夜の梅2024年02月14日 17時01分30秒

今日は職場を早めに辞し、手前の駅で下りて、夕暮れの町をぶらぶら散歩しながら帰ってきました。

表通りを避けて、裏道を選んで通ると、こんなにもあちこちに梅の木が植わっていたのかと、改めて驚かされます。紅梅、白梅、しだれ梅―。やはり日本人は梅が好きですね。そして咲き誇る梅の下を通れば、強い香りが鼻をうち、そこが桜とは異なる梅ならではの魅力。家に帰りつく頃には日も沈み、茜の残る西の空に細い月がかかっているのを見て、嗚呼!と思ったのでした。

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というのは、実は昨日の出来事で、冒頭の「今日」とは「昨日」のことです。
そんなことで私の風流心は大いに満たされましたが、そういえば何かそんな詩があったなあ…と家で検索したら、それは菅原道真の『月夜見梅花』という漢詩でした。

 月耀如晴雪  月の耀(かがや)くは晴れたる雪の如し
 梅花似照星  梅花は照れる星に似たり
 可憐金鏡転  憐れむべし 金鏡の転じて
 庭上玉房馨  庭上に玉房の馨(かお)れることを

転句の「金鏡」は月、結句の「玉房」は咲き誇る梅の花のことです。
雪景色と見まごうばかりの明月と、満天の星のような梅の花。
天上を月がめぐり、庭に満開の梅が香っている光景を前にして、道真もまたただ一言「憐れむべし」(ああ、なんと見事な!)とだけ言って、口をつぐむのです。

満天の星を空の花畑にたとえることはあっても、梅の花を空の星にたとえるのは、中国に典拠があるのかどうか、もしこれが道真の創意とすれば、彼の鋭い感性に改めて驚かされます。そういわれてみれば、闇に浮かぶ五弁の小さな白い花は、たしかに星を連想させます。


となると、さしずめ天の川はどこまでも続く梅林を遠目に眺めているのに他ならず、想像するだに馥郁と芳香が漂ってきます。いずれにしても、道真が梅とともに星を愛したことは間違いないでしょう。

そう考えると、菅原道真が「天神さま」であり、「天満(そらみつ)大自在天神」の神号にちなんで、その神社を「天満宮」と呼ぶことも意味ありげに感じられますし、梅を愛した道真にちなんで、各地の天満宮が梅紋を神紋とする中にあって、京都の北野天満宮では特に「星梅鉢」を用いるというのも、実に素敵な暗合のように思えてきます。

(左が「星梅鉢」。これは星紋の一種である「六ツ星」(右)のバリエーションとも見られます)

(こちらは舌でめでる風流、とらやの「夜の梅」)

嵯峨野の月2024年02月12日 17時43分34秒

以前、月の風流を求めて、こんな品を手にしました。



桐箱の中に収まっているのは棗(なつめ)、つまり薄茶用の茶器です。
輪島塗の名工、一后一兆(いちごいっちょう、1898-1991)作「野々宮」
源氏物語の「賢木(さかき)」の巻のエピソードを画題としたもので、ここでのヒロインは六条御息所です。

六条御息所というと、嫉妬に狂った挙句、生霊となって葵上に取り憑いた女性(「葵」の巻のエピソード)のイメージが強いですが、あれは本来貞淑で控えめな六条御息所の心の奥底にも、本人の知らぬ間に鬼が棲んでいた…というのが恐ろしくも哀しいわけで、紫式部の人間観察がいかに透徹していたかを示すものです(きっと彼女の心にも鬼が棲んでいたのでしょう)。

「葵」に続く「賢木」の巻では、息女の斎宮下向にしたがって伊勢に下る決心を固めた六条御息所を、源氏が嵯峨野の野の宮に訪ねるシーンが描かれます。

(清水好子・著『源氏物語五十四帖』、平凡社より)


 「黒木の鳥居(樹皮を剥かない木で作った簡素な仮の鳥居)と小柴垣があれば、野の宮の舞台装置は揃ったことになる。夜空に「はなやかにさし出でたる夕月夜」とある、晩秋九月七日の月がかかっている。」(清水上掲書、p.51)


この棗も小柴垣と露に光る萩を描くことで、野の宮を象徴的に表現しています。
で、肝心の月はどこに行ったかというと、


この蝶の舞い飛ぶ蓋を裏返すと


そこに月が出ているという趣向です。

外から見えないところに、ふと月が顔を出すというのが、心憎い工夫。
蓋表に描かれた蝶は、虫の音も弱々しい晩秋には不似合いですが、これは枯れ色が目立つ野の宮を訪ねた源氏その人の華やぎを蝶に託したのでしょう。

私は茶の湯をまったくやらないので、これは実用の具というよりも、純然たるオブジェに過ぎないのですが、実用性がないからこそ一層風流であるとも言えるわけです。

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能登の地震では、当初は当然のことながら人的被害がクローズアップされていましたが、状況が一段落するにつれて、漁業をはじめ、酒蔵や塩田、そして輪島塗など、地場産業への影響も報道されるようになってきました。いずれも復興には年単位の取り組みが必要とのことです。これらは能登一国にととまらず、他国・他県の暮らしと文化にも直接関わることですから、その復興を強く応援したいです。



【付記】

上の作品を、箱書きにしたがって一后一兆作としましたが、同人作には贋作も出回っているそうなので、「伝・一后一兆作」ということにしておいてください。


頼りはこの落款ですが、仮にこれが本物だとしても、だから中身も本物だとは限らないという、まことに油断のならない世界なので、なかなか風流の道も険しいです。

ついでながら、以下は石川県立図書館のデータベースで見つけた記事。
掲載されているのは見出しだけなので、さらなる詳細は不明ですが、まあかなり組織的に贋作づくりが行われていたのでしょう。

■「北國新聞」1992年6月26日夕刊
 「輪島塗・一兆の贋作出回る 大阪の業者が販売 漆器組合が警告書
■同1992年7月16日朝刊
 「一兆贋作で2人逮捕 輪島署 製造業者(輪島)と販売業者(大阪) 作品、箱に偽造印 漆器、帳簿など100点押収」

天上の三目ならべ2024年02月11日 13時42分30秒

1月19日の記事【LINK】で、ドイツのマックス・エッサーがデザインした天体モチーフのチェスセットを紹介しました。



その記事の末尾で、「これを見て思案をめぐらせていることがある…」と、ちょっと思わせぶりなことを書きましたが、それはエッサーのチェス駒に似た、Tic-Tac-Toe、つまり日本でいうところの「マルバツゲーム」や「三目ならべ」の駒を見つけたからです。


(元はMetzkeというメーカーが1993年に発売した製品です。同社は玩具メーカーというよりも、ピューターを素材にしたアクセサリーメーカーの由。→参考リンク

まあ、似ていると言っても当然限界はあるんですが、このピューター製の太陽と月には、重厚かつ古風な味わいがあって、それ自体悪くない風情です。


このセットには上のような鏡面仕上げのガラス盤が付属しますが、せっかくなのでエッサー風の盤を自作することにしました。


この配色を参考に、出来合いのタイルと額縁を組み合わせてみます。



お手軽なわりには、なかなか良くできたと自画自賛。
このブルーとグレーの交錯する盤を天空に見立て、その上で太陽と月が無言の戦いを繰り広げるわけです。


これがエッサーのチェスセットよりも、明らかに優っている点がひとつあります。
それはチェスを知らない私でも、そしておそらく誰でも、これならゲームを存分に楽しめることです。

100年前のプラネタリウム熱2024年02月10日 17時36分49秒

プラネタリウムの話題で記事を続けます。
プラネタリウムの歴史の初期に、ツァイス社が作成した横長の冊子があります。


発行年の記載がありませんが、おそらく1928年ごろに自社のプラネタリウムを宣伝する目的で作られたもののようです。

(タイトルページ)

  ☆ ツァイス・プラネタリウム ☆
― 星空観望: テクノロジーの驚異 ―


「目次」を見ると、

○なぜツァイスプラネタリウムが必要なのか?
○天文学者はツァイスプラネタリウムについてどう述べているか?
○ツァイスプラネタリウムの構造
○ツァイスプラネタリウムはどのように操作するか?
○演目
○プラネタリウムの建物は他の目的にも使える

…と並んでいて、「プラネタリウムの建物は他の目的にも使える」のページでは、“プラネタリウムのドームは、映画の上映会や音楽演奏会にも使えるんです!”と怠りなくアピールしており、ツァイス社が販売促進に鋭意努めていたことが窺えます。

こうしたプラネタリウムの概説に続いて、冊子は各地に続々と誕生しつつあったプラネタリウムを紹介しており、ボリューム的にはむしろこちらの方がメインになっている感があります。

(バルメン)

(ハノーファー)

(ドレスデン)

いずれもまことに堂々たる建物です。
試みにここに登場する各プラネタリウムの開設年を、ネット情報に基づき挙げてみます。

▼Barmen  1926
▼Berlin  1926
▼Dresden  1926
▼Düsseldorf  1926
▼Hannover  1928
▼Jena  1926
▼Leipzig  1926
▼Mannheim  1927
▼Nürnberg  1927
▼Wien  1927

既述のように、ミュンヘンのドイツ博物館で世界初のプラネタリウムが商業デビューしたのは、1925年5月のことです。その直後からドイツ各地で、雨後の筍のようにプラネタリウムのオープンが続いたわけです。

まだ生まれたての、それこそ海のものとも山のものとも知れない新技術に、なぜ当時の人々は間髪入れず――しかも巨額の費用をかけて――呼応したのか?各地のプラネタリウムを作ったのはどんな人たちで、どこからそのお金が出ていたのか?いったい、当時何が起こっていたのか?

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ネット情報を一瞥すると、たとえばライプツィヒ・プラネタリウムの場合は、時のライプツィヒ市長のカール・ローテが、ミュンヘンでプラネタリウムの試演を見て大興奮の末に地元に帰り、市議会に諮って即座に建設が決まったのだそうです。

(ライプツィヒ)

ライプツィヒに限らず、当時のプラネタリウムはほとんど公設です。
もちろん議会もその建設を熱烈に支持したわけです。ドイツのように都市対抗意識の強い国柄だと、一か所が手を挙げれば、我も我もとなりがちだったということもあるでしょう。それこそ「わが町の威信にかけて…」という気分だったのかもしれません。

それらは博覧会の跡地に(ドレスデン)、あるいは新たな博覧会の呼び物として(デュッセルドルフ)、動物園に併設して(ベルリン)建設され、人々が群れ集う場として企図されました。

(ベルリン)

プラネタリウムに興奮したのは、もちろん市長さんばかりではありません。ベルリン・プラネタリウムの場合は、初年度の観覧者が42万人にも達したそうです(これは日本一観覧者の多い名古屋市科学館プラネタリウムの年間40万人を上回ります)。

(デュッセルドルフ)

このデュッセルドルフの写真も興味深いです。
当時の客層はほとんど成人客で、子供連れで行く雰囲気ではなかったようです。これはアメリカのプラネタリウム草創期もそうでしたが、当時のプラネタリウムは大衆教育の場であり、それ以上に大人の社交場だったのでしょう。

(大人のムードを漂わせるデュッセルドルフのプラネタリウム内部)

「もう見ましたか?」 「もちろん!」
「今月のプログラムはすごかったですね」 「いや、まったく」

プラネタリウムなしでは夜も日も明けない―。
さすがにそれほどではなかったかもしれませんが、当時のプラネタリウム熱というものは、我々の想像をはるかに超えるものがあった気がします。

それはツァイス社という一企業の努力に還元できるものではなく、当時の科学がまとっていたオーラの力のゆえであり、その力があったればこそ、市長さんも市議さんも一般市民も、もろ手を挙げてプラネタリウムを歓迎したのでしょう。

「プラネタリウム100年」継続中2024年02月05日 20時50分47秒

しばらく前に、家でとっている新聞を「朝日」から地元の「中日」に替えたんですが、渋茶をすすりながら、地元のニュースにゆっくり目を通すのは、なかなか楽しいものです。

その中日の日曜版に、昨日「プラネタリウム100年」の特集記事が載っていました。


名古屋市科学館プラネタリウムは完成当時世界最大で、集客数は今もダントツ日本一だ…なんていうのも、読者の郷土愛に訴える、ご当地ネタの一種でしょう。


ドイツのカール・ツァイス社が光学式プラネタリウムを完成させ、その試験投影を行ったのが1923年10月のことです。爾来100年、昨年がちょうど「プラネタリウム100年」だということで、このブログでも関連記事を書きました。


でも、私は完全に認識不足だったのですが、「プラネタリウム100年」の記念行事は、2023年10月から2025年5月まで、世界中でまだまだ続くんだそうです。これは、プラネタリウムの商業ベースの本格運用が1925年5月に始まったことに注目したもので、去年はまだそのとば口に過ぎず、今年からが一層本格的な祝賀イヤーなのでした。

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というわけで、プラネタリウムの話題を引き続き取り上げたいところですが、取り急ぎ、関連ページにリンクを張っておきます。




(※)今回のイベントは、国際プラネタリウム協会(IPS;The International Planetarium Society Inc)とドイツ語圏プラネタリウム協会(GDP;Gesellschaft deutschsprachiger Planetarien e.V.)が共同で運営しているようです。

人とモノは出会い、対話する2024年02月03日 16時36分53秒

前回の記事は、おしまいのところを故意にぼかしていました。

実は注文をキャンセルされた私は、天を仰いで嘆くだけでは終わりませんでした。
「じゃあ、フランス国内の(売り手はフランスの人です)個人輸入代行業者を代理人として立てるから、そこに送ってもらえないか?」「まあ、それなら…」ということで交渉成立、かろうじて土俵際でこらえたのでした。(もちろん、そんな「なじみの業者」が都合よくいるわけはありませんから、泥縄で探しました。)

この件を振り返ると、我ながら“年を経た”というか、老練な手管を身に着けたものよ…と、一抹の感慨を覚えます。(まあ、送料の注意書きを見落とすなんて、老練というよりは老耄に近いですが、ここは目をつぶりましょう。)

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先日、こんな本を買いました。


■荒俣宏の「イーベイ」お宝コレクション術 (平凡社、2000)

荒俣宏さんが、今から四半世紀前に書いたeBayの入門書です。
もちろん、今ではまったく実用性のない本ですが、だからこそ歴史的文献として貴重な気がします。ずいぶん前に図書館で手にして、当時すでに内容が時代にそぐわなくなっていたことから、かえって印象に残った本です。

eBayが「eBay」という名称でサービスを始めたのは1997年です。
荒俣さんはその最初期からeBayに注目し、2000年には早くもその指南書を出したわけです。

荒俣さんは「はじめに」で、こう書きます。

 「ほしくてもみつからなかったマニア向けグッズが、信じられないほどドンドン手に入るおかげでわたしは、スリリングでスリリングで、死にそうなほど刺激的に生きるようになった。どうしてそうなったかといえば、これまで経験と人脈が頼りだった趣味の世界が、インターネットのおかげで、だれにも参入可能になったからなのだ。」(p.9)

また「おわりに」には、

 「とにかく、ビッドに次ぐビッドで攻めまくり、ひとつずつ具体例に即した知識を獲得していただきたい。〔…〕きみはもう21世紀のとば口に立っている(pp.125-6)

ビックリマークから、その当時の興奮が伝わってきます。
そして、これは一人荒俣さんに限らず、多くの人が感じたことでもあったでしょう。

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私がeBayのアカウントを作ったのは2002年ですから、これまた相当昔のことです。
そして、ネットでしか見つけられないものを次々と目にして、やっぱり相当興奮しました。いや、それは興奮というよりも、一種の「万能感」に近かったかもしれません。

偉大な先人たちですら、話に聞くばかりで、決して目にしなかったであろう珍奇な品々。それをいながらにして我が物にすることができるという驚き。以前も書いたかもしれませんが、これは世界中の珍物・奇宝がヨーロッパに押し寄せ、それに眩惑された「大航海時代」の人々の心情になぞらえることができるような気がします。

しかし、その後、ネットを通じて行き来する情報量がいっそう増加し、その情報の山の中で「手にとることのできる形あるモノ」は徐々にリアリティを失っていき、同時にモノを収集するという行為の意味合いも大きく変わりました。でも2000年当時は、まだモノにリアリティ(価値といってもいいです)を感じる人が、私を含め大勢いたので、収集という行為や、収集家という人種も成り立ちえたのです。

かつてのeBayで見られた「ビッド文化」は、それを背景にしていたのかもしれんなあ…と、今やビッド商品をほとんど目にしなくなったeBayの画面を見て思います。

   ★

とはいえ―。
私という存在がすべて情報に還元されるSF的な未来は知らず、私自身が形あるモノであり続ける限り、私はこれからも形あるモノとの付き合いを欲するし、その相互作用に尽きせぬ意味を感じることでしょう。

オークションという魔所2024年02月01日 18時35分02秒

個人的印象ですが、最近のeBayはめっきり「Place bid」が減って、「Buy It Now」ばかりになってませんか。オークションサイトの看板はそのままながら、実態は販売価格の明示されたショッピングモール化している感じがします。


これは精神衛生にとって非常に良いことです。
オークションというのは、駆け引きを伴うギャンブル性の強い行為なので、心をむしばむ面があります。つまり、そこで商われている商品そのものよりも、入札して競り落とすという行為に淫する恐れがあるのです。脳内物質が多量に放出されるあの感覚には、明らかに依存性があります。

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そんなことを思ったのは、先日久しぶりに入札する機会があったからです。

まあ、それほど執着してないモノだったら、そんなに心も乱れないわけですが、今回は絶対に欲しいと思った品で、しかも全世界で40人以上が Watchlist に入れているという人気の品だったので、非常に厳しい戦いが予想されました。いやがうえにも緊張が高まるわけです。オークション終了5分前ともなれば、文字通り全身がゾワゾワし、1分前には動悸とともに目の前がチカチカしてくる始末です。

こういうときの入札のタイミングは明白で、入札終了の数秒前に限られます。それより前だとカウンタービッドが入って競り負けるし、それより後だとシステムや回線の関係でタイムアウトの恐れがあります。まさに必死剣鳥刺しというか、一撃必殺の構えです。

(藤沢周平・原作の「必死剣 鳥刺し」(東映、2010)のワンシーン)

その息詰まるドラマの結末は…?
もちろん落札したのは私です(しかも、心に決めた金額のだいぶ手前で)。これは完全に私の気合勝ちで…というようなことを誇ること自体、だいぶ心をむしばまれている証拠で、落札できて嬉しい反面、非常に危険なものを感じたのでした。

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しかも、話はこれで終わりません。
無事落札できて枕を高くして眠りについた翌日、「オーダーキャンセル」のメールが届いたときの私の気持ちを、どうかご想像いただきたいのです。

「えっ!なぜ?」と思いつつ文面に目を通したら、「海外の入札者には事前に送料確認をお願いしていましたが、あなたはそれを怠りました。それに日本にこの品を送るには、ややこしい手続きが必要なので、申し訳ありませんが…」と書いてありました。

嗚呼、何としたことでしょう。そう言われれば、たしかに商品説明の中にその旨の記述がありました。これは完全に私の不注意なので、弁解の余地はありません。文字通り天を仰いで茫然自失。

やっぱりオークションには魔物が住んでいるのです。
君子は進んでこれを遠ざけるべきです。

青龍を招く2024年01月29日 20時27分03秒

思い付きで記事を書き継いでいるので、まとまりがなくなりましたが、今年の正月には干支にちなんで、どこから見ても龍という品を登場させようというのが、昨年末からの構想でした。

(元記事はこちら

上の品は中国の渾天儀のミニチュア模型で、その四隅に立っているのが、私の部屋でいちばん龍らしい龍です。


もちろんこれだけでも十分なのですが、上の元記事を書いてから月日が経つうちに、この渾天儀もパワーアップし、今や新たな龍がそこに加わっています。


それがこの青銅の青龍。


渾天儀というのは、いわば「この世界全体」を表現しているものですから、世界を守護する霊獣をその四方に配置したら、さらに世界は全きものになるだろうと思ったのです。


霊獣とはいうまでもなく「東方・青龍、南方・朱雀、西方・白虎、北方・玄武」四方神です。


この渾天儀をゆったり置けるだけのスペースが部屋にあれば、四方神もこの世界を守る守り甲斐があろうというものですが、残念ながら今は下の写真のように、ゴチャゴチャとその足元に押し込められています。


とはいえ、本場・中国の渾天儀だって、これだけの備えはしてませんから、私の部屋の隅っこに在る「世界」は、その全一性において無比のものだと自負しています。(もちろん真面目に受け止めてはいけません。)

龍を思う2024年01月28日 08時02分54秒


(龍紋の入った古写経)

中国古代の龍の本を読んでいました(こちらのコメントで言及した本です)。

込み入った話に頭を悩ませつつ、最終的に分かったことは「龍については分からないことだらけだ」という事実です。西方のドラゴンやインドのナーガと切り離して(切り離せるかどうかは分かりませんが)、中国の龍だけに目を向けても、その正体は謎が多いです。

龍は先史時代の遺物にも登場するので、人間との付き合いはおそろしく長いです。その資料(画像や文献)が増えてくるのは、ようやく紀元前2000年以降で、よりはっきりするのは紀元前500年以降のことですから(おおむね殷代・周代にあたります)、今の我々からすれば、それでも十分に古い時代のことですけれど、龍の出現自体は、そこからさらに2000年も3000年もさかのぼるわけで、その間のことはすべて想像で埋めるほかありません。

…というと、学者に与えられた仕事は、今では失われた龍の古伝承を、比較神話学やら何やらを援用して、何とか再構成することと感じられるかもしれませんが、そもそもそんな体系立った古伝承があったのかどうか? 思うに昔の人にとっても龍はあいまいで多義的な存在だったんじゃないでしょうか。そのルーツ・姿形・基本的性格を探るべく、仮にタイムマシンで先史時代に飛んで昔の人にインタビューしても、たぶん人によって言うことは違うんじゃないかという気がします。

太古の豊饒な「龍観念」は歴史の中で滅失し、今はその上澄みだけが辛うじて残っている…というわけでは決してなく、むしろ龍という存在は時代とともに洗練され、その神話体系も整えられて現在に至っている…と考えた方が自然です。

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しかし、そんな中でも龍は水界と天界をその住まいとし、その間を飛行して往還する存在であり、神霊の気を帯びた異獣である…という点は動きません。(龍は水性であるのに対し、ドラゴンは火性であるというのが、両者の最大の違いかもしれませんね。)

その背後には、農耕と天体の結びつきに関する知識があって、古代エジプトではシリウスがナイル河氾濫の目安となったように、古代中国ではさそり座のアンタレスが農事の目安であり、西方の人がサソリと見たその曲がりくねった星の配置に龍の姿を重ねた…というのは、これも結局推測に過ぎないとはいえ、非常に説得力のある説だと感じます。

そんなわけで、四方神のうち青龍は、今のさそり座に当たる「房宿」「心宿」「尾宿」を中心とする東方七宿を統べて、春を支配する存在となったわけです。

(…と青龍を登場させたところで、龍の話題をもう少し続けます)

ドラゴンヘッドとドラゴンテール2024年01月24日 05時05分29秒

さらに前回のおまけで話を続けます。
数年前に、アメリカの人からこんなハットピン(ラペルピン)を買いました。

(ピンを含む全長は約8cm)

口を開けて、今まさにアメシストの珠を呑まんとするドラゴン。

(照明の加減で色が鈍いですが、実際にはもうちょっと真鍮光沢があります)

これを買った当時、ドラゴンヘッドとドラゴンテールの話は聞いたことがあるような無いような、あやふやな状態でしたけれど、それでも直感的に「これって何か日食と関係あるモチーフかな?」と思った記憶があります(だからこそ買う気になったわけです)。

今あらためて見ると、アメシストの対蹠点にドラゴンの丸まった尻尾が造形されているのも意味ありげだし、仮にそれが作り手の意図を超えた、私の過剰解釈だとしても、もっともらしい顔つきでそんなふうに説明すれば、たぶん大抵の人は「へえ」とか「ふーん」とか言ってくれるでしょう。

(裏面にもメーカー名や刻印は特にありません)

ここは言ったもん勝ちで、以後、そういう説で押し通すことにします。
そうなれば、この小さなハットピンの向こうには、突如日食とドラゴンをめぐる壮大な歴史と天空のドラマが渦巻くことになるし、私が話を盛らずとも、それは元から渦巻いていた可能性だってもちろんあるわけです。


【付記】

竜(ドラゴン)と日食の件。昨日の記事の末尾で、「識者のご教示を…」とお願いしたら、早速S.Uさんからご教示をいただきました。そして、S.Uさんが引用された、m-toroia氏による下記サイトが、まさにこの問題を論じ切っていたので、関心のある方はぜひご一読ください。


私自身、まだすべてを読み切れてませんが、時代を超え、地域を超えて垣間見られる「天空の竜」の諸相が、豊富な資料に基づき論じられています。