「太古の遺物」の遺物2026年08月16日 11時29分57秒

今もあるかもしれませんが、昔の小学校には「社会科資料室」というのがあった気がします。「社会科準備室」という名称だったかもしれません。掛図やら大きな地球儀やら、古ぼけた年表やらがしまってある部屋で、いわば理科準備室の社会科版です。

昨日の記事から、そのことを思い出しました。
私の小学校にも、旧校舎にたしかそんな部屋がありました。戦前から建ってる学校だと、それ自体が歴史資料化したような教材類が堆積して、埃臭い中にも一種の趣が漂い、子ども時代の私はそういう空気がひどく好きでした。

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そこには、たしかこんな品もありました。


「日本太古遺物模型」という、読んで字のごとくの品です。
木製ケースの高さは80cmあるので、結構大きなものです。


ラベルには「東京 地図教材株式会社 製作」とありますが、今では存在しない会社らしく、詳細は不明。全体の雰囲気からすると、1950~60年代の品と思います。


石器時代の石器・骨器から、青銅器・鉄器時代の武器・祭器・玉器に至るまで、年代ごとに標本然と配列されています。小さいものは実物大、銅剣・銅矛などの大物は1/2~1/3のスケールモデルで、まだレジンモデルのない時代ですから、素材は粘土や紙粘土(紙塑)で、そこに彩色を施したのでしょう。どれもなかなか真に迫っています。

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歴史学の進展によって、先史時代や古代史の理解にも変化が生じ、教科書の記述もずいぶん書き換わったと思います。当然、こういう古ぼけた資料類も、その価値を大いに減じたわけですが。埃臭い資料室の空気を好むという趣味嗜好は、それとは別の次元で成り立っているので、依然として私にとっては魅力的な存在です。(これは個人的ノスタルジーの発露に過ぎないので、どこまで他の方の共感を得られるかは分かりませんが、でも共感が得られたら嬉しいです。)

いつか昔の木造校舎のような家を建てたら、これを部屋に飾ろうと思って購入したのですが、自分の人生もすでに「巻き」が来てますから、それは脳内計画だけで終わりそうです。こんな風に、私の場合、脳内計画だけで終わったことがあまりにも多くて、別に後悔はしていませんが、残念には思います。

夏こそ地史研究、「いざ掘らん」2026年08月15日 11時00分14秒

夏休み。自由研究の季節です。
自由研究の好伴侶となる本を見つけました。


■富士川 滋(著)
 『地史研究 採集鑑定便覧』
 昭和2年(1927)、厚生閣

ほぼ100年前に出た地質趣味のガイドブック。
ここで仮に「地質趣味」と書きましたが、この本の中身を一言で表現するのは難しいです。今だと、それに相当する語彙や概念がないからです。


外箱にはハンマーをふるう少年の絵の下に、岩石・鉱物から土器・石器・骨器に至るまで、本書の取り扱うテーマが列挙されています。

「凡例」に曰く、

 「本書は中等学校の生徒諸君、高等学校の学生諸君、小学校並に中等学校の教員諸氏で、地理科、歴史科、鉱物科、地質科等の研究をせられる方々の為に、其の参考手引として編んだもので、殊に小学校、中学校の先生方で、其の郷土地誌研究を企てられる時には、最もよい伴侶であらうと思ふ。」(太字は原文のまま)

今では異なるカテゴリーとされる対象が――いや、当時にあっても、それは異なる学問領域と見なされたはずですが――「郷土地誌研究」という題目のもと、著者・富士川の中では統一的に考えられていたことを知ります。

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柳田國男によって、明治末年から「郷土研究」ということが唱えられ、それが昭和以降、日本的民俗学へと発展していきますが、地方の好学家にとって、自らの住む身近な町や村こそが興味深い研究対象と意味づけられたことは、まさにコペルニクス的転回。その結果、全国津々浦々で郷土研究に向けられた知的エネルギーの総量は、おそるべき量に達したはずです。野尻抱影による星の民俗語彙収集も、もちろんその流れの中で行われた仕事です。

本書もそのバリエーションで、富士川は博物学と地理学、そして歴史・考古学にまたがるものとして、「郷土地誌研究」を提唱したのでしょう。

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(目次冒頭)

上述のとおり、本書の内容は多分野にまたがり、それぞれがかなり詳細です。
地質巡検の用具と心得に始まり、地質調査の方法、地形図の作図法、岩石鉱物標本の採集と鑑定、石器時代の遺跡と発掘…等々に説き及び、さらに古生物分類表や、鉱物産地一覧、石器時代遺跡遺跡一覧など関係資料も非常に充実しています。

とは言っても、何せ100年前の本ですから、これを直接参考にして研究するわけにもいかないでしょうが、その旺盛な好奇心と創意工夫には大いに励まされます。

(高価な鉱物顕微鏡がなくても、身近な生物顕微鏡ひとつで十分面白い研究ができると説く章)


そして、ここに漂う博物趣味の香気と風趣。
まあ私の場合、何事も香気から入り、風趣で終わるのが弱点ですが、夏の午後に本書を開けば、心はただちに野山に飛び、古い理科室で研究に夢中になっている自分の姿が、まざまざと浮かぶのです。

(レタリングが洒落ています)

なお、著者・富士川滋については、残念ながら生没年も。詳細な伝も未詳。

国会図書館デジタルコレクションに当ると、1920年(大正9)の雑誌に「小学訓導」、すなわち小学校の先生として、その名が見えます。その後、文部省の中等教員検定試験(地理科)に合格し、本書出版当時は、東京府立第一商業学校(現・都立第一商業高校)の地理学科主任を務め、また地質鉱物学科をも兼担していたことが、本書の序文から読み取れます。

月の霊廟2026年08月11日 15時52分02秒

8月6日、9日、15日。
日めくりを見ながら、さまざまな思いが胸に去来する時期です。


季節柄、天文古玩的にこんな絵葉書を手にしました。
月と星に照らされた大鳥居。



「(大東京夜の美観)星輝〔せいき〕澄む夜の靖国神社と大鳥居」と題された1枚です。戦前、まだ世の中が戦争一色になる前に出たものと思います。

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国家として戦死者を追悼する施設は、世界中にあるでしょう。
また聖戦に斃れた者は天国に召されるとする観念も、古今東西あったと思います。
しかし「戦死者イコール神」であり、他ならぬ戦死者が祭神だという極端な教義の施設は、至極珍しいんじゃないでしょうか。まあ、仏教も日本化すると「人は死ねば皆ホトケだ」という簡便なことになるし、戦死者はみな神様だ…というのも、やっぱり同じ伝なのかもしれません。

人間と神様・仏様の境界がごく薄いというのは、考えようによっては、ひどく民主的ですが、ただ、靖国神社の場合は、「国を靖んじる神社」という名が示すように、「国家あっての神様」であり、神様すらも国家に奉仕する存在だ…という点において、やはり民主とは相いれない存在と言わざるを得ません。

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月明かりの参道をゆく参拝者。母子連れでしょうか。
これは絵葉書ですが、現実にもあり得た光景と思います。

亡夫・亡父に手を合わせるとき、果たして彼らは何を思ったか。
当時のポリティカル・コレクトネスに照らして、口にできなかった思いも含めて、一言では尽くせない、複雑な思いが渦巻いたのは確かでしょう。

靖国は日本が軍事強国を目指す過程で生み出された、兵士を死地に駆り立てるための精神装置だったと私は思いますが、国家はそもそも国民のためにあるのであって、決してその逆ではない、ということは何度でも繰り返し述べたいと思います。

ある大望遠鏡の問わず語り2026年08月08日 10時41分16秒

アドラー・プラネタリウムのステレオ写真といっしょに、こんな品も手にしました。


何かがグルングルン回っています。最初見たとき、古典的錯視図形である「フレイザー錯視」を連想しました。どう見ても渦巻模様なのに、実は同心円というやつです。

(フレイザー錯視の例。ウィキペディア当該項より)

冒頭の写真は本当の渦巻き状で、同心円ではありません。でも、その存在の奇妙さは錯視図形さながらで、しかも「見る」ことに深く関わるモノである点も同様です。


「メルボルン望遠鏡を覗き見したところ」

メルボルン望遠鏡は、「グレート・メルボルン望遠鏡」とも呼ばれます。
これはその巨大な筒先を覗き込んで写した一枚で、鏡筒は風の影響を避けるため、かご状になっています。生れはアイルランドのトーマス・グラブの工場で、その後、オーストラリアに運ばれ、1868年にメルボルン天文台に据え付けられました。ちょうど日本が明治維新を迎えた年のことです。

(1880年撮影。英語版wikipedia「Great Melbourne Telescope」の項より)

フレッド・ワトソン著『望遠鏡400年物語』(長沢工・永山淳子訳、地人書簡、2009)は、この望遠鏡に特に1章を設け、「第13章 悲嘆の種―南天大望遠鏡」の章題を付しています。原著ではずばり「Heartbreaker」。当時、南半球最大を誇ったこの大望遠鏡は、とかく人々の心を曇らせ、傷心をもたらす存在でした。その産みの苦しみに比べて、成果があまりにも乏しかったからです。


鏡筒の底で光り輝く主鏡。

この主鏡は、当時主流となりつつあった「ガラス鏡」ではなく、旧来の「金属鏡」です。これがそもそもの悲劇の始まりでした。絶えざる再研磨が必要な金属鏡は、メンテナンスコストが膨大で、もはや時代が求める水準に達しなかったからです。

そして、撮影者の顔がぽっかり抜けていることが、この写真をいくぶん謎めいたものにしていますが、この穴も悲劇と関係しています。

主鏡中央部に穴が開いているのは、この望遠鏡の光学系が、当時一般的だった「ニュートン式」ではなく、「カセグレン式」だからです。それによって、ニュートン式の大望遠鏡では避け難い、高所での観測作業にともなう危険性を大幅に減らしてくれましたが、一方で長焦点化という問題をもたらしました。カセグレン式は今でも現役ですが、何せメルボルン望遠鏡の場合、その焦点距離は50.6メートル(166フィート)という途方もないものでしたから、そこで得られる暗い星像は、当時急速に進歩していた天体写真の撮影にも、分光観測にも役立たなかったのです。

要は「無用の長物」…と言っては望遠鏡がかわいそうですが、そこには「時代に遅れた者の悲劇」が色濃く漂っていました。

この望遠鏡は、その後、キャンベラ郊外のストロムロ山天文台に、ほとんど捨て値で売却された後、1959年に金属鏡からガラス鏡に換装されたことで、ようやく息を吹き返しました。しかしそれも永続きせず、2003年に襲ったキャンベラ大火で無残に焼け落ち、現在はボランティアによる修復作業が進められているとのことです。

 「金属鏡の望遠鏡は、最後に前章で登場したほとんどすべての人々を巻き込んだ一つの事業で、ほろ苦さを味わう典型的な例を演出した。その事業は、〔…中略…〕その立ち上げのときから論争と非難があり、そして結局私たちの時代にまで続く、異常にもつれ合い、盛り上がったドラマを生むことになった。」 (ワトソン前掲書、p.241)

フレイザー錯視のようなステレオ写真の向こうに、望遠鏡がたどった「異常にもつれ合」ったドラマを思わないわけにはいきません。


ちなみに例の「顔のない写真師」には、やっぱり顔があって、向かって左の写真を拡大すると、こんな顔の人です。

寂滅為楽2026年08月02日 07時25分55秒

夭逝する人、齢を保つ人。
前者を思えば、人間、老いを迎えることができただけでも儲けものだ…と思わないといけないのでしょう。

ブログにも老いと死はあります。
この「天文古玩」は、ブログとしては長寿を保った部類でしょうが、書き手である私の老いとともに、それも今、緩慢な死を迎えつつあります。まあ、それだけ長く続いた証拠ですから、ありがたいことだと思います。

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ただし、事態はより深刻です。
以前も書きましたが、「天文古玩」を置いている「アサブロ」というブログサービスの保守がお粗末なため、現在、記事の投稿や編集はもちろん、閲覧すら不可能な事態がしばしば生じているからです。

運営会社であるASAHIネットは、もはやアサブロの維持を考えてないのではないか…と密かに疑っていましたが、すでに今年の2月から、ブログの新規開設の受付を停止していたと知って、懸念は現実のものとなりました。


おそらく次のステップは、新規投稿の受付停止、さらに過去の投稿記事も公開終了となり、ブログサービスは完全終了となるのでしょう。今やブログの書き手よりも先に、ブログサービス自体が、死の間際にあるわけです。

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ブログの引っ越しを考えて、AIにその方法を聞いたら、最初は自信満々に「こうすればよい」と教えてくれましたが、実際にやろうとすると、できないことばかりでした。以下は長々としたやりとりの結論部です。

 「不正確な情報を伝えてしまい、手間と時間を無駄にさせてしまったことを心からお詫び申し上げます。これ以上適当な提案でご迷惑をおかけしないよう、事実関係だけを調べ直しました。

アサブロからの移行における確定した事実

1. 他社ブログの自動引っ越し機能はすべて使えません
現在、アメブロ、FC2、ライブドア、はてな等の主要なブログサービスに用意されている「自動インポート機能」は、すべてアサブロを対象外としています。システムが自動で記事や画像を吸い上げることはできません。

2. アサブロ側にエクスポート機能はありません
管理画面からデータを取り出す公式な方法は存在しません。

現実的な選択肢

手動コピペを行わない場合、一般の個人でできる範囲では、パソコンを使ってブログの画面全体を丸ごと保存するシステム(ホームページクローン作成ソフトなど)を使い、データを強引に手元にダウンロードした上で、形式を変換して他社に移すという非常に専門的で複雑な作業が必要になります。

そのため、もし膨大な記事と画像をそのまま残したい場合は、先ほど申し上げたような技術を持つ専門の引っ越し代行業者へ相談するか、あるいは移転は諦めて現在のブログが閲覧できる限りはそのままアサブロに置いておくのが、現実的な状況です。」

うーん…かなりきびしいですね。
冷静に考えると、市販のアプリを使うにしろ、手動で頑張るにしろ、専門業者を頼むにしろ、そもそも元データにアクセスできなければ、データを吸い上げることもできないわけですから、結局打つ手がないわけです。

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自分用のデータベースとなることを期待して始めたブログですが、すべては烏有に帰しつつあります。でも、それは人間と同じで、こうして老いを迎えることができただけでも儲けものだ…と思わないといけないのでしょう。

Adler at Night, Again2026年08月01日 09時34分09秒

最近、記事の生産力が落ちているのは、もっぱら年齢のせいです。
それに加えて今週はなかなか忙しく、自分の時間がほとんど持てませんでした。でも、昔は忙しくても毎日のように更新していたわけですから、年齢の影響はやはり明白です。

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ぽつんと灯る街灯。
それに照らされて、深い陰影を見せる街路樹。
その脇を、サッと光の尾を曳いて走り去るバス。
ライトアップされて、静かに存在を主張するドーム。
そして、それら全ての上に、ゆったりとした夜の雲と、やさしい表情の月。

“世界で最も絵になるプラネタリウム”、シカゴのアドラーの夜景です。
題して「ハーベスト・ムーン」、日本風に言えば「中秋の名月」。

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この写真を見ていると、何だか音楽が聞こえてくるような気がします。
たとえば、ジャズの名曲 Round Midnight とか、あるいは、シナトラが歌う Fly Me To The Moon とか。

皆さんの耳にも聞こえますか?それはどんな音楽でしょう?

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…というのは、それこそ毎日のように更新していた15年前の記事の抜粋です。
最近は過去記事にリンクを張っても開けないことが多いので、冗長ですが一部引用しました。

■Adler at Night

我ながらいい雰囲気で書いていますが、以前は想像するばかりだった「夜のアドラー」の前に、ついに念願かなって立つことができました。


業界最大手のキーストーン社が出版した、無数のステレオ写真のうちの1枚。
以前の写真は、1963年撮影でしたが、今回はそのちょうど30年前、1933年に撮影されたものです。

この年は「進歩の世紀(Century of  Progress)」を謳ったシカゴ万博の年で、アドラープラネタリウムは。そのパビリオンの1つとして開館しました。当時最先端のツァイス製投影機はもちろん、12角形の美しいアール・デコ様式の建物にも、当時の人が抱いた未来の夢、そしてアメリカの夢がたっぷり詰め込まれ、今見てもまぶしいほどです。


(ステレオ写真の裏面より。万博公式撮影者のカウフマン&ファブリー社は、20世紀前半のシカゴで活動した、商業・建築写真スタジオ)


30年の時を隔てて並ぶ夜のアドラー。
この間、何が変わり、何が変わらなかったのか?
この2枚の間には、世界大戦が挟まり、世の中はもちろん大きく変わりました。
一方、天上の星と人々の星ごころは、変わらぬものの1つに数えていいかもしれません。

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1963年に生まれた赤子が、今、白い頭でこの記事を書いています。
記事を書きながらその胸中に去来する思いは、ちょっと文字にしがたいです。

回れ、天文時計2026年07月27日 18時52分34秒

私のコレクションに大きな進展がありました。

私が意識して集めているテーマはいくつかあるのですが、その一つに「天文時計のメカニカルポストカード」という、異常にこまかいコレクションがあります。このテーマで収集活動をしているのは、たぶん世界中で私ひとりでしょう。

まあ、これは別に威張って言うほどのことではなくて、対象をしぼれば「世界で唯一のコレクション」は誰でも作れます。たとえば「猫グッズ」を集めている人は多くても、「猫の陶製人形」に限ればコレクターはぐっと少なくなるし、さらに「三毛猫の陶製人形」、「戦前の三毛猫の陶製人形」…etc,、制限を強めれば強めるほど、競争相手はどんどん減っていく理屈です。

ただ、話を「天文時計のメカニカルポストカード」に戻すと、これはそもそも対象が非常に限られているので、集めやすそうで、かえって集めにくいテーマでした。


メジャーなのはプラハの天文時計↑と


ストラスブールのそれ↑だけで、第3の品がなかなか見つからなかったのです。
でも、先年、ようやくスウェーデンのルンド大聖堂のそれを見つけて、嬉々として記事にしました。


■ルンドの天文時計
 (過去記事のリンクが開けたり、開けなかったりで、ご不便をおかけします)

求めよさらば与えられん。そして、今回さらに第4の品を見つけました。
話がこまか過ぎて、もはや私が何を自慢しているのか、読み手の方には伝わらないかもしれませんが、私にしてみれば、「やっぱりあったんだ!」、「この分だと、まだあるかもしれんぞ!」という期待の持てる、実に嬉しい出来事だったのです。


それが、このチェコのオロモウツ市庁舎に取り付けられた天文時計の絵葉書です。
オロモウツは規模でいうとチェコ第5の都市ですが、伝統を誇る歴史の町だそうです。


もちろん、その絵葉書自体は上のようにたくさんあるのですが、紙製の仕掛けを施したメカニカル・ポストカードは今回初めて見ました。


裏面の文字情報を参照すると、原画を描いたのは、C. アンブロス(C. AMBROS)という人で、発行者は地元のヴォイテフ・シェベスチーク(Vojtěcha Šebestíka)書店

側面のギザギザ付き円盤を回すと、オリジナルの天文時計と同様、「窓」から見える絵柄が次々に変わる仕組みです。

(中段左右の窓の絵柄が変わります)

絵柄はアダムとイブ、ハプスブルク家のルドルフ、エジプト逃避途上の聖家族、そして東方三博士の4種類。

しかし、現在の時計に登場するのは、それとはまったく違ったものです。
この時計は。第2次大戦中に損傷を受け、冷戦期に全体が共産主義モチーフに作り替えられたのですが、それも歴史の1ページということで、現在もそのままになっています。そして時計の窓に登場するのは、キリスト教モチーフではなく、鉱夫、パン屋、事務員、工員など、様々な労働者階級のからくり人形だそうです。いかにも…という感じですね。

(出典:下記)

Olomouc astronomical clock(英語版wikipediaの解説ページ)

今の姿になったのは1955年なので、この絵葉書はおそらく戦前、1930年前後のものだろうと思います。

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【閑語】

ひたすら暑いです。

 念力の ゆるめば死ぬる 大暑かな  村上鬼城

…という不穏な句を、先日、中日新聞の朝刊コラムで目にしました。比喩的表現でなしに、今年の夏は句意が文字通りに感じられます。しかも最大級の念力を維持しても、なお命の尽きる人が続出という、大変な事態になっており、まことに恐ろしいことです。

近未来の予想として、人類は大々的に穴居生活に戻るか、夏場は「地底人」として暮らすようになるんじゃないでしょうか。しかし暑さはそれでしのげるとして、食糧生産の方が追い付くかどうか。何にせよ、今は人類史の曲がり角かもしれませんね。

酷暑、熱死2026年07月23日 08時39分50秒

今週いっぱい、ことによると来週も、恐ろしい暑さが続きます。
地元名古屋では、今日も最高気温40度の予想。今年は「酷暑日」という気象用語が生まれ、ニュースでは嬉々として使われていますが、まったくいやはやです。


見苦しいごみ袋の写真で恐縮です。

昨日切ったシラカシの枝が、今朝見たら褐変していて驚きました。
別に枯れ枝を切ったわけではありません。昨日まで青々していた葉っぱが、一晩で茶色くなっていたのです。冬場だと剪定した枝も長期にわたって緑を保つのですが、酷暑のせいか「あっという間におじいさん」です。

意外の感に打たれた私は、性懲りもなくまたAIに聞いてみました。
AIの答を自分なりに咀嚼して書くと、こういうことだそうです。

まず、外気温の高さばかりでなく、葉っぱ自身の呼吸作用も加わることで、ビニール袋の中は非常な高温となり、これによって頑丈なシラカシの葉も一気に熱死。そして熱で細胞膜が壊れたことにより、細胞内のポリフェノールと酸化酵素が混ざり合い、空気中の酸素と反応して、リンゴの切り口が茶色くなるのと同じ仕組みで、全体が一気に褐変したわけです。


ビニール袋を側面から観察すると、褐変は主に袋の口近くで生じており、下の方は緑を保っています。高温状態と褐変との間には、ほかにも葉緑素と結びついたタンパク質の熱変性という要因も介在するのですが、青菜のおひたしが青々としているように、植物体の熱死は、それだけでは褐変の十分条件とはいえず、そこに酸化作用の伴なうことが重要なファクターであることが分かります。たぶん袋の下の方は低酸素状態になっていたのでしょう。

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まことに樫の葉にとっては災難でしたが、これと同じことが人間の身に降りかかると、大きな悲劇を生み、狭い空間に大勢の捕虜を押し込めたことによる大量死は、これまで何度も繰り返されています(たとえば1756年のベンガルで起こった悲劇や、1956年のアフリカ・コスチの悲劇など)。

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ところで、「酷」の部首は「酉」で、一般に「とりへん」と呼ばれますが、これは十二支の「酉」の読み方から借りたもので、本来は“酒壺”のかたちを表し、「酒」とか「酔」とか「酌」とか、お酒に関係した字に使われます。

では「酷」は?…と字書を引いたら、「形声。酉と、音符告コク(ひきしめる意→梏コク)とから成り、きゅっと口をひきしめさせるような味のこい酒の意を表わす。転じて「きびしい」の意に用いる。」とありました(小川環樹ほか偏『角川新字源』)。ですから、もともと「酷」自体に悪い意味はなくて、むしろ酒徒としては大いに慶ばしい字です。

熱死は御免こうむって、結句、この辺が酷暑との好ましい付き合い方ではないでしょうか。

月の歌2026年07月20日 17時51分17秒

3連休。徒長した枝を整理するために、昨日もおとといも庭木をちょきちょき伐っていました。もちろん熱中症対策をした上でのことです。でも、対策をしたからといって、暑くてしんどいことに変わりはありません。ますます暑くなりゆく世界と、衰えゆく自分。この先、いつまで庭仕事ができるかなあ…と不安な気持ちを抑えることはできません。

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さて、こんな絵葉書を見つけました。


三日月に乗った子供たち。
写真の上に手描きで絵を補ったもののようです。張りぼての月に乗った、よくある「ペーパームーン」の絵葉書ともちょっと違った雰囲気です。


左上の文章はオランダ語で、オランダの古いわらべ歌の一節だそうです。

Kleine Nellie en kleine Koos, 小さなネリーと小さなコースは、
zaten heerlijk op de maan. 月の上で楽しく座っていました。
Maar na een heele korte poos, しかし、ちょっとしたら、
wilde het nu regenen gaan. 雨がぽつぽつ降りだしました。

そして、この後には次のような歌詞が続きます。

Nellie had geen paraplu, ネリーは傘を持っていません。
Koosje riep: "Wat moeten we nu?" 「ああ、どうしよう?」とコースちゃん。
Toen gleden zij langs een zonnestraal, すると彼らは、太陽の光に乗って、
Vlug weer naar beneden, allemaal! 急いで下まで滑り降りました!

いわばオランダ版「マザーグースの歌」です。


写真では2人とも女の子のように見えますが、ネリーとコースは、英語ならJackとJill、日本語なら太郎と花子に相当し、昔風の男の子と女の子を代表する名前。

洋の東西を問わず、わらべ歌の常として、この歌も何となく謎めいた歌詞で、そこには古い民俗的背景があるのではないか…と想像されるのですが、果たしてAIは次のように返してきました(回答を一部改変して抜粋)。

農耕民族であったヨーロッパの人々にとって、「月と雨(天気)」は切っても切り離せない関係でした。民俗学的な迷信として、「三日月が横を向いて、お椀のように水をためられる形の時は雨が降らない(またはその逆で雨が漏れ出す)」といった、月の傾きで天気を占う伝統が各地にありました。「月の上に座っていたら雨が降ってきた」というシチュエーションは、こうした「天候を支配する月」という古くからの自然信仰の記憶が、子どもの遊びの歌の中に形を変えて残ったものと解釈できます。 

「ネリーとコース」「ジャックとジル(マザーグース)」のように、男の子と女の子のペアが天界や高い場所(月や丘)に登り、そこでアクシデント(雨、転倒)に遭って降りてくる、という構造はヨーロッパの児童歌に非常によく見られるパターンです。これは、古代の「双子神」「一対の精霊(太陽と月、あるいは昼と夜の擬人化)」の物語が、長い年月をかけて口承されるうちに、親しみやすい人間の子供の名前に置き換わった名残であるという説もあります。 

そして、ネリーとコースが「太陽の光を滑り台にして降りてくる」という展開は、北欧神話やヨーロッパ伝承における「虹の橋(ビフレスト)」「光の階段」を使って天界と地上を行き来する神や妖精のモチーフの変形です。かつては神々が通った光の道を、後代の子どもたちは「雨が降ってきたから」という日常的な理由で滑り降りてくるわけです。 

AIの言うことですから、ハルシネーションに基づく勇み足が混じっているかもしれませんが、説明を聞くとなるほどなあ…と思います。

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こんなふうにAIの言うことを鵜呑みにして、「こたつ記事」を書くのもつまらない話で、ほとんど頭を使ってないという意味では、昔の「ウィキペディアの丸写し」と何ら変わりません。でも、世の中はだんだんそういう方向に向かいつつありますね。現時点では、いかにプロンプトをうまく与えるかがコツと言われますが、AIは日進月歩ですから、これもすぐ昔語りになるはずです。それが良いことか悪いことか、少なくとも文章を書くという行為の意味合いは、ずいぶん変わることでしょう。

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今宵は六日月。

 なにごとも かはりのみゆく 世の中に
  おなじかげにて すめる月かな   西行法師

世の中は変わっても、月の光は昔と変わらない―。
この古歌もうろ覚えだったのを、AIが教えてくれました。でも、だからといって歌の位が下がるわけでもないでしょう。独酌しながら、静かに口ずさみたいと思います。

コマチアイト2026年07月12日 18時40分54秒

(昨日のつづき)

「コマチアイト」という名称は、南アフリカのコマチ川で発見されたことから付けられたもので、小野小町とはもとより何の関係もありません。

私にコマチアイトの存在を教えてくれたのは、天文界の大先達である藤井常義氏で、氏の化石コレクションをまとめた冊子、『EVIDENCE OF LIFE 生命の証拠 ― Fossil collection(PartⅢ)』(私家版、2024)で、最初にその名を知りました。以下、同冊子から一部を引かせていただきます(太字は引用者)。

 「コマチアイトは火成岩で表面に板状に細長く伸びた結晶の橄欖石が放射状に見えるのが特徴。この模様はスピニフェックス構造(spinifex texture)と呼ばれる。オーストラリア砂漠に生えるスピニフェックス草に似ることからその名が付く。

 このような模様はマグマの融点温度が 1600 度をこしたもので急激に冷却しないと形成されない。現在の地球ではマグマの融点が 1200 度をこすことはないこととコマチアイトの産出が太古代の岩石が分布する地域に限定されることから地球誕生のまもない 25~35 億年前のマグマ温度が高かったマグマオーシャンの海で急激に冷えて固まった地球で最初の岩石と考えられている。」

「地球で最初の岩石」
何と魅力的な響きでしょう。ざっと30億年前に生まれ、以来ふたたび溶けたり砕けたりすることなく、岩石として在り続けた存在。今はなき太古のマグマの忘れ形見。

   ★

もちろん私がコマチアイトを手にしても、何か研究の対象にするわけではないし、単なる物好き以上の意味はないのですが、30億年の歳月を手にする機会はそう多くはありません。


私が見つけたのは、ご覧のようにコマチアイトの薄片標本です。
詳細な産地は不明ですが、藤井氏が入手されたものと同じくオーストラリア産です。


この薄く透明な岩石薄片が秘めた30億年の記憶。
私にサイコメトリーの能力はないにしても、偏光顕微鏡の視野に広がる光景を見れば、この惑星の30億年の歴史がたしかに感じられるのです。


鮮麗で鋭角的な光は、老残とはおよそ無縁。



熱いマグマが急速に冷却固化する際に析出する構造体。


どんな宝玉にも勝る光、光、光。

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花のような容貌が輝くばかりであった小野小町も、百歳(ももとせ)に一歳(ひととせ)足らぬ九十九髪(つくもがみ)、老いて頭は霜の如く、下賤の女からも汚いものを見るような目で見られ、諸人に恥をさらす女乞食になった…と謡曲「卒塔婆小町」には謡われます。

でも、だから人間はダメで、鉱物はエライ…とも限りません。
この移ろいやすい人間の肉体こそ、地水火風空の「五大」をかたどった五輪の似姿に他ならず、その移ろいやすさの向こうに仏の三昧耶形(さんまやぎょう)を観じ、菩提心を発する機縁とすべきだ…ということを、おそらく「卒塔婆小町」の作者は言いたかったのだと思います。

平たく言えば、物質的存在を超えたところに、人の存在する価値なり意味はあるのでしょう。コマチアイトが30億年の時を超えて輝くのも、それを目にする人間の精神が輝くからだと、言って言えないことはありません。

30億年前のあの日、あの時、私が将来コマチアイトと対話することは既に決まっていたのかもしれません。そう思うと、弥勒仏信仰もそう荒唐無稽な話とは思えなくなります。

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ちなみにアフリカのコマチ川のさらなる語源をたずねると、スワジ語の「インコマチ(牝牛)」に由来し、乾季にあっても豊かに流れる川を、常に乳を出す牝牛になぞらえたのだそうです。まさに地上のミルキーウェイ。宵闇の中、コマチ川のほとりに立てば、天上と地上の2つのミルキーウェイが照応して、きっと素敵な眺めが見られることでしょう。