世界はひとりの痴れ者によって窒息するのか2026年03月01日 19時18分12秒

トランプという人は、いったい自分を何だと思っているのでしょうか。

ハメネイ師について、その抑圧的な姿勢を批判するイランの人がいるのは事実でしょうが、だからといって、よその国が恣意的にミサイルを撃ち込んで、他国の指導者を抹殺していい理由にはなりません。

もはや無理が通り過ぎて、道理が憤死しかねない状況です。

それにしても…
前後の流れを見ていると、トランプという男はよっぽどエプスタイン文書から世間の目をそらしたいのかなあ…と勘繰りたくなるし、仮にそんな理由で子供を含むイランの人々が命を落としたのだとすれば、かける言葉が見つかりません。

彼は畳の上で死ぬべき人間ではないと、私は心底思っています。

暗い情念に突き動かされて2026年03月10日 06時05分25秒

先週の木曜日にちょっとしたイベントがあり、その準備に追われて記事が書けない…みたいなことを先日書きました。でも、その後もあいかわらず記事を書かずにいました。その間いったい何をしていたのかといえば、ずばり買い物にエネルギーを注いでいたのです。

再任用になって給料も減ったし、円安だし、燃料費高騰で送料も高いし、このところ海外からモノを買うこともめっきり減っていました。でも、先週の木曜はちょうど啓蟄で、何となく虫が動き出したというか、まあ虫に限らず、気温の上昇とともに活動性が上がることは、きっと何か生物学的要因があるのでしょう。

しかも間の悪いことに、私はそのタイミングで「おお、これは!」と思う品(天文モチーフを含む古画です)に出会い、何とか手に入れる算段はないかと必死に考えていました。そして、「もしあれが届いたら、こういう額縁をあつらえて、マットはこれで…」と、次から次へと妄想をふくらませていたのです。

それなのに、嗚呼それなのに、私がそれをお気に入りに登録した2日後、突如そこに「sold」の文字が表示されたのです。私の顔面は蒼白となり、名状しがたい悔しさと悲しさの奔流に、心ははげしく揺さぶられました。

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こういう場合、私の思考は静かな諦念に向かうよりも、「よし、あれ以上に素晴らしい品を ―-- あのときあれが sold になって良かった!と思える品を、絶対見つけるぞ!」という方向に向きがちです。これは一見ポジティブなように見えて、芯にネガティブな要素を含むので、あまり生産的ではないと思います(要は“自分をふった恋人を見返してやるぞ!”みたいな心理ですね)。

でも、人はえてしてネガティブな心に支配されている方が、一層大きなことをやらかすものです。私もこの間ずっと、この世のどこかにあるかもしれない「まぼろしの逸品」を探して、ずっとディスプレイの前に貼りついていました(まったく生産的ではありません)。

その帰結についてはあえて書きませんが、それは私の精神になにがしかの傷を残し、私の財布には一層大きな傷を残したのです(結局、あれこれ買物をしたわけです)。人はその愚かさを嗤うでしょうが、でも、私の手元にある品のうち少なからぬ部分は、そうやって集まったものなので、ネガティブパワーも決して侮れません。


「蒐集家の執念」というタイトルで Gemini3 が描いてくれた作品 。とても分かりやすい絵ですね。ピンセットを手に、この紳士が何をしているのかは不明ですが)

(では次に「古書蒐集家の情念」というタイトルで別の絵をお願いします…とオーダーしたら、こんな絵を返してきました。AIも手を抜くことを覚えたらしく、ますます人間臭くなってきました)

19102026年03月16日 22時15分54秒



ひどく分りやすい絵葉書です。
一見して、1910年を記念するニューイヤーカードとすぐ分かります。

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1910年はハレー彗星の年でした。
その近日点通過は4月20日で、さらに1か月後には地球に最接近し、その壮麗な、あるいは畏怖すべき姿を人々の目に焼き付たのです。(最接近時の距離は0.15AUといいますから、月までの距離の約60倍、火星最接近時の距離の半分弱です。遠いといえば遠いですが、この広い宇宙の中では、たしかにかなりの接近です。)

この年のハレー彗星は、「彗星騒動」の面が強調して伝えられがちですが、パニックになったのはごく一部の人で、大多数の人は「ふーん、彗星ねえ…」ぐらいの感じだったんじゃないでしょうか。当時の新聞では、彗星よりも国際紛争や景気の話題の方が大きな扱いだったことはもちろんです。


この絵葉書はハレー彗星がくる前年、1909年に作られたもので、例によってドイツ製。その繊細なクロモリトグラフと、金のエンボス加工に、ドイツ製絵葉書の黄金時代が偲ばれますが、ここでもハレー彗星は「怖いもの」というより、ひたすら「愛すべきもの」とイメージされていることが分かります。

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この絵葉書は以前、1910年のハレー彗星グッズのコレクター氏(ひどくニッチなコレクターですね)の本で見た記憶がありました。


著者の Roberta Etter と Stuart Shneider の両氏は、表紙ばかりでなくタイトルページにもこの絵葉書を登場させているので、かなり思い入れがあったのでしょう。


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絵葉書の裏面を見ると、消印は1909年12月30日付けで、あて先はシカゴに住む「Master Victor Herman」です。「マスター・ヴィクター・ハーマン」と聞いて、私は最初立派な髯の紳士を想像しましたが、AIによれば、「Master」というのは、「Mr.」未満の子どもに使う尊称で、「ヴィクター・ハーマン坊ちゃんへ」といった意味合いだそうです。髯を生やすのはもうちょっと先のようですね。

混沌からの秩序2026年03月18日 05時43分59秒

ハレー彗星の絵葉書を載せ、その絵葉書が載っている本を載せました。
しかし、その陰にあった苦闘についても、苦闘を味わった本人として書いておきたい気がします。

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この前の土日、例の絵葉書をネタに記事を書こうと思ったところから、苦闘は始まります。記事でも書いたように、この絵葉書は以前ハレー彗星に関する本で見た記憶があったので、ついでに写真を撮ろうと思って本を探したのですが、あるべきはずの所にありません。「おかしいなあ…」と、あちこちに積み上がった史料や本をどけているうちに、だんだん辺りが混沌としてきました。

「こんなことではいかん、あるべき物があるべき場所にないと、私の余生は探し物で終わってしまう」と一念発起、片付けを始めたのが土曜の朝のことです。それから延々と片付けを続け、最終的に終わったのは日曜の朝のことでした(徹夜したわけではありませんが)。


その成果の一端が上の写真です。
何がどう片付いたのか、これだけだと分からないと思いますが、本棚と天井の隙間が、これまではいちばんの「魔所」でした。何となく手頃な空間なので、何でもとりあえず突っ込んでしまいがちだったからです。

片付いた状態を改めて見るとどうでしょう、本の“スカイライン”が揃っていますよね。そして何よりも背表紙が見える。これが私にとってはすごいことなのです。

“エントロピーの局所的減少は、外部からのエネルギー供給によって行われる”。そのエネルギー供給こそが、私の苦闘の正体に他なりません。私は熱力学第2法則に果敢に挑み、そして部分的勝利を得たのです。

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片付けの過程で、まったく存在を忘れていた品や、そもそもなぜ買ったのか思い出せない品を見つけて、うろたえもしたし、嬉しい驚きを味わいもしました。まあ、それだけモノを買っても、買った当人はちっとも成長していないのは遺憾ですけれど、このブログにとっては裨益するところ大で、そこからまたいろいろな物語ならぬ「モノ語り」が始まることでしょう。

銀河と彗星2026年03月19日 18時55分01秒

2026年3月19日。

この日はある男性が花粉症を発症した日として、男性の周囲では永く記憶されるでしょう。花粉症はいきなり来る―。たびたび聞かされたことは都市伝説ではなく、きわめて正確な陳述でした。

ところで3月19日にちなむ事柄をネットで見ているうちに、次のような事実を知りました。

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1945年3月19日。

すでに本土空襲が常態化し、太平洋戦争も最末期の頃です。
その最前線で立ち働いていた米空母に「フランクリン」という艦がありました。

この日、「フランクリン」は神戸港攻撃のため、多数の艦載機を載せて高知沖を進んでいたのですが、そのとき雲を抜けて一機の日本機が突如として現れました。同機は2発の徹甲爆弾を投下し、いずれも甲板を貫通。艦上・艦内で次々と誘爆を引き起こし、フランクリンは激しい炎に包まれ、辛うじて沈没は免れたものの、死者700名あまりという大変な被害をこうむったのです。

すでに反撃能力を大幅に欠いていた日本からすれば、まさに「大殊勲」ですが、米軍の迎撃により爆裂四散したこの日本機を操ったパイロットの名も、そもそもどの部隊に属する何という機だったのかも、今では正確な資料が残っていないそうです。ただし識者よれば、おそらく第762海軍航空隊所属の陸上爆撃機「銀河」、もしくは第701海軍航空隊所属の艦上爆撃機「彗星三三型」だろうとのこと。

軍用機に「銀河」「彗星」という名を与えた関係者の思いを「ロマンチシズム」と呼ぶことにはためらいを覚えますが、やはりそこになにがしかのロマンチシズムが漂っていたことも確かでしょう。

とはいえ、「銀河」や「彗星」にまたがって洋上に散った若いパイロットが最後の瞬間に何を思ったのか、そして燃え盛る炎に焼かれたアメリカ兵たちの最期を思うとき、このロマンチシズムは、いかにも苦いです。されど…と、ここで再び逆接とともに、いくつかの言葉を飲み込むのですが、この辺はなかなか曰く言い難いですね。

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諸人の等しく安らかならんことを。

(天の川とアトラス彗星。Image by ぱくたそ)

花粉症盛衰記2026年03月21日 11時05分12秒

花粉症になってひどく頭が重いです。
思考力のみならず身体動作も影響を受け、キーボードを叩いていても、やたらタイプミスが目立ちます。

ところで花粉症、特にスギ花粉症って、いつから騒がれるようになったのかな?と気になり、例によって国会図書館のデジタルコレクションを見ていました。まあ成書には書かれていることかもしれませんが、自分なりに調べることも大事ですから、ここにサラッとメモ書きしておきます。

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ちょっと驚いたのは、1955年の「熊本医学会雑誌 29(補冊第5)」で、村上不二郎という耳鼻咽喉科の先生が、「本邦に於ては枯草熱、花粉症の如き或る特定抗原による定型的アレルギーが極めて少ないので…」云々と書いていることで、当時はスギに限らず、花粉症一般が本当に稀だったみたいですね。

その後、1958年の「第23回日本温泉気候学会」における発表演題に、「花粉症の研究(Ⅰ)空中花粉落下数の気象学的調査(其の一)」というのがあって(著者は荒木英斉・石崎達/「日本温泉気候学会雑誌 22(2)」所収)、この頃になって、花粉アレルギーがようやく日本でも認知されてきたようです。ただし、ここで検討されているのは、マツ属と Ragweed(ブタクサ)の花粉のみです。

(ブタクサ。ウィキペディアより)

そんな中、決定的ともいえる論文が1964年に出ました。

■堀口申作・斎藤洋三
 栃木縣日光地方に於けるスギ花粉症 Japanese cedar pollinosis の發見
 「アレルギー 13」1-2(1964年1月)

これは厚労省の「花粉症Q&A集」でも、スギ花粉症の初報告として言及されている記念碑的論文です。何せ「発見」ですから、スギ花粉症はこのとき研究者によって突如見出されたわけです。

ただし、当該論文は国会図書館のデータベースでは読めず、医・歯・薬学系の文献を抄録した「醫學中央雜誌」にタイトルがちょろっと出てくるだけです(194(3)、1964年3月)。でも、同じ著者による以下の論文は、その内容(抄録)を読むことができました(「醫學中央雜誌 201(1)」、1964年11月 所収)。

■堀口申作、斎藤洋三(東医歯大)
 スギ花粉症 Japanese cedar pollinosis に関する臨床的観察」(会)
 「日本耳鼻咽喉科学会会報 67(3増刊)」 532 (1964年3月)
  ※「(会)」は原著論文でなしに、学術集会等で発表されたものを意味する略号。

 「栃木県日光地方で杉花粉を Allergen とする花粉症を21例経験した。発病は三~四月に限られ、杉花粉が空中に撒布される時期に一致する。全例に鼻症状を認め、次いで眼結膜症状、咽頭症状等が見られる。好酸球増多は全例の鼻汁中に認められ、血中では16例が1m㎥中300以上を示した。鼻粘膜には急性乃至亜急性Allergie の組織像が見られ、杉花粉に因る皮内反応は21例中15例に陽性であった。」

(スギの雄花。同上)

これぞまさにスギ花粉症なんですが、この頃は何だか栃木県日光地方の風土病みたいな扱いですね。

さらに時代が下って、1970年7月の「醫學中央雜誌 259(2)」になると、

○Japanese cedar pollinosis
○二三の花粉症(Pollinosis)と其治療(特に減感作療法)
○空中飛散花粉(1)豚草花粉
○Italian rye grass 花粉症の一症例
○鼻 Allergy の Allergen 皮膚反応に関する二三の問題(花粉症の研究)(2)

といった論文が並んでいて、花粉症もすっかり市民権を得た観があります。
ここで上記の1番目と2番目の論文の内容(抄録)を引用しておきます。

■古内一郎、豊田安治、増野肇、坂野良一、高村節(日医大)
 Japanese cedar pollinosis(会)
 「アレルギー18(5)」415(1969年5月)

 「鼻 Allergy 34症例に就て検索した。杉の開花期に当る三月から四月に掛けて特有の鼻Allergy 症状を呈し、五月になると症状が消失する。年齢は5歳~55歳で、男19例、女15例である。家族歴に Allergy 歴のある者は18例であった。杉花粉に由る鼻粘膜反応は34例中29例に陽性で、此29例に Prausnitz-Künstner反応を行い、22例に陽性であった。〔以下略〕」

■宮部勲(慶大)、
 二三の花粉症(Pollinosis)と其治療(特に減感作療法)、
 「三越厚生事業団研究年報 4」83-92(1968年12月)

 「花粉症の中春先に起るスギ花粉症は著名である。ブタ草花粉症は九~十二月、スギ花粉症は三~五月に陽性率が高く、開花期に略一致して居る。効果判定は減感作療法の場合は開花期を過ぎてから継続して行うべきである。スギ花粉症15例とブタ草花粉症17例を検討し、自覚症状の改善と皮内反応減弱の間には並行関係はなかった。継続的減感作療法が有効であった症例は治療後の誘発反応が著しく減弱して居た。手術療法では下甲介切除術が有効であった」

宮部氏は「春先に起るスギ花粉症は著名である」と言い切ってます。
この頃には、老いも若きもさかんにクシュンクシュンするようになり、それだけ治療も喫緊の課題だったのでしょう。

この論文が発表されてから、すでに60年近くが経ちますが、当時から減感作療法に取り組んでいたことを誉めるべきか、あるいはその後も、これが唯一の根本治療であることを心もとなく思うべきか、まあそこが「文明病」とも呼ばれる花粉症のやっかいなところでしょう。世の中の「進歩」につれて、「異常な環境に対する正常な反応」が病気と見なされることが増えましたが、花粉症もその例かもしれません。

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その後、スギ花粉症はさらに猖獗を極め、私自身もついにそれに苦しめられることになったわけですが、今回、「スギ花粉症」を検索語として国会図書館の資料を探しているうちに、ちょっと面白いことに気づきました。この語を含む資料の出版年の分布です。

・1960~1969   14点
・1970~1979   96点
・1980~1989  900点
・1990~1999 2,491点
・2000~2009  541点
・2010~2019  399点
・2020~     104点

Excelでグラフにしてみると、こんな感じです。
 

スギ花粉症は70年代、80年代、90年代とうなぎ上りに世間の耳目を集めたあと、2000年以降は急速に活字となることが減りました(この傾向は「スギ花粉症」の代わりに「杉花粉症」としても、また雑誌を除く図書だけを検索しても変わりません)。スギ花粉症が社会問題となったのは、その意味で1990年代特有の現象でしょう。

その後は対症療法が進歩したせいもあるし、花粉症がごく当たり前の存在となったせいで、あまり話題にならなくなったということもあるでしょうが、何にせよ人間は何にでも慣れてしまうものです。

余談ながら、「アトピー性皮膚炎」を検索語にしても、まったく同じようなグラフが描けるのも、これまた興味深いことだと思いました。この二つはきっと何か関係があるでしょう。



【2026.3.22付記】 
…と思ったものの、これは単に、2000年代以降の出版物は、まだデジタル化と全文検索が不十分であることの反映に過ぎないような気もしてきました。その場合、上の結論は勇み足であり、誤っていることになります。詳しい方のご教示を待ちます。

日食に何を見るか2026年03月28日 14時57分23秒

さて、ブログも半ば放置状態ですが、ぼつぼつ記事を書くことにします。

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先日、こんな絵葉書を買いました。


時代は1900年代初頭、版元は裏面に「K.F. Editeurs, Paris」とあって、ここはチューリッヒの美術出版社 Künzli Frères(キュンツリ兄弟社)がパリに出した支店の由。まあ絵葉書の素性はそれとして、これが何を表しているのか、徹頭徹尾分かりません。


角を生やした悪魔が、悪魔らしからぬ表情でスヤスヤ眠っています。
隣には手紙を持った意地悪そうなウサギ。


他の男と車で出かけようとする奥方(?)が、悪魔男にむかって手を振り、そこに「皆既日食」の文字。(この語があったから私の探索に引っかかったのです。)


その上にいるのは、これまた皮肉な笑みを浮かべた、蝶だか蛾だかの妖精。

フランス流のコキュ(寝取られ男)をテーマにした、シニカルなユーモア絵葉書だと思うんですが、その“絵解き”がまったくできません。いったい何なんでしょう?

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ときに今日の紙面で、つげ義春さんの訃を知りました。
まこと皆既日食に際会した気分です。


起き臥しによって瞼を開閉するねじ式の目を手に


瞑目して合掌―。

この日食は永遠に終わることはありませんが、その分、壮麗なコロナがいつまでも神秘の光を放ち続けるはずです。

屈折式・反射式・おざ式2026年03月31日 22時34分55秒

日食のことを書き、つげ義春さんのことを書きました。

書き終わってから、チカッと私の中に光るものがあって、何だろうなあ…としばらく考えているうちに、それは赤瀬川原平さん(1937-2014)のことだと気付きました。なんだか「さん」付けでなれなれしいですが、お二人は私の中ではずっと「さん」付けなので、ここでもそのままお呼びします。

原平さんは、前衛芸術家であり、芥川賞作家であり、文筆家でもありましたが、『ガロ』の版元・青林堂にも一時出入りして、当時の編集長・南伸坊氏に乗せられて、「ねじ式」のパロディ漫画「おざ式」を描いたりしていました。(ちなみに原平さんとつげさんは、ともに1937年生まれの同い年です。)

(『ガロ』1973年7月号掲載。『ガロ二〇年史 木造モルタルの王国』より)

そして原平さんは、天文ファンでもあり、「遅れてきた天文少年」(ご自身の表現)として、南伸坊氏や渡辺和博氏らとともに「ロイヤル天文同好会」なる会を結成し、憧れのタカハシ製6.5cmフローライトを買い、ついには「天文ガイド」誌上で連載記事を持つまでになります(1992年2月号~95年2月号)。

 「夢にまで見た高橋製作所は、まさに製作所という感じで、つげ義春のマンガに出てくる町工場みたいだった。そうだ『ガロ』の青林堂にはじめて行ったときもこんな感じだったと思い出した。その聖なるタカハシの二階の事務所に昇る狭い木の階段が、ぎしぎし軋んだ音をよく覚えている。」 (「遂にタカハシを買う」、初出は天文ガイド誌、後に単行本『ゴムの惑星』(1995)所収)

そしてロイヤル天文同好会の面々と日食観測に赴き、1991年のメキシコ皆既日食の際に撮影した写真は、アート作品として、展覧会場を飾ったりもしたのでした。

『赤瀬川原平展 [ステレオ写真-メキシコ皆既日食旅行編] 』 図録より)

(ロイヤル天文同好会会長・田中ちひろ氏撮影。『[大阪ステレオ博-立体写真館] 脳内リゾート開発事業団 赤瀬川原平/太田孝幸/高杉弾/田中ちひろ/徳山雅記)』 図録より)

ちなみに、赤文字で示した2つの展覧会はともに1992年6月6日~27日まで、大阪市内の別会場で開かれました。そして2つの図録は、実は同じものです。

(表・裏表紙にそれぞれの展覧会名が印刷されています)

「あれ、どういうこと?」と思いましたが、すぐに「ああそうか。この写真展自体が「ステレオ」企画なのか…」と気づきました。まことにどこまで本気で、どこまで冗談なのか分からないところが原平さんらしいわけですが、原平さんにとっては本気も冗談もなくて、すべては「あそび」であり、「数寄の道」だったのでしょう。

原平さんもつげさんも、実に一代の畸人と呼ぶに足る人たちでした。