天文アンティークの夕べ2023年02月26日 08時44分06秒

(今日は2連投です)

それまで「鉱物Bar」をイベント開催されてきたフジイキョウコさん(Instagram 、Twitter )が、東京・吉祥寺に鉱物Barの実店舗を構えられたのは、2020年夏のことです。しかし、遠くから憧れつつ、まだお店をお訪ねしたことはありません。


でも、そこで行われる最新のイベントが「天体嗜好症展」であり、さらにスペシャルイベントとして、「ofugutan」さん)こと今井麻裕美さんによる天文アンティークのトークショーが2月25日にあると知って、「うーむ、これは…」と、心のうちで大いに期するものがありました。

何とかスケジューリングできないものかと悩んでいたところ、フジイさんから「当日、インスタライブを行いますよ」という吉報がもたらされ、昨日ディスプレイごしに無事参加がかなったのでした。

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今井麻裕美さんはライター・編集者として活躍される一方、博物蒐集家であり、空を愛する「星のソムリエ」であり、そこから天文アンティークの収集もされている方です。

古い日時計の話に始まり、星たちがくるくる回るメカニカル・マジックランタンの上演、スペースエイジの息吹を伝える、当時の月球儀やスプートニク形のウェザーステーション、天体モチーフのジュエリーの紹介、そしてアンティーク望遠鏡の登場―。

素敵な品に目を喜ばせ、今井さんの愉しいトークに耳を傾けながら、ふと気づいたことがあります。「そういえば、自分以外の誰かが天文アンティークの魅力を語っているのを、こうして生で見聞きするのは、生まれて初めてだなあ…」と。

あまたの天文アンティークを前に、「ああ綺麗だね、ああ興味深いね」という人は少なくありませんが、実際それを蒐めようと思う人はごくわずかでしょう。ですから私の潜在意識において、何となく自分のやっていることに孤絶感がありました。それだけに、こうして熱心にその魅力を語る人の姿を目の当たりにして、嬉しくもあり、大いに感動もしたのです。本当に参加できてよかったです。

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貴重な機会と、心豊かなひとときを与えていただいたフジイさんと今井さんに、改めてお礼を申し上げます。

「天文古玩とは何か?」― 識者に聞く2023年01月17日 20時13分39秒

不易あれば流行あり。
ChatGPTがネットで話題のようなので、私も流行に触れてみました。ChatGPTというのは、AIによる対話シミュレーターというか、要はSiriの親玉みたいなものです。ログインすると、何の準備も不要ですぐ使えるのが便利なところで、さっそく知りたいことを尋ねてみました(クリックで拡大)。


うーむ、なかなか巧みに答えますね。ただ、AIは「天文古玩」を「天文アンティーク」と同義ととらえているようだったので、ちょっとそのことも聞いてみます。

私: 天文古玩と天文アンティークとは同じ意味ですか?それとも違う意味ですか?

ChatGPT: 「天文古玩」と「天文アンティーク」は、どちらも古い天文学に関連した道具や機器などを指します。天文古玩は、古い天文学に関連した道具や機器を収集、評価することを楽しむ人たちが使う言葉です。天文アンティークは、古い天文学に関連した道具や機器を指して、古美術商などが使う言葉です。

ただし、「天文古玩」と「天文アンティーク」は、概念上は同じ意味ですが、使用する場面や目的によっては、意味合いが異なることもあるかもしれません。そのため、「天文古玩」は、天文学者や天文史学者などの専門家によって使用されることが多いですが、「天文アンティーク」は、古美術商や古物商などが使うことが多いです。

意味が通っているような、通ってないような、そこはかとなく「ああ言えばこう言う」感はありますが、巧みといえば巧みです。
しかもAIは言葉巧みなだけでなく、なかなか物知りでもあります。

私: 天文古玩についての学術論文を教えてください。

ChatGPT: 天文古玩に関する学術論文は多数存在します。特に、歴史的な天文器具や書物についての研究は、天文学史や技術史の研究において重要な役割を担っています。以下に幾つかの例を挙げますが、これらはあくまで一例であり、専門家によってはさらに多くの論文があるかもしれません。

"The History of the Telescope" by Henry C. King (1955)
"Astronomical instruments of the Islamic world" by David A. King (2010)
"A History of Astronomical Instruments" by J.A. Bennett (2003)
"Astronomy in the Low Countries" by J.A. Bennett (2008)
"The history of astronomical observing instruments" by Giorgio Strano (2018)

これらの論文は、大学や研究所のライブラリーで利用することができるか、学術雑誌のオンライン版で閲覧できるかもしれません。また、天文古玩に関する研究は、天文学や歴史学などのさまざまな分野で行われているため、それぞれの分野の学会や学術誌でも論文が発表されていることがあります。

なるほど。ただし、ここには重大な落とし穴があって、ChatGPTが教えてくれる著書・論文には大量の嘘が混じっていると言われます。上に挙がっている本はどれももっともらしいですが、どうやら2番目以降はデタラメっぽいです。

最後に大切なことを聞きます。


どうもはぐらかされているような気がするし、彼は平気で嘘もつきますが、私の知りたいことに対して、少なくとも私の家族よりは、はるかにうまく答えることができます。「なるほどなあ…」と感心しつつ、ここまでくると、「あたかも自我があるようにふるまう対話シミュレーター」を作ることも、意外に簡単かもしれず、子供の頃に想像した未来は、すぐ足元に来ている感じがします。

(楳図かずおの『漂流教室』に出てくる「物言うコンピューター」)

惣める話2022年12月30日 21時16分59秒

昨夜夢を見ました。

なにか気の利いた博物趣味の品を探しに行く夢です(ここに昨日の記事が影響しているのは確実です)。でも、お目当てのデパートに着いても、その売場が思い出せず、「あれ?以前ここで買ったのは夢だったのかな?いや、でも買ったときの記憶は鮮明だから、自分は確かにここで標本を買ったはずだ…」と右往左往する夢です。

夢の中にいながら、以前その店で買ったという記憶が本当に鮮明に感じられて、もちろんその記憶自体、夢の中で作り上げた偽りの記憶なんですが、その鮮明さが目覚めたあとも、私に不思議な印象を残しました。なんだか莊子の「胡蝶の夢」の逸話のようです。

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さて、昨日書いたことを反芻しながら、改めて考えたことを、もう少しだけ書きます。(似たようなことを以前も書いた気がしますが、自分に言い聞かせるために、もういっぺん書きます。)

(彩りとして昨日貼りきれなかった写真を貼っておきます。)

対象を見慣れることで、そこから得られる驚異―感動と言ってもいいです―が薄れるという話。そこに決定的に欠けているのは「対話」だと思います。

モノではなくて、人間相手で考えてみます。

相手が家族でも恋人でも友人でも、見慣れるだけならとっくに見慣れているし、ある意味これ以上見慣れた存在もないんでしょうが、だからといって、見慣れたからそれで終わり…なんていうことはないですよね。そこには言語的・非言語的コミュニケーションがあり、たえず影響を及ぼし合い、常に新たな気付きと学びがあります。ともに過ごす時間の中で、ときに気の利いたやりとりがあり、ときに厳しいことを言われつつも、同時に大きな慰藉と励ましがあります。あるいは言葉はなくとも、ただそこにいてくれるだけで良かったりします。


これはモノとの関係でも、まったく同じじゃないでしょうか。
まあ、すべての人間関係が情愛と友愛で彩られているわけではないように、モノとの関係も文字通り即物的な場合も多いんでしょうが、少なくとも向き合うに足る相手と思って手元に引き寄せた品ならば、もっとゆっくり対話してしかるべきだと思います。

やたら目新しさを求めて次から次になんて、なんだか不品行な猟色家のようです。もっとも、猟色家には猟色家の言い分があるのかもしれませんが、やっぱりそこには何か大きな欠落がある気がします。モノと向き合う雅量に欠けると言いますか。


もちろん、上のことは反省を交えて書いているので、自らの雅量の乏しさを大いに嘆かないわけにはいきませんが、上のようなモノとの付き合い方が理想だという思いは平生から強いです。そして、そういう付き合い方こそが、結局いちばんタイムパフォーマンスがいいことにならないだろうか…とも思います。タイムパフォーマンスとかいうと、なんだか浅薄な感じもしますけれど、人生の有限性が身にしみるこの頃、それは結構切実な問題です。

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物に心と書いて「惣」。そして、この字は「惣(あつ)める」と訓ずるそうです。



驚異の部屋にて2022年12月29日 16時16分03秒

先日、所用で東京に行ったついでに、しばらくぶりに東京駅前のインターメディアテク(IMT)を訪ねました。この日は一部エリアが写真撮影OKだったので、緑の内装が美しい「驚異の小部屋・ギメルーム」で盛んにシャッターボタンを押しながら、かつて東大総合研究博物館の小石川分館で開催された「驚異の部屋展」(2006~2012)のことなどを懐かしんでいました。


ただ、「ワクワクが薄れたなあ」ということは正直感じました。
昔…というのは、このブログがスタートした当初のことですが、あの頃感じたゾクゾクするような感覚を、今のIMTから汲み取ることができないのは、我ながら寂しいなあと思います。もちろんこれはIMTのせいではなくて、見慣れることと驚異は、本来両立しないものです。


当時、「驚異の部屋展」会場で味わった、未知の世界を覗き込むあの感じ。
思えば、あれは私にとっての大航海時代であり、ひるがえって、大航海時代のヴンダーカンマーの先人たちが味わった感動は、あれに近かったのかもしれません。


…と、ここまで書いて「いや、待てよ」と思いました。

ここでもう一段深く分け入って考えると、「見慣れる」ことと「熟知する」ことは、まったく別物のはずです。私はギメルームに居並ぶモノたちを、なんとなく見知った気になっていますが、じゃあ解説してみろと言われたら、言葉に詰まってしまいます。私はそれを知った気になっているだけで、実は何も知らないのです。そして、一つひとつの品に秘められた物語を知ろうと思ったら、その向こうに控えている無数の扉を開けねばならず、それはやはり広大な未知の世界に通じているのでした。


それは新幹線でIMTまで出かけなくても、私が今いる部屋にゴタゴタ置かれたモノたちだって同じことです。私はまだ彼らのことを本当には知りません。だからこそ、こんな「モノがたり」の文章を綴って、彼らの声を聞き取ろうとしているのだ…とも言えます。


ヴンダーカンマーが「目を驚かす」ことにとどまってるうちは、まだまだヴンダー白帯で、その後に控えている「学知の山脈」に足を踏み入れてこそ、ヴンダーの妙味は味わえるのだ…と、「ワクワクが薄れたなあ」などと、生意気な感想を一瞬でも抱いた自分に対する自戒を込めて、ここに記したいと思います。

英雄たちの選択…ある古書の場合(前編)2022年11月05日 10時35分31秒

古書の状態表示は、英語だとまずFine(新品同様)Near Fine(ほぼ新品同様)から始まって、Very Good(良好)Good+(まずまず)Good(経年並み)と続き、最後にFair(可)というのが来ます。


GoodとFairは、業者によっても相当判断に幅がありますが、少なくとも「状態がいいとは言えない」ということで、「古書のGoodはGoodではない」というフレーズが囁かれるゆえんです。さらにFairともなれば、相当ボロボロの本を覚悟しなければなりません(日本の業者なら、はっきり「状態悪し」と書くところです)。

しかし、下には下があって、さらに「Acceptable」という表現があります。これはFairと同義で使われることもありますが、区別する場合は「本として読めないことはない」、すなわち商品として流通しうる下限に相当し、これより状態が悪ければ、すなわち紙屑です。

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…というのが話の前置き。

先日のマックノート氏の本に触発されて、1冊の本を注文することにしました。
その時点でネット上に売りに出ていたのは、以下の3点です。
1冊は判型が初版よりも一回り小さい後版で、状態の良くないもの。残りの2冊は初版ですが、1冊は上記の「Acceptable」で、状態は極め付きに悪そうです。最後の1冊は申し分のない美本ですが、お値段はウン万円以上するし、しかも海外発送はしない業者の取扱品です。

さて、ここで一番賢明な振る舞いは何か? 
NHKの歴史番組「英雄たちの選択」よろしく、そのときの私の心のうちに分け入ってみましょう。

選択A 「ふーむ、同時に3冊も市場に出ているということは、この本は決して稀本ではないのだろう。だったら、もう少し待てば、まずまずの状態で、もっと値頃の品が出てくる可能性は高い。ここはいったん購入を保留して、好機を待つのはどうか。」

選択B 「いや、古書との出会いは一期一会。ここで出会いを無下にして、あとで後悔しても遅い。ここはあの美本に目星をつけて、まずは先方と発送の可否や価格について交渉してみるのが良いだろう。最終的な選択はそれからでも遅くはないはずだ。」

さて、皆さんだったら、どんな選択をするでしょう?


まあ、これはどちらも理のあることで、たぶんAを主体にして、Bを並行して試みるというのが、磯田先生(「英雄たちの選択」の司会者)的には正解だと思います。

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しかし私が最終的に選択したのは、そのいずれでもなく「Acceptable」な1冊でした。
果たしてそれがどんな結果を招いたか、それを以下に書きます。

(この項、緊張感をはらみつつ続く)

なぜ天文古書を?(後編)2022年09月11日 09時37分56秒

スチュアートさんの書き込みを読んだとき、実は微妙な違和感がありました。
それは、スチュアートさんが「天文古書なんて古臭いものを、なぜ一部の人は集めるのか?」と問うていたからです。

もちろんスチュアートさんの真意は全く違うところにあると思いますが、その問いの前提ないし含意は、「天文古書は古臭くて、実用性に欠け、そうしたものは読んでもしょうがないんだ」という考え方です。でも、私が天文古書に惹かれる理由(のひとつ)は、まさに「古風で実用性に欠ける」からなので、出発点からして全然違います。

(賑やかしの演出写真。以下も同じ)

京の伝統町家や、優美な茅葺の古民家を、単に「古臭い」とか「住みにくい」とかいう理由で取り壊して、新しい家に建て替える――実際そうした例は多いし、それは住む人の権利だとは思いますが、一部の人にとっては、はなはだ嘆かわしいことでしょう。私が天文古書をいとおしむ気分は、それに通じるものがあります。

人から人に伝わってきた古いものは、それだけで慈しむに足るし、ましてやそこに優美さや、往時の人の思いが感じられれば、それを尊重しないわけにはいきません。

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ここでちょっと注釈を入れておくと、「天文古書には実用性がない」と書きましたが、ある立場の人にとっては、天文古書にも立派な実用性があります。それは、過去の学説史を学ぶ人、つまり「天文学史」の研究者で、そうした人にとって、天文古書は大切な研究材料であり、いわば飯の種です。

研究こそしていないものの、私も興味関心は大いにあるので、天文学史家にはシンパシーを感じます。でも極論すれば、研究目的のためだけなら、デジタルライブラリでも事足りるので(今後、古書のデジタル化はますます進むでしょう)、モノとしての本は無くても良い…ということになりかねません。この点で、私の立場は純粋な天文学史家ともズレる部分があります。

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「天文古書好き」というのは、「天文好き」と「古書好き」の交錯領域に成り立つものでしょう。「真理を説く」という科学書の第一目的から逸脱してもなお、古民家のごとくそれを愛惜するというのは、もっぱら後者の観点からです。いわば審美的観点。


実際、天文古書はビジュアル面でも優美と呼ぶほかないものが多々あります。
古風な装丁もそうですし、その美しい挿絵の数々には、まったく目を見張らされます。まあ、美しい挿絵ならば現代の本にも多いわけですが、天文古書の場合は、まさに「古い」ということが重要な要素です。それは自分と過去の世界とのつながりを保証するものであり、甘美なノスタルジーを存分に託せるだけの頼もしさを備えています。

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そして、これまで何度も口にしてきた星ごころ」

16世紀の人は16世紀なりに、19世紀の人は19世紀なりに、そして21世紀の人は21世紀なりに、精いっぱいの知識と知恵で星空を見上げ、そこに憧れを投影してきたという事実、それが私のシンパシーを誘うわけです。この点では、古いも新しいもなくて、みな同格です。いずれも熱く、そして優雅な営みだと思います。


そして、現代の星ごころを知るためのツールはたくさんありますが、過去の人の星ごころを知ろうと思えば、何といっても天文古書が良き窓であり、好伴侶です。それが天文古書を集める大きな理由です。

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スチュアートさんの問いに対する答をまとめておきます。

「あなたは天文古書を集めていますか?」
はい、集めています。

「誰の本を?」
過去のあらゆる時代の星好きが著した本です。

「どんな本を?」
優美で、愛らしく、星ごころが横溢した本です。

「なぜ?」
それがまさに過去に属し、古人と語らう場となるからです。また審美的にも優れたものが多く、ロマンを感じさせるからです。

なぜ天文古書を?(中編)2022年09月10日 09時50分04秒

最近消耗しがちで、これがコロナの後遺症か?と思ったりもしますが、まあ普通に夏の疲れが出ているのでしょう。いくぶん間延びしましたが、話のつづきです。

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スチュアートさんの問いかけに、何人かの人が書き込みをしていました。

そこには、たとえば「いや、天文古書は今でも貴重な情報源だし、十分役に立ってますよ」という真面目な反論もあり、「私は知らず知らずのうちに天文古書を収集していました。つまり買ったときは別に古書ではなかったんですが、今や持ち主同様、老いぼれてしまったんです」という軽口もありました。

中でも、いちばんしみじみした意見は以下のようなものです。

「昨夜、シャープレスとフィリップスの『天文学』(1872)を通読しました。冥王星はまったく想像の外でしたが、バルカンの存在は考慮されていました。研究が進めば、水星と太陽の間にある惑星バルカンの存在が、いずれ証明されるだろうと本書は述べています。この学術的な著作を読了後に、私もきっとそれが実現すると確信しました(笑)。

この本を、数年前に手に入れた別の本と比較してみたいと思います。それは『望遠鏡の驚異。あるいは星空と宇宙体系の大観。天文学習の促進および簡便化のために。銅版画入り』という本です。同書はさらに『ロンドン。発行者ウィリアム・ダートン(版権譲渡)。ホルボーンヒル58番地。1823年』と付け加えることで、一層長ったらしい題名になっています。

(たまたま手元にあった『望遠鏡の驚異』の1805年版。版権譲渡前なので、版元はリチャード・フィリップスになっています)

本書の一節を読めば、我々が誰の肩の上に乗っているのか明らかです。それは、著者が「ハーシェル惑星」と呼んでいるものについてです(天王星の名が一般的になったのは、1827年頃で、本書が発行されてから4年後のことだと思います)。著者は人が住む惑星に関するハーシェルの意見に賛成しています。

曰く、「この惑星にも何らかの種族が住んでいると信じるべき、あらゆる理由がある。ハーシェル惑星は、我々が住む地球と同様、何百万人もの人々の幸福な住処である。我々に理解可能な方法や、説明可能な法則を用いてではないにしろ、彼らもまた創造主の善意を賛嘆していることだろう。何となれば、この世界をお作りになり、太陽がない間も明るく照らすため6個の衛星をこの惑星に与えた大いなる方は、居住者をその居住地に叶う姿にすることもできるのだから。」

くだくだしい文章ですが、非常に興味深い内容で、これは過去の世界に開かれた素晴らしい窓です。

(上掲書口絵の太陽系図。土星には7個、天王星(当時の“ハーシェル惑星”)には6個の衛星が描かれています)

技術面に目を向けると、最初の本(『天文学』、1872年)によれば、ワシントンの国立天文台では、毎日正午の時刻を慎重かつ厳密に計算した後、この情報をいくつかの重要な関係各方面に「電報」で送るのだそうです。

彼らの考えのうち、現在では正しくないものでも、私は別に滑稽だとは思いません。そうした考えは、当時得られていた最良の情報に基づく結論だったのですから。私自身の考えにしたって、十分考え抜いたはずなのに、後から振り返ると、愚かしく思えることもあります。

まだ幼かった1950年代、私たち一家はコロンビア空港への最終進入路の近くに住んでいました。庭に寝転がって星を見上げ(その頃ヒアリはまだいませんでした)、8時のイースタン航空のコンステレーション機が飛んでくるのを、わくわくしながら眺めたものです。頭上から低空飛行で轟音が響いてくると、巨大な星型エンジンの鼓動が感じられるのです。その後、ある日ジェットエンジンを搭載した新型機が飛んできました。私は子供心に、いつかジェット機に乗れる日が来るのかだろうか?と、いぶかしく思ったものです。でも、当時主流だったコンステレーションのような民間プロペラ機には、結局これまで一度も乗ったことがありません。私の数多くのフライトは、すべて何らかのジェットエンジンによるものです。」

とはいえ、最後の人を除けば、明瞭に天文古書コレクターといえる人の書き込みはありませんでした。それに、あまり話題が発展したようにも見えません。Cloudy Nights に書き込むような人は、わりとディープな天文ファンだと思うんですが、それにしたって、天文古書の話題はマイナーなんだなあ…と、改めて思いました。しかも2005年の時点で、すでにそうだったわけです。

そして、上の投稿から9年後の2014年に、私自身が以下のような記事を書きました。

■天文古書の黄昏(1)
天文古書界で有名だった、ポール・ルーサー氏が商売をたたみ、ひとつの時代が終わったことを述懐する内容で、それを悲しむ他の人の声も紹介しました(連載は3回にわたって続きました)。

その後さらに8年が経過し、天文古書の世界はさらにシュリンクした感もありますが、スチュアートさんの問いに、今の私ならどう答えるか?を、次回書きます。

(この項つづく)

なぜ天文古書を?(前編)2022年09月06日 19時17分47秒


(英国王立天文学会の図書室。同学会のfacebook投稿より。正面は同学会の初代事務局長を務めたFrancis Baily(1774‐1844)の肖像)

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このブログが始まったのは2006年1月で、もう16年も前のことです。
そのちょっと前、2005年12月に、「Cloudy Nights」(※)の片隅で、1つのはかなげなスレッドが立ちました。

(※)Cloudy Nights」というのは、アメリカをベースとするアマチュア天文家の巨大掲示板・兼・情報サイトです。

スレ主はハンドルネーム「ガンダルフ」、ことスチュアートさんという方です。17年前から響いてくる、その声に耳を傾けてみます。(私がこの投稿に気づいたのは数日前ですから、なんだか17光年先から届いたメッセージのような気がします。)

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 「多くの天文家は本棚の一つや二つ持っているでしょうし、それを見れば趣味の進展具合も分ろうというものです。

しかし、天文古書を集めている人となると、一体どれぐらいいるものでしょうか?そしてその理由は?

天文古書は、クラシック望遠鏡とはいくぶん異なる点があります。すなわち、そこに書かれた情報はあらかた時代遅れになりつつあるし、説明されている理論の中には、最新の研究成果―いわば後知恵(笑)―を身につけた現代の天文ファンには荒唐無稽に思えるものもあるでしょう。 それに対して、たいていのクラシック望遠鏡は、今でも十分実用になりますし、現行品に代わる立派な選択肢となりうるものがたくさんあります。

では、なぜ天文古書を集めるのでしょう?過去とのつながりを保つため?偉大な天文学者や、私たちアマチュアの先人の心を学ぶため?書物愛や装丁が好みだから?それとも現代の天文学の知識を、広い視野から捉えるため?

個人的なことを言えば、私は自分自身の研究上の興味から細々と収集を行っています。以前蒐集した本の多くは、英国天文学史学会(Society for the History of Astronomy)のロバート・ボール卿参考図書館(Sir Robert Ball reference library)に寄贈してしまいましたが、現時点では、もっぱら以下の3つのテーマに力点を置いています。

1. 月とその歴史、観測、探査
2. 天文学者であり放送作家でもあるパトリック・ムーア卿の作品
3. 科学者でありSF作家であるアーサー・C・クラーク卿の作品

あなたは昔の天文学や宇宙の本を集めていますか?誰の、何の本を?なぜ?

それとも、そのような本はまったく時間の無駄だと考え、趣味の参考書としては、最新のテキストだけを持っているのでしょうか?

スチュアート」

(ロバート・ボール卿参考図書館の内部。英国天文学史学会のサイトより)

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一口に天文アンティークといっても、古書と望遠鏡では意味合いが違う…という指摘は、これまであまり考えたことがありませんでしたが、言われてみれば確かにその通りです。要はアンティーク望遠鏡は実用性があるが、天文古書には実用性がない、ということでしょう。そして、その「実用性」を欠いた天文古書をあえて集めるとすれば、その理由は何か?というのが、スチュアートさんの問いです。

これに対して、当時の人々が何と答え、今の私自身ならどう答えるか?
それを腕組みしながら考えてみます。

(この項つづく)

円安時代をどう生きるか2022年09月03日 09時52分27秒

その後も円安傾向が止まらず、1ドル140円になったとのニュースが流れています。

(本日のGoogleFinanceの表示)

円安になると、海外のものは当然買いにくくなります。
1ドル100円の時代なら、100ドルのものを買うのに10,000円出せばよかったのに、1ドル140円になれば、14,000円出さないと手に入らない理屈ですから、これは辛いです。

まあ、輸入品の価格がいくら上がろうが、それに応じて給料も上がるならいいですが、今の日本は(輸出で潤っている一部企業を除いて)そうなってないので、海外からモノを買い入れることが趣味だ…なんていう人にとって、円安はあまり嬉しくないニュースでしょう。私もどちらかといえば、その一人です。

「ああ、こんなことならドル建てで預金しておけばよかったなあ…」なんて、その気もなかったくせにボヤいてみても、まさに何とかの遠吠え。

でも一瞬ひらめいて、「いや、待てよ。円高の頃に買ったあれこれを、今のレートで換算したら、途方もない金額になっているはずだ。これはひょっとして、相当な含み資産を抱えていることになるんじゃないか?」とも思いましたが、これまた捕らぬ狸の何とやら。その「途方もない金額になったあれこれ」を、一体どこの誰が買うというのか?

要するに、天文アンティークや天文古書は、資産としての流動性が極端に低いので、そこにも円安メリットは無いに等しいです。

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…というような、ソロバン高い話は、あまり趣味の世界にはなじまないでしょう。
もちろん私も現実世界に生きているので、お金のことは気にはなります。気にはなりますけれど、そもそも、そういう「下界の雑事」からいっときでも離れるための天文古玩趣味ではなかったか?という思いもあります。愛すべき品々を、一瞬でも「資産」と考えた時点で、「キミもずいぶん俗物だね」と自嘲したくなります。

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とはいえ(と、もういっぺん逆接をはさみますが)、欲しいものがどんどん遠いところに行ってしまうのは、やっぱり悲しいことです。

それを乗り越えるには、これまで以上に丹念に、思慮深くふるまうことが求められている気がします。懐が乏しいなら乏しいなりに、その範囲でなるべく面白いもの、美しいものを見つけるため、一層の努力をすること。これまで見えてなかったものに、よく目をこらすこと。身の丈にあったものを、よく吟味して買う姿勢に徹すること――。私も定年後にそなえて生活のダウンサイジングを求められているので、その辺を見直すにはちょうど良い機会です。

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「え?生活を見直すとか何とか言いながら、結局買っちゃうんだ。一体それのどこが思慮深いの?」という内なる声も聞こえます。

「まあ、理屈でいえばそうだけどさ。でも理屈を超えて、そこが自分の自分らしさだという気もするんだよ。仮にマグロが生活を見直して、泳ぐのをやめたら死んじゃうじゃない?」と、反論にならない反論をする自分もいます。

あまり物に執着するのもよくないですが、人は物にいろいろな思いを託し、その限りにおいて物は物以上の存在なので、まったく物なしで生きることも難しいです。大切なのは物との距離感ですかね。

ガラスの底の宇宙2022年02月04日 18時14分19秒

大自然の猛威を前に、人々はなすすべもなく立ち尽くしていた…。
今回のコロナ騒動を眺めていると、そんなステロタイプな言い回しが自ずと心に浮かんできます。確かにcovid-19も自然の一部には違いありません。

でも、それを言うなら、我々だって自然の一部です。
人は自然を何となく自分の外にあるものと思って、「ヒト 対 自然」の構図で物事を考えがちですが、covid-19の場合、外にあると思っていた自然が、実は自らの肉体の内部にまで広がっていることを痛感させてくれました。人とウイルスの主戦場は、ワクチン接種会場や医療機関などではなくて、我々自身の肉体の内部です。ウイルスにとっては、我々の肉体そのものが広大な「環境」であり、我々は宇宙の階層構造にしっかり組み込まれているのでした。

オミクロンに振り回されて、この間まったくブログも放置状態でしたが、ようやく第6波もピークが近い兆しがあります。何とかこのまま終息し、我々を取り巻くささやかな宇宙に早く平穏が戻ってきてほしいです。

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そんなこんなで、久しぶりに自ブログを開いたら、新しいコメントを頂戴しているのに気づきました(尚桃さま、ありがとうございました)。それは実に16年前の記事へのコメントで、内容は星座早見盤を組み込んだペーパーウェイトの紹介記事です。


■銀河鉄道の地図

読み返すまでもなく、記事を書いたことも、記事を書いたときの気分もはっきり覚えています。と同時に、しみじみ懐かしさを感じました。文章もそうだし、書き手である私も、今よりずっと素朴な感じがします。


この16年間、何が変わって、何が変わらないのか?
変ったものは、何といってもモノの量です。まあ、16年間も天文古玩周りの品を探し続けていれば、いい加減モノも増えます。それにまつわる知識の方は、必ずしもモノの量に比例しないので、増え方は緩やかですが、これもまあちょっとは増えました。


一方、変わらないもの。それはやっぱり「星ごころ」であり、賢治や足穂を慕う思いです。だから例のペーパーウェイトを前にすれば、昔と同じようにいいなあ…と思うし、銀河を旅する少年たちの面影をそこに感じるのです。その気持ちがある間は、まだまだ天文古玩をめぐる旅は続くでしょう。


部屋の窓から見上げれば、そこには宇宙がどこまでも広がっています。
そして机上のガラス塊を覗き込めば、その底にも漆黒の宇宙があり、銀河が悠然と流れているのが見えます。そのとき銀河は私の瞳や心の中をも同時に流れ、そこを旅する少年たちの声が、すぐ耳元で聞こえるのです。