赤い星の中に ― 2025年08月30日 18時02分35秒
ウィキペディアには「ソビエト連邦の国旗」という項目があって、そこには以下のように書かれています(太字は引用者)。
「金の鎌と槌と金の縁取りを持つ赤い五芒星を表示した赤旗である。赤は社会主義と共産主義の構築へ向かう、ソビエト連邦共産党に指導されたソビエト人民の果敢な闘争を、鎌と槌は労働者階級と農民との絶えざる団結を、赤い五芒星は五大陸における共産主義の最終的勝利を象徴する。」

ソ連の国旗というと、特徴的な鎌とハンマーに目が向きがちですが、その脇にある「金の縁取りを持つ赤い五芒星」こそ、旧ソ連の理念と目標を象徴しており、小なりといえども、なかなか大した意味を背負っているのでした。
その理念は時の流れとともに覇権主義へと変質し、最終的勝利も結局なかったわけですが、とにもかくにも、戦後、アメリカと並ぶ超大国として、東側陣営の盟主の座にあったことは事実ですから、その存在は歴史の中にきちんと定位されなければなりません。
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さて、今回の主役は画像の隅に置かれた赤い星です。
「Протон-4」、すなわち「Proton-4」をモチーフにしたピンバッジ。
プロトンは1号(1965年)から4号(1968年)まで打ち上げられた大型の人工衛星で、(超)高エネルギー宇宙線を観測することを目的としていました。
シリーズの最後を飾ったプロトン4号は、プロトンシリーズの中でも最重量で、12.5トンの科学観測機器を含む総重量は17トンに達しました(ロシア語版Wikipedia「Протон」の項参照)。
その実際の姿は下のようなもので、ピンバッジの絵とはだいぶ違います。しかし円筒形のずんぐりした胴体、そこから突き出た太陽電池パネル、とんがった頭部のアンテナ…といったあたりに共通するものがあって、いい加減な造形なりに、実物に寄せて描いた努力の跡はうかがえます。
(ツィオルコフスキー記念国立航空宇宙博物館に展示されているプロトンの模型。出典:同上)
プロトンは本格的な宇宙望遠鏡のはしりと言っていいと思いますが、何しろそれだけの重量物を打ち上げる大型ロケット(=プロトンロケット)と、世界をリードする最先端の宇宙物理学的研究が、1960年代のソ連には確かにあったわけです。
胸元を飾った、金のふちどりの赤い星とプロトンの勇姿。
ソ連の少年少女の誇らしい気持ちを、ここは思いやって然るべきだと思います。
カササギの翼 ― 2025年08月29日 06時18分54秒
カササギに乗って遥か銀河へ…という昨日の話のつづき。
素敵なカササギの帯留めを眺めながら、私はいっそ「ホンモノのカササギ」も手にしたいと思うようになりました。そうして見つけたのが、カササギの羽根です。
白い模様の入った初列風切羽、
鋼青色に光る次列風切羽、
そして瑠璃色の尾羽。
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「まあ、あの烏。」カムパネルラのとなりのかおると呼ばれた女の子が叫びました。
「からすでない。みんなかささぎだ。」カムパネルラがまた何気なく叱るように叫びましたので、ジョバンニはまた思わず笑い、女の子はきまり悪そうにしました。まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってじっと川の微光を受けているのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」青年はとりなすように云いました。
「からすでない。みんなかささぎだ。」カムパネルラがまた何気なく叱るように叫びましたので、ジョバンニはまた思わず笑い、女の子はきまり悪そうにしました。まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってじっと川の微光を受けているのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」青年はとりなすように云いました。
(宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』、第9章「ジョバンニの切符」より)
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私もカササギというと、カラスみたいな黒い鳥をイメージしていました。
実際、黒い鳥には違いないんでしょうが、その「黒」の中身が問題です。
カササギの衣装が、こんなにも絢爛たる黒だったとは、実際その羽根を手に取るまで思ってもみませんでした。
特にその尾羽の翠色といったらどうでしょう。
羽軸の元から、先端にいたるまで、
その色合いの変化は、本当にため息が出るようです。
夜の闇の中で、星の光を受けて輝くカササギの群れ。
その様を想像すると、なぜ天帝が彼らを呼び寄せて、二つの星のために橋を架ける役を命じたのか、その理由がよく分かる気がします。
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いよいよ今宵は七夕。
どうも雲の多い天気になりそうですが、しかし、ひとたびカササギが翼を打ち振るえば、すでに銀河は眼前に在り、です。
銀河のほとりへ ― 2025年08月28日 18時56分00秒
今日は旧暦の7月6日、いよいよ明日は七夕。
七夕の晩は涼しい銀河のほとりで過ごそうと思います。
でも、どうやって?
もちろんカササギの背に乗ってひとっ飛びです。
何せカササギの並んだ橋は、牽牛・織女が乗ってもびくともしないのですから、人ひとり運ぶぐらいわけはないでしょう。
このカササギのアクセサリーは、モノとしては「帯留め」なので、私が実用に供するわけにもいきませんが、これを手にすれば、いつでも心の耳に銀河の流れる音が聞こえてくるのです。
これは、アクセアリーブランド「数(SUU)」が手掛けた現行の品で、ピューター製の鳥の表面にカットガラスの星を埋め込んだ、なかなか美しい仕上がり。
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明晩、こと座とわし座のそばに常ならざる星、すなわち「客星」が見えたら、それは私です。
瞳の中の天の川 ― 2025年08月27日 05時40分35秒
今日も七夕の絵葉書の話題です。
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天の川を描かずに天の川を表現する。
…果たしてそんなことが可能でしょうか?
石渡風古(いしわた・ふうこ、1891-1961)作、「天の川」。
現在の日展の前身、「帝展」の第11回(1929/昭和4)出品作です。
この絵葉書を見たとき、「ああ、やられたなあ」と思いました。
ご覧のとおり、七夕飾りをした商家の前に立つ2人の若い女性を描いた絵で、ここには天の川はもちろん、一片の空すら描かれていませんが、それでもこの二人の視線の先に、我々はたしかに銀の砂をまいた天の川の姿を「見る」ことができます。
絵画作品としての評価は、また自ずとあると思います。
しかし、この絵を「天の川」と題した作者の機知は大いに評価したいところです。
なお、ネット情報によると、作者の石渡風古は川合玉堂に師事し、大正~昭和初期に文展・帝展で活躍した日本画家で、人物画を得意とした由。
梶の葉に託す ― 2025年08月25日 21時44分22秒
昨日と同じ「滑稽新聞」の付録絵葉書。
梶の葉、短冊、ほおずきに、七夕の季節感を盛り込んだ絵です。
ただそれだけだと、単に風流な絵ということで、風刺や滑稽の意図はないことになってしまいますが、相手は何せ滑稽新聞ですから、当然そんなはずはありません。
では、この絵のどこに風刺と滑稽があるのでしょう?
昨日の絵葉書と同様、これも雑誌に綴じ込まれていた時は、きっと欄外に余白があって、そこに説明の文句が書かれていたはずですが、今は推測するほかありません。
しばし腕組みして思いついたのは、梶の葉に書かれた一文字が「恋」とも「忘」とも読める点が皮肉なんじゃないか…ということです。そう、「恋とは忘れ、忘らるるものなり」。
まあ、ことの当否は分かりませんが、そこが天上世界と人間世界の大きな違いであるのは確かでしょう(たぶん)。
(裏面・部分)
人界の牽牛織女たちへ ― 2025年08月24日 10時50分12秒
旧暦の7月に入ったので、七夕の話題で少し話を続けようと思います。
下は先日見つけた明治物の絵葉書。
欄外に「人界の牽牛織女」とあります。
川のほとりで、牛飼いの男が、機織り女にそっと付け文をしている場面。
女は辺りを気にしながら、それを素早く受け取っています。あるいは文を渡しているのは、女の方かもしれません。まあ見たまま、読んだままの内容です。
絵面の中には「新七夕」ともあって、こちらが正式なタイトルのようです。
「新」とあるからには、これは絵葉書の作られた当時の農村風景に、牽牛織女を重ねたものでしょう。
発行元は滑稽新聞社。「滑稽新聞」は、反骨のジャーナリスト・宮武外骨(みやたけがいこつ、1867-1955)が、明治34年(1901)から同41年(1908)にかけて発行した風刺雑誌です。
同誌は、いわば明治版『噂の眞相』のような雑誌で(このたとえも既に伝わりにくいかも)、徹底した反権力の姿勢を貫きました。この絵葉書も、天上の星々の涼やかな逢瀬を、卑俗な地上の男女のそれに置き換えたところに、滑稽と風刺を利かせたものと思います。
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まあ、上のように考えれば、ちょっと皮肉な印象の絵になりますが、反対に地上の逢引を天上の逢瀬に重ねれば、そこに優雅な趣も出てくるわけで、そのほうが何となく心優しい感じがします。
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ちなみに、この絵葉書は単独で発行されたものではなく、同誌の付録として綴じ込まれていたもので、絵葉書として使うときは赤枠のところで切り取って使いました(赤枠で切るとちょうどはがきサイズになります)。
(裏面)
夏から秋へ ― 2025年08月23日 08時02分36秒
今日は旧暦の7月1日、文月朔日です。
旧暦の歳時記だと、1~3月が春、4~6月が夏、7~9月は秋、そして10~12月を冬に配当しているので、いよいよ今日から秋です。
旧暦は「太陰太陽暦」といわれるように、月の満ち欠けを基準にした29.5日周期と、太陽が天球を一周する365.25日周期を整合させるため、ときどき「閏(うるう)月」をはさむ必要があります。今年がまさにそれで、旧暦6月の次に「閏6月」が入ったので、新暦との差が大きくなりました。(去年だと、8月4日が旧暦7月1日でした。)
上のような理解とは別に、伝統的季節区分のひとつに、24節気の「立秋」というのもあります。立秋は、夏至と秋分のちょうど真ん中の日で、こちらに従えば、すでに8月7日から秋です。24節気は純粋に太陽の運行に基づく、いわば太陽暦ベースの考え方なので、今年はやっぱり文月朔日との差が大きくなりました。(立秋は毎年8月7日ごろで一定しています。)
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いずれにしても、今日から名実ともに秋
…のはずですが、現実はご覧のとおり。
異常気象だ、地球温暖化の影響だ、と連想はすぐそこに行きますが、江戸中期の狂歌師、鯛屋貞柳(たいや ていりゅう、1654-1734)の作に、
涼しかろとおもひまゐらせ候に なほなほなほなほあつき文月
というのを見つけました。刊本だと、「なほ」のところが「く」の字形の繰り返し記号になっていて、その連なりに作者のうんざり気分がよく出ています。

(『貞柳翁狂歌全集類題』(関西大学図書館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100346088)
江戸時代だからといって、文月とともにスパッと秋が来たわけではなく、人々はふうふう暑い息を吐いていたことが分かります。まあ、気温は今より低かったかもしれませんが、暑さ寒さは主観的な体験なので、貞柳にいわせれば「暑いものは暑いんだ」というところでしょう。
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日中は38度の灼熱地獄に、いったい秋はどこに?と思いますが、昨夜ふと気づきました。日が落ちると、あちこちで虫の声が聞こえることに。
こういう微妙な季節感を、俳句では「夜の秋」という季語に込めました。
「夜ともなれば秋めいた感じがする。けれども実際にはまだ夏だ」ということで、これは夏の季語です。したがって俳句の約束事としては、すでに今日から使えませんが、感覚的にはぴったりです。
涼しさの肌に手を置き夜の秋 虚子
手花火の香の沁むばかり夜の秋 汀女
手花火の香の沁むばかり夜の秋 汀女
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地球の公転に滞りはなく、北半球ではこの先ますます日は短く、太陽の南中高度も低くなっていきます。その底堅い事実に則り、異常は異常なりに、季節は移り変わりつつあります。
十五の春に ― 2025年08月22日 15時18分09秒
(前回のつづき)
さて、「A to Z」の「Z」、バーナード・ラヴェル(Sir Alfred Charles Bernard Lovell、1913-2012)の手紙を見てみます。
(手紙はジョドレルバンクのラヴェル専用箋にペン書きされています)
前回の記事の最後に書いたことに重ねると、この手紙は「1984年8月3日」付けなので、これを買った2003年には、わずか「19年前の手紙」でした。それが今では「41年前の手紙」ですから、いやはや何ともです。購入した時には、手紙を書いたご当人もまだカクシャクとしていたことを思えば、手紙も私もずいぶん時を旅したなあ…と思います。
まあ、これは手紙の中身とは関係のない、どうでもいい個人的感想にすぎませんけれど、時の流れとは不思議なものよと、再び思います。
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そんなわけで、この手紙は私にとって同時代の手紙といってもいいのですが、この「同時代の手紙」が、なんとまったく読めません。
(便箋の表面)
パッと見、読めそうな気もするんですが、読めません。150年前の手紙は読めるのに、これは一体どうしたことか。しかし、まったく読めなければ手紙を出す意味がありませんから、読める人には読めるのでしょう。現に、これを売ってくれたイギリスの古書店主は、購入当時、部分的に読み解いてくれました(本文6行目からです)。
「When I was a schoolboy soon to sit for my O level examinations, I had no interest in my school work. I was crazy about cricket & the new ‘wireless’. I played endless cricket in the summers & built innumerable wireless sets when I was not playing cricket. One day the physics master announced that he was taking a party of boys to a public lecture in the University of Bristol by Prof. A. M. Tyndall. I joined in for the fun of the visit. – but Tyndall’s lecture on the ‘Electric Spark’ transformed my career in a matter of minutes.」
「Oレベル試験〔※中等教育修了資格試験〕を間近に控えた中学時代、私は学校の勉強に全く興味が持てず、クリケットと新しい『無線』に夢中でした。夏には日がなクリケットをプレーし、クリケットをしていない時は、無線機を無数に組み立てていました。ある日、物理の先生が、男子生徒のグループを引率して、ブリストル大学で行われるA・M・ティンダル教授の公開講座を聴きに行くと発表しました。私はその訪問が面白そうだったので参加することにしました。しかし、ティンダル教授の「電気のスパーク」に関する講演は、わずか数分間で、その後の私の経歴をすっかり変えてしまったのです。」
「Oレベル試験〔※中等教育修了資格試験〕を間近に控えた中学時代、私は学校の勉強に全く興味が持てず、クリケットと新しい『無線』に夢中でした。夏には日がなクリケットをプレーし、クリケットをしていない時は、無線機を無数に組み立てていました。ある日、物理の先生が、男子生徒のグループを引率して、ブリストル大学で行われるA・M・ティンダル教授の公開講座を聴きに行くと発表しました。私はその訪問が面白そうだったので参加することにしました。しかし、ティンダル教授の「電気のスパーク」に関する講演は、わずか数分間で、その後の私の経歴をすっかり変えてしまったのです。」
なるほど、これはMrs G*** に宛てた、学校時代の回想記のようです。
(便箋の裏面)
そしてこの公開講座に触発されて、ラヴェルはティンダル教授(Arthur Mannering Tyndall、1881-1961)に弟子入りすべく一念発起し、その夢を叶えてさらに…ということが、手紙には書かれているのだと思いますが、これまた難読で、彼の肉声を聞き取れないのは残念です(件の古書店主がさらに勤勉だったらよかったのに…)。
(ラヴェルがティンダルに学んだ、ブリストル大学H.H.Wills 物理学研究所)
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15歳のラヴェルと壮年期のティンダルとの出会いは有名な話らしく、以下の追悼記事でも紹介されています(そして彼が生涯クリケットを愛好したことも)。
■IOP (The Institute of Physics): Sir Bernard Lovell (1913-2012)
ラヴェルは物理学徒として出発し、博士号のテーマは金属薄膜の導電性で、その後、結晶学の分野で研究者としての道を歩み始めました。その彼が宇宙線の研究に方向転換したのは、これまた人との出会いによるところで、そこから電波天文学の第一人者にまでなったわけですから、「縁」や「運命」というのは、確かにあるのかもしれません。ラヴェルほど劇的ではないにしろ、誰しも自分の人生を振り返るとき、それを噛みしめるのではありますまいか。
(Bernard Lovell。スターのサインとかにありがちですが、知らないとやっぱり読めません)
鋼の人、ジョージ・エアリーの面影 ― 2025年08月20日 18時15分53秒
前回、『ビクトリア時代のアマチュア天文家』の最終章で、ジョドレルバンクのことを意識した…ということを書きました。
今考えるとちょっと変な気がするんですが、そのときの自分は、まだイギリスのアマチュア天文史に無知でしたから、どうすればその全体像に迫れるかを考えた末に、本の最初と最後に出てくる人物の肉筆書簡を手に入れることを思い立ちました。「From A to Z」の「A」と「Z」の肉声を聞けば、その途中の声をすべて聞いたに等しい…という、少なからず呪術めいた思考に囚われていたわけです。
その計画はただちに実行に移され、私の手元には2通の手紙が届きました。
今、記録を見ると、2通を購入したのは、ともに2003年4月のことです。
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その「A to Z」の「A」は、第7代グリニッジ天文台長・兼・王室天文官のジョージ・エアリー(Sir George Biddell Airy、1801- 1892)で、「Z」は言うまでもなくバーナード・ラヴェルです。
エアリーは、徹底したプロの天文学者ですが、その彼が『ビクトリア時代のアマチュア天文家』の冒頭に登場しているのは、そのプロフェッショナリズムと対比したとき、イギリス天文学の著しい特徴、すなわち生活の糧とは無縁のところで天文活動を営んだアマチュア天文家たちが、それをリードしたという事実が、より鮮明になるからです。
そしてバーナード・ラヴェルも、完全にプロの天文学者ですから、結局、その二人の書簡を手にしたところで、イギリスのアマチュア天文史に迫れるはずもなく、無知とは恐ろしいものだと思いますが、当時の自分の行動力だけは、なかなか侮れません。
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ともあれ、エアリーはグリニッジ天文台の改革を、鋼の意志で進めた立役者であり、一代の傑物と呼ぶに足る人物です。天文マニアの方であれば、「エアリーディスク」(※)にその名を残す人として、思い当たるでしょう。
ここで、ことの順序として、エアリーの手紙を先に見てみます。
「王立グリニッジ天文台 1839年3月26日」で始まる文面を文字起こしすると、
「An account of the experiments on Iron Ships alluded to in your letter of the 25th would occupy me for several hours. I need not point out to you that it is quite impossible for me to give this time to each individual interested in the subject. I am at present preparing an account for the Royal Society, but I cannot say when it will be completed.
I am, Sir, Your obedient servant, G B Airy」
I am, Sir, Your obedient servant, G B Airy」
と読めます。
「拝啓 貴殿の25日付書簡で言及された鉄製船舶に関する実験についてご説明するには、数時間を要することでしょう。このテーマに関心を持つ方々それぞれに、それだけの時間を割くことが不可能なことは、申すまでもありません。 現在、王立協会への報告に向けて準備中ですが、完成時期は未定です。 貴殿の忠実な僕、G・B・エアリー」
文は人なり。その後、19世紀の天文学者の書簡をいくつか手にしましたが、エアリーの文字は非常に几帳面、かつ丁寧で、現代の我々にも読みやすいです。他の人だと、大抵は眉間にしわを寄せて、判じ物のように読むことが多いですが、これはいわば楷書の筆記体ですね。
(エアリーのサイン)
ただし、内容はきわめて事務的で素っ気ない。
しかし素っ気ないけれども、手紙を貰ったらすぐに返事を書く律義さ。
そう、やっぱり「文は人なり」で、この一通の手紙にも、エアリーの人柄はよく表れています。

(Sir George Biddell Airy、1801- 1892)
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ところで、なぜここに「鉄製船舶」が出てくるかですが、AIに聞くとたちどころに以下のことを教えてくれました。
「王立天文官ジョージ・ビデル・エアリーは、鉄船の磁気コンパスに関する研究で知られています。 彼は鉄船が引き起こす擾乱を調査し、コンパスの偏差を修正する方法を開発しました。 彼の研究は、当時普及しつつあった鉄船の安全な航行に極めて重要な役割を果たしました。」
なるほど、グリニッジは海事も司っていましたから、これは重要な研究です。
その実験に関する説明は、王立協会のサイト【LINK】に当たると、彼の1839年の報文、「Account of experiments on iron-built ships, instituted for the purpose of discovering a correction for the deviation of the compass produced by the iron of the ships(船舶の鉄が引き起こすコンパスの偏差を補正する方法を発見する目的で実施された鉄製船舶に関する実験報告)」として読むことができます(ただし、エアリーはこの前後にも同じテーマでいくつか論文を書いています)。
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この手紙、購入後22年目にして初めてじっくり読んだのですが、購入した時は164年前の手紙だったものが、今では186年前の手紙になっている事実に思い当たり、時の流れの不思議さを感じます。
(用紙の透かし模様。見る人が見ると、これで製紙工房が分かるらしい)
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(※)光の回折により、理想的レンズであっても、点光源が点像を結ぶことは決してなく一定の円盤像になること――すなわち解像限界が存在することを、エアリーは数学的に示しました。その円盤像がエアリーディスクであり、その周囲を取り巻く光環像がエアリーリングです。
ジョドレルバンクの話 ― 2025年08月17日 17時35分49秒
ブラック博士の本の話(8月10日付)の最後で、イギリスのジョドレルバンクの電波望遠鏡のことがチラッと出ました。そこから話を続けます。
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ときに、ジョドレルバンクの知名度って、どれぐらいあるんでしょう?
もちろんその筋の人は知っているんでしょうが、たとえば私の家族に聞いても(まだ聞いてませんが)、「何それ?」となることは容易に予想できます。
ジョドレルバンクは、巨大な電波望遠鏡の立つ場所であり、望遠鏡自体の代名詞でもあります。2019年には世界遺産に登録され、日本はともかく、地元イギリスでは非常に有名な存在だと聞きます。
私が最初にジョドレルバンクに興味を覚えたのは、『ビクトリア時代のアマチュア天文家』(産業図書)の末尾に、ジョドレルバンクが登場したからです。それによると、ジョドレルバンクが完成した1957年は、後にBBCの長寿人気番組となったパトリック・ムーアの「The Sky at Night」の放送開始年であり、アラン・ローラン彗星が話題になった年です。こうした出来事を追い風に、イギリスのアマチュア天文活動は、戦前にもまさる勢いで復活し、発展を遂げたのです(日本製の廉価な天体望遠鏡がその発展に寄与したという記述も、私には他人事と思えませんでした)。
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ジョドレルバンクはとにかく巨大です。アンテナの直径は76メートル、片や日本を代表する野辺山の45mm波電波望遠鏡は直径45メートルですから、並ぶと大体下の写真ぐらい違うはずです(あくまでもイメージです。正確な比較画像ではありません)。
(左:ジョドレルバンク、右:野辺山)
(ジョドレルバンクの場所)
ジョドレルバンクの歴史は、同観測基地のサイトに簡潔に述べられています。
そして上のページと同名の本が、かつて出版されたことがあります。
■Bernard Lovell
『The Story of Jodrell Bank』
Oxford University Press, 1968.
『The Story of Jodrell Bank』
Oxford University Press, 1968.
著者のバーナード・ラヴェルは、正式な名乗りをサー・アルフレッド・チャールズ・バーナード・ラヴェル(Sir Alfred Charles Bernard Lovell、1913-2012)といい、ジョドレルバンクを一から作り上げた電波天文学者です。したがってジョドレルバンクの電波望遠鏡も、彼の名をとって「ラヴェル望遠鏡」というのが、その正式な名称です。
(上掲書より。左はラヴェル、右はソ連の天文学者アラ・マセヴィッチ、1960年)
(手元の本には著者の献辞が入っています。「To Dr Keller, on the occasion of his visit to Jodrell Bank 14 November 1970 Barnard Lovell」。ラヴェルはかなり奔放な字を書く人ですね。なおケラー博士は未詳)
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例によって、私はラヴェルのこの本も買っただけで満足して、積ん読のままになっていました。それをこの機会にパラパラしてみたわけですが、そこで強烈な印象を受けたのは、この本にしょっちゅう「お金の話」が出てくることです。
章題だけ見ても「最初の財政的危機」に始まり、「25万ポンドの負債」とか、「財務省と公会計委員会」とか、「財務問題解決に向けて」とかいった具合。私は勘違いしていたのですが、ジョドレルバンクは国費を投入した事業ではなく、ラヴェルの熱誠に支えられえた、文字通り徒手空拳のプロジェクトで、一部の熱心なサポーターがいたおかげで、ようやく日の目を見た存在だったのです。
(上掲書より。Papas画、ガーディアン紙掲載の一コマ漫画)
しかし、イギリスの人々はラヴェルの壮挙を支持しました。上の絵はラヴェルを皮肉るものではなく、むしろ三軍には気前よく予算を配分するのに、ジョドレルバンクは放置している政府を批判する趣旨の絵です。
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瀕死のジョドレルバンクが突如息を吹き返したのは、当時の宇宙開発競争のおかげです。ジョドレルバンクの電波望遠鏡を使えば、人工天体の位置を正確に観測追尾できることが証明され、途端に「有用の長物」となったからです。そして上記のような大衆の支持もあり、ついにジョドレルバンクはイギリスの誇りとされるまでになったのでした。
まあ、人工天体の件はジョドレルバンク建設の本来の目的では全然なかったので、偶然の賜物といえばそうですが、「天は自ら助くる者を助く」で、ここはラヴェルの熱意が天に通じたのだと考えたいです。
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(上掲書見返しより)
Jodrell Bank、すなわち「ジョドレルの丘」とは、エドワード黒太子とともに百年戦争を戦った弓兵、William Jauderellの名に由来し、かつてその所領だった場所だそうです。ラヴェル望遠鏡は、古の弓の射手よろしく、今後もその地で天空をにらみ、パラボラの弧を構え続けることでしょう。
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