ある星座切手が秘めた主張 ― 2024年11月02日 08時49分36秒
10月は「他愛ないものを買う月間」でした。
お尻を叩く絵葉書もそうだし、下の切手シートもそうです。
値段は送料込みで数百円。そのわりにずいぶんきれいな切手です。
元絵は、ローマの北50kmに位置するカプラローラの町にあるファルネーゼ宮(パラッツォ・ファルネーゼ)に描かれた天井画です。絵の作者はジョヴァンニ・デ・ヴェッキ(Giovanni de' Vecchi、1536–1614)。
(五角形をしたファルネーゼ宮。撮影:Fábio Antoniazzi Arnoni)
「ファルネーゼ」と聞くと、現存する最古の天球儀をかついだアトラス神像、「ファルネーゼ・アトラス」【LINK】を思い出しますが、このファルネーゼ宮こそ、かつてアトラス像が置かれていた、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿(Alessandro Farnese、1520-1589)の邸宅にほかなりません。
ファルネーゼ宮の中には、「世界地図の間(Sala del Mappamondo)」と呼ばれる部屋があって、四方の壁には世界地図が、そして天井にはこの星座絵が描かれているというわけです。
ファルネーゼ枢機卿が、星の世界にどこまで心を惹かれていたかは分かりませんが、彼は古代ローマ彫刻の大コレクターだったらしく、ギリシャ・ローマの異教的伝統に連なる、星座神話の世界に関心を示したとしても不思議ではありません。いずれにしても、ここが天文趣味と縁浅からぬ場所であることは確かでしょう。
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豪華絢爛な邸宅からチープな切手に話を戻します。
この切手は1986年のハレー彗星接近と、その国際観測協力を記念して発行されました。
4枚の切手の隅には、VEGA(ソ連)、PLANET-A(日本;日本での愛称は「すいせい」)、GIOTTO(欧州宇宙機関)の各探査機の姿が印刷されています。当時、ほかにも多くの探査機がハレー彗星に向かって打ち上げられ、「ハレー艦隊」と呼ばれました。
この切手は南太平洋の島国ニウエ(Niue)が発行したものです。
…と言いながら、私は恥ずかしながらニウエという国を知りませんでした。イギリス国王を元首とする立憲君主制の国だそうです。国連に正式加盟はしていませんが、日本は国家として承認している由。2022年現在の人口は1681人で、バチカン市国に次いで世界で2番目に人口の少ない国だ…とウィキペディアに書かれています。切手が外貨獲得の手段であるのは、小国にありがちなことで、この切手もそのためのものでしょう。
(絶海の孤島、ニウエ)
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私は最初、「たしかに美しい切手だけれど、このデザインはハレー彗星と関係ないし、他所から星にちなむ絵をパクってきただけじゃないの?」とも思いました。でも、それは私の浅慮で、ここにも切手デザイナーの深い配慮は働いていたのです。
(世界地図の間・天井画 https://www.wga.hu/html_m/v/vecchi/2mappa1.html)
そう、切手化するにあたり、元絵が鏡像反転されているのです。
ファルネーゼ宮の元絵は、天球儀の星座絵と同様、地上から見た星の配列とは反対向きに描かれているのですが、切手の方はそれを再度反転させて、地上から見たままの姿になっています。
これは切手の方に文句なしに理があると思います。
何せ天井画なのですから、実際に星空を見上げた時と同じ姿になっていないと変だし、天井に描いた意味がないと思います(実際、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂や、サンタ・クローチェ教会の天井に描かれた、15世紀の星座絵は地上から見た姿で描かれています)。
…というわけで、たしかにハレー彗星とはあんまり関係ないにしろ、一見安易なこの切手にも、ある種の「主張」があり、そこに小国の気概みたいなものを感じました。
巴里の天象儀 ― 2024年10月12日 16時05分16秒
最近はずっと円安なので、海外からモノを買うことがめっきり減りました。「洋星」にくらべ「和星」の話題が多かったのも、それが原因のひとつだと思います。
別にそれも悪くはないんですが、それだけだと幾分世界が狭くなるので、今月は久しぶりに何点か海の向こうに発注をかけました。もちろん予算が限られるので、他愛ない品ばかりですが、他人の目にはともかく、自分の目には魅力的に映ったモノたちですから、届くのが待ち遠しいです。
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下の紙モノは、今回購入したものではありませんが、以前買った品をぱらぱら見ていて、きれいな色合いが目に留まったリトグラフ。厚手の用紙にたっぷりとインクが載っています。
(シートサイズは31.5×24cm)
シートの裏面は白紙で、おもて面にも制昨年は書かれていませんが、アメリカの売り手は1959年という年次を挙げていました。隅っこに「29」という番号が見えるので、他にも一連の作品があって、その全体が1959年に作られたのかもしれません。いずれにしても、何か根拠があるのでしょう。
ここでテーマになっているのは。パリの科学博物館「Palais de la Découverte(発見の殿堂)」に併設されたプラネタリウムです。
冒頭「パリ大学」を冠しているのは、1940年から1972年まで、ここが組織上パリ大学に属したからのようです。「発見の殿堂、パレ・ド・ラ・デクヴェールト」は、1900年のパリ万博の折に建てられた、壮大な「グラン・パレ」の一部を利用して、1937年に開設された科学博物館で、ツァイスの投影機を備えたプラネタリウムも同時にオープンしています(これがフランスで最初の光学式プラネタリウムだそうです)。
「投影は金曜日を除く毎日午後。火・木・土曜日は午後9時まで」…と具体的な事項まで書かれているのは、これが純粋な宣伝用ポスターだからだと思うんですが、だとしたら、ずいぶん贅沢なポスターですね。しかも洒落ています。さすがはパリです。
原画の作者は、「色彩の魔術師」の異名をとった野獣派の画家、ラウル・デュフィ(Raoul Dufy、1877-1953)。
そしてデュフィの没後に、その作品を美しいリトグラフとして刷り上げたのは、アートポスターの制作で有名なパリの「ムルロ工房」です。
ばら色のパリの上空には、澄んだ紺碧の宇宙がひろがり、星や銀河が輝いています。さらにその上に雲があり、太陽があり…というところで、最初「ん?」と思いましたが、すぐに「ああそうか、プラネタリウムとはそういうものだったな…」と気づきました。
かわいい天文学者とパリのカフェ ― 2024年09月01日 13時36分41秒
かわいい紙ものを見つけました。青いドレスの女の子が熱心に望遠鏡をのぞき込んでいるそばで、昔の天文学者風の男の子が「紙の星」を揺らして、女の子の興味を引きつけています。いかにもほほえましい絵柄。
この品の正体は、昔のメニューカードです。
パリ・オペラ座(ガルニエ宮)の脇に1862年開業した、老舗の「グラン・ホテル」(※)。現在はインターコンチネンタルの傘下に入り、「インターコンチネンタル・パリ・ル・グラン」となっていますが、その一角、ちょうどオペラ広場に面して今も営業しているのが、多くの文化人に愛された「カフェ・ド・ラ・ペ(Café de la Paix)」で、1878年のある日のランチメニューのカードがこれです。
(Google ストリートビューより。正面がオペラ座、左のグリーンの日除けの店がカフェ・ド・ラ・ペ)
メニューカードというのは、当日記念に持ち帰る人も多く、それが時を経て紙ものコレクターの収集対象となり、eBayでも古いもの、新しいもの、いろいろなカードが売られているのを見かけます。
カードの周囲に目をこらせば、ディナーは6フラン(ワイン代込み)、ランチは4フラン(ワイン、コーヒー、コニャック代込み)とあって、気になる献立はというと、その内容は裏面に記載されています。
1878年11月16日(土曜日)の午餐に供されたのは、以下の品々。
…といって、私にはまったく分からないんですが、ネットの力を借りて適当に書くと(違っていたらごめんなさい)、まずブルターニュの牡蠣に始まって、白身魚のフリット、オマールエビのマヨネーズ添え、ステーキとポテトのバターソース添え、鶏レバーの串焼き、キドニーソテーのキノコ添え、もも肉ローストのクレソン添え、ほうれん草入りハム、インゲンのバター風味、冷製肉、半熟卵、スクランブルオムレツと来て、最後にデザート。19世紀のフランス人は(今も?)だいぶ健啖なようですね。
ワインもお好みでいろいろ。料金4フラン(たぶん今の邦貨で1万円ぐらい)にはワイン代も含まれていたはずですが、こちらはグラスワインとは別に、ボトルを頼んだ時の別料金でしょう。
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さて、飲み食いの話ばかりでなく、肝心の望遠鏡について。
そもそもランチメニューの絵柄が、なぜ望遠鏡なのか?
そこに深い意味があるのかどうか、とりあえずメニューの内容とは関係なさそうですね。この日、何か天体ショーがあって、それにちなむものなら面白いのですが、にわかには分かりません。この年の7月にアメリカで壮麗な皆既日食があり、天文画の名手、トルーヴェロ(Etienne Leopold Trouvelot、1827-1895)が見事な作品↓を残していますが、季節も国も違うので、これまた関係なさそうです。
(出典:ニューヨーク公共図書館
あるいは全然そういうこととは関係なく、単に見た目のかわいらしさだけでこの絵柄となった可能性もあるかなあ…と思ったりもします。というのは、これと全く同じ絵柄を別のところでも目にしたことがあるからです。
右側に写っている一回り小さいカードは以前も登場しました。
■紙の星
こちらはパリの洗濯屋の宣伝カードで、洗濯屋と望遠鏡ではそれこそ縁が薄いので、これは完全に見た目重視で選んだのだと思います。
こういう例を見ると、この種のクロモカードの製作過程も何となく想像がつきます。つまり、この種のカードはカスタムメイドのオリジナルではなく、出来合いの印刷屋の見本帳を見て、「今回はこれで…」とオーダーする仕組みだったんじゃないでしょうか。
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同じ絵柄のカードを2枚買うのは無駄かとは思いましたが、洗濯屋よりはカフェの方がはるかに風情があるし、常連だったというゾラ、チャイコフスキー、モーパッサンらが、この日カフェ・ド・ラ・ペを訪れていた可能性も十分あるので、ベルエポックのパリで彼らと同席する気分をいっとき味わうのも、混迷を深める現世をのがれる工夫として、悪くないと思いました。
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(※) フランス語の発音だと「グラン・オテル」だと思いますが、ここでは「ホテル」とします。オペラ座やグラン・ホテルを含むこのエリアは、19世紀のパリ改造によって建物がすっかり建て替わった地域で、時系列でいうと、グラン・ホテルのほうがオペラ座(1874年竣工)よりも先に完成しています。ちなみに、カードにはグラン・ホテルに隣接する、これまた老舗の「ホテル・スクリーブ」の名も併記されていて、今では全然別経営だと思うんですが、当時は「グラン・ホテル別館」の扱いだったようです。
「地球観測年に捧げる曲」が流れた時代 ― 2024年08月26日 19時35分09秒
前回書いたように、1964~65年の「太陽極小期国際観測年(IQSY)」は、「国際地球観測年(IGY)」の後継プロジェクトであり、IGYは前者の7年前、1957年7月1日から1958年12月31日を計画期間と定め、実施されました。
ついでといっては何ですが、そのIGY、国際地球観測年の記念切手も載せておきます。こちらも前回と同じハンガリーのものです。
切手では「1957年から59年まで」とあって、「あれ、1年長いぞ?」と思ったんですが、IGYは1958年でいったん終了したあと、おまけのプロジェクト、「国際地球観測協力年(International Geophysical Cooperation Year)」というのが1959年いっぱい続いたので、たぶんそれを勘定に入れているのでしょう。
IGYは東西のブロックを越えて、67の国が参加し、バンアレン帯の発見、プレートテクトニクス理論の確立につながる大西洋中央海嶺の全容解明、南極条約の締結など、多くの重要な成果をもたらしました。身近なところでは、日本の昭和基地が南極に設置(1957)されたのも、IGYの副産物です。
東西両陣営を仕切る「鉄のカーテン」を越えて、科学者がIGYに結集できたのは、スターリンが1953年に死亡し、融和ムードが生まれたことによるらしいのですが、しかしIGYによって新たな東西対決の火ぶたも切って落とされました。すなわち宇宙開発競争の始まりです。これこそ、ある意味でIGYの最大の「成果」でしょう。(それ以前から始まっていた「制宙権」争いを、IGYが強く後押しした…と言ったほうが、より正確かもしれませんが。)
上の横長の切手は、IGY記念切手とは別の宇宙切手シリーズに含まれるスプートニク1号(1957年10月打ち上げ)(※)で、その左下がスプートニク3号(同1958年5月)です。スプートニクに対抗して、アメリカが大急ぎで打ち上げたのが、エクスプローラー1号(同1958年2月)で、これがバンアレン帯の発見につながった…というのは、既に述べました。そしてNASAが設立されたのも、1958年7月のことです。
これら一連の出来事の背後にあったものこそIGYであり、その影響の大きさがうかがい知れます。
IGYについては、日本語版ウィキペディアにも当然項目がありますが、英語版Wikipediaを見たら、トリヴィアルなことも含めて、いっそう詳細な説明がありました。
中でも興味深いのは、IGYがポップカルチャーに及ぼした影響の項目です。
IGYはもちろん真面目なドキュメンタリー番組でも取り上げられましたが、それだけでなく、複数のマンガの題材にもなったし、「1957年の地球観測年に捧げる曲」というジャズナンバーが作られ、後の1982年には「IGY (What a Beautiful World) 」という曲がビルボードのヒットチャートで順位を伸ばし、グラミー賞の年間最優秀楽曲にノミネートされた…といったことが書かれていました。
IGYは科学の世界を越えて、物心両面で人々の生活に大きな影響を及ぼした、戦後の一大イベントだったと言えるんじゃないでしょうか。
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(※)【2024.8.28訂正】 上の切手の画題を「スプートニク1号」と書きましたが、これは「ルナ1号」(ソ連の月探査機、1959年1月2日打ち上げ)であろうと、S.Uさんからコメント欄を通じてご教示いただきました。ご指摘の通りですので訂正します。
ストックブックを開いて…再び太陽観測年の話 ― 2024年08月25日 15時43分52秒
ストックブックというのは、切手保存用のポケットがついた冊子体の郵趣グッズで、それ自体は特にどうということのない、いわば無味無臭の存在ですが、半世紀余り前の切手ブームを知っている者には、独特の懐かしさを感じさせるアイテムです。
その後、子ども時代の切手収集とは別に、天文古玩の一分野として、宇宙ものの切手をせっせと買っていた時期があるので、ストックブックは今も身近な存在です。
最近は切手に意識が向いていないので、ストックブックを開く機会も少ないですが、開けば開いただけのことはあって、「おお、こんな切手もあったか!」と、感興を新たにするのが常です。そこに並ぶ古い切手はもちろん、ストックブックという存在も懐かしいし、さらには自分の趣味の変遷史をそこに重ねて、もろもろノスタルジアの源泉ではあります。
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昨日、「太陽極小期国際観測年(IQSY)」の記念切手を登場させましたが、ストックブックを見ていたら、同じIQSYの記念切手のセットがもう一つありました。
同じく東欧の、こちらはハンガリーの切手です。
この切手も、そのデザインの妙にしばし見入ってしまいます。
時代はスペースエイジの只中ですから、ロケットや人工衛星も駆使して、地上から、成層圏から、宇宙空間から、太陽本体の活動に加え、地磁気、電離層、オーロラと大気光、宇宙線など、様々な対象に狙いを定めた集中的な観測が全地球的に行われたと聞きます。
IQSYは、太陽黒点の極大期である1957年~1958年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」と対になるもので(※)、さらに極地を対象とする観測プロジェクト、「国際極年(International Polar Year;IPY)」がその前身だそうで、その流れを汲むIQSYも、いきおい極地観測に力が入るし、そもそも太陽が地球に及ぼす影響を考える上で、磁力線の“出入口”である南北の磁極付近は最重要スポットなので、この切手でも極地の描写が目立ちます。
下の左端の切手は、バンアレン帯の概念図。
宇宙から飛来した電子・陽子が地球磁場に捕捉されて出来たバンアレン帯は、1958年の国際地球観測年のおりに、アメリカの人工衛星エクスプローラー1号の観測成果をもとに発見されたものです。
東西冷戦下でも、こうした国際協力があったことは一種の「美談」といってよいですが、それでも研究者以外の外野を含め、美談の陰には何とやら、なかなか一筋縄ではいかない現実もあったでしょう。
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(※)【2024.8.25訂正】
上記の記述には事実誤認があるので、以下の通り訂正します。
(誤) 「IQSYは、太陽黒点の極大期である1957年~58年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」と対になるもので」
(正) 「IQSYは、太陽黒点が極大期を迎える1968~70年の「太陽活動期国際観測年(International Active Sun Years;IASY)と対になって、1957~ 58年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」を引き継ぐもので」
Quiet Sun、静かなる太陽 ― 2024年08月24日 14時43分52秒
依然として暑いです。でも、ここに来て猛暑にもかげりが見えてきました。
コオロギがしきりに鳴くし、その後雨も降ったので、庭の植物もすっかり息を吹き返しました。接近中の台風10号が通過する頃には、もうすっかり秋の気配でしょう。
朝もだいぶ涼しくなりました…と言いつつ、これは人間の方が暑さに慣れたせいもあります。何せ最高気温が35度だと「今日はまだいいな」と思うぐらいになっているので、人間の適応力もなかなか馬鹿にできません。
自分の書いたものを読み返すと、最近は嘆き節が多く、「地球はいったいどうなってしまうのか?」という悲憤も洩らしていますが、今夏はそれが身に沁みて感じられました。
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今から60年前、1964年は「太陽極小期国際観測年(International Year of the Quiet Sun;IQSY)」でした。太陽黒点の極小期に合わせて、1964年1月1日から翌1965年12月31日まで、国際共同観測が精力的に行われた年です。
ブルガリアで発行されたIQSYの記念切手。
当時の共産圏の印刷物には味のあるものが多いですが、これもなかなか趣がありますね。
うーむ、カッコいいなあ…と思いますが、こういうカッコよさは、いったいどこから来るのか、自分でもちょっと言葉にしづらいです。
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それにしても、太陽活動の変化は、地球にどんな影響をもたらすのか?
奇しくも前年の1963年(昭和38年)は名高い「三八(さんぱち)豪雪」の年で、世界中が厳寒の冬でした。それも太陽黒点の減少と関係があるのかどうか。確定的なことは依然明らかではないと思いますが、少なくとも風と桶屋の懐具合よりは関係があるのでしょう。
よく知られるように、太陽黒点は11年周期で極大・極小を繰り返していますが、そこにはさらに長周期の変動もあって、近年は極大期でも黒点の出現そのものが減っています。つまり現在、太陽は長期的停滞の時期にあるらしく、だったらもうちょっと涼しくてもいいのになあ…と思いますが、そこが複雑系の難しさ。これで太陽活動が活発だったら、さらに暑くなっていたかもしれず、今は太陽の停滞に感謝すべきかもしれません。
2枚の「天文学」 ― 2024年07月16日 19時13分41秒
昨日は素知らぬ顔で記事を投稿しましたが、実は記事を書いている途中で「あること」に気付いて、かなり衝撃を受けました。そして、自分の目がいかに当てにならないかを痛感しました。
(画像再掲)
上が昨日のオックスフォード科学史博物館所蔵の品、そして下が手元の品です。
(購入時の商品写真を台形補正しました)
こうして見比べるとどうでしょう、明らかに違いますよね。タイトルは同じ「天文学」でも、両者は明らかに異版、ヴァリアントです。
左右の男女像を見れば、それは一目瞭然ですが、一目瞭然といいながら、記事を書くまでそれにまったく気付かなったのは迂闊な話。
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それにしても、いったいこれはどういうことでしょう?
手元の品の刊記は以下のようになっています。
London, Printed for Robt.〔=Robert〕Sayer Map & Printseller, at the Golden Buck near Serjeants Inn Fleet Street.
この版元の名を検索すると、すぐに大英博物館による詳細な伝記事項がヒットします【LINK】。それによると、ロバート・セイヤー(Robert Sayer、1725-1794)は、生前なかなか羽振りのよかった地図・版画の版元で、手元の品に記された住所、すなわちロンドン中心部、フリート街のサージェンツ・イン(弁護士会館)近くにあったGolden Buck(金鹿亭?)に店を構えたのが1748年頃で、1760年には近くの別の建物に移転していることから、この版画が刊行されたのは、ほぼ1750年代と特定できます。
一方、オックスフォード科学史博物館所蔵の品は、「London Printed for & Sold by F. Bull on Ludgate Hill, J. Boydell in Cheapside, & W. Herbert on London Bridge.」となっていて、3人の業者による共同出版です。
F. Bull は未詳ですが、John Boydell(1720–1804)と William Herbert(1718–1795)は上記セイヤーとほぼ同世代の人で、版画商売を営んでいたのも同時期ですから、この2つの作品の関係、および出版の先後は相当微妙です。
オックスフォード科学史博物館は、自館の所蔵品を1766~75年ごろの作品としていますが、これもどこまで裏取りできているのか、もしこれが正しければ、私が購入した作品の方が先に出版されたことになりますが、さてどんなものでしょうか。(あるいは女性の服装は流行の変化が速いので、その辺が手掛かりにならないかとも思いましたが、まったく不案内なので、もしお分かりになる方がいらっしゃれば、ぜひご教示ください。)
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穏便に版権を譲渡したのか、どちらかが海賊版なのか、あるいは金に窮した下絵作者が、同じ絵を複数の業者に渡してしまったのか…。真相は今のところ不明ですが、当時の出版事情を考えるエピソードとして、とりあえず事実のみ提示しておきます。
18世紀の版画「天文学」を読む ― 2024年07月15日 15時51分07秒
昨日の「天文学(Astronomy)」と題された18世紀の版画を、天文風俗史の観点から眺めてみます。全体としてこの絵は実景ではないと思いますが、この絵には当時の天文学が帯びていた文化的コンテクストが象徴的に表現されていると想像します。
(正面像がガラス反射で撮れないので、オックスフォード科学史博物館の画像をお借りします。出典:https://mhs.web.ox.ac.uk/collections-online#/item/hsm-catalogue-7467)
これを見てまず気になるのは不思議な背景で、これは明らかに同時代のロマン主義的廃墟趣味の表れでしょう。18世紀から19世紀にかけて、廃墟にロマンを感じる感性が西欧を席巻し(いわばヨーロッパ版わびさびの感覚です)、果ては人工的に廃墟っぽいものをこしらえて、それを庭園の景物に据えて喜ぶなどということも富裕層の間で流行したと聞きます。この絵に描かれているのも、おそらくそれでしょう。
(オーストリアのマリア・エンツァースドルフに作られた人工廃墟、1810-11年。Wikipedia 「Artificial ruins」の項より。撮影 C.Stadler/Bwag)
人工廃墟というのは、見かけは古くても、それを楽しむこと自体はお洒落でファッショナブルな行為ですから、その前で繰り広げられる紳士淑女の天文趣味にも、同様にファッショナブルな意味合いがあった…という風に読めます。彼らの気取ったポーズ、あでやかな服装にもそのことは表れています。
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この版画に登場する天文機器類は、まずアーミラリースフィアと天球儀、
そして、足元に散らばるディバイダ、物差し、バックスタッフ(背杖)といった航海用天測具類です。
これらは通時代的に天文学のシンボルですから、「天文学」というタイトルの絵に登場するのは、ある意味当然ですが、傍らで仲睦まじく語らう男女に対して、アーミラリーと天球儀を手にした男性二人は、何だか孤立していますね。
虫眼鏡片手の学者先生と、メランコリックな若者といったところでしょうか。とはいえ、虫眼鏡でアーミラリーを覗く必然性は全くないので、これはいくぶん戯画化された学者像だと感じます。
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こちらも男女のペアです。天文学がロマンスを連想させる――つまり、星を語ることは、当時すでにロマンチックなことであったことを示すものでしょう。
と同時に、この男性が女性をやさしく教え諭す姿は、一つの時代の型みたいなもので、女性が質問し、男性が答えるという問答体の科学入門書が、当時盛んに出版されましたが、そうした趣向を絵画化すると、こんな絵面になるのでしょう。(問答体の科学入門書はその後も健在ですが、時代の変化に応じて、対話するのは<子供と親>へ、さらに<素人と専門家>へと変わっていきました)。
(1772年にロンドンで出た『The Young Gentlman and Lady’s Philosophy』口絵)
そして、このカップルが手にするのが、近代天文学のシンボル・望遠鏡ですが、ここでこの絵の最大の謎にぶつかります。なぜ彼らは望遠鏡を反対向きに覗いているのか?
最初は、近くのものを遠くに眺めて楽しむ、一種の視覚玩具として望遠鏡を使っているのかな?とも思いましたが、もう一人の男性もやっぱり反対向きに覗いているので、ここには明瞭な作画意図があるのだと思います。
当時、「望遠鏡を反対向きに覗く」というのが、何か一般的なアレゴリーとして成立していたのかどうか、そこがはっきりしませんが、そこに意図があるとすれば、おそらくは皮肉な意図でしょう。
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私はこの絵を最初、18世紀の典雅な天文学の営みを描いたもの…と素朴に考えていましたが、何かもうちょっと複雑な背景――例えば上流階級の浮薄さを揶揄するような意図を持った絵なのかもしれません。
【2024.7.21付記】 この図は「逆さ覗き」ではなく、こういう形状の、すなわち太い方から覗く古式の望遠鏡を描いたものであろうと、コメント欄で「パリの暇人」さんにご教示いただきました。状況証拠に照らしてそれが妥当と考えます。したがって、記事の後段は誤解に基づく無意味な文章ということになりますが、記録的意味合いからそのままにしておきます。
彗星ゲームをめぐる旅 ― 2024年07月14日 10時46分22秒
このブログも長くなったので、最近は何を書いても二番煎じのような気がします。限られた世界で右往左往しているので、やむを得ない面もありますが、それでも単なる二番煎じではなく、少しずつ前に進もうという殊勝な思いもあります。
実際ちょっとは前進しているぞ…と最近思ったことがあります。
10年前のことですが、自分は下のような記事を書きました。
■ちょっと気取った彗星ゲーム
イギリスのゲームメーカーが1996年に発売した「ロイヤル・コメット」というボードゲームを紹介したものです。
そしてゲームの内容もさることながら、そのデザインが天文古玩的になかなか典雅で好いね…ということを書きました。
それから5年が経ち、今から5年前、その続報を書きました。
「ロイヤル・コメット」のパッケージデザインの元絵を見つけたという内容です。
■古画発見
元絵は1766-1775年ごろロンドンで出版された、ずばり「Astronomy」というタイトルの版画で、オックスフォード科学史博物館に収蔵されている一枚が、現在オンラインで公開されていることを紹介しつつ、あの典雅な絵の出所が分かって、まずは良かったと胸をなでおろしたのでした。
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それからさらに5年が経った今年、問題の版画が売りに出ているのを見つけました。しかも非常にリーズナブルな価格で。もちろん、これを買わない手はありません。
(ガラスの反射がきついので、不自然な構図になっています)
手彩色なので、色合いには個体差がありますが、まぎれもなくあの「Astronomy」の現物です。18世紀のロマンチックな、そしておそらくは理想化された天文学の営みが、こうしてわが家にやって来たのです。
なんとなく落ち着くべきところに落ち着いたと言いますか、「ロイヤル・コメット」に始まった旅は、10年かけて今ようやく目的地に着いた感があります。やっぱり長く続ければ、続けただけのことはあります。
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でも、10年前に記事で紹介した「ロイヤル・コメット」の版元解説↓に出てくる、18世紀のオリジナルのゲーム盤とはどんなものか、その現物はどこで見られるのか、はたまたそれを入手するなどということは可能なのか…と、まだまだ旅は続きそうな気配もあります。
「1682年のハレー彗星出現後、イギリスの上流階級の間で天文学への関心が高まり、それは宮廷での娯楽の在り方にも広範な影響を及ぼしました。「ロイヤル・コメット The Royal Game of Comette」の名で知られるカードゲームが、英国の宮廷に紹介されたのも、こうした天文ブームの一例です。
1684年までには、ロイヤル・コメットは「ご婦人方も含め…宮廷における最も熱い流行」となっており、ずっと後の1748年になっても依然として愛好されていました(この年に、ゲーム盤を用いる、より複雑な遊び方が流行りだしました)。」
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お茶の二番煎じはあまり感心しませんが、世の中には徐々に味わいの濃くなる「蔗境(しゃきょう)」という言葉もあります(サトウキビをかじるとき、あえて甘みの薄い先端部からかじり始める理由を問われ、「漸入佳境」と答えた六朝時代の画家・顧愷之(こがいし)の逸話に由来)。
「天文古玩」もこんなふうに蔗境を楽しみつつ、「まだ見ぬ目的地」に向けて、終わりなき旅を続けたいと念じています。
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【補遺】
ちなみに、ゲーム盤が生まれる以前の「ロイヤル・コメット」は、こちらのページで解説されている、単に「Comet」と呼ばれるトランプゲームと同じものだと思います。
17世紀のフランスで考案された遊びで、手札をルールに従い数字の小さい順に場に捨てていき、最初に手札をなくした人が勝ち…というのは、20世紀の「ロイヤル・コメット」ゲームと共通です。「Comet」の名は、場に捨てられた自分のカード列がだんだん伸びていく様を、彗星の尾に見立てたのが由来だとか。
一瞬先は闇 ― 2024年03月31日 17時49分00秒
怒涛の3月が終わり、明日からはいよいよ4月。
今年の年度替わりは、例年以上に心身を痛めつけられました。それでも、とりあえず年度を越すことができてホッとしています。落語に出てくる昔の大みそかは、庶民にとって今とは桁違いの大イベントだったらしく、借金取りとの手に汗握る?攻防が面白おかしく言い伝えられていますけれど、今の世の年度替わりも、一部の人間にはちょっと似たところがあります。とにかく無茶でも何でも、事務の形を整えねばならないので、日本中でずいぶん珍妙なやり繰り算段があったことでしょう。
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そんな山場を越えて、今日はメダカの水を替えたり、小庭の草をむしったり、のんびり過ごしていました。ブログもそろりと再開せねばなりませんが、気ままなブログといえど、しばらく書いてないと、書き方を忘れるもんですね。まずはリハビリ代わりの気楽な話題から。
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「ぼくの保険会社だって?もちろんニューイングランド生命保険に決まってるじゃないか。でも何でそんなこと聞くんだい?」
蝶ネクタイでワイン片手に望遠鏡を覗きこむ2人のアマチュア天文家。
実にお洒落な二人ですが、なんで保険会社が話題になっているかというと…
雑誌「タイム」1969年10月24日号に掲載された、ニューイングランド生命保険の広告イラストです。描き手は諧謔味のあるイラストで、「プレイボーイ」や「ザ・ニューヨーカー」の誌面も飾った Rowland B. Wilson(1930-2005)。思わずクスリとする絵ですが、今だとちょっと難しい表現かもしれませんね。まあ画題はいささかブラックですが、この青い空と白い星の取り合わせはいかにも美しいです。
現実のアマチュア天文家が、当時こんな小粋なムードを漂わせていたかどうか。実際こんないでたちの人もいたかもしれませんが、でもこの広告の裏面(この広告は雑誌の表紙の真裏に載っています)を見ると、小粋でも気楽でもなく、「うーん」と大きくうならされます。
(「WHAT IF WE JUST PULL OUT? このまま撤退したらどうなるのか?」)
市松模様になっているのは、ニクソン大統領とベトナム戦争の惨禍、そしてアメリカ国内の反戦運動の高まりです。当時はアメリカのみならず、日本も熱い政治の時代で、この年はそこにおっかぶさるようにアポロの月着陸があり、翌年には大阪万博(Expo’70)を控え、今にして思えば、かなり騒然とした時代でした。まあ、私はまだ幼児だったのでリアルな記憶は乏しいですが、でも半世紀あまりを経て、人間のふるまいはあまり変わらんもんだなあ…とつくづく思います。
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