人とモノは出会い、対話する2024年02月03日 16時36分53秒

前回の記事は、おしまいのところを故意にぼかしていました。

実は注文をキャンセルされた私は、天を仰いで嘆くだけでは終わりませんでした。
「じゃあ、フランス国内の(売り手はフランスの人です)個人輸入代行業者を代理人として立てるから、そこに送ってもらえないか?」「まあ、それなら…」ということで交渉成立、かろうじて土俵際でこらえたのでした。(もちろん、そんな「なじみの業者」が都合よくいるわけはありませんから、泥縄で探しました。)

この件を振り返ると、我ながら“年を経た”というか、老練な手管を身に着けたものよ…と、一抹の感慨を覚えます。(まあ、送料の注意書きを見落とすなんて、老練というよりは老耄に近いですが、ここは目をつぶりましょう。)

   ★

先日、こんな本を買いました。


■荒俣宏の「イーベイ」お宝コレクション術 (平凡社、2000)

荒俣宏さんが、今から四半世紀前に書いたeBayの入門書です。
もちろん、今ではまったく実用性のない本ですが、だからこそ歴史的文献として貴重な気がします。ずいぶん前に図書館で手にして、当時すでに内容が時代にそぐわなくなっていたことから、かえって印象に残った本です。

eBayが「eBay」という名称でサービスを始めたのは1997年です。
荒俣さんはその最初期からeBayに注目し、2000年には早くもその指南書を出したわけです。

荒俣さんは「はじめに」で、こう書きます。

 「ほしくてもみつからなかったマニア向けグッズが、信じられないほどドンドン手に入るおかげでわたしは、スリリングでスリリングで、死にそうなほど刺激的に生きるようになった。どうしてそうなったかといえば、これまで経験と人脈が頼りだった趣味の世界が、インターネットのおかげで、だれにも参入可能になったからなのだ。」(p.9)

また「おわりに」には、

 「とにかく、ビッドに次ぐビッドで攻めまくり、ひとつずつ具体例に即した知識を獲得していただきたい。〔…〕きみはもう21世紀のとば口に立っている(pp.125-6)

ビックリマークから、その当時の興奮が伝わってきます。
そして、これは一人荒俣さんに限らず、多くの人が感じたことでもあったでしょう。

   ★

私がeBayのアカウントを作ったのは2002年ですから、これまた相当昔のことです。
そして、ネットでしか見つけられないものを次々と目にして、やっぱり相当興奮しました。いや、それは興奮というよりも、一種の「万能感」に近かったかもしれません。

偉大な先人たちですら、話に聞くばかりで、決して目にしなかったであろう珍奇な品々。それをいながらにして我が物にすることができるという驚き。以前も書いたかもしれませんが、これは世界中の珍物・奇宝がヨーロッパに押し寄せ、それに眩惑された「大航海時代」の人々の心情になぞらえることができるような気がします。

しかし、その後、ネットを通じて行き来する情報量がいっそう増加し、その情報の山の中で「手にとることのできる形あるモノ」は徐々にリアリティを失っていき、同時にモノを収集するという行為の意味合いも大きく変わりました。でも2000年当時は、まだモノにリアリティ(価値といってもいいです)を感じる人が、私を含め大勢いたので、収集という行為や、収集家という人種も成り立ちえたのです。

かつてのeBayで見られた「ビッド文化」は、それを背景にしていたのかもしれんなあ…と、今やビッド商品をほとんど目にしなくなったeBayの画面を見て思います。

   ★

とはいえ―。
私という存在がすべて情報に還元されるSF的な未来は知らず、私自身が形あるモノであり続ける限り、私はこれからも形あるモノとの付き合いを欲するし、その相互作用に尽きせぬ意味を感じることでしょう。

オークションという魔所2024年02月01日 18時35分02秒

個人的印象ですが、最近のeBayはめっきり「Place bid」が減って、「Buy It Now」ばかりになってませんか。オークションサイトの看板はそのままながら、実態は販売価格の明示されたショッピングモール化している感じがします。


これは精神衛生にとって非常に良いことです。
オークションというのは、駆け引きを伴うギャンブル性の強い行為なので、心をむしばむ面があります。つまり、そこで商われている商品そのものよりも、入札して競り落とすという行為に淫する恐れがあるのです。脳内物質が多量に放出されるあの感覚には、明らかに依存性があります。

   ★

そんなことを思ったのは、先日久しぶりに入札する機会があったからです。

まあ、それほど執着してないモノだったら、そんなに心も乱れないわけですが、今回は絶対に欲しいと思った品で、しかも全世界で40人以上が Watchlist に入れているという人気の品だったので、非常に厳しい戦いが予想されました。いやがうえにも緊張が高まるわけです。オークション終了5分前ともなれば、文字通り全身がゾワゾワし、1分前には動悸とともに目の前がチカチカしてくる始末です。

こういうときの入札のタイミングは明白で、入札終了の数秒前に限られます。それより前だとカウンタービッドが入って競り負けるし、それより後だとシステムや回線の関係でタイムアウトの恐れがあります。まさに必死剣鳥刺しというか、一撃必殺の構えです。

(藤沢周平・原作の「必死剣 鳥刺し」(東映、2010)のワンシーン)

その息詰まるドラマの結末は…?
もちろん落札したのは私です(しかも、心に決めた金額のだいぶ手前で)。これは完全に私の気合勝ちで…というようなことを誇ること自体、だいぶ心をむしばまれている証拠で、落札できて嬉しい反面、非常に危険なものを感じたのでした。

   ★

しかも、話はこれで終わりません。
無事落札できて枕を高くして眠りについた翌日、「オーダーキャンセル」のメールが届いたときの私の気持ちを、どうかご想像いただきたいのです。

「えっ!なぜ?」と思いつつ文面に目を通したら、「海外の入札者には事前に送料確認をお願いしていましたが、あなたはそれを怠りました。それに日本にこの品を送るには、ややこしい手続きが必要なので、申し訳ありませんが…」と書いてありました。

嗚呼、何としたことでしょう。そう言われれば、たしかに商品説明の中にその旨の記述がありました。これは完全に私の不注意なので、弁解の余地はありません。文字通り天を仰いで茫然自失。

やっぱりオークションには魔物が住んでいるのです。
君子は進んでこれを遠ざけるべきです。

青龍を招く2024年01月29日 20時27分03秒

思い付きで記事を書き継いでいるので、まとまりがなくなりましたが、今年の正月には干支にちなんで、どこから見ても龍という品を登場させようというのが、昨年末からの構想でした。

(元記事はこちら

上の品は中国の渾天儀のミニチュア模型で、その四隅に立っているのが、私の部屋でいちばん龍らしい龍です。


もちろんこれだけでも十分なのですが、上の元記事を書いてから月日が経つうちに、この渾天儀もパワーアップし、今や新たな龍がそこに加わっています。


それがこの青銅の青龍。


渾天儀というのは、いわば「この世界全体」を表現しているものですから、世界を守護する霊獣をその四方に配置したら、さらに世界は全きものになるだろうと思ったのです。


霊獣とはいうまでもなく「東方・青龍、南方・朱雀、西方・白虎、北方・玄武」四方神です。


この渾天儀をゆったり置けるだけのスペースが部屋にあれば、四方神もこの世界を守る守り甲斐があろうというものですが、残念ながら今は下の写真のように、ゴチャゴチャとその足元に押し込められています。


とはいえ、本場・中国の渾天儀だって、これだけの備えはしてませんから、私の部屋の隅っこに在る「世界」は、その全一性において無比のものだと自負しています。(もちろん真面目に受け止めてはいけません。)

龍を思う2024年01月28日 08時02分54秒


(龍紋の入った古写経)

中国古代の龍の本を読んでいました(こちらのコメントで言及した本です)。

込み入った話に頭を悩ませつつ、最終的に分かったことは「龍については分からないことだらけだ」という事実です。西方のドラゴンやインドのナーガと切り離して(切り離せるかどうかは分かりませんが)、中国の龍だけに目を向けても、その正体は謎が多いです。

龍は先史時代の遺物にも登場するので、人間との付き合いはおそろしく長いです。その資料(画像や文献)が増えてくるのは、ようやく紀元前2000年以降で、よりはっきりするのは紀元前500年以降のことですから(おおむね殷代・周代にあたります)、今の我々からすれば、それでも十分に古い時代のことですけれど、龍の出現自体は、そこからさらに2000年も3000年もさかのぼるわけで、その間のことはすべて想像で埋めるほかありません。

…というと、学者に与えられた仕事は、今では失われた龍の古伝承を、比較神話学やら何やらを援用して、何とか再構成することと感じられるかもしれませんが、そもそもそんな体系立った古伝承があったのかどうか? 思うに昔の人にとっても龍はあいまいで多義的な存在だったんじゃないでしょうか。そのルーツ・姿形・基本的性格を探るべく、仮にタイムマシンで先史時代に飛んで昔の人にインタビューしても、たぶん人によって言うことは違うんじゃないかという気がします。

太古の豊饒な「龍観念」は歴史の中で滅失し、今はその上澄みだけが辛うじて残っている…というわけでは決してなく、むしろ龍という存在は時代とともに洗練され、その神話体系も整えられて現在に至っている…と考えた方が自然です。

   ★

しかし、そんな中でも龍は水界と天界をその住まいとし、その間を飛行して往還する存在であり、神霊の気を帯びた異獣である…という点は動きません。(龍は水性であるのに対し、ドラゴンは火性であるというのが、両者の最大の違いかもしれませんね。)

その背後には、農耕と天体の結びつきに関する知識があって、古代エジプトではシリウスがナイル河氾濫の目安となったように、古代中国ではさそり座のアンタレスが農事の目安であり、西方の人がサソリと見たその曲がりくねった星の配置に龍の姿を重ねた…というのは、これも結局推測に過ぎないとはいえ、非常に説得力のある説だと感じます。

そんなわけで、四方神のうち青龍は、今のさそり座に当たる「房宿」「心宿」「尾宿」を中心とする東方七宿を統べて、春を支配する存在となったわけです。

(…と青龍を登場させたところで、龍の話題をもう少し続けます)

ドラゴンヘッドとドラゴンテール2024年01月24日 05時05分29秒

さらに前回のおまけで話を続けます。
数年前に、アメリカの人からこんなハットピン(ラペルピン)を買いました。

(ピンを含む全長は約8cm)

口を開けて、今まさにアメシストの珠を呑まんとするドラゴン。

(照明の加減で色が鈍いですが、実際にはもうちょっと真鍮光沢があります)

これを買った当時、ドラゴンヘッドとドラゴンテールの話は聞いたことがあるような無いような、あやふやな状態でしたけれど、それでも直感的に「これって何か日食と関係あるモチーフかな?」と思った記憶があります(だからこそ買う気になったわけです)。

今あらためて見ると、アメシストの対蹠点にドラゴンの丸まった尻尾が造形されているのも意味ありげだし、仮にそれが作り手の意図を超えた、私の過剰解釈だとしても、もっともらしい顔つきでそんなふうに説明すれば、たぶん大抵の人は「へえ」とか「ふーん」とか言ってくれるでしょう。

(裏面にもメーカー名や刻印は特にありません)

ここは言ったもん勝ちで、以後、そういう説で押し通すことにします。
そうなれば、この小さなハットピンの向こうには、突如日食とドラゴンをめぐる壮大な歴史と天空のドラマが渦巻くことになるし、私が話を盛らずとも、それは元から渦巻いていた可能性だってもちろんあるわけです。


【付記】

竜(ドラゴン)と日食の件。昨日の記事の末尾で、「識者のご教示を…」とお願いしたら、早速S.Uさんからご教示をいただきました。そして、S.Uさんが引用された、m-toroia氏による下記サイトが、まさにこの問題を論じ切っていたので、関心のある方はぜひご一読ください。


私自身、まだすべてを読み切れてませんが、時代を超え、地域を超えて垣間見られる「天空の竜」の諸相が、豊富な資料に基づき論じられています。

竜と蛇とドラゴンと日食のはなし2024年01月22日 18時42分18秒

昨日書いたことに触発されて、思いついたことを書きます。
昔の中国人は竜が太陽をかじると日食になると考えた…という話のおまけ。

日食というのは、当然のことながら、天球をぐるっと一周する太陽の通り道黄道)と月の通り道白道)が交わるところで生じます(太陽と月がピタッと重なれば皆既食や金環食だし、微妙にずれれば部分食になります。もちろん軌道が交わったからといって、そこに本物の天体がなければどうしようもないので、日食というのはやっぱりレアな現象です)。

黄道と白道は、いずれも天球上の大円ですから、両者は必ず2箇所で交わります。

(角度にして5度ずれて交わる黄道と白道。両者の交点が昇交点(Ascending node)と降交点(Descending node)。ウィキペディアより)

上図のように、これを現代では「昇交点」「降交点」と呼び、また古代インドの人はそこに日食を引き起こす魔物が住んでいると考え、「ラーフ」「ケートゥ」とネーミングしました。この名は漢訳仏典とともに日本にも伝わり、それぞれ「羅睺(らごう)」「計都(けいと)」と呼ばれます。インドのラーフとケートゥはもともと蛇身の神らしく、それを引き継いでいるのか、日本の羅睺と計都も頭部に蛇が生えた姿で描かれます。

(羅睺と計都。同上)

一方、西洋の占星術では、古くから昇交点と降交点をドラゴンヘッドドラゴンテールと呼ぶと聞きます。


…となると、日食をめぐる中国の竜と、インドの蛇と、西洋のドラゴンとの間に、何かつながりがあるのかどうかが気になります。つながりがないとするのは、かえって不自然な気がするんですが、この間の事情にうといので、いまだ真相は不明のままです。詳しい方のご教示をいただければと思います。


竜と天文学と絵本のはなし2024年01月21日 14時19分12秒

今日は地雨が静かに降り続いていて、心を落ち着けるには良い日です。
熱いコーヒーを淹れ、本棚から肩のこらない本を持ってきて、ときおり窓越しに灰色の空を見上げながら目の前の活字を追う…というのは、本当にぜいたくな時間の使い方で、人間やっぱりこういう場面が必要だなあと思います。

   ★

毎年、年の初めには干支にちなんだ話題を書くことが多いですが、今年は地震ですべて吹き飛んでしまいました。でも、今読んでいる絵本にひどく立派な竜が出てきたので、載せておきます。


これは西洋のドラゴンではなくて、本物の竜で、冒頭の天文学の歴史を説く章に登場します。中国の伝説的王朝「夏」の第4代皇帝・中康の治世に、お抱え天文学者が日食予報をさぼったために誅殺された…というエピソードに続けて、当時の人々は竜が太陽を食べてしまうため日食が生じると考えたこと、そのため日食になると、大声を上げて銅鑼や太鼓を打ち鳴らし、竜を必死で追っぱらったことが紹介されています。

これは古人を嗤うための滑稽なエピソードとして紹介されているわけではありません。古代にあっては天文学が公共の知ではなく。魔術師や為政者の独占物だったこと、そして日食の予報とそのメカニズムの解明は、まったく別次元の問題であることを作者は言いたいのです。…というわけで、これはかなりまじめな本です。

(オーラリーの表紙がカッコいい)

■Roy A. Gallant(文)、Lowell Hess(絵)
 Exploring the Universe.
 Garden City Books(NY)、1956.62p.

作者のギャラントは画家のヘスとコンビを組んで、これ以外にも当時「Exploring」シリーズというのをたくさん出して好評を博しました。これもその1冊です。


竜の絵だけだと「え?」と思われるかもしれませんが、これは1956年当時の天文学の知識を、美しい挿絵とともに綴った、なかなか魅力的な科学絵本です。




   ★

私は子供のころから科学絵本が好きで、よく手にします。
理解力が進歩してないということもありますが、それ以上に紙面に吹く科学の風に惹かれるからで、その風はたいてい良い香りがするものです。

もちろん、絵本の中にも駄作はあります。単なるハサミと糊の仕事であったり、読者である子供よりも、金主である親におもねっていたり…。でも、まじめな作り手だったら、相手が子供だからこそごまかしがきかないし、下手なことは書けないぞと、真剣にならざるをえないので、それが科学という学問の純粋さと呼応して、そこに良い香りが漂うのでしょう。

この68歳になる本にも、そうした良い香りを感じました。
本書の冒頭は、2人の天文学者の仮想対話から始まります。

「明日も太陽はのぼるかな?」「いや、明日はのぼらないと思うね。のぼるって言うなら、君はそれを証明することができるかい?」「もちろんさ。天文年鑑を見ると、明日の日の出は午前7時12分と書いてある。」「それは。その本を書いた人間がそう考えただけだろ?それは証明じゃないよ。ぼくはその証明が知りたいんだ。」

本に書いてあるから、偉い人が言ったから正しいことにはならない、現に「昔の偉い人」は珍妙なこともたくさん言っているよ…と、作者はそこから天文学の歴史を語り始めます。こういうことは、もちろん科学論文に書かれることはないし、大人向けの本でもあまり正面切って説かれることはありませんが、でも科学を語る上ではこの上なく重要なことです。

そういう当たり前のことに気づかせてくれるのも、科学絵本の魅力と思います。
(まあ科学絵本に限らず、良い絵本とはそういうものかもしれません。)

天上のチェス2024年01月19日 17時34分04秒

この前、「天文古玩の書斎」の絵をAIに描かせたら、「古玩」を「古いおもちゃ」と解釈して云々…ということを書きました。それは確かにAIの認識不足なんですが――「古玩」という言葉は「骨董」とほぼ同義です――私は天文モチーフの玩具やゲームにも強く惹かれているので、これはまあ悪くない誤解です。

ここで「天文モチーフの玩具やゲーム」といい、あえて「天文玩具」「天文ゲーム」と言わないのは、そうした品の中には、内容的に天文と全然関係のない、単にデザイン上の工夫として天文モチーフを取り入れているだけの品が結構多いからです。しかし、たとえ後者であっても、ときに目を見張るような効果を挙げている例もあって、見ればやっぱり食指が動きます。

以下は、以前も触れた【LINK】サリダキスさんによる8年前のツイートですが、これを見たときの衝撃は大きかったです。


画像はメトロポリタン美術館(MET)からの引用なので、オリジナルページにもリンクを張っておきます。


この極美のチェスセットは、ドイツの彫刻家/メダル製作者であるマックス・エッサー(Max Esser、1885-1945)がデザインし、チェス駒をリヒャルト・バルト(Richard Barth)が、盤のエナメル細工をフリーダ・バスタニア(Frieda Bastanier)が手掛けた逸品です(あとの二人は経歴未詳ですが、たぶん専門の工匠でしょう)。

サリダキスさんにならって、私もMETの画像をお借りして貼っておきます。



うーむ、すごいですね。



上で述べたように、チェスという遊びは別に天文とは関係ないはずですが、こうして天文モチーフで仕上げると、とたんに「天上の神々の戦い」みたいになって、壮大なドラマをそこに感じます。



駒はあきれるほどカッコいいし、この盤の造形もすさまじいです。
私はチェスのルールをまったく知らないので、仮にこれが手元にあっても眺めることしかできませんが、もしこのレプリカが売り出されたら、万難を排して入手に努めるかもしれません。これこそ「天文古玩の書斎」にはぜひあって欲しい品です。

…と書きながら、ぼんやり思案をめぐらせていることがあるので、それについてはまた後日書ければと思います。

今ふたたびのグスコーブドリ2024年01月17日 05時21分16秒

心を落ち着かせるために、1冊の本を購入しました。


■宮澤賢治(原作)、司修(文・絵)
 グスコーブドリの伝記
 ポプラ社、2012

この作品は賢治の原文のままではなく、司修氏の再話により文章は大幅に切り詰めてあります。それを補うものが氏の描く青い絵です。本書は文章を読むのと同じぐらい、あるいはそれ以上に「絵を読む」ことが大切な本かもしれません。


本書が出版されたのは2012年です。
作者がその制作を思い立ったのが、前年の東日本大震災の経験によるのかどうかは分かりませんが、私の中ではそれが直感的に結びついています。


思えば東日本大震災の折も、私はブドリを読んでいました【LINK】。
あのときは地震と津波に加えて原発事故もあったので、今回の能登半島地震よりもさらに焦燥感が強かったかもしれません。そして、祈るような気持ちで事態の収束を願い、命の危険を顧みず活躍するおおぜいの人に向けて、無言の声援を精いっぱい送っていました。



【閑語】

ここからはブドリと直接関係ない話なので、記事から切り離します。

たしかに今の我々は、当時と同様のシチュエーションを目にしています。
でも、何かが違う。そう思うのは、被害規模の違いだけにとどまらない、何か質的な違いを世間の空気に感じるからです。

いったいこの13年間で、何が変わったのでしょう?
あまり奥歯にものの挟まった言い方をせず、はっきり言わせてもらえば、この間に安倍という人物が日本を破壊しつくしたことが、その最大要因だと私は考えています。

以前も書きましたが、安倍氏の「負の功績」の最たるものは、社会の建て前を破壊したことだと、私は思います。社会正義とか文化的価値は言わずもがな、「一国の総理が嘘をついてはいけない」とか「人を愚弄してはいけない」とか、そんな当たり前のことを、彼はあえて分かろうとしなかった。彼が拝跪したのは、あけすけな「力」であり、新自由主義であり、自己責任論であり、それに迎合する者にはたっぷり飴を与え、異を唱える者は進んで排除しました。しかも、それを陰でこっそりやるのではなく、公然と人々に見せつけました。そして棄民政策とポピュリズムの奇妙な混合物をこしらえ、「パンなきサーカス」を延々と繰り広げて、人々の愚民化を推し進めたのです。

その結果、人々は彼の望み通り「愚民」となり、世の中から「尊い怒り」が消えて、愚かな怒りと冷笑があふれかえるようになりました。あるいは恐るべき無関心が―。今回の被災地支援をめぐって感じる違和感の正体は、たぶんそれだろうと、これを書きながら思いました。

   ★

なんでそんなことになってしまったのか?

ひとつには「貧すれば鈍す」で、社会の中間層がごっそり削り取られ、人々がおしなべて貧しくなったことがあります。もうひとつは安倍氏の振る舞いを見て、「へえ、こんなんでいいんだ」と、子どもも大人も誤学習してしまったこと。

でも、病根はそれだけではありません。
それだけなら話はむしろ単純なのです。
私が心配しているのは、もう何年にもわたって、人々は国を挙げての「学習性無力感の獲得実験」の被験者にされてしまったのではないか…という点です。

何をしても自分の力では事態を好転させることができない…そんな経験を延々と重ねれば、人は必然的に無気力と無感動を身に付けざるを得ません。苛酷な虐待経験もまた同様です。その被害者は、ときに意識を切り離す術を身に付け、傷つけられる自分をあたかも他人であるかのように眺めることで、辛うじて自らを守ることすらあります。いわゆる解離の現象です。

ここで大きな問題は、ネガティブな環境から逃れても、その影響が長く続くことです。我々もまた「安倍的なるもの」の被害者にしてサバイバーであり、安倍氏亡き後もその影響に苦しみ続けていると、私には感じられます。もちろんその影響は、私自身にも及んでいます。

しかし、たとえ苛酷な虐待の経験者でも、その経験に圧倒されっぱなしではなく――長い苦闘の末ではあれ――ついに「他の誰でもない、自分こそが自分自身のあるじなのだ!」という主体性の感覚を取り戻す人はいます。そこに適切な支援があれば、おそらく多くの人がそうでしょう。

その意味で、この国の人々が―そして私自身が―ふたたび自信と主体性を取り戻すことはできると信じたいです。そう、「粉々に砕かれた鏡の上にも、新しい景色は映される」のです。



天文学者のライブラリ2024年01月16日 05時40分19秒

忘れないうちにメモ。
一昨日の記事を書いてから、思い立って天文古玩のリアルな書斎のイメージを探しているときに、以下の本が目に留まりました。


■Karen Masters 
 The Astronomers’ Library:The Books that Unlocked the Mysteries
  of the Universe.
 Ivy Press (The Quarto Group)、2024(4月予定)、272p.

書物を通して天文学史を俯瞰したヴィジュアル本…というと、先年開催された「天文学と印刷」展過去記事にLINK】の図録を思い出しますが、こちらは時代も国もさらに広く採り上げているようです。

版元の説明によれば、

「過去800年にわたる最高の天文学書のコレクションを存分にお楽しみください。『天文学者のライブラリ』は、ヨーロッパ全土にまたがる天文学(および占星術) の書籍発行に関する充実した歴史書です。本書はドイツ、フランス、イタリア、オランダ、スペイン、英国など、ヨーロッパ大陸中の出版物を厳選して収め、また当然のことながら、占星術の本家本元である中東にも焦点を当て、ペルシャの本を複数採り上げています。」

…とのことで、これは相当期待が持てます。

構成は、「星図(Star Atlas)」、「異世界の地図を作る(Mapping other Worlds)」、「天文学と文化(Astronomy and Culture)」、「宇宙モデルの発展(Developping our Model of the Universe)」、「天文学の大衆化(Astronomy for Everyone)」、「現代の天文学(Modern Astronomy)」の全6章。

来たる4月刊行予定なので、まだしばらくはお預けですが、眺めるだけでも楽しそうだし、今後の購書の参考になる部分もきっとあるでしょう。アメリカのAmazonではすでに予約受付が始まっていましたが、日本のAmazonではまだデータベースに未登録なので、もう少し待ってから発注する予定です。なお、電子書籍も用意されていますが(こちらもリリース前です)、個人的には当然紙の本で眺めたいところ。