江戸の刻(とき)2024年06月11日 18時00分28秒

そういえば、昨日は時の記念日でした。

思うに、お日様が日常生活を支配していた時代にあっては、不定時法というのは非常に合理的な考え方です。少なくとも、「サマータイム制」のようなぎこちない方法よりも、日脚の長短に応じて自分たちの生活をコーディネートする工夫としては、ずっとスマートです。

ただし、日時計ならいざ知らず、機械式時計で不定時法の時を知ろうと思うと大変です。才知に富んだ江戸の人たちも、「二丁天符」などの凝った機構を考案して、この問題に解決の道筋を付けたのは、江戸もだいぶ押し詰まってからのことと聞きます。

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不定時法の話題から、10年前に買った時計がそのままになっていたのを思い出しました。


「平成式和時計 江戸之刻」という商品名の、和装にも合う小ぶりの懐中時計です。

(下向きの大きな針が24時間で1回転するメインの時針。普通の12時間式時計としても使えるよう、小さな時針と分針、それに秒針もついています)

基本の文字盤はこんな風に12等分されています。
ここには往時の和時計のような、トリッキーな工夫があるわけではないので(ムーブメントは普通のクォーツ式です)、このまま使えば定時法の時計です。しかし江戸時代の気分を味わうため、あえてこの時計で不定時法の時を知るにはどうすればよいか?

メーカーが考えたのは、最もシンプルな解決法です。
すなわち季節によって文字盤を取り換えるというもの。


この製品には1月用から12月用まで、月ごとに12枚の不定時法に対応した文字盤が付属しており、蓋を外してそれを交換することで、「江戸の時」を読み取れるようになっています。

(左は12月用、右は6月用の文字盤。黒は「夜」、白は「昼」の時間帯です)

和時計の世界でも、不定時法に対応したからくり仕掛けが生まれる前は、文字盤を節気ごとに取り換えたり、文字の位置を動かせる文字盤を工夫したりしていたので、これは一種の「先祖返り」と見ることもできます。

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この時計は、世田谷でオリジナル時計を製作・販売している(有)キャストプランニングさんの製品で、名称こそ「令和版 江戸之刻」に変わっていますが、今でも現行商品として購入可能です(→ オンラインストアはこちら)。

土御門、月食を予見す(後編)2024年06月10日 17時59分43秒

(昨日のつづき)

(画像再掲)

さて、改めてこの明和3年の月食予測の詳細を見ると、「月食五分。寅の一刻東北の方より欠け始め、寅の八刻甚だしく、卯の六刻西北の方終わり」と書かれています。

ここに出てくる「寅の一刻」とか「寅の八刻」の意味が最初分からなかったんですが、ものの本(※)を見て、ようやく合点がいきました。

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よく知られるように、江戸時代の時刻表示は、日の出と日の入りを基準にした「不定時法」が一般的です。そのため、「子の刻」「丑の刻」「寅の刻」…等、1日を12区分した「辰刻」の長さは季節によって伸び縮みがあり、たとえば真夜中の「子の刻」は、短夜の夏場は短く、冬の夜長には長くなりました。真昼の「午の刻」ならばその逆です。

しかし、暦に記される時刻は、これとは違って(最後の天保暦を除いて)「定時法」を使っていたんだそうです。つまり、季節に関係なく子の刻なら23時~1時だし、丑の刻は1時~3時…という具合に固定されていました。これは現代の時間感覚と同じです。したがって同じ「子の刻」「丑の刻」といっても、日常生活と暦本ではその用法が微妙に違った…というのが、ややこしい点です。

暦ではそれをさらに「寅の一刻」とか。「卯の六刻」とか、細かく言い分けているわけですが、この辺は一層ややこしくて、当時の定時法では、1日を12等分した「辰刻」と、1日を100等分した「刻」という単位(1日=100刻)を併用していました。

「辰刻」と「刻」の関係は、

 1辰刻 = 100÷12 ≒ 8.33刻 (8と3分の1刻)

であり、1刻を現在の時間に直せば

 1刻 = 120分÷8.33 ≒ 約14分24秒

になります。何だかひどく中途半端ですが、実際そうだったのでやむを得ません。
そして、たとえば「寅の刻」だったら、以下のように呼び分けられることになります(時刻はすべて概数で示しました。「八刻」だけ他の刻より短いことに注意)。

 寅の初刻 午前3:00~3:14
 寅の一刻 3:14~3:29 
 寅の二刻 3:29~3:43 
 寅の三刻 3:43~3:58 
 寅の四刻 3:58~4;12 
 寅の五刻 4:12~4:26 
 寅の六刻 4:26~4:40 
 寅の七刻 4:40~4:55 
 寅の八刻 4:55~5:00

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こうしてようやく、上記の月食記載の意味が理解できます。
すなわち、「月食五分〔食分0.5〕。寅の一刻〔3:14~3:29〕東北の方より欠け始め、寅の八刻〔4:55~5:00〕甚だしく、卯の六刻〔6:26~6:40〕西北の方終わり」です。

これがどの程度実際を反映しているか?
国立天文台の日月食等データベースに当たると、このときの月食(部分食)は、以下の通り3:45に始まり、4:52に最大食となり(食分は0.336)、5:59に終わっています。


比較してどうでしょう? 食甚の時刻および食の開始と終了の方位はほぼ正解ですが、食分を実際よりも多く見積もった関係で(つまり、月がもっと地球の影の中心に近い位置を横切ると予想したため)、食の始まりと終わりが前後に30分ほど間延びしています。この予測を以て、「それでも、それなりに当てたんだからいいじゃないか」と言えるかどうか?

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西洋天文学を採り入れて宝暦暦を改良した「寛政暦」の場合と比較してみます。


手元に天保8年(1837)の暦があります。


年号は天保でも、当時はまだ寛政暦を使っていました(さらに改良を加えた「天保暦」は、天保15年=1844から施行)。

「月帯食(げったいしょく/がったいしょく)」とは、月が月食の状態で昇ったり沈んだりすること)

この年は3月17日(グレゴリオ暦では4月21日)に皆既月食がありました。
暦には、寅の三刻【3:43~3:58】左の上より欠け始め、卯の二刻【5:29~5:43】皆既〔みなつき〕て入【=そのまま沈む】」と書かれています。

上と同じように、国立天文台のデータベースを参照すると、3:49に欠け始め、4:50に皆既となり、5:40が食の最大、そして6:31に皆既が終わる」となっています。上記の「卯の二刻」は皆既の開始時刻とずれていますが、これが「食の最大時刻」の意味だとすれば、まさにどんぴしゃりです。


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まあ、それぞれ1つの例だけを取り出して、逸話的に比較しても意味は薄いでしょうが、「やっぱり宝暦暦はゆるいなあ…」と感覚レベルで分かれば拙ブログ的には十分で、当初の目的は果たせたことになります。


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(※)本項の記述にあたっては、橋本万平(著)『日本の時刻制度 増補版』(塙書房、昭和56年第2版)を参照しました(特にpp.125-8「暦に見られる定時法」の節)。

(同書127頁より参考図を掲げます(第15図)。当時は仮名暦(右)と七曜暦(左)の間でも――両者ともに定時法ですが――時刻の表示法が異なり、ややこしいことこの上ないです。本項で採り上げたのは、もちろん仮名暦の方です)

土御門、月食を予見す(前編)2024年06月09日 08時41分38秒

日食の予測といえば、先日の宝暦暦(ほうりゃくれき)を思い出します【LINK】
蘭学流入とともに、新しい天文学の風が吹き始めた18世紀半ばの日本で、過去の亡霊のような存在、陰陽頭・土御門泰邦が作った宝暦暦。

この暦にはいろいろ芳しくない評判がつきまといますが、施行9年目の宝暦13年(1763)、日食の予測に失敗し、暦に書き漏らしたことは、その最たるものです(日食・月食に関する情報は、毎年の暦に必ず書かれていました)。しかも、民間学者の麻田剛立(あさだごうりゅう、1734-1799)らは、独自にその予測に成功していたので、お上の面目丸つぶれです。

これに懲りた幕府は、麻田の弟子である高橋至時(たかはしよしとき、1764—1804)を天文方に取り立て、新たに寛政暦(寛政10年=1798年施行)を完成させますが、それはまだ少し先の話。

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(明和3年宝暦暦、末尾)

宝暦暦のことを思い出したついでに、手元にある明和3年(1766)の宝暦暦(出版されたのは前年の明和2年)を素材に、これがどの程度の精度を持っているのか、裏返せばどの程度「ダメな」暦なのかを知りたいと思いました(意地悪な興味ですね)。

(「月そく(月食)」の文字)

この年は、ちょうど1月17日――グレゴリオ暦に直すと1766年2月25日――に月食が予測されているので、これが当たっているかを確認してみます。
結論からいえば、確かにこの日は月食が発生しているのですが、果たしてその生起・継続時間の予測精度はどうか?

(この項つづく)

19世紀に登場した予言の書2024年06月08日 14時02分06秒

聖徳太子作とされる予言の書、『未来記』。
言うまでもなく後世の偽書ですが、こういうあからさまな偽書が存在すること自体、未来を知りたいという人間の欲求が、いかに強いかを示すものでしょう。

聖徳太子ほどの人でも、未来を見通すことはなかなか難しいです。
しかし、「予言の書」は確かに実在します。偽書なんかではなしに。不気味なほど未来を予見し、その予言は必中という本が―。


ただし、その本は何でも予言できるわけではありません。
ごく狭い範囲の予言にとどまるものの、その限られた範囲では文字通り必中です。


■Theodor von Oppolzer(著)
 『Canon der Finsternisse』

すなわち、ハプスブルク家治下のオーストリアで活躍したテオドール・フォン・オッポルツァーが著した『食宝典』

(Theodor von Oppolzer、1841-1886)

『食宝典』というと何だかグルメ本のようですが、内容は過去から未来に至る日食・月食を総覧したデータブックです。収録されているのは、B.C.1207年からA.D.2161年までの8,000回の日食と、同じくB.C.1206年からA.D.2163年までの5,200回の月食。

(出版事項を記した副標題紙。中央には双頭の鷲。書名を記した本標題紙がこの後に続きます)

「帝国科学アカデミー紀要 数学・科学部門 第52巻」として、1887年にウィーンの帝室国立印刷局から刊行されました(原稿が提出されたのは、オッポルツァーが亡くなる直前の1885年10月で、本になったのは没後のことです。彼は本の完成を見ずに逝ったことになります)。

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タネを明かせば「なあんだ」ですけれど、人類がこの“予知能力”を身に着けるまでに費やした努力の総量と、灰色の脳髄と2本の手だけで、この膨大な計算をやり遂げたオッポルツァーの情熱は、手放しで称賛してもよいでしょう(加えて延々と版を起こし続けた植字工の仕事ぶりも)。


オッポルツァーの骨の折れる計算は、


375頁に及ぶ大部な表と、


160枚もの日食経路図に結実しました。
そこにはもちろん、2035年9月2日に本州の真ん中で見られる皆既日食もしっかり「予言」されています。


   ★

そういえば、前回話題にした「夜空の大三角」という記事は、2013年、今から11年前のものでした。11年といえば長いようですが、私の中ではわりとあっという間で、過ぎてしまえばそんなものです。そのことを思えば、11年後の2035年もこれまたきっとあっという間でしょう。

11年後に私が生きているか。たぶん生きている確率の方が高いですが、高齢になればいつ何があるか分からないので、この世にいないことも十分考えられます。でも、生きてこの目で見たいなあ…と心底思います。私はこれまで皆既日食を見たことがないんですが、日食については「噂ほどでもない」という人より、「想像以上にすごかった」という人の方が圧倒的に多いので、さぞかし壮麗なのでしょう。

ただ、日食というのは、仮に生きていたとしても、お天気次第ですべておじゃんなので、あんまり楽しみにしすぎるのも考えものです。がっかりしすぎて頓死…なんてのも嫌なものです。

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オッポルツァーが45歳の若さで亡くなったのは、計算のやり過ぎのせいではないか?と真剣に疑っていますが、実は彼は生涯で一度も日食を見たことがなかった…となると非常にドラマチックなんですが、もちろんそんなことはありません。


1868年8月18日、南アジアで見られた日食の際、アラビア半島南端近くのアデンの町(現・イエメン)で彼はそれを観測し、それが『宝典』編纂のきっかけだそうです。このときは、フランスのピエール・ジャンサンが、後にヘリウム由来と判明したスペクトルをインドで観測しており、この日食は科学史上もろもろ意義深いものとなりました。

夜空の大四辺形(3)2024年06月04日 18時20分20秒

この連載は長期・間欠的に続けるつもりですが、ひとつだけ先行して書いておきます。オリジナル資料を見ることの大切さについてです。

日頃、我々は文字起こしされた資料を何の疑問も持たずに利用していますが、やっぱり文字起こしの過程で情報の脱落や変形は避けられません。その実例を昨日紹介した野尻抱影の葉書に見てみます。


(文面はアドレス欄の下部に続いています)

これは前述のとおり石田五郎氏が『野尻抱影―聞書“星の文人伝”』(リブロポート、1989)の中で引用されています(291-2頁)。最初に石田氏の読みを全文掲げておきます(赤字は引用者。後述)。

 「処女著といふものは後に顧みて冷汗をかくやうなものであってはならない。この点で神経がどこまでとどいてゐるか、どこまでアンビシャスか、一読したのでは雑誌的で、読者を承服さすだけの構成力が弱いやうに感じた。特に星のは、天文豆字引の観がある。それに賢治氏の句を引合ひに出したに留まるといふ印象で、君の文学者が殺されてゐる。余計な科学を捨てて原文を初めに引用して、どこまでも鑑賞を主とし、知識は二、三行に留めるといいやうだ。吉田源治郎との連想はいい発見で十分価値がある。吉田氏はバリット・サーヴィス全写しのところもある。アルビレオもそれで、同時に僕も借りてゐる。「鋼青」は“steel blue”の訳だ。僕は「刃金黒(スティールブラック)」を時々使ってゐる。刃金青といひなさい賢治氏も星座趣味を吉田氏から伝へられたが、知識としてはまだ未熟だったやうだ。アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。「琴の足」は星座早見のαから出てゐるβγで、それ以上は知らなかったのだろう。「三目星」も知識が低かった為の誤まり、「プレシオス」は同じく「プレアデス」と近くの「ペルセウス」の混沌(君もペルシオスと言ってゐる)〔※〕「庚申さん」はきっと方言の星名と思ふ。(昭和二十八年六月二十九日)」

   ★

石田氏は同書の別の所で、「抱影の書体は〔…〕独特の文字であるが、馴れてくるとエジプトのヒエログリフの解読よりはずっと易しい」とも書いています(304頁)。しかし、その石田氏にしても、やっぱり判読困難な個所はあったようで、上の読みにはいくつかの誤読が含まれています。


たとえば上の傍線部を、石田氏は「一読」と読んでいます。おそらく「壱(or 壹)読」と読んだ上で、それを「一読」と改めたのでしょう。でも眼光紙背に徹すると、これは「走読」(走り読み)が正解です。そのことは別の葉書に書かれた、文脈上確実に「走」と読む文字と比較して分かりました。

まあ、「走り読み」が「一読」になっても、文意は大して変わりませんが、次の例はどうでしょう。


石田氏の読みは「刃金青といひなさいですが、ごらんの通り、実際には「…といひたいです。「いひなさい」と「いひたい」では意味が全然違うし、抱影の言わんとすることも変わってきます。

それと、これは誤読というのではありませんが、抱影が賢治の名前を「健治」に間違えているところがあって、石田氏はそれに言及していません。


抱影はマナーにうるさい人で、別の葉書では、草下氏が抱影の名前を変な風に崩して書いているのを怒っていますが、その抱影が賢治の名前を平気で間違えているのは、抱影の賢治に対する認識なり評価なりを示すものとして、決して小さなミスとは思えません。

その他、気付いた点として、上で赤字にした箇所は、いずれも修正が必要です。

(誤) → (正)
星の → 星の
吉田源治郎氏との連想 → …との連絡
アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。→ …見てゐたかどうか。
「ペルセウス」の混沌 → 混淆
〔※〕 → 「角川では「プレアデス」に直してゐる。」の一文が脱落

重箱の隅をつつき回して、石田氏も顔をしかめておられると思いますが、オリジナル資料に当たることの重要性は、この一例からも十分わかります。

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情報の脱落や変形を避けるばかりではありません。
自筆資料を読み解くことには、おそらくそれ以上の意味――文字の書き手に直接会うにも等しい意味――があるかもしれません。

美しい筆跡を見ただけで、相手に会わぬ先から恋焦がれて、妖異な体験をする若者の話が小泉八雲にあります。肉筆の時代には、肉筆なればこそ文字にこもった濃密な思いがありました。若い頃は何でも手書きしていた私にしても、ネットを介したやり取りばかりになって、今ではその記憶がおぼろになっていますが、「書は人なり」と言われたのは、そう遠い昔のことではありません。

草下資料をひもとけば、その向こうに草下氏本人が、抱影が、足穂がすっくと現れ、生き生きと語りかけてくるような気がするのです。

(この項、ぽつりぽつりと続く)

夜空の大四辺形(2)2024年06月03日 18時43分41秒

草下英明氏の回想録『星日記』(草思社、1984)に、草下氏と抱影、それに村山定男の3氏が写っている写真が載っています。あれは元々カラー写真で、「色の着いている抱影」というのは、AIによる自動着色以外珍しいんじゃないでしょうか。


あるいは、石田五郎氏が自著『野尻抱影―聞書“星の文人伝”』(リブロポート、1989)の中で引用された、抱影が草下氏に宛てた葉書。これは抱影が宮沢賢治を評したきわめて興味深い内容ですが、その現物は以下のようなものです。


なぜ私の手元にそれがあるか?もちろん元からあったわけではありません。

これらの品は、ごく最近、藤井常義氏から私に託されたものです。藤井氏は池袋のサンシャイン・プラネタリウムの館長を務められた方ですが、プラネタリアンとしての振り出しは渋谷の五島プラネタリウムでした。そして時期は違えど、草下氏も草創期の五島プラネタリウムに在籍していたことから接点が生まれ、以後、公私にわたって親炙されました。

そうした縁から草下氏の没後、氏の手元に残された星に関する草稿・メモ・書簡類を藤井氏が引き継がれ、さらに今後のことを慮った藤井氏が、私にそれを一括して託された…というのが事の経緯です。

この資料の山に分け入ることは、ブログで駄弁を弄するようなお気楽気分では済まない仕事なので、私にとって一種の決意を要する出来事でした。「浅学菲才」というのは、こういうときのためにある言葉で、本来なら控えるべき場面だったと思いますが、しかし浅学だろうが菲才だろうが、その向こうに広がる世界を覗いてみたいという気持ちが勝ったのです。

いずれにしても、これはすぐに結果が出せるものではないので、ここはじっくり腰を据えて臨むことにします。

(この項、間欠的につづく)

夜空の大四辺形(1)2024年06月02日 10時23分20秒

「星の文学者」を日本で挙げると、野尻抱影、宮沢賢治、稲垣足穂の3人にまず指を屈することになり、この3人をかつて「夜空の大三角」と呼んだことがあります。

(宮沢賢治(1896-1933)、野尻抱影(1885-1977)、稲垣足穂(1900-1977))

■夜空の大三角…抱影、賢治、足穂(1)
 (記事の方はこのあと全5回にわたって続きました)

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この3人の中で、立ち位置がちょっと異なるのは賢治です。
彼の文名が上がったのは死後のことで、生前は目立たぬ地方詩人に過ぎなかったからです。言葉を変えると、抱影と足穂が“自らの作家像を自らの手で築いた人たち”であるのに対して、賢治の作家像は、その作品を他の人たちが読み込み、銘々がそこに多様なイメージを投影した結果の集積に他ならず、その意味で「作家・宮沢賢治」という存在は、後世の人たちが共同制作したひとつの“作品”なのだと思います。

もちろん「英雄は英雄を知る」で、繊細な詩心を持った人たちにとって、賢治は独特の魅力を放つ先人たりえたと思いますが、戦中・戦後の賢治評価を虚心に見るとき、賢治が『風の又三郎』的な「ほのぼの系童話作家」や、『雨ニモマケズ』の「通俗道徳の人」として受容され、単にそれだけで終わっていた可能性も十分にあった気がします。

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賢治が天才作家の列に加わったのは、そこに有能なプロモーターが存在したからだ…というと、賢治ファンに怒られるかもしれませんが、でも、賢治の才能に惚れぬいたプロモーターの純な心と、そのプロモーションの才能もまた正しく評価されねばなりません。

そのプロモーターとして外せないのが、草下英明(くさかひであき、1924-1991)氏です。草下氏は「科学ジャーナリスト」や「科学評論家」という肩書で語られることが多く、たしかにそうには違いありませんが、氏はそれだけにとどまらない異能の人です。賢治が「星の文学者」というイメージで語られるようになったのは、明確に草下氏の功績であり、氏がいなかったら、賢治イコール『銀河鉄道の夜』とはなっていなかったでしょう。

(「星の文学者、賢治」のイメージを決定づけた草下氏の『宮沢賢治と星』。初版は1953年に自費出版され、1975年に改稿版が学藝書林の「宮沢賢治研究叢書」に収められました。右は氏の回想録 『星日記―私の昭和天文史[1924~84]』

そして、草下氏は賢治のみならず、抱影や足穂とも密な関係を保っていました。以下、氏を夜空の大三角に輔(そ)え星して、「夜空の大四辺形」と呼びたいと思います。そして、この大四辺形は単に見かけ上の配位ではなく、重力的にも緊密に結びついた四重連星を構成しているのです。

(中央が草下英明氏)

草下氏のことはすでに「夜空の大三角」の連載の折にも触れましたが、なぜその名を今再び持ち出したか? かなりずっしりした話なので、その詳細は次回に回します。

(この項つづく)

宝暦暦一件2024年05月30日 18時32分26秒

渋川春海が心血を注いだ貞享暦
しかしそれも完璧ではありえず、時代が下るとともに、改暦の声がぽつぽつ出てきます。まあ、実際には貞享暦もまだまだ現役で行けたのですが、将軍吉宗の鶴の一声で、最新の蘭学を採り入れた新暦プロジェクトが動き出し、それを受けて宝暦5年(1755)から使われるようになったのが「宝暦暦」です(「宝暦」という年号は「ほうれき」と読むのが普通だと思いますが、暦のほうは「ほうりゃくれき」と呼びます)。

(明和3年(1766) 宝暦暦)

しかし、この暦には芳しからぬ評判がついて回ります。
その点についてウィキペディアの「宝暦暦」の項は以下のように記します。

 「将軍徳川吉宗が西洋天文学を取り入れた新暦を天文方に作成させることを計画したが、吉宗の死去により実現しなかった。結局陰陽頭・土御門泰邦〔つちみかどやすくに、1711-1784〕が天文方から改暦の主導権を奪い、宝暦4年(1754年)に完成させた宝暦暦が翌年から使用されたが、西洋天文学にもとづくものではなく、精度は高くなかった。」

 「騙し騙し使っていたものの、先の暦である貞享暦よりも出来が悪いという評価は覆し難く、日本中で様々な不満が出て、改暦の機運が年々高まっていく事となった。結局、幕府や朝廷は不満の声に抗しきれず、改暦を決定した。評判の高かった天文学者の高橋至時〔たかはしよしとき、1764—1804〕を登用し、寛政暦が作成され、宝暦暦はその役割を終えた。」

(同上。部分拡大)

渋川春海の「貞享暦」と高橋至時の「寛政暦」。
実力隠れなき2人の俊才が、知恵と努力を傾けた2つの暦の間にあって、宝暦暦は「ダメな暦」の代表であり、それはひとえに土御門泰邦という愚かな「公家悪(くげあく)」のせいなんだ…というのが、一般的な見方でしょう。

   ★

歴史物語は往々にして「悪者」や「敵役」を欲するので、土御門泰邦も実際以上に悪者とされている部分があると思います。泰邦にだって、きっと言い分はあるでしょう。

兄たちが次々に早世する中で、土御門兄弟の末弟でありながら当主の役割を負った泰邦。彼の行動は私利というよりも、暦に関する権能を幕府天文方から取り戻し、土御門家の栄光を再び輝かすことに動機づけられており、当時の「家の論理」に照らせば、それは一種の「正義」とすら言えます。

   ★

宝暦の改暦をめぐっては、渡辺敏夫氏が『近世日本天文学史・上巻』で、70頁余りを費やして詳しく論じています。それによると、泰邦も最初から横車を押してきたわけではなく、改暦の準備作業のため江戸から派遣された天文方の西川正休(にしかわまさやす、1693-1756)に対して、当初はまずまず穏当な対応をしていました。しかし、西川の表裏ある性格や、明らかな実力不足を知るに及び、「それならば…」と暦権奪還に向けて舵を切ったことが窺い知れるのです。

愚昧という点でいえば、西川正休の方がよほど愚昧だったかもしれません(西川が作成した新暦案に土御門側は数々の疑問を呈しましたが、それらは一応筋の通ったもので、西川はそれに返答することができませんでした)。その意味で、泰邦とその周辺にいた人物は、たしかに暦学について一通りの見識を備えていたのです。

しかし問題は、改暦の大仕事は「一通りの見識」でできるようなものではなかったということで、そこを無視して改暦に手を染めたのは、やはり無謀だったと言わざるを得ません。

(同上)

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暦というのは、天体の運行と人間生活が出会うところに生まれるものなので、本来的に人間臭いところがあります。そして宝暦暦を見ると、改暦というイベントはそれに輪をかけて人間臭いなあ…と思います。

貞享暦に触れる2024年05月26日 10時22分14秒

暦の話題は地味ですから、世間の人々の関心をあまり惹かないと思います。
江戸時代の暦の現物も、言ってみればただの煤けた紙に過ぎませんし、何か目を見張るようなものがそこにあるわけではありません。

でも、子細に見れば編暦や改暦のエピソードはなかなかドラマチックで、貞享暦を作った渋川春海(1639-1715)は、冲方丁さんが小説『天地明察』で採り上げ、岡田准一主演で映画化もされました(2012年)。

   ★

渋川春海による暦法改良が認められ、貞享2年(1685)から宝暦4年(1755)まで使われ続けた「貞享暦」。江戸時代中期の人々の生活は、この貞享暦にしたがって営まれました。

私の場合、天文から暦に興味を寄せていったわけですが、それに加えて「煤けた紙」が根っから好きなので、暦の実物を手に取ることも多いです。ただ幕末頃の暦は容易に手に入るものの、貞享暦の現物はなかなか見つけられませんでした。

(江戸後期~幕末に伊勢で発行された暦。左は元治2年(1865)の天保暦、右は文政4年(1821)、手前は天保8年(1837)のいずれも寛政暦)。

いろいろ探してようやく見つけたのが、下の元禄8年(1695)の伊勢暦。出版自体は前年の元禄7年(1694)に行われました。


裏打ちした暦に「元禄七年/米満( )」の署名が入った仮製表紙が付いています。

元禄8年といえば、今から329年前。江戸時代最後の慶応4年(1868)を基準にしても173年前ですから、これは相当古いです(慶応年間の人にとっては、元禄よりも令和の今の方が時代的に近い計算です)。渋川春海も数え年57歳で、まだまだ元気な頃。この暦に仮製表紙が付いているのは、前の持ち主がこれを大事にしていた証拠で、米満某という人は、江戸時代における好古家だったのかもしれません。


暦の冒頭部。残念ながら、この暦には欠失があります。下は同じ発行元(箕曲主計与一大夫)が出した寛延2年(1749)の暦ですが、版元表示に続く2行目の「寛延二年つちのとのミ乃貞享暦」に相当する部分が、手元の暦では切り取られています。

(出典:国書データベース。https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200021235/

(手元の暦の部分拡大。切断の跡を示す切れ込みがあります)

(同上。暦下部の切断跡。上手に貼り合わせてありますが、手で触ると紙の合わせ目が感じ取れます)


それでも暦の末尾に「元禄七年出」とあるので、これが元禄8年用の暦であることは確かでしょう。

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冷静に考えると、元禄時代の古暦を手に入れたから何だというんだ…という気もするんですが、これを見れば渋川春海その人に近づけたような気がするし、まだ赤穂事件も起こっていなかった時代の空気にじかに触れるようで、この煤け具合が大層床しいです。

結局、私はこの暦に学問的にアプローチするでもなく、単に床しがるだけに過ぎないんですが、こうして古暦を並べてみると、「慶応年間の人にとっては、元禄よりも令和の今の方が時代的に近い」と言いつつも、文化的に江戸時代はやっぱりひと連なりで、暦に関しては、幕末の人も元禄の人も同じようなものを使っていたことが分かるし、さらにいえば室町や鎌倉の頃も、暦の体裁は似たり寄ったりですから、そこから日本文化の不易と流行に思いをはせたり…という若干の効用はあります。

暦道の傑人、大春日真野麻呂2024年05月25日 10時57分49秒

大春日真野麻呂(おおかすがのまのまろ)という人がいます。
生没年は未詳ですが、平安時代の前期、9世紀の半ばから後半にかけて活躍した人で、安倍晴明なんかよりも100年以上昔を生きた人です。

前にも書いたように、平安時代後期以降、暦道は加茂氏が独占するようになりましたが、もっと昔はこの大春日氏が暦道を司っていた時期がありました。真野麻呂は歴代の中でもことに学識に優れ、暦博士と陰陽頭を兼任した史上最初の人でもあります。そして、暦法の精度を実証的に比較した上で「宣明暦」の導入を建議し、862年にそれが実現することになった立役者こそ、この大春日真野麻呂です。

この宣明暦が、日本では江戸時代の貞享元年(1684年)まで823年間使われ続けましたが、さすがに長年月のうちに現実との齟齬を生じたため、渋川春海(1639-1715)が建議して、新たに「貞享暦」が採用されたのは、広く知られた事実と思います。

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…と、何となくもっともらしく書きましたが、私が真野麻呂の名を知ったのは、つい昨日のことです。そして上に書いたことは、すべてウィキペディアの受け売りです【LINK】。 

真野麻呂の名は、S.Uさんにコメント欄【LINK】で教えていただいたのですが、暦道史における傑人・大春日真野麻呂の名を知らなかったことを深く恥じ入るとともに、彼の名は渋川春海に比べてあまりにも知られてないよね…ということで、S.Uさんと意見が一致したので、こうしてブログの隅に書き付けることで、顕彰の一助にしたいと思います。

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歴史上の人物を記憶にとどめる上で、肖像画の存在は大きいと思います(聖徳太子も、源頼朝も、足利尊氏も、学問的には疑問符が付いても、依然として「あの顔」とともに想起されることが多いでしょう)。

大春日真野麻呂については、画家の菊池容斎が古人の肖像画と略伝をまとめた『前賢故実』 巻四(明治元年、1868)に載っていることを、これまた先ほど知りました。同書は国会図書館のデジタルコレクションで公開されているので、手っ取り早く下に画像を貼っておきます。

(大春日真野麻呂、菊池容斎『前賢故実』 巻四より)

はるか後代に想像で描かれた肖像画ですが、在ると無いとでは訴求力が違いますから、この後ろ姿とともに、今後真野麻呂の名を思い出したいと思います。