あおみどりの光2022年11月30日 19時17分32秒

昨夜は本降りの雨でしたが、気まぐれで遠回りをして帰りました。
雨に濡れた路面に映る灯りがきれいに感じられたからです。乾いた町が水の中に沈み、いつもと違う光を放っているのが、夕べの心の波長と合ったのでしょう。

店舗の灯り、道路に尾を曳くヘッドライトとテールランプ、そして黒い路面にぼうっと滲んだ青信号の色。あれは実に美しいものです。
ごく見慣れたものですが、私は青信号の青緑色を美しいもののひとつに数えていて、「でも、あの色って、自然界にはあるかなあ?」と、考えながら夜の道を歩いていました。

南の海、ある種の甲虫、鳥ならばカワセミ、石ならばエメラルド。
どれも似ているけれども、どれもちょっと違うような気がしました。

考えているうちに、ふと思いついたのは「夜光貝」
サザエの仲間であるヤコウガイに限らず、磨いた貝殻の遊色の中に、あの青緑があるような気がしたのです。これは純粋に自然の色といっていいのか、もちろんそこには人為も加わっているのですが、条件によっては自然条件下で遊色を呈することもあるでしょう。

(磨き加工をしたパウア貝。手前はアンモナイトの一種(クレオニセラス)の化石。そこにも似た色合いが、かすかに浮かんでいました)

思いついたのが水に縁のあるもので、そのことがちょっと嬉しかったです。

ゼロの方程式2022年11月29日 20時07分11秒

今日、天文学史のメーリングリストに変わった投稿がありました。

現在、中国各地で習政権による「ゼロ・コロナ政策」への激しい抗議活動が起きていますが、デモの参加者は、何かメッセージを掲げても、報道の際は検閲で削除されてしまうので、最初から白紙を掲げてプロテストしている…と報じられています。しかし、中にはやっぱりメッセージを掲げる学生がいるらしく、件の投稿は、そのメッセージに反応したメンバーからのものでした。

そのメッセージがこちらです。


これは「フリードマン方程式」と呼ばれるもので、一般相対性理論によって導かれる宇宙膨張を表す方程式…だそうですが、その含意が分かりますか? 学生たちには、「どうだ、これが分かるか?」と、政権の無能ぶりを揶揄する気持ちもあるのかもしれませんが、政権の要人と同様、私にもさっぱりです。

リストメンバーの意見に耳を傾けると、眼前の膨張宇宙を認める限り、アインシュタインが忌み嫌った「宇宙項」は必ず存在し、その係数である「宇宙定数」もゼロにはできない。同様に、新型コロナをいくら忌み嫌っても、それをゼロにはできない…という主張がこめられているのでは?というのが一説。もうひとつは、単に Friedmann の名前をFreed man(解き放たれた人間)」に掛けているのだという説。

いずれももっともらしいし、まあ両方の意味がこもっているのかもしれません。
分かりにくいといえば、いかにも分かりにくいですが、落語の「考えオチ」みたいなもので、分かりにくいからこそ面白いともいえます。(さらにリンク先の記事では、「フリードマン方程式は「開かれた」(膨張する) 宇宙を表しているので、“自由で「開かれた」中国”を象徴しているのでは?」という別の意見も紹介しています。)

こういうのは一種のネットミームとして、思わず人に言いたくなりますけれど、理解できないまま触れ回るのも馬鹿っぽいので、フリードマン通の方に、より詳しい解説をお願いできればありがたいです。

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(後編)2022年11月27日 14時30分03秒

(今日は2連投です。)

フリッチ兄弟の父親は、詩人・ジャーナリストであり、チェコの愛国者にして革命家としても著名な人物だった…という点からして、なかなかドラマチックなのですが、二人はパリで少年時代を過ごし、プラハに帰国後、兄は動物学と古生物学を、弟は物理学と化学を学び、1883年、ふたりとも二十歳そこそこで共同起業した…というのは前編で述べたとおりです。

何だか唐突な気もしますが、その前年(1882年)に、兄弟はチェコの科学者の大会に出席し、湿板で長時間露出をかけた顕微鏡写真の数々を披露したのが、大物化学者の目に留まり、その紹介で弟ヤンはドイツの工場に短期の修行に行き、さらに旋盤を購入し…というような出来事があって、それを受けての会社設立だったようです。

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ちょっと話が脱線しますが、ここで「チェコ、チェコ」と気軽に書きましたけれど、当時はまだチェコという国家はありません。あったのは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」です。

(1871年の「オーストリア地図」。オーストリア領の西北部、ボヘミア・モラヴィア地方が後のチェコ、ハンガリー帝国の北半分が後のスロバキア)

1848年に全ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた後、中欧ではハプスブルク家専制に揺らぎが生じ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国が成立します。しかし、チェコやスロバキアの人々はこれに飽き足らず、「自分たちはスラブ人だ。ドイツ人やマジャール人の支配は受けない」という民族意識の高揚――いわゆる「汎スラブ主義」が熱を帯びます。この動きの先にあるのが、1918年の「チェコスロバキア共和国」独立でした。

ここで思い出すのが、先月話題にしたチェコの学校教育用の化石標本セットです。

■鉱物標本を読み解く

(出典:Guey-Mei HSU、”Placement Reflection 3”

台湾出身のグエイメイ・スーさんが手がけたミニ展示会に登場したのは、ヴァーツラフ・フリッチ(Václav Fric、1839-1916)というチェコの博物学者(今回話題のフリッチ兄弟と縁があるのかないのかは不明)が監修した標本セットで、自分が書いた文章を引用すると、こんな次第でした。

 「その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。」

これが当時のチェコの科学界の空気であり、フリッチ兄弟もその中で活動していたわけです。彼らは科学に対する自身の興味もさることながら、科学によって祖国に貢献しようという思いも強かったのではないでしょうか。純粋学問の世界から、精密機械製作という、いわば裏方に回ったのも、そうした思いの表れではなかったかと、これはまったくの想像ですが、そんな気がします。

(フリッチ兄弟社の製品群。Wikipediaの同社紹介項目より))

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話を元に戻します。

フリッチ兄弟はチェコで最初の月写真を撮り、その写真は1886年にポルトガルで開かれた国際写真展で賞をもらったりもしました。彼らの天文学への興味関心は、商売を越えて強いものがあったようです。弟のヤンは1896年、私設天文台の設立を目指して大型のアストログラフの設計図面を引きました。しかし好事魔多し。ヤンは翌1897年に虫垂炎の悪化で急死してしまいます。

兄ヨゼフは二人の夢を実現するために、オンドレジョフ村に土地を買い、建物を建て、後にチェコ天文学会会長を務めたフランチシェク・ヌシュル(František Nušl、1867-1951)の協力を得て、ようやく念願の天文台を完成させます。1906年のことでした。

(写真を再掲します)

そして、そのドームの中には弟の形見として、かつて彼が設計したアストログラフが据え付けれら…というわけで、今回の絵葉書の背後には、そうした「兄弟船」の物語があったのでした。さらにその背後には、チェコの近現代史のドラマも。

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調べてみるまで何も知りませんでしたが、何気ない1枚の絵葉書も、多くの物語に通じるドアであることを実感します。

ちなみにオンジョレドフ天文台は、1928年に国(チェコスロバキア)に寄贈され、曲折を経て、現在は前回述べたとおり、チェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設となっています。またフリッチ兄弟社は、戦後にチェコスロバキアが共産主義国になると同時に国有化され、各製造部門はあちこちに分有され、雲散してしまいました。

(ボーダーに音楽記号をあしらったスメタナ切手。彼のチェコ独立の夢が結実したのが、交響詩「わが祖国」です。)

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(前編)2022年11月27日 13時52分16秒

絵葉書アルバムを見ていて、ふと目に留まった1枚。


表側に何もキャプションがないので、何だかよく分からない絵葉書として放置されていましたが、改めて眺めると、なかなか雰囲気のある絵葉書です。

古びたセピアの色調もいいし、全体の構図や光の当たり方、それに小道具として取り合わせた椅子の表情も素敵です。全体に静謐な空気が漂い、これを撮影した人は明らかに「芸術写真」を狙っていますね。

そして中央で存在感を発揮している光学機器。


その正体は、葉書の裏面に書かれていました。



このチェコ語をGoogleに読んでもらうと、次のような意味だそうです。

「オンドレジョフ近くの天文台にある二連アストログラフ。ヨゼフとヤンのフリッチ兄弟社製。西側ドームに設置され、恒星、小惑星、銀河、彗星、流星の写真撮影に使用されている。」

アストログラフ(天体写真儀)は、天体写真の撮影に特化した望遠鏡です。
欄外に1934年8月15日の差出日があるので、この絵葉書自体もその頃のものでしょう。

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ときに、オンドレジョフとはどこで、フリッチ兄弟とは何者なのでしょうか?

Googleで検索すれば、オンドレジョフ(Ondrejov)天文台が、プラハの南東35kmの位置にあって、現在はチェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設になっていることを、ネットは教えてくれます。(wikipediaの「Ondřejov_Observatory」の項目にリンク)

(オンドレジョフ天文台。手前が東ドーム、奥が西ドーム。Google map 掲載の写真より。Roman Tangl氏撮影)

(上空から見たオンドレジョフ天文台。中央の緑青色のドームが東西の旧棟。それを取り囲むように図書館を含む新棟や天文博物館があります。左手の広場に見えるのは電波望遠鏡のアンテナ群)

フリッチ兄弟についても同様です。
兄のヨゼフ・ヤン・フリッチ(Josef Jan Frič、1861-1945)は若干22歳で、弟のヤン・ルドヴィーク・フリッチ(Jan Ludvík Frič、1863-1897)とともに、光学機器を中心とする精密機械を製造する会社を立ち上げた人。そこで作られたのが上のアストログラフというわけです。

(左は兄ヨゼフ。右は弟のヤン。それぞれチェコ語版wikipediaの該当項目にリンク)

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それにしても、兄弟の事績を読むと、彼等はなかなかの人物です。
そしてオンドレジョフ天文台も、単なるその製品の納入先ではなくて、そもそもこの天文台を創設したのは、ヨゼフ・フリッチその人なのでした。

ちょっと話が枝葉に入るようですが、当時の事情を覗き見てみます。

(長くなるので後編につづく)

『星学手簡』2022年11月26日 09時03分24秒

しばらく、ひそかにミモザ(オジギソウ)問題に集中していました。
ミモザが登場するはずのないギリシャ神話に、なぜミモザが出てくるのか?
さらにコメント欄で指摘のあった、「みなみじゅうじ座β星」の固有名である「ミモザ」の由来は何か?
しかし、いろいろ徘徊したものの手がかりは得られず、空しい結果に終わりました。
まあ、こういうときもあります。この辺で気を取り直して、記事を再開します。

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何か心が軽くなる話題はないかな…と思って、先日耳にしたニュースを思い出しました。


国立天文台が所蔵する『星学手簡(せいがくしゅかん)』が、国の重要文化財に指定されることになったというニュースです。これはまことに目出度いことで、こういうものが大切されてこそ、文明国を名乗る資格がある…と、いささか時代がかった感想ですが、そんなことを思いました。

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『星学手簡』は、江戸の天文学者の書簡集です。
そのわりに「星学」というのが明治っぽい語感ですが、上のニュース記事にあるように、本書は、「明治前期に科学思想史研究家の狩野亨吉(かのう こうきち)の手に渡り、その後東京天文台に譲渡され」た…という伝来を持つので、この間に付されたタイトルじゃないかと思います。

江戸の天文学者といっても、その数は多いですが、ここに登場するのは主に二人の学者です。ひとりは大阪定番同心という役宅に生まれた、幕臣の高橋至時(たかはしよしとき、1764-1804)、そしてもう一人は大阪の富商で、「十一屋(といちや)五郎兵衛」を通称とした、間重富(はざましげとみ、1756-1816)です。他の人とのやりとりも多少混じっていますが、大半は両人がやりとりしたもので、言ってみればこれは両者の往復書簡集です。

二人は若年の頃から天文学に傾倒し、師・麻田剛立(あさだごうりゅう、1734-1799)のもとでその才能を開花させると、武士、町人の身分の違いをこえた同志として、長く共同で研究を続けました。結果として至時は幕府天文方となり、重富も天文方と同格に遇せられましたが、両者の成果として有名なのが、独自の暦法改良にもとづく「寛政暦」の完成です(1798年施行)。

『星学手簡』は、両者が寛政暦を完成する直前の1796年から、至時が没する間際の1803年頃までの間にかわした書状+αを、全部で86通収録しています。編者は至時の次男である渋川景佑(しぶかわかげすけ、1787-1856)と推定されています。したがって、本書に収録された手紙は、差出人もしくは受取人のどちらかが必ず至時になっています。

ここで付言すると、至時の息子が父親あての手紙を編纂するのはいいとしても、父親が差し出した手紙の内容がどうして分かったのか?いちいち相手に聞いて回ったのか?と疑問に思う方がいるかもしれません。でも、昔の人は手紙を出すとき、用心して控えを作っていたので、それがとってあれば、こちらが送った手紙の内容も分かるわけです。

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上のニュース記事でもリンクを張っていますが、この貴重な『星学手簡』は、現在オンラインで全て公開されています。



二人の俊英の学問上のやりとり、日常身辺のあれこれの気遣い、ときに滑稽な、ときに悲しい噂話の数々―。200年余り前の天文学者の肉声をじかに聞くことは嬉しくもあり、背筋の伸びることでもあります。

夜の長い季節に、こういうのをじっくり読んでみたいものだ…と思いますが、筆文字を読むのはなかなか難儀です。重文指定を機に、ぜひ活字化と口語訳をしてもらえればと思います。

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(以下は自分用メモ)
ただ活字化に関していえば、『星学手簡』は過去に何度か翻刻されています。
それは主に日本洋学史の研究者、有坂隆道氏(1921-2004)の業績です。

『星学手簡』は、元々年代を考慮して編纂されているようなのですが、有坂氏はさらに検討を加えて、より厳密な年次を考えて再配列されました。その上で寛政年間――より詳しくは寛政7年~寛政12年(1795~1800)――にやりとりされた書簡20通を、注解とともに以下で活字化しています。これはほぼ原著の上巻収録分に相当します。

■有坂隆道「寛政期における麻田流天文学家の活動をめぐって」
 大阪歴史学会々誌「ヒストリア」第11号、12号、13号に連載。
 それぞれ昭和30年(1955)2月、5月、8月刊。

この続編として、原著のほぼ中~下巻に相当する書簡を活字化したものは、単行本の形で読むことができます。

(今日は地味な画像が続きますね。でも地味な中にも滋味があるのです。)

■同「享和期における麻田流天文学家の活動をめぐって-『星学手簡』の紹介-」
 同(編著)『日本洋学史の研究Ⅰ』、創元社、昭和43(1968)、pp.159-330.

前者の雑誌発表論文は管理人未見ですが、寛政年間の書状4通(第5、13、16、22号書簡)は、以下でも読むことができます。

■広瀬秀雄(校注)「星学手簡 抄(間重富・高橋至時)」
 日本思想大系 『近世科学思想 下』、岩波書店、1971、pp.193-222.
 (pp.422-427に補注、pp.476-480に解題あり)

オジギソウとギリシャ神話2022年11月20日 15時06分58秒


(オジギソウ Mimosa pudica. ウィキペディアより)

オジギソウが葉を閉じるのは、虫の食害を逃れるためだ…という研究成果を、先日ニュースで見ましたが、これに関連して、中日新聞の一面コラム「中日春秋」に、次のような文章が載っていました(11月19日)。

 「オジギソウは学校の教材でおなじみ。触るとお辞儀をするように葉を閉じる▼含羞草とも書くのは、恥じらっているように見えるからか。原産地はブラジル。天保年間に日本に伝わった▼ギリシャ神話にも登場。『花とギリシア神話』(白幡節子著)によると、美しい娘である妖精ケフィサは牧羊などを司る神パンに好かれ追い掛けられるが、その情熱に恐れをなし逃げ続けた。とらえられそうになった時に貞操の女神アルテミスに「助けて」と祈り、オジギソウに姿を変え逃れた。なるほど、恥じらいの草である▼この植物が葉を閉じるのは昆虫に葉を食べられるのを防ぐためであることを、埼玉大と基礎生物学研究所(愛知県)のグループが証明したという〔…中略…〕▼神話はこの植物を「感受性がとても強く、罪を犯した者がそばを通るだけで、まるで自分が触れられ、汚されたかのように葉を閉じる」と描く。現実は近くを通るだけでは閉じないが、触れた虫の脚を封じるとはたくましい。自然界は、恥じらうだけでは生きられぬらしい。」

これを読んで、息子が言いました。
「ブラジル原産なのに、なぜギリシャ神話に登場するのか?」と。これは息子のお手柄で、なるほど、そういわれれば確かに変です。史前帰化植物というのもあるので、最初はそれかと思いましたが、さすがに大西洋を越えるのは難しいでしょう。

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上のコラムに出てくる『花とギリシア神話』(八坂書房、1992)の「あとがき」を見ると、同書の参考書として、ブルフィンチ著『ギリシア・ローマ神話』、オウィディウスの『変身物語』、呉茂一著『ギリシア神話』など5冊が挙がっていますが、オジギソウの逸話は、そこに見つけられませんでした(探し方が悪いだけかもしれませんが)。それに「ケフィサ」という妖精の名が、『ギリシア神話事典』の類を、いくらひっくり返しても出てこないのが不審です。

「うーむ」と腕組みをしつつ、ちょっと表面をなでただけで、以下推測でものを言います。
最初に結論を言っておくと、これはやっぱり変な話で、どこかでアヤシイ話が混入している気配が濃厚です。

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この話の大本は、たぶんですが、Charles M. Skinnnerという人の『Myths and legends of flowers, trees, fruites, and plants in all ages and all climes』(1911)ではないかと思います。この本はさいわい邦訳が出ているので(垂水雄二・福屋正修(訳)『花の神話と伝説』、八坂書房、1985)、そこから該当記述を抜き書きしてみます。

オジギソウ(Mimosa)
 〔…〕ギリシアの伝説では、オジギソウはケフィサという乙女であったが、パンがあまりにも烈しい情熱を傾けたために、恐くなってパンから逃げた。後を追ったパンがケフィサを腕に抱きしめようとしたまさにそのとき、助けを求める願いは他の神々に聞き届けられ、ケフィサはオジギソウに化身した。古い俗信では、この草の感受性はとてつもなく過敏で、罪を犯した乙女がそばを通るだけで、まるで自分が触られたように葉を閉じると言われた。」 
(1999年新装版、p.203)

『花とギリシア神話』との類似は明らかでしょう。

スキナーの原文は、Googleブックスで読めますが、ケフィサのスペルは「Cephisa」で、これと「mimosa」で検索すると、同旨のエピソードを紹介する英文の記述がいくつか出てきます。でも、やっぱり出典を欠くものばかりで、スキナーをさかのぼる文献は見つかりませんでした。これら一連の記述は、スキナーが元ネタになっていると想像します。

では、スキナー自身は、この話をどこから引っ張ってきたのか?
『花の神話と伝説』の「訳者あとがき」には、その辺の事情がこう書かれています(太字は引用者)。

「著者スキナーについて各種の人名辞典などを調べてみたが、みあたらず、わずかにアメリカの“General Catalog of Congress Library”で以下のような情報を知りえただけである。生まれは一八五二年、没年は一九〇七年、ブルックリンあたりで活躍したジャーナリストであったらしく、多数の著作がある。〔…〕

 本書は、欧米の植物の伝説に関する書物には必ずといっていいほど引かれる古典である。〔…〕ただ惜しむらくは、少なからぬ誤植や事実関係の誤りがあることで、この点は、原著に出典及び文献が一切付されていないことと、晦渋な文体とが相まって、翻訳上おおいに悩まされた。聖書やギリシア・ローマ神話に関しては、手近に利用できる資料もあるので何とか見当をつけることができたが、民間伝承のたぐいに関しては検証は困難をきわめ、ついに真偽を確認できないまま原著を信頼するほかなかった個所もいくつかある。」

どうも、かなり注意して利用しないといけない本のようです。
ケフィサとオジギソウの件も、そんなわけで出典は不明です。そもそも、そこに確たる典拠があるのかどうか、何か民間伝承に類するもの ―― それも近世以降に成立した話 ―― を引っ張ってきたのではないかという疑念がぬぐえません。というか、論理的に考えれば、必然的にそのはずです。何せ下に記すように、古代ギリシャにはオジギソウと呼ばれる植物も、その名(Mimosa)もなかったのですから。

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ちなみに、「ケフィサ」という名前で検索するとすぐに出てくるのは、道端で寝ていたキューピッドの弓を奪って恋人を射た女性の逸話で、これも真正の古典というよりは、1725年にモンテスキューが書いた散文詩(彼の創作エピソード?)が典拠らしく、結局、妖精(ニンフ)のケフィサについては、現時点では不明のままです。

■(参考ページ) カナダ・ナショナル・ギャラリー所蔵、
 ピエール=アンリ・ド・ヴァレンシエンヌ作
 「キューピッドの弓を射るケフィサ」(1797)解説

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冒頭のブラジル原産の話に戻って、スキナーの話で最も首をひねるのは、ギリシャ神話にオジギソウ(ミモザ)が登場している点そのものです。

「ミモザ」というと、日本だとあの黄色い花をつけるミモザ(標準和名はフサアカシア。マメ科)のことですが、これは誤用だそうで、本当のミモザは、同じマメ科でも「オジギソウ」のことだそうです。つまり、狭くとれば種としてのオジギソウ(Mimosa pudica)のことだし、広くとればオジギソウを含む「オジギソウ属」のことです(オジギソウ属は約590の種を含む大所帯の由)。

(“ミモザ”=フサアカシア Acacia dealbata. ウィキペディアより)

そして、オジギソウ属の植物は、新大陸ばかりでなく旧大陸の原産種もあるものの、ギリシャ周辺には分布していません。ヨーロッパ全体や小アジアまで範囲を広げても同様です。存在しない植物が、神話に登場するはずがありません

(オジギソウ属の分布域。緑は原産地、紫は人為的伝播による拡大地。出典:英国・王立キュー植物園の「Plants of the World Online」、「オジギソウ属」解説ページ

また下の語源解説を見ると、「ミモザ」という名前は、語根にギリシャ語の「ミモス(道化師)」を含むものの、植物の名前としては18世紀に誕生した新参者で、これまたギリシャ神話やローマ神話に出てくるはずのない言葉です。

■“mimosa”:Online Etymology Dictionary

上記リンク先の内容を、参考訳しておきます。

ミモザ(mimosa)【名詞】
マメ科の低木の属名。ラテン語のmimusに由来する近代ラテン語(1619年)「mime」から1731年に造語された〔※引用者注:属名の考案者はリンネ〕。mime【名詞】参照 +-osa【形容詞接尾辞、-osusの女性形】。通常のオジギソウ(Sensitive Plant)を含むいくつかの種が、触れると葉を折り畳み、動物の行動を模倣しているように見えることから、その名がある。ミモザの花のような黄色の色名としても使われる(初出1909)。その名のアルコール飲料(初出1977)は、その黄色がかった色からそう呼ばれる。

<ミモザを参照している項目>
マイム(mime)【名詞】
「身振りで演じる道化師」(1600年頃)【ジョンソン英語辞典】。フランス語のmime「まねごとをする役者」(16世紀)、および直接ラテン語のmimus(語源不詳のギリシャ語mimos「模倣者、まねごと、役者、パントマイム、道化師」に由来)から。芝居を指す用例としては、1932 年に「パントマイム(a pantomime)」の形で、またそれ以前(1640 年代)は古典に関する文脈で使われた。イタリアに住んだギリシャ人やローマ人による古代のマイムは、実際の出来事や人物の滑稽な模倣からなる、通常下品な、セリフのある戯曲的パフォーマンスだった。

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例によってくだくだしくなりましたが、こんなことでも書いておけば、いつか何かの参考になるかと思って贅言しました。

たむらしげるさんのこと2022年11月17日 19時21分33秒

前回の記事の末尾で、たむらしげるさんの名前を出しました。
そのたむらさんに関して、今年の6月に『たむらしげる作品集』(玄光社)が出ています。


(厚みはこれぐらい。何綴じというのか、各ページを見開きフルオープンにできる製本形式になっています。)

章立ては「イラストレーション」(挿絵・装画・広告画等、1枚絵として制作された作品)、「絵本」「オリジナル」(個展用に制作された作品)、「未公開作品」(実現しなかった長編アニメーション作品のイメージ画)、「漫画」の5つのセクションから成ります。制作年代はデビュー翌年の1977年から、最新の2022年にまで及び、収録作品数は全部で234点。

(絵本『AURORA』原画、2005年)

(個展「Micro Monde」出品作品、2013年)

(漫画「海王の星」より、2000年)

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思えば、私がたむらさんの作品を知ってから、ほぼ40年が経ちます。
ファン歴もずいぶん長くなったので、ここでその40年間を振り返って、何かたむらさんについて語ろうと思ったのですが、たむらさんの創作活動の個人史的背景について、自分が何も知らないことに突如気づいて、愕然としました。

考えてみたら、たむらさんについて、私は単行本の後についてる簡単な著者紹介ぐらいしか知らないのでした。たむらさんは、文章で自分を語ることが非常に少ない人と言っていいんじゃないでしょうか。

でも、下の対談記事を読むと、結構あけっぴろげに語っておられるので、別にそれを秘匿しているわけではなくて、単にそういう機会が与えられず、かつそうする必要性も感じなかった…ということなのでしょう。

■【対談】たむらしげるさん×土井章史さん「絵本の話」

上の対談が大層面白かったので、この対談を含む「たむらしげる特集」の載っている雑誌『イラストレーション』No.220をさっき注文しました。

(2018年発行ですが、まだアマゾンで購入可)

これが届けば、40年にわたる未知の世界の全貌が明らかになる…かもしれません。
ぜひそうなってほしいです。

「あなたより天文古書に恵まれた人知りませんか」2022年11月14日 18時36分55秒

今朝は晩秋を越えて、初冬の趣がありました。
今日は仕事を昼で切り上げ、帰りがけに自然緑地を生かした公園を歩いたのですが、林の中は国木田独歩の『武蔵野』さながらで、心に凛としたものを覚えました。

〔十一月〕十九日――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目の黄葉の中(うち)緑樹を雑(まじ)ゆ。小鳥梢に囀(てん)ず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟し、足にまかせて近郊をめぐる。」


すべての枝が葉をふるい落とし、無言の木々の群れを時雨が濡らし、さらに白いものが舞い下りてくるのも、もうじきでしょう。

   ★

一昨日、私がととまじりしている英国天文史学会の会報が届きました。
パラパラ眺めていたら、王立天文学会(RAS)図書館の司書であるシアン・プロッサー氏(Dr Sian Prosser)へのインタビュー記事が目に留まり、「ほう」と思いました。


インタビュアーは、「天文学に関する最初の思い出は何ですか?」とか、「もし天文学の本を1冊だけ書架に置けるとしたら、何を選びますか?」とか、彼女にいろいろ質問を浴びせているのですが、その中に「もし、どこか天文学的に興味深い場所で1日過ごしていいと言われたら、どこに行きますか?」という質問がありました。

プロッサー氏の答はこうです。
「エディンバラ王立天文台のクロウフォード・ライブラリーです。ここはRASの図書館よりも、天文分野における一層見事な貴重書コレクションを持っています。」

言うまでもなくRASの図書館は天文史料の宝庫であり、世界有数のアーカイブを誇ります。

(RAS Library の紹介ページより https://ras.ac.uk/library

しかし、その司書であるプロッサー氏が、「いや、クロウフォード・ライブラリーの方が上だ」と即座に断言するのですから、これは事実そうなのでしょう。私は「ほう」に続き、「うーむ」と思いました。何事もそうですが、やはり上には上があるのです。

クロウフォード・ライブラリーのことは去年も取り上げて、そこでも散々ほめそやしましたが、今回改めて自分の書いた文章を噛み締めました。

(クロウフォード・ライブラリーの書架。以下より再掲)

■天文古書の森、クロウフォード・ライブラリー

続いて当然気になるのは、クロウフォード・ライブラリーに出かけて、そこの司書さんにも同じ質問(同じというか、今日のタイトルのような質問)をぶつけたら何と言うかです。たぶんこれを繰り返していくと、アレキサンドリアの図書館とか、バベルの図書館とかにまで行きつくのかもしれませんね。

   ★

でも、自分の興味に―それだけに―合わせた自分の書棚こそ、他ならぬ私にとっては無上の価値があるのだ…と、ちょっと強弁したい気もします。何せRASもクロウフォードも、その棚には賢治も足穂もたむらしげるさんも並んでない時点で、多少割り引いて考えなければなりませんから。

天文時計の幻を追って2022年11月13日 13時41分22秒

アンティークの天文時計を所有することは、憧れではあっても、現実的な目標とは言えません。それはずばり手の届かぬ花です。
では、せめて雰囲気だけでも…と思って、5年前にこんな品を見つけました(現物は棚の奥なので、以下、購入時の商品写真を借用)。


エディンバラの業者が扱っていた品で、17世紀のイタリア製と聞きました。
黒檀製の筐体と、古びた文字盤はなかなか風格があります。
でも、よく見ればこれは完全に見かけ倒しで、ここには時計の針もなければ、内部のムーヴメントもありません。要するに、これは筐体だけが残された、「かつて時計だったもの」に過ぎません。


さすがに酔狂な買い物だとは思いましたが、この筐体は前面のガラス扉だけでなく、背面の木蓋も自由に開け閉めできるので、何か大切なものをしまう、気の利いたケースになると思ったのです(箱を手にしてから容れる物を考えるなんて、菓子箱をやたら取っておく老人みたいですが)。

(中はがらんどう)

ここで業者の言い分と私の推測を混ぜ合わせて、かつての“栄華”をしのんでみます。


前面のベースは、天空をイメージしたらしい空色に塗られた銅板で、そこに真鍮製のリングが上下に2つ取り付けられています。


上部リングの中央には、太陽の装飾があり、その上の扇型の穴と組み合わせて、これがいわば時計の中核部分。この時計は時針ではなく、文字盤のほうが回転する仕組みで、扇形の穴を通して見える文字盤の一部と、太陽のてっぺんにとび出たポインターを使って正確な時刻を読み取ったようです。

またリングの周囲には、1~12月の月名と星座絵が描かれており、リング全体をくるくる手で回すことができます。当然、このリングも、本来は機械仕掛けで回転してほしいわけですが、どうもそういうカラクリのあった形跡がなく、これはマニュアル操作オンリーの、純装飾的パーツだったかもしれません。


下部の真鍮のリングは曜日目盛りで、こちらは中央の指針が回転する、尋常の形式だったようです。

冷静に考えると、これがカチコチ動いていた時分でも、表示できたのはせいぜい時刻と曜日だけですから、これを「天文時計」と呼ぶのは苦しいかもしれません。
まあいずれにしても、かつての栄華は夢のあと、今となってはその存在そのものが「時」の寓意であり、ヴァニタスとなっている…と言えなくもないでしょう。

ジョージ星辰王2022年11月12日 16時33分27秒

天王星といえば、その発見者であるウィリアム・ハーシェル(1738-1822)の名が、ただちに連想されます。そればかりでなく、19世紀後半に「ウラヌス」の名称が定着する以前は、天王星そのものを「ハーシェル」と呼ぶ人がおおぜいいました。

この名は主にフランスとアメリカで用いられ、ニューヨークで出版された、あの『スミスの図解天文学』(1849)でも、天王星は「ハーシェル」として記載されています。



もちろん、これはハーシェルの本意ではなく、ハーシェル自身は、時のイギリス国王・ジョージ3世に敬意を表して、ラテン語で「ゲオルギウム・シドゥス」(ジョージの星)という名前を考案しました。そしてこれを元に、イギリスでは天王星のことを「ジョージアン」と呼んだ時期があります。

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ジョージ3世(1738-1820/在位1760-1820)は、自分と同い年で、“同郷人”(※)でもあるハーシェルを目にかけ、物心両面の支援を惜しみませんでした。(※ハーシェルはドイツのハノーファー出身で、ジョージ3世はイギリス生まれながら、父祖からハノーファー選帝侯の地位を受け継いでいました。)

ハーシェル推しの私からすると、ジョージ3世は、もっぱらその庇護者という位置づけになるのですが、でもジョージ3世の天文好きは、ハーシェルと知り合う前からのことで、彼はもともと好学な王様でした。金星の太陽面通過を観測するために、1769年、ロンドン西郊のキュー・ガーデンに天文台を新設し、併せてそこを科学機器と博物コレクション収蔵の場としたのも彼です。

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そんなジョージ3世ならば当然かもしれませんが、彼には一種の「時計趣味」があり、精巧な天文時計を、ときに自らデザインして一流の職人に作らせ、それらを身近に置いていたことを、以下の動画で知りました。


George III and Astronomical Clocks(by Royal Collection Trust)


上は、1765年、ジョージ3世が27歳の誕生に贈られ、寝室に置いていたという天文時計。Eardley Norton(活動期 1760-92)作。(詳細はこちら


こちらは、ジョージ3世自身が筐体デザインした天文時計。1768年、Christopher Pinchbeck 2世(1710-83)作。(詳細はこちら

こうした興味関心の延長上に、キューの天文台があり、ハーシェルとの出会いがあったわけで、思えばハーシェルは実に良いタイミングで世に出たものです。そして、彼が捧げた「ジョージの星」の名も、単なるお追従ではなかったわけです。(まあ、そういう気持ちも多少はあったでしょうが。)