春なのに2025年02月16日 08時52分18秒

昨日はよく晴れて暖かい日でした。
梅もほころび、本格的な春の訪れが近いことを告げています。


私もようやく重い腰を上げて、庭の片づけをしていました。
冬の間、枯れたまま放置していた宿根草を刈り取って、せっせと袋詰めにしたのですが、その下にはすでに青いものが芽吹いており、明るい陽ざしと清新な緑の対比に、絵に描いたような早春の気配を感じました。

しかし好事魔多しとはよく言ったものです。
片付け仕事が終わってしばらくしたら、坐骨神経痛が勢力を盛り返し、私の重い腰はますます重くなってしまったのです。このところ割と調子が良かったので、油断したのが良くありませんでした。

今は薬で痛みを抑えているものの、昨夜は久しぶりに痛みで眠れませんでした。
明日、早速かかりつけの整形に行ってこようと思います。

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坐骨神経痛は同じ姿勢を続けるのがタブーなので。ブログの方も休み休み続けることにします。

明治の竹類標本と牧野富太郎2025年02月13日 17時42分08秒

(前回のつづき)


付属の解説書は『我日本の竹類』と題されています。
製作・販売を手掛けたのは島津製作所標本部(現・京都科学)で、標本の同定を行ったのは、当時、東京帝国大学理科大学講師の地位にあった牧野富太郎(1862-1957)

表紙に押された印によれば、この標本セットは、石川県立第一高等女学校(現・金沢二水高校)の備品だったようです。後で見るように、ここに収められた竹類は、すべて1911年に採集されたものなので、標本が作られたのも同年であり、商品として一般に販売されたのは翌1912年(明治45年)のことと思います(こう断ずるのは、牧野が東大講師に任じられたのがちょうど1912年だからです)。

(解説冊子の裏表紙)

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各標本は一種ごとに台紙に貼られ、パラフィン紙のカバーがかかっています。
収録数は全部で42種。



No.1はマダケ。
ラベルには和名、学名、採集地、採集年が記載されていますが、採集地が旧国名になっているのが古風。42種の採集年はすべて1911年で、その採集地は、北は羽後から南は日向まで、全18か国に及んでいます(最も多いのが武蔵の16点)。

他にもいくつかサンプルを見てみます。

(No.2 カシロダケ、筑後)。

(No.7 ウンモンチク、近江)

(No.16 チゴザサ、駿河) 

竹類といった場合、笹もそこに含まれるので、「〇〇ダケ」や「○○チク」ばかりでなく、このような「〇〇ザサ」の標本も当然あります。(なお、「牧野と笹」と聞くと、彼が愛妻に感謝して名付けた「スエコザサ」を連想しますが、これは昭和に入ってからのエピソードなので、この標本セットには含まれません。残念。)

竹類は基本、見た目の変化に乏しく、華やかさに欠けるのは否めませんが、一方で屋根材に使われるぐらい対腐朽性が高いので、標本はいずれもしっかりしており、中にかすかな緑色まで残っているのは、感動的ですらあります。114年前の歳月をよくぞ耐えてくれた…とねぎらいたい気分です。

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これらの標本を見てもうひとつ気づくのは、牧野富太郎、あるいは牧野と僚友・ 柴田桂太 (1877-1949)の連名で記載された種や変種が大半を占めることです(全体の約8割は、牧野が命名に関わっています)。この“牧野色”の濃さは、この標本セットが種の同定作業のみならず、採集から標本作製まですべて牧野に委嘱して作られたものではないか…という推測を生みます。

もちろん、これは牧野が一人でせっせと標本をこしらえたことを意味しません。
当時の状況を吟味しておくと、明治末年の牧野は、1909年(明治42)の横浜植物会を皮切りに、東京植物同好会阪神植物同好会を組織して、広く全国に植物趣味のネットワークを作り上げつつありました。そのネットワークを活用して全国から標本を集め、それを牧野と弟子たちが整理し、島津に提供したのではないか…というのが、私の想像です。

上の想像が当たっているとすれば、この標本セットは牧野の体温をじかに伝えるものとして、その点でも貴重なものと思います。

(この項おわり)

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【おまけ1】

参考までに、この標本セット全種の和名を、ラベルNo.順に挙げておきます。

 マダケ、カシロダケ、キンメイチク、シボチク、ホテイチク、ハチク、ウンモンチク、クロチク、ゴマダケ、マウサウチク(モウソウチク)、キツカフチク(キッコウチク)、オカメザサ、ヤダケ、メダケ、ハコネダケ、チゴザサ、ネザサ、ケネザサ、スダレヨシ、オロシマチク、カンザンチク、タイミンチク、タウチク(トウチク)、ナリヒラダケ、ヤシヤダケ(ヤシャダケ)、カンチク、シカクダケ、クマザサ、コクマザサ、ネマガリタケ、シヤコタンチク(シャコタンチク)、メクマイザサ、チシマザサ、ツボヰザサ(ツボイザサ)、ミヤコザサ、ミヤマスズ、アヅマザサ(アズマザサ)、スズタケ、ホウワウチク(ホウオウチク)、ホウライチク、スハウチク(スホウチク)、ダイサンチク <以上42種>

【おまけ2】

この標本セットに、1枚だけ他と異質な標本が紛れ込んでいました。



百年前の女学生が作った押し葉。
そこには牧野の標本とはまた別のロマンが宿っているような気もします。

竹類標本への道…パズルを解く2025年02月12日 06時17分13秒

(昨日のつづき)

問題の箇所をじっと見ているうちに、私の脳裏に突如閃くものがありました。
「ある、確かにあるぞ。「理科準備室」へと至るルートが!」

言葉で説明するのはとても難しいですが、私の方略はこうです。

「まず、人体模型のケースの脇に立っている書類入れを抜き取り、ケースをわずかに横に動かす。するとケースを前方に動かす余地が生まれる。その状態でケースを前方に精一杯引き出し、すぐ脇のスライド書棚の棚を横に動かすんだ。そこにできたわずかな隙間に身体をねじ込めば、「理科準備室」の扉の前に到達できるはず…」

こう書いても何のことやらですが、要は「箱入り娘」の脱出パズルのように、ピースを順番に動かしていくと、そこに活路が開けそうだ…ということです。

私はジョジョに出てくる「柱の男」サンタナのように、奇怪なポーズでその隙間に潜り込み、身体を精一杯細くすることで、ついに目的を果たすことができたのでした。


人間、この偉大なるものよ。

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どうでもいいことに字数を費やしましたが、それだけ私は嬉しく、また自分の才知を誇りに思ったのです。そしてまた、その成果は十分にあったので、どうかつまらない自慢話もご寛恕いただければと思います。

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さて、発掘された竹類標本というのがこれです。


全体は41.5×35×12cmという、かなり大きな木箱に入っています。
肝心の中身を以下に見てみます。

(この項さらにつづく)

竹類標本のはなし2025年02月11日 16時03分58秒

竹類図譜の話題につづいて、「わが家に竹類図譜はないけれど、実物標本ならあるぞ」という話題を書こうと思いました。こんな折でもなければ、話題に上ることのない至極マイナーな品ですから、ちょうど良い機会だと思ったのです。

でも、それがあるはずの場所をいくら探しても見つからず、おかしいなあ…と首をかしげました。そしてしばらく考えてから、「あ、理科準備室か」と思い出しました。

「理科準備室」というのは、自室からあふれた理系古物をしまっておくためのスペースです。私の部屋が「理科室風書斎」なら、その予備スペースは「理科準備室」だろう…というわけですが、「室」といっても、別にそういう独立した部屋があるわけではありません。部屋に作りつけのクローゼットをそう呼んでいるだけのことです。

しかし、そこからモノを取り出すのは容易なことではありません。


人体模型のケースの奥が、普通の壁ではなく木製の扉になっているのが見えるでしょうか。これが即ち「理科準備室」の扉です。

この扉を開けるのがどれだけ大変か、それは部屋の主である私自身がよく知っています(昔は開ける方法がありましたが、今は人体模型のケースの前も横も、びっしりモノが並んでいるので、それをどかすことから始めなければなりません)。「遠くて近いは男女の仲、近くて遠いは田舎の道」と言いますが、この扉の向こうも、たしかに「近くて遠い」場所の典型で、そこに至る労力を考えたら、毎日電車に乗って通う職場の方が、自分にとってはよっぽど近いです。

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日本は竹の国ですから、竹ばかり集めた標本セットというのが、かつて理科教材として売られていました(今でもあるかもしれません)。


例えば、昭和13年(1938)発行の『理化学器械、博物学標本目録』(前川合名会社)を開いてみると、


植物学標本の通番83に「竹類標本…30種…ボール箱入」というのが見えます。その脇の数字は価格で、小型台紙(195×270mm)を使ったセットが3円60銭、その倍大の大型台紙(270×390mm)に貼付したセットが5円50銭となっています。このカタログが出た昭和13年(1938)は、小学校の先生の初任給が50円の時代なので、今だと1万5千円とか2万円ぐらいに相当するでしょう。

ちなみに、この「竹類標本」はタケ科植物のふつうの押し葉標本ですが、竹の幹というか茎というか、要するにいろいろな種類の竹筒を並べた「竹材標本」というのが別にあって、そちらは30種入りで15円と、一層高価なものでした。

(通番164~166を参照)

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「至極マイナーな品とはいえ、手元の標本はたしか明治期に遡るもので、島津製だったはず。となると、これは思いのほか貴重な品かもしれんぞ。何とかそれを取り出す方法はないだろうか?」…と「理科準備室」の扉をじっと凝視しているうちに、はたと気づきました。

(些細な話題で引っぱって恐縮ですが、この項つづく)

たけのこの里はかく生まれた2025年02月09日 11時37分10秒

(昨日のつづき)

富士竹類植物園が発行した『富士竹類植物園案内』(1964)という冊子があります。


内容は単なる施設案内ではなく、主眼は主にタケ類の分類基準と、同園で栽培されている主要種の解説なので、それ自体がコンサイスな竹類図譜といえるものです。
ちなみに、タイトルの下に「邦文篇」とあるのは、それに先立って『Guide Book of the Fuji Bamboo Garden』という英文篇(上の写真右)が1963年に出ているからです(日本語と英語の違いだけで内容は同じです)。

(邦文篇より「肩毛の種々」説明図)

(英文ガイドブックより。右はゴテンバザサの図)

邦文篇より先に英文篇が出ているところに、この植物園の本気具合というか、世界のタケ類学を我らがリードせんという気概を感じます。

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さて、この冊子の冒頭に「1 富士竹類植物園の概略」という章が設けられているので、以下に抜粋します(太字は引用者)。

 「日本は世界第一の竹の国である。〔…〕竹笹は著しく変化性に富んでいるので、鑑別が困難で多くの学者を悩ましている。〔…〕生物、ことに竹類の応用面の研究は、まず、すでに名づけられた名称を知り、多くの学者によって研究された特性を十分に理解し、それぞれの特徴を生かして日常生活に利用するのでなければ進歩がない。上のようなことを実現するためには生品を一か所に集めて比較研究する必要が痛感される。

 この現状に着目された当園園主、前島麗祈先生夫妻は、日本の変動期にある今日、タケ科のあらゆる種類や古い園芸的品種が絶滅しないうちに、一か所に集めて子孫に引き継ぐ責任のあることに注目され、その一環として、竹笹の専門植物園の施設のない現状を嘆かれて富士竹類植物園の誕生になった。

〔…〕

 日本の過去及び現在において、このような収益を度外視した学術的資料の蒐集に莫大な私財を投げ出した例は残念ながら余りみられないが、続々と日本の特産の動、植物の専門蒐集と研究に、財閥のご援助を願う先鞭となることと信じ、文字通り楽しい文化国家の建設される日を期待している。」
(pp.1-3)

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創設者、前島麗祈(まえしまれいき、1893-1971)は、神道系新宗教「自然真道(しぜんしんとう、本部は御殿場)」の教祖です。『新宗教辞典』(松野純孝・編、東京堂出版)を参照すると。前島は元々天理教の信者でしたが、後に天理教と袂を分かち、終戦直後の1946年、「宇宙根本実在の神霊」を奉斎する独自の自然真道を組織し、1954年に宗教法人認可を得た、とあります。

国会図書館には彼の著書として、『麗しき祈り』(1956)『禍を仕合せに』(1957第2版)の2冊が収蔵されており、その内容は利用者登録をすれば、個人送信サービスですぐに読めますが、その説くところ、信者の方には失礼ながら、どうも通俗道徳と因果応報思想を適当に突きまぜたもの…と私には見えます。(例えば、『禍を仕合せに』の章題を挙げると、「鶏の玉子 白痴など」「不具の子は親の罪?」「小人の徳さん」「子守の芳チヤン」「愛嬢の発狂」「六本指のG」「丈夫な片輪者」「鬼より怖い」「四人馬鹿」…と続き、その内容は差別用語のオンパレードで、ちょっと引用に堪えないです。)

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そういう宗教家の発願で始まった富士竹類植物園ですが、園の活動自体は別に宗教色を帯びているわけでも何でもなく、純粋に植物学的なそれでしたから、その辺のことに触れると変なノイズが生じかねないという配慮から、前島の事績は今ではあまり表に出てこないのではないか…というのが私の推測です。

(昭和50年代頃の発行とおぼしい同園の絵葉書。5枚セット)

実際、富士竹類植物園の運営は、開設直後から前島の手を離れ、専門の植物学者の手にゆだねられていました。「富士竹類植物園報告」第16号(1971)には、京大名誉教授(当時は京都産業大学教授)で、タケ類を専門とした上田弘一郎氏による「前島麗祈先生の功績と富士竹類植物園」という一文が載っており(pp.43-44)、開設当時の事情が以下のように書かれています。

 「竹類園をおつくりになるに当って、先生ご夫妻が拙宅へおこしになって、「自分は妻と一心同体、竹が好きだ。竹は日本を代表する貴重な存在である。これを自分のところに集め、育てて、海外にも日本という国を理解させる資料にしたい。ついては、なんとかできるだけ多くの種類の竹苗を分けてほしい」と、熱心に頼まれたのです。私はこの情熱に感銘して、すぐ京都府立植物園長の麓さんに相談し、同植物園にある分と、京都大学上賀茂試験地に植えてあるのを加えて、お送りしたのであります。

 なお、このとき先生は、「自分の竹類園の管理に適当なかたを推薦してほしい」と言われたので、現在の園長、室井さんを推薦申し上げた次第であります。あとで前島先生が私に「あなたは富士竹類植物園の産みの親です。今後ともよろしく頼みます」と申されたに対し、私は「前島先生こそ竹類園のたいせつな産みの親です。どうかご自愛をお願いします」と申し上げました。その後は室井さんに任せきりで、まことに申しわけないのですが、設立当初のことを思い出すたびに感無量であります。」
(p.43)

文中に出てくる「室井さん」とは、同植物園の初代園長をつとめた室井 綽(むろい ひろし、1914-2012)氏のことで、やはりタケ類を専門とした植物学者です(ちなみに、氏は盛岡高等農林を1938年に卒業した方で、賢治の20年後輩になります)。

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以上のことだけだと、「へえ、そうなんだね」で終わってしまいますが、私が前島と富士竹類植物園の関係を知ったとき、ただちに連想したのは、三五教(以下、アナナイ教)と山本一清のことです。

アナナイ教は大本教の分派で、やはり戦後の1949年に創始された神道系新宗教です。「天文 即 宗教」を説くこの教団は、各地に天文台を建設し、天文学者の山本一清がそこに深くコミットしていたという話や、岩手県北上市に建設された天文台は、幼き日の鴨沢祐仁氏に深い印象を残し、後年、作中に「アナナイ天文台」が登場するに至った(「流れ星整備工場」)…といった話題は、以前どこかに書きました。

新宗教系の団体は、往々にして出版社を起こしたり、美術館を開設したり、ハイカルチャー志向の動きを見せましたが、そうした中に科学との接点を求める動きもあったような気がします。自然真道やアナナイ教に限らず、探せば類例はもっとあるでしょう。

一体それはどういう心意によるものか?
話をそこまで広げると私の手には余りますが、でもそういう論考があれば、いつか読んでみたいです(「新新宗教」に関しては、沼田健哉氏の『宗教と科学のネオパラダイム: 新新宗教を中心として』(創元社、1995)という本がパッと出てきました)。

(この項おわり)

たけのこの里を訪ねて2025年02月08日 11時25分02秒

博物趣味…ともちょっと違うかもしれませんが、気になったことを書きます。

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話は昨年の暮れに遡ります。
暮れも暮れ、大みそかの日に、きのこの図譜の話題を書きました。


そしてきのこのライバルはたけのこですから、今度はたけのこの図譜が気になりだしました。まあ、「たけのこの図譜」というのは無いので、竹類、すなわちタケとササの図譜を探したわけです。

調べてみると、竹類図譜の中では、大正3年(1914)に出た『坪井竹類図譜』というのが、今も王者の位にあるようでした。これは「竹林王」の異名をとった坪井伊助(1843-1925)がその生涯をかけてまとめ上げた、100枚余りの彩色図版から成る図譜です。昭和52年(1977)には、有明書房から復刻版も出ました。

博物趣味の盛んだった19世紀のヨーロッパでも、そもそも竹類が分布しない地の利の乏しさはいかんともしがたく、散発的な報告があるのみで、竹笹類のモノグラフはついぞ現れませんでした(と断言するのも危険ですが、管見の範囲では目に入りませんでした)。ですから、『坪井竹類図譜』は、世界的にも貴重な図譜ということになります。

とはいえ、ふとした出来心から話題にするためだけに、ウン万円もする大部な古書を買うのは、さすがに酔狂が過ぎるので、この件はいったん沙汰止みになったのでした。

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しかし、その過程で別のことが気になりだしました。
竹類の図譜を探していると、「富士竹類植物園報告」というタケ類に関する報文集がやたらとヒットするのです。

■富士竹類植物園公式サイト https://fujibamboogarden.com/light/index.html

同園は今も盛業中です。
静岡県駿東郡長泉(ながいずみ)町に所在し、電車だと三島駅が最寄り駅で、そこからタクシーで20分だと案内にはあります。

研究資料館をも併設した立派な植物園で、サイトに書かれた「日本唯一の竹の植物園」の名に恥じません。いや、それどころか、その後取り寄せた手元のリーフレットには、「世界唯一の竹の植物園」だとあります。


(このリーフレット自体は昭和後期のものと思います。入園料大人300円とありますが、現在は500円)

私が気になったのは、この立派な施設の成立事情が公式サイトのどこにも書かれていない(開設年すら記述がない)ことです。この手の施設のサイトには、必ず「About Us」の項目があって、「History」のページがあるのが普通でしょうが、そうしたページが一切ないのが、ちょっと不思議な感じです。

上のリーフレットには、辛うじて「本園は昭和26年に竹の蒐集が始まり、以来竹の研究も行い、「日本竹笹の会」と言う研究機関を設け多くの人に利用されています。」という一文がありましたが、それにしてもどういう経緯で設立されたのか、開設者は誰なのか、そうしたことは一切分からないのでした。

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でも、これは少し調べたら分かりました。
そして、そのことがあまり表に出てこない理由もぼんやり見えたような気がするので、そのことを少し書き付けておきます。

(この項つづく)

不滅のデロール2025年02月06日 18時23分22秒

この3週間はプレッシャーの連続で、非常に厳しいものがありました。
でも、明日大きな会議が終わると、一つの山を越えてホッとできます。
あの山を越えた先に幸いが待っていると信じて進むのみです。

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さて、このブログも長くなって、すでに満19年を超え、20年目に入っています。
いたずらに苔の生えた甲羅をさらすばかりでは見苦しいので、このへんで初心に帰ることも必要ではないか…そんなことを折々考えます。

もちろん、今さら20年前の自分に戻ることはできませんが、「いつかぜひ」と、かつて心に抱いた夢を思い出すことも悪くはないと思うのです。まあ、「初心に帰る」というか、「初志貫徹」ですね。

たとえば「Beautiful Books on Astronomy」とか、「天体モチーフのゲームの世界」とか、掘り下げたい個別のテーマもたくさんあるし、以前は天文と理科室趣味が二枚看板だったので、久方ぶりに博物趣味「驚異の部屋」について熱く語ってもいいんじゃないか…と、こんなことを考えたのは、「あの」デロールに関する本を最近目にしたからです。


Louis Albert de Broglie
 A Parisian Cabinet of Curiosities: Deyrolle.
 Flammarion (Paris), 2017.

デロール公式サイト https://deyrolle.com/

1831年以来連綿と続く、パリの老舗博物商であるデロールのことは、これまで何度か取り上げましたが、先日、その美しい写真文集を開いて、以前の気持ちがよみがえるのを感じました。

といって、この本も出てから既に8年になるので、いささか古くはあるのですが、あの2008年2月の「デロールの大火」【過去記事にLINK】を乗り越えて見事に復活し、さらなる発展を遂げたデロールの姿を見ると、博物趣味の年輪ということを、つくづく考えさせられます。

(火事で焼けただれたライオンの剥製)

(焼け残った品を元にしたアート作品。台湾出身の Charwei Tsai 作、「Massacre」。鹿の頭骨に色即是空の理を説く般若心経が書かれています)

(復興後の店舗風景。以下も同じ)



その陣頭指揮をとったのが、2000年にデロールの経営を引き継いだ“庭師殿下”ことルイ・アルベール・ド・ブロイ(1963-)で、上の本の著者は他ならぬ彼自身です。

(意気軒高な庭師殿下。彼については、こちらの過去記事を参照)

自然への愛と好奇心。それが新たな美の感覚を呼び覚まし、標本とアートの融合を生み、さらに次代の子供たちの心に素敵な種を蒔くことになったら、素晴らしいことじゃないか!と、庭師殿下は熱く語るのです。

もちろん環境意識の高揚によって、博物趣味のあり方に大きな変化が生じているのは事実ですが、そもそも環境意識は、自然を愛する博物趣味から生まれた正嫡です。自然への敬意さえ欠かさなければ、今後も博物趣味は佳い香りのする存在として在り続けるのではないかと思います。

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ちなみに上の本の版元のフラマリオン社は、天文学者のカミーユ・フラマリオン(1842-1925)の弟、エルネスト・フラマリオン(1846-1936)が起こした会社です。

耳をすませば2025年02月01日 16時32分29秒



棚の奥の埃を払っていて、久しぶりにこの品と対面しました。


総身の大半が巨大なコイルによって占められている、ごくシンプルな鉱石ラジオです。


まだ同調用のバリアブル・コンデンサ(バリコン)もなくて、このつまみを動かし、コイルと板バネの接点の位置を変えることで、異なる周波数を受信できるようにする仕組みです。


木と真鍮部品で組み上げた本体側面の表情。


その左上に位置するこのパーツが、鉱石(方鉛鉱)と細いワイヤからなる検波器、通称「猫のヒゲ(cat's whisker)」です。これぞ鉱石ラジオの心臓部。クルクル巻かれたワイヤの先で慎重に鉱石の表面を探って、電波をうまく受信できる位置を見つけるこの瞬間こそ、鉱石ラジオファンにとって最も心躍る時でしょう。


上とは反対側の側面。ラベル(後から貼られたものかもしれません)には「Radio」の文字が見えますが、それ以外はちょっと判読不能です。こちらにも真鍮製の端子が2つあって、たぶんアンテナとアース(接地線)用。


このラジオは、1920年代に作られたもののようです。
製造国は不明ですが、ヘッドフォンと同じく、本体もフランス製かもしれません。


最近、この手の話題が少なかったですが、こうして見るとやっぱりいいなあ…と思います。小林健二さんの作品も思い出すし、ジュブナイル・サイエンスというか、科学に向けて抱いた、少年少女の見果てぬ夢が、まだその辺に漂っている感じです。

ギンガリッチ氏の書斎へ2025年01月31日 12時36分46秒

(前回のつづき)

去年の暮れに書いた記事の末尾で、自分は「古典籍でなくてもいいので、ギンガリッチ氏の蔵書票が貼られた旧蔵書が1冊手に入れば、私は氏の書斎に足を踏み入れたも同然ではなかろうか…」と書き、そのための算段をしているとも書きました。

有言実行、その後、ギンガリッチ氏の地元・マサチューセッツの古書店で1冊の本を見つけ、さっそく送ってもらいました。


■Paul Kunitzsch,
 『Arabische Sternnamen in Europa(ヨーロッパにおけるアラビア語星名)』. 
 Otto Harrassowitz (Wiesebaden, Germany), 1959. 240p.

パウル・クーニチュ氏(1930-2020)は、オーウェン・ギンガリッチ氏(1930-2023)に劣らぬ碩学で、生れた年も同じなら、長命を保ったことも同じです。…といっても、私は無知なので、恥ずかしながらクーニチュ博士のことを知らずにいたのですが、ウィキペディアの該当項目を走り読みしただけでも、氏は相当すごい人であることが伝わってきます。

氏はアラビア学というか、アラビアの知識・学問が中世を通じてヨーロッパにどう流入したかが専門で、その初期の代表作が、氏がまだ20代のとき世に問うた『ヨーロッパにおけるアラビア語星名』です。これは氏の博士論文を元に、それを発展させたものだそうで、氏の本領はアラビア科学の中でも、特に天文学だったことが分かります。

   ★

手元の一冊には、著者の献辞があります。


「オーウェン・ギンガリッチに敬意を表して。ディブナー会議でのわれわれ二人の出会いの折に。1998年11月8日 パウル・クーニチュ」

ディブナー会議というのは、MITにかつてあった「ディブナー科学技術史研究所」(1992年開設、2006年閉鎖)が主催した会議のひとつだと思いますが、このときクーニチュ氏も来米し、両雄は(ひょっとしたら初めて)顔を合わせたのでしょう。

ただ、いくら代表作とはいえ、クーニチュ氏が40年近く前の自著を献呈するのは変ですから、おそらくクーニチュ氏の来訪を知ったギンガリッチ氏が、自分の書棚からこの本を持参し、記念のメッセージを頼んだ…ということではないでしょうか。クーニチュ氏はメッセージの中で、ギンガリッチ氏を敬称抜きの「呼び捨て」にしていますから、仮に初対面だったにしても、両者は旧知の親しい間柄だったと想像します。
その場面を想像すると、まさに「英雄は英雄を知る」を地で行く感があります。

   ★

そして問題の蔵書票が以下です。


クリスティーズのオークションで見た、繊細な青緑の蔵書票(↓)でなかったのは残念ですが、これはギンガリッチ氏がもっと若い頃に使っていた蔵書票かもしれません。


ギンガリッチ氏の書斎の空気をまとった存在として、また両大家の友情と学識をしのぶよすがとして、これは又とない宝である…と自分としては思っています。このドイツ語の本を読みこなすのは相当大変でしょうが、スマホの自動翻訳の精度も上がっているし、文明の力を借りれば、あながち宝の持ち腐れにはならないもしれません。

(本書の内容イメージ。「アルデバラン」の項より)

3億3300万円2025年01月29日 19時10分29秒

昨年の暮れに、天文学史の大家・故オーウェン・ギンガリッチ博士(1930-2023)の旧蔵書の売り立てがあるという記事を書きました。

■碩学の書斎から

クリスティーズが主催するこのオークションが昨日、無事終了。
出品されたギンガリッチ博士ゆかりの品74点(古典籍73冊とアストロラーベ1点)のうち、10点は入札がなく、オークション不成立でしたが、それ以外は概ね好調で、落札額の合計額は214万8400ドル、1ドル155円で換算すると、3億3300万円ちょっきりという、まことに天晴れな数字になりました。

これはクリスティーズが事前に公表していた、74点の最高評価額(評価額は、例えば「5千ドル~8千ドル」のように幅を持たせてあります)の合計である、160万5500ドルをも大きく上回る結果で、手数料で稼ぐクリスティーズにとってはホクホクでしょう。

もちろん私には無縁の世界の出来事ですし、他人の懐具合を気にするのも下世話な話ですが、やっぱりこういうのは気になるもので、今回の結果を改めてレビューしておきます。その盛会ぶりを知ることは、ギンガリッチ博士の遺徳を偲ぶよすがともなるでしょう。

以下、タイトルと書誌はクリスティーズによる表示のままで、落札額には日本円(1ドル155円で換算)も添えておきます。タイトルから元ページにリンクを張ったので、本の詳細はそちらでご確認ください。

<落札額ベスト10>

   327,600ドル(5,077万円)

277,200ドル(4,296万円)

   163,800ドル(2,538万円)

   100,800ドル(1,562万円)

   56,700ドル(878万円)

   52,920ドル(820万円)

   37,800ドル(585万円)

   37,800ドル(585万円)

   ★

ちなみに、クリスティーズの最高評価額を大きく超えて、意外な高値を呼んだのは、
最高評価額2,500ドルのところ、5.54倍の13,860ドルで落札された


Mechanism of the Heavens, inscribed (Mary Somerville, 1831)や、同じく5万ドルのところ、3.53倍の176,400ドルで落札された、Stellarum Fixarum Catologus Britannicus (John Flamsteed, 1712-1716)〔これは高額落札の第3位に既出〕、あるいは同じく3,000ドルのところ、3.36倍の10,080ドルで落札された




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これまたちなみに、19~20世紀に作られた旅行客用のお土産品らしいアストロラーベは、最高評価額6,000ドルのところ、10,800ドル(167万円)とかなりの健闘です。


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これらの高価な品々を落札したのが誰かはまったく分かりません。

もちろん個人コレクターもいるんでしょうけれど、多くは名のある博物館とか図書館とかに収まることになるんでしょうか。こういうものは当然お金のあるところに吸い寄せられるので、以前記事にした上海天文館あたりにひょっこり登場する可能性もあるかな…と想像しています。

■ある天文コレクションの芽吹き