ロイヤル天文同好会のこと(後編)2026年04月04日 17時09分47秒

(本日は2連投です。前編のつづき)

単行本『ゴムの惑星』と、会誌「ゴムの惑星」があってややこしいですが、会誌の方は文字通りの3号雑誌で、第3号が出た後で休眠状態に入りました。

■第1号 1975年12月刊(限定100部)
■第2号 1976年8月刊(限定150部)
■第3号 1979年6月刊(限定200部)

こういう会の創設と会誌発刊の事情は、会誌「ゴムの惑星」を読めば一目瞭然なのでしょうが、国会図書館に行かない限り、読むのはなかなか困難です。今、たまたま「日本の古本屋」に第1号と第2号のセットが売りに出ていますが、そのお値段はなんと11万円。それだけの価値がある珍本なのでしょうが、さすがに11万円を出す勇気はありません。

そちらは他の方にお任せするとして、私の手元には第3号があります。


ロイヤル天文同好会は、その成立事情から、何となくおふざけ気分のある、天文同好会と名乗ってはいても、天文以外の活動をいっそう面白がるクラブではないか…という疑念がありました。でも会誌を読んで、その疑念は消えました。会員はみな純な天文好きで、会誌の内容も至極まじめなものだったからです。


第3号の巻頭に原平さんの詩が載っています。

 今日つくった詩
  ダイコンと
  ジャガ芋と
  油揚を買って
  娘の手を引いて帰りながら
  一番星を見つけた
  娘より先に見つけた

ああ、なんと純な詩でしょう。
原平さんの星ごころは、これほどまでに純なものだったのです。


目次を見ても、本当に普通の天文同好会誌という感じで、「星空案内-晩春から初夏へ」とか、「ロイヤル天文学講座『黄道光と対日照』」とか、それにまじって原平さんは「ぼくの欲しいレンズ」という一文を書いています。



また南伸坊(伸宏)さんは、「中国の星の話」の中で、『捜神記』から北斗と南斗の逸話を紹介しています。伸坊さんは中国の伝奇・志怪小説を好み、後にそれらを題材にした漫画作品集も出していますが、まだ30歳になるやならずの頃から、そうした渋い読書体験を重ねられていたことを、これを読んで知りました。まことに畏敬すべき人物です。

(上の北斗と南斗の話は「星に遭う」と題した漫画作品となり、『李白の月』(マガジンハウス、2001)に収められています)

   ★

1970年代の天文趣味は、「個と孤」ではなく「集と群」の中で営まれていました。学生のみならず社会人も進んでクラブを結成し、会誌をせっせと天文雑誌に送り、それを結節点として、クラブとクラブがゆるく結合し、全国規模の巨大な天文サークルができていたのです。

これは1970年代に限った話ではありません。要は欧米では1870年代から、日本では遅れて1910年代から発展した「クラブの時代」の末流に1970年代は位置していた…ということだと思います。

現代は反対に「クラブ消滅の時代」で、天文に限らず、あらゆるクラブや団体が会員の減少と高齢化に苦しんでいます。もはや人々はネット上で集うことはしても、現実世界で集うことを求めてはいないようにも見えます。

まあ、天文趣味は自らの星ごころ(人によっては機材ごころ)を満たすことが目的であり、クラブを結成することが目的ではありませんから、現状に異を唱える必要はありませんけれど、それでもやっぱり当時を懐かしみ、羨む気持ちも少なからずあります。

純で素朴でシャイなロイヤル天文同好会。
そこに集った才人たちの含蓄あるやりとりを、間近で見聞きしてみたかったです。

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【おまけ】

「ゴムの惑星」第3号の巻頭言で、原平さんはのその刊行間隔を凝視し、これが不定期刊ではなく「放物刊」であると喝破しました。

■第1号 1975年12月刊
■第2号 1976年8月刊
■第3号 1979年6月刊

そしてその放物線を延長すると、第4号が出るのは1990年2月である…というのが、原平さんの予測でした。

(横軸は号数。計算式の第3項(28275)は、1900年1月1日を1とするシリアル値。年号にすると1977年5月30日)

しかし、エクセルの多項式近似曲線を延長すると、第4号はもっとはやく1984年5月には出ていたはずです。会長である田中氏は、この刊行遅延は、モロモロの重力源の摂動の影響であると推測し、「会長としては、第四号の刊行をズバリ一九九九年末とみています」と書かれています(単行本『ゴムの惑星』付録)。

しかし、最後の予測も裏切られ、会誌「ゴムの惑星」は無限遠の彼方に消えました。
でもひょっとしたら、2014年10月26日、原平さんが最後の一番星を見たとき、目に見えない第4号がひそかに刊行されていたかもしれません。

ロイヤル天文同好会のこと(前編)2026年04月04日 16時59分53秒


(ちくま文庫版『ライカ同盟』より)

赤瀬川原平さんは、1970年から86年まで、東京神田の「美学校」の講師を務めていました。美学校は「東京神田美学校」とかの略称ではなく、「美学校」という固有名詞を持った一種の私塾です。そこで原平さんは「オモシロ芸術学」とでも呼ぶべき奔放な内容で談論風発、それが幅広い年代のオモシロ好きの人たちを引き寄せ、そこに不思議な空間が生まれたのです。路上の超芸術「トマソン」が発見され、後年、路上観察学会へと発展したのも、この「赤瀬川サークル」があったればこそです。

1974年にロイヤル天文同好会が生まれたのも、また美学校の赤瀬川サークルからでした。

…と、いったんは書き出したものの、実はちょっと気になることがあります。
たしかに、原平さんの単行本『ゴムの惑星』(誠文堂新光社、1995)を読むと、冒頭に

 「ゴムの惑星というのは、ぼくたちロイヤル天文同好会の機関誌の名前だ。ぼくがむかし美学校というところの先生をしていて、そこの生徒たちといっしょに作った。」

と書かれています。でも、「ノバ・シグナス一九七五」という短編(初出は「オール読物」1982年3月号、のちに『ライカ同盟』所収)には、

 「ミナミ君〔=南伸坊〕と二度目に会ったとき、ミナミ君はロイヤル天文同好会の会誌を見せてくれた。『ゴムの惑星』という名前で、最初見たときは、何かちょっと、その名前からして怪し気な団体かと思った。でもミナミ君は話していてぜんぜん怪し気ではないし、ぼくも前から天文に関心があったので入会させてもらった。会誌を見ると会長は田中ヒロミという人で、それがどんな人だろうかという興味もあった。」 

と書かれています。「あれ、どっちが正しいのかな?」と思いましたが、これはやっぱり最初の話が正しくて、「ノバ・シグナス」という私小説は、小説の常として潤色と改変が加わっているようです。

そもそもロイヤル天文同好会の会長は「田中ヒロミ」ではなく、田中ちひろ氏です。田中氏は美学校における原平さんの年若いお弟子さんでしたが、天文趣味に関しては本格的な知識を持ち、原平さんを導く立場だったので、自ずと会長になられたのでした。

その田中氏は、単行本『ゴムの惑星』末尾の「付録」でこう書きます。

 「赤瀬川さんの文章にもあるように、『ゴムの惑星』というのは、ボクたちロイヤル天文同好会の機関誌の名称です。〔…〕

 ところで、『ゴムの惑星』という不思議な機関誌の名称のことですが、とりあえず会報を出そうというんで、みんなが集まっていた時、『ゴムの惑星』っていうのはどう?と、突然言い出したのは赤瀬川さんだったと思います。〔…〕

 『ゴムの惑星』にくらべて『ロイヤル』の名称が決まるまでには、結構時間がかかりました。〔…〕その頃、中央線沿線に住んでいた赤瀬川さんとH会員、それに私は、毎週土曜日の美学校の授業のあと、いつも水道橋駅から下りの電車に乗って一緒に帰っていましたが、その道すがら、たまたま線路沿いのネオンのひとつに、「高級クラブ ロイヤル」というのがあって、「ロイヤル!いいネェー」となり、一気に「ロイヤル天文同好会」という名称が決定されました。」

(長いのでここで記事を割ります。後編につづく)

屈折式・反射式・おざ式2026年03月31日 22時34分55秒

日食のことを書き、つげ義春さんのことを書きました。

書き終わってから、チカッと私の中に光るものがあって、何だろうなあ…としばらく考えているうちに、それは赤瀬川原平さん(1937-2014)のことだと気付きました。なんだか「さん」付けでなれなれしいですが、お二人は私の中ではずっと「さん」付けなので、ここでもそのままお呼びします。

原平さんは、前衛芸術家であり、芥川賞作家であり、文筆家でもありましたが、『ガロ』の版元・青林堂にも一時出入りして、当時の編集長・南伸坊氏に乗せられて、「ねじ式」のパロディ漫画「おざ式」を描いたりしていました。(ちなみに原平さんとつげさんは、ともに1937年生まれの同い年です。)

(『ガロ』1973年7月号掲載。『ガロ二〇年史 木造モルタルの王国』より)

そして原平さんは、天文ファンでもあり、「遅れてきた天文少年」(ご自身の表現)として、南伸坊氏や渡辺和博氏らとともに「ロイヤル天文同好会」なる会を結成し、憧れのタカハシ製6.5cmフローライトを買い、ついには「天文ガイド」誌上で連載記事を持つまでになります(1992年2月号~95年2月号)。

 「夢にまで見た高橋製作所は、まさに製作所という感じで、つげ義春のマンガに出てくる町工場みたいだった。そうだ『ガロ』の青林堂にはじめて行ったときもこんな感じだったと思い出した。その聖なるタカハシの二階の事務所に昇る狭い木の階段が、ぎしぎし軋んだ音をよく覚えている。」 (「遂にタカハシを買う」、初出は天文ガイド誌、後に単行本『ゴムの惑星』(1995)所収)

そしてロイヤル天文同好会の面々と日食観測に赴き、1991年のメキシコ皆既日食の際に撮影した写真は、アート作品として、展覧会場を飾ったりもしたのでした。

『赤瀬川原平展 [ステレオ写真-メキシコ皆既日食旅行編] 』 図録より)

(ロイヤル天文同好会会長・田中ちひろ氏撮影。『[大阪ステレオ博-立体写真館] 脳内リゾート開発事業団 赤瀬川原平/太田孝幸/高杉弾/田中ちひろ/徳山雅記)』 図録より)

ちなみに、赤文字で示した2つの展覧会はともに1992年6月6日~27日まで、大阪市内の別会場で開かれました。そして2つの図録は、実は同じものです。

(表・裏表紙にそれぞれの展覧会名が印刷されています)

「あれ、どういうこと?」と思いましたが、すぐに「ああそうか。この写真展自体が「ステレオ」企画なのか…」と気づきました。まことにどこまで本気で、どこまで冗談なのか分からないところが原平さんらしいわけですが、原平さんにとっては本気も冗談もなくて、すべては「あそび」であり、「数寄の道」だったのでしょう。

原平さんもつげさんも、実に一代の畸人と呼ぶに足る人たちでした。

明治の望遠鏡についてのメモ2026年02月17日 06時04分20秒

これまでぼんやりと疑問を感じながら、知識が空白のままになっていたことがあります。

まあ私の場合、そういう空白はたくさんあるのですが、その一つが明治の望遠鏡事情です。すなわち明治時代の日本には、望遠鏡を製造していたメーカーが果たしてあったのか、なかったのか。もちろん事情通の方は先刻ご承知かもしれませんが、私はそれをはっきり知らずにいました。

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江戸時代の日本では、盛んに遠眼鏡が作られ、浮世絵にも描かれました。

(葛飾北斎、連作「風流無くてなゝくせ」のうち『遠眼鏡』。出典:ウィキペディア「遠眼鏡」の項

ですから、望遠鏡製作の基礎はすでに十分あったわけで、文明開化とともに、そこに新来の技術が加わり、新しい望遠鏡づくりの職人が生まれ…というのも、十分ありうるストーリーではあります。ただ、それは頭の中で想像するばかりで、実態は杳として知れませんでした。

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私の蒙を啓いてくれたのは、1冊の小冊子です。


(財)科学博物館後援会(発行)、『わが国の望遠鏡の歩み』(全57頁)。
昭和39年(1964)、ガリレオの生誕400年にちなんで、特別展「わが国の望遠鏡の歩み」が科博で開催された折に作られたものです(各項の執筆者は無署名で、「あとがき」を村山定男氏が書かれています)。

(目次と冒頭)

何せ60年以上前の資料ですから、情報としては古いのですが、少なくとも私の知識の空白を埋めてくれる役は十分果たしてくれました。

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問題の記述は、「3.日本の望遠鏡の歴史(2) ―明治以降―」(pp.21-28)に出てきます。いくつか記述を書き抜いてみます(太字は引用者)。

 「江戸時代からの伝習による一閑張の望遠鏡なども初期にはまだいくらか作られていたようであるが、やがて舶来の新式望遠鏡が続々と入ってきた。後にはそれらを模倣して国産品をつくりだす努力がはじめられたが、しばらくは舶来万能であった」(p.21)

つまり、日本の望遠鏡製造史は、江戸と明治の間に大きな断絶があり、「遠眼鏡時代」と「国産望遠鏡普及時代」の間に「舶来万能時代」がはさまっている…というのが大まかな構図です。ですから、上で述べた私の想像は端的に言って間違いです。

ただし望遠鏡はそうであっても、レンズ研磨に関しては部分的に合っていた点もあります。引用を続けます。

 「掛け眼鏡の玉も、昔は一つ一つ手工業的にみがかれていたが、明治6年オーストリヤのウィーンに開催された万国博覧会に参加した人達によって、他のいろいろな技術と共に西洋流のレンズ研磨法も持ちかえられた。眼鏡研磨法を伝習して帰ったのは朝倉松五郎という人で、レンズ研磨機もこの時はじめて持ちかえられ、また研磨に紅殻を用いたのもこのときがはじめてであったという。
 この朝倉は明治9年わずか34才で没したが、その弟子たちによって、眼鏡玉の製造をはじめ、わが国のレンズ工業のもとがきずかれた。」(pp.21-22)

なるほど、望遠鏡よりは眼鏡の方が圧倒的に需要も多かったわけですから、そちらの国産化の方が先行したのは至極当然です。

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では肝心の国産望遠鏡はいつからか?といえば、それは明治も最末期のことです。
明治42年(1909)に、元海軍技師の藤井竜蔵が「藤井レンズ製造所」を設立し、明治44年(1911)に「ビクター双眼鏡第1号」を完成。

(藤井竜蔵に関する記述(部分))

その後の歴史は広く知られるとおり、大正6年(1917)に、藤井レンズ製造所と東京計器製作所の光学部門、岩城硝子製作所の探照灯製造部門が合併して、「日本光学工業株式会社」(現ニコン)が創設され、日本の光学機器製造に画期がもたらされました。といっても、この頃はまだ「舶来品」も幅を利かせていたのですが、光学製品の国産化はその後着実に進展していくことになります。

そして、大正15年(1926)には、同社から独立した五藤斉三が「五藤光学研究所」を創設し、アマチュア向け望遠鏡の本格供給も始まりました。

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明治41年(1908)に日本天文学会が、大正9年(1920)に東亜天文協会が設立されたのは、こうした国産望遠鏡製造のタイミングとぴたりと重なりますが、望遠鏡の供給体制と天文趣味の興隆は、いわば「ニワトリと卵」の関係かもしれません。

テレスコープマン2026年01月27日 18時59分47秒

ブログを続けていると、過去記事に関連して、いろいろな発見があります。
以下は2年前の記事ですが、これについても発見がありました。

(以下の記事より画像再掲)

 
記事では、1枚のロンドンの絵葉書をネタに、ビッグベンのそばで通行人に望遠鏡をのぞかせて日銭を稼ぐ男を話題にしました。でも、絵葉書の主役は、あくまでもそこに立つ古代ケルトの女傑ブーディカ(ボアディケア)の像であり、望遠鏡商売の男はたまたまそこに写り込んだだけだろうと、その時は思いました。しかし実は、彼自身が一種のロンドン名物として「テレスコープマン」の異名をとっていた…というのが、今回の発見です。

そのことが分かったのは、下の写真を見つけたからです。


まぎれもなく同じ場所であり、同じ男です。


その正体は裏面に説明がありました。


この写真は London News Agency という古くからのニュース配信会社のアーカイブに含まれていたもので、紙が貼りついて読みにくい箇所もありますが、適当訳すればこんな感じでしょう。

ウェストミンスターの天文家、ブーディカ像の下で32年
 エドワード・クロッカーがウェストミンスター橋のたもとで営む望遠鏡商売は、昨日で満32年を迎えた。彼はこの間休むことなく、毎日自分の持ち場に立ち続け、頭上の銅像と同じぐらい有名になった。クロッカーはささやかながらも天文学に没頭し、星や星座が見える限り、それを指し示すことができた。(写真は本日(月曜日)撮影。写っているのは望遠鏡の脇に立つエドワード・クロッカーとビッグベンを覗く観光客)」

(観光案内など彼の商売ものを入れた足元の箱)

上の写真には肝心の日付けがありませんが、ここまで分かれば、追加情報を探すのは容易です。さっそく見つかったのは次のページ。

 
これまた過去の記録写真とそこに付けられたキャプションの紹介です。こちらも適当訳。

ブーディカ像の下のテレスコープマン、エドウィン・クロッカー
 1935年で88歳になるエドウィン・クロッカー、別名「テレスコープマン」が、ウェストミンスターの「ブーディカ」の銅像前に屋台店を出して満40年になる。クロッカーは絵葉書を販売し、望遠鏡でビッグベンの文字盤を見たい人に1ペニーで覗かせた。」

上の写真では名前が「エドワード」になっていましたが、他の情報も参照すると、どうやら「エドウィン」が正解のようです。1935年当時、40年間商売を続けていたということは、「32年間」を報じる上の写真は1927年に撮影されたものと思われます。

   ★

19世紀から続く街頭の望遠鏡商売。

それが大衆の天文知識向上に少なからず貢献したこと、そして何よりも望遠鏡商売に励んだ男たち自身が、純な「星ごころ」を持ち、決して豊かとは言えない環境の中で知識と機材の向上に熱心だったこと、その実相を活写したのが、『ビクトリア時代のアマチュア天文家』(邦訳2006、産業図書)でしたが、その著者であるアラン・チャップマン博士が1月21日に亡くなられたとの報に接しました。

テレスコープマンの写真とともに、その「星ごころ」を博士の霊前に供えたいと思います。ご冥福をお祈りいたします。

宇宙科学戦争かるた(前編)2026年01月04日 14時02分01秒

三が日も過ぎましたが、正月ネタで「カルタ」の話題です。


こんな昭和レトロなカルタを見つけました。
タイトルは「宇宙科学戦争かるた」


上は購入時の商品写真で、帯封を解く前の状態です。
上段は「い」から始まり、「いろはかるた」の形式を踏襲していることがわかります。下段の方は「う(ゐ)のおくやま…」と続きますが、戦後なので、「ゐ」の札は含まれません。


サンプルとして、冒頭の「いろはにほへとちり」まで並べるとこんな具合。あとは推して知るべしです。
後述するように、この品は1960年代に出たものと推測しますが、描かれた内容は戦前の海野十三のSF冒険小説さながらで、当時にあってもレトロな感じを伴うものだったんじゃないでしょうか。


「追拂/おひはらう」には、旧字体が混じり、振り仮名も新・旧のかなづかいが混在しています(旧仮名なら「おひはらふ」)。作者の年恰好が何となく想像されます。


中には「宇宙科学」のイメージとは程遠い、レトロというより、明らかに「アナクロ」な札も含まれています。

   ★

このカルタが表現している「科学」と「宇宙」のイメージについて、さらに子細に見てみようと思います。

(この項つづく)

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【閑語】

新年早々、アメリカがベネズエラを攻撃し、マドゥロ大統領夫妻を拉し去るという無茶なニュースが流れてきました。

宣戦布告を経た正規の戦争でもないのに、他国に対してなぜそんな振る舞いができるのか。アメリカはそんな特権的な地位をいったい誰から授かったというのか。仮にアメリカの言い分を認めて、マドゥロ大統領が「悪者」で、アメリカはそれを懲らしめる「正義の味方」だとしても、その正義の使い方はあまりにも恣意的で、そんな者に「正義」を口にする資格はなかろうと思います。

大国の振る舞いを見ていると、力ある者による切り取り次第が横行した戦国の世にあるかのような錯覚を覚えますが、現実は戦国の世ではなく、国家間の枠組みと国際法が機能している21世紀の世界です。アメリカだろうが、ロシアだろうが、中国だろうが、そんな手前勝手な振る舞いを認める余地は皆無であり、日本政府もその点は筋を通してほしいと思います。

クリスマスに寄せて…もう一人のアリス(後編)2025年12月27日 13時22分28秒

「星の七姉妹」を詠んだ連作詩は、第3の星・ルーイ第4の星・ローザへと続きます。


<ルーイ>
遠くの方から、新たに ひとつの星が輝きわたる。
(他の星たちに負けぬほど明るく) 
その喜びに満ちた微笑みは、魂を勇気づけてくれる。 

たとえ雷鳴が轟き、 困難という名の嵐がしばし吹き荒れようとも。
光り輝く人よ、それは君のことだ。
太陽の光を宿したその瞳、 
そして、天使たちでさえ宝物にするであろう、その微笑み。


<ローザ>
もう戻らねばならぬ時間だ。
だが私は今も、 星のちりばめられた天の天蓋を見つめている。
そこには、清らかで淡い光を放つ一つの星が見える。
その輝きは、あの「輝かしき七星」の中でも 決して見劣りするものではない。


それは何に似ているだろうか。
明るく、清らかなバラのつぼみ。 
私の目に映る、バラを司る天使のようだ。
立ち去る間際、私はそよ風の中にそっと囁く。
「愛しき友よ、かわいいバラのつぼみよ、どうか私のことを忘れないで」

恋愛詩と見まごうばかりの女性崇拝の美辞が続きます。ステロタイプな表現も多く、とびきりの名詩とは思えませんけれど、これがヴィクトリア朝の教養層の文芸作法なのでしょう(何となくですが、作者はオックスブリッジの学生、あるいは卒業生のような気がします)。それに今でこそ陳腐に感じられても、往時はもっと清新な感じが伴ったことでしょう。

   ★


これまで名前の出た年長の4人に続いて、年下の3人は「The Children」のタイトルで一括されています(表題上の3つの星に注目)。彼女らが「その他おおぜい」扱いなのは、詩を献じるにはまだ幼い、文字どおり「子供たち」だったからだと想像します。

<子供たち>
それから私は、去り際にふと思った。
暗い地上から、頭上の輝く星々を仰ぎ見て。
この世はいかに冷たく、不親切で、不実なことか。
愛しき子供たちよ、
君たちの心根とはなんと懸け離れていることだろう。
世界は本心を悟られまいと仮面を被るが、 
子供の心は、自らの秘めた思いをありのままに差し出す。
君たちこそが星々だ。
その鮮やかな輝きは、俗世に生きる者の心を導き、 
暗闇から光の中へと連れ出してくれるのだ。


本書の末尾は、こんな言葉で結ばれています。

(すぐ上の画像の拡大)

<結び>
さて、これでお別れだ。 
どうか悪く思わないでおくれ。 
(今はちょうど、クリスマスの季節だから) 
君たち全員に、これを贈らせてもらうよ。
それは――― *

【編者注】 おそらく作者は、最後の一語を書く前に眠りに落ちてしまったようです。何が彼をこれほど夢見心地にさせたのか、私には本当のところはわかりません。 ―― 編者より

伏せ字扱いの箇所、原文では「I send you all a ------*」となっていて、そこに注が付けられています。もちろん「編者」とは作者本人に他ならず、一種の照れ隠しの修辞でしょう。ここに入る言葉は、おそらく「kiss」。この辺のユーモア感覚も、元祖『アリス』を連想させます。

   ★

この詩に登場する星は、天文学が対象とする天体とは大いに異なります。
でも、物理的実体を伴わないから「無い」とも言えません。それは心理的にやっぱり「有る」ものです。

人は自分の中にある光や影を天体に投影し、そうやって生み出された「人の似姿としての星」に憧れたり、それを畏れたりします。その思いはロマンチックな詩に限らず、天体観望や天体写真の撮影に励む現代の天文ファンにも分有されているし、あるいはひょっとしてプロの研究者の心の底にも潜んでいるのかもしれません。

「星ごころ」とは結句そういうものではなかろうか…と、いきなり風呂敷を広げますが、もう一人のアリスに導かれて思いました。

【余談】

さて、ここで告白です。

本書の英語は古風な詩文なので、私にはちょっと難しくて、今回はAIの助けを借りました。その結果は上に見る通り、実に驚くべきものでした。彼は古語に堪能で、文学的比喩やユーモアを十二分に解して、たちどころに日本語訳を作ってくれました。この詩の作者が年上の従兄ないし一家の家庭教師だろうと推測したのも、最後の一語が「kiss」だと見抜いたのも彼です。私は半ば恐怖すら覚えました。

インターネットという基盤が作られ、SNSというメディアが生れ、スマホというデバイスが登場し、そして今や生成AIが異常な発達を遂げつつあります。私はそのすべてをリアルタイムで経験しました。ひとりの人間の一生にも満たない、ごく短期間ですべてが起こったのです。

これから人間とその社会が否応なく経験するであろう変革の帰結は分かりません。
でも、そこから新たなプロメテウスの神話が生れることは間違いないでしょう。

クリスマスに寄せて…もう一人のアリス(中編)2025年12月26日 17時03分36秒

今日は仕事納め。早々に仕事を切り上げて、日の高いうちに家路につきました。
昨日の雨で空は青く澄み、光がキラキラした粒のようです。
しかし風はとても冷たく、時々ごうごうと樹をゆらしました。
この時期の「明るく冷たい日」が私は好きで、しみじみ一年の終わりを感じました。

   ★

さて、昨日のつづき。


この本は本文わずか7頁ですが、冒頭に立派な「序文」があります(序文は1頁半にわたります)。以下、試訳(適宜太字)。

<序> 
日は沈み、薄暗き夜が 空にそのマントを広げた。
月もなく、星もまた、人の目には見えぬ。

人々が眠りにつき、一日の過酷な労苦に 疲れ果てた体を休めている間、 
学生はただ独り、本を読み、「真夜中の灯火(ともしび)」を燃やし続ける。

やがて本は閉じられた。―― 彼は表へ歩み出し、 天の穹窿を仰ぎ見る。
星は見えず、その夜は月さえも 光を授けてはくれなかった。

歩みを進めるにつれ、彼の心には悲しみが満ち、 魂には重苦しい影が差す。
「この果てしない営みは、いつ終わるのだろうか」
「いつになったら、目的地へ辿り着くのか」

そう沈思に耽っているとき、一つの星が顔を覗かせた。
そして、次から次へと星々が現れる。
新たな勇気が湧き上がり、思考は流れ、 
次のような言葉となって溢れ出した。

末尾の一句、「次のような言葉となって溢れ出した」というのは、すなわちこの後に続く一連の詩を指します。

ご覧の通り、本書は元祖『アリス』のようなナンセンス・ストーリーとは違って、結構まじめな調子で書かれています。でも、表紙の「Dedicated (without permission) to」のフレーズに漂う調子を考えると。著者はやはりユーモアを解する人だったでしょう。

全体の主語は「学生(the student)」で、著者は7人姉妹のお父さんではなく(最初はその可能性も考えました)、一人の青年であることを物語っています。そもそもお父さんだったら、上の4人の名前だけ出して、下の3人は「その他大勢」みたいな書き方はしないでしょう。ある人に言わせれば、著者は一家と親しい年上の従兄、あるいは姉妹の家庭教師ではないか…というのですが、その辺が正解のように思います。

   ★

まず最初は長女・アリスに献じられた詩です。


<アリス>
そよ風に運ばれ、 私の心の奥底にまで届くあの音は何だろう。
またしても聞こえてきた。
そして私は その場を立ち去りがたく、足を止める。

ああ! それは君の甘い歌声が奏でる調べ。 
夢を見るまで私たちを癒やしてくれる鳥のさえずりのようだ。
目覚めて、その響きが止んでしまったとき、 
この世がいかに悲しく見えてしまうことか。

君こそが、その声を放つ星なのだ。
君の穏やかな光は、私の不安をすべて消し去ってくれる。
「天球の音楽」を絶えず導いているのは、
 私には君であるように思えるのだ。

アリスは「天球の音楽」を甘美に歌う星だというのです。
序文では姉妹が「暗夜に現れ、青年を勇気づけた星たち」にたとえられましたが、詩の中でも、姉妹はそれぞれ星になぞらえて称賛されています。

   ★

続いて、次女・アンに贈る詩。


<アン>
その昔、澄み渡る青き湖のほとりに、 一人の佳人が住んでいたという。 
その湖面は、彼女の穏やかで美しい瞳のように、 
天空の弧からその色を写し取っていた。

そして彼女の肩には、混じりけのない黄金の波が、 
太陽の光に染まった泉のように溢れていた。 
幼き頃から、その最期の日まで、彼女は麗しかった。

この二番目の星が、私にその面影を思い出させる。
だが、その星は、かつての彼女の顔よりもなお明るい。

黄金の髪をなびかせたあの佳人も、確かに愛らしかった。
けれど、私にとっては、君の面差しの方がはるかに愛おしい。

文中、「二番目の星」とあるのは、言うまでもなくアンのことです。
星の7人姉妹といえば、プレアデスを連想しますが、この詩集は7人姉妹を北斗七星にたとえていて、次女のアンを「二番目の星」と呼んだのでしょう。

   ★

この続きは、「後編」にゆずりますが、こうしたロマン主義全開の情調にはピンとくるものがあります。すなわち「星空浪漫、明治から大正へ」と題して、(1)(2)(3)の3回にわたって書いたことと、これは地続きだと思います。

佳人の面影に星の美を重ねる。
あるいは、星の光の向こうに麗しい人を思い浮かべる。

こうした文学的趣向が日本に移植されて、明治浪漫派の星菫趣味を生み、そこから野尻抱影や山本一清も育っていきました。それを考えると、この無名子の詩心は、まんざら現代の我々と無縁ではありません。

(この項つづく。次回完結予定)

クリスマスに寄せて…もう一人のアリス(前編)2025年12月25日 18時52分49秒

1862年の夏、筆名「ルイス・キャロル」で知られる、オックスフォードの数学講師、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(1832-1898)は、先輩上司の娘であるリデル家の三姉妹とピクニックに出かけ、そこで彼が子どもたちに語って聞かせたたお話しが元になって、あの『不思議の国のアリス』(1865)が生まれたことはよく知られます。

『不思議の国のアリス』が商業出版される前年に当たる1864年、ドジソンはリデル家の次女、アリス・リデルの求めに応じて、手書きの物語『地下の国のアリス』を完成させ、これをアリスへのクリスマス・プレゼントとしました。言うまでもなく、これが『不思議の国のアリス』の原型であり、挿絵も文字もドジソンの肉筆という、世界でたった一冊の珍本です。これは後に富豪たちの手から手へと渡り、最終的に大英図書館の蔵書となりました。

(『不思議の国のアリス・オリジナル』と題して、1987年に刊行された『地下の国のアリス』の原本複製)

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同時代のイギリスには、ドジソンと似たようなマインドの人が他にもいたのでしょう、先日…といっても、ずいぶん前ですが、不思議な本を目にしました。

(判型は新書版よりわずかに大きいサイズ)

ごく薄手の本ですが、総革装で、天地と小口に金箔を押した、いわゆる「三方金」の立派な造本です。表紙に光る金文字は、「A. A. L. R. とその姉妹たちに(許しを得ることなく)捧ぐ」


見返しも至極上質の模様紙で、この本に込められた愛情のほどが察せられます。全体の感じは、この本がヴィクトリア朝中期、まさに『アリス』と同時代の作であることを窺わせます。


これがタイトルページ。
題して、『Septentriones. A Christmas Vision(北斗七星。あるクリスマスの夢)』

ご覧のとおり、本書は挿絵も文字もすべて手描きで、まさに『地下の国のアリス』と同工の作品です。そして本を捧げられた「A. A. L. R.」とは、「Alice, Ann, Louie, Rosa」の4人の頭文字で、これまたアリスつながり。3番目のルーイは男女両用の名前ですが、その内容からやっぱり女の子らしく、こちらのアリスは、「その姉妹たち」も含めて、女の子ばかりのきょうだい――タイトルの「北斗七星」から察するに7人姉妹――の長女なのでしょう。

ちなみに、ドジソンの小さな友人・アリスの方は、長女ロリーナ (Lorina)、次女アリス(Alice)、三女イーディス (Edith) の有名な三姉妹以外に、2人の兄、2人の妹、3人の弟がおり、早世した兄と弟を除くと8人兄弟姉妹の3番目でした。当時の人は実に多産です。

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これがドジソンの作品だったらすごいのですが、まあそんなことはなくて、無名の人物の筆のすさびに過ぎませんが、そこに漂うフレーバーは、ドジソンの『アリス』の世界を彷彿とさせ、興味は尽きません(それとも当時は、お手製の本をクリスマスにプレゼントするのが流行ってたんでしょうか)。

そして、私がこの本に興味を覚えたのは、そればかりではなく、これが姉妹を星になぞらえた、一種の「夜想詩集」だったからです。

(次回、本の中身を見てみます。この項つづく)

雑誌『シリウス』のこと(2)2025年10月10日 14時31分44秒

ルドルフ・ファルプ(Rudolf falb、1838-1903)が1868年に創始した一般向け天文雑誌、『シリウス(Sirius. Zeitschrift für populäre Astronomie)』。同誌の書誌はWikimrdia Commonsの当該項【LINK】に載っており、それによれば終刊は1926年だそうです。時代の嗜好に合ったのか、とにもかくにも半世紀以上続いたのは立派です。

ただしファルプが編者だったのは 創刊から1878年までの10年間で、以後は、Hermann Joseph Klein(1879~1914)、Hans-Hermann Kritzinger (1915~1926)が、編集を引き継いだとあります。したがって、手元の4冊のうち1902年の号だけは、別人であるヘルマン・クラインの手になるものです。

1902年になると、図版も網点による写真版になったりして、科学雑誌としては進化かもしれませんが、味わいという点では石版刷りによる初期の号に軍配が上がります。(まあ、当時の人は別に「味」を求めて石版を採用していたわけではなく、それがいちばんマスプロダクトな手段だったからだと思いますが。)

(火星かな?と思いましたが、1863年6月1日の皆既月食の図でした)

この何ともいえない色合い。
地球の影に入った「赤い月」は、恰好の天体ショーであり、雑誌の見せ場でもありました、

(1877年2月27日の月食3態。月の動きに連れて刻々と変わるその表情)

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1870年代は、イギリスの場合だと、トーマス・ウィリアム・ウェッブ(1807—1885)による天体観測ガイドの古典『普通の望遠鏡向けの天体』(1859)が出た後で、天文趣味が面的広がりを見せつつあった時期です。アマチュア向けの天体望遠鏡市場も徐々に形を整えつつありました。たぶんドイツでも事情は同じでしょう。

『シリウス』にも、いわゆる「趣味の天体観測」的な記事が登場します。

(さそり座の二重星たち)

(時代を隔てたほぼ同じ月齢の月。左:1865年、ラザフォードが撮影した月、右:1644年、ヘヴェリウスによるスケッチ)

(巨大クレーター「プラトン」を囲む環状山脈の偉観)

(1876年の木星表面の変化。モスクワ大学のブレディキンのスケッチに基づく図)

もちろん小口径望遠鏡では、月にしろ、木星にしろ、かほどにスペクタキュラーな光景が見られたわけではないでしょうが、それでもイマジネーション豊かなアマチュアたちの目には、それがありありと見えたはずです。

そして仮に望遠鏡を持たなくても、美しい星空は常に頭上にあり、星への憧れを誘っていたのです。

(北極星を中心とした北天星図)

(同上部分。よく見ると、星がところどころ金で刷られた美しい仕上がり)

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「雑誌『シリウス』のこと」と銘打って、(1)(2)と書き継いできましたが、とりあえず19世紀の星ごころの断片は伝わったと思うので、ちょっと尻切れトンボですが、連載は(2)で終わりです。

(この項おわり)