1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(11)…懐かしき故郷へ ― 2025年07月21日 08時43分12秒
連載を終えるにあたり、アマースト隊の帰路についても、簡単に触れておきます。
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枝幸のアマースト隊のうち、トッド教授夫妻はフランスの軍艦アルジェ―号に招かれて、同艦で横浜に戻りました。フランス隊の隊長を務めたデランドルも一緒です。枝幸を出たのは8月16日で、そのまま太平洋岸を一路横浜へ。
彼らが横浜一番乗りで、西日本観光に出かけていた「非科学組」がそれに続きます。最後が枝幸に残った隊員たちですが、彼等は枝幸で荷造りを続け、ようやく8月21日に貫効丸で枝幸を出発し、小樽に8月23日着(小樽までは寺尾隊も一緒でした)。ここで天文器械を威海丸に移して、8月25日、函館に向けて出航。さらに函館で播磨丸に乗り換えて津軽海峡を渡り、8月27日の朝、青森に到着、列車で東京に向かいました(本項の日付は、トッド隊に同行した村上春太郎の記述(『枝幸町史・上巻』所収)によります)。
隊員たちが、ぼさぼさの髪でコロネット号の甲板に立ったのは、8月28日午後のことで、こうして懐かしい顔ぶれが全員再集結したのです。
コロネット号がサンフランシスコに向けて横浜を出航したのは9月2日です。帰路は最短距離の北太平洋航路を取り、主な荷物は別に汽船を頼んでアメリカに送ることにしたので、往路よりもだいぶ気楽な旅です。
サンフランシスコに到着したのは10月2日。ここにしばらく滞在し、再びニューヨークに向かう鉄道の客となったのは10月8日。復路はニューオーリンズ経由の南回りです。そして10月22日、一行はニューヨークの駅頭に立ち、この大遠征旅行は終わったのでした。4月6日にニューヨーク駅を出発してから、半年あまりが経過していました。
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…というわけで、我らがゲリッシュ氏も、当然コロネット号で帰ったのだと最初は思い込んでいましたが、ゲリッシュ資料を見直して、「あれ?違うかな?」と気づきました。
というのは、コロネット号が横浜を発った9月2日付で、ゲリッシュは汽船の出航予定を知らせるメッセージを受け取っているからです。彼はそのときまだ横浜のグランドホテルにいました。
(文中の「S.S.」は「Steam Ship」の略)
汽船の名は「ブリーマー(Braemar)号」で、横浜とアメリカ西岸のタコマ(ワシントン州)間に就航していました(※1)。今度横浜を出航するのは9月10日だと、メッセージは告げています。
上で、復路は荷物を(コロネット号ではなく)別の汽船でアメリカに送ることにした…と書きましたが、それがブリーマー号であり、ゲリッシュはそこに付き添ったのではないかと想像します。
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ゲリッシュはその後、9月4日に横浜から電報を打っています。
あて先は彼の故郷、ボストンです(その前にある“Zouave”は不明。南北戦争の義勇兵がこの名で呼ばれましたが、時代が合いません。あるいはボストンの電信局名か?)。
1896年の時点では、まだ太平洋横断ケーブル敷設前なので、電気信号は長崎からウラジオストックを経て、さらにロシア、ヨーロッパ、そして大西洋ケーブルを伝って、はるばるアメリカまで送られました(※2)。
料金は、8ワードが23.2ドルで、もののサイトによれば、当時の23ドルは、購買力で比較すると、現在の880ドルに相当するそうです。日本円にして約13万円。「明治のインターネット」は、驚くほど利用料が高かったです。
(ゲリッシュ資料より。当時の電報送信依頼状)
そこまでしてゲリッシュがメッセージを届けたかった相手は誰か?
もちろん正解は分かりませんが、ゲリッシュには、この遠征後に結婚を約束していたメアリー・ワイリー嬢がいました(連載第3回参照)。あるいは…と思います。
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129年後の未来から、若き日のゲリッシュ氏に祝福の言葉を贈るとともに、貴重な資料を残してくれたことに感謝しつつ、連載を終えることにします。
(この項おわり)
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(※1)ネットで見かけた資料によると、ブリーマー号は、1896年6月22日に横浜で検疫を受け、6月25日にタコマに向けて出航しています。同じ船が9月10日に再び横浜から出航するというのですから、かなり頻回に太平洋を往復していたことが窺えます。
また1901年7月8日付の「The Colorado Daily Chieftain」には、「7月7日ワシントン州タコマ。汽船ブリーマー号が横浜から本日到着。3,000トンの絹と新茶、及び27人の三等船客を運搬」の記事があり、同船が貨物主体の貨客船であることが分かります。
コメント
_ S.U ― 2025年07月21日 19時14分20秒
_ 玉青 ― 2025年07月25日 17時18分12秒
ありがとうございます。その筋から考える方法もありましたね。
当時の中学教師を今の高校教員と同等と見なすと、その初任給は20万円ちょっとですから、その75%なら15万円余り。だいたい上の数字と同じレンジに収まりますが、やっぱり相当な金額です。そんなにお金をかけるよりも、手紙で済ませればいいのに…と一瞬思いましたが、手紙もゲリッシュ本人も船で運ばれるので、下手をすると手紙より先に本人が早く帰り着いてしまいますから、ここはどうしても電信でなければならない内容であり、相手だったのでしょうね。
当時の中学教師を今の高校教員と同等と見なすと、その初任給は20万円ちょっとですから、その75%なら15万円余り。だいたい上の数字と同じレンジに収まりますが、やっぱり相当な金額です。そんなにお金をかけるよりも、手紙で済ませればいいのに…と一瞬思いましたが、手紙もゲリッシュ本人も船で運ばれるので、下手をすると手紙より先に本人が早く帰り着いてしまいますから、ここはどうしても電信でなければならない内容であり、相手だったのでしょうね。
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明治~大正期の円ドル交換相場ですが、日本では、1897年に貨幣法が設置されて、金本位制がしかれて、金価格が半分に切り下げられた上、金15gの金貨が20円となりました。その前年の1896年までは、20円金貨は金30gでした。(1897年以降は、この旧20円金貨は40円通用になりました)。
1896年時点でのアメリカでは、20ドル金貨がほぼ正確に金30gで、この時点ですでに国際的に実質金本位制だったと仮定すると、1ドル=約1円だったはずです。ここで、20円がどれくらいの価値だったかはものの比較に依りますが、夏目漱石『坊ちゃん』によると、松山中学赴任が1895年として、初任給30円だったそうです。つまり、電報料23.2ドルは、中学教師の初任給の75%相当といえそうです?