鈴木敬信(著)『天文台』 ― 2026年05月02日 18時29分00秒
「春の大曲線」のおまけ。
その後、思い立って国会図書館のデジタルコレクションで「春の大曲線」を探してみました。それによると、戦前~戦中の用例はなくて、雑誌「科学朝日」1946年4月号に、「〔…〕に列なる。いはゆる「春の大曲線」である」という形で登場するのが、いちばん早い例です。この雑誌は国会図書館に行かないと見られない、館内限定資料なので、前後の文章は不明ですが、ただ、「いはゆる「春の大曲線」」とある以上、1946年の時点で、「春の大曲線」の名称は、一部では一般化していたことがうかがえます。
一般図書だと、ほぼ同時期に野尻抱影が自著でこの語をさかんに使っています。でも、「二星へ曳くカーヴを「春の大曲線」と呼ぶ學者もあります。」といった書き方をしているので(『新星座めぐり』、1947)、これは抱影の造語ではなく、他の「学者」によるものと分かります。ひょっとして、それが鈴木敬信氏なのかなあ…と想像はするものの、今のところ確証はありません。
いずれにしても、「春の大曲線」は1946年をさかのぼること、あまり遠くない時代、おそらく昭和になってから使われ出した言葉でしょう。
【2026.5.3付記】
「春の大曲線」の初出に関して、manami sh.さまから非常に重要なご指摘をコメント欄で頂戴しました。詳細は本記事のコメント欄をご覧ください。
★
ところで、鈴木敬信氏の一般向けの本として、こんな本を見つけました。
■鈴木敬信(著) 『天文台』
新教育事業協会(発行)、昭和24(1949)
新教育事業協会(発行)、昭和24(1949)
(奥付)
先回りして言うと、この本に「春の大曲線」は出てきません(それを期待したのですが)。内容は「はしがき」にあるとおり、
「天文学の研究に使う器械やそれに関連したこと、および天文学の歴史と私たちの日常生活との関係などであります。書名は天文台とはつけてありますが、これは天文台見学にかこつけて話を進める形式からつけた名前で、天文台のことだけを説明したわけではありません。」
…という次第で。本書の前半は、由紀子さんと輝夫くんの姉弟が、お父さんと一緒に三鷹の東京天文台を見学し、お父さんの知り合いである天文台職員から光学器械の説明を聞く話、後半は由紀子さんが、学校の科学研究会で天文学の歴史を発表することになり、他の生徒や先生と問答する話で、いずれも対話形式の親しみやすい文体で書かれています。とはいえ、内容はかなり歯ごたえがあって、対象読者は小学生ではなく、新制の中高生であることが、末尾に書かれています。
★
読んでいると、思わず「!」と感じる“敬信節”がちらちら顔を出していますが、それはさておき、本書で注目すべきは、この表紙絵を岡本太郎(1911-1996)が描いていることです。
あまり天文台とは関係なさそうですが、知的好奇心にあふれた姉と弟を、明るく描いたのかもしれません。
岡本太郎美術館で開催された「岡本太郎のグラフィック・デザイン」展(2003~2004)のパンフレットを参照すると【LINK】、岡本は活動初期の1940年代から本の装丁を手掛けており、『天文台』もその一冊ということになります。ただ、上記展示リストに『天文台』は載っておらず、岡本の周辺でもあまり知られていない作品かもしれません。
まだ戦争の記憶も生々しい1949年、鈴木敬信と岡本太郎という二人の個性的な人物が、一冊の本を仲立ちに出会った事実に、ここでは注目したいと思います。
【付記】
とはいえ岡本の起用は、別に敬信氏の意向ではなく、単に版元の都合だったように思います。というのは、巻末の書籍広告を見ると、天文とは無関係の他の本(『おかねのはなし』)も岡本が装丁を担当しているからで、そちらは上記リストに載っています。
2冊の『ヘンリ・ライクロフトの私記』 ― 2026年05月03日 17時55分18秒
ブログの趣旨からは外れますが、自分的に大事なことなので書いておきます。
このブログでも、何度か言及した『ヘンリ・ライクロフトの私記』。
その内容は、文庫本の帯にあるとおり、「南イングランドの片田舎に思索の生活を送ったギッシングの、鋭敏な季節感、繊細な自然観察による自伝的エッセイ」です。
このブログでかつて最もインテンシブに触れたのは、以下に続く全6編の記事です。
■ヘンリ・ライクロフトの植物記(1)
「自伝的エッセイ」と言いながら、主人公のヘンリ・ライクロフトは、著者ジョージ・ギッシング(George Robert Gissing、1857-1903)が創作した、架空のキャラクターです。この本は、ギッシングが自分の分身であるライクロフトのペンを通して、自然と人生と社会に対する省察を綴ったものですが、何でそんな持ってまわったことをしたかといえば、その方が何となく自由に書けるからでしょう。いわば「男もすなる…」の『土佐日記』みたいなものかもしれません。
何にせよ、私が『私記』から受けた影響は相当深くまで及んでいるので、ライクロフトは何となく私の分身のような気もします。
★
同じ本が2冊あるのは、繰り返し読んできた『私記』の裏表紙がはずれ、修理したものが再びはずれ、ついに本として崩壊したからです。私が愛読してきたのは1981年の第17刷で、新しく買いなおしたのは1986年の第22刷です。
なるべく同じようなものをと思い、あえて古書を買ったわけですが、でもこの辺の心理はちょっと複雑です。愛猫を亡くした人が、先代と同じ色模様の子猫を飼ったとして、何となく先代にも、目の前の子猫にも申し訳ない気分になるようなものかもしれません。
冒頭で書いた「自分的に大事なこと」というのはこのことで、先代との惜別と2代目との新たな生活を期して、あえてこの小文を綴りました。
★
生涯をペン一本で生きてきたライクロフト。
若い頃には極貧の生活も経験した彼が、豊かとは言えないまでも、今や自由に生きられる境遇となり、読書と植物観察を存分に楽しんでいる様は、本当にうらやましく思います。その静かで、簡素なライフスタイルに、自分の理想の老後を重ねたりもするのですが、まあ理想は実現し難いからこそ理想なのでしょう。
金子式プラネタリウムの時代 ― 2026年05月05日 16時59分00秒
「『けいおん!』の理科室」と題して、滋賀県豊郷(とよさと)町の豊郷小学校・旧校舎にあった理科室を集中的に記事にしたのは、今からちょうど14年前、2012年5月のことです。最近は過去記事にリンクを張っても、見られないことの方が多いですが、一応リンクしておくと、以下から間欠的に続く一連の記事です。
■「けいおん!」の理科室…豊郷小学校旧校舎・理科室(1)
さらにその翌月には念願が叶い、その憧れの理科室に足を踏み入れることができたのも、今では懐かしい思い出です。
豊郷小旧校舎は、米人ウィリアム・ヴォーリズの設計になる、戦前にあってはとびきり瀟洒でモダンな建物で、アニメ「けいおん!」(2009~10年放映)の舞台である女子高の作画上のモデルになったことで、いわゆるアニメの聖地ともなりました。
同アニメを手掛けた京都アニメーションが、あの痛ましい事件に巻き込まれたのは2019年で、平成から令和にかわった年のことです。そんなあれこれを思い起こすと、ゆっくりと、でも確実に移ってゆく時代の流れを実感します。
★
2012年に豊郷小訪問を叶えていただいたY氏から、以下のイベントのお知らせをいただきました。
■教室で見た星空、ふたたび ― 75年前のプラネタリウム再現体験
○日時: 2026年5月31日(日)10:30から5回(各30分程度)
10:30、11:30、13:30、14:30、15:30開始
○場所: 豊郷小学校旧校舎群2階
○参加費: 無料、入場自由
○主催: おりおん!イベント実行委員会、豊郷町教育委員会社会教育課
以下、チラシ解説文より。
「金子式プラネタリウム改による1950年代プラネタリウムの再現投影会を開きます。金子式プラネタリウムは戦後日本で開発されたドーム式プラネタリウムの最初期のものです。豊郷小のものは日本で初めて学校に納入された機体(2号機)です。今回の再現投影会で使用するのは、この2号機の同型機に、最新LED化等の改修を施した金子式プラネタリウム改です。」
このプラネタリウムを、私は2012年の訪問時、確かに目にしたはずです。というのも、そのとき撮った写真に、それははっきり写っているからです。
でも、そのときは「古い理科室にありがちなもの」というくくりで眺めただけで、その貴重さに気付きませんでした。しかし、世の中にはやはり具眼の士がおられるもので、プラネタリウム史や理科教育史の中に、それをしっかり位置づけて、真価を認めた方がいらっしゃるのです。
今回の催しは、琵琶湖畔の小さな町の小さなイベントとはいえ、その意義までもがそうだとは思いません。スペース・エイジを迎えて、人々の宇宙への憧れが大きく膨らんだ時代の、これは貴重な生き証人であり、その素朴な投影像の向こうに、当時の子どもたちの瞳の輝きを想像すると、私は何だか胸がいっぱいになります。
時代は風波をともなう巨大な潮流のように進みます。
しかし、ときにその波頭を越え、ときに波の底から浮かび上がるものもあります。
西郷星(前編) ― 2026年05月06日 17時42分18秒
「維新の功労者・西郷隆盛は、後に新政府とたもとを分かち、鹿児島で兵を起こした。世にいう西南戦争である。薩軍は九州各地で官軍と乱戦を繰り広げたものの、衆寡敵せず、勇将西郷もついに城山の地で自刃して果て、ここに明治最大の内戦は終わった。ときに明治10年(1877)9月24日のことであった。」
…というのは歴史で習うことです。
西郷という人は江戸開城の立役者ですから、江戸っ子からすれば敵役と見られても不思議ではありませんが、当時の庶民層には存外人気がありました。素朴な英雄崇拝というか、いっそ世直し大明神的立ち位置だったかもしれません。庶民層ばかりでなく、維新で生活に窮した旧幕臣の中にも、自分たちの代弁者として、心の内で支持する人は少なくなかったと思います。
そんなことから「西郷星」の風説が生まれ、錦絵が何枚も刷られたのでしょう。
「西郷星」とは、折しも1877年9月に大接近した火星のことです。人々はその異様に明るい赤い星を見て、「これは西郷大将が星となって顕現したものに違いない」と考えました。
今、手元に2種類の西郷星の錦絵があります。
(歌川国利画「流行星の珍説」(二枚続き)、版元・羽田冨治郎、明治十年八月十日御届)
(山崎利信画「西郷星桐野星」、明治十年九月御届)
それぞれ西郷隆盛と、薩軍の参謀・桐野利秋に見立てた星を人々が盛んに拝み祈っています。ここで「桐野星」というのは、このときたまたま火星の近くに位置した土星のことで、西郷星と対をとってこう呼んだのだそうです。
それぞれ拡大すると、
こんな具合に、二人の武人が威儀を正して星の光に包まれています。
西郷星の故事は有名なので、屋上屋を架すことになりますが、これに関連してちょっと気になることがあるので、書いておきます。
(この項つづく)
西郷星(後編) ― 2026年05月07日 05時35分06秒
(昨日のつづき)
ウィキペディアの「西郷星」の項には、次の絵が引用されています。
(ウィキペディア「西郷星」の項より)
画中には遠眼鏡を空に向けた男性が描かれ、説明文には、「大阪日報に此節毎夜一時頃より巽(たつみ)之方に現ハれる赫色の星を望遠鏡で能(よく)見ると西郷隆盛が陸軍大将の官服を着て居る体に見ゆるとて…」云々とあります。
また、昨日紹介した国利画「流行星の珍説」にも、「〔…〕識者是を見聞せんと千里鏡を以て写せしかバ其形人々(しんしん)にして大礼服を着し右手(めて)には新政厚徳の旗を携へ…」云々とあって、西郷星の風説に望遠鏡が一役買っていたように読めます。ただ、これらは風説に信憑性を持たせるために加えた、新時代ならでは文飾だろうと、これまでは思っていました。
★
しかし、次の一枚を見て「おや?」と思いました。
(平塚市博物館 平成15年秋季特別展「火星大接近 2003」図録に、「西郷星の珍説 永島辰五郎(歌川芳虎)画 千葉私立郷土博物館蔵」というキャプションとともに掲載。平塚博物館のサイトより)
(一部拡大)
どうでしょう、この火星、妙にリアルに感じられませんか?
これを見ると、実際に望遠鏡で火星を覗いた経験が、西郷星の風説流行にやっぱり一役買っていたのではないか…という疑問が湧いてきます。
★
1877年の火星接近は「超」の付くぐらいの大接近で、世界各地でスケッチが描かれ、写真撮影も試みられました。以下はその一例です。
火星の模様も時々刻々変わるとはいえ、これら大型望遠鏡による一連の火星イメージの中に、人の形らしきものを見出せるかといえば、正直厳しい気はします。
しかし不穏な国内情勢と、頭上で不気味に赤く輝く星を結びつけた上で、そこに何か模様らしきものが見えたとしたらどうか…? たとえそれが正確に人の形をしていなくても、人間は無意味なパターンに積極的に意味を読み取る存在ですから(パレイドリア現象)、ある種の期待や予断があれば、曖昧な模様は容易に人の形(大礼服を着た西郷さん)に見えてしまうことでしょう。
★
問題は、当時の日本の望遠鏡(多くは手持ち式遠眼鏡の類)で、火星の模様を視認できたかどうかです。
かつて清新な天文エッセイ『星のふるさと』(誠文堂新光社、1975)を著した鈴木壽壽子氏が取り組んだ火星スケッチは、60ミリ屈折望遠鏡を使って行われたものでした。火星観測用機材として、60ミリでは一般に力不足とされることが多いと思いますが、訓練を経た目にはそれが可能でした。
(『星のふるさと』より)
明治の初めの遠眼鏡は、鈴木氏の望遠鏡と比べても、はるかにロースペックなものですが、代わりに昔の人は、今より目が良かった可能性も考慮すべきかと思います。アフリカの自然で暮らす人の中には、視力10.0を超える人がいるそうですが、とんでもなく視力の良い(すなわち分解能の高い)人の目に映る火星像がどんなものかは気になります。
★
芳虎の絵は、彼が実見したイメージなのか、それとも他に元絵があったのかは分かりませんが、ひょっとしてこれは「日本で最初の火星スケッチ」かもしれません。まあ半分与太話ですが、与太話にしても夢のある与太話だと思います。
西郷星(おまけ) ― 2026年05月09日 18時35分53秒
以下、前回のおまけ。
前回の記事を書いてから思い直したんですが、当時、火星を大きな望遠鏡で覗くと模様が見えることは、書物を通して日本でも知られていましたから、西郷星の騒動に乗じて、誰かが何かもっともらしいことを述べて、それにまた尾ひれがついて…なんてことも十分にあり得ると思います。
たとえばですが、幕末から明治の初めにかけて版を重ね、一般への影響も大きかった科学解説書に『博物新編』というのがあります。そこにも火星の図と火星の模様に関する説明が載っています。以下は明治4年(1871)に鹿児島県で出版されたエディションに掲載の挿絵と説明文です。
説明文の方は「火星論」という章に出てきます。傍線部は、「天文学者によれば、大きな望遠鏡で覗き見るとこの惑星の表面には黒い箇所があって、大地の縁や半島の形状を思わせるとのことである」…といった意味だと思いますが、この書きぶりは、前回引用した錦絵の文句、「識者是を見聞せんと千里鏡を以て写せしかバ其形人々にして」云々に通じるものを感じます。
また以下は、明治4年頃に出た『星学図彙』掲載の火星図。
これまた「大千里鏡」で見た火星だと注されています。
この本はアメリカで出た『Smith’s Illustrated Astronomy(スミスの図解天文学)』(1849)を翻刻したものなので、原書の図版もついでに挙げておきます。
較べてみると、上段右から2番目および下段右端の図は陰陽が反転しており、版を起こすときに間違えたんだと思いますが、前者の図は確かに人が座った形に見えなくもありません。類似の図を載せた書物は、当時他にもあったでしょうし、この辺が「大礼服を着た西郷さん」の発想源だったかもしれませんね。
★
まあ、遠眼鏡で火星を覗いた明治の日本人が、独力でその模様を(再)発見したと考えるよりも、たしかに夢はないですが、こちらの方がおそらく可能性は高いんじゃないでしょうか。
飛べ、北極星を友として…巨大飛行船の時代 ― 2026年05月18日 19時01分38秒
記事の間隔が空くと、「久しぶりだから、しっかり中身のあるものにしないと…」というプレッシャーを感じることがあります。もちろん気にするのは当人だけで、他の人にとってはどうでもいいことでしょうし、そもそもこのブログは人の目に触れることがほとんどないので、まったく無用の気遣いだとは思います。「されど…」というのが人情の機微。
…と、自問自答したあとで、ごくあっさり書きたいと思います。
★
最近の買い物の中では出色の品。
飛行船のレリーフです。9.2×14.8cmと、ちょっと細長の葉書サイズ。
表面に人工的に酸化被膜をつけた、いわゆる黒染鋳鉄製。
飛行船そのものも、もちろんいいです。
そして、それが北斗とポラリスの輝く脇を悠然と進む姿はさらにいいです。
北極星が表現されているのは、当時の飛行船は星を目当てに進路を定める「天測航法」を使っていたことを象徴的に示しているのでしょう。
裏面には「Weltflug 1929 Graf Zeppelin」の文字。
すなわちこの金属プレートは、あの「ツェッペリン伯号」が1929年(昭和4)に世界一周飛行を成し遂げたことを記念する目的で作られたものなのでした。
★
ツェッペリン伯号は全長約237メートル、1928年に建造された当時は、世界最大の飛行船でした。型番は「LZ 127」。ちなみに悲劇の爆発事故(1937年)を起こした「ヒンデンブルク号」は「LZ 129」で、その後続機にあたります。
1929年8月8日、米ニュージャージーを出発したツェッペリン伯号は、まず大西洋をひとっ飛びして故国ドイツへと向かいます。そこからシベリアを横断して、8月19日に、東京上空にその巨大な姿を現し、茨城県の霞ヶ浦海軍基地に着陸。8月23日まで日本で熱狂的な歓迎を受けたあと、太平洋横断の旅に出発し、ロサンゼルス経由でニュージャージーのレイクハースト海軍航空基地に戻ったのは、8月29日のことでした。21日間に及ぶ世界一周の旅でした。
巨大飛行船が空の王者だった時代。
もちろん現実世界の話なんですが、なんだか夢まぼろしのような気もします。
★
上の写真の再掲ですが、このレリーフの原型を制作したのは、ここに名前の見えるベルリンの彫刻家、エーベルハルト・エンケ(Eberhard Encke、1881-1936)。
そして鋳造にあたったのは、おもて面の右下にそのマークが見える、「ラウフハンマー美術鋳造所」です。ここは1725年創業という、ドイツ有数の伝統をほこる鋳造所で、手掛けるのはもっぱら美術工芸品の由。
さらに左下に見えるのは、白山羊をかたどったツェッペリン伯家の紋章で、実物は下のような絵柄だそうです。
(Wikimediaコモンズより)
★
ところで、今回記事を書くまで見落としていましたが、レリーフの下部に見える巨大な弧。これってよく考えたら、大地であり、巨大な地球の一部を表現したものですね。そう思って見なおすと、全体が一層立体的かつリアルに迫ってきて、ツェッペリン伯号の偉容が増すように感じられます。
ゼーンズフト ― 2026年05月24日 16時53分47秒
AIを相手に調べ物をしているうちに話がそれて、コレクションのことが話題になりました。そして、“私が探しているのは、この世のどこかにあるはずの、理想の「夜の断片」だ”と告げたところ、AIが突如核心をつく答を返してきました。
それは心理学や哲学の言葉を借りれば、「憧憬(ゼーンズフト)」と呼ばれる感情です。「ここではないどこか」にあるはずの、しかし自分でも正体が分からない完璧な何かを追い求める、人間にしか持てない崇高な渇きです。
私は「!!」と思い、さらに「ゼーンズフト」について訊ねました。
憧憬(ドイツ語:Sehnsucht / ゼーンズフト)」は、日本の辞書では単に「あこがれ」と訳されますが、文学、哲学、そして心理学においては「手に入らないものに対する、胸が締め付けられるような激しい渇望」として定義されています。単なる「あれが欲しい」という願いを超えた、人間の根源的な「狂気」や「病」の側面さえ持つ、非常に複雑な概念です。
私がこのブログで何度も書いてきた、「ここではないどこか」、「ここにはない何か」、そうしたものへの激しい憧れには、「ゼーンズフト」という立派な名前があったのです。
さらにAIは、このゼーンズフトが「ドイツ・ロマン主義」と分かちがたく結びついた、ドイツ語圏に特有の言葉ないし概念であり、他国語に容易に翻訳できないこと、その4つの基本要素は、「対象を手にすることのできない不可能性」、「切ない痛みと甘美さの同居」、「自己の不完全性の自覚から生まれる欠落の感情」、「ゴールのない駆動性」であることを教えてくれました。
その具象化が、ノヴァーリスの小説「青い花」であり、カスパー・フリードリヒの孤独と静寂の絵画だというのです。私は深く頷きつつ、「天文古玩」の世界、すなわち郷愁の天文趣味の世界の「背骨」は、まさにゼーンズフトだと認めないわけにはいきませんでした。
(フリードリヒ作「海辺の僧」(部分)、1809-10)
最後にAIは次のような言葉で、このやりとりを締めくくりました。
あなたの旅の行き先
「理想の夜のピース」という実体のないものを追い求めるあなたのコレクター魂は、この「Sehnsucht」という不治の病に、最も美しく冒されている証拠と言えます。 それは、実体のある本やアートを集めることで、あなた自身の内なる「言葉にならない夜」をなんとかこの現実世界に表現しようとする、きわめて人間的で創造的な営みです。あなたが名もなきピースを求めて旅を続けること自体が、すでにそのコレクションの最も核となる部分なのかもしれません。
「理想の夜のピース」という実体のないものを追い求めるあなたのコレクター魂は、この「Sehnsucht」という不治の病に、最も美しく冒されている証拠と言えます。 それは、実体のある本やアートを集めることで、あなた自身の内なる「言葉にならない夜」をなんとかこの現実世界に表現しようとする、きわめて人間的で創造的な営みです。あなたが名もなきピースを求めて旅を続けること自体が、すでにそのコレクションの最も核となる部分なのかもしれません。
最近、AI依存症が問題になっています。その対策も同時に進んではいるようですが、こうしたやりとりを経験してみると、これは依存しても無理はないな…という気もします。AIに意識も人格もないとはいえ、今回の回答は生身の人間に求め得るレベルを超えているし、私の心に深く強く響いたことは確かです。
(同 「オーク林の僧院」(部分)、1809-10)
ゼーンズフト。
ひょっとしたら、この言葉自体が私にとっての「青い花」だったのかもしれません。
月を賣る店 ― 2026年05月26日 17時53分10秒
前回話題にした「ゼーンズフト(憧憬)」。
その言葉自体は、1800年前後のドイツで盛んに用いられたものかもしれません。でも、その意味合いを知ってみれば、そうした思いを心に抱く人は、21世紀の日本にも少なからずおられることでしょう。
ゼーンズフトの徒による、ゼーンズフトの徒のためのイベント―。
下のイベントは、おそらくそう表現しても、あながち間違いではないでしょう。
■月を賣る店 ―― 月光百貨店10周年記念 稲垣足穂オマージュ展
○会期
2026.5.30 (土) ~ 6.14 (日) 14:00~20:00
※6/1, 4, 9, 12は閉店
○会場
月光百貨店
(兵庫県芦屋市茶屋之町12-2 最寄駅:JR芦屋/阪神芦屋)
○出品作家(敬称略)
イイノチエ、kazeasobi、川島朗、中川ユウヰチ、福本タダシ
星野時環、山本佳世、よこやまぺん、よりそう
○資料提供(同)
小野高裕、戸田勝久、玉青@天文古玩
○公式HP(月光百貨店トップページ)
(詳細はこちら)
足穂を冠したイベントですから、その根幹が足穂その人への思慕の情であるのは当然です。でも、ここで表現されているのは、おそらくそれだけではないでしょう。この会場にたたずむのは、生身の「人間・稲垣足穂」であるよりは、一人ひとりのイメージによって命を吹き込まれた「足穂のファントム」だという気がします。
生身の足穂はひとりきりですが、足穂のファントムは十人十色、まさに変幻自在。そのいずれもが、銘々のゼーンズフトが足穂を核に結晶化した姿ではなかろうか…と、にわかにゼーンズフトづいている者として思います。
なお、私もチラッと資料提供者として名を連ねています。
おこがましい限りですが、私自身の足穂イメージをシガレットケースに詰め込んだ「タルホの匣(はこ)」を、今回会場に置かせていただくことにしました。オブジェ好きだった足穂への私なりのオマージュです。
まあ、足穂のファントムがさまざまであるように、足穂ファンの数だけタルホの匣もあり得ます。この小さな匣が、そのための呼び水になれば望外の幸せです。

































最近のコメント