太歳太白、壁に合す(たいさいたいはくへきにがっす) ― 2023年03月04日 09時47分38秒
タイミングを逸して、いくぶん気の抜けた記事になりますが、今週末の木星と金星の接近。何と言っても全天で一二を争う明るい惑星が並ぶというのですから、これは大変な見もので、何だか只ならぬ気配すらありました。昔の人ならこれを「天変」と見て、陰陽寮に属する天文博士が、仰々しく帝に密奏したり、大騒ぎになっていたかもしれません。
(群書類従「諸道勘文」より)
今回の異常接近はうお座で生じましたが、二十八宿でいうと「壁宿(へきしゅく)」あたりで、今日のタイトルは、そこで太歳(木星)と太白(金星)が出会ったという意味です。壁宿は占星では「婚姻に吉」とされるそうなので、折も良し、両者の邂逅はまるで男雛女雛が並んでいるように見えました。
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西洋に目を向けると、ジュピターとヴィーナスはローマ神話由来の名前で、ギリシャ神話だと、それぞれ主神ゼウスと美神アプロディーテに当たるので、これまた好一対です。
(シガレットカード「星のささやき(What the Stars Say)」シリーズ(1934)から。イギリスの煙草ブランド‘De Reszke’(デ・レシュケ/デ・リスキー)のおまけカードです))
ただ、神話上、両者に婚姻関係はなく、ゼウスから見るとアプロディーテは娘(母はディオーネ)、あるいは息子(へパイトス)の嫁と伝承されています。そしてゼウスは周知のとおり多情な神様で、正妻ヘラ(星の世界では小惑星ジュノーに相当)以外に、あちこちに思い人がいたし、アプロディーテもアレス(同じく火星に相当)と情を通じたとか何とかで、なかなか天界の男女模様もにぎやかなのでした。
(ギリシャの学校掛図。惑星名はすべてギリシャ神話化されています。内側から、水・エルメス(へルメス)、金・アプロディーテ、地・ギー(ガイア)、火・アレス、木・ゼウス、土・クロノス、天・ウラノス、海・ポセイドーン、冥・プルトーン)
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話を東洋に戻すと、陰陽道では木星(太歳神)と土星(太陰神 たいおんじん)を夫婦とみなす考えがあるそうで、これは肉眼で見ても、惑星の実状に照らしても、何となく腑に落ちるものがあります。太っちょで赤ら顔の旦那さんと、派手なアクセサリーを身につけた奥さんといったところですね。
おだやかな日曜日に ― 2023年02月19日 11時38分11秒
立春が過ぎ、バレンタインが過ぎ、今日は二十四節気の「雨水(うすい)」。
こうなると雛祭りももうじきですね。
およそ想像もつくでしょうが、私の家は非常に乱雑で、書斎の隣の和室にも本が堆積しています。ただ、それだけだといかにも見苦しいので、部屋の隅に小机と座椅子を置いて、「ここは物置部屋じゃありませんよ、和風書斎なんですよ」と、アリバイ的にしつらえがしてあります。そもそもがアリバイ的なスペースなので、ここで読み書きすることはほとんどありません。それでも貴重な和の空間として、こんな風に季節行事に活用したりもします。
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今日はブセボロードさんから、このブログにコメントをいただき、それとは別に長いメッセージもいただきました。それは人類と戦争の古くて長い関わりに省察を迫るもので、ひるがえって日本の平和主義をどう評価するか、その平和主義が機能する前提は何かを考えさせる内容でした。
これは誰にとっても難しい問いでしょう。もちろん、私にも明快な答があるわけではありません。ただ、この問題を考える際、最大のポイントは憲法前文にいうところの「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」の一句であることは、大方の異論がないでしょう。
「そんなもん、信頼できますかいな」という人も多いと思います。
ヒトは進化の過程で巨大な「心の世界」を手に入れましたが、その一方で他者の心の世界に触れる手段は、極端に未発達のままです。相手が何を感じ、何を考えているかは、言語や表情、声色、そんなものを手がかりに、辛うじて想像できるだけです。その非対称性が「人間、腹の底では何を考えているか分からない」という諦念を生み、警戒と不信の念を掻き立て、結果として不幸な出来事がいろいろと起きたし、今も起きています。
既存の学問体系で、こうした「信頼」の問題にいちばん肉薄しているのは、おそらく哲学でも宗教学でもなく「ゲーム理論」でしょう。「信頼」というと反射的に「お花畑」と切り返す人がいますけれど、「信頼」だけ取り出すと単なる美辞に見えても、それに伴う「利得」まで考慮すれば、それはすぐれてリアルな概念です。
ゲーム理論は演算と親和的なので、そう遠くない将来、最も合理的な意思決定をするプログラムに国家の命運を委ねるというSF的な世界が実現するのかもしれません。(人類にとってそれ以上に幸福だと主張しうる選択肢を提示できないと、必然的にそうなる気がします。)
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…というようなことを考えながら、眼前の平和の有り難さをしみじみ噛み締めています。ゲーム理論もいいんですが、こういうささやかな平穏が大事であることを、すべての議論の出発点にしないと道を誤るでしょう。
新暦150年の陰で ― 2023年01月07日 10時56分34秒
昨年の暮れに、旧暦から新暦への切り替えについて記事を書きました。
すなわち、明治5年(1872)12月2日の翌日を、明治6年(1873)1月1日とし(※)、以後は太陽暦を使用せよ…というお達しに関する話題で、今年は新暦施行150周年の節目の年に当たります。
暦の上では、12月がほぼ1か月まるまる消失し、師走が来たと思ったら、すぐ正月だということで、庶民は大混乱に陥った…と、面白おかしく語る向きもあります。でも、同時代の資料を見るかぎり、実際にはそれほど混乱があったようにも見えません。以前の記事で書いたように、旧暦の併用は公に認められていたし、それ以上に徴兵制の導入をはじめ、新時代の高波は、暦の切り替えなどちっぽけな問題と思えるぐらい大きかったからです。
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ただし、そんな中で大混乱に陥った一群の人がいました。暦屋です。
何せ改暦の布告が出たのは11月9日のことですから、業者はすでに翌年の準備に余念がなく、それを全部チャラにして、しかも1か月前倒しで新しい暦を刷り上げろという無理難題ですから、混乱して当然です。
そんなわけで、巷には「幻と消えた明治6年の旧暦」が一部流出し、心掛けの良い人はそれをちゃんと取っておいたので、今もそれを手にすることができます。
とはいえ、やっぱり珍しいものには違いなくて、私も時折思いついたように探してはいたのですが、なかなか見つかりませんでした。それがふと見つかったのは、先日の記事を書いた後のことで、こういうのを「機が熟した」というのでしょう。
こうして私は「明治5年 最後の旧暦」、「明治6年 最初の新暦」、そして「明治6年 幻の旧暦」のロイヤルストレートフラッシュを完成させ、大いに鼻高々です。まあ、虫の喰った煤けた紙束を自慢しても、あまり大方の共感は得られないかもですが、6世紀に暦法が本朝に伝来して以来1500年、中でも最大の出来事が太陰暦(正確には太陰太陽暦)から太陽暦への変更ですから、これはやっぱり貴重な史資料ではあるのです。
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肝心の幻の旧暦の中身ですが、まあ普通に旧暦です。
明治6年は「みつのととり(癸酉)」の年で、途中「閏六月」が挿入されたため、1年は13ヶ月、384日ありました。
暦の下段に書かれた暦注が、いかにも旧弊。
試みに右端(1月4日)下段を読んでみると、「十方くれニ入(十方暮に入る)神よし(神吉)大みやう日(大明日)かくもんはしめよし(学問始め吉)」、その隣の黒丸は大凶の「黒日」の印で、さらに「五む日(五墓日)めつもん(滅門)さいけしき(歳下食)」、「大みやう(大明)母倉 大くわ(大禍)ちう日(重日)」と続きます。
今では完全に暗号化していますが、昔の人にはちゃんと意味があったのでしょう。江戸時代にあっても、一部の学者はこうした暦注を迷信として激しく排撃しましたが、長年の慣習はなかなか改まらないものです。
それにしても、こういうものが「文部省天文局」の名前で出版されていたのが、わずか150年前のことです。世の中変ったなあ…と思いますが、現代人も友引に葬式を出さなかったりするので、一見した印象ほどには変わってないのかもしれません。
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(※)この書き方は不正確です。これだと1872年12月2日の翌日が、いきなり1873年1月1日になったように読めますが、もちろんそんなことはありません。正確には「旧暦の明治5年12月2日(西暦1872年12月31日)の翌日を、新暦の明治6年1月1日(西暦1873年1月1日)とした」と書かねばなりません。
再び小さな月の工芸品…「月と薄」 ― 2023年01月05日 18時33分21秒
話にはずみがついたので、もう一回話を続けます。
これまた小さな月の工芸品。左右は3.9cmほどで、人差し指の先にちょこんと乗るぐらいのサイズです。
月に薄の図で、三日月とススキの穂に金箔を置いたのが、渋い中にも華やかさを感じさせます。よく見るとススキの葉に小さな露が玉になっていて、こういうところが細工士の腕の見せ所。
これは「目貫(めぬき)」、つまり日本刀の柄(つか)を飾った金具で、昔の侍というのは、威張っているばかりでなく、なかなか風雅な面がありました。
月に薄の取り合わせは、お月見でもお馴染みですし、ふつうに秋の景色を描いたものとして、特段異とするには足りないんですが、実はこの目貫は2個1対で、もう一つはこういう図柄のものでした。
こちらは烏帽子に薄です。「これはいったい何だろう?」と、最初は首をひねりました。昨日の記事で「文化的約束事」ということを述べましたが、こういうのは要は判じ物で、分かる人にはパッと分かるけれども、分からない人にはさっぱりです。私もさっぱりの口だったんですが、ネットの力を借りて、ようやく腑に落ちました。
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まず、ここに描かれているのは烏帽子ではなくて、「冠」だそうです。
正式には巻纓冠(けんえいかん)と呼ばれるもので、特に両耳のところに扇形に開いた馬の毛の飾り(老懸・おいかけ)が付いているのは、武官専用の冠であることを示しています。
そして、この冠の主は下の人物だと思います。
(在原業平像 狩野探幽筆『三十六歌仙額』)
在原業平(825-880)は歌人として有名なので、文人のイメージがありますが、その官職は右近衛権中将で、れっきとした武官です。したがって狩野探幽が業平を武官姿で描いたのは正確な描写で、彼は古来「在五中将(在原氏の五男で中将を務めた人)」の呼び名でも知られます。
そして業平といえば、『伊勢物語』です。中でもとりわけ有名な「東下り」と武蔵国でのエピソードが、この「薄と冠」の背景にはあります。したがって「月と薄」の方も、単なるお月見からの連想というよりは、和歌で名高い「武蔵野の月」(※)をモチーフにしたものであり、ここに共通するテーマは「武蔵野」です。
(「武蔵野図屏風」江戸時代、根津美術館蔵)
(※)たとえば源通方が詠んだ、「武蔵野は月の入るべき峯もなし 尾花が末にかかる白雲」(続古今和歌集所収)など。
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何だかしち面倒くさい気もしますが、文芸的伝統の本質とは、幾重にも重層的な「本歌取り」の連続にほかならず、そうした伝統の末に、次のような表現も生まれたような気がします。
「そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか。」
そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛くちぶえを吹きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしました」 (宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より「六、銀河ステーション」の一節)
そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛くちぶえを吹きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしました」 (宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より「六、銀河ステーション」の一節)
小さな月の工芸品 ― 2023年01月04日 06時10分35秒
一昨日のつづきで、少し話をふくらませます。
門外漢の言うことなので、あまり当てにはなりませんが、日本では装身具があまり発達しなかった気がします。端的にいって、指輪、ネックレス、ブレスレット、イヤリング、ブローチ、宝冠…等々を身につける習慣がなかったし、特にジュエリーの類は、ヨーロッパ世界との懸隔が目立ちます。
近世は奢侈品が禁じられたので、やむを得ない面もありますが、それ以前だって、あまりポピュラーだったとは思えません。まあ、別に装身具が発達したからエラい、しなかったからダメという話ではなくて、単に文化の在りようが違うといえばそれまでです。
ただ、仏典には「七宝」の記述があるし、菩薩像の絢爛たる宝冠、瓔珞、腕輪などの造形を考えれば、日本人がそういうものの存在を知らなかったはずはないので、そこはちょっと不思議な気がします。(あるいは逆に、そこに「仏臭さ」を感じて、自ら身に着けることを忌避した…ということかもしれません。)
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そんな中で近世にあっては、女性ならば櫛やかんざし、男性ならば提げ物(煙草入れなど)とそれに付随する装飾が、装身具として独自の発展を遂げました。また刀も身に帯びるものですから、凝った刀装具を、装身具の一部に数えていいかもしれません。こうした日本独自の細密工芸品は、海外でも国内でも、コレクターが多いと聞きます。
月のモチーフ限定ですが、私もそうした細々した品に惹かれるところがあって、一昨日の兎のかんざしも、その流れで手にしたものです。さらに今日はもうひとつ、提げ物の金具を見てみます。
これは形状から留め具と思われる品で、左右2.8cmのごく小さな細工物です。モチーフは波にもまれる月。ここに兎は登場しないし、海上の月はそれ自体独立した画題でもありますが、それでも例の「月海上に浮かんでは 兎も波を奔る」(竹生島)の連想は自然に働きます。
一方、こちらは典型的な波乗り兎。おそらく煙草入れの前金具で、左右は4.8cmと一寸大きめです。こちらは逆に月が描かれてませんが、文化的約束事として、この兎は月をシンボライズしているので、見た目は違っても、結局両者は「同じもの」だと思います。
「月の登場しない月の工芸品」というのは一見奇妙ですが、シンボルとはそういうもので、西洋の人が白百合の絵を見て、「ここには聖母マリアが描かれている」と言ったりするのも同じことでしょう。
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以前、天文モチーフのアクセサリを探していたとき、「そういえば、日本にこういうのはないなあ…」と一瞬思ったんですが、でも改めて考えたら結構あるような気もして、そのことを思い出しつつ、今日は日本文化論を一席ぶってみました。(新春大放談ですね。)
(おまけ。今年の年賀状に使った柴田是真筆「玉兎月宮図」(部分))
波乗り兎のこと ― 2023年01月02日 11時02分24秒
ウサギと天文といえば「うさぎ座」という、そのものズバリのものがありますけれど、ここではちょっと方向を変えて、月のウサギにちなむ品を採り上げます。
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私の趣味嗜好として、月をかたどった品は昔から気になるもののひとつで、特に集めているわけでもないんですが、目についたものをポツポツ買っているうちに、少しずつ集まってきました。
そうしてやってきたひとつが、この月と兎のかんざしです。
全体は銀製。文字通り「銀の月」に赤珊瑚の兎が乗っています。
角度をちょっと変えると、兎の造形も達者だし、
正面から見ると、鼻先から口元にかけて珊瑚の白い部分が生かされていて、なかなか芸が細かいです。かんざしの細工が高度に発達したのは、江戸時代よりもむしろ明治の末~大正頃で、これもその頃のものだろうと売り手の方から聞きました。
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「波乗り兎」は和の文様としてポピュラーですが、この「月・兎・波」の3点セットは、謡曲「竹生島」の以下の詞章に由来します。
「緑樹影沈んで 魚木に登る気色あり
月海上に浮かんでは 兎も波を奔るか」
月海上に浮かんでは 兎も波を奔るか」
琵琶湖に浮かぶ竹生島明神へ参詣の折、船からあたりを眺めると、島影と月が湖面に鮮やかに映り、あたかも魚が木に登り、月に棲む兎が波の上を走るようだ…という美辞です。
岩波の日本古典文学大系の『謡曲集』注解は、同時代の文芸作品にも似たような表現が複数見られることを指摘していますが、いずれにしてもこれは中国に典拠のない、純国産の表現のようです。そして近世以降、謡曲の知識が庶民層に普及する中で、それに基づくデザインの方も人気を博すようになったのでしょう。
このかんざしは、波の表現もダイナミックで、水上を奔る兎の勢いが感じられます。
新暦誕生(前編) ― 2022年12月05日 17時14分09秒
昨日につづいて明治改暦の話題。
今から150年前――正確には1873年の元旦に――、それまで馴染んでいた旧暦(太陰太陽暦)から、日本中がいっせいに新暦(太陽暦、グレゴリオ暦)に切り替わりました。
その記念すべき最初の暦、「明治六年太陽暦」がこれです。
昨日に続き、妙に煤けた画像が続きますが、これも出た当時はきわめて斬新な、新時代の象徴のような存在だったはずで、表紙に捺された「暦局検査之印」にも、御一新の風が感じられたことでしょう。
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この暦を眺めて、ただちに気づくことが2つあります。
1つは、それまでの迷信的な暦注が一切排除されていることです。
と同時に、迷信を排除した勢いで、今度は過剰なまでに天文学的な記述になっていることです。
(上の画像を一部拡大)
たとえば1月の最初のページを見ると、「上弦 午前6時46分」とか、「小寒 午後2時26分」とか書かれています(以下、引用にあたって原文の漢数字をアラビア数字に改めました)。
月の満ち欠けは、新月から満月までシームレスに進行するので、「ちょうど半月(上弦)」になるのは確かに一瞬のことで、次の瞬間にはもう厳密には半月ではありません。小寒のような二十四節気も、それを地球の公転で定義する限り、地球がその位置に来るのはほんの一瞬です。ですから、それを分単位で表示してもいいのですが、旧来の暦になじんだ人たちは、その厳密な表記に目を白黒させたことでしょう。(現代の多くの人にとっても、同じだと思います。それに明治初めの人は、分単位で正確な時計など持っていなかったはずです。)
さらに他の細部も見てみます。
1月1日の項を見ると、①「日赤緯 南23度00分52秒」、②「1時差 12秒4減」、③「視半圣 16分8秒」の3つの記載があります。この暦には凡例がないので、その意味を全部で自力で読み解かねばなりません。
まず①が太陽の天球上の位置(赤緯)で、③が太陽の視半径であることはすぐ分かります。
問題は②の「時差」です。最初は「均時差」【LINK】のことと思ったんですが、数字が全然合いません。ここで渡辺敏夫氏の『日本の暦』(雄山閣、昭和51年)を見たら、「〔明治5年〕政府は急遽太陽暦を版行し、一般大衆へ行き渡るように努めた。まず英国航海暦により太陽暦を作り…」云々とあったので(p.139)、実際に英国航海暦を見てみたら、ようやく分かりました。
(1846年用英国航海暦(1842年発行)より1月の太陽に関するデータ表の一部)
ここに太陽の赤緯に付随する値として、「Diff(erence) for 1 hour」というのが載ってます。その訳が「一時差」に違いありません。これは太陽の天球上の位置変化のうち、南北方向の移動量を1時間あたりで示した値です。ですからこの「秒」は角度のそれで、例えば1月1日の太陽は、1時間あたり角度にして12秒ちょっとずつ北ににじり寄っていることを示しているわけです(この時期の太陽は、南回帰線から赤道に接近中なので、南緯の数値は「減」になります)。
もう1つ首をひねったのが、1月2日にある「日最卑 午前5時5分」です。ページをめくっていくと、「月最卑 ○○時」とか、「月最高 ○○時」とかいった記載も頻繁に出てきます。意味的に、「最卑」と「最高」が対になっていることは推測できるのですが、これはいったい何か?
首をひねりつつ検索したら、昔の自分が答えているのを見つけました【LINK】。
9年前の自分は、地球の「近日点」「遠日点」の意味で、中国では「最卑点」「最高点」の語を使っていると述べています(なるほど。昔の自分にありがとう)。月ならば「近地点」「遠地点」の意味ですね。
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まあ、こんなふうに「天文」を名乗るブログを書いている現代人でも手こずるのですから、明治初めの人に、この暦が理解できたとは思えません。仮に理解できたとしても、太陽の視半径や、月の遠地点・近地点が、日々の生活を営む上で必要な情報だとは、とても思えません。
だからこそ…だと思いますが、もう一つ気づくこととして、新暦の下にやっぱり旧暦が刷り込まれていることがあります。
これも渡辺敏夫氏の『日本の暦』に詳しい記述があったので、他人の褌を借りる形になりますが、その辺の事情を見ておきます。
(ちょっと長くなるので、ここで記事を割ります。この項つづく)
七夕短冊考(補遺) ― 2022年08月20日 08時51分15秒
先日まで7回にわたって書き継いだ「七夕短冊考」。
“戦前は、七夕の短冊に願いごとを書く習慣はなかった”
“いや、一部には確かにあった”
“でも、大勢としてはなかったはず。戦後の幼児教育の影響が大きいのでは?”
“いや、一部には確かにあった”
“でも、大勢としてはなかったはず。戦後の幼児教育の影響が大きいのでは?”
…みたいなことを書きましたが、その流れにうまく接合できなかった情報があり、何となくモヤモヤしているので、ここに補遺として挙げておきます。
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連載第5回で、歌人の鮎貝久仁子氏が書かれた「甦る七夕祭(東京)」という文章を引きました。東京で育った鮎貝氏が、少女時代(大正時代)に家庭内で短冊に願い事を書くよう勧められた…という回想記です。
鮎貝氏の文章は、雑誌「短歌研究」1972年7月号に掲載されたものですが、この号は「夏の歳時記Ⅲ」と称して、一種の七夕随筆特集を組んでいます。鮎貝氏の文章ももちろんそのひとつです。
で、私が気になったのは、同じ号に収められた、中原勇夫氏(1907-1981)による「佐賀平野の七夕まで」という文章です(pp.134-137)。これは氏の思い出話ではなくて、1972年現在の佐賀近郊の情景を叙したものです。
(出典:ウィキペディア「佐賀平野」の項より)
以下、いささか長文になりますが、一部を引かせていただきます(pp.136-137、太字は引用者)。
「街や村の小店には、やはり八月に入ると、「七夕紙あります」という貼り紙が出る。子供たちは五十円ほどのお金を手にして楽しげに連れ立ってそれを買いに行く。七夕紙には赤、黄、緑、紫色のものと、薄桃の地色に星をちりばめたものの五種があって、全体にくすんだ色調のヒキの強い紙からできている。
八月六日、七夕の前日には、どの家も家族全員で準備にかかる。〔…〕
七夕の当日、八月七日はどの家も早く起きる。日の出前に、大人たちに連れられて子供たちは、容器を持参して露をとりに行くのである。〔…〕持ち帰った露の水は用途が二つあって、家族みんながそれで顔を洗うのと、それで墨をするのとである。その墨で短冊を書くのであるが、短冊には天の川、家内安全、八月七日、おりひめさま、ひこぼしさま、自分の願いごと、自分の名前、いろは文字などをそれぞれ年齢に応じて書く。女の子たちは「早く一年生になれますように」とか「くつを買ってもらえますように」とかわいいことを書いたりする。また男の子たちは、将来の希望の職業(おまわりさんとか新幹線の運転手とか)などを書いたりする。これらの願いごとは、朝露ですった墨で書かないとかなわないと言われる。書きはじめるのは、年長者からで、祖父がいれば祖父からはじめるのが常である。七夕竿につるすときには、「七夕さま、どうか私の願いをかなえてください」あるいは「字が上手になりますように」などと祈ってつるすのである。〔…〕書き損じた失敗作の短冊もやはりみんな残らずつるすならわしである。〔…〕
七夕様にお願いした願いごとは、短冊が早く切れて落ちるほど、早くかなえられると言われている。また、落ちた短冊を拾いあげたら願い事がかなえられぬというので、女の子たちは自分の願い事を他人に見られて恥ずかしくてもじっとがまんして拾わずにいるのは可憐である。〔…〕
以上の、部落、一家をあげての七夕の風習がまだまだ佐賀平野、とくに西南部の白石地方に滅びずに残っているのはうれしいことだと思う。」
八月六日、七夕の前日には、どの家も家族全員で準備にかかる。〔…〕
七夕の当日、八月七日はどの家も早く起きる。日の出前に、大人たちに連れられて子供たちは、容器を持参して露をとりに行くのである。〔…〕持ち帰った露の水は用途が二つあって、家族みんながそれで顔を洗うのと、それで墨をするのとである。その墨で短冊を書くのであるが、短冊には天の川、家内安全、八月七日、おりひめさま、ひこぼしさま、自分の願いごと、自分の名前、いろは文字などをそれぞれ年齢に応じて書く。女の子たちは「早く一年生になれますように」とか「くつを買ってもらえますように」とかわいいことを書いたりする。また男の子たちは、将来の希望の職業(おまわりさんとか新幹線の運転手とか)などを書いたりする。これらの願いごとは、朝露ですった墨で書かないとかなわないと言われる。書きはじめるのは、年長者からで、祖父がいれば祖父からはじめるのが常である。七夕竿につるすときには、「七夕さま、どうか私の願いをかなえてください」あるいは「字が上手になりますように」などと祈ってつるすのである。〔…〕書き損じた失敗作の短冊もやはりみんな残らずつるすならわしである。〔…〕
七夕様にお願いした願いごとは、短冊が早く切れて落ちるほど、早くかなえられると言われている。また、落ちた短冊を拾いあげたら願い事がかなえられぬというので、女の子たちは自分の願い事を他人に見られて恥ずかしくてもじっとがまんして拾わずにいるのは可憐である。〔…〕
以上の、部落、一家をあげての七夕の風習がまだまだ佐賀平野、とくに西南部の白石地方に滅びずに残っているのはうれしいことだと思う。」
これを読んでただちに分かるのは、学校や園の行事とは別に、伝統的な民俗行事としての七夕にも、短冊に願い事を書く風習はたしかに入り込んでいたという事実です。この点で、自分が以前書いた記事は、若干修正が必要です。
ただし、これは1972年現在の風習ですから、それが戦前まで遡るかどうかは分かりません。でも、少なくとも明治生まれの中原氏が、特にそれを異としている気配はありませんし、各家庭の年長者たちも、「そういうもの」と当然視しているように読めます。
また、「願いごとは、短冊が早く切れて落ちるほど、早くかなえられる」云々とあるのは、連載第5回で引用した、「〔願いを書いた短冊が〕行き方も分からないようになったら願いは叶う」という、幕末期の江戸の庶民の観念を彷彿とさせます。幕末の江戸と昭和の佐賀とで、似たようなことを信じていたということは、そうした観念が時間的・空間的に一定の広がりを持つことを推測させるもので、この辺はもうちょっと探りを入れてみたいです。
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それにしても、1972年といえば、私の子ども時代とかぶっていますが、私自身はこんな経験をしたことはありません。でも、これぞ私が思い浮かべる「懐かしい七夕」のベタなイメージで、何となく昔の「新日本紀行」を見ているような気分になります。
七夕短冊考(その7) ― 2022年08月04日 18時39分24秒
身近にひたひたとコロナの足音が迫るのを聞いたかと思うと、気が付いたら自分自身が斃れていた…。まあ本当に斃れたわけじゃありませんが、布団に倒れ込んでいたのは本当です。先週の金曜日から様子がおかしくて、土曜日に検査したら陽性。39度台の高熱が出たのは最初の2日間ぐらいで、今はこうして机の前で普通に過ごしています。
この間ずっと、いつもブログの写真に写り込んでいる書斎に布団を持ち込んで、そこで缶詰になっているんですが、この部屋は元々狭いうえに、いろいろなモノが集積しているので、布団をきちんと敷くこともままなりません。そして自分の趣味とはいえ、剥製とか標本とか人体模型とかに見下ろされて、その隙間で体をくの字にして寝るというのは、病気療養のあり方として好ましいものではありません。呼吸器の病気にはことによろしくない感じです。
一晩だけならまだしも、連日連夜この空間に閉ざされていると、何だかいたたまれない気になって、このままここで入定して即身仏と化すんじゃないか…という気すらしました。今は気分的に楽になりましたが、一昨日ぐらいは残りの療養期間が途方もなく長く感じられたということもあります。
そこで即身仏の積ん読本を読み出したら、現実のミイラ仏の背後には、なかなか切実な事情があることを知って、粛然としました。即身仏になるのも大変です。(でも、条件がそろうと、人間の遺体は意外と簡単にミイラ化するそうですね。沙漠地帯ばかりでなく、湿潤な日本でも、お寺の土塀のくぼみとか、橋の下とか、ひょんなところからミイラが発見された例が本には書かれていました。)
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さて、ブログを放置しているうちに、今日はいつの間にか8月4日です。
以前書いた旧暦の七夕がいよいよ今日。だらだら書いた短冊の話も、ちょっと中だるみの感があるので、この辺で話をおしまいにしなければなりません。以下、はしょって書きます。
戦後の幼児教育の本として、今回以下の3冊を眺めてみました。

■松石治子(著)『子供のための幼児教育十二か月』(ひかりのくに昭和出版、1958)
■富永正(監修)・奈良女子大学幼稚園(編)『園の年中行事』(同、1962)
■舘紅(監修)『心にのこる園行事(保育専科別冊)』(フレーベル館、1979)
これらの中に「短冊の謎」はもちろん書いてなくて、そもそも短冊への言及もほとんどありません。力が入っているのは、むしろ各種の七夕飾りの製作です。
例えば1962年に出た『園の年中行事』を見ると、「ささ飾りをするにしても、従来のきまりきった短冊などにこだわらず、画紙・色紙・セロファン紙などを使って工夫創作することを教え」云々とあって(p.104)、短冊は雑魚キャラというかモブ扱いですね。ただ裏返すと、この書きぶりからは旧来の「天の川」「七夕さま」式の短冊が、まだこの頃は健在だったのかな…という推測も成り立ちます。
(園行事としての七夕。『園の年中行事』より)
以下は、そのもうちょっと前、1958年に出た『子供のための幼児教育十二か月』の1ページです。
イラストの笹飾りには、たしかに「天の川」と書かれた短冊がぶら下がっています(p.111)。さらに、同じページには、「七夕まつりの仕事」として、以下の活動例が挙がっています。
○短冊形の紙に画をかく(自分のすきな画をたてにかく)
○折紙で輪つなぎを作る
○折紙ですきな物を折る
○色紙で短冊やあみ等を作る
○色紙できものやほおずきを作る
○画用紙で星や胡瓜やすいか等を作る
○大きい星形の冠を作って彩色をして、それを冠ってリズムあそびをする
○笹竹を飾ってみんなで歌やリズムやおはなしなどをしてあそぶ
○折紙で輪つなぎを作る
○折紙ですきな物を折る
○色紙で短冊やあみ等を作る
○色紙できものやほおずきを作る
○画用紙で星や胡瓜やすいか等を作る
○大きい星形の冠を作って彩色をして、それを冠ってリズムあそびをする
○笹竹を飾ってみんなで歌やリズムやおはなしなどをしてあそぶ
今とあまり変わらない感じもしますが、ただ戦後13年が経過したこの時点でも、「短冊イコール願い事」という定型(お約束)の成立は、まだ確認できません(別の個所(p.113)には、「七夕の笹に、色紙や短冊をかざりますね。短冊に自分の名前や、天の川、と書きますね。」ともあって、やっぱり願い事は書いてなかったようです)。ただ、短冊形の紙に自由画を描くという活動が、その萌芽のようにも思えます。(余談ながら、ここに出てくる「きものやほおずきを作る」とか、「胡瓜やすいか等を作る」とかは、相当古い習俗をとどめていますね。民俗が園の中で生きていた時代でもありました。)
最後の『心にのこる園行事』(1979)を見ると、七夕飾りにもプラスチック工作が登場していたり、すっかり今風になっています。
(p.86。左上のプラボトル製の魚に注目)
この本で興味深く思ったのは、「七夕のいわれ」というコラム記事です。
そこには「〔…〕江戸時代になると、一般にも広く行われるようになって、現在のように竹や笹の枝にいろいろな願いを書いた短冊などを結びつけて飾ったり、これを川に流したりするようになりました。」と書かれていました(p.83)。
もちろん、こんなふうに話が単純だったら、私がここまで字数を費やす必要もないわけで、この記述は明らかに事実誤認を含むのですが、この1979年の時点では、保育現場で短冊に願い事を書くことが自明視されるまでになっていたことを示すものだと思います。
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他にも、これは小学校での例ですが、毎年七夕の時期になると、教え子に願いごとを作文に書かせ、それを文集にまとめた先生の実践記録とか[1]、班ごとに七夕飾りを製作し、短冊に書いてある自分の願い事を発表しあった例とか[2]を目にしました。いずれも1960年代後半のことです。
ひょっとしたら、短冊に願いごとを書くのは、小学校での教育実践が先行しており、それが幼稚園・保育園に下りてきた可能性もあります。いずれにしても、全国津々浦々で、七夕竹に願いごとを書いた短冊がぶら下がるようになったのは、1960年代を画期として始まり、70年代に入ると、それが新たな習俗として確固たるものとなった…という新たな仮説を提示して、一応この項を結んでおきます。
無理やり七夕に間に合わせましたが、どうもあまりパッとしない内容で、空の方も今夜は涙模様ですね。今年の七夕はいろいろあかんかったです。
(この項おわり)
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【註】
[1] 鴨井康雄(編)『明日を呼ぶ子ら―重い障害をもつ子どもと教師の記録』、明治図書、1970. pp.58-59.及びpp.102-110.
[2] 今回の記事はGoogleの書籍検索にだいぶ助けられました。その中で見つけたのが、次の引用文です。
「できあがってから七夕祭をしました。各班ごとにできあがるまでのようすを発表しあい、ひとりひとりが立ちあがってたんざくに書いてある自分の願いを読みあげぎ(とうもろこし)早くくいたいなあ」。はじめ子どもたちは前の経験から「七夕 ...」
これが引用の全文で、前後は一切分かりません。Googleの書籍検索でひっかかる古い資料は、たいていアメリカの大学がスキャニングしたもので、著作権の関係で日本からだと断片しか読むことができません。しかも、多様なレイアウトの資料を無理やり機械に読ませているので、意味不明の判じ物のようなものが多く、内容を確かめるには別途原典に当たらないといけないのですが、これはまだ原典に行きついていません。
一応の出典は、「Bunka hyōron - 第 76~81 号 - 12 ページ - 1968」となっていて、おそらくは「文化評論」(新日本出版)第78号(1968年3月号、特集・教師の記録―次代の日本のために)掲載の文章ではないかと想像しています。ちなみに同号の12ページは吉成健児氏による「分校の子どもたち」という記事です。国会図書館からコピーを送ってもらえばはっきりするのですが、そこまでするか?という気もするので、これは今のところ参考引用です。
七夕短冊考(その6) ― 2022年07月24日 07時31分28秒
昨日は空の青が濃い日でした。
夏の日差しはあくまで強く、でも空気がカラッとして、風も吹いていたので、木陰に入ればぐっと過ごしやすく、盛んな蝉の声も耳に心地よく響きました。昨日の最高気温は32度でしたから、まあ人間的な暑さの部類といえるでしょう。そういえば、昔の夏はこんな感じではなかったか。このところ毎年異常な暑さで、夏の良さを忘れがちでしたが、こういう夏ならば、私は大いに歓迎したいです。
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さて、七夕の話題。
その後もあれこれ考えていましたが、昔の人も短冊に願い事を書いていたのは事実としても、それはどちらかといえば「孤立例」で、それが現代の七夕風景とシームレスに接続しているわけでもないので、やっぱり<昔の七夕>は多くの場合、紙絵馬的短冊とは無縁であった…と言ってしまっていいのではないでしょうか。例外が存在するからといって、通則はひっくり返らないものです。(自分でもかなりいい加減なことを書いている自覚がありますが、あまりここで足踏みしていると話が前に進まないので、強引にまとめておきます。)
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次に、戦後の七夕に及ぼした公教育(幼児教育・幼児保育も含む)の影響を考えてみます。まあ、なかなかそう都合のいい資料はないのですが、ちょっと面白いと思ったデータがあります。
今から30年近く前、1994年に出た『都市の年中行事―変容する日本人の心性』(石井研士著、春秋社)に掲載の以下の表です。
(上掲書p.20)
石井氏が当時の大学生(都内のキリスト教系の女子大学と共学の大学、および国学院大学の3年生)を対象に行ったアンケート調査の結果です。90年代当時の大学生ですから、対象となったのは今では50歳ぐらいの人たちでしょう。
いろいろな伝統行事、それと戦後の新行事をとりまぜて、「それを現在もやっている」か、「かつてはやったことがある」か、「やったことはない」か、「そもそも聞いたこともない」かを答えてもらった結果です。
これはなかなか面白い表で、いろいろなことを考えさせられます。
中でも注目すべきは七夕で、「かつてはやったことがある」と答えた学生が63.6%と突出して多くなっています。これより数字が高いのは、最初から幼児限定の「七五三」だけですから、年中行事における七夕の特異性が、この数字によく現れています。しかも「やったことはない」と答えた学生はわずかに1.3%で、これまた極端に少ないです。
要するに、七夕はほぼすべての学生が経験しており、その多くは子ども時代に限って経験していることを示すもので、その背景に、幼稚園や保育園、あるいは小学校低学年での七夕体験があるんではないかなあ…というのが、私の想像です。
(でもその一方で、35%もの学生が「今も七夕をやっている」と答えたのは不思議です。あるいは、商店街や観光地の七夕イベントに参加することを、「やっている」うちにカウントしたせいかもしれません。※)
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戦後の七夕隆盛の陰に公教育の存在を想定するならば、幼児教育の本を参照すれば、その辺のことはただちに分かるだろうと思いました。たとえば、「昔の七夕は封建主義の遺制であったが、今や民主と男女平等の世である。これからは男女を問わず、短冊に自由な願い事を書いて、子どもたちの個性と創造力を大いに伸ばしていこうではないか」云々…というようなことが、戦後出た本を開くと書いてあるような気がしたのです。
でも、これまたそんな都合の良い本はなくて、「うーん、これはちょっと勝手が違ったなあ…」と思いましたが、とりあえずファクトとして、昔の幼児教育書における七夕の扱いを見てみます。
(暑さに負けずこの項つづく)
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(※)石井氏の本には「現代の七夕」に直接触れている箇所もあるので、参考までに引用しておきます(上掲書pp.189-191)
「伝統的な年中行事の変容を知りたいと思って、七月七日の七夕に銀座、新宿、池袋のデパートを合わせて九店はしごしてみた。それぞれの地域のデパートがひとまとまりになって、七夕商戦を繰り広げていたからである。ただし、「たなばた」とはいわない。銀座・有楽町が「ラブ・スターズ・デー」、新宿が「サマー・ラバーズ・デー」、そして池袋が「スター・マジック・デー」である。消費者に購買意欲を起こさせるためには、名称変更はいともたやすい。会場にはハート型の短冊などを吊るす竹や星型の籠が置かれていたが、どこも賑わうというほどではなかった。浴衣を着た受付の女性の所在なさが妙に印象に残った。今でも保育園や幼稚園に行けば、笹の葉にたくさんの短冊の下がる光景を見ることはできるし、七夕の歌も聞こえてくるかもしれない。しかしながら「大人たちの、七夕」(銀座)は、露骨に商業主義的な色彩が強い。「七夕」が「ラブ・スターズ・デー」となることで、本来の季節感は失われ、たんなるお中元商戦のひとこま、若者への販売拡大のための機会と化したように思える。」
行事も世につれ…ですね。デパートの退潮もあり、この30年間に限っても、七夕風景は常に変容しているのを感じます。
(上掲書p.190)
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