草下英明と宮沢賢治(3)2024年06月25日 21時21分14秒

昭和22年から23年にかけては、草下にとって変化の多い年でした。
昭和22年(1947)には、前述のとおり賢治についてまとめた文章が初めて活字化されたのをはじめ、野尻抱影に初めて会っています(それまでも手紙のやりとりはありました)。

六月二十一日 東京、上野の国立科学博物館で開催されていた天文学普及講座に野尻抱影先生の講演があるのを知って、聴講に参加。初めて野尻先生に挨拶。「家へいらっしゃい」などというお世辞に甘えて、二十九日、さっそく世田谷桜新町のお宅を訪問しているが、何を話したのか、聞いたのか、あがってしまって覚えがない。ただ、むにゃむにゃいって一時間ほど座っていただけだった。(『星日記』105頁)

(科博の天文ドーム。過去記事より)

抱影との絡みでいうと、8月にはこんな記述もあります。このとき草下は母校・都立六中の生徒を連れて、水泳指導教師という役割で千葉県館山付近に滞在していました。

八月一日 〔…〕この日、管理人のお爺さんから、「入定星」という星があることを訊いた。〔…〕もちろんこれは房総半島の南端一帯で「布良(めら)星」の名で知られる竜骨座のα(アルファ)カノープスの別名だ。しかも、江戸時代の文献にも、僧侶が死んで星になったという伝承が記載されているもので、後日、野尻先生に報告して、いたく喜ばれた。これでかなり先生の信用(?)を得たようである。「農民芸術」の原稿とともに学生生活の最後を飾るいいお土産であった。(同105—6頁)

こうして草下は学生生活を終え、社会人になります。当時の制度がよく分かりませんが、草下の場合、秋卒業だったようです、

十月一日 大学は出たが、就職先などまったくないので、いたしかたなく、大成建設(旧大倉組)に入社。経理課へ配属されてソロバンはじきをさせられた。父が長い間、大成建設の土木課にいて、そのコネでなんとか入れてもらったが、一銭、二銭が合ったとか合わないとか、およそ次元の異なる世界だった。二十五日、初めて給料をもらったが、金一三七五円五〇銭。(同106頁)

生活するために「いたしかたなく」建設会社の経理の仕事に就いてはみたものの、草下にはまるで肌の合わない世界で、1年もしないうちに転職を果たします。以下、昭和23年(1948)の『星日記』より。

七月九日 豊島区椎名町に在住の詩人、大江満雄氏の紹介で誠文堂新光社「子供の科学」編集長、田村栄氏に紹介されて会うことになった。なんとしてでも編集部に入りたく、野尻先生に推薦状を書いてもらったり、別な知人でポプラ社の編集長をしていた水野静雄さんには、誠文堂の重役だった鈴木艮(こん)氏にも口をきいてもらった。十日後、首尾よく入社が決定したが、あとでよく聞いてみると、他にも競争者がいたらしいのだが、私の立ちまわり方、根まわしが抜群だったらしく、その抜け目なさが買われたということだった。私の性格とまったくあべこべの面が認められたというのは、いまだに信じられない。二十日に大成建設に辞表を出し、八月二日には、めでたく「子供の科学」編集部員として初出社した早業である。(同112頁)

まだ一介の新米編集部員とはいえ、これが科学ジャーナリスト・草下英明が誕生した瞬間でした。草下はその立場を活かして、人脈を徐々に広げていきます。

十一~十二月 「子供の科学」編集の仕事は楽しかったが、なにしろたった三人でやっているので、目のまわるほど忙しく、日曜日などほとんど休んでいられなかった。〔…〕
ただ編集にかこつけて、天文関係者に会えるのが嬉しく、国立科学博物館の村山定男小山ひさ子鈴木敬信(海上保安庁水路局、のち学芸大学)、神田茂(日本天文研究会)、アマチュアの中野繁原恵、東京天文台の広瀬秀雄博士といった方々に初めてお目にかかったのも、この頃である。
(同113—4頁)

そればかりではありません。草下はこのブログと切っても切れないもう一人の人物とも、この年に会っています(「遭っています」と書くべきかも)。草下は上の記述に続けてこう記します。

だんぜん印象強烈だったのは、作家イナガキタルホ氏に会った時である。その日の日記から引用すると、次の如し。

十一月二十三日(月)晴 今日も晴れて暖かく、資源科学研究所へ行ってみたが、八巻氏に会えず、仕方なく戸塚をブラブラ。真盛ホテルへ行ってみる(新宿区戸塚一の五六七、今でも建物は残っているそうだ)。なんとイナガキタルホ先生あらわれる。よれよれの兵隊服に五十がらみのおやじ、ききしにまさる怪物なり。部屋には聖書と、二、三の雑誌と、三インチの反射鏡と少しの原稿用紙以外なんにもなし。いやはや、性欲論をひとくさり、美少年趣味は二週間前に転向せり、十八の女性と結婚するとか、何処(どこ)までホントかウソか。へんな喫茶店へ行って別れる。
(同114頁)

なんだか無茶苦茶な感じもしますが、何せ時代の気分は坂口安吾で、畸人型の文士が横行しましたから、足穂も遠慮なく畸人として振る舞えたし、世間もそれをもてはやしたのかもしれません。しかし“作家、畸なるがゆえに貴からず”、足穂の本分というか、真骨頂はまた少し違ったところにあり、だからこそ草下は足穂を終生敬慕したし、謹厳な野尻抱影にしても、後に足穂をひとかどの作家と認めることになったのでしょう。

(所番地が変わったせいで正確な場所がすぐには分かりませんが、図の左寄り「早稲田大学国際会議場 井深大記念ホール」の建つ区画が昔の早大戸塚球場の跡地で、その脇を通る「グランド坂」に真盛ホテルはあった由。名前は立派ですが、ホテルとは名ばかりの安宿です。)

(真盛ホテルの自室に坐す、昭和23年当時の足穂。過去記事より)

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「草下英明と宮沢賢治」というわりに、今日は賢治のことが全然出てきませんでしたが、草下の賢治への入れ込みはまだ続きます。

(この項つづく)

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