蟹と月と琴(補遺) ― 2024年09月08日 19時11分18秒
記事を書き上げた後で、脳内の歯車がカチッと回った気がします。
強力な鋏と固い甲羅を持つ蟹は、尚武のシンボルとして武家で好まれたデザインであり、武具や調度にも取り入れられた…というのが、ここでは重要なヒントかもしれません。
私はこれまで、この画題を「風雅」「吉祥」に引き付けて解釈しようと努めたことから、蟹の位置づけに苦しめられましたが、それ以外の要素もここにはあると考えると、また別の解釈が可能かもしません(それが何かはまだはっきりしませんが…)。
(『平安紋鑑』より蟹紋各種)
ちなみに蟹を紋所にする家もいくつかあって、可児氏も確かにその一つとのこと。
蟹と月と琴(後編) ― 2024年09月08日 13時35分09秒
(今日は2連投です)
もう一つの万葉集云々ですが、これは『万葉集』巻十六に収められた「乞食者(ほかひひと)が詠(うた)ふ歌二首」のうちの一首を指します。
新潮日本古典集成(青木生子他校注)の注釈によれば、「乞食者(ほかひひと)」とは、いわゆる路傍で物乞いする人ではなく、「家々の門口を廻って寿歌(ほぎうた)などを歌って祝い、施しを受けた門付け芸人」とあります。
万葉集は、その寿歌を2首採録していて、1首目は鹿の歌、2首目が蟹の歌です。
いずれも捕らえられた鹿と蟹が、やがて我が身が大君のお役に立つであろうと、彼ら自身が述べる体裁になっています。まあ、鹿や蟹にとっては災難ですが、人間側から見れば、豊猟や豊漁を予祝する歌といったところでしょうか。
煩をいとわず、蟹の歌を全文掲げれば以下の通りです(新潮日本古典集成による。太字・改行は引用者)。
おしてるや 難波の小江(をえ)に
廬(いほ)作り 隠(なま)りて居る
葦蟹(あしがに)を 大君召すと
何せむに 我を召すらめや
明(あきら)けく 我が知ることを
歌人(うたびと)と 我を召すらめや
笛吹きと 我を召すらめや
琴弾きと 我を召すらめや
かもかくも 命(みこと)受けむと
今日今日(けふけふ)と 飛鳥に至り
置くとも 置勿(おくな)に至り
つかねども 都久野(つくの)に至り
東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ
参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば
馬にこそ ふもだしかくもの
牛にこそ 鼻縄(はななは)はくれ
あしひきの この片山(かたやま)の もむ楡を
五百枝(いほえ)剥き垂れ
天照るや 日の異(け)に干し
さひづるや 韓臼(からうす)に搗き
庭に立つ 手臼(てうす)に搗き
おしてるや 難波の小江の 初垂(はつたり)を からく垂れ来て
陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を
今日行きて 明日取り持ち来(き)
我が目らに 塩塗りたまひ
腊(きた)ひはやすも 腊(きた)ひはやすも
廬(いほ)作り 隠(なま)りて居る
葦蟹(あしがに)を 大君召すと
何せむに 我を召すらめや
明(あきら)けく 我が知ることを
歌人(うたびと)と 我を召すらめや
笛吹きと 我を召すらめや
琴弾きと 我を召すらめや
かもかくも 命(みこと)受けむと
今日今日(けふけふ)と 飛鳥に至り
置くとも 置勿(おくな)に至り
つかねども 都久野(つくの)に至り
東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ
参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば
馬にこそ ふもだしかくもの
牛にこそ 鼻縄(はななは)はくれ
あしひきの この片山(かたやま)の もむ楡を
五百枝(いほえ)剥き垂れ
天照るや 日の異(け)に干し
さひづるや 韓臼(からうす)に搗き
庭に立つ 手臼(てうす)に搗き
おしてるや 難波の小江の 初垂(はつたり)を からく垂れ来て
陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を
今日行きて 明日取り持ち来(き)
我が目らに 塩塗りたまひ
腊(きた)ひはやすも 腊(きた)ひはやすも
以下、同じく現代語訳。
難波入江の葦原に廬りを作って、潜んでいるこの葦蟹めなのに、大君がお召しとのこと、どうして私などお召しなのか、私にははっきりわかっていることなんだけど、歌人にとお召しになるものか、笛吹にとお召しになるものか、琴弾きにとお召しになるものか、でもまあ、お召しは受けましょうと、今日か明日かの飛鳥に着き、置いても置勿(おくな)に辿り着き、杖も突かぬに都久野(つくの)に着き。さて東の中の御門から参上して仰せを承ると、馬にならほだしを懸けて当りまえ、牛になら鼻緒をつけて当りまえ、なのに蟹の私を紐で縛りつけてから、傍(そば)の端山(はやま)の楡の皮を五百枚も剥いで吊し、お天道様でこってり干し上げ、韓臼で荒搗きし、手臼で搗き上げ、故郷(ふるさと)難波江の塩の初垂り、その辛い辛いやつを溜めて来て、陶(すえ)の人が焼いた瓶を今日一走りして明日には持ち帰り、そいつに入れた塩を私の目にまで塗りつけて、乾物にし上げて舌鼓なさるよ、乾物にし上げて舌鼓なさるよ。
この歌に関連して、国文学者の吉田修作氏は、
「三八八六番歌には「琴弾き」の前に「歌人」「笛吹き」とあり、それらの歌舞音曲の担い手として「吾を召すらめや」という文脈の中に位置付けられている。これらに対し、代匠記〔※引用者注:江戸時代の国学者・契沖による『万葉集』の注釈書、『万葉代匠記』のこと〕は蟹が白い沫を吹く動作や「手ノ数モ多ク爪アリテ琴ヲモ引ツベク見ユル故ナリ」との解答を与えている。蟹の動作を擬人化、戯画化したということだが〔…〕」
と述べられています(吉田修作『古代文学表現論―古事記・日本書紀を中心にして』(おうふう、 2013)、25頁)。
★
結局、万葉集の蟹は琴を弾くこともなく、干物にして食べられて終わりで、あんまり風流な結末ではないんですが、蟹と琴の関係を古典に求めると、確かにこういう細い糸があります。
しかし、この糸はいかにも細く、頼りなげです。
そしてあまり風雅・富貴な歌ともいえません。
それにこれだけだと、蟹と琴はいいとしても、月の存在が宙に浮いてしまいます。
ここまで追ってきても、依然この硯箱の謎は深いです。
★
うーむ…と腕組みしながら、しばし考えました。
ひょっとしたら、この硯箱は万人向けの、いわば普遍的な風雅や吉祥をテーマにしたものではなく、注文主(最初の持ち主)の属人的な記念品として制作されたのではあるまいか?
なんだか最後の最後で、ちゃぶ台返しのような結論になりますが、そうでも考えないと、この硯箱が存在する意味が分かりません。
(画像再掲)
たとえば、これは可児氏ゆかりの女性が、亡夫追善のため「想夫恋」を下敷きに作らせた硯箱であり、蟹は仏を象徴する「真如の月」を拝んでいるのだ…といったようなストーリーです。まあ出まかせでよければ、ほかにいくらでもストーリーは作れますけれど、そうなると、この絵柄の意味は注文主だけに分かる「暗号」であり、その謎は永遠に解けないことになります。
(関ケ原合戦図屏風に描かれた戦国武将・可児吉長(才蔵))
ここまで頑張ってきて残念ですが、今のところはこれが限界のようです。
(不全感を残しつつ、この項いったん終わり)
蟹と月と琴(中編) ― 2024年09月08日 13時29分00秒
蟹と月と琴の三題噺の続き。
★
「月と琴」だけなら、昔から風雅な取り合わせとして、その典拠には事欠きません。
たとえば、唐の詩人・王維の古来有名な五言絶句「竹里館」。
獨坐幽篁裏 独り坐す 幽篁の裏(うち)
彈琴復長嘯 琴を弾じて復た長嘯す
深林人不知 深林 人知らず
明月來相照 明月 来りて相照らす
彈琴復長嘯 琴を弾じて復た長嘯す
深林人不知 深林 人知らず
明月來相照 明月 来りて相照らす
日本の古典だと、『源氏物語』「横笛」巻で、源氏の嫡男・夕霧が「月さし出でて曇りなき空」の下、女二宮(落葉の宮)の邸を訪問し、琵琶と琴で「想夫恋(そうぶれん)」の曲を合奏するシーンだとか、『平家物語』巻六で、嵯峨に隠れ住む高倉帝の寵姫・小督局(こごうのつぼね)を、源仲国が「明月に鞭をあげ」て訪ね、これまた「想夫恋」を琴と笛で合奏するシーン。後者は能「小督」の題材ともなり、広く人口に膾炙しました。
(作者不明の小督仲国図。以前、オークションで売られていた商品写真を寸借)
★
問題は「琴と蟹」で、蟹が出てくると途端にわけが分からなくなります。
なぜここで蟹なのか?
前回の記事の末尾に掲げた、「特別展 日・月・星(ひ・つき・ほし)―天文への祈りと武将のよそおい」の図録に書かれた解説文を再掲します。
「満月のもと、琴と蟹を蒔絵で表す。主題の意味ははっきりしないが、万葉集に、葦蟹(あしがに)を大君が召すのは琴弾きとしてか、と詠んだ歌がある。あるいはまた琴弾浜を表すとも考えられる。」
★
話の順序として、まず「琴弾浜」由来説から先に検討しておきます。
琴弾浜(琴引浜)は京都府の日本海側、現在の京丹後市にある観光名所で、摩擦係数の大きな石英砂を主体とする浜であるため、ここを歩くとキュッキュッと音がすることから、その名を得たそうです(いわゆる「鳴き砂」)。
(ウィキペディアより)
で、ここが古来歌枕として名高く、万葉歌人がここで蟹と月を詠み込んだ歌を作っていたりすれば、すぐに問題は解決するのですが、もちろんそんな都合のいい話はありません。
そもそも、琴引浜の名が文献に登場するのは、江戸時代もだいぶ経ってからのことで、そうなると例の硯箱の方が地名より古いことになり、話の辻褄が合いません。どうもこの説は成り立ちがたいようです。
(長くなるので、ここでいったん記事を割ります。この項つづく)
蟹と月と琴(前編) ― 2024年09月07日 08時14分22秒
昨日書いた「あるもの」とは琴です。
最初それに出会ったのは、「日輪と月輪―太陽と月をめぐる美術」展(サントリー美術館、1998)の図録上でしたが、そちらの図版はモノクロなので、所蔵者である東京国立博物館のサイトから画像を一部トリミングして転載します。
以下、同ページの作品解説より。
「蟹琴蒔絵硯箱(かにことまきえすずりばこ)
黒漆塗の地に金の高(たか)蒔絵で蟹と琴を描いた硯箱。蟹の目には金鋲(びょう)をうち、雲に金銀の切金(きりかね)を置き、月は銀の板を切り抜いた平文(ひょうもん)で表わすなど、大胆な図柄でありながら、様々な技巧が凝らされている。桃山文化期にも、伝統様式の蒔絵が存続していたことを示す一例である。」
黒漆塗の地に金の高(たか)蒔絵で蟹と琴を描いた硯箱。蟹の目には金鋲(びょう)をうち、雲に金銀の切金(きりかね)を置き、月は銀の板を切り抜いた平文(ひょうもん)で表わすなど、大胆な図柄でありながら、様々な技巧が凝らされている。桃山文化期にも、伝統様式の蒔絵が存続していたことを示す一例である。」
時代は「江戸時代・17世紀」となっていますが、解説には「桃山文化期」ともあるので、まあ江戸の最初期の作品なのでしょう。
何だかシュールな、いかにもいわくありげな図柄ですが、これは一体何を表現しているのか? まあ「何を」といえば、もちろん蟹と月と琴なんですが、この取り合わせの背後にあるストーリーなり、典拠なりを知りたいと思いました。
当たり前の話ですが、昔の人は筆で文字を書いたので、硯箱は必需品でした。当然、膨大な数が作られたと思いますが、大半の実用品は古くなれば廃棄され、今も残る品は調度品を兼ねた、いわば「高級品」です。
そういう品の常として、そこに施される蒔絵は、もっぱら「吉祥」や「風雅」の意をこめたものであり、古典に取材した画題を採用していますから、この「蟹・月・琴」の場合も、そこには何か典拠があるはずだと思いました。
しかし、国立博物館の解説は、技法について言及しているだけだし、『日輪と月輪』展の図録に至っては、サイズ・時代・所蔵者がそっけなく書かれているだけで、解説めいたものは皆無です。
★
この件については、ネットもあまり役に立たなくて、何となくポカーンとしていましたが、別の展覧会の図録に、そのヒントが書かれていました。それは2004年に仙台市博物館で開かれた「特別展 日・月・星(ひ・つき・ほし)―天文への祈りと武将のよそおい」の図録です。
この展覧会でも、同じ「蟹琴蒔絵硯箱」(ただし図録では「琴蟹蒔絵硯箱」になっています)が出品されたのですが、その解説にはこうあります。
「満月のもと、琴と蟹を蒔絵で表す。主題の意味ははっきりしないが、万葉集に、葦蟹(あしがに)を大君が召すのは琴弾きとしてか、と詠んだ歌がある。あるいはまた琴弾浜を表すとも考えられる。」(図録p.122)
なるほど、これは脈ありかも…ということで、さらに謎を追ってみます。
(この項つづく)
蟹と月 ― 2024年09月06日 18時14分29秒
以前、こんな星座絵を載せたことがあります。
■星座絵のトランプ
この絵を見て、「かに座と月がペアで描かれているのはなぜだろう?」と疑問に思いましたが、西洋占星術の世界では、月はかに座の「支配星(Ruling Planet)」と考えられているからだ…と、そのときは自分なりに答を出しました。
この蟹と月の関係を、別の角度から考えてみます。
★
蟹の産卵行動と月の関係はよく知られています。
陸棲や半陸棲のカニ類(アカテガニ、ベンケイガニ、オカガニ等)が、満月の晩に群れをなして海岸に押し寄せ、波打ち際で産卵する光景は、夏の風物詩としてニュースになったりもします。
これほど顕著でもなく、また事実かどうかはっきりしませんが、蟹と月の関係については、昔からいろいろなことが言われています。
「ガザミは、月夜に群れをなして泳ぐことから月夜カニとも呼ばれます。ところで、“月夜の蟹”ということわざをご存じでしょうか?このことわざは、月夜の蟹が月光を恐れて餌をとらないために痩せて身がないことから、中身がないことを意味します。」(「みやぎ水産の日だより 2018年6月号」より)
(ガザミ(ワタリガニ)。ウィキペディアより)
上の一文は、宮城県の発行物から引用させていただきました。
さらに、お隣の山形県が発行している水産情報紙にも、面白いことが書かれていました。「蟹は満月の夜に脱皮する」という説を耳にした水産試験場の研究員さんが、職場で飼育しているガザミとヒラツメガ二で、実際に調べてみた結果です。
「満月」、「新月」、「その他」の3区分で、脱皮個体数を調べてみると、いずれも「その他」に脱皮する個体がいちばん多くて、蟹は満月(あるいは新月)の日にだけ脱皮するということはないのですが、しかし1日あたりで比較すると、ガザミは新月の日に、ヒラツメガニは満月の日に脱皮する個体が確かに多く(前者は2倍以上、後者は6倍以上)、やはり月相と脱皮には何か関係がありそうだ…という結果が得られました。
(出典:「すいさん山形 平成23年3月号」)
(出典:同上)
幼生期も含め、浅海で暮らす蟹の仲間は、干満の影響を強く受けるので、その生態が間接的に月相と関連していることは大いにあり得ることです。蟹と月をめぐる古俗や伝承も、あるいはそんなところに端を発しているのかもしれません。
★
さて、ここまでは話の前振り。
蟹と月にプラスして、さらにもう一つの「あるもの」の関係について考えてみよう…というのが、今回の話の中心です。
(この項つづく)
夏を送る ― 2024年09月05日 19時20分14秒
今日は明るいうちに家路につき、1つ手前の駅で下りて、散歩しながら帰ってきました。こんなふうに寄り道をするのは久しぶりです。半月前だったら熱死は必至だったでしょう。
雄大な入道雲と、刷毛目の立った筋雲が並んで浮かぶ空。
今頃になって盛んに鳴き出したツクツクボウシの蝉しぐれ。
そんな晩夏の色と音を感じながら、あの猛暑を我ながらよく生き延びたなあ…としみじみしました。
(これは今日ではなく、先週見た空)
まあ、しみじみする一方で、いつの間にか今年も残り少なくなってきたことに焦りも感じますけれど、何はともあれ今は秋の訪れを素直に喜びたいと思います。
明後日は二十四節気の「白露」。朝晩めっきり涼しくなってくる時分ですね。
★
記事の方はいろいろ文字にしたい事柄も多いですが、気力・体力と相談しつつ、のんびりいくことにします。
かわいい天文学者とパリのカフェ ― 2024年09月01日 13時36分41秒
かわいい紙ものを見つけました。青いドレスの女の子が熱心に望遠鏡をのぞき込んでいるそばで、昔の天文学者風の男の子が「紙の星」を揺らして、女の子の興味を引きつけています。いかにもほほえましい絵柄。
この品の正体は、昔のメニューカードです。
パリ・オペラ座(ガルニエ宮)の脇に1862年開業した、老舗の「グラン・ホテル」(※)。現在はインターコンチネンタルの傘下に入り、「インターコンチネンタル・パリ・ル・グラン」となっていますが、その一角、ちょうどオペラ広場に面して今も営業しているのが、多くの文化人に愛された「カフェ・ド・ラ・ペ(Café de la Paix)」で、1878年のある日のランチメニューのカードがこれです。
(Google ストリートビューより。正面がオペラ座、左のグリーンの日除けの店がカフェ・ド・ラ・ペ)
メニューカードというのは、当日記念に持ち帰る人も多く、それが時を経て紙ものコレクターの収集対象となり、eBayでも古いもの、新しいもの、いろいろなカードが売られているのを見かけます。
カードの周囲に目をこらせば、ディナーは6フラン(ワイン代込み)、ランチは4フラン(ワイン、コーヒー、コニャック代込み)とあって、気になる献立はというと、その内容は裏面に記載されています。
1878年11月16日(土曜日)の午餐に供されたのは、以下の品々。
…といって、私にはまったく分からないんですが、ネットの力を借りて適当に書くと(違っていたらごめんなさい)、まずブルターニュの牡蠣に始まって、白身魚のフリット、オマールエビのマヨネーズ添え、ステーキとポテトのバターソース添え、鶏レバーの串焼き、キドニーソテーのキノコ添え、もも肉ローストのクレソン添え、ほうれん草入りハム、インゲンのバター風味、冷製肉、半熟卵、スクランブルオムレツと来て、最後にデザート。19世紀のフランス人は(今も?)だいぶ健啖なようですね。
ワインもお好みでいろいろ。料金4フラン(たぶん今の邦貨で1万円ぐらい)にはワイン代も含まれていたはずですが、こちらはグラスワインとは別に、ボトルを頼んだ時の別料金でしょう。
★
さて、飲み食いの話ばかりでなく、肝心の望遠鏡について。
そもそもランチメニューの絵柄が、なぜ望遠鏡なのか?
そこに深い意味があるのかどうか、とりあえずメニューの内容とは関係なさそうですね。この日、何か天体ショーがあって、それにちなむものなら面白いのですが、にわかには分かりません。この年の7月にアメリカで壮麗な皆既日食があり、天文画の名手、トルーヴェロ(Etienne Leopold Trouvelot、1827-1895)が見事な作品↓を残していますが、季節も国も違うので、これまた関係なさそうです。
(出典:ニューヨーク公共図書館
あるいは全然そういうこととは関係なく、単に見た目のかわいらしさだけでこの絵柄となった可能性もあるかなあ…と思ったりもします。というのは、これと全く同じ絵柄を別のところでも目にしたことがあるからです。
右側に写っている一回り小さいカードは以前も登場しました。
■紙の星
こちらはパリの洗濯屋の宣伝カードで、洗濯屋と望遠鏡ではそれこそ縁が薄いので、これは完全に見た目重視で選んだのだと思います。
こういう例を見ると、この種のクロモカードの製作過程も何となく想像がつきます。つまり、この種のカードはカスタムメイドのオリジナルではなく、出来合いの印刷屋の見本帳を見て、「今回はこれで…」とオーダーする仕組みだったんじゃないでしょうか。
★
同じ絵柄のカードを2枚買うのは無駄かとは思いましたが、洗濯屋よりはカフェの方がはるかに風情があるし、常連だったというゾラ、チャイコフスキー、モーパッサンらが、この日カフェ・ド・ラ・ペを訪れていた可能性も十分あるので、ベルエポックのパリで彼らと同席する気分をいっとき味わうのも、混迷を深める現世をのがれる工夫として、悪くないと思いました。
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(※) フランス語の発音だと「グラン・オテル」だと思いますが、ここでは「ホテル」とします。オペラ座やグラン・ホテルを含むこのエリアは、19世紀のパリ改造によって建物がすっかり建て替わった地域で、時系列でいうと、グラン・ホテルのほうがオペラ座(1874年竣工)よりも先に完成しています。ちなみに、カードにはグラン・ホテルに隣接する、これまた老舗の「ホテル・スクリーブ」の名も併記されていて、今では全然別経営だと思うんですが、当時は「グラン・ホテル別館」の扱いだったようです。
グランヴィル 『Les Étoiles』 ― 2024年08月31日 10時01分01秒
オリンピックに続き、パラリンピックがパリで始まりました。
今日はパリにちなむ話。
★
西洋古書愛好家には、「19世紀フランス挿絵本」というジャンルが耳に親しいと思います。これはひとえにフランス文学者の鹿島茂氏が、古書エッセイでせっせと宣伝に努めたおかげだと思いますが、このジャンルの巨魁に、グランヴィル(J.J. Grandville、1803-1847)という挿絵画家がいます。
彼の風刺のきいた奇抜な挿絵は評判を呼び、いわゆる挿絵画家、すなわち文章に合わせて絵を描くのではなく、彼の絵に作家が文章を当てた著作が出るほどで、こうなるともう「挿絵画家」というより、単なる「画家」ですね。しかし、盛名をはせたグランヴィルも時流と運命には逆らえず、妻に先立たれ、次々と子を喪い、病を得た末に、最期は救貧院で息を引き取りました。
グランヴィルの死後、彼の遺作である「星に変身した女性」という11枚の連作に、Méryという人が文章を添えて出版されたのが、『Les Étoiles (レ・ゼトワール、‘星々’の意)』(1849)です。ただし、それだけだとボリューム不足ということで、こうして出来上がった「第1部: レ・ゼトワール、最後の妖精物語」に、フェリックス伯爵夫人が著した占星術入門書に、グランヴィルとは別人が挿絵を描いた「第2部: 貴婦人の占星術」というのを抱き合わせにして、無理やり一冊にしたのが、『Les Étoiles』でした。
★
…というのは、鹿島氏の『愛書狂』(角川春樹事務所、1998)の受け売りで、私もそう信じていましたが、ここには誤解があって、『Les Étoiles』の第2部は、占星術入門書ではなく、「貴婦人の天文学(Astronomie des Dames)」という、太陽系の諸天体や星座を解説する普通の天文入門書です(最後に「貴婦人の気象学(Météorologie des Dames)」という章が続きます)。
(「貴婦人の天文学」より。挿絵画家の名は表示がなく不明。天文学史の本で折々目にする、結構有名な絵ですが、その出典が 『Les Étoiles』です)
★
『Les Étoiles』は印刷部数が少なかったせいで、グランヴィルの諸作品の中でも集めにくいものの代表で、鹿島氏もパリ在住中は、なかなか出会えなかったといいます。もちろん今は古書検索サイトのおかげで、状況が劇的に変わりましたが、結構なお値段であることは変わりません。試みにAbeBooksを見たら、現在の出物は11点、お値段はドル建てで627ドルから7,500ドルまでとなっていました。
(美しいカルトナージュ・ロマンチック装の一冊。価格は4,025ユーロ、日本円で64万6千円也)。
★
星に関わる本ということで、私も13年前に奮発して1冊買いました。
ただし、ウン十万円というような買物ではなく、当時のレートで約1万3千円でした。これは背革装のぱっとしない本であることに加えて、冒頭のグランヴィルの肖像とタイトルページが欠けているという、決定的な「傷」があったからです。
(羊飼いの星)
(美しい星)
しかし、それ以外の13枚の図版はすべて含まれているので、確かに本としては傷物ですが、グランヴィルのオリジナル版画が1枚1000円で手に入ると考えれば、リーズナブルな買い物だともいえます。この辺はいろいろな価値基準が交錯するところでしょう。
(夕暮れの星)
(悪い星)
再び鹿島氏の『愛書狂』より。
「〔…〕グランヴィルは『フルール・アニメ』を書き上げたあと、「私はこれまであまりに長いあいだ地上のほうにばかり目を向けてきた。だから、今度は天のほうを眺めてみたい」と二度目の妻に語っていたからである。あるいは、グランヴィルは『もうひとつの世界』でフーリエの宇宙観を絵解きしたことがあるので、人間の魂は地球に八万年住んだあと、今度は地球の魂に引き連れられてほかの惑星に移住するというフーリエの思想に影響をうけたのかもしれない。死期が近づくにつれて、星々が、自分よりもさきにみまかった先妻やその子供たちの住む場所に思えてきたという可能性は十分にある。なかでも、「悪い星」「ある惑星とその衛星」と題された絵は、グランヴィルを見舞った家庭の不幸の絵解きのような気がしてならない。」(p.127)
★
この本を売ってくれたのはパリ16区の古書店で、先ほど見たら今も盛業中でした。ただし、名物店主氏は、昨年8月に星界に召された由。まさに諸行無常、万物流転。
「地球観測年に捧げる曲」が流れた時代 ― 2024年08月26日 19時35分09秒
前回書いたように、1964~65年の「太陽極小期国際観測年(IQSY)」は、「国際地球観測年(IGY)」の後継プロジェクトであり、IGYは前者の7年前、1957年7月1日から1958年12月31日を計画期間と定め、実施されました。
ついでといっては何ですが、そのIGY、国際地球観測年の記念切手も載せておきます。こちらも前回と同じハンガリーのものです。
切手では「1957年から59年まで」とあって、「あれ、1年長いぞ?」と思ったんですが、IGYは1958年でいったん終了したあと、おまけのプロジェクト、「国際地球観測協力年(International Geophysical Cooperation Year)」というのが1959年いっぱい続いたので、たぶんそれを勘定に入れているのでしょう。
IGYは東西のブロックを越えて、67の国が参加し、バンアレン帯の発見、プレートテクトニクス理論の確立につながる大西洋中央海嶺の全容解明、南極条約の締結など、多くの重要な成果をもたらしました。身近なところでは、日本の昭和基地が南極に設置(1957)されたのも、IGYの副産物です。
東西両陣営を仕切る「鉄のカーテン」を越えて、科学者がIGYに結集できたのは、スターリンが1953年に死亡し、融和ムードが生まれたことによるらしいのですが、しかしIGYによって新たな東西対決の火ぶたも切って落とされました。すなわち宇宙開発競争の始まりです。これこそ、ある意味でIGYの最大の「成果」でしょう。(それ以前から始まっていた「制宙権」争いを、IGYが強く後押しした…と言ったほうが、より正確かもしれませんが。)
上の横長の切手は、IGY記念切手とは別の宇宙切手シリーズに含まれるスプートニク1号(1957年10月打ち上げ)(※)で、その左下がスプートニク3号(同1958年5月)です。スプートニクに対抗して、アメリカが大急ぎで打ち上げたのが、エクスプローラー1号(同1958年2月)で、これがバンアレン帯の発見につながった…というのは、既に述べました。そしてNASAが設立されたのも、1958年7月のことです。
これら一連の出来事の背後にあったものこそIGYであり、その影響の大きさがうかがい知れます。
IGYについては、日本語版ウィキペディアにも当然項目がありますが、英語版Wikipediaを見たら、トリヴィアルなことも含めて、いっそう詳細な説明がありました。
中でも興味深いのは、IGYがポップカルチャーに及ぼした影響の項目です。
IGYはもちろん真面目なドキュメンタリー番組でも取り上げられましたが、それだけでなく、複数のマンガの題材にもなったし、「1957年の地球観測年に捧げる曲」というジャズナンバーが作られ、後の1982年には「IGY (What a Beautiful World) 」という曲がビルボードのヒットチャートで順位を伸ばし、グラミー賞の年間最優秀楽曲にノミネートされた…といったことが書かれていました。
IGYは科学の世界を越えて、物心両面で人々の生活に大きな影響を及ぼした、戦後の一大イベントだったと言えるんじゃないでしょうか。
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(※)【2024.8.28訂正】 上の切手の画題を「スプートニク1号」と書きましたが、これは「ルナ1号」(ソ連の月探査機、1959年1月2日打ち上げ)であろうと、S.Uさんからコメント欄を通じてご教示いただきました。ご指摘の通りですので訂正します。
ストックブックを開いて…再び太陽観測年の話 ― 2024年08月25日 15時43分52秒
ストックブックというのは、切手保存用のポケットがついた冊子体の郵趣グッズで、それ自体は特にどうということのない、いわば無味無臭の存在ですが、半世紀余り前の切手ブームを知っている者には、独特の懐かしさを感じさせるアイテムです。
その後、子ども時代の切手収集とは別に、天文古玩の一分野として、宇宙ものの切手をせっせと買っていた時期があるので、ストックブックは今も身近な存在です。
最近は切手に意識が向いていないので、ストックブックを開く機会も少ないですが、開けば開いただけのことはあって、「おお、こんな切手もあったか!」と、感興を新たにするのが常です。そこに並ぶ古い切手はもちろん、ストックブックという存在も懐かしいし、さらには自分の趣味の変遷史をそこに重ねて、もろもろノスタルジアの源泉ではあります。
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昨日、「太陽極小期国際観測年(IQSY)」の記念切手を登場させましたが、ストックブックを見ていたら、同じIQSYの記念切手のセットがもう一つありました。
同じく東欧の、こちらはハンガリーの切手です。
この切手も、そのデザインの妙にしばし見入ってしまいます。
時代はスペースエイジの只中ですから、ロケットや人工衛星も駆使して、地上から、成層圏から、宇宙空間から、太陽本体の活動に加え、地磁気、電離層、オーロラと大気光、宇宙線など、様々な対象に狙いを定めた集中的な観測が全地球的に行われたと聞きます。
IQSYは、太陽黒点の極大期である1957年~1958年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」と対になるもので(※)、さらに極地を対象とする観測プロジェクト、「国際極年(International Polar Year;IPY)」がその前身だそうで、その流れを汲むIQSYも、いきおい極地観測に力が入るし、そもそも太陽が地球に及ぼす影響を考える上で、磁力線の“出入口”である南北の磁極付近は最重要スポットなので、この切手でも極地の描写が目立ちます。
下の左端の切手は、バンアレン帯の概念図。
宇宙から飛来した電子・陽子が地球磁場に捕捉されて出来たバンアレン帯は、1958年の国際地球観測年のおりに、アメリカの人工衛星エクスプローラー1号の観測成果をもとに発見されたものです。
東西冷戦下でも、こうした国際協力があったことは一種の「美談」といってよいですが、それでも研究者以外の外野を含め、美談の陰には何とやら、なかなか一筋縄ではいかない現実もあったでしょう。
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(※)【2024.8.25訂正】
上記の記述には事実誤認があるので、以下の通り訂正します。
(誤) 「IQSYは、太陽黒点の極大期である1957年~58年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」と対になるもので」
(正) 「IQSYは、太陽黒点が極大期を迎える1968~70年の「太陽活動期国際観測年(International Active Sun Years;IASY)と対になって、1957~ 58年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」を引き継ぐもので」
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