龍珠の伝言2023年07月27日 19時45分48秒

澁澤龍彦の『高丘親王航海記』
その見開きには、澁澤自身が描いた地図が印刷されています。


この図と、先にeBayで見た地図との類似に刮目しつつ、やっぱりあれは高丘親王の地図だったなあ…と改めて思いました。


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この作品はさほど長いものではありません。
雑誌「文學界」誌上で、昭和60年11月号(1985)から連載が始まり、昭和62年6月号(1987)で全7章が完結。同年10月に単行本化されました。
その間、昭和62年8月5日に澁澤龍彦は没し、本作が彼の遺作となりました。

この首尾が整っているような、整っていないような、全編が夢の中にあるような作品の中で、親王の乗った船は、ついにセイロン島のすぐ手前までたどり着きます。しかし、魔の海域に阻まれ、暴風で船が吹き戻された結果、親王は最後にマレー半島で虎に喰われて客死します。

といっても、不遇の死ではありません。
同地の虎は、空を飛ぶように天竺との間を往復していると聞かされた親王は、自ら虎に喰われることで、虎の肉体と一体化して天竺に渡ろうと計ったのです。その願いが叶い、親王の血に濡れた骨が山野に散らばっている上を、その身辺に仕えた侍童が、人面鳥身の迦陵頻伽と化して、親王の名を叫びながら天竺に飛び去る…という哀切な場面で全編は終わっています。

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親王にとって、天竺行は求法の旅のようでありながら、その実、父・平城帝の愛人にして、親王にとっては永遠の女性だった藤原薬子への思慕を遂げるためのものであったことが、作中繰り返し描かれています。

そして、藤原薬子を象徴するものとして登場するのが「珠」です。
本作は、珠を仲立ちにして母なる存在と合一するというテーマを描きつつ、そこに鮮血のイメージや、どこまでも続く海原といった「母なるもの」の象徴が幾重にも重なっています。私はそこからさらに謡曲「海士(あま)」を連想し、「海士」を愛した稲垣足穂のことも思い浮かべますが、そこまで行くとさすがに過剰解釈のそしりを免れないでしょう。でも、気になるイメージなので、こうしてブログの隅に書いておきます。


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作者とその作品を混同することは厳に慎まねばなりませんが、この場合、真珠を呑んで病を得た高丘親王が、咽頭がんに罹り「呑珠庵」と号した澁澤の分身であることは疑いようがなく、両者が死の間際に見たヴィジョンもまた共通するところが多いように思います。

そういえば、作家・澁澤龍彦の最初期の作品が「マドンナの真珠」(1959)であったことも、不思議といえば不思議なめぐりあわせです。

黒い帽子をかぶった人の思い出2023年06月28日 07時51分02秒

足穂イベントの余話。

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あの日の午後、まだ会場を訪ねるには時間が早かったので、私は近くでゆっくりコーヒーを飲んでいました。そこはアンティークショップに併設されたカフェで、とても落ち着ける場所でしたが、店内を見回しているうちに、何となく見たことのある人が立っているのに気づきました。

あれ?と思いましたが、それはやっぱり賢治さんでした。
私は賢治さんに声をかけ、自分のテーブルに招じると、今日のイベントのことやら何やらいろいろ話しかけました。賢治さんは静かにそれを聞いていましたが、私が「どう、賢治さんも一緒に行かない?」と尋ねると、「ええ、喜んで」と即答したので、私は賢治さんと連れ立って店を出ました。

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…というのは、もちろん私の脳内のお話です。
件のアンティークショップは、主にレストアした古い家具を商うお店のようでしたが、それ以外にも古物が店内のあちこちに置かれていて、そこで古いボーラーハットを見つけたというのが、現実世界で起きた出来事です。


でもそれを見た瞬間、私が賢治さんのことを思い出し、賢治さんと連れ立って出かけるつもりで、それを買い求めたことは事実です。何せ場所は京都、時は六月、そして足穂に会いに行く直前ですから、気分の高揚ついでに、そんな酔狂な真似をするのもむべなるかな…といったところです。


その帽子は、今こうして部屋の隅に置かれています。
ボーラーハットは別に賢治さんの専売特許ではありませんが、私にとってこれは賢治さん以外のものではありえません。

私が実際にこれをかぶって町を歩いたり、下の畑を見に行ったりするかは不明ですが(照れ臭いのでたぶんしないでしょう)、これを見る度に、一緒に足穂に会いに行った懐かしい(そう、それはすでに懐かしさのうちにあります)思い出がよみがえることでしょう。

六月の夜の都会の空の下で2023年06月25日 21時41分11秒

例の足穂イベントに参加するため、京都に行ってきました。
私は足穂の熱心なファンというわけではありませんが、その作品世界に感化された者として、一人のファンを名乗ってもバチは当たらないでしょう。そして、世間には他にも大勢の足穂ファンがいることを知っており、それらの人々が語る言葉や、足穂に影響された作品を、本や雑誌やネットを通じて、これまで繰り返し見聞きしてきました。

しかし、生身の足穂ファンを私はこれまで見たことがありませんでした。
つまり、眼前で「足穂が好きです」と公言し、足穂について語るような人には、ついぞ出会ったことがないのです。

でも今回京都に行って、生身の足穂ファンが大勢居並ぶ光景に接し、一種名状しがたい感銘を受けました。私にとって、それはすぐれて非現実的・非日常的な光景であり、そのことだけでも、京都に行った甲斐がありました。

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四条烏丸と四条河原町の中間点、富小路通りを少し南に折れたところにある徳正寺さんが、今回の会場です。


京都の古いお寺ですから、当然のごとく坪庭があったりします。
そんな風情ある建物の中で、まずは足穂ゆかりの品々を拝見しました。


左上に掛かっているのは、足穂のあまりにも有名なフレーズ「地上とは思い出ならずや」の短冊。そして右手のイーゼルには足穂の肉筆画、中央の白い棚には、足穂が手ずから作ったオブジェ「王と王妃」をはじめ、遺品の数々が並んでいました。

(白い棚に鎮座する鼻眼鏡)


さらに床の間の前には、戸田勝久氏や中川ユウヰチ氏をはじめ、足穂にインスパイアされた方々の作品が、月光百貨店主・星野時環さんのセレクトによって展示されていました。


隣の部屋には、足穂の初版本がずらり。


いずれも足穂研究家の古多仁昂志氏による多年の蒐集にかかるものです。

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大いなる眼福を得た後、いよいよ本堂でイベントが始まります。


第1部は「『一千一秒物語』100年の記憶」と題した座談会形式のトーク。
テーブルを囲むのは、左端から司会の溝渕眞一郎氏(喜多ギャラリー)、マスク姿の未谷おと氏(ダンセイニ研究家)、中野裕介氏(京都精華大学)、マイクを持つあがた森魚氏、季村敏夫氏(詩人)、そして古多仁昂志氏の面々。


人々が足穂を熱く語る本堂の天井では、蓮の花のシャンデリアが鈍い光を放ち、ここがあたかも浄土であるかのようです。


そして第2部は、あがた森魚さんのコンサート、「宇宙的郷愁を唄う」
これぞ音楽による足穂讃嘆の法会で、聴衆はそれに唱和する大衆(だいしゅ)です。

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今回の催しは、繰り返し述べるように、『一千一秒物語』刊行100周年を記念するものです。そして古多仁さんやあがた森魚さんは、その中間地点である50年前、まだ足穂その人が生きていた時代の鮮やかな記憶を、人々に語ってくださいました。

参加者の中には、ずいぶんと年若い方もいたのですが、たぶん昨夜の出来事は永く記憶にとどまり、足穂という存在をしっかり心に刻んだことでしょう。…こう言うとなんだか戦争体験の継承みたいですが、でも生きた体験を伝えるという意味では、両者の間には何の違いもありません。

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すべてのイベントが終わり、会場を後にしたとき、京都の町を見下ろすように月が電線に引っかかっているのが見え、私は「ああ、足穂だな…」と心からの満足を覚えたのでした。

京都、足穂の夕べに向けて2023年06月22日 17時43分36秒

『一千一秒物語』 出版100周年のイベントが明後日に迫りました【LINK】。
(席の方はまだ余裕があると伺いました。ひょっとして当日飛び込みも可?)

私は一オーディエンスとして参加するに過ぎませんが、何か足穂にちなむものがあればご持参ください…と、主催者の方に言われたので、かさばらないものを持っていこうと思います。


まずは「ポケットの中のタルホ世界」である、タルホの匣は欠かせません。
それに様々な時代と国の彗星マッチラベル。
あるいは、足穂本の表紙を飾ったシルクハット男と三日月のモデルかもしれない(もしモデルでないとすれば、その絵柄の一致こそ驚くべきものです)シガーボックスラベル。

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そしてもう一つ、さっき思い付いた「もの」と「こと」があります。

今回のイベントは、あがた森魚さんの音楽や、足穂の貴重なレリクスに接することのできる機会ということで、「聴覚的」あるいは「視覚的足穂像」には事欠きません。そこにさらに「嗅覚的足穂像」を付け加えるというのはどうでしょう?

以前紹介した【LINK】ステッドラー社の菫色のコッピ―鉛筆。
あれを、同じくステッドラーの鉛筆削りでカリカリ削ってみたら?


私もまだ試したことはないんですが、そうすれば、かつて少年・足穂の鼻腔を満たし、そのイマジネーションを刺激した「バヴァリアの香り高い針葉樹の甘い匂い」が馥郁と漂うでしょう。そして御焼香よろしく、参加者の皆さんにも自由に鉛筆を削ってもらったら、その献香の功により、足穂その人がふと会場に姿を見せる可能性だって、なくはないでしょう。

そんなことを夢想しながら、鉛筆と鉛筆削りを筐底に忍ばせていきます。

心のなかの神戸へ2023年06月11日 17時58分43秒

京都での足穂イベントに無事参加できることになり、今からワクワクです。
そして同時に、6人の作家によるオマージュ展「TARUHO《地上とは思い出ならずや》」が、神戸で開催中であることを知りました。


■稲垣足穂オマージュ展「TARUHO《地上とは思い出ならずや》」
○会期: 2023年6月4日〜25日 13:00〜18:00(休館日:水木)
○会場: ギャラリーロイユ
     (兵庫県神戸市中央区北長狭通3-2-10 キダビル2階)
○出品作家
 内林武史、大月雄二郎、桑原弘明、建石修志、鳩山郁子、まりの・るうにい
○料金: 無料

実に錚々たる顔ぶれですね。
京都に行くついでに、何とかハシゴ出来ないかと一瞬思いましたが、やっぱり無理っぽいので、こちらは涙を飲みます。

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しかし神戸はやっぱりいいです。
今、本棚に1冊の美しい画集があります。


■『画集・神戸百景~川西英が愛した風景』
 (発行)シーズ・プランニング、(発売)星雲社、2008


港を望む異人館の並ぶ神戸。


海洋気象台とモダン寺(本願寺神戸別院)がそびえる神戸。

版画家の川西 英(1894-1965)が描く神戸は、どこまでも明るく、屈託がありません。タルホチックな、いつも夕暮れと夜の闇に沈んでいる不思議な神戸もいいのですが、こうした子どもの笑顔が似合う神戸もまた好いです。いずれにしても、神戸はいつだってハイカラで、人々の夢を誘う町です。


画集の隅に載っているのは、戦前の神戸で発行されたメダル。
円い画面の中に海があり、カモメが飛び、街並みが続き、その向こうに六甲の山がそびえています。直径35ミリという小さな「窓」の向こうに、広々とした世界が広がっていることの不思議。


このメダルは皇紀2595年、すなわち1935年(昭和10)に「みなとの祭」体育会が開かれた折の記念メダルです。「みなとの祭」は、現在の「みなとまつり」ではなしに、系譜的には「神戸まつり」に連なるもので、その前身のひとつ。第1回は1933年に開催されました。


こちらも「みなとの祭」にちなむ、戦前~戦後のエフェメラ。下のバス記念乗車券は、川西英さんのデザインっぽいですが、違うかもしれません。

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上の品々は、ちょうど10年前、長野まゆみさんの『天体議会』の舞台を神戸に見立てて、いろいろ考察していた頃(それは中途半端な試みに終わりましたが)、「第3章 変わり玉」で描かれる「開港式典」の雰囲気を偲ぶために入手したものです。

 「翌日は開港式の当日で、街の中にはいつもと違うざわめきが溢れた。学校は休みになり、満艦飾の汽船が次々と入港して埠頭を賑わした。昨日来の雨は気象台の予報どおりに明け方にはやみ、おかげで碧天(あおぞら)は透徹(すきとお)るような菫色をして目に沁みた。」

 「式典の晴れがましい雰囲気に煽られてか、誰しもが常より昂ぶって喋る結果として、銅貨はめまぐるしい喧騒に包まれ、人波に押し流されて歩いていた。しまいに渦を巻く人々のうねりからはじき飛ばされ、埠頭に建つ真四角な積出倉庫の壁にもたれて、ざわめきに身をゆだねていた。」

 「毎年、劇場(テアトル)では開港式典の行事として演奏会などが催され、学校からも音楽部の生徒たちが参加することになっていた。なかでも鷹彦の独唱(ソプラノ)の入る合唱曲はかなりの聴きものだ。銅貨や水蓮も、毎年欠かさず入場券(チケ)を買っており、今年も早々と席を確保していたのだ。」

主人公たちの目に映った、明るい喧騒に満ちたカラフルな港の光景。
そして音楽会ではなく体育会ですが、作中のムードをこんな乗車券(チケ)やメダルに託して偲んでみようと思ったことを、今こうして10年ぶりに思い出しました。

追記:足穂 in 京都2023年06月10日 12時28分52秒

先ほどの記事で触れた、『一千一秒物語』100周年についてコメントをいただいた、Nowhere☆club さんからは、来る6月24日に京都で行われる記念イベントについても、お知らせをいただきました。

■一千一秒物語~100th Memorial, 1923-2023~
 あがた森魚☆宇宙的郷愁を唄う

京都下京のお寺で、あがた森魚さんらのトークと音楽に耳を傾けるという得難い機会なので、私もぜひ参加できればと計画中です。

31億5576万秒物語2023年06月10日 12時01分47秒

今年は「○○が□□周年を迎えた」という記事が多いです。
すなわち、コペルニクス生誕550年、パロマー天文台開設75年、プラネタリウム誕生100年…などなど。

そんな中、ひとつ大きな忘れ物をしていることに気づきました。
すなわち、稲垣足穂著『一千一秒物語』の刊行100周年です。

(初版本(復刻版)表紙)

(佐藤春夫による序文)

このブログでそれを忘れていたのは失態で、そのことをコメント欄で教えていただいたNowhere☆clubさまに、改めて御礼申し上げます。

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『一千一秒物語』の愛読者は多いでしょうが、あの不思議な作品を読んだとき、人々はいちばん最初に何を感じるのでしょうか?

私の場合、真っ先に思ったのは「あの街に行きたい」ということでした。
こういうことが私の場合はよくあって、私がある作品に心惹かれるということは、その作品世界に入り込みたいというのと、ほとんど同義です。

三角形の屋根と円錐形の塔が並ぶ街。その街では、月と問答し、月と格闘し、月を食べてしまうなんてことは日常茶飯事だし、路傍には土星や彗星が佇み、蝙蝠と黒猫、紳士と辻強盗に密造酒造り、そして真夜中の怪事件…そんなものに事欠きません。

その街に至ることはなかなか難しいのですが、平板な現実の中でも、何かの瞬間に一千一秒の匂いがふと鼻を打ったり、一瞬その気分が心に蘇ることがあります。

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足穂は「私の其の後の作品は――エッセイ類も合わして――みんな最初の『一千一秒物語』の註である」と書きました(「『一千一秒物語』の倫理」)。

この「天文古玩」というブログも、(全部がそうだとは言いませんが)たしかに『一千一秒物語』の気配を追って、その世界を眼前に現出せしめるべく続けている部分があります。その意味で、『一千一秒物語』は私にとって重要な準拠枠のひとつです。

(13年前につくった「タルホの匣」は、今でもそのまま手元にあります)

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100年間は、60秒×60分×24時間×365.25日×100年の時の積み重なりで、ざっと31億5576万秒です。

若い日の足穂が1001秒に凝縮した秘密は、それだけの長い時を経ても解き尽くされることなく――作者自身の手によってもそれは成し遂げられませんでした――今でも変わらず「其処」にあります。それはこの後さらに31億秒が経過しても、たぶん変わらないでしょう。あえて幸いなことと言うべきだと思います。

(初版本巻末の辞)

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そういえば、今日は時の記念日でした。




天体観測展へ2023年02月08日 19時17分00秒

仕事がひと山越えて、一応ノーマルな状態に復したのでホッとしています。でも、これから2月3月の年度末は、いつ仕事が突沸してもおかしくない状態が続くので、心底ホッとできるのはもうしばらく先でしょう。

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そういうわけで少し時間ができたので、名古屋の東急ハンズで開催中の天体雑貨イベント「天体観測展」を覗いてきました。大阪のギニョールさんとJAM POTさんの共催で、47名の作家さんの天体モチーフ雑貨が並ぶイベントです(会期:1月25日~2月15日、会場:ジェイアール名古屋タカシマヤ内・ハンズ名古屋店11階)

■天体観測展(ギニョールさん公式ページにリンク)

季節柄、バレンタイン客でごったがえす中を抜けて会場にたどり着くと、あたりにはキラキラしい雰囲気が漂っています。“ここにあるのは、「星ナビ」の購読者や、熱心なプラネタリウムファンとはまた違った天文趣味の在り様なのかなあ、いや、でも一皮むくと結構かぶっているかもしれんぞ…”と思いながら、会場内をキョロキョロしていました。いずれにしても、これが現代の「星ごころ」の一断面であることは間違いないでしょう。

そうした無数の「星ごころ」がキラキラと光を放つ中で、今の自分の心の琴線に触れるものとして、以下の品にすっと手が伸びました。


グラフィックデザイナー/コラージュアーティストである中川ユウヰチさん作「オリオンの一等星」。中川さんが制作した同名のコラージュ作品(それも会場内で販売されていました)をフィルムスライド化して、それをビュアーとセットにした品です。

元のコラージュももちろん素敵なのですが、「オリオンの一等星」を含む連作「一千一駒物語」シリーズの成り立ちを考えると、このフィルムスライドの持つ人工性が、いっそうタルホチックな魅力をたたえているような気がしました。

ビンテージ感のあるビュアーにスライドをセットして覗くと…


小さなスライドが視野いっぱいに広がって、無音のドラマが始まります。

上で「人工性」と書きましたけれど、このフィルムスライドは、元のコラージュ作品を単にスライド化したものではありません。そこには網目製版のプロセスが介在しており、それを改めて撮影して、スライド化したもののようです。そうしてできたフィルム片をプラスチックレンズ越しに眺めることで、作品世界はどんどん抽象度を高め、いっそ観念の世界へと誘われるような感覚をおぼえます。

まあ、これは私の個人的な感想で、中川ユウヰチさんの制作意図とはズレるかもしれないんですが、でも私としてはそんなことを思いながら、3枚のスライドを取っ替え引っ替え、飽かず眺めていました。

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そしてもう一つ手にしたのが、radiostarさんの月光倶楽部天文倶楽部のピンバッジ。


これはもう解説不要ですね。
以前ネットで拝見したとき、「あ、いいな」と思った記憶がよみがえり、よい機会なので購入させていただきました。私もこれで晴れて月と星の倶楽部員です。(鉱物倶楽部のバッジにも惹かれますが、それはまた別の機会に…。)

(全員揃って記念撮影)

夜の散歩2022年12月15日 17時53分01秒

先週の話です。空には明るい月のそばに、赤い星が2つ並んでいました。
ひとつは火星、もうひとつはおうし座のアルデバランです。月の光に負けないアルデバランも1等星の見事な輝星ですが、最接近を遂げたばかりの火星は、さらにそれを圧倒する明るさで、ぎらりと赤く光っているのが、ただならぬ感じでした。

そんな空を見上げながら、足穂散歩を気取ろうと思いました。
いつものようにイメージの世界だけではなく、今回は実際に足を運ぼうというのです。

私が住むNという街。
お城で有名な、概して散文的な印象を与えるこの街で、あたかも戦前の神戸を歩いているような風情を味わうことはできないか?―そう思いながら、実は数日前から想を練っていたのです。

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私はまず地下鉄の駅を降りて、大通りからちょっと折れ込んだところにある小さなビルを訪ねることにしました。階段を上がると、2階の廊下のつきあたりに、ぼうっと灯りのついたドアが見えます。


ドアには「星屑珈琲」という表札のような看板がかかっています。
その店名は以前から気になっていたのですが、入るのははじめてです。

「いらっしゃいませ」の声に迎えられて、数席しかない店内に入ると、すでに何人か先客がいました。しかし店内はひどく静かです。

星屑珈琲は店名が素敵なばかりでなく、大きな特徴があります。
それは「ひとり客専用喫茶」ということ。そのルールは複数名で入店して、離れた席に座ることもダメという、かなり厳格なものです。したがって、この店は茶菓を供するだけでなく、「静かな時間を売る店」でもあるのです。店内は、時折

 「いらっしゃいませ」
 「ご注文は?」
 「ありがとう、ごちそうさまでした」

というやりとりが小声で交わされるだけで、あとは静かな音楽がかすかに聞こえるのみです。でも、人々はその空気に大層心地よいものを感じていることが私にも分かりました。

星屑珈琲は、あえてカテゴライズすれば「ブックカフェ」なのでしょう。
目の前のカウンター席にも、ずらっと本が並らび、手に取られるのを待っています。
私はこの店で読むために持参した本をかばんから出して、先客の仲間に加わりました。

(店内で写真を撮るのが憚られたので、これはいつもの机の上です)

1冊は新潮文庫の『一千一秒物語』です。もはや注釈不要ですね。

(Marion Dolan(著) 『Astronomical Knowledge Transmission through Illustrated Aratea Manuscripts』、Springer、2017)

そしてもう1冊は、ギリシャ・ローマの天文古詩集『アラテア』写本に関する研究書で…というと、我ながら偉そうですが、背伸びして買ったもののずっと読めずにいたのを、こういう機会なら読めるかと思って持参したのです。実際、星屑珈琲の空気と一椀のコーヒーの力を借りることで、見開き2ページ分を読めたので上出来です。

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知らぬ間に時間は過ぎ、私はずいぶん長居していました。
星屑珈琲は23時まで開いているので、閉店時間を気にする必要はないのですが、ここにずっと居坐っては散歩にならないので、そろそろお暇しなければなりません。私は勘定を済ませ、そっと店を出ました。

明るいショーウィンドウを眺めながら繁華な通りを歩き、じきに靴音のひびく靜かな一画に来ると、そこからさらに陰々としたお屋敷街へと折れ込んでいきます。これから木立に囲まれた家々の先にある、とある屋敷を訪ねようというのです。

訪ねるといっても、その家の主を訪問するわけではありません(そもそも私は主が誰だか知りません)。その屋敷の夜の表情を見たかったのです。それは素晴らしく大きな邸宅で、本当に個人の家なのか怪しまれるほどでしたが、以前その前を通ったとき、塔を備えたロマネスクの聖堂建築のような佇まいにひどく驚いたので、「あの家は果たして、こんな晩にはどんな表情で立っているのだろう?」と、好奇心が湧いたのです。そして、そんな酔狂な真似をする自分自身が、何だか足穂の作中の人物のように思えました。

細い道を進み、角を曲がれば目当ての屋敷です。
人気のない森閑とした小路で、屋敷は灯火にぼんやりと巨躯を浮かび上がらせ、建物の内からは暖かな光が漏れて、いかにも居心地が良さそうでした。しかし、不用意に立ち止まったりすれば、見る人に(誰も見てはいませんでしたが)不審の念を呼び覚ますでしょう。私はこの屋敷の夜の表情を一瞥できたことで満足し、その前をさらぬ体で通り過ぎようとしました。

でも、そのときです。屋敷の門がおもむろに開き、一人の少年が出てきたのです。
少年は私に軽く会釈をすると、「お待ちしていました。塔の上では父が先ほどから望遠鏡を覗きながら、あなたのことをお待ちかねですよ」と私を中に招じ入れ、すたすたと先に立って歩きだしました。

…というようなことがあればいいなあとは思いましたが、少年の姿はなく、やっぱり私は屋敷の前を足早に通り過ぎるよりほかありませんでした。でも名残惜し気に振り返ったとき、塔の上に月と火星とアルデバランが輝いているのを見て、私は心の内で快哉を叫びました。その鋭角的な情景ひとつで、当夜の散歩の目的は十分達せられたわけです。

(フリー素材で見つけたイメージ画像)

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これが足穂と連れ立っての散歩だったら、彼はどんな感想をもらしたか?
「くだらんな」とそっけなく言うかもしれませんし、ひどくはしゃいだかもしれませんが、まあ一杯のアルコールも出てこなかったことについては、間違いなく不満をもらしたことでしょう。

本日、天体議会を招集。2022年04月11日 07時19分11秒

先日話題にした旧制盛岡中学校の天文同好会。
コメント欄でmanami.shさんから続報をいただき、衝撃を受けたので、他人の褌を借りる形になりますが、これはどうしても記事にしなければなりません。

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manami.shさんは、同中学校の校友会雑誌を通読され、天文同好会に関する記述を抜粋されているのですが、まず驚いたのはその旗揚げの弁です。同好会のスタートは1928年9月のことで、その際の意気込みがこう記されています。

 「花が植物学者の専有でない如く、星も亦、天文学者のみの独占物ではない。この信念を以て、我等は、遂に天文同好會をつくりあげたのだ。」

なんと頼もしいセリフでしょう。
そして、この言葉に敏感に反応する方も少なくないはずです。なぜなら、稲垣足穂の言葉として有名な、「花を愛するのに植物学は不要である。昆虫に対してもその通り。天体にあってはいっそうその通りでなかろうか?」をただちに連想させるからです。

足穂の言葉は、彼の「横寺日記」に出てきます。初出は「作家」1955年10月号。もっとも作品の内容は、昭和19年(1944)の東京における自身の体験ですが、それにしたって、盛中の天文少年たちの方が、時代的にはるかに先行しており、足穂のお株を完全に奪う形です(※)

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こうして意気揚々とスタートした天文同好会ですが、それでも私はごく一部の熱心な生徒が、細々と校舎のすみで活動しているイメージを持っていました。いかに意気軒高でも、今だってそれほどメジャーとはいえない学校天文部が、戦前にあってそれほど人気を博したとは思えなかったからです。

しかし、同好会が発足して1年後の1929年12月の校友会雑誌には、驚くべき事実が記されていました。manami.shさんの記述をそのままお借りします。

 「会員が百名に達しており、観測会は15回、太陽黒点観測は1929年10月から開始したこと。会員の中には望遠鏡所有者がいたこと、熱心な会員は変光星観測を始めたことがわかりました。更に、研究会の毎月のテキストは、星野先生、2~3人の上級生が執筆していたとありました。」

何と会員数100名!しかも、当時はなはだ高価だった望遠鏡を所有する生徒や、変光星観測に入れ込むマニアックな生徒もいたというのです。そして開催回数からして、彼らは月例の観測会をコンスタントに開いていたと思われます。

まさにリアル天体議会―。

「天体議会」とは、長野まゆみさんの同名小説(1991)に出てくる、天文好きの少年たちの非公式クラブの名称です。観測の際は、議長役の少年が秘密裏に議会を招集し…という建前ですが、有名な天体ショーを観測する折には、部外者の少年たちもたくさん押しかけて、なかなかにぎやかな活動を展開しているのでした。
長野さんが純然たるフィクションとして描いた世界が、戦前の盛岡には確かにあったわけです。


それにしても、旧制中学校でこれほど天文趣味が盛り上がっていたとは。しかし、全国津々浦々で同様の状況だったとは思えないので、これはやっぱり盛岡中学校固有のファクターがあったのでしょう。賢治の甥っ子たちの面目躍如といったところです。

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さらに翌年の1930年には、次の記述が登場します。

 「1930年10月には、水沢緯度観測所の山崎正光技師が「天文に関して」と題して講演し、特に同好會員には反射望遠鏡の作り方について話されていることもわかりました。」

山崎正光(1886-1959)は、カリフォルニア大学で天文学を学び、1923年から42年まで水沢緯度観測所に勤務したプロの学者ですが、本業の傍ら変光星観測や彗星観測を、いわば趣味で行った人。反射望遠鏡の自作法を日本に伝えた最初の人でもあります。そして、直接面識があったかどうかは分かりませんが、山崎氏の在職中に、賢治は何度か水沢緯度観測所を訪ねています。

その人を招いて天文講演会を開き、かつ望遠鏡作りを学んだというところに、盛中天文同好会の本気具合というか、その活動の幅を見て取ることができます。

(山崎正光氏(1954)。『改訂版 日本アマチュア天文史』p.167より)

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とにかく盛中天文同好会、予想以上にすごい会でした。
今回の知見は、戦前の天文趣味のあり方について、私の認識を大きく変えるもので、改めてmanami.shさんにお礼を申し上げます。

(賢治が在籍した頃の盛岡中学校。国会図書館「写真の中の明治・大正/啄木・賢治の青春 盛岡中学校」より【LINK】。オリジナルをAIで自動着色。なお、同校は大正6年(1917)に校地移転しているので、天文同好会時代の建物はまた別です)


(※)【2024.1.14付記】
上に描いたことは私の勇み足で、やや贔屓の引き倒しでした。
上に引いた校友会雑誌の一文は、盛中生のオリジナルではなく、野尻抱影 『星座巡礼』(初版1925)の序文の冒頭を真似たものと思います。抱影曰く、「花が植物学者の専有で無く、また宝玉が鉱物学者の専有でも無いやうに、天上の花であり宝玉である星も天文学者の専有ではありません」。…となると、抱影のうぶなファンであった足穂の一文も、抱影のこの文章の影響を受けている可能性が高いでしょう。