さらに月をまとう2026年08月25日 21時17分19秒

前回の品はバックルでしたが、そこから連想した品があります。
これまた月をまとうための品ですが、その雰囲気は驚くほど違います。


月に柳の扇子をデザインした帯留(おびどめ)。
月を扇子に描き、さらにその扇子を木に彫って帯留をこしらえるという、考えてみればずいぶん凝った品です。材は根付でも使われる柘植(つげ)でしょう。

ここで柳と月の組み合わせは、日本の文芸的伝統を汲んだもので、そのことは一枚の絵葉書を手掛りに、以前も触れたことがあります。

■柳に月

例によって過去記事のリンクが開けないことも多いので、以下に関連部分を引用しておきます。

 「〔…〕読み下せば「青柳の 額の櫛や 三日の月」という句になります。作者は芭蕉門の俳人、宝井其角(たからいきかく、1661-1707)。
 青柳の細い葉は、古来、佳人の美しい眉の形容です。
 室町末期の連歌師、荒木田守武(あらきだもりたけ、1473-1549)は、「青柳の 眉かく岸の 額かな」と詠み、柳の揺れる岸辺に女性の白いひたいを連想しました。其角はさらに三日月の櫛をそこに挿したわけです。」


柳に月の艶な風情、そして扇は末広の縁起物であり、そこに取り合わせた菊水もまた延命長寿の縁起物。要は粋でめでたい品を、身ごしらえの仕上げにチョイとあしらおうという風流心のあらわれなのでしょう。

(裏側から見たところ)

帯留は本来、帯紐の長さを調節し、固定するための実用の具で、その意味ではバックルに近い存在だったのですが、明治中期以降、帯紐に通すだけの純粋な装身具となり、徐々に豪華な品が好まれるようになったものらしいです。その意味では、和装の歴史の中では新参者ですが、血は争えぬもので、そこには依然として和の趣向があふれています。


それにしても、同じく月を題材にして、しかもベルトと帯という類似の品を飾るアクセサリーなのに、両者がたたえる風情のなんと異なることか。
三笠の山に出し月かも、日本で見上げる月も、異国で見上げる月も、月に違いはないはずですが、見上げる人間の側の違いは、やはり無視できません。

西郷星(後編)2026年05月07日 05時35分06秒

(昨日のつづき)

ウィキペディアの「西郷星」の項には、次の絵が引用されています。

(ウィキペディア「西郷星」の項より)

画中には遠眼鏡を空に向けた男性が描かれ、説明文には、「大阪日報に此節毎夜一時頃より巽(たつみ)之方に現ハれる赫色の星を望遠鏡で能(よく)見ると西郷隆盛が陸軍大将の官服を着て居る体に見ゆるとて…」云々とあります。

また、昨日紹介した国利画「流行星の珍説」にも、「〔…〕識者是を見聞せんと千里鏡を以て写せしかバ其形人々(しんしん)にして大礼服を着し右手(めて)には新政厚徳の旗を携へ…」云々とあって、西郷星の風説に望遠鏡が一役買っていたように読めます。ただ、これらは風説に信憑性を持たせるために加えた、新時代ならでは文飾だろうと、これまでは思っていました。

   ★

しかし、次の一枚を見て「おや?」と思いました。

(平塚市博物館 平成15年秋季特別展「火星大接近 2003」図録に、「西郷星の珍説 永島辰五郎(歌川芳虎)画 千葉私立郷土博物館蔵」というキャプションとともに掲載。平塚博物館のサイトより)

(一部拡大)

どうでしょう、この火星、妙にリアルに感じられませんか?
これを見ると、実際に望遠鏡で火星を覗いた経験が、西郷星の風説流行にやっぱり一役買っていたのではないか…という疑問が湧いてきます。

    ★

1877年の火星接近は「超」の付くぐらいの大接近で、世界各地でスケッチが描かれ、写真撮影も試みられました。以下はその一例です。


火星の模様も時々刻々変わるとはいえ、これら大型望遠鏡による一連の火星イメージの中に、人の形らしきものを見出せるかといえば、正直厳しい気はします。

しかし不穏な国内情勢と、頭上で不気味に赤く輝く星を結びつけた上で、そこに何か模様らしきものが見えたとしたらどうか…? たとえそれが正確に人の形をしていなくても、人間は無意味なパターンに積極的に意味を読み取る存在ですから(パレイドリア現象)、ある種の期待や予断があれば、曖昧な模様は容易に人の形(大礼服を着た西郷さん)に見えてしまうことでしょう。

   ★

問題は、当時の日本の望遠鏡(多くは手持ち式遠眼鏡の類)で、火星の模様を視認できたかどうかです。

かつて清新な天文エッセイ『星のふるさと』(誠文堂新光社、1975)を著した鈴木壽壽子氏が取り組んだ火星スケッチは、60ミリ屈折望遠鏡を使って行われたものでした。火星観測用機材として、60ミリでは一般に力不足とされることが多いと思いますが、訓練を経た目にはそれが可能でした。

(『星のふるさと』より)

明治の初めの遠眼鏡は、鈴木氏の望遠鏡と比べても、はるかにロースペックなものですが、代わりに昔の人は、今より目が良かった可能性も考慮すべきかと思います。アフリカの自然で暮らす人の中には、視力10.0を超える人がいるそうですが、とんでもなく視力の良い(すなわち分解能の高い)人の目に映る火星像がどんなものかは気になります。

   ★

芳虎の絵は、彼が実見したイメージなのか、それとも他に元絵があったのかは分かりませんが、ひょっとしてこれは「日本で最初の火星スケッチ」かもしれません。まあ半分与太話ですが、与太話にしても夢のある与太話だと思います。

西郷星(前編)2026年05月06日 17時42分18秒

「維新の功労者・西郷隆盛は、後に新政府とたもとを分かち、鹿児島で兵を起こした。世にいう西南戦争である。薩軍は九州各地で官軍と乱戦を繰り広げたものの、衆寡敵せず、勇将西郷もついに城山の地で自刃して果て、ここに明治最大の内戦は終わった。ときに明治10年(1877)9月24日のことであった。」

…というのは歴史で習うことです。
西郷という人は江戸開城の立役者ですから、江戸っ子からすれば敵役と見られても不思議ではありませんが、当時の庶民層には存外人気がありました。素朴な英雄崇拝というか、いっそ世直し大明神的立ち位置だったかもしれません。庶民層ばかりでなく、維新で生活に窮した旧幕臣の中にも、自分たちの代弁者として、心の内で支持する人は少なくなかったと思います。

そんなことから「西郷星」の風説が生まれ、錦絵が何枚も刷られたのでしょう。
「西郷星」とは、折しも1877年9月に大接近した火星のことです。人々はその異様に明るい赤い星を見て、「これは西郷大将が星となって顕現したものに違いない」と考えました。

今、手元に2種類の西郷星の錦絵があります。

(歌川国利画「流行星の珍説」(二枚続き)、版元・羽田冨治郎、明治十年八月十日御届)

(山崎利信画「西郷星桐野星」、明治十年九月御届)

それぞれ西郷隆盛と、薩軍の参謀・桐野利秋に見立てた星を人々が盛んに拝み祈っています。ここで「桐野星」というのは、このときたまたま火星の近くに位置した土星のことで、西郷星と対をとってこう呼んだのだそうです。

それぞれ拡大すると、



こんな具合に、二人の武人が威儀を正して星の光に包まれています。

西郷星の故事は有名なので、屋上屋を架すことになりますが、これに関連してちょっと気になることがあるので、書いておきます。

(この項つづく)

月とホトトギスの装身具(3)2026年02月07日 08時33分23秒

今日登場するのは、簪(かんざし)ではなく櫛(くし)です。

(左右幅は 10.7cm)


漆を盛り上げた「高蒔絵」のホトトギス。
こういうのは時代判定が難しいですが、「閑清形」と呼ばれる櫛の形や、桑材に高蒔絵という趣向は、江戸後期~末期のものであることをうかがわせます(別にこの種のものに通じているわけではなく、装身具の解説書を眺めて一知半解で書いています)。


一方、月はといえば、裏側に凛然と浮かんでいます。
表と裏でひとつの絵柄とするというのも、時代の嗜好であり、職人の機知でしょう。
金のホトトギスと銀の月の対比が美しいと思いました。

もちろん、昔の物がなんでもかんでも良いわけではありませんが、こういうのは確かに精神的な豊かさの証で、床しく感じます。(省みて今の我々はどうか…と、つい問いたくなりますが、まあ、これは言わぬが花でしょう。)

   ★

ホトトギス以外にも月の簪には佳品がまだまだあります。
月を身にまとう優雅さを愛でつつ、そちらはまた折を見て登場させることにします。

(この項とりあえず終わり)

月とホトトギスの装身具(2)2026年02月05日 21時03分54秒

私はジャパン・ルナ・ソサエティの会員なので、N市支部の例会では、お月様にちなむ品を紹介する義務を課せられてるんですが、そこでも一連の月の簪(かんざし)はなかなか好評でした。…というのは、会員云々も含め、すべて脳内の話ですが、こういう品を手にすると、ふとそんな空想にふけったりします。

   ★

今日の簪は金工ではなく漆工作品です。

(全長20.5cm)

江戸~明治のものと思いますが、本体はべっ甲、そこに蒔絵が施されています。
簪といえば2本足が普通ですが、これは1本足です。たぶん笄(こうがい)との中間形態である「中差簪(なかざしかんざし)」と呼ばれるタイプだと思います。

先端に見える「耳かき」が簪の特徴で、幕府が奢侈品を禁じた時代、「これは贅沢品ではなく、立派な実用品です」と言い逃れるための工夫だと聞きました。それが明治以降もデザインとして踏襲されたわけです。


小指の爪に乗るほどの小さなホトトギス。その下の月は一見目立ちませんが、灯りにかざせば鮮やかに浮かび上がります。


これはべっ甲の透明な部分を活かした細工で、なかなか手が込んでいます。


さらにその下に見えるのは、おそらく藤の木でしょう。
藤にホトトギスとくれば、これは花札の四月の札で、風雅の中にユーモアと機知が光ります。これぞ江戸の粋という感じです。


これは無名の職人の作ではなく、銘が入っており、号は「良斎」と読めますが、詳細不明。

(この項つづく)

月とホトトギスの装身具(1)2026年02月04日 18時56分11秒

私が簪(かんざし)を手にしてもどうしようもないのですが、私は昔からこういう細かい細工物が好きで、しかもテーマが月となれば、これは当然食指が動きます。

簪は今でも作られているでしょうが、私が心惹かれるのは、江戸から昭和戦前まで、まだ和装が日常のものだった時代に、無名の職人たちが腕をふるった作品です。そうした品のうち、ホトトギスが登場するものを、ついでと言っては何ですが、この機会に一瞥しておきます。

(全長17cm)

これは間違いなく江戸時代にさかのぼる品と思います。


立体的で存在感のある月がいい感じですね。背景は雲でしょう。
文化・文政の頃から若い女性の間で流行した、いわゆる「びらびら簪」(残念ながら飾り金具がひとつ欠失しています)。

(裏面)

当時にあっては、格別高度な技ということもなく、おそらく身辺日常の品だったと思いますが、それだけに一層、往時の金工技術の水準をうかがうに足ります。

(この項つづく)

月と鳥2026年02月02日 19時22分38秒

昨日の月と燕のブローチを見て、個人的に連想するものがあります。

(全長18.5cm)

江戸~明治の「月にホトトギス」のかんざし。

   ★

今もそうかもしれませんが、特に近代以前の西洋絵画は、象徴的表現(砂時計は有限の生、牧者はキリストを表す等)を多用するので、図像にこめられた意味を読み解くイコノロジーという学問も生まれました。

日本美術にも象徴的表現はあるでしょうが(松は長寿、蓮は仏を表す等)、それよりも文芸的伝統の中にある画題が一層優勢の気がします。


このかんざしも、百人一首に採られた「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただありあけの 月ぞのこれる」の古歌をなぞって、風雅な趣を出しているだけのことでしょう。それは何か別のものを「象徴」しているわけではなく、月は月だし、ホトトギスはやっぱりホトトギスに過ぎません。こういう例ははなはだ多いです。日本では美術・工芸作品もまた本歌取りの伝統の中にある…ということかもしれません。


ですから、日英両国の「月と鳥」の装飾品の類似は、あくまでも表面上のものということになります。

   ★

しかし…と、ここで私の思考は横すべりします。
そもそもなぜ古歌の作者(後徳大寺左大臣)は、月とホトトギスの配合に心を寄せたのか?

考えてみると、日本の伝統画題には「月に雁」もあります。あるいは「月に千鳥」や「月に鶴」というのもあります。月と鳥をいろいろ結び付けて、そこに興を覚えるというのは、やっぱりそこに何かあるのではないか?

鳥は地面に舞い降り、また飛び立って空を翔ける存在です。
そして月は無限の天上界にあって、いちばん地上に近い異世界。
地上に縛り付けられた人間が、天上世界へのあこがれを表現するとき、それを一番託しやすかったのが鳥と月ではなかったか…ということを、ちらっと考えました。

この辺になると西洋も東洋もなく、カルチャーバウンドな象徴が生まれる以前の、人間精神の古層に横たわるアーキタイプ(原型)ではなかろうか…と、いかにも思い入れたっぷりに書いていますが、まあこれは駄法螺の類で、駄法螺というのは、吹く方はなかなか楽しいものです。

淳祐天文図2026年01月23日 05時56分26秒

前回の記事の中に、東洋文庫所蔵の「淳祐天文図」(蘇州石刻天文図)が写り込んでいました。宋代の淳祐7年(1247)に王致遠が刻した、この精緻な星図は非常に有名なので、書籍やネット上でもよく目にします。

日本に圧倒的影響を及ぼした中国天文学の精華である、その現物(拓本)には憧れを抱きつつも、当然希少かつ高価なものですから、簡単に手に取るというわけにはいきません。でも蛇の道は蛇。探しているうちに、出物を見つけました。


いつもの部屋の、いつもの本棚の前に掛けてみましたが、下の方は床についてしまい、全体を広げることができません。


背後の本棚も幅120センチ、高さ197センチと、決して小さくはないのですが、それと比較すると、この図のサイズ感がお分かりいただけると思います。


と言っても、種を明かせばこれは複製です。
でもなかなかよくできた複製で、こうしてディスプレイ越しに見る分には、おそらく複製と分からないでしょう。


実物を見ると拓本特有の凹凸がないので、さすがに複製と分かりますけれど、ぱっと見では、紙質や墨の具合も真に迫っていて、本物と思ってしまう人もいるんじゃないでしょうか。

単なる参考資料に過ぎないとはいえ、あの淳祐天文図を手元に置くことには、天文古玩趣味の徒にとって単なる象徴以上の意味があります。
その背後に潜む無数の歴史ドラマを想像すると、一瞬我を忘れるというのも、決して大げさな物言いではありません。

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この掛け軸は拓本の複製を入手してから、表装を施してもらいました。
最初、市内の表具屋に片っ端から電話で問い合わせた段階では、口をそろえて「そのサイズになると表装は無理。そもそも表装用の布が手に入らない」と断られましたが、最後に頼った表具屋は、さすが老舗だけあって「ちょっと方法を考えさせてくれ」と言って、結局こちらの予算内で仕上げてくれました。地獄に仏とはこのことです。

そんな苦労があるので、複製とはいえ個人的に愛着を覚える一品です。

天上の馬2026年01月02日 08時57分06秒

馬の星座といえば、ふつうはぺガスス座こうま座、それにいっかくじゅう座あたりでしょう。ちょっとひねれば、ケンタウルス座いて座も、部分的に馬といえば馬です。

(星座カード『Urania’s Mirror』(1832)復刻版より)

でも、ここではさらにひねって、中国星座の馬を見にいきます。
そもそも十二支は中国で生まれたものですし、ここは正月気分で東洋情緒にひたることにします。…といってもその方面に暗いので、例によって他人の褌になりますが、今回も大崎正次氏『中国の星座の歴史』(雄山閣、1987)からの抜き書きです。

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探してみると、たしかに中国星座には馬に関連するものがいくつか存在します。
中国星座は、天帝を中心とする天界の統治機構の具象化であり、それは即ち地上の王朝の似姿ですから、地上の皇帝が必要とするものは、たいてい天上世界にもあって、交通・軍事の要である馬が星座になっているのも、ある意味当然です。

そのひとつが西洋星座でいうアンドロメダ座の領域にある「天厩(てんきゅう)」
天厩とは文字通り「天の厩(うまや)」ですが、同時に馬を管理する官名でもあるらしく、大崎氏の本には以下のように記述されています。

天厩 テンキュウ〔…〕厩舎、馬小屋。『晋書』天文志に、「馬を管理する役人で、今日の駅亭のようなものである。命令を伝えるために駅を置くことを主さどる。その伝達の早さは、時計の刻みと競うほどであるべきである」とみえる。」(上掲書p.172)

馬小屋があれば当然馬もおり、馬の方はお隣のカシオペヤ座にいます。
それが「王良」です。

王良 オウリョウ〔…〕戦国時代の名御者。王良は趙の襄王の馬術の師であった。〔…〕王良が名御者であったので、天に上って星となり、天馬をつかさどったという話もある(『文選』張衡「思玄賦」注)。この天馬とは「天駟」とよばれる王良5星のうちの4星である。」(同p.144)

上の文章は、少し文意が曖昧な点もありますが、星となった王良は、天界では天馬をつかさどり、天馬を含むその全体を星座名「王良」と総称した…ということかと思います。そして王良のそばには、彼が使うムチも用意されていて、その名を「策」と言います。

策 サク〔…〕名御者王良の使った馬を打つむち。策はムチだが、『宋史』天文志に、「王良〔…〕ノ北ニ在リ」とあるから、王良のムチを意味すると思われる。」(同p.156)

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上記の諸星座の位置を、伊世同(編)『中西対照 恒星図表』(科学出版社、1981)で確認しておきます。


それぞれ下線を付しましたが、上方のやや左寄りに「王良」と「策」、その下の方に「天厩」が見えます。

参考として、フリーソフトの「Stella Theater Lite」の表示だと、大体下の領域が該当します。


伊世同氏の比定した「天厩」、「王良」、「策」を星名をたよりに囲んでみたのが以下。


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「だからどうした」と言われると困るのですが、こういうのは知っているのと知らないのとでは、空の見え方が違ってきますから、やっぱり知っておいた方が良いと私は思います。

今の時期だと、ちょうど宵の口に、天の駿馬とそれを世話する役人たちの姿が頭上高々と眺められるはずです。

年古りた絵巻は語る2025年12月29日 18時02分41秒

大掃除をしていて、腰をやられました。
いったんこうなると、くしゃみをするのも気を使います。そういえば今年の正月は、やっぱり肉体労働の結果として腰痛になり、さらには坐骨神経痛まで発症して、ひどく苦しめられました。こんな風にしばしば不調をきたすのは、もちろん老化のせいです。

坂道は上るより下るほうが楽ちんです。でもそれはカロリー消費量が少ないだけで、膝や筋肉にかかる負担は、むしろ下りの方が大きいとも聞きます。人生の下り坂も、主観的には特に努力せず勝手に下る一方ですが、その実、あちこちに負担がかかっているのかもしれません。齢をとるのも大変です。かといって下る以外の選択肢はありませんから、ここは慎重に歩を進めるのみです。

   ★

そんなわけで、身体を安静にしながら、先日、徳川美術館で行われた源氏物語絵巻展の図録を見ていました。


源氏物語絵巻については、印刷技術の観点から、約90年前に作られた原色複製版に焦点を当てた記事を既に書きました。

■原色版の雄、田中松太郎

今回、改めて2025年に発行された最新の図録を眺めるうちに、この90年前の複製版には、その高度な印刷術がもたらす審美的・技術的価値以外にも、ある大きな意義があることに気づきました。

それは記録性です。この絵巻の歴史を900年とすれば、90年間はざっとその1割。これは決して短い時間ではありません。どんなに保存に気を使い、丁寧な補修をしても、顔料の剥落や紙の劣化の進行は避けられません。

この複製は90年前の時点の絵巻の姿を正確に記録しており、この90年間で絵巻がこうむった変化を確認することができます。

具体的に見てみます。
まずは図録の表紙になっている、第四十九帖「宿木(寄生木とも)二」の絵。
光源氏の娘である明石の中宮が今上帝に嫁して生んだ子、すなわち源氏の外孫である「匂宮」が、新妻である「六の君」と昼日中に初めて対面した場面。左が2025年、右が1936年の画像です。


よーく見て下さい。特に黒塗りの箇所で顕著ですが、解像度の違いだけでは説明できない剥落の進行が見られます。

同じ事は、図録の裏表紙に掲載された第四十五帖「橋姫」についても言えます。同じく左が2025年、右が1936年です。描かれているのは、源氏の姪に当る大君(おおいきみ)と中の君に伺候する女房達の後ろ姿。


   ★

こうなると、「複製はたくさんあるけれど、本物は1つだ」という陳述も少し考えないといけません。複製がたくさんあるのはその通りですが、果たして本物は1つなのか。

ある特定の時点で考えれば、確かに本物は一つですが、上で確認したように、今目の前にある本物と、90年前の本物は別物です。だから「本物は1つ」とは、そう簡単に言えないわけです。

我々にしたって、昨日の自分と今日の自分は、いずれも本物の自分ですが、その中身は違います。「同一性」というのは、常に難しい哲学的問題をはらんでいますが、下り坂を急いで下っている人間にとって、このことは言葉遊びなんぞでなく、実に切実なものがあります。