昭和61年(1986)に深夜叢書社から出た『定本 星恋』と合せて、全部で3種類の異版があるからです。このことは既に5年前に取り上げました。

■『星恋』ふたたび

でも、それだけでは5冊にまだ2冊足りません。
実は鎌倉書房版と中公版は、それぞれ後からもう1冊ずつ買い足しました。

(左・鎌倉書房版、右・中央公論社版)

なぜかといえば、それぞれに抱影と誓子の署名が入っているという、関心の無い人にはどうでも良いことでしょうが、『星恋』に恋する者には無視できない要素が含まれていたからです。


中公版は抱影の署名入り。ミミズの這ったような…というと叱られますが、抱影の独特の筆跡で、仏文学者の高橋邦太郎(1898-1984)に献じられています。


対する鎌倉書房版には、誓子の几帳面な署名と落款が印されています。

古書を手にすると、昔の人の体温がじかに伝わってくる気がしますが、この2冊は確実に二人の作者が手に取って、ペンを走らせた本ですから、両者の存在がなおのことしみじみと身近に感じられます。何だか今もすぐそばに座っているような気すらします。



  星恋のまたひととせのはじめの夜
  初春といひていつもの天の星

変るものと変わらぬもの。
世の転変を横目に、今宵も星と向き合い、そして自分の心と向き合いたいと思います。

「野尻抱影の本」…カテゴリー縦覧:野尻抱影編2015年04月12日 16時03分18秒

ブログのカテゴリーの順番に沿って話題を出し続ける「カテゴリー縦覧」。
天文プロパーの話題が終って、以下、しばらくは天文以外の話題が続きますが、抱影や賢治は、まだまだ天文気分の濃い領域です。

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野尻抱影(1885-1977)という人は、ずいぶん多作な人で、ウィキペディアに載っている著作を数えたら、大正13年の『三つ星の頃』から、昭和52年の『星・古典好日』に至るまで、生前に出た単著の数は60冊を超えていました。中には旧著を再編集しただけの本もあると思いますが、それにしても大した量です。

「星の文学者」として隠れもなく、熱心なファンも多いはずなのに、しかし、その全集が編まれたことはついぞありません。抱影、賢治、足穂という、ペンを手にした夜空の大三角のうち、全集を持たないのは抱影だけです。ちょっと不思議な気もしますが、その主要テーマが「天文」とピンポイントなので、やはり絶対的な需要は限られるのでしょう。

   ★

とはいえ、その筆業を概観するのに便利な本があります。
以前、筑摩から出た「野尻抱影の本」という4巻本選集です。


1989年1月7日、昭和天皇没。
その直後の1月25日が、第1回配本の『星空のロマンス』(石田五郎編)の発行日になっています。その後、月を追って1冊ずつ配本があり、2月『山で見た星(宮下啓三編)、3月『ロンドン怪盗伝(池内紀編)、4月『星の文学誌(原恵編)が出て完結。

抱影が生き、慣れ親しんだ明治・大正・昭和の三代が遠い世界になりつつあったときに、その選集が出たことに、少なからず感慨を覚えます。

(安野光雅さんの装幀が洒落ています。)

この選集は、抱影のことを知る上で、とても目配りの利いた構成になっています。

第1巻『星空のロマンス』は、「抱影節」の効いた天文エッセイ集で、いわば抱影のスタンダードナンバー。続く『星の文学誌』は、本業の知識(彼はもともと英語の先生でした)を生かした、星座神話や天文英詩についての評論集。第3巻『山で見た星』は、必ずしも天文に限らない、自伝的エッセイや小品、少年小説、山行記などが収められており、若い頃関心を示した、心霊の話題なども顔を出します。

そして第4巻は『ロンドン怪盗伝。ちょっと意外に思われるかもしれませんが、抱影が星と並んで興味を抱いたのが「乞食と泥棒」で、抱影のその方面の仕事も取り上げているところが、この選集の優れている点です。抱影は頭上の星ばかりでなく、生身の人間にも深い関心を寄せていました。

(『ロンドン怪盗伝』の帯。池内紀氏の解説文からの引用)

かつて松岡正剛さんは、生前の抱影に、その関心の由来を尋ねたことがあるそうです。

 なぜ星の専門家が乞食と泥棒に関心をもつのかというと、
これはぼくが直接に聞いたことだが、
あなたねえ、天には星でしょ、地には泥棒、人は乞食じゃなくちゃねえ」
というのである。
(松岡正剛の千夜千冊:野尻抱影『日本の星』 http://1000ya.isis.ne.jp/0348.html

洒脱といえば実に洒脱。
金持ちや権力者なぞ屁でもないという、抱影の反骨精神が頼もしいです。

   ★

洒脱といえば、第3巻の帯に出てくるエピソードはどうでしょうか?


思わずクスリとする、胸のすくような話ではありませんか。
ちょっとへそは曲がっていますが、なかなか面白い老人ですね。
この老人が逝って、今年で38年。日本の世相もずいぶん変わりました。

古川龍城を知っていますか2014年07月13日 11時36分28秒

日本の天文趣味をたどるために、明治大正の本を何冊か手元に置いています。


その中に古川龍城(ふるかわりゅうじょう)という人の本が何冊かあります。
画像は左から、

  『天文界之智嚢』 (中興館、改訂11版、1933/初版1923)
  『星のローマンス』 (新光社、1924)
  『星夜の巡礼』 (表現社、1924)


の3冊。出版年をご覧いただければお分かりのように、大正12~13年のごく短い期間に、立て続けに出た本です。

「日本の天文趣味をたどる」と云うわりに、私は著者である古川その人について何も知らずにいたのですが、たまたま以下の報告に接し、「へええ、そうだったんだ」と思ったので、ここに挙げておきます。

冨田良雄、「古川龍城と山本一清」
 第3回天文台アーカイブプロジェクト報告会集録 (2012), pp.24-27.

 http://hdl.handle.net/2433/164305 (←リンク先ページからダウンロードをクリック)

冨田氏の報告によれば、古川は山本一清の弟子に当たり、山本が京大で助教授だった頃、彼はその下で助手を務めた、本職の天文学徒だった由。私はてっきり彼を在野の文筆家と思っていたので、そのことがまず「へええ」でした。そして東亜天文学会(当時の天文同好会)の会誌「天界」のネーミングも古川の発案だそうで、不肖の会員である私は、そのことも知らずにいました。これまた「へええ」です。

とはいえ、彼の学究生活は長く続かず、大正11年(1922)に、京大から東京麻布の天文台(三鷹の旧東京天文台の前身)に転じたあと、翌年の関東大震災を機にそこも辞し、純粋な小説家として立とうとしたり、地震学に興味を示して、東大地震学教室に一時籍を置いたり、かと思うと鳥類学に手を伸ばして、昭和に入ると「国民新聞」の記者をしながら、その方面の文章を書いたり、冨田氏によれば、「鳥の研究者からは天文学出身の謎の人物とされており、かたや天文学分野からみても謎の多い人物」という存在になっていました。

その最期もはっきりせず、晩年は郷里の岐阜に帰り、昭和30年(1955)頃に亡くなったそうです。

   ★

何だか不思議な人ですね。

古川と入れ替わりに日本の天文シーンに登場し、戦後も永く君臨しつづけたのが野尻抱影であり、古川は謂わばその露払いの役を務めたと言えます。
日本の天文趣味史において、その果たした役割は決して小さくないはずですが、そのわりに知名度が今ひとつですので、ここにその名を記しました。