七夕短冊考(その7)2022年08月04日 18時39分24秒

身近にひたひたとコロナの足音が迫るのを聞いたかと思うと、気が付いたら自分自身が斃れていた…。まあ本当に斃れたわけじゃありませんが、布団に倒れ込んでいたのは本当です。先週の金曜日から様子がおかしくて、土曜日に検査したら陽性。39度台の高熱が出たのは最初の2日間ぐらいで、今はこうして机の前で普通に過ごしています。

この間ずっと、いつもブログの写真に写り込んでいる書斎に布団を持ち込んで、そこで缶詰になっているんですが、この部屋は元々狭いうえに、いろいろなモノが集積しているので、布団をきちんと敷くこともままなりません。そして自分の趣味とはいえ、剥製とか標本とか人体模型とかに見下ろされて、その隙間で体をくの字にして寝るというのは、病気療養のあり方として好ましいものではありません。呼吸器の病気にはことによろしくない感じです。


一晩だけならまだしも、連日連夜この空間に閉ざされていると、何だかいたたまれない気になって、このままここで入定して即身仏と化すんじゃないか…という気すらしました。今は気分的に楽になりましたが、一昨日ぐらいは残りの療養期間が途方もなく長く感じられたということもあります。

そこで即身仏の積ん読本を読み出したら、現実のミイラ仏の背後には、なかなか切実な事情があることを知って、粛然としました。即身仏になるのも大変です。(でも、条件がそろうと、人間の遺体は意外と簡単にミイラ化するそうですね。沙漠地帯ばかりでなく、湿潤な日本でも、お寺の土塀のくぼみとか、橋の下とか、ひょんなところからミイラが発見された例が本には書かれていました。)

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さて、ブログを放置しているうちに、今日はいつの間にか8月4日です。
以前書いた旧暦の七夕がいよいよ今日。だらだら書いた短冊の話も、ちょっと中だるみの感があるので、この辺で話をおしまいにしなければなりません。以下、はしょって書きます。

戦後の幼児教育の本として、今回以下の3冊を眺めてみました。


■松石治子(著)『子供のための幼児教育十二か月』(ひかりのくに昭和出版、1958)


■富永正(監修)・奈良女子大学幼稚園(編)『園の年中行事』(同、1962)
■舘紅(監修)『心にのこる園行事(保育専科別冊)』(フレーベル館、1979)

これらの中に「短冊の謎」はもちろん書いてなくて、そもそも短冊への言及もほとんどありません。力が入っているのは、むしろ各種の七夕飾りの製作です。

例えば1962年に出た『園の年中行事』を見ると、「ささ飾りをするにしても、従来のきまりきった短冊などにこだわらず、画紙・色紙・セロファン紙などを使って工夫創作することを教え」云々とあって(p.104)、短冊は雑魚キャラというかモブ扱いですね。ただ裏返すと、この書きぶりからは旧来の「天の川」「七夕さま」式の短冊が、まだこの頃は健在だったのかな…という推測も成り立ちます。

(園行事としての七夕。『園の年中行事』より)

以下は、そのもうちょっと前、1958年に出た『子供のための幼児教育十二か月』の1ページです。


イラストの笹飾りには、たしかに「天の川」と書かれた短冊がぶら下がっています(p.111)。さらに、同じページには、「七夕まつりの仕事」として、以下の活動例が挙がっています。

○短冊形の紙に画をかく(自分のすきな画をたてにかく)
○折紙で輪つなぎを作る
○折紙ですきな物を折る
○色紙で短冊やあみ等を作る
○色紙できものやほおずきを作る
○画用紙で星や胡瓜やすいか等を作る
○大きい星形の冠を作って彩色をして、それを冠ってリズムあそびをする
○笹竹を飾ってみんなで歌やリズムやおはなしなどをしてあそぶ

今とあまり変わらない感じもしますが、ただ戦後13年が経過したこの時点でも、「短冊イコール願い事」という定型(お約束)の成立は、まだ確認できません(別の個所(p.113)には、「七夕の笹に、色紙や短冊をかざりますね。短冊に自分の名前や、天の川、と書きますね。」ともあって、やっぱり願い事は書いてなかったようです)。ただ、短冊形の紙に自由画を描くという活動が、その萌芽のようにも思えます。(余談ながら、ここに出てくる「きものやほおずきを作る」とか、「胡瓜やすいか等を作る」とかは、相当古い習俗をとどめていますね。民俗が園の中で生きていた時代でもありました。)

最後の『心にのこる園行事』(1979)を見ると、七夕飾りにもプラスチック工作が登場していたり、すっかり今風になっています。

(p.86。左上のプラボトル製の魚に注目)

この本で興味深く思ったのは、「七夕のいわれ」というコラム記事です。
そこには「〔…〕江戸時代になると、一般にも広く行われるようになって、現在のように竹や笹の枝にいろいろな願いを書いた短冊などを結びつけて飾ったり、これを川に流したりするようになりました。」と書かれていました(p.83)。


もちろん、こんなふうに話が単純だったら、私がここまで字数を費やす必要もないわけで、この記述は明らかに事実誤認を含むのですが、この1979年の時点では、保育現場で短冊に願い事を書くことが自明視されるまでになっていたことを示すものだと思います。

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他にも、これは小学校での例ですが、毎年七夕の時期になると、教え子に願いごとを作文に書かせ、それを文集にまとめた先生の実践記録とか[1]、班ごとに七夕飾りを製作し、短冊に書いてある自分の願い事を発表しあった例とか[2]を目にしました。いずれも1960年代後半のことです。

ひょっとしたら、短冊に願いごとを書くのは、小学校での教育実践が先行しており、それが幼稚園・保育園に下りてきた可能性もあります。いずれにしても、全国津々浦々で、七夕竹に願いごとを書いた短冊がぶら下がるようになったのは、1960年代を画期として始まり、70年代に入ると、それが新たな習俗として確固たるものとなった…という新たな仮説を提示して、一応この項を結んでおきます。

無理やり七夕に間に合わせましたが、どうもあまりパッとしない内容で、空の方も今夜は涙模様ですね。今年の七夕はいろいろあかんかったです。


(この項おわり)

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【註】

[1]  鴨井康雄(編)『明日を呼ぶ子ら―重い障害をもつ子どもと教師の記録』、明治図書、1970. pp.58-59.及びpp.102-110.

[2] 今回の記事はGoogleの書籍検索にだいぶ助けられました。その中で見つけたのが、次の引用文です。

「できあがってから七夕祭をしました。各班ごとにできあがるまでのようすを発表しあい、ひとりひとりが立ちあがってたんざくに書いてある自分の願いを読みあげぎ(とうもろこし)早くくいたいなあ」。はじめ子どもたちは前の経験から「七夕 ...」

これが引用の全文で、前後は一切分かりません。Googleの書籍検索でひっかかる古い資料は、たいていアメリカの大学がスキャニングしたもので、著作権の関係で日本からだと断片しか読むことができません。しかも、多様なレイアウトの資料を無理やり機械に読ませているので、意味不明の判じ物のようなものが多く、内容を確かめるには別途原典に当たらないといけないのですが、これはまだ原典に行きついていません。

一応の出典は、「Bunka hyōron - 第 76~81 号 - 12 ページ - 1968」となっていて、おそらくは「文化評論」(新日本出版)第78号(1968年3月号、特集・教師の記録―次代の日本のために)掲載の文章ではないかと想像しています。ちなみに同号の12ページは吉成健児氏による「分校の子どもたち」という記事です。国会図書館からコピーを送ってもらえばはっきりするのですが、そこまでするか?という気もするので、これは今のところ参考引用です。