北の海へ2022年08月07日 18時16分28秒

夏の風物詩である、甲子園の熱闘が始まりました。
特に野球ファンでなくても、スイカやかき氷を食べながら甲子園を観戦することは、歳時記的な感興を催すことで、このひとときの平和に感謝しながら、ついテレビに見入ってしまいます。

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今日は涼を呼ぶ品を載せます。


昨日につづき、古い幻灯スライドです。


ハンドルを回すことで絵柄が変化する「メカニカル・ランタン」の一種で、カーペンター・アンド・ウェストリー社(ロンドン)が、19世紀半ばに売り出したものです。


その絵柄は、北の海をただよう氷山の景。
氷山は南極にも北極にもありますが、南極の氷山は、平らな棚氷がそのまま海中に漂い出したものであるのに対し、氷河がちぎれてできた北極の氷山は、こんなふうにてっぺんがギザギザしているのだそうです。

メカニカル・ランタンといえば、はでな視覚効果で見る人を楽しませるのが常ですが、この幻灯スライドは、ハンドルをくるくる回しても、「あれ?壊れているのかな?」と思うぐらい、変化がありません。でも、よーく見ているとその変化に気づきます。

下の写真は購入時の商品写真の流用で、ボックス式の外蓋を外して、内部の仕組みを見たところです(私自身はまだ中を見たことはありません)。


スライドは絵柄が3枚重ねになっていて、固定された背景の上を、2枚の絵柄がゆっくりと上下左右に、微妙に回転運動をします。それによって、手前の波の絵と、遠くを舞い飛ぶ海鳥が、妙にリアルな動きを見せてくれます(いわゆる「ぬるぬるした動き」ですね)。


その動きは決して派手ではありませんが、それだけに臨場感に富んでいて、水の音や、鳴き交わす鳥の声が、すぐ耳元で聞こえてくるような気がします。


冬至2020年12月21日 06時51分31秒


(地球の年周運動と四季の図。A. Keith Johnston(著)『School Atlas of Astronomy』1855より)

今日は冬至
24時間太陽の姿が見えない「黒夜」エリアが極大となり、北極圏全体を覆う日です。


上は既出かもしれませんが、アラスカ中部の町・フェアバンクスを写した1940年代頃の絵葉書。撮影日はちょうど12月21日です。フェアバンクスは北緯65度で、北極圏からちょっと外れているおかげで、冬至でもわずかに太陽が顔をのぞかせています。とはいえ、何とはかなげな太陽でしょうか。

上の写真は、20分ごとにシャッターを開けて、太陽の位置を記録しています。左端が午前10時45分で日の出の直後、右端が午後1時15分で日没直前の太陽です。昼間はこれで全部。あとの20時間以上、同地の人は長い夜を過ごすことになります。

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程度の差こそあれ、日本でも事情は同じです。
冬至の日は太陽高度が最も低く、日の出から日没まで、太陽が地平線にいちばん近いカーブを描く日です。

言い換えれば、真昼の影がいちばん長い日でもあります。
冬至の正午、身長160cmの人は背丈よりずっと長い256cmの影を引きずっている計算で、太陽の低さが実感されます(他方、夏至ともなれば頭上からぎらつく太陽で、その影はわずかに34cmです)。

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この事実は昔の人も注目していて、基準となる棒を地面に立てて、その影の長さを測ることで季節の変化を知り、時の推移を知った…というところから、日時計も生まれたと言います。この棒を古来「表(ひょう)」または「土圭(とけい)」と呼びました。

考えてみると、「時計」という言葉は、音読みすれば「じけい」となるはずで、「とけい」だと「重箱よみ」になってしまいます(正確には「湯桶(ゆとう)よみ」かも)。でも、「時計」という字は、もともと「土圭」の当て字らしく、身近なところにも、いろいろ古代の天文学の名残はあるものです。

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ちょっと視点を変えれば、南半球では今日が夏至。
そして南極圏では、太陽の沈まぬ白夜が広がっています。

(上図拡大)

白瀬詣で(後編)2019年05月05日 14時27分31秒

(2連投のつづき)



白瀬中尉の墓碑。「南極探検隊長/大和雪原開拓者之墓」と刻まれています。揮毫したのは元侍従長の藤田尚徳氏。



側面に彫られた戒名は「南極院釈矗徃(なんきょくいんしゃくちくおう)」

「矗徃」とは「まっすぐにゆく」という意味のようです。なお、隣に並ぶのは、昭和26年(1951)に亡くなった安(やす)夫人の戒名。反対側の側面には、「昭和三十三年九月四日/吉良町史跡保存会建之」の文字があります。

 

今の豊田市で亡くなった白瀬中尉が、この地に葬られたのは、中尉が亡くなった翌年、次女である武子氏がこの地の中学校に勤務することになり、安夫人も遺骨を携えてここに転居したからです。その後、安夫人も亡くなったため、武子氏はここに遺骨を仮埋葬して東京に転居した…ということが、傍らの説明文には書かれています。




墓碑の向って左手に立つ「白瀬南極探検隊長墓碑建立の由来」碑と、その銘文。


これを読むと、昭和32年(1957)に郷里から親戚が訪ねてくるまで、ここが白瀬中尉の墓だとは、本当に誰も知らなかったみたいで、やっぱり不遇な晩年だったと言わざるを得ません。(今のように墓域が立派に整備されたのは、「ふるさと創生事業」の余得で、あの悪名高いばらまき事業も、ちょっとは世の役に立ったみたいですね。)

 

参考資料として、境内にある他の案内板の文面も掲げておきます。


(白瀬矗隊長略歴)


(南極観測船「しらせ」スクリューの解説)


(オーストラリア・ウラーラ市にある記念銘板の紹介)


なお、瀬門神社は「西林寺」という小さなお寺と隣接しており、最初の埋葬地は、上の説明文にあるようにお寺側だったようですが、現在はそれが神社側に移っているように読めます。


(西林寺山門)

 

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白瀬中尉は南極点に立つことはなかったし、その足跡も大陸の端っこをかすめただけかもしれません。でも、彼はたしかに英雄と呼ぶに足る人物です。

 

そのことは、もしアムンゼンやスコットが、白瀬中尉と同じ装備・同じ陣容で南極に挑んだら、どこまでやれたろうか…と考えるとはっきりするのではないでしょうか。

 

試みにその旗艦を比べても、スコット隊の「テラ・ノヴァ号」は、全長57m、総排水量764トン、エンジン出力140馬力。アムンゼン隊の「フラム号」は、同38.9m、402トン、220馬力。対する白瀬隊の「開南丸」は、同33.48m、199トン、18馬力に過ぎません(数値の細部は異説もあります)。

 

一事が万事で、スタートラインがはなから違うので、彼らと比較して云々するのは、中尉にとっていささか酷です。

 

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5月の木漏れ日はあくまでも明るく、緑の風がさわやかに吹いていました。

その中で、中尉が心穏やかに憩っているように感じられたのは、これまた感傷の一種には違いないでしょうが、陰々滅々としているよりは何層倍もいいです。



白瀬詣で(前編)2019年05月05日 14時17分51秒



今から約60年前、昭和35年(1960)は、日本の南極探検50周年にあたり、その記念切手が発行されました。写真はそれを貼った初日カバーです。当時はまだ昭和基地開設から4年目で、南極観測船も「宗谷」の時代です。


今日の話題の主は、記念切手のモチーフとなった探検家、白瀬矗(しらせのぶ、1861-1946)。私の耳には「白瀬中尉」の称が親しいので、以下そう呼ぶことにします。

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白瀬中尉のことを知ろうと思ったら、多くの人はまずウィキペディアの彼の項目を見に行き、その晩年の記述を読んで言葉を失うでしょう。

 「昭和21年(1946年)9月4日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。享年85。死因は腸閉塞であった。 床の間にみかん箱が置かれ、その上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられた祭壇を、弔問するものは少なかった。近隣住民のほとんどが、白瀬矗が住んでいるということを知らなかった。」

敗戦後の混乱期であることを割り引いても、一代の英雄の最期としては、あまりにも寂しい状景です。

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唐突ですが、家でごろごろしていてもしょうがないので、白瀬中尉のお墓参りにいくことにしました。家で彼の話が出て、ふとその臨終シーンが浮かび、ぜひ弔わねばいけないような気がしたからです。中尉にとっては甚だ迷惑な、余計な感傷だったかもしれませんが、でもこれは行ってよかったです。

その場所は、逝去の地である豊田市ではなくて、同じ愛知県内の西尾市です。平成の大合併前は、幡豆郡吉良町といいました。西尾市吉良町瀬戸にある「瀬門(せと)神社」がその場所です。


昨日は天気も良くて、中世の吉良荘以来の里の光景がくっきりと眺められました。


行ってみたら、私の感傷は的外れで、白瀬中尉のお墓は地域で大事にされていることが分かって、安堵しました。

(参道から鳥居を振り返ったところ)

深いお宮の森を通っていくと、そこにちょっとした広場が整備されていて、白瀬中尉を記念するスペースになっていました。


画面左手に見える自然石の碑が墓標です。正面の楕円形は、南極観測船「(初代)しらせ」のスクリュー翼で、さらに右手には白い説明板が立っています(その前の竹箒は、ここがよく手入れされている証拠です)。

ちょっと白飛びして見にくいですが、いちばん手前に大きな石(セメント)の円盤が横たわっています。


これは全体が南極大陸の地図になっていて、中心に南極点、脇には白瀬中尉が命名した「大和雪原」のプレートがはまっています。


(以下、後編につづく)

冬の幽霊2017年01月09日 15時44分43秒

強い風がコツコツと窓を叩く晩。
雪の降り積もった丘を越え、白い衣に身を包んだ「彼ら」は無言でやってくる。
西洋の、それも北の国のお化けは、夏よりも冬が似合うような気がします。

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こんな本を手にしました。


(タイトルページ)

International Geodedic and Geophysical Union
 『Photographic Atlas of Auroral Forms』
  A.W. Brøggers Boktrykkeri(Oslo)、1951

「国際測地学及び地球物理学連合」が、オスロの出版社から刊行した『オーロラの形態写真アトラス』という、22ページの薄手の本です。判型はほぼA4サイズ。

この「国際測地学及び地球物理学連合」という学術組織は、1930年に英語名を「International Union of Geodesy and Geophysics」と改称していますが、依然旧称のままなのは、本書が1930年に出た本の再版だからです。

序文を見ると、同連合の地磁気・地球電気部門(the Section of Terrestrial Magnetism and Electricity)が、1927年にプラハで会合を開き、オーロラの眼視観測の標準化を図るとともに、オーロラの形態に関する写真図鑑を編纂することを決め、ノルウェーのStørmer教授をリーダーに、カナダ、デンマーク、フィンランド、イギリス、スウェーデン、アメリカの研究者から成る委員会を結成し、その成果としてまとめられたのが本書だそうです。


例えば、「HB」と「PA」に分類されるオーロラのページ。
見開きの左側が解説、薄紙をはさんで右側が図版になっています。


こちらが写真図版。


頁を傾けると、そのツルツルした質感が分かりますが、この図版は6枚の写真を1枚の印画紙に焼付けた「紙焼き」で出来ています。当時のオフセット印刷では、オーロラの微妙な明暗を表現できないため、このような手間のかかる方法を採ったのだと思いますが、これは少部数の学術出版物だからこそ出来たことでしょう。本書にはこうした図版が8ページ、都合48枚のオーロラ写真が収録されています。

なお、HBとは「Homogenous bands」の略で、均質な帯がときにまっすぐ、ときに曲がりくねって見られるもの。図版でいうと、上の4枚がそれに当たります。いっぽうPAとは「Pulsating arcs」の略で、弧状に天にかかったオーロラの一部が、数秒ごとに輝いたり薄れたり脈動するもので、いちばん左下のオーロラがそれです。(右下のボーっとした1枚は、「DS(Diffuse luminous Surfaces)」に分類されるもので、空の一部が紗のような光を帯びるオーロラ。)


各写真には、それぞれこんなデータが付されています。写真番号、撮影地、日付、年次、そして写真中央部の位置が、地上座標(地平からの「高度」および真南を基線とし、西回りに360度で表示した「方位」)で示されています。

年次を見ると、各写真は1910~27年に撮影されたもので、写野は約40度四方に統一されているため、それぞれのオーロラの見た目の大きさを比較することができます。


頭上からスルスルと理由もなく下りてくる垂れ幕。


奇怪な生物のように身をくねらせる不整形な光の塊。

ここには最近のオーロラ写真集のように美しい色彩は皆無ですが、それだけにいっそうその存在が、幽霊じみて感じられます。

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北極圏の人は、オーロラを見慣れていて、特に何の感興もないようなことを聞きますが、昔の人はオーロラを見て、やっぱり怖さを――あるいは怖いような美しさを――感じたんじゃないでしょうか。


天からの手紙に貼る切手2017年01月07日 13時36分57秒



雪と雲の切手。
以前に登場したものもありますが、最近はこうやって律儀にストックブックに入れてあるので、「一望する」喜びが増しました。


「雪は天からの手紙である」と言いますが、その手紙には、ぜひこういう切手が貼ってあってほしいものです。


今から10年前の2007年(~2008年)は、国際極年(International Polar Year)に当り、各国が共同して、極地観測プログラムに取り組みました。
上のスキッと澄んだ切手は、それを紀念してフィンランドで発行されたものです。

切手の右下にある地図で、北緯65度と70度の間に引かれた点線は、北緯66度33分の北極線。この線より北が北極圏になり、夏は白夜、冬には極夜が生じます。フィンランドは、その北部がすっぽり北極圏に入っていますが、この極北の地にも村があり、町があり、人が住んでいる…というのは、「今年は雪が遅いね」とか言っている暖国の人間には、ちょっと現実離れして感じられます。でも、現実に人は住んでいて、トナカイ料理をふるまうレストランがあったりします。

(フィンランドの北の端にある「DEATNU RESTAURANT」。トナカイのソテーは28.6ユーロ也。http://www.holidayvillagevalle.fi/en/restaurant/

それにしても、2007年といえば、ついこのあいだのような気もしますが、もう10年も経ったのですね。まあ2017年だって、もう50分の1が過ぎたのですから、それも仕方のないことでしょう。


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【閑語】(ブログ内ブログ)

これまで通らなかった法案がどんどん通る。
これまで通らなかったのは、それだけの理由があるわけで、その理由自体は昔とまったく変わらないのに、法案だけがどんどん通るというのは、国会が、そして世の中一般が変ってしまったからです。それも確実に悪い方向に。

自分の生まれ育った国が無残に壊れるのを目にするのは、あまり愉快な気分ではありません。「世の中が変質するとは、こういうことか」と、体験的に学べたのは良かったですが、その代償はあまりにも高くつくものでした。

日本の自壊もいよいよ仕上げの段階に入り、「共謀罪」という、これまた歴史的な悪法の成立がもくろまれています。悪用しようと思えば幾らでもできるという意味で、これは無敵の大悪法ですが、それだけに政権は是が非でも成立させたいところでしょう。

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ただ、歴史は常に複線的なので、今後、世の中がいっそう悪く変化するにしても、その変化の過程には、まだまだいろいろあるはずです。この世に生きた証として、それをしっかり目に焼き付けておこうと思います。

安倍という人物の力の源泉が「日本会議」という右派団体であり、その中枢にいるのが、かつての右翼学生あがりの人物たちだ…というのは、今や広く知られる事実でしょう。端的にいって、安倍氏は彼らの傀儡です。安倍氏とアドルフとの大きな違いはそこです。

と同時に、安倍氏は一部財界の傀儡でもあり、何と言ってもアメリカという国家の傀儡でもあります。そして、日本会議と財界とアメリカが、全部同じ方向を向いているはずはないので、どうしてもどこかに軋みが生じます。先に対ロシア問題で迷走したのも、その軋みの現れだと思います。

日本会議中枢の思惑を勝手に忖度すれば、
  「御輿に担ぐには、操りやすい人間の方が良い。
  だが愚か過ぎては、担ぎ甲斐がない。
  さらに自分が御輿であることを忘れて、勝手なことを始めるのは何より良くない。」

というところかと思います(単なる想像です)。

日本会議が次の御輿探しを始める頃、水面下で暗闘が始まり、第2の政変が起こる…という勝手予想をしているのですが、これは全然外れるかもしれません。
いずれにしても、傀儡体制が続く限り、仮に首がすげ替っても、それで事態が収束するわけでないことは、しっかり頭に入れておきたいです。


南極の海をゆく(3)2016年08月09日 20時46分41秒

南極の話をしても、暑いものは暑いですね。
でも、一昨日はツクツクボウシを聞き、ゆうべはコオロギの声を聞きました。
晩夏へ、そして初秋へと、季節は舵を切りつつあります。

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幻の島・エメラルド島も通りすぎると、記述はいきなり南極大陸に飛びます。
この間の情報はゼロなので、羅針盤だけが頼りですが、ひたすら南進すれば南極に至ることは確実なので、この辺は大胆に行きましょう。

説明の便のため、前回の地図をもう1度出しておきます。


今、我々は右下のマッコーリー島の南側にいて、南極大陸のウィルクスランドを目指しています。上の地図は、「ウィルクスランド」の文字がちょっと上(西)に寄りすぎているので、これまた前回掲出した1904年のドイツの地図から、ウィルクスランド付近の拡大図を載せます。

(図中の略語は、B.(Bucht ~湾 英:Bay)、K.(Kap ~岬 英:Cape)、Ld.(Land)、Sp.(Spitze ~山、~峰 英:Peak)の意だと思います。)

とはいえ、南極というのは、どこが陸やら氷やら、「私は陸地を見た」と主張する人も、実際には何を見たのかあやふやで、しかも新発見の先取権争いも絡んで、地名ひとつとっても、はっきりしないことが多く、こうして↓現代の日本で発行された地図(昭文社)と並べても、ずいぶん地名やその範囲が違います。


ここでは経緯線に注目すると、両者を比較しやすいですが、右側の日本の地図でいうと、右上の隅にチラッと東経100度の線が写っていて、その下の「ウィルクスランド」の「ル」の字を通るのが東経110度の線です。以下、時計回りに120度、130度…ときて、左端の垂直線が東経180度の線。ドイツの地図は左端が切れているので、東経160度の線で終わっています。

また、緯度の方は、それぞれ左上から南緯80度、70度、60度の線で、それと平行してほぼ南極大陸の縁に沿った点線が描かれています。これは「南極圏」を示す南緯66度33分55秒の線で、これより高緯度地帯では、夏の白夜・冬の極夜が生じます。

一見して明らかなように、100年前は、南極圏の線を超えて、大陸がはみ出して描かれている部分が多く、当時は氷舌(棚氷の端部)と陸地を見分け難く、またそれだけ今より寒冷だったのでしょう。

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…と、話がくだくだしいですが、そこが未知の大陸たるゆえんです。

そんなわけで、ウィルクスランドの範囲も伸び縮みがあって、今は西につづまっていますが、昔はジョージ5世ランドあたりまで伸びていて、ウィルクスランドの名前は、この辺一帯を1840年に探査した、チャールズ・ウィルクス(米)にちなむものです。

「Wilkes は1840年1月23日南緯67度4分、東経147度30分に於て15浬に亙〔わた〕り1湾を探検せりと称す。湾は幅25浬にして、全く氷に鎖さる。彼は之を Dissapointment Bay と命名せり。」 (p.236)

Dissapointment Bay(絶望湾)とは、何と救いのない名称だろうと思いますが、それはドイツの地図にもしっかり載っています。そして、その右(西)隣の凹所――古い地図でははっきりしません――が、Commonwealth Bay (連邦湾。ここは1911~1914年に、ダグラス・モーソン(豪)がオーロラ号で精査した地域です。

Commonwealth Bay  Alden Point と Cape Gray との間、幅約27浬にして、約12浬凹入す。西側の氷崖は高さ約31米にして、後方に斜面を成す積雪は、高さ約396米まで隆起す。Alden Point の東方12浬の Cape Hunter に若干の露出せる黒色岩及南極海燕の巣窟あり(第232頁対面対景図第65参照))。」 (p.237)

その第65図が以下です。


手前のごつごつした岩のようなものは、高さ31メートルの氷の崖。その後は一面の雪の斜面で、それが400メートル近くまで盛り上がっているというのですから、恐るべき絶景です。この景色を前に停泊してみます。

錨地  Aurora号は Commonwealth Bay 内、水深18-45米(10-25尋)の処二投錨せしも、錨地は甚しく暴露し、且急深にして水深不斉なりき。Cape Hunter を距る1浬の処にて775米(424尋)の水深を測得せり。」 (同)

オーロラ号に乗ったモーソンたちは、この湾内に探検のための本部を設置しました。が、陸地については「全く氷に鎖され、其の西部以外は僅に陸岸より探検せしのみ」(p.236)という状況だったので、内陸部の地図が真っ白でも止むを得ません。

何といっても、ここは名にし負う南極大陸なのです。細心の注意を払っても、なおかつ危険に満ちた場所であり、その証拠が湾内のデニソン岬には歴然とあります。

Cape Denison 〔…〕は殆ど湾の中央に位する高さ約12米の氷河作用による堆石にして、其の両側に高さ18-46米の氷崖あり。此の角の沿岸は著しく起伏し、内陸1粁〔km〕の処にて43米迄隆起す。Cape Denison に1913年東方の探検中死亡せるDr. Mertz 及 Lieut. Ninnisの紀念の為、十字架を建設しあり。」 (同)

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…という辺りで、このアウェイの話題も、そろそろ引き返した方が安穏のようです。
とりあえず、この真夏の最中、南極の端っこを望見できただけでも、今回は良しとしましょう。

(この項、尻つぼみになっておわり)

南極の海をゆく(2)2016年08月07日 17時45分09秒

この『南極洋水路誌』は、当然のことながらエリア別の記述になっています。

(南極近辺の地理。ウィキペディアより)

まず「第1編 総記」につづく「第2編」は、上の図の左上、サウス・ジョージア島から、サウス・オークニー諸島、サウス・シェトランド諸島を経て、「ゾウの鼻」に当る南極半島にとっつく海域を叙しています。これはヨーロッパ方面から南極に向う一番の近道であり、いわば表街道です。いきおい関連する資料も多いのか、本文264頁の本書の中で、この第2篇だけで98頁を占めています。

一方、日本からまっすぐ南進し、オーストラリアの脇を迂回して南極に至るルートは、本書第5編の、「Macquarie Island-Emerald Island-東経130度至東経160度 Antarctica 並ニ Wilkes Land、Adélie Land 及 King George V Land」に記載があります。上の地図でいえば、右下のマッコーリー島から南極大陸のウィルクスランドに至る海域です。書籍中のボリュームはわずかに11頁。こちらは南極への裏街道といったところです。

まあ、裏道とは言え、我が日の本を発ち出でて向かおうというのですから、このルートで南極に向うことにしましょう。

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まずは1810年に「New South Wales ノ総督ノ名ヲ採リテ斯ク命名」したという、マッコーリー島に立ち寄ります。

ニュージーランドの南に浮かぶオークランド諸島を足掛かりにすれば、「Auckland Islands の South-west Cape の229度〔ほぼ南東〕、340浬に位す」るのがマッコーリー島で、位置は南緯54度37分、東経158度54分。

現在はオーストラリア領で、南極へのとば口に当ります。南北18浬、幅3浬…といいますから、キロに直せば、南北33km、幅5.6kmほどの細長い島です。

その景観はというと、

「丘陵は殆ど直接海際より隆起し、僅に狭き礫浜を存するのみ。但し西岸北端の方に可なり広き平地あり。礫浜の上方に泥炭及び湿地あり。又高地には多数の小湖あり。島の概観は非常の瘠地〔やせち〕にして、樹木又は灌木なく、僅に貧弱なる苔類あるのみ」 (p.229)

であり、「島に住民なく、又規則正しく来航する者もなし」という僻遠の島ですが、

「海象〔セイウチ〕及び海豹〔アザラシ〕多く、特に10月以後は仔を生む為来るを以て、一層夥多なり。「ペンギン」鳥も多し。」 (同)

と、寒地の動物たちにとっては、一種の楽園となっています。

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『南極洋水路誌』の水路誌たる由縁は、その航海情報の精確さにあります。

では、このマッコーリー島に停泊・接岸・上陸するにはどうすればよいのか? 
本書にしたがえば、東岸北端にあるバックルス(Buckles)湾や、南端にあるルスティアニア(Lustiania)湾、あるいは島の北端にあるハッセルバラ(Hasselborough)湾が、その適地だと教えてくれます。

例えばバックルス湾から上陸を試みるとしましょう。
マッコーリー島の北端には、瘤状に突きだした半島状の地形があり、ワイヤレス・ヒル(Wireless Hill)と命名されています。

Buckles Bay   地頚〔=ワイヤレス・ヒルの付け根〕南東側に於ける沿岸の小凹入部なり。湾岸に約3鏈〔1鏈=0.1浬=約185メートル〕の間、纏布せる海藻帯の外側には、険礁なきが如し。此の著しき沿岸堆上の測得最小水深は11米(6尋)なり。」 (p.231)

そして、ここに停泊するには、

錨地   船舶は Wireless Hill 南端下の緑塗小舎を296度に見て、之に向針し、Finger and Thumb Point の外方尖岩(礁の先端に非ず)と Tom Ugly Point の外端とを一線に見て、水深21米(12尋)の処に投錨すべし。然らば十分海藻帯の外側に位置すべし。」 (同)

本書の著しい特徴は、場所ごとに記述の精粗が大きいことです。
上の記述は、最も細かい部類で、さらには上記の「緑塗小舎」が、かつてのアザラシ猟者の小屋であり、「一部破壊せるも、其の内の罐〔ボイラー〕は好目標たり」という点にまで説き及んでいます。そして、ここまで来れば、「普通の天候時には上陸容易なり。最好上陸所は海藻纏布せる岩線の内側、最北の海豹小舎直下の浜岸なり」。

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マッコーリー島を出て、さらに南方に向うと、ビショップ・アンド・クラーク諸島という小島が見えてきます。

(北北東方3鏈ヨリBishop and Clerk Islands ヲ望ム)

その脇を超えて、さらに進めば、そこに「エメラルド島」という美しい名前の島があります。上の南極周辺図には、その名が見えないので、もっと大きい地図を見てみます。


上は1904年にドイツで出た南極地図の一部。オーストラリア~南極大陸の海域です。その中央左下あたりを拡大すると、マッコーリー島とエメラルド島が見えてきます。

(たくさんの不整形な島状のものは、この近辺まで群氷がやってくることを示しています)

何と言っても、マッコーリー島では、壊れかけの緑色の小屋にまで言及しているぐらいですから、エメラルド島も楽勝だろうと思うと、さにあらず。

そもそも、エメラルド島は、複数の航海者の誤認に基づいて記載された、幻の島(phantom island)」の1つで、今では地図から抹消されています(上の1904年の地図も、よく見ると「?」が付いています)。

いよいよこの辺りから、『南極洋水路誌』に全面的に寄りかかることの許されない、謎の多い海域に入るのです。細心の注意を払って、さらに大陸に向けて南進します。

(この項つづく)


【付記】 これを書いている今は、あくまでも1940年の気分なので、安易にネットを覗き見るのはご法度ですが、ウィキペディアに載っているマッコーリー島はこんな場所でした。海岸に群れているのはペンギンたちです。



南極の海をゆく(1)2016年08月06日 14時39分50秒

さて、めげずに南極です。

「南極」というのは、本来「南極点(South Pole)」を指す言葉でしょうが、ここでは広く「南極大陸(Antarctica)」や、その周辺も含めた「南極地方」の意味で使うことにします。

「南極地方」の定義も様々ですが、大雑把に言えば、南緯60度の線で囲まれたエリアにあたります。分かりやすく北半球に置き換えてイメージすると、北緯60度線は、アラスカ、グリーンランド、フィンランドをすっぽり含み、シベリア北部を横断し、カムチャッカ半島の付け根を通る線になります。

南北で大きく違うのは、北半球だと、60度線以北にも人がおおぜい定住していますが、南緯60度以南は、南極大陸と、いくつかの島がポツポツ存在するだけで、ほぼ無人の地域だということです(これは端的に言って、南緯60度の方が、北緯60度よりも寒いせいです)。

(南北の60度線)

本書、『南極洋水路誌』が記載するのは、ここでいう「南極地方」よりもさらに広く、南米、アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドの南端を結ぶ線と、南極大陸に囲まれた海に関する情報です。

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この本を読んでいて、「なるほど」と思わず膝を打つことが、いくつかありました。

(1909年、シャクルトン隊を迎えるニムロド号。シガレットカード「極地探検」シリーズより。ジョン・プレイヤー社、1915年)

例えば群氷、すなわち群れ成す流氷に関する以下のような記述。
(以下、原文の漢字カナを漢字かな表記とし、適宜改行、句読点を補いました。)

「群氷を通航する方法は、船舶の種類に依り大差あり。
氷に対して特に設計したる木造船は、氷に挟まれ、又は閉塞せらるる危険ある場合と雖も、強圧する群氷内に故障なく進入し得べく、斯かる場合、鋼船は氷との接著に対する防護あるものと雖も、甚しき損害を蒙るべし。」 
(p.31)

低温の海では、鋼鉄船は木造船よりも氷に弱かった…というのは、金属の表面は氷結しやすく、氷に容易に捉えられて、身動きがままならなかったからでしょう。

さらに、「又、船首の尖鋭なる鋼船は氷中に突入の際、楔の如く締め付けらるるに反し、船首水線下部豊かなる船舶は、此の場合却って氷を排除し得べし。」 (p.31-32)

いかにも氷を断ち割りそうな尖った船首はダメで、ずんぐりした形の方がよい…というのも、実際に経験してみないと、なかなか会得しがたい点です。そして、「群氷通航の金言は」――と、本書は厳かに宣言します。「絶えず動く」ことなり」。

   ★

あるいは群氷の只中で、より進行の容易な、氷のない水面を察知するにはどうしたらよいでしょうか? こういう場合、海面にじっと目を凝らしてもダメで、空の色を見ろと本書は教えてくれます。

「開放せる水域又は広き水路ある方向は、水平線上の暗き空色に依り知り得べし。」 (p.32)

氷が存在する海の上は、氷の反射光でボンヤリと明るいからで、これは群氷を事前に察知するのにも応用できます。

「未だ視界に入らざる群氷の存在する第一の兆は、水平線上に生ずる白色反射光なり、是氷光(Ice blink)として知らるるものなり。」 (p.31)

さらにまた、

「氷に覆はるる陸地に近接する際、陸影を認むるに遠く先〔さきだ〕ちて屡〔しばしば〕黄色を帯びたる朦朧たる陸光(Land blink)を見ることあり」 (p.33)

とあって、氷というのは実に明るいもののようです。

   ★

そして南極の氷といえば、美しく且つ恐ろしい氷山。
その恐ろしさの理由の1つは、海上において氷山は群氷と異なる振舞いを見せ、しばしば我々の予想を裏切るからです。

(ジョン・プレイヤー社の同シリーズより。「氷山の形成」)

「群氷中の氷山は、風の影響を受くること少きを以て、群中他の氷塊と異りたる速度を以て移動すとは、常に称せらるる処にして、他の氷塊より移動遅きを常とす。氷山は水面下の流の為、群氷が風に流されある際、之と異方向に移動することあり、氷に固著せる船舶に対し、氷山が最も危険なるは、斯くの如き状態に於てなりとす。」 (p.27)

氷山はできるだけ早く察知し、危険を回避しなければなりませんが、氷は上述のように明るいので、視界良好ならば、暗夜でも察知に困難はありません。

「晴天の暗夜に於ては、1-2浬の最短距離に於て氷山の視認に殆ど困難を見ざるべし。此の際、氷山は白色又は暗黒の物体の如く見ゆるも、全力航行時と雖も、何等不安を感ぜしめざるべし。」 (p.33)

しかし、ここに思わぬ魔物が潜んでいます。それは月です。

「月は其の月齢及び方位の如何に依り、氷発見に最も有力なる価値を発揮し、又は著しき妨害と為るべし。月に向へば氷山は発見困難と為り、月を背にせば時に昼間に於けると同様遠方より認め得べし。」 (p.33-34)

月は氷山の存在を明らかにし、同時におぼろにもする曲者です。

「甚しく雲多く、月其の間に出没する際は、氷発見特に困難なり。
時として走雲の集団は物体を朦朧たらしめ、船首に認めたる氷山も再び正横か或は正横後に認むる迄、全く見失ふこと屡あり。同様の夜に於て、羊毛の如き積雲及積乱雲は、屡氷山よりの氷光の観を呈することあり。此等想像氷山は、甚だ困惑を生ぜしむるを以て、速力を減じ、甚深の注意を払はざるべからず。」 (p.34)

大海に浮かぶ雲と氷山、そして月。実に夢幻的なイメージですが、船乗りにとっては一瞬の油断もできない、魔の時間であったことでしょう。

   ★

本書冒頭の「第1編 総記」の章は、南極と南極の海の気象条件、海流、地形、動植物、その探検史を倦まず講じて、氷海をゆく心の準備を与えてくれます。
こうして予備学習が済んだところで、いよいよ実地の海に乗り出します。

(この項つづく)

南極に行こうか、行くまいか2016年08月03日 20時50分33秒

南極に行こうと思ったのは、ある本を手にして、何だか行けそうな気がしたからです。
しかし、積ん読状態のその本を開いたら、やっぱり南極に行くのは大変だと思いました。たとえ、それが単なる「脳内旅行」だとしてもです。

(パラフィン紙のカバーがかかっていますが、表紙の地色は濃紺です)

その本とは、『南極洋水路誌』。

■水路部(発行)
 『南極洋水路誌―南極地方沿岸及諸離島』
 昭和15年(1940) 10月刊行

水路部は海軍に付属する組織で、海洋測量や海図の作成を行っていた部局です。言うなれば、陸軍に付属した陸地測量部の海洋版。現在は、海上保安庁にその業務が引き継がれています(陸地測量部の方は国土地理院)。

(遊び紙に押された水路部のスタンプ)

そして『水路誌』は、航海のための情報をまとめたデータブックで、これは日本近海に限らず、7つの海にまたがって作られたのですが、太平洋戦争前夜の1940年、日本からは最果ての地、南極についても、ついにその水路情報がまとめられたのでした。

(本書冒頭の記載)

   ★

こんな懇切なデータブックがあるなら、私も船を一艘借り上げて、南極に向けて帆を上げようか…と一瞬思ったものの、そこに連なる文字は、かなり手ごわいものでした。

まず本文第1ページに「注意」と書かれています。
(原文は漢字カタカナ表記ですが、以下、漢字ひらがなに改めて引用)

 「航海者は本誌記述区域の航海に当りては甚深の警戒を払はざるべからず。◎極めて僅少の港湾以外は精測を経たる処なく又全記事も関係海図と同じく多数の、時として内容相違せる著書より得たる資料を編纂したるものに過ぎず。」

さらに続けて南極概説には、

 「海岸線の大部は殆ど未だ探検せられずして不明なり、約14,000浬〔註:浬は‘海里’の別字。1浬=1.852km〕中探査を経しは約4,000浬、図載せられしは僅に2,500浬にして而も甚だ概略に過ぎず。Antarctica〔註:南極大陸〕海岸の諸部は常に群氷を以て鎖さるるを以て海岸に関する吾人の知識には幾多の間隙あり

   ★

20世紀半ば近くになっても、南極は依然として未知の大陸でした。
現在、我々が知っている南極大陸は、↓こんな形で、ちょっとゾウの横顔に似ています。

(ウィキペディアより)

(拾いもの画像)

しかし、この水路誌所載の南極大陸は、かなりイメージが違います。

(『南極洋水路誌』口絵図)

ちょっと見にくい図ですが、これは実物を見ても、やっぱりはっきりしない図です。


しっかり実線で描かれているのは、ゾウの鼻(南極半島)の先っちょだけで、


あとは、大きく開けた口(ロス海)も、


フサッと垂れた耳の後(ウィルクスランド付近)も、すべて点線でぼんやり描かれていて、輪郭がはっきりしません。まさに「吾人の知識には幾多の間隙あり」です。しかし、だからこそ、そこには困難を乗り越えて赴く価値がある…と当時の人は考えたに違いありません。

   ★

この本を紐解いて(今も読んでいます)、これが単なる「航路ガイド」にとどまらず、恐ろしい氷雪の海を航破する知識の宝典であり、かつ読み物としても面白いことを知りました。

灼熱の2016年の日本を離れ、76年前の世界に降り立ち、私はやっぱり南極を目指すことにします。元より危険は覚悟の上です。

(この項つづく)