草下英明と宮沢賢治(2) ― 2024年06月23日 13時45分18秒
ふと思ったんですが、今年は草下英明氏の生誕100周年ですね(12月1日が誕生日)。別に狙ったわけではありませんが、そのことを思うと、今回草下氏を取り上げることになったのも、何か偶然以上のものがあるような気がします。
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前回、草下に賢治の存在を教えた人として、後に彫刻家として名を成した阿井正典(1924-1983)に触れました。それについて、草下の『宮澤賢治と星』(初版1953、改訂新版1975)にも関連する記述を見つけので、挙げておきます(「宮澤/宮沢」の表記は原文に従います)。
(『宮澤賢治と星』、1953年版(手前))
「私が初めて宮沢賢治の名を知ったのは、「アメニモマケズ」の詩人としてでもなく、『風の又三郎』の作者としてでもない。殆どそうした予備知識なしに、或る友人から星をよく描く童話作家として教えられたのが、太平洋戦争末期であった。従って私が賢治を知った限りにおいては、比較的日も浅く、かりそめにも賢治の研究家などといえた義理ではない。だから、このささやかな著書も、あくまで賢治の研究書というようなものではなくて、賢治の作品に輝やく星を観察し分析してみただけのもので、主題は星にあるといってよい。」 (『宮澤賢治と星』、1953年版「あとがき」より)
「或る友人」とはもちろん阿井のことで、阿井は「星をよく描く童話作家」として賢治を語ったというのですから、阿井もまた具眼の士であり、阿井がそういう色彩で賢治を紹介したからこそ、草下の脳裏に賢治の名が刻まれたのでしょう。これはまことに幸運な出会いだったと思います。
(阿井正典 《果》 1968年、木、神奈川県立近代美術館蔵。
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草下がただの賢治ファンでなかったのは、その作品を愛読するばかりでなく、独自の研究を進めたことです。草下は、昭和22年(1947)になっても、大学にはまったく足を踏み入れず、友人が始めた古本屋の手伝いをしながら過ごしていましたが、その間にせっせと賢治研究を進めました。
「〔1947年〕四月二日 宮澤賢治の名作「銀河鉄道の夜」に描かれた星についての研究をまとめた私の文章が、風樹荘〔…というのは件の古本屋〕の経営者、月田亨氏を通じて、月田氏の家に同居していた賢治研究家、堀尾青史氏に紹介された。岩手県花巻市で、賢治の縁戚にあたる関登久也編集「農民芸術」にのせてもらうことになった。九月一日発行の「農民芸術」第四輯に生まれて初めて活字となった。」 (『星日記』、104頁)
このとき「農民芸術」に掲載された「『銀河鉄道の夜』の星」は、改稿した上で、前述の『宮澤賢治と星』に収録されました。これについて、草下は以下のようにも述べています。
(『宮澤賢治と星』、1975年版)
「『銀河鉄道の夜』の星について」は、大学二年生の頃、暇にまかせて書き綴った幼稚な一文を、友人を通じて堀尾勉(青史)氏が目を通して下さり、花巻の故関登久也氏の許に御紹介頂いて、初めて活字になったもので、なんとも懐かしい思い出がある。」 (『宮澤賢治と星』、1975年版「あとがき」より)
ちょっと先回りすると、草下はこの後も精力的に賢治について文章を書き続け、それらをまとめたのが『宮澤賢治と星』です。昭和28年(1953)の出版当時のことを、草下は後にこう回想しています。
「この種の研究や文献資料は当時殆ど無いといってよく、私の試みが賢治文学を考える上での一ヒントにでもなったとすればこの上ない幸せである。
原本刊行後も、科学者の目で、或は科学的な手法によって、賢治文学の分析が試みられた例は極めて少ない。私の知る範囲でも、須川力氏(水沢緯度観測所、天文学)の「宮澤賢治と天文学」(「四次元」、第九十三号、昭和三十三年五月)がある位で、他に昭和三十四~三十六年頃、庄司善徳氏が「秋北新聞」、「秋田文化」、「文芸風土」(いずれも秋田県地方誌)に、しばしば賢治と星の関係について言及した文章を発表している程度である。」 (同上)
原本刊行後も、科学者の目で、或は科学的な手法によって、賢治文学の分析が試みられた例は極めて少ない。私の知る範囲でも、須川力氏(水沢緯度観測所、天文学)の「宮澤賢治と天文学」(「四次元」、第九十三号、昭和三十三年五月)がある位で、他に昭和三十四~三十六年頃、庄司善徳氏が「秋北新聞」、「秋田文化」、「文芸風土」(いずれも秋田県地方誌)に、しばしば賢治と星の関係について言及した文章を発表している程度である。」 (同上)
本当は、『宮澤賢治研究資料集成』(日本図書センター、全23巻)や、『宮沢賢治初期研究資料集成』(国書刊行会)のような基礎資料に当たって、草下の言い分の裏取りをしないといけないのですが、今はそこまでする必要もないでしょう。草下の視界にそれが入ってこないぐらい、「星の文学者・賢治」は当時マイナーなトピックであり、草下がこの分野のパイオニアの一人だったことは確かです。
草下は上の一文につづけて、さらにこう書きます。
「しかし、最近は賢治のすべての草稿を比較検討分析していくという精緻無類な天沢退二郎、入沢康夫両氏の研究方法が大きな刺激となり、斎藤文一氏(新潟大学、地球物理学)、宮城一男氏(弘前大学、地質学)といった純粋科学畑の人の研究が現れたし、星の分野でも川崎寛子、阿田川真理といった若き俊秀がおられて、私なども啓発されること多大である。どうやら科学と文学の切点の問題として、賢治の作品が見直される機運が盛り上ったといってよいだろうか。」 (同上)
ここでいう「最近」とは、今から約半世紀前の1975年当時の「最近」です。1970年代頃から、賢治像にはある種の変化が――いうなれば、「アメニモマケズ」や『風の又三郎』の作者ではない賢治像が目立つようになってきた…と草下はいうのです。
こうした変化は論文や研究書ばかりでなく、一般のメディアにも及び、「星の文学者・賢治」は急速にポップカルチャー化、あるいはサブカルチャー化して、ますむらひろしや鈴木翁二、あるいは鴨沢祐仁といった人たちが、賢治に取材した作品を次々と発表し、その先に松本零士の「銀河鉄道999」(「少年キング」、1977年連載開始)もあったように思います。
(新作・旧作を交えて構成された「ガロ 特集・宮澤賢治の世界」1995年9月号)
(同上掲載作、森雅之「宮沢賢治 星めぐりの歌」より)
その流れは天文界にも及び、アマチュア向けの天文雑誌である「天文ガイド」(1965~)や「星の手帖」(1978~1993)あたりを丹念に見れば、賢治作品、特に「銀河鉄道の夜」に言及した記事や読者投稿が、70年代以降急速に増えていくさまを確認できるはず…と個人的には睨んでいますが、これは将来の課題とします。
(当時、京都の福知山で星好きの少年たちが結成した「西中筋天文同好会」が会誌「銀河鉄道」を創刊したのが1972年と聞けば、当時の天文界の空気が何となくわかります。この件は同会の中心メンバーであり、本ブログにいつもコメントをいただくS.Uさんから、またお話を伺う機会があると思います。)
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話が前に進み過ぎたので、昭和20年代の草下の動向に話を戻します。
(この項つづく)





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