賢治の心象、心象の賢治2026年06月27日 15時05分02秒

書店に寄ったら、パッと目に付いた本。


■別冊太陽 日本のこころ333
 『宮沢賢治 詩の世界 ― 心象スケッチを旅する』
 平凡社、2026

「そうか、今年は賢治の生誕130年か…」と思いました。
彼は1896年に生まれ、1933年に没しました。7年後の没後100年の折には、きっと今回以上に盛り上がりを見せるでしょう。

賢治も今や立派な国民作家。
しかし、賢治の詩は難解です。「一読平明にして、人の心を打つ」というよりは、「一読晦渋にして、人の首をひねらせる」ところがあります。


まあ、これは私が詩を「コトバ」寄りに捉えがちだからそう思うのかもしれません。
コトバはメッセージを伝える道具であり、詩を理解するとは、記号列に encode された作者の意図を、その逆の順序で decode することだ…みたいに思い込んでいるから、首をひねることになるのでしょう。

でも、詩とはメッセージではなく、イメージないし体験を伝えるものだ…と、これを書きながら思いました。その意味で、詩は小説よりも音楽に似ています。極端な話、音楽はコトバを一切使わなくても、イメージや体験を伝えることができるし、人はそこに感動を覚えます。(ただし、詩は原理的にコトバを離れて存在することはできないし、演奏家と聴き手がたいてい同じ人間である点が、ちょっと音楽とは違います。)


賢治の詩も、そのコトバの連なりが運ぶのはメッセージではなく、コトバ以前のイメージであり、ある種の体験です。すなわち「心象」。賢治が第一詩集『春と修羅』(1924)の副題として「心象スケッチ」を選んだのは示唆的です。


もちろん後付けで心象を解釈し、改めて言語化することはできるにしても、詩と向き合うとき、それは必須の作業ではないでしょう。

   ★

なんだか浅薄なエセ文学論みたいなことを書きましたが、今回自分なりに思いついたこととしてメモ書きしておきます。