北の大地に太陽は黒く輝いた(2)2025年06月22日 06時21分03秒

前回の記事に掲げた表を見ると、北海道は日食の名産地のように思えますが、1936年(昭和11)以前に同地で見られた皆既日食は、さらに40年前の1896年(明治29)までさかのぼります(しかもこの時は悪天候に祟られて、ほとんど観測不能でした)。

のみならず、範囲を日本全土に広げても、この間皆既日食は見られませんでしたから(注1)、この1936年の日食は、列島の住人にとって40年ぶり、あるいはそれ以上に久しぶりの天文ショーだったわけです。

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当時発行された小冊子が手元にあります。


■東京朝日新聞社北海道販売局(編集・発行)
 『日食を見る―北海道観測記念』
 昭和11年7月7日印刷、同7月12日発行

写真主体のグラフ誌の体裁をとった、全16頁の薄い冊子です。
表紙のレタリングがいかにも洒落ていますね。


冒頭の「北海道日食観測陣」の紹介は、なかなか壮観です。

この日食には、東京天文台の7班を筆頭に、京都花山天文台(3班)、東京文理大(3班)、海軍水路部(2班)がそれぞれ複数の隊を派遣したほか、東大天文学教室、同・物理学教室、京大宇宙物理学教室、同・地球物理学教室、東北大天文学教室、同・物理学教室、東京工業大、広島文理大、北大医学部、海軍技術研究所、理化学研究所、海洋気象台、中央気象台、東京科学博物館、逓信省無線課、逓信省電気試験所、水沢緯度観測所、そして五藤光学研究所から各1隊が参加していました。

(当日の日食帯。北海道東北部、オホーツク海沿岸をなぞるように延びていました)

さらに海外に目を転ずれば、アメリカ、イギリス、オーストリア、ポーランド、チェコスロバキア、および中国の南京中山天文台と北平大学の観測隊がそれぞれ来日し、北の大地で黒い太陽を待ち設けたのでした。

「上斜里〔かみしゃり〕に於ける外人部隊の記念撮影」

(右上「雄武〔おうむ〕小学校の京大日食観測班」、右下「東北帝大班の松隈博士(小清水にて)」、他)

(右下「女満別〔めまんべつ〕で機械を点検する東京天文台の吉田技師」、左「女満別の早乙女班〔東京天文台〕大望遠鏡と田助手」、他)

この日、イギリス隊とポーランド隊を除き、各隊はおおむね観測に成功し、それぞれ詳細な報告書をまとめたはずですが、ここでは日食の学理面のことは割愛し、冊子を眺めて感じたことをメモしておきます。

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表紙をめくると、その裏は北海道の酒造メーカー「北の誉」の広告で、


裏表紙は、翌年、小樽で開催が予定されていた「北海道大博覧会」の予告、


そしてその裏(=裏表紙の裏)は「札幌三越」の広告になっています。

これを見て気づくのは、この1936年の時点では、日食イベントが商業主義としっかり結びついていたという事実です。もちろん科学的探究心や自然への畏怖心も、そこには当然あったわけですが、それに加えて皆既日食が、メディアが企業と組んで仕掛ける「お楽しみイベント」化した…というのが、前代とは異なる20世紀の特色ではないかと思います(巻末「付記」参照)。

まあ「お楽しみイベント」とはいっても、旅行会社の日食パックツアーはまだなかったと思いますが、冊子には女生徒の日食観測隊というのが紹介されています。

「京大山本一清博士夫人に引率された自由学園生徒の日食観測隊」

これなんかは日食ツアーのいわば「はしり」で、きっとリベラルで裕福な家庭のお嬢さんが、好奇心から参加したのでしょう(好奇心は大いに伸ばすべきですが、少なくともこの観測隊は学術研究を目的とはしていなかったはずです)。また下の「女満別小学校々庭のアマチュア観測陣」として紹介されている、学生・紳士の一団のうちにも、道外からの客がまじっていたと想像します。


と同時に、この間、北海道という土地も「秘境」の性格を薄めて、いわば急速に「世俗化」しつつあったんだろうなあ…とも思います。

今の北海道では鉄道がどんどん廃止されていますが、その総延長が最大に達したのは1966年(昭和41)で、その長さは4218.1kmでした。これを基準にすると、前回日食があった1896年の時点では、総延長333.6kmで、開通率は8%に過ぎません。しかしこの1936年になると、総延長は3732.7kmで、開通率はすでに88%に達しています(注2)。これによって人と物資の大量輸送が可能となり、北海道開拓は急速に進んだのです。

そうしたことを背景に、アイヌ習俗にも新たに「観光」のまなざしが注がれるようになったのでしょう。

「アイヌの日食祭」

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というようなことをつらつら思いつつ、でも1896年と1936年、明治と昭和の間の40年間で大きく変わったのはそれだけではないぞ…と思うので、そのことにも触れておきます。

(この項つづく)

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(注1) 過去に日本で見られた日食 http://star.gs/njkako/njkako.htm
(注2) 中岡良司 「建設期間年表による北海道の鉄道の発展過程」

(※)【2025.7.1付記】  6月28日の記事で採り上げた平山清次の文章には次の一節があり、私の印象を裏付けています。

 「今度の日食観測には幾分、御祭騒ぎといった気分もあった。殊に各新聞社が多数の記者を現地に派遣して、あらん限りの材料を集め、惜気もなく其為めに紙面を割いた事、沿線各町村が競ふて観測者を迎へ、出来る限りの好意と便宜とを尽したのは殆んど前代未聞の事であった。」

 ただし、平山は上の一文に続けて、「私は四年前にアメリカの日食観測に参加して其時の彼地の状況にも接したが、これ程の事はなかった。」とも書いているので、日食イベントの商業主義化は、当時の日本において一層著しかったかもしれません。

コメント

_ S.U ― 2025年06月30日 06時15分48秒

この貴重な資料を拝見して、ハッと思いました。それは、遠軽町派遣隊(花山天文台、東工大)の花山天文台が「高城武夫班」になっていることです。私は、勝手にこれを「山本一清班」だっただろうと思っていたのでした。そして、そこで、山本、草場、竹内(東工大)が出会ったとしていました(下の拙論の4節)。
https://seiten.mond.jp/gt69/kusaba_takeuchi.htm

しかし、実際は、山本一清はこの観測班には入っていません。本人は、同日、同じ日食のために西シベリアのオムスクに遠征していたからです。私もそれを知っていたはずですが、うっかりしていました。というのは、山本姓の人が遠軽町の観測班に入っていたからです。今回の御記事を読んで、それは山本夫人(山本英子)のことかと一瞬思いましたが、それもハズレではないようですが、実際は、子息の山本進氏が参加していたのです。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/241447/1/kwasan70years_42.pdf

ということで、私の記述は訂正を要しますが、一清と遠軽町観測班はもっとも密接に関係があり、草場修と竹内時男が参加していること、一清と竹内が同じ1936年に太陽に関する恒星社の講座本の出版をしたことは動かないので、大筋に影響はなしとしたいと思います。

 なお、私の推測では、1936年の北海道皆既日食は、竹内と草場の最初期の出会いであり、1943年の北海道皆既日食は、翌年、竹内が急逝していることから、最後期の出会いではなかったかと思います。

_ 玉青 ― 2025年07月01日 05時41分39秒

そういえばこの件、草場氏の動向にも絡む話だったのですね。ああいう片々とした情報も、こうして何かの役に立つこともあるので、やっぱり載せておいてよかったです。

ときに、貴重な文献をご紹介いただきありがとうございました。
私は山本進氏のことも、一清夫人である英子氏のことも全く存じ上げなかったのですが、進氏の文章を読むと、実に山本家は堂々たる天文一家だったのですね。早速『日本アマチュア天文史』を開いたら、清子氏のお名前が一か所出ており、そこには1932年当時、清子氏がOAA太陽課の幹事として、会員の黒点観測報告の取りまとめをされていたことが記されていました。上の記事で触れた、自由学園の生徒さんを引率して云々…というのも、そうした下地があってのことかと、改めて得心が行きました。

_ S.U ― 2025年07月01日 14時05分18秒

私の大正・昭和天文史のネタは、どれも概ね『天文古玩』さんから出発していますから、話が簡単に絡んでくるのは当然であります(笑)。

 これは、私も御ブログを読んでから見つけた情報でしたが、出典は以下のもののようです。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/241447

1943年2月5日の北海道日食について情報を集めたいと思っています。機会がありましたら、こちらもよろしくお願いいたします。

_ Linf ― 2025年07月01日 23時36分21秒

S.U様

ご存知かと思いますが、1943年2月5日の北海道日食については
国立天文台太陽観測科学プロジェクト三鷹太陽地上観測
https://solarwww.mtk.nao.ac.jp/jp/solarobs.html
「太陽の観測」 ->「皆既日食観測」から閲覧できます。

_ S.U ― 2025年07月02日 07時27分07秒

Linf様
ありがとうございます! これは存じませんでした。
東京天文台グループ、関口台長が行っていますね。
かなりの低空で、あまり条件は良くなったのですが、大勢行っていますね。戦時中のこともあり、貴重な国内の日食だったのでしょう。

詳細はまだ書けませんが、東工大の竹内時男は、釧路放送局で観測をしたという情報をいただいております。

_ 玉青 ― 2025年07月04日 05時35分37秒

Linfさんのおかげで、私の方は責をふさぐことが出来た格好ですね。どうもありがとうございました。それにしても1943年2月5日―。今、年表を繰ると、ちょうどこの2月初旬に、酸鼻を極めたガダルカナから撤退作戦が行われたそうですが、世相の隔たりという点では、1936年よりもある意味遠いものに感じられます。

ときに上の自分のコメントの中で、山本英子氏のお名前を「清子」と誤って書いています(それも2度までも)。たぶん夫君の「一清」と混線したのだと思いますが、山本家の皆様にお詫びいたします。これも夏バテのせいでしょうか。。。

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