クラウド・コレクターの肖像2026年06月23日 05時46分06秒

『雲の「発明」』(扶桑社、2007)は、だいぶ前に買ったのが、そのまま積ん読本の山の中に置かれていました。そもそもこの本を買ったのは、当時ルーク・ハワードに関心が向いていたからですが、しかし関心があっても、本というのはタイミングが合わないと、なかなか読めないものです。今回はちょうどよいタイミングでした。

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やっぱりその頃買ったのが、一昨日の「黒いもの」の正体です。


といって、別に奇をてらったものではなくて、中身はハワードの肖像を鋳込んだメダルです。ルーク・ハワードを身近に感じたくて、彼にちなむものを探していて見つけました。


このメダルは、1850年創設の英国王立気象学会が、創立50周年を記念して公式に発行したものです。

1864年没のハワードは、当時すでに鬼籍に入っていましたが、学会創設の折にはまだまだ達者でしたから、そこに彼の体温をほのかに感じます。そして、創立50年という節目に顕彰されるだけの価値を有する人物と見なされていたという点に、彼の功績の大きさを改めて実感します。


本の表紙と比べると、メダルの方が年齢を重ねた肖像のように見えます。
彼が雲の分類を最初に公にしたのは1802年、ちょうど30歳のときで、その後九十過ぎまで長寿を保ったので、容貌にもいろいろ変化があったことでしょう。


このメダルを鋳造したのは、英国王室御用達をつとめたワイオン工房で、別に御用達だからエライというわけではないにしろ、それだけ力こぶの入ったメダルですから、やっぱり貴重なものと言ってよいでしょう。


稀代のクラウド・コレクター、ルーク・ハワード。
思うに彼は、イギリスの王様以上に「雲上人」と呼ばれる資格があるんじゃないでしょうか。

雲を発明した人2026年06月21日 16時23分28秒

前回、雲についての本を紹介し、「層雲・積雲・巻雲」という名称に触れました。
この3分類を考案したのが、英国人ルーク・ハワード(Luke Howard、1772-1864)で、このところずっと彼の伝記を読んでいました。


■リチャード・ハンブリン(著)、小田川佳子(訳)
 雲の「発明」―気象学を創ったアマチュア科学者
 扶桑社、2007 (原著出版は 2001)

雲というのは古来、不定形なものの代表です。
その形は常に変化し、永続性もなく、どこからともなく現れて、どこへともなく消えていく存在です。そんなものに、果たして名前を付けることができるんだろうか?…と私なら思ってしまいます。

でも、ルーク・ハワードは紛れもなく天才だったので、実際にそれをやってのけました。それが「層雲・積雲・巻雲」の基本分類であり、そこに存在する高度差(低層・中層・高層)への注目でした。これは、あらゆる近代科学の根幹にある「現象の背後にある本質的要素を見抜く」ことの好例だと思います。

そして、この本が描くのは、単に一人の科学者の伝記にとどまらず、その背後にある雲の科学の長い前史と、18世紀末~19世紀初頭のイギリスの文化史的状況、すなわち科学の大衆化と、「娯楽としての科学」の爛熟です。後者については、天文学も似たような状況にあったので、そのことを考え合わせて大変興味深く読みました。

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時の利と地の利を得て、才能を開花させたルーク・ハワード。

もちろんハワード以前から、気温・気圧・風向・風力等の気象観測データの集積は始まっていましたが、そこには「天候そのもの」を記述する語彙が欠けていました。その最後のピースが埋まったことで、近代気象学は急速に発展を遂げたわけで、もし彼がいなかったら、気象学の歩みは今とはずいぶん違ったものになっていたでしょう。

(…と前置きした上で、本の右下に置かれた黒いものに注目してみます。この項つづく)

雲がおしえてくれること2026年06月13日 18時03分08秒

きょうは昼食をとって横になったら、そのままぐっすり眠ってしまいました。
目が覚めたらもう4時を回っていてビックリしました。
先週からいろいろあって、きっと疲れがたまっていたのでしょう。
でも、今の時期はそんな時刻でも、窓のむこうには明るい空が広がっていて、何だか得をしたような気分です。

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昨日、地平線上に入道雲を見ました。
おそらくもっと前から空に浮かんでいたのでしょうが、私がそれと意識したのは昨日が初めてです。その立派な姿に、本格的な夏の到来をはっきりと感じました。

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このまえ新聞の書評欄で見て、注文した本。


■レイチェル・カーソン(文)、ニッキ・マクルーア(絵)
 『雲がおしえてくれること』
 あすなろ書房、2026

千葉茂樹さんの訳で、監修を荒木健太郎さんがつとめています。

レイチェル・カーソンといえば、農薬の危険性を告発した『沈黙の春』(1962)で名をはせた海洋生物学者です。ナショナルトラスト運動に代表される、それまでのいくぶん審美的・情緒的な色合いの環境保護運動は、彼女によって新たなステージに入ったと言ってよく、もちろんその流れは今も続いています。

日本では、有吉佐和子さんの『複合汚染』を通じて、その名を広く知られました(今の目で見ると不正確な記述も目につきますが、1974~75年に朝日新聞で連載されたこの作品は、文字どおり小学生時代の私の心胆を寒からしめました)。

そのカーソンが雲をテーマにした文章を書き、それが最近になって絵本になった経緯は、本書のあとがき(「イラストレーターより」)に書かれています。

まだ『沈黙の春』が出る前のことですが、1956年にカーソンは若い視聴者の声にこたえて、「Something about the Sky」というテレビ番組の台本を書いたことがあります。そのことは長い間忘れられていたのですが、本書は新たに見つかったその台本をもとに作られました。


もちろん、この短い絵本で、雲のすべてを学ぶことはできません。
採り上げられているのも、層雲、積雲、巻雲の基本3分類だけです。
ただ、この絵本でカーソンが伝えようとするイメージは鮮明です。


彼女はこの世界に2つの海があること、すなわちひとつは水の海であり、もうひとつは空気の海であることを説きます。そして、空気の海で今何が起きているのか、それを海の底で暮らすわれわれに教えてくれるのが雲だ…というのが、海洋学者レイチェル・カーソンのメッセージです。温かい空気は多くの水蒸気を含んで上昇し、一定の高さで凝結した水滴は雨となって大地を潤し、水と空気のこの巨大な循環は、尽きることがない。彼女はそのことを詩情豊かに綴ります。

(本書巻末に登場する作画者の作業台の光景)

この美しい絵本は、主に切り絵で表現されているところが何となく日本的ですが(滝平二郎さんの本を思い出します)、作者はさらに日本産の和紙に墨を塗り、それをにじませ、ぼやかすことで空と雲の質感を表現しようとしており、その点もすぐれて日本的なものを感じます。

(本書カバーの袖より。「知ることは感じることの半分も重要ではない」と、カーソンは著書『センス・オブ・ワンダー』に記しました)

ゆき ゆき ゆき2026年01月29日 18時51分34秒

今宵も雪がちらついています。


たむらしげるさんによる福音館の「ちいさなかがくのとも」シリーズの一冊、『ゆき ゆき ゆき』(2011年)

「ちいさなかがくのとも」は、福音館の科学絵本の中ではいちばん小さい子(3~5歳)向けのシリーズです。それだけにごまかしがきかない、絵本作家にとっては手ごわい読者かもしれません。


たむらさんは、これから雪が降りだす鉛色の空と、いよいよそこから舞い落ちてきた雪の結晶を徐々にクローズアップする形で描き、それを見つめる男の子、雪の中をひたむきに飛ぶ白鳥、そして雪だるま作りの光景を配することで、雪の日の一日を描いています。


たむらさんといえば、透明感のある鮮やかな色使いがまず思い浮かびますが、ここではひたすら灰色の空と白い雪という、非常に抑制的な描写がされている点が印象的です。雪の日を虚心に描けば確かにモノクロームの世界ですし、それを客観的に描くことがすなわち科学的姿勢だという配慮があったのかもしれません。

ここに目を奪うような鮮やかさはありませんが、今日のような日に窓の外の世界を思い浮かべながら眺めていると、なんとなく静かな心持ちになります。

『雲の結晶 雪片のアルバム』2026年01月25日 13時00分54秒

ここ数日、日本海側は大変な雪です。
雪の少ない名古屋でも、今朝は白いものが舞っていました。今は青空が広がっていますが、白い雲がぐんぐん空を横切り、上空の風の強さを感じさせます。

雪国の苦労を思うと、雪を美しいと言うのは気が咎めますが、「雪月花」の名の通り、暖地の雪はやはり文芸的主題であり、情緒的鑑賞の対象です。より正確な言い方をすれば、雪は恐ろしいものであると同時に美しいものでもあり、時と所によって、その表情を変えるということでしょう。

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雪のことを考えていて、1冊の本を思い出しました。


■A Lday(編)
 Cloud Crystals: A Snow Flake Album.
 D. Appelton & Co. (NY)、1864.  158p.

「さる婦人」の手になるという触れ込みの匿名出版です。これは、その方がロマンチックな感じがして売れると見込んだ出版社の商策でしょう。実際に書いたのは男性かもしれません。

ふつうなら単に「雪の結晶」というところを「雲の結晶」と呼んだのは一工夫ですね。なるほど、言われてみれば、あれはたしかに雲の結晶です。

(タイトルページ)

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本書の内容は、雪に関する詩文集です。

(英国で学び、その後カナダに渡った気象学者、Charles Smallwood(1812-1873)が雪の結晶と電気の関係を論じた論文(下述)より)

冒頭には「雪の結晶形態とその形成途上における大気の電気状態の違い」や「雪の結晶の変容」といった科学的な文章も掲載されていますが、それはほんの付けたりで、あとはもっぱら雪に関する随想や詩といった文学作品からの引用で埋まっています。たとえば有名どころだと、バーンズとか、エマーソンとか、シェークスピア…等々。

(アメリカの文人、Ralph Hoyt(1806-1878)作、「雪:冬の素描」の冒頭)

嗜好としては、同時代のイギリスのヴィクトリア趣味に叶うものでしょうが、新大陸の著者たちが多く登場しているのがアメリカっぽいところです。


そして、文中に添えられた雪の結晶図こそが本書の見どころで、こうした石版刷りの図版が、口絵も含めて27枚収録されています。

これらがどこまで科学的に正確な図かはわかりません。
多分に描き手のアレンジが加わっている気もしますが、それでも天から届いた小さな宝石(雪や氷は科学的にも鉱物に分類される資格があります)に目を留め、ひたすらそれを描きつづけた「雪ごころ」は見事です。


本書が出たとき、雪の結晶写真で有名なWilson A. Bentley(1865-1931)はまだ生まれておらず、その出版はベントレーの有名な写真集『Snow Crystals』(1931)よりも70年近く先行します。雪の結晶をテーマにした本として、まずは古典といってよいでしょう。


そしてまた、編者の思いとは異なるかもしれませんが、これらの平面的で様式化された描写には、何となく日本情緒というか、雪華紋ブームに沸いた江戸時代の和書の趣があって、そこも個人的には気に入っています。

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余談ですが、古書の魅力は文字情報にとどまらない、モノそのものとしての魅力であることは言うまでもありません。今回、この本を久しぶりに手に取って、そのことを改めて感じました。



見返しに書かれたメッセージによると、この本は1867年2月20日、あるお父さんが愛嬢に誕生日のプレゼントとして贈ったものです。そしてその後、巡り巡ってセント・フェイス・スクールという学校の蔵書になったことが、蔵書票から分かります。


お父さんからもらったプレゼントを、娘さんは古本屋に売っ払っちゃったのかな?…と最初思いましたが、先ほど検索したら、贈られたエレノア・A・シャッケルフォードさんは、セント・フェイス・スクールの創立者その人でした。彼女はお父さんから受けた愛情を、今度は愛する生徒たちに分け与えたわけです。まことにうるわしい話です。

エレノアさん(Eleanor Anastasia Shackelford、1853-1925)については、この名前で検索するといくつか情報が出てきます。彼女は1890年、ニューヨーク州サラトガの町にセント・フェイス女子学校を創設し(最初の生徒は3人ないし9人でした)、長く校長を務めた人です。彼女のお父さん、すなわちこの本の贈り主は、聖公会(アングリカン・チャーチ)に属する同地の牧師、ジョン・シャッケルフォード博士で、同校は1919年に聖公会管区の正式な学校として認可された由。

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1冊の美しい本と、その背後に秘められた歴史。
私の手の中に、今それがあります。

洛中の夏2024年08月07日 05時58分45秒

毎日「暑い暑い」と言いながら、昔読んだ印象的な文章が頭をかすめました。

最初、予備校の現代文のテキストで読んだと思うんですが、いろいろ記憶をたどるうちに、仏文学者で評論家の杉本秀太郎氏(1931-2015)が書いたものと気づき、氏のエッセイ集『洛中生息』の中に、それを見つけました。ちくま文庫版だと169頁から始まっている「夏涼の法」という文章です。以下はその一節(太字は引用者)。

 「友人が冷暖房自在の家を、京都の南郊に建てた。暑いあいだも仕事が捗るだろうと想像されて、悪くないな、と私は思ったものだ。〔…〕新しい家での夏も、ようやく半ばという頃、その友人は、出会うなりさっそく、こんなことをいった。
 ――やっぱり夏はああ暑う、あついなあ、いうて、なにもせんと、ひっくり返ってるのがええわ。夏は暑がってるのが文化いうもんや。君がうらやましいわ。
 クーラーを使ってはいない私の苦笑もかまわず、彼はつづけて、東京の文化人のように別荘避暑地というものをもつ習性のないことを京都人の長所として指摘し、別荘避暑地代りに工夫された町なかの夏の年中行事を称賛するのであった。」

予備校生だった私は、この杉本氏の友人の言葉にいたく共感し、その後も折々反芻していました。当の杉本氏にしても、氏は先祖伝来の古い町家に住み、京の伝統文化を称揚する立場でしたから、苦笑しつつも、この友人の言葉に大いに頷くものがあったでしょう。

(祇園祭を迎えた杉本邸のしつらえ。出典:西川孟(写真)・杉本秀太郎(文)・中村利則(解説)『京の町家』、淡交社、1992)

しかし温暖化が進み、暑いうえにも暑くなった今の京都で、これが依然通用するものかどうか? 「あついなあ、いうて、なにもせんと、ひっくり返ってる」うちに、本当にひっくり返ってしまうんじゃないか、そして命をも奪われてしまうんじゃないか…という懸念なきにしもあらず。

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上の杉本氏の文章は、最初、雑誌「きょうと」72号(1973年7月)に発表されたものです。つまりほぼ半世紀前。

ここで気象庁のデータをもとに、過去の京都の気温を振り返ってみます。
下は1890年から1970年までは10年ごとに、1970年以降は5年ごとに京都市の7月の気温を拾ったものです(最後に2024年の値も入れました)。

指標となっているのは、7月の平均気温(日平均)、平均最高気温(日最高)、平均最低気温(日最低)、月間最高気温(最高)、月間最低気温(最低)の5つです。なお、上記のように横軸は時間間隔が揃ってないので、グラフの傾きを見る際は注意してください。



このグラフを見て、ただちに気づくことが3つあります。

1つ目は、温暖化と言いながら、明治のころから2020年まで、意外に気温は変わってないということです。昔の京都も、やっぱり今と同様に酷暑で、都人は耐え難い暑さと戦っていたことが分かります。

2つ目は、そうは言いつつも、各指標の中で月間最低気温だけは、顕著な上昇を示していることです。昔の京都は、7月にも肌寒さを感じるような冷涼な朝が折々ありました。今はそれがなくなった…というのが、たぶん肌感覚上の大きな違いで、京都の暑さが増しているという印象を生む原因ともなってるんじゃないでしょうか。


そして3つ目は、今年の暑さはやっぱり異常だということです。あらゆる指標がぴょこんと異常な値を示しています。こうなると、「あついなあ」とひっくり返っているだけではとても間に合わず、伝統文化も旗色が悪いです。

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来年には異常値から平常に復して、また伝統文化を楽しめればと思いますが、仮にこういう夏が今後増えていくのだとしたら、これはもう新たな文化を創出するほかなく、京都の人にはみやびな「新・夏涼の法」を編み出していただき、他の範となってほしいと思います。

(杉本邸の露地庭。出典同上)

当たるや当たらざるや2024年02月18日 13時17分44秒

(昨日のおまけ)

近代的な天気予報は天気図を元に行われるものなので、ことの順序として天気図が先、天気予報が後ということになります。

(1910年9月3日の欧州天気図)

日本の場合、最初の天気図は1883年(明治16年)2月に作られましたが、最初の天気予報のほうは1年遅れの1884年(明治17年)の6月1日から始まっています。(この日は、気象庁の前身、東京気象台がオープンした日でもあり、6月1日は気象記念日になっています。今年は気象庁開設140年&天気予報スタート140年の節目の年です。)

その1884年6月1日の「天気予報 第1号」は、「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ但シ雨天勝チ」という、日本全国の天気を一文で表現したもので、あまりにもふわっとしていることから、時に笑いのネタになったりもします。

でも、【参考】に掲げた渡辺氏の論文によれば、1880年代は、まだ欧米でも天気予報は技術的発展途上にあり、海運上の必要性が高かった暴風警報こそ実用域に入りつつあったものの、晴雨予報の方は前途遼遠でしたから、これはあまり責められないと思います。(「天気予報は当たらないもの」というのは、明治に限らず、戦後も長く言われ続けてきたことで、河豚の毒よけのまじないに、「気象庁、気象庁」と唱える…なんていう話もありました。)

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さて、昨日の『気象略報』は、まさに天気予報が始まった年のデータを収めた本なので、問題の6月以降、その「警報及予報ノ適否」も掲げています。いわば気象台の自己採点結果です。


その6月の項を見てみます。
当時は1日3回天気予報を発表していたので、6月1か月間で延べ90回の予報が出されました。その適否について述べたのが以下。


予報九十回ノ中
 風   正中   偏中   不中
     七五   一三   二
 天気 七六   一三   一
右偏中ノ数ヲ折半シ正中不中ニ各一半ヲ加ヘ
以テ適否ノ百分比例ヲ得乃チ左ノ如シ
 風   八七
 天気 八五
 平均 八六

正中とは「予報的中」、偏中は「部分的中」、不中は「予報失敗」のことでしょう。
理解の便のために対応する英語の方も挙げておきます。

Indications were issued 90 times.
The indications     for wind     weather
were justified        75                76              times
partly  〃              13                13              〃
not      〃          2                  1              〃
Adding one half of the partly justified indications to the successes, one half to the   failures,  percentage of verifications was 
for wind 87%, weather 85%, mean 86%.

それにしても、最初の天気予報の的中率が85%(風予報も含めると86%)というのは驚くべき数字(※)ですが、「正中」といい、「偏中」といっても、その定義がどこにも書かれてないので、この数字の妥当性については何とも言えません。そもそもが「ふわっとした」予報なので、まあ大抵は当たったのでしょう。

参考までに7月以降の的中率も、気象台の自己採点結果を挙げておきます。
数字は左から風予報の的中率、天気予報の的中率、平均的中率です。

 7月 93% 88% 90%
 8月 89% 88% 88%
 9月 87% 85% 86%
10月 85% 81% 83%
11月 86% 87% 86%
12月 86% 86% 86%

ちなみに今の気象庁も、天気予報の精度検証の結果を公表しています。
たとえば降水の適中率―地方予報区単位で、明日の予報(降水の有無)がどれぐらい当たったか―を見ると、1992年~2023年の全国平均で83%となっています。

明治の頃は全国を単位とした予報であり、予報のインターバルも「8時間後の天気」だったので、直接の比較はできないにしろ、数字だけ見ると、あまり明治の頃と変わりがないですね。

最近は雨雲レーダーのおかげで、「あと20分後に雨が降り出し、1時間後にはやむ」みたいなことは非常に正確に分かるようになりましたけれど、天気の予測は今でもなかなか難事で、量子コンピューターの実用化までは、たぶんこんな感じでしょう。

【参考】

■気象庁の歴史(気象庁公式ページ) 
 ①御雇外人からの気象観測の建議、②気象器械・地震計の据付けと観測の開始、③ 天気予報と天気図、④組織の変遷、沿革

■渡辺和夫
 天気予報の歴史―その方法と技術の変遷―
 「天気」vol.2 No.7(1955年7月)


(※)ところで、この計算って合ってますかね?偏中(13回)の半分を正中(75回)に加えると、75+6.5=81.5 になって、分母90で割り返すと、的中率は91%になると思うんですが。

気象学の夜明け2024年02月17日 16時26分15秒

(昨日のつづき)

明治16年(1883)の天気図は残念ながらありませんが、その翌年に作られた天気図なら手元にあります。


■明治十七年気象略報/月別平均/四十一図
 日本東京/内務省地理局気象台

正確に言うと、これはいわゆる天気図(=ある特定時点における気圧・天候・風速のチャート図)ではなくて、明治17年の気象データを、主に1月から12月までの月別に、41枚の図を使って表現したものです。本書には奥付ページがないので、詳しい書誌は不明ですが、出版されたのは翌・明治18年(1885年)のことでしょう。

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具体的にどんな図が載っているかというと、たとえば第1図はこんな感じです。



表題は「天気図/明治十七年一月中低気圧部位ノ中心線路」
これは1884年1月中に観測された低気圧の中心部がどのように移動したか、その経路を図示したものです。

(日本の気象観測はドイツ人学者の手引きで始まったそうですが、本書はすべて英語併記になっています)

右側の説明を読むと、この月には計8個の低気圧が日本列島を移動しています。
その最初のものが、「四日九州ノ西ニ発生シテ日本南部ヲ経過シ五日ニ太平洋ニテ消失ス 晴雨計最低度七百六十五ミリメートル」というもので、ローマ数字の「Ⅰ」とナンバリングされています。(なお、当時の気圧の単位は「水銀柱ミリメートル(mmHg)」で、これに1.333を掛けると現在の「ヘクトパスカル(hPa)」になります。すなわち765mmHg=1019hPaです。) 

こうしてⅠ~Ⅷの符号がついた低気圧の経路を、日本地図に重ねたものが左側の図です。

(左側の図を一部拡大)

小円の中の数字は気圧(mmHg)で、その脇の数字は日付、さらにその下の「1~3」の数字は、それぞれ6時、14時、22時に観測された値であることを示します。

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この調子で、本書には以下の計41図が収録されています。

(1)「天気図/明治十七年○月中低気圧部位ノ中心線路」

明治17年の各月の低気圧中心の移動経路図です。1月、2月、3月…の計12図。
上に示したのが、その1月の図でしたが、9月の図はこんな感じです。


九州から関東を通過した低気圧「Ⅲ」は、最低気圧737mmHg(982hPa)を記録しており、速度を上げながら本州を横切る様子からも、明らかに台風ですね。

(2)「天気図/明治十七年○月中高気圧部位ノ中心線路」

同じく高気圧中心の移動経路図で、1月、2月、3月…の計12図。

(3)「天気図/明治十七年○月」

凡例には「同圧線、同温線、及ヒ例風」とあって、今風にいえば各月の平均等圧線、平均等温線、各地の卓越風の風向を1枚の図に落とし込んだものです。1月、2月、3月…の計12図。

(5月の図。実線が等圧線、破線が等温線です)

なお、平均気圧を求めるため、各測候所では1日3回、6時と14時と21時(5月以前は22時)に計測を行い、それを1か月分積み上げて平均を出しています。また各地のデータを相互に比較可能とするため、実測値をウイルド(Wild)氏の表をもとに気温0度・海抜0mの値に変換しています。

(4)「天気図/明治十七年同圧線及同温線」

上記(3)のデータを1年分積み上げた年間の平均等圧線・等温線図です。全1図。なお本図には卓越風の記載がありません。風向は季節によってガラッと変わるので、平均する意味がないからでしょう。

(5)「明治十七年/雨量」

各月の総雨量の分布図です。1枚の図版に月別の小図が4点印刷されているので、図版数としては「1~4月」、「5~8月」、「9~12月」の計3図から成ります。

(「5~8月」の図)

(6)「天気図/明治十七年雨量」

こちらは(5)のデータを積み上げた年間総雨量の分布図です。全1図。


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この労作を生み出したのが、外地も含めて26か所に開設された以下の測候所群です。


日本の気象学と気象観測の黎明期。
俗に「雲をつかむような話」と言いますが、当時の人がどれほど真剣に雲をつかもうとしていたか。実際、そこに渦巻くエネルギーは大変なものだったはずで、そのことが今の私にはとてもまぶしく感じられます。

天気図の誕生2024年02月16日 19時04分02秒

今日は明確に春を感じました。
日の光が明るいことに加え、「風は冷たいのに寒くない」という感覚が妙に新鮮で、思わず春だなあ…と心の内で呟きました。週明けの19日は二十四節気の「雨水(うすい)」で、さらに2週間もすれば、いよいよ「啓蟄」です。

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私の職場のエレベーターは、ディスプレイに「今日は何の日」という豆知識が表示されるのですが、今日2月16日は「天気図記念日」だと表示されて、ほほうと思いました。

そこには、1883(明治16)年のこの日、ドイツ人の気象学者エリヴィン・クニッピングの指導のもと、7色刷りの日本初の天気図が作成された…ともありました。7色刷りとはまた豪華ですが、実物はどんなものだったのか気になります。

でも、ネット情報を拾い読みすると、
「最初の気象電報が送信された2月16日以降、2月中は天気図作製の試行期間だったため、残念ながら天気図は現存していません。
同年3月1日からは午前6時の天気図が正式に発行・印刷されるようになり、今も当時の天気図が残されています。」(※)
とあって、現存するのは同年3月1日付以降のものだそうです。

(※)日本の天気図の歴史
   江波山気象館 メールマガジン「お天気かわらばん」2017年2月号

この3月1日の天気図はネット上ですぐに見ることができます。


■股野宏志
 気象庁に現存する日本最古の天気図

股野氏の一文を読むと、
「現在のように、国際協力の下、各国の気象機関(日本は気象庁)が世界各地の観測資料を即時的に集めて天気図を描いて天気予報を行う業務形態の原型を確立したのはフランスのルヴェリエ(海王星の存在を理論的に予言した天文学者)で、彼の提言を実施したフランスは政府が天気図を発行する最初の国となった(1863)。」
と、思わぬところでルヴェリエの名に出くわし、再び驚きました、

それにしても、予報業務を前提に作られた「世界最初の天気図」(1863)から「日本最初の天気図」(1883)の誕生まで20年間―。

これを早いと見るか、遅いと見るか?
まあ、人によって意見の分かれるところでしょうが、個人的にはずいぶん早いと感じます。何しろ天気図の作成というのは、瀟洒な洋館の建設とか、鉄道の敷設のような派手な打ち上げ花火では済まないことで、全国的な気象観測網の設置はもちろん、それを支える技術者の養成体制や、観測記録を即座に報告できる電信網の確立といった、ひとつひとつが大層骨の折れる事業を総合した上に成り立っていると思うからです。

そうしたものが何もないところから、20年間でそれを成し遂げたというのは、明治の人が相当がんばった証拠で、まことに天晴れです。

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さて、これだけだと他人のふんどしで終わってしまいますが、手元にも興味深い品があったのを思い出し、次にそれを一瞥してみます。

(この項つづく)

元旦地震2024年01月02日 12時09分59秒

御屠蘇気分で呑気なことを書いたら、そのすぐ後に地震が襲ってきました。
時の経過とともに被害の様子が明らかとなり、大変な年明けとなりました。
まずもって被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。

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ことわざに「一年の計は元旦にあり」と言いますが、それはもっぱら人間のふるまいについて言うことであって、地震は人間の都合なぞ顧みることなく、まさに時知らず…と書きかけて、「ちょっと待てよ」と思いました。何か以前、それについて話題にした気がしたからです。

過去記事をさかのぼると、それは2017年のことでした。


■海洋気象台、地震に立ち向かう(その3)

上の過去記事は、1923年の関東大震災の際、神戸海洋気象台のスタッフが実地踏査も踏まえてまとめた以下の報文について、前後3回にわたって紹介したものです。


■K. Suda:  On the Great Japansese Earthquake of September 1st, 1923.
 (須田皖次、『1923年9月1日の日本大震災について』)

拙文を引くと、記事中以下の文章が出てきます。

「著者の須田は、さらに地震の成因論についても筆を進め、それを主要な(principal)要因と、副次的・偶発的な(occasional)要因に分けて論じています。

前者については、地下での歪みの段階的蓄積と、それが相対的に弱い部位で解放されるという、地震の基礎的な理解に関わるもので、最初に掲げた地質図を議論の足掛かりとしています。

後者は、地震の直接的な「引き金」となる要因に関する所論で、地磁気や他の天体の影響、あるいは潮位や気圧の変化に言及していますが、いかにも気象台らしく、特に最後の2つ、すなわち潮位変化と気圧変化については、データを元に詳しい検討を加えています。(天体の影響が気になりますが、それについては、同時代の寺田寅彦が太陽活動と地震の関係について論じている事実に触れている程度です。)」

ここに季節や暦のことは出てきませんが、気圧という気象条件の変化が、地震の引き金になりうるのでは…という当時(大正時代)の考えが顔をのぞかせています。これは一種の検証仮説で、一つの地震のデータから何か結論めいたことが言えるわけではないでしょうが、こうした仮説がその後どうなったかが気になりました。

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手元で検索すると、すぐに以下の論文が見つかりました。

■岡田 正実
 日本付近の大地震発生の季節変動と地域性
 地震(第2輯)35 巻(1982)1 号、pp.53-64.

岡田氏は当時気象庁海洋課勤務で、のちに同庁地磁気観測所長を務められた方です。これとても40年以上前に発表されたものですから、現在の地震学のスタンダードに照らしてどうなのか、門外漢には不明ですが、プレートテクトニクス理論に基づく新しい地震学を背景にした比較的近時の論として、その知見に耳を傾けてみます。

それによると、過去の地震のデータから、地震には確かに季節変動性が認められる…というのが、岡田氏の結論です。ただし、その様相は単純ではありません。そこには明瞭な地域差があって、内陸部では春~夏に多く、太平洋側では北海道~三陸沖の親潮域では春に、そして宮城県沖~南海道の黒潮域では秋~冬に多い傾向が認められるといいます。

そうした変動の原因として、内陸部では、降水や融雪による地下水の増加が、断層部の摩擦力低下を生み、それが地震発生の引き金として作用している可能性があり、また海底で発生する地震に関しては、大陸プレートと海洋プレートの荷重変動がその主因であり、そこに最も影響するものとして、潮位低下や陸水減少による大陸プレートへの荷重減少を岡田氏は推測しています(この場合も摩擦力の減少――ここではプレート間の摩擦力の減少――が、地震の直接の引き金となるわけです)。

後段のメカニズムに関する部分は、もちろん推測の域を出ないにしろ、前段の季節的変動の存在の指摘は、過去のデータが物語る事実ですから、地震は決して「時知らず」ではなく、時を心得ていることになるのでしょう。

なお、岡田論文では、能登半島周辺、あるいはさらに広く日本海側の地震については、データが少ないことから分析・言及の対象にしていません。能登半島はもともと地震の少ない土地と思われていた気配がありますが、1993年の能登半島沖地震以降、大きな地震が立て続けに襲ったことで、地震好発地のイメージに転じた感があります。

 能登半島沖地震 1993年2月7日
 能登半島地震 2007年3月25日
 令和5年奥能登地震 2023年5月5日
 令和6年能登半島地震 2024年1月1日

こうしてみると同地域の最近の地震は、なんとなく冬~春に多いように見えますが、そこに何か理由があるのかどうか、素人がウロンな妄説を唱えるのはよろしくないので、ここは専門家の考証を待ちたいと思います。

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地震ありし 海のしきりに 稲妻す  原田杉花