一枚の紙片の向こうに見える風景2024年12月05日 18時17分22秒

韓国の大乱。
過ぎてみればコップの中の嵐の感もありますが、人の世の不確実性を印象付ける出来事でした。我々は今まさに歴史の中を生きているのだと、ここでも感じました。

師走に入り、業務もなかなか繁忙で、これで当人が「多々益々弁ず」ならいいのですが、あっぷあっぷっと流されていくばかりで、どうにもなりません。世界も動くし、個人ももがきつつ、2024年もゴールを迎えようとしています。

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さて、そんな合間に少なからず感動的な動画を見ました。
今から4年前、2020年6月にアップされたものです。


■I bought a medieval manuscript leaf | (It got emotional...)

動画の投稿主は、ブリジット・バーバラさんというアメリカ人女性。
彼女は古い品や珍奇な品に惹かれており、動画の冒頭はニューヨーク国際古書市(New York International Antiquarian Book Fair)の探訪記、後半はそこで彼女が購入した品を紹介する内容になっています。

(主催者である米国古書籍商組合のブログより)

バーバラさんは古書市の会場で、マルチン・ルターやアブラハム・リンカーンのような偉人の手紙や、1793年に書かれた無名の子供の学習帳のような、「肉筆もの」に強い興味を持ちました。そう、100年も200年も、あるいはもっと昔の人がペンを走らせた紙片や紙束の類です。

(話の本筋とは関係ありませんが、バーバラさんの動画に写り込んでいた17世紀の美しい星図、Ignace-Gaston Pardies(著)、『Globi coelestis in tabulas planas redacti descriptio』。バーバラさん曰く“If you can afford it, you can own it”.)

この動画が感動的なのは、バーバラさんがそれらの品を紹介するときの表情、声、仕草が実に生き生きとしていて、見る者にも自ずと共感する心が湧いてくるからです。

そして彼女が古書市で購入したのも、そうした肉筆物した。


時代はぐっとさかのぼって、1470年頃にイタリアで羊皮紙に書写された聖歌の楽譜、いわゆるネウマ譜です。バーバラさんは素直に「いいですか、1470年ですよ?1470年に書かれたものが、今私の手の中にあるんです!」と感動を隠せません。

もちろん事情通なら、15世紀のネウマ譜の写本零葉は、市場において格別珍しいものではないし、値段もそんなに張らないものであることをご存知でしょう。でも、「ありふれているから価値がない」というわけでは全くないのです。

バーバラさんが言うように、それは確かに昔の人(無名であれ有名であれ)が、まさに手を触れ、ペンを走らせたものであり、それを手にすることは、直接昔の人とコンタクトすることに他ならない…という気がするのです。

そして、そこからいかに多くの情報を汲み出せるかは、それを手にした人の熱意と愛情次第です。バーバラさんは、この写本に書かれた聖歌が何なのか、ラテン語のできる友人に読んでもらい、これが四旬節の第 2 日曜日の早課で歌われた聖歌であることを突き止めます。さらに、そのメロディーはどんなものか、同時代の宗教曲に耳を傾けながら、さらなる情報提供を呼び掛けています。たった1枚の紙片も、その声に耳を澄ませる人にとっては、実に饒舌で、心豊かな会話を楽しませてくれます。

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バーバラさんの感動や興味関心の在り様は、私自身のそれと非常に近いものです。私もこれまで断片的な資料から、いろいろ空想と考証を楽しんできました。以前も書いたように、それは旅の楽しみに近いものです。

人生という旅の中で、さらに寄り道の旅を楽しむひととき。
忙しいからこそ、そんなひとときを大切にしたいと思いました。

大著『ウラノグラフィア』がやってきた2024年12月01日 13時10分19秒

19世紀最初の年、1801年にドイツのボーデ(Johann Elert Bode、1747-1826)が上梓した巨大な星図集『ウラノグラフィア(Uranographia)』については、以前もまとまった記事を書きました。

■星座絵の系譜(3)…ボーデ『ウラノグラフィア』

4年前の自分は、

 「天文アンティークに惹かれる人ならば、『ウラノグラフィア』が本棚にあったら嬉しいでしょう。もちろん私だって嬉しいです。でも、さっき検索した結果は、古書価460万円。これではどうしようもないです。さらに探すと、原寸大の複製(複製本自体が古書です)が16万円で売られているのを見つけました。

 ホンモノが16万円だ…と聞けば、分割払いで買うかもしれません。でも、460万円ですからね。じゃあ、複製本を16万出して買うかといえば、よく出来た複製だとは思いますが、そこまでするかなあ…という気もします。」

…と、何となく物欲しげなことを書きつつ、『ウラノグラフィア』の縮刷版を買うことで、かろうじて留飲を下げていました。

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しかし、気長に待っていればいいこともあるものです。
これまで何度か話題にした、ドイツのアルビレオ出版から、先日うれしいメールが届きました。天文古書の複製本をリーズナブルな価格で提供する同社が、こんどは『ウラノグラフィア』を俎上に載せたというのです。


気になるお値段は169ユーロ(今日のレートで約26,800円)、しかも12月いっぱいまでは特別価格の149ユーロ(同23,600円)。日本までの送料として、別途46ユーロ(約7,500円)がかかりますが、それを計算に入れても、大層リーズナブルな買い物です。

(手前が解説書)

しかも星図には別冊解説書も付属し、この解説書もカラー刷りでなかなか豪華です。


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ただし、この複製本にもちょっとした弱点はあります。
それはオリジナルよりもサイズが縮小されていることで、オリジナルは高さ65cmという途方もなく巨大な判型ですが、この複製本は高さ41.5cm(表紙サイズ)と、約64%に縮小されています。


しかし、届いた本はそれでも十分に巨大です。アンティーク星図ファンの書棚には、恒星社の『フラムスチード天球図譜』が並んでいると思います。あれだって決して小さな本ではありませんが、この『ウラノグラフィア』と並べれば、その差は歴然です。

アルビレオ出版のカール=ペーター・ユリウス氏は、このサイズこそ「図版の読みやすさに影響を与えることなく、しかも扱いやすいサイズであり、最小の文字もはっきり読み取れる」と説明しています。若干強がりっぽい感じがなくもありませんが、これは概ね事実と認められます。



落ち着いたクロス装の表紙を開けば、あの大著の風格が堂々と感じられ、これはやっぱり紙でペラペラやりたい本です。


各図版とも裏面は白紙で、その白紙に刻まれた経年の染みまで忠実に再現されているのも高評価。


気になる印刷精度はどうでしょうか。オリオン座とおうし座を中心とした上の星図を部分拡大してみます。


雄牛の目を中心とした部分。この画像で左右幅は25mmです。ユリウス氏の言う通り、たしかに微細な文字も十分読み取れます。


こちらはかみのけ座の中心付近で、左右幅は40mm。一面に散在する微細な点刻模様も十分な精度で再現されています。これらは当時その正体が議論されていた「星雲・星団」の類で、今では「かみのけ座銀河団」と呼ばれる系外銀河の集団であることが分かっています。

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待てば海路の日和あり。
長生きをすれば、嫌な経験もする代わりに、嬉しい経験も増えていくのだなあ…と、師走を迎えて大いに感じ入りました。

火星の運河を眺める2024年11月30日 18時20分38秒

上海天文館について、ああだこうだ言いましたが、もちろん我が家にあれだけの質・量のコレクションがあるわけではありません。でも、上海天文館は建物も予算も、我が家とは4桁ぐらい違うはずなので、あの1万分の1に達していれば、「上海天文館と同規模のコレクション」と称しても良い理屈です(そんなこともないか…。でも、単位面積で比較すれば同等のはずです)。

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そんなわけで、上海ほど由緒正しい品ではないにしろ、我が家にもささやかな火星儀があります。


立派な架台もないし、直径90mmの小さな球体に過ぎませんが、あの「なつかしい火星」の表情をよく捉えています。


素材は樹脂で、アメリカの3Dプリンターメーカーが設立した子会社(だと思うんですが)「LittlePlanetFactory」が生み出した、商品名「Lowellian Mars」


その名は、火星の幻の運河を追い続けた天文家、パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell、 1855-1916)に由来します。

(よく見ると3Dプリンターによる積層の跡が同心円状に認められます)

制作にあたっては、近年の観測データを火星のテクスチャーのベースとして採用し、そこにローウェルの『Mars』(1895)掲載の運河図を重ねてプリントするという凝った作りで、なかなか真(?)に迫った火星儀ではないでしょうか。

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この品は数年前に購入したものと記憶しますが、今回記事を書くために検索したら、親会社であるShapeways 社は今年の7月に破産【参考LINK】、そしてLittlePlanetFactory もHP【LINK】は辛うじて残っているものの、全製品が「SOLD OUT」になっているのを発見しました。

まことに諸行無常の世の中です。
でも、こうなってみると、それでこそ果敢なく消えた火星の運河の思い出にふさわしい品であるような気もしてきます。

ある天文コレクションの芽吹き2024年11月28日 19時00分52秒

記事の間隔が空きましたが、最近興味をそそられたのは、これまた中国の出版物です。


■周元・他(編)
 『問天之迹―上海天文館蔵天文文物』
 上海書画出版社、2023.

ハードカバー、オールカラー146頁の大判書籍で、これぞまさにコーヒーテーブルブック。タイトルの『問天之迹』とは、「天空探求の道程」の意でしょう。副題は日本的感覚だと「上海天文館所蔵 天文関係資料」とでもなるところ。

(上海天文館公式サイト:https://www.sstm-sam.org.cn/#/home

上海天文館は、上海の新街区に2021年にオープンした施設で、組織的には上海科学技術博物館(上海科技館)の分館に当たります。まだ出来立てほやほやの施設ですが、建物面積38,000㎡と、天文関係の公共施設としては世界最大規模を誇るというのが売り。ちなみにプロジェクターはツァイスではなく、日本の五藤製です【LINK】

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中国語のニュアンスだと、「天文館」は「天文博物館」というよりも、シンプルに「プラネタリウム」と訳した方がいいらしいのですが、上海天文館の場合は、資料の展観にも力を入れているので、やっぱり天文博物館と呼んだ方がしっくりきます。本書の序文によれば、同館のコレクションの二大テーマは、「世界の隕石」と「天文史関係文物」で、後者をまとめたのが、即ち本書『問天之迹』であり、前者については『星石奇珍』という別の本が編まれています。

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本書を眺めての感想は、「ひとつひとつの品をゆったりと紹介した、実に贅沢な本だ」というものです。

たとえば、このルイス・ニーステン(ベルギー)による火星儀。


これについては見開き2頁を使って、その細部拡大も紹介しています。


ただし、これは良くいえば…ということです。
裏返すと、何となくスカスカで水増しされている感じがなくもありません。そもそも、この火星儀は1892年のオリジナルではなく、現代における復刻品なので、そんなに力こぶを入れて紹介するほどのものでもないんじゃないか…と感じます。


あるいは、セラリウスの『ハルモニア・マクロコスミカ(大宇宙の調和)』。
こちらは複製ではなく、本物です(ただし1660年の初版ではなく、1708年の再版)。



ただ、全体で146頁の本書の中で、30頁もの紙幅を割いて延々と見開きで紹介するのは、やっぱりちょっとやりすぎじゃないかと、ここでもまた感じました。


あるいは、こちらの16世紀のフランス生まれのペーパー・アストロラーベ。


上海天文館がイメージし、そして目標(のひとつ)としているのは、シカゴのアドラープラネタリウムだと推測しますが、アドラーのコレクション図録だと、アストロラーベだけでもズラズラ並んでいて、ペーパーアストロラーベはその中ではモブキャラ扱いです。

(右下の彩色されているのが、ペーパーアストロラーベ。作者はPhilippe Danfrie and Jean Moreauy (Paris)。1584 年創案、1622年印刷)

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ちょっと上海天文館をおとしめるようなニュアンスで書きました。
しかし、上のことは天文館自身も十分自覚していることで、本の前書きにはこう書かれています。


「上海天文館の比較的短い準備期間内に、収集チームはゼロから出発し、さまざまな方法で世界中から天文コレクションを集めました。長期にわたる歴史的蓄積を持つ海外のプラネタリウムや科学館に比べれば、その量や希少性においてまだまだ差はあるものの、展示品のひとつひとつが、特定の時代・異なる地域の人々が、頭上の星空に向けた想像力と探求の跡を示しています。その背後には、先人のインスピレーションと知恵が詰まっており、そこには天文学の発展を目撃した貴重な珍品も少なくありません。」

「量や希少性においてまだまだ差はあるもの(数量和珍奇度尚有差距)」。
―そう、コレクションはまだ始まったばかりなのです。そして、その差を一刻も早く縮めようという鬱勃たる気が、「まだまだ」の一語からは強く感じ取れるのです。

もちろん中国だって、今後、経済成長に行き詰まって、文化どころじゃない時代が来るかもしれません。でも当面のこととして、この大国の経済力が文化に集中して振り向けられたとき、今後どこまで充実したコレクションになるか、これは予想以上のものがあると思います。ひょっとしたら、金満この上ないクラウチ古書店【参考LINK】の在庫がすっからかんになって、それが上海にそっくり移転している…なんてこともないとは言えません。

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いずれにしても、この本は間を置かずに第2版ないし続編が出るんじゃないでしょうか。そのとき、初版とどんなコントラストがそこに生じているか、それ自体が天文文化史的に興味深い事柄だと思います。

快著 『中国古星図』2024年11月24日 17時18分57秒

風邪から回復しました。

で、おもむろに記事を書こうとしたんですが、書きたいことはいっぱいあるのに、どれもうまく書けない気がして、筆が進まない…。こういうことが時々あります。でも、暇つぶしのブログを埋めるのに、別にうまく書く必要もないし、とりあえず何でもいいので書き始めた方がいいことは経験的に分かっているので、ぼんやりした気分のまま書き出します。

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このところ、興味をそそられる本に立て続けに出会いました。
中でも驚いたのが以下の本です。


■李亮(著)、望月暢子(訳)
 『中国古星図』
 科学出版社東京株式会社、2024.(B5判、211p)

帯には「中国天文学と古星図を包括的に紹介/悠久の歴史を持ち、独自の発展をとげた中国天文学と古星図。最新の考古学資料を含む350余点のカラー図版を駆使した稀有な一冊!」とビックリマークが付いていますが、これは大げさではなく、相当ビックリな本です。

科学出版社は、北京に本拠を置く中国最大の学術書の出版社で、本書の版元はその東京の子会社です。原著は親会社から2021年に出た『灿烂〔燦爛の簡体字〕星河 —中国古代星图(華麗な銀河 ―中国古代の星図)』です。

著者の李亮氏は、中国科学院自然史研究所のスタッフ紹介【LINK】によると、天文学史および中国と諸外国の科学技術交流史が専門で、2008年に博士号を取得後、ドイツのマックス・プランク科学史研究所やフランス国立科学研究センター、パリ第7大学で研鑽を積んだ、少壮気鋭の研究者のようです。

その意味で、本書は相当本格的な解説書で、私のようにコーヒーテーブルブック代りにしてはいけないのですが、帯にあるように、美しいカラー図版を満載した紙面は見るだけで楽しいものです。

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しかも意外なことに、中国の古星図についてまとめた書籍は、中国本土でもこれまでほとんど例がないそうです。著者が序文で挙げている例外は、陳美東氏が編纂した『中国古星図』(1996)と、潘鼐(ハンダイ)氏による『中国恒星観測史』、『中国古天文図録』(いずれも2009)ですが、前者は明代の星図に特化した論文集であり、後2者はその力点と記述密度からして、古星図論としては不十分なもので、図版もモノクロが大半だそうですから、本書のように通史として十分な内容を備え、最新の資料も漏らさず、しかもカラーでそれらを紹介した一般書はまことに稀有、本邦初どころか世界初ということになるのです。

(おなじみの「淳祐天文図」ですが、星図の下に刻まれた跋文の全訳が載っているのは有益)

しかも(‘しかも’が多いですね)、本書が取り上げるのは中国国内のみならず、その影響を受けた朝鮮半島や日本の古星図についても特に章を設けており、東アジア世界の古星図を俯瞰する上で、まことに遺漏がありません。

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以下に、各章の章題のみ挙げておきます。

 第1章 中国星図の歴史
 第2章 中国古天文学に関する基礎知識
 第3章 墳墓と建築の星図
 第4章 石刻星図
 第5章 紙本星図
 第6章 洋学と星図
 第7章 実用星図
  〔※航海星図や占星用星図など〕
 第8章 地理関連文献の星図
 第9章 識星の文献と星表
  〔※識星の文献とは中国星座の基本を教える『歩天歌』など〕
 第10章 器物星図
  〔※日常器物に描かれた星図や天球儀など〕
 補章A 朝鮮の古星図
 補章B 日本の古星図
(その他、巻末には参考文献と図版リストが掲載されています。)

(第10章 器物星図より)

まさに全方位死角なし。
西洋星図の歴史については、これまで多種多様な本が編まれてきましたが、東アジア世界の星図についても、ようやくそれらに匹敵する歴史書が出たわけです。まさに近来稀に見るクリーンヒットな出版物だと思います。

(補章B 日本の古星図より。この福井県・瀧谷寺所蔵の「天之図」は初見でした)

(同上。司馬江漢の「天球十二宮象配賦二十八宿図」のようなマニアックな図もしっかり解説されており、著者の目配りの確かさが窺えます)

…と、書いているうちに気分が上向いてきました。
やっぱりこういうときは「書くのが薬」です。

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今日は晴れ晴れとした好天気でした。
ブログを書いたり、庭仕事をしたり、地元の選挙に行ったりする合間に散歩をしていたら、街なかの木々もすっかり色づいているのに気づきました。考えてみれば、あとひと月でクリスマスですね。


兵庫ではまた妙な騒動が持ち上がっているようですが、地元の名古屋はさてどうなるか。師走を前にいろいろ気ぜわしいです。

季節のたより2024年11月21日 19時04分19秒



そろそろブログ本来の話題に戻ろうと思ったところで、折悪しく今シーズン最初の風邪をひきました。

昨日は一日寝床の中で過ごし、今日はとりあえず出勤しましたが、体調的にはあまり良くありません。まあ、例年のことではあるんですが、年を追うごとに、風邪をひく自分自身の方が弱体化しているので、相対的に受けるダメージは大きくなる計算で、このシーソーゲームがこの先ワンサイドゲームになると、ついには風邪をこじらせて肺炎で死亡…とかになるんでしょう。

何となく悲観的になりますが、コロナでもインフルでもない、ふつうのウイルス性の風邪だそうなので、今は自らの治癒力に望みを托し、布団にくるまるしかなく、布団の中で、「天は自ら助くる者を助く」とかなんとかブツブツ。

そんなわけで、記事の方はしばらくお休みです。
皆様もどうかご自愛のほどを。

閑語…情報戦の果てに2024年11月18日 19時34分24秒

今朝に続いて無駄ごとを述べます。

戦国時代を舞台にしたドラマを見ると、「らっぱ」とか「すっぱ」とか呼ばれたリアル忍者を敵の領国に送り込み、根も葉もない噂を流して、敵にダメージを与える謀略の場面が出てきます。戦国時代のことは知らず、風雲急を告げる幕末には、薩摩藩がいろんな怪文書をまいて、情報の攪乱と人心の動揺を画策したと聞きます。近代戦でも情宣活動は重要な柱ですから、旧日本軍の特務機関も大陸で相当暗躍していた形跡があります。

あるいは、特にそんな工作をしなくても、大正震災における朝鮮人虐殺の惨劇のように、人は容易に流言飛語に乗せられ、軽挙妄動に走りがちで、そういう人間の性質を熟知した者の手にかかれば、コロッと行ってしまう怖さが常にあります。

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人間とは<情報>を欲する存在だ…と、つくづく思います。
そして多くの場合、情報のvalidityは不問に付され、「そういう情報がある」という事実が何より人を動かすもののようです。そうなると、初手から騙す気満々で来る相手には、情報の受け手側は分が悪く、無防備な人がそれに騙されるのはやむを得ないともいえます。


そんなわけで、今回の選挙でも、「兵庫の人はいったい何をしてるんだ」と責めるのは、いささか酷で、公正に見れば、騙されるよりも、騙す方が格段にタチが悪いし、そういう手合いにはそれなりの接し方をせねばなるまい…なんていう無粋なことを、趣味のブログに書かねばならぬことを遺憾に思います。

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さはさりながら、「天網恢々」、徒に妄言を振りまく人間の末路をこそ見定むべけれ。

西の方より黒雲生ず2024年11月18日 07時02分39秒


(海洋気象台(神戸)編 『雲級図』 (大正11年)より 「乱雲 Nimbus」 

晴々とした気持ちで――いかにも晴々とした画像まで貼りつけて――、“さあ新たな一歩を”みたいなことを書きましたが、とたんに心に雲がかかる出来事がありました。ほかでもない兵庫県知事選挙のことです。

私にとっての兵庫は、憧れの神戸の街と足穂のふるさと明石に代表されるのですが、そんな素敵な町に暮らす人々が、なぜわざわざ悪事を好むよこしまな人間を知事に戴こうとするのか? 既得権益に斬り込む…と口で勇ましいことを言いながら、その実、彼を取り巻くそれこそ「権益」に群がる有象無象が、強力な選挙戦を仕掛けたとも側聞しますが、まことに心胆を寒からしめる光景です。

公益通報制度をないがしろにし、人を死に追いやり、パワハラ行為を繰り返し指弾され、最終的に議会でその任を解かれた人物が、何の反省もないまま(もちろん反省がないから立候補したのでしょう)、それでも再選されてしまうという、この常識の底の抜け方には言うべき言葉がありません。

しかし、「兵庫の人はいったいどうしてしまったんだ?阿呆やなあ」と、傍で言っていれば済む問題なのか、実は同じことが今や日本中で起きる可能性があるのではないか…と考えると、そのことが一層心を曇らせます。

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先日の衆院選では野党が躍進し、自公政権にNoを突き付けました。そのことで、「国民の理性はまだ健全なのか」と安堵したのは事実ですが、しかし改めて考えると、今回の「斎藤現象」とその根っこは同じなのかもしれません。

すなわち、それは理性とは縁遠い、単なる「現状変革願望」に過ぎず、カーゴ・カルト的心性や、「ええじゃないか」の狂騒に近いものではないか…そう思うと、心に雲がどんどん湧いてきて、黒雲鉄火を降らしつつ、数千騎の鬼神が暴れまわる様が眼前に浮かんでくるのです。まさに末法の世なる哉。

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この場に足穂氏がいたら、今回の件を何と評したか?
「またえらいケッタイな花火が上がりよったな。まあ100年経っても、魔法を使える人間がおるゆうんなら、おもろいやないか」とでも言って、自若としているかもしれませんが、しかし、それにしたって…と思います。


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(※)この雲級図は、昔記事にしたことがあります。
 ■雲をつかむような話(1)

雨は上がり、夜は明ける2024年11月17日 07時03分11秒



前回の記事を受けて、さらに考えてみました。

私にとってブログを書くことは、畢竟「暇つぶし」なのです。
暇つぶしとは元々意味がないものであり、「意味がないから暇つぶしをやめよう」とはなりません。そして暇がつぶれて、しかも自分がその内容に満足できるならば、これぞ時間の使い方としては上の部であり、やっぱり書かないよりは書いた方が好いのです。

したがって、もし私がブログをやめるとしたら、そこに金銭が絡んだりして、暇つぶしにふさわしくない性質のものになったときか、他人の評価はともかく、自分自身でその内容に満足できなくなったとき、あるいは、つぶすべき暇(心身の余裕と言い換えてもいいです)が失われたときのいずれかでしょう。

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言葉を替えると、ブログを書くことは、私にとって旅のようなものです。
この先に何が待っているかは、私にも分かりません。でも、分からないからこそ続ける意味があるのです。

加藤久仁生さんのショート・アニメーション連作『或る旅人の日記』(2013)のラストで、主人公のトートフ・ロドルが心の中でつぶやいた言葉。

 「夜が明けた。
  心地よい朝の光を浴びながら、私は地図を広げた。
  この旅は、まだ続くのだ。」

それを噛みしめながら、私も次の一歩を踏み出すことにします。

ひとり雨聞く秋の夜すがら2024年11月15日 14時57分55秒



今週は仕事に追われていました。
そして記事を書く時間がない分、ブログの来し方行く末を少し考えていました。

このブログもずいぶん長く続いていて、年が明ければ満19歳で、20周年も目前です。ブログを書くことで得たものは多いですが、それでも正直、長く続け過ぎた気もします。今となってはほとんど誰も訪ねてこない、こんなブログを続ける意味がどれほどあるのか、そう正面から自問したことはないですが、でもやっぱりそれは考える必要があります。

確かに熱心にコメントを書き込んでくださる方もいます。しかし、そういう閉ざされた会話に自足するのも、ちょっとどうなのかなあ…と思わなくもありません。それだと、ネットという公共空間に情報を挙げている意味が至極薄い気がします。

端的にいえば、ここにはすでに自己満足という以上の意味はないのです。

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しかし、じゃあそろそろ店仕舞しようか…と言い切れないのも悩ましいところで、なんとなれば、このブログは「私自身が読みたいブログ」でもあって、よそに同様のコンテンツがあればそっちをROMる手もあるのですが、それが無い以上、結局自分で書いて自分で読むという、まあ言葉は悪いですが「自涜行為」に走らざるを得ないわけです。

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こういう煩悶を抱くのは、ブログ年齢18歳という若さの故かもしれず、この先30歳とか50歳とかになれば、「あの頃は若かったなあ」と笑い飛ばせるようになるんでしょうかね。ブログ年齢50歳という先人はいないので、よくはわかりませんが、できればそうあってほしいものです。