名残の空2022年12月31日 17時52分54秒

霽(は)れてゆく 名残の空と なりにけり   大文字

形ばかりの大掃除を済ませ、年越しそばも食べ、あとは除夜の鐘を聞くばかりです。
今年も「天文古玩」にお付き合いいただき、ありがとうございました。
年末は少ししおらしい記事を書きましたが、来年はモノとの付き合いが今以上に濃密になるといいなと思います。そしてもちろんモノばかりでなく、人とのふれあいも。

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白いものに覆われた古びた屋敷。
すでに雪雲は吹き払われて、空には三日月と満天の星が静かに光っています。
1911年の消印を持つ、ドイツ製の美しいクロモリトグラフ絵葉書。当時のドイツは絵葉書を盛んに輸出していたので、これも輸出仕様の英語表記で、差出地は米国カンサスです。


月が沈めば夜の闇はさらに深く、空には新年を予祝する巨大な流れ星が。


「A Happy New Year」を「あけましておめでとう」と訳すと、ちょっとフライングですが、ここでは「良いお年を」の意味に取ってください。

それでは皆さま、どうぞ良いお年を!

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(後編)2022年11月27日 14時30分03秒

(今日は2連投です。)

フリッチ兄弟の父親は、詩人・ジャーナリストであり、チェコの愛国者にして革命家としても著名な人物だった…という点からして、なかなかドラマチックなのですが、二人はパリで少年時代を過ごし、プラハに帰国後、兄は動物学と古生物学を、弟は物理学と化学を学び、1883年、ふたりとも二十歳そこそこで共同起業した…というのは前編で述べたとおりです。

何だか唐突な気もしますが、その前年(1882年)に、兄弟はチェコの科学者の大会に出席し、湿板で長時間露出をかけた顕微鏡写真の数々を披露したのが、大物化学者の目に留まり、その紹介で弟ヤンはドイツの工場に短期の修行に行き、さらに旋盤を購入し…というような出来事があって、それを受けての会社設立だったようです。

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ちょっと話が脱線しますが、ここで「チェコ、チェコ」と気軽に書きましたけれど、当時はまだチェコという国家はありません。あったのは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」です。

(1871年の「オーストリア地図」。オーストリア領の西北部、ボヘミア・モラヴィア地方が後のチェコ、ハンガリー帝国の北半分が後のスロバキア)

1848年に全ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた後、中欧ではハプスブルク家専制に揺らぎが生じ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国が成立します。しかし、チェコやスロバキアの人々はこれに飽き足らず、「自分たちはスラブ人だ。ドイツ人やマジャール人の支配は受けない」という民族意識の高揚――いわゆる「汎スラブ主義」が熱を帯びます。この動きの先にあるのが、1918年の「チェコスロバキア共和国」独立でした。

ここで思い出すのが、先月話題にしたチェコの学校教育用の化石標本セットです。

■鉱物標本を読み解く

(出典:Guey-Mei HSU、”Placement Reflection 3”

台湾出身のグエイメイ・スーさんが手がけたミニ展示会に登場したのは、ヴァーツラフ・フリッチ(Václav Fric、1839-1916)というチェコの博物学者(今回話題のフリッチ兄弟と縁があるのかないのかは不明)が監修した標本セットで、自分が書いた文章を引用すると、こんな次第でした。

 「その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。」

これが当時のチェコの科学界の空気であり、フリッチ兄弟もその中で活動していたわけです。彼らは科学に対する自身の興味もさることながら、科学によって祖国に貢献しようという思いも強かったのではないでしょうか。純粋学問の世界から、精密機械製作という、いわば裏方に回ったのも、そうした思いの表れではなかったかと、これはまったくの想像ですが、そんな気がします。

(フリッチ兄弟社の製品群。Wikipediaの同社紹介項目より))

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話を元に戻します。

フリッチ兄弟はチェコで最初の月写真を撮り、その写真は1886年にポルトガルで開かれた国際写真展で賞をもらったりもしました。彼らの天文学への興味関心は、商売を越えて強いものがあったようです。弟のヤンは1896年、私設天文台の設立を目指して大型のアストログラフの設計図面を引きました。しかし好事魔多し。ヤンは翌1897年に虫垂炎の悪化で急死してしまいます。

兄ヨゼフは二人の夢を実現するために、オンドレジョフ村に土地を買い、建物を建て、後にチェコ天文学会会長を務めたフランチシェク・ヌシュル(František Nušl、1867-1951)の協力を得て、ようやく念願の天文台を完成させます。1906年のことでした。

(写真を再掲します)

そして、そのドームの中には弟の形見として、かつて彼が設計したアストログラフが据え付けれら…というわけで、今回の絵葉書の背後には、そうした「兄弟船」の物語があったのでした。さらにその背後には、チェコの近現代史のドラマも。

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調べてみるまで何も知りませんでしたが、何気ない1枚の絵葉書も、多くの物語に通じるドアであることを実感します。

ちなみにオンジョレドフ天文台は、1928年に国(チェコスロバキア)に寄贈され、曲折を経て、現在は前回述べたとおり、チェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設となっています。またフリッチ兄弟社は、戦後にチェコスロバキアが共産主義国になると同時に国有化され、各製造部門はあちこちに分有され、雲散してしまいました。

(ボーダーに音楽記号をあしらったスメタナ切手。彼のチェコ独立の夢が結実したのが、交響詩「わが祖国」です。)

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(前編)2022年11月27日 13時52分16秒

絵葉書アルバムを見ていて、ふと目に留まった1枚。


表側に何もキャプションがないので、何だかよく分からない絵葉書として放置されていましたが、改めて眺めると、なかなか雰囲気のある絵葉書です。

古びたセピアの色調もいいし、全体の構図や光の当たり方、それに小道具として取り合わせた椅子の表情も素敵です。全体に静謐な空気が漂い、これを撮影した人は明らかに「芸術写真」を狙っていますね。

そして中央で存在感を発揮している光学機器。


その正体は、葉書の裏面に書かれていました。



このチェコ語をGoogleに読んでもらうと、次のような意味だそうです。

「オンドレジョフ近くの天文台にある二連アストログラフ。ヨゼフとヤンのフリッチ兄弟社製。西側ドームに設置され、恒星、小惑星、銀河、彗星、流星の写真撮影に使用されている。」

アストログラフ(天体写真儀)は、天体写真の撮影に特化した望遠鏡です。
欄外に1934年8月15日の差出日があるので、この絵葉書自体もその頃のものでしょう。

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ときに、オンドレジョフとはどこで、フリッチ兄弟とは何者なのでしょうか?

Googleで検索すれば、オンドレジョフ(Ondrejov)天文台が、プラハの南東35kmの位置にあって、現在はチェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設になっていることを、ネットは教えてくれます。(wikipediaの「Ondřejov_Observatory」の項目にリンク)

(オンドレジョフ天文台。手前が東ドーム、奥が西ドーム。Google map 掲載の写真より。Roman Tangl氏撮影)

(上空から見たオンドレジョフ天文台。中央の緑青色のドームが東西の旧棟。それを取り囲むように図書館を含む新棟や天文博物館があります。左手の広場に見えるのは電波望遠鏡のアンテナ群)

フリッチ兄弟についても同様です。
兄のヨゼフ・ヤン・フリッチ(Josef Jan Frič、1861-1945)は若干22歳で、弟のヤン・ルドヴィーク・フリッチ(Jan Ludvík Frič、1863-1897)とともに、光学機器を中心とする精密機械を製造する会社を立ち上げた人。そこで作られたのが上のアストログラフというわけです。

(左は兄ヨゼフ。右は弟のヤン。それぞれチェコ語版wikipediaの該当項目にリンク)

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それにしても、兄弟の事績を読むと、彼等はなかなかの人物です。
そしてオンドレジョフ天文台も、単なるその製品の納入先ではなくて、そもそもこの天文台を創設したのは、ヨゼフ・フリッチその人なのでした。

ちょっと話が枝葉に入るようですが、当時の事情を覗き見てみます。

(長くなるので後編につづく)

ルヴェリエ賛江2022年09月29日 06時44分20秒

パリ天文台の絵葉書は、これまで何枚か載せた記憶がありますが、これはまだだった気がします。

(1910年ごろの石版刷り)

パリ天文台に長く勤め、後に天文台長となったユルバン・ルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier、1811-1877)の銅像です。この像について、コメント欄でお尋ねがあったので、覚えとして貼っておきます。

ルヴェリエの名は、海王星とともに記憶されています。
1846年の海王星発見に関わった役者は何人かいますが、ルヴェリエもその一人。
彼は天王星の位置が計算値と微妙にずれること(摂動)から、そこに未知の惑星が影響していると考え、その位置を計算によって導き出しました。海王星はその意味で、「発見される前に予測された最初の惑星」です。


ルヴェリエはその偉業によって、英国王立天文学会のゴールドメダルを受賞し、こうしてパリ天文台にも立派な銅像が立ちました。

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さて、コメント欄でのお尋ねというのは、「この像が建立されたのはいつか? その際の写真や記録はあるか?」というものでした。パパッと検索したところ、建立時期についてはこちら【LINK】のページに記載がありました。

少し肉付けして引用すると、この記念碑は1889年6月27 日に除幕式があり、式典には当時の公共教育大臣(後に大統領)、アルマン・ファリエール(Clément Armand Fallières、1841 -1931)が臨席し、その面前で様々なスピーチが行われた…という趣旨のことが書かれています。

で、ここからさらに検索すると、以下の同時代資料に行き当たりました。

■La Statue de le Verrier a l'Observatoire de Paris.
 L'Astronomie、vol. 8(1889)、pp.281-284.

フランス語なので詳細はお伝えできないのですが、当日のスピーチを引用しながら、式典の模様が描写されているようです。

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それにしても―。


絵葉書の隅に、こんなかわいいお客様が、ルヴェリエを表敬されていたことに、今の今まで気づきませんでした。人間の目って存外いい加減なものですね。

この少女の存在によって、「無個性な絵葉書」は、にわかに「個性あふれるスナップ写真」となり、その場の空気、匂い、音までも感じ取れるような気がします。
そして、彼女はこの後どんな人生を歩んだのか?…と、連想は静かに続きます。

夜の散歩2021年12月23日 20時48分32秒

昨日は本当の冬至でした。

夜の季節は夜を楽しもうと、このところ夜の散歩を重ねています。
といっても、正真正銘の散歩ではなくて、仕事帰りに最寄りの地下鉄駅のふたつ手前で降りて、ぶらぶら遠回りして帰ってくるだけのことですが、なるべく毎日歩くコースを変えているので、いつも何かしら新しい発見があります。

途中はけっこう起伏に富んでいて、坂をのぼれば遠くに夜景が見えるし、道沿いには暗い木立があり、静かなお屋敷街があり、教会があり、墓場があり、明るいショーウィンドウがあり…。そういう中をコツコツ歩いていると、自分がなんだか稲垣足穂の作品世界の住人になったような気分です。

はたから見たら、いかにも不審者っぽいですが、途中で行き会う人もめったにないので、人目を気にすることなく、月を眺め、星を眺め、夜のにおいを感じながら静かに歩けるのは、寒い冬の夜なればこその愉しみでしょう。


ときどき思い出したように購入する月の絵葉書。
夜には夜の華やぎがあり、夜の数だけ物語があります。

フラマリオンの部屋を訪ねる(後編)2021年10月16日 17時24分57秒

フラマリオンの観測所にして居館でもあったジュヴィシー天文台は、これまで何度か古絵葉書を頼りに訪ねたことがあります。まあ、そんな回りくどいことをしなくても、グーグルマップに「カミーユ・フラマリオン天文台」と入力しさえすれば、その様子をただちに眺めることもできるんですが、そこにはフラマリオンの体温と時代の空気感が欠けています。絵葉書の良さはそこですね。


館に灯が入る頃、ジュヴィシーは最もジュヴィシーらしい表情を見せます。
フラマリオンはここで毎日「星の夜会」を繰り広げました。


少女がたたずむ昼間のジュヴィシー。人も建物も静かに眠っているように見えます。

(同上)

そして屋上にそびえるドームで星を見つめる‘城主’フラマリオン。
フラマリオンが、1730年に建ったこの屋敷を譲られて入居したのは1883年、41歳のときです。彼はそれを天文台に改装して、1925年に83歳で亡くなるまで、ここで執筆と研究を続けました。上の写真はまだ黒髪の壮年期の姿です。


門をくぐり、庭の方から眺めたジュヴィシー。
外向きのいかつい表情とは対照的な、穏やかな面持ちです。木々が葉を落とす季節でも、庭の温室では花が咲き、果実が実ったことでしょう。フラマリオンは天文学と並行して農業も研究していたので、庭はそのための場でもありました。

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今日はさらに館の奥深く、フラマリオンの書斎に入ってみます。


この絵葉書は、いかにも1910年前後の石版絵葉書に見えますが、後に作られた復刻絵葉書です(そのためルーペで拡大すると網点が見えます)。


おそらく1956年にフラマリオンの記念切手が発行された際、そのマキシムカード【参考リンク】として制作されたのでしょう。


葉書の裏面。ここにもフラマリオンの横顔をかたどった記念の消印が押されています。パリ南郊、ジュヴィシーの町は「ジュヴィシー=シュロルジュ」が正式名称で、消印の局名もそのようになっています。
(さっきからジュヴィシー、ジュヴィシーと連呼していますが、天文台の正式名称は「カミーユ・フラマリオン天文台」で、ジュヴィシーはそれが立つ町の名です。)


書斎で過ごすフラマリオン夫妻。
夫であるフラマリオンはすっかり白髪となった晩年の姿です。フラマリオンは生涯に2度結婚しており、最初の妻シルヴィー(Sylvie Petiaux-Hugo Flammarion、1836-1919)と死別した後、天文学者としてジュヴィシーで働いていた才女、ガブリエル(Gabrielle Renaudot Flammarion、1877-1962)と再婚しました。上の写真に写っているのはガブリエルです。前妻シルヴィーは6歳年上の姉さん女房でしたが、新妻は一転して35歳年下です。男女の機微は傍からは窺い知れませんけれど、おそらく両者の間には男女の愛にとどまらない、人間的思慕の情と学問的友愛があったと想像します。


あのフラマリオンの書斎ですから、もっと天文天文しているかと思いきや、こうして眺めると、意外に普通の書斎ですね。できれば書棚に並ぶ本の背表紙を、1冊1冊眺めたいところですが、この写真では無理のようです。フラマリオンは関心の幅が広い人でしたから、きっと天文学書以外にも、いろいろな本が並んでいたことでしょう。


暖炉の上に置かれた鏡に映った景色。この部屋は四方を本で囲まれているようです。


雑然と積まれた紙束は、新聞、雑誌、論文抜き刷りの類でしょうか。

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こういう環境で営まれた天文家の生活が、かつて確かに存在しました。
生活と趣味が混然となったライフタイル、そしてそれを思いのままに展開できる物理的・経済的環境はうらやましい限りです。フラマリオンは天文学の普及と組織のオーガナイズに才を発揮しましたが、客観的に見て天文学の進展に何か重要な貢献をしたかといえば疑問です。それでも彼の人生は並外れて幸福なものだったと思います。

なお、このフラマリオンの夢の城は、夫人のガブリエルが1962年に亡くなった際、彼女の遺志によってフランス天文学協会に遺贈され、現在は同協会の所有となっています。

プラネタリウムの美学(後編)2021年09月09日 08時34分53秒

もう一つの「カッコいい」プラネタリウムのイメージを載せます。


上はカール・ツァイス社が出した、自社製品紹介パンフ(1951年)。
プラネタリムの象徴ともいえる、真っ黒なダンベル型のフォルムが、碧い星空をバックに浮かび上がり、ハ-ドなカッコよさが横溢しています。

今もカッコよく目に映るということは、このカッコよさはかなり普遍性を備えたもので、たとえば大阪市立電気科学館の古絵葉書↓を見ると、戦前の日本でも同じような美意識が共有されていたことが分かります。

(モチーフは同館のツァイスⅡ型プラネタリウム)

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プラネタリウムはその映像、すなわち「ソフト」が肝で、それこそが人々の心を捉えるのでしょうが、それを生み出す「ハ-ド」のほうも、それに劣らずカッコいい。このデザインは、一体どのようにして生まれたのか?


もちろん普通に問えば、「機能を形にしたらこうなった」という当たり前の答が返ってくるでしょう。でも本当にそれだけなのか…?

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プラネタリウムが誕生した20世紀の第1四半期は、インダストリアル・デザインの考えが、やはりドイツで生まれた時期と重なっています。

機能を追求すれば、おのずとそこに用の美が生まれる…というのは素朴すぎる考え方で、「カッコいい」デザインが生まれるためには、やはり機能性と形象美を両立させようという、作り手の明確な意識が必要です。無骨な工業製品であっても、やはり美しさが必要だと考えたのが、当時のインダストリアル・デザイナーたちで、ツァイスの技術者も、意識的か無意識的かはさておき、その影響を受けて投影機を設計したのは、ほぼ確実だという気がします。

バウハウスで学んだXanti Schawinsky(1904 –1979)がデザインした、オリベッティ社のタイプライター。Wikipediaより)

ひょっとしたら、そのことを論じた人もすでにいるかもしれませんが、今はまったく資料がないので、この話題はネタとしてとっておきます。

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また投影機だけではなく、プラネタリウムのドーム建築にも、当時の建築思潮――たとえば歴史主義とモダニズムとの相克――の影響が見て取れるはずですが、このことも今は文字にする準備がありません(何だかんだ竜頭蛇尾で恐縮ですが、たぶんこれは同時代の天文台建築史と重なる部分が大きく、そこからきっと道も開けることでしょう)。

(上記パンフレットに掲載された世界のプラネタリウム。左上から反時計回りにベルリン、マンハイム、ローマ、ハノーヴァー)

(同 フィラデルフィア、ハーグ、ブリュッセル、ロサンゼルス)

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余談ながら、ツァイス投影機の魅力(の一つ)は、そのメカメカしさにあると思うので、それを論じるには「メカメカしさの美の系譜」という切り口も必要になります。そうなると松本零士氏が描く、いわゆる「松本メーター」なんかも、きっとその俎上に載ることでしょう。(というか、ツァイスのプラネタリウムを見ると、私はいつも松本作品を連想します。)

(ネット上で見かけた松本作品より)

謎の学校天文台2021年08月29日 08時34分00秒

1枚の絵葉書を買いました。謎の多い絵葉書です。


そこに写った2枚の写真には、それぞれ「天文台」、「屋上観望台 望遠鏡」とキャプションがあります。一見してどこかの学校の竣工記念絵葉書と見受けられます。しかし、どこを写したものか、まったく手がかりがなくて、それが第1の謎です。

(裏面にも情報なし)

(右側拡大)

背景に目をやると、ここは人家の立て込んだ町の真ん中で、遠近に煙突が見えます。戦前に煙突が櫛比(しっぴ)した都市といえば、真っ先に思い浮かぶのは大阪ですが、まあ煙突ぐらいどこにでもあったでしょうから、決め手にはなりません。

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この天文台の載った建物は、隣接する木造校舎に接ぎ木する形で立っていて、この真新しい鉄筋校舎の竣工記念絵葉書だろうとは容易に想像がつきます。

1つ不思議に思うのは、この天文台が計画的に作られたものなら、当然新校舎内の階段を通って屋上に出ると思うのですが、実際には旧校舎の「窓」から、急ごしらえの階段をつたって屋上に至ることです。なんだか危なっかしい作りです。となると、この天文台は計画の途中で、無理やり継ぎ足されたのかなあと思ってみたり。でも、そのわりにこの天文台は立派すぎるなあ…というのが第2の謎です。

【8月29日付記】 
記事を上げてから思いつきましたが、この新校舎の各教室に行くには、旧校舎から水平移動するしかなくて(壁の一部を抜いたのでしょう)、新校舎内部には一切階段スペースがなかったんじゃないでしょうか。だとすれば、第2の謎は謎でなくなります。

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実際、この天文台はひどく立派です。
この絵葉書は大正年間のものと思いますが、当時の小学校――写真に写っている風力計や風向計は、高等小学校レベルのものでしょう――にこれほどの施設があったというのは本当に驚きです。

以前紹介した例だと、大正12年竣工の大阪の船場小学校にドームを備えた天文台がありました。


船場小は地元財界の協力もあって、特に立派だったと思うんですが、しかし今日のはそれよりもさらに立派に見えます。

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そして、左の写真に写っている望遠鏡も実に本格的です。

(左側拡大)

メーカー名が不明ですが、乏しい知識に照らすと、野尻抱影の愛機「ロングトム」↓に外見がよく似ています。


口径4インチのロングトムよりも若干小ぶりに見えますが、架台を昇降させる特徴的なエレベーターハンドルがそっくりです。日本光学製のロングトム――というのはあくまでも抱影がネーミングした愛称ですが――は、昭和3年(1928)の発売。ただし同社はそれに先行して、大正9年(1920)に2インチと3インチの望遠鏡を売り出しており、ひょっとしたらそれかな?と思います。この辺はその道の方にぜひ伺ってみたいところ。

参考リンク:March 2006, Nikon Kenkyukai Tokyo, Meeting Report

上記ページによれば、日本光学製の3インチ望遠鏡(木製三脚付)のお値段は、大正14年(1925)当時で500円。小学校の先生の初任給が50円の時代です。
しかも、この屈折望遠鏡のほかに、ドーム内にはもっと本格的な望遠鏡(反射赤道儀か?)があったとすれば、破格な上にも破格な恵まれた学校ですね。

ちなみに、望遠鏡の脇のロビンソン風力計の真下は、自記式記録計が置かれた観測室だったはずで、それと隣接して理科教室があったと想像します。そこで果たしてどんな理科の授業が行われたのか、そのこともすこぶる気になります。

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こんなすごい学校と天文台のことが、今となってはまるで正体不明とは、本当に狐につままれたようです。

(※最後に付言すると、上の文章には、「これが小学校だったらいいな…」という私の夢と願いが、強いバイアスとしてかかっています。実際には旧制の中学や高校、あるいは女学校なのかもしれません。)

おらがコペルニクス2021年08月22日 11時08分58秒

ときに、昨日の写真撮影の小道具に使った絵葉書に目を向けてみます。


写っているのはもちろんコペルニクスです。
キャプションには「ニコラウス・コペルニクス 1543-1943 没後400年」とあって、これは同年(1943)発行された記念絵葉書です。そして上部には、同じ年に発行された記念切手が貼られ、彼の命日(5月24日)にちなんで、1943年5月24日の消印が押されています。こういう「葉書・切手・消印」の3点セットの記念グッズを、郵趣界隈では「マキシムカード」と呼ぶのだとか。

コペルニクスはポーランドの国民的英雄なので、その銅像は首都ワルシャワとか、トルンとか、あちこちにあるのですが、上の絵葉書は彼が学生生活を送ったクラクフの町にある銅像です。

(バルーンの位置がクラクフ)

背景は彼の母校、ヤギェウォ大学(クラクフ大学)のコレギウム・マイウスの中庭。ただし現在、像はそこにはなくて、戦後の1953年に、同大学のコレギウム・ウィトコフ正面にあるプランティー公園に移設されました(LINK)。

(現在のコレギウム・マイウス中庭。中央下の水盤?みたいな所に、かつて像が立っていました。ウィキペディアより)

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コペルニクスは後世に、もめ事の種を2つ残しました。

1つは言うまでもなく地動説です。これで世界中は大揉めに揉めました。
もう1つはコペルニクス自身のあずかり知らぬことで、揉めた範囲も局地的ですが、「コペルニクスはドイツ人かポーランド人か」という問題です。

上の絵葉書の消印を見て、その論争を思い出しました。


そこにははっきりと、「ドイツ人天文家(des Deutschen Astronomen)没後400年」と書かれています。消印の地は地元クラクフ(Krakau)なのに何故?…というのは愚問で、1943年当時、ここはドイツ軍の占領地域でした。しかも、ナチスのポーランド総督は、ここクラクフを拠点にして、領内に目を光らせていたのです(Krakauはクラクフのドイツ語表記です)。

ですから、ポーランドの人にしてみたら、このマキシムカードは忌むべき記憶に触れるものかもしれません。

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民族意識というのはなかなか厄介です。

日本語版ウィキペディアのコペルニクスの項(LINK)は、

 「19世紀後半から第二次世界大戦までのナショナリズムの時代には、コペルニクスがドイツ人かポーランド人かについて激しい論争がおこなわれたが、国民国家の概念を15世紀に適用するのは無理があり、現在ではドイツ系ポーランド人と思われている。」

とあっさり書いていますが、そう簡単に割り切れないものがあって、実際ドイツとポーランドのWikipediaを見ると、その書きぶりから、この問題が今でもセンシティブであることがうかがえます。

 「ニコラウス・コペルニクス〔…〕はプロイセンのヴァルミア公国の聖堂参事会員であり天文学者」

 「ニコラウス・コペルニク〔…〕ポーランドの碩学。弁護士、書記官、外交官、医師および下級カトリック司祭、教会法博士」

(※ポーランド語版はさらに、「この『ポーランド人天文家(Polish astronomer)』という語は、『大英百科事典』も『ケンブリッジ伝記大百科』も採用している」…という趣旨の注を付けていて、相当こだわりを見せています。)

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広大な宇宙を相手に、普遍的真理を求める天文学にとって、こういうのは些事といえば些事です。でも人間は一面では卑小な存在なので、なかなかこういうのを超克しがたいです。むしろそういう卑小な存在でありながら、ここまで歩んできたことを褒めるべきかもしれません。

柳に月2021年03月29日 06時26分37秒

箸にも棒にもかからぬ…とはこのことでしょう。
戦時中のフレーズじゃありませんが、3月は文字通り「月月火水木金金」で、もはやパトラッシュをかき抱いて眠りたい気分です。しかし、それもようやく先が見えてきました。
まあ4月は4月で、いろいろ暗雲も漂っているのですが、先のことを気にしてもしょうがないので、まずは身体を休めるのが先です。

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今年は早々と桜が咲きました。
花びら越しに見上げる月も美しいし、雨に濡れる桜の風情も捨てがたいです。

そして爛漫たる桜と並んで、この時期見逃せないのが若葉の美しさで、今や様々な樹種が順々に芽吹いて、その緑のグラデーションは、桜に負けぬ華やぎに満ちています。

中でも昔の人が嘆賞したのが柳の緑で、その柔らかな浅緑と桜桃の薄紅の対比を、唐土の人は「柳緑花紅」と詠み、我が日の本も「柳桜をこきまぜて」こそ春の景色と言えるわけです。

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「花に月」も美しいですが、「柳に月」も文芸色の濃い取り合わせ。

(日本絵葉書会発行)

この明治時代の木版絵葉書は、銀地に柳と月を刷り込んで、実に洒落ています。

しかも機知を利かせて、「 の 額(ひたい)の櫛や 三日の 」と途中の文字を飛ばしているのは、絵柄と併せて読んでくれという注文で、読み下せば「青柳の 額の櫛や 三日の月」という句になります。作者は芭蕉門の俳人、宝井其角(たからいきかく、1661-1707)。

青柳の細い葉は、古来、佳人の美しい眉の形容です。
室町末期の連歌師、荒木田守武(あらきだもりたけ、1473-1549)は、「青柳の 眉かく岸の 額かな」と詠み、柳の揺れる岸辺に女性の白いひたいを連想しました。其角はさらに三日月の櫛をそこに挿したわけです。


春の夕暮れの色、細い三日月、風に揺れる柳の若葉。
その取り合わせを、妙齢の女性に譬えるかどうかはともかくとして、いかにもスッキリとした気分が、そこには感じられます。

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惜しむらくは、この絵葉書は月の向きが左右逆です。
これだと夕暮れ時の三日月ではなしに、夜明け前の有明月になってしまいます。でも、春の曙に揺れる柳の枝と繊細な有明月の取り合わせも、また美しい気がします。

(絵葉書の裏面。柳尽くしの絵柄の下に蛙。何だかんだ洒落ています。)