狐狸と屍喰(グール)の跋扈するところ2025年06月07日 13時10分44秒

(前回のつづき)

和田維四郎(号は雲村)の古書蒐集に関して、前出の川瀬一馬氏は、もう少し言葉を加えています。

 「村口は雲村の購書を一手に扱って、ほかの古本商を寄り付けぬように努め励んだと言います。〔…〕雲村は、岩崎・久原両文庫へ購入する古書の中に自分が欲しい物があると手もとに残し、それは後に「雲村文庫」として岩崎文庫に買って貰いました。体のよい二度取りです。それは半分久原文庫へ遣らなければならぬはずのものですが、久原は破産して最後は購入費を出しませんでしたから、岩崎文庫の方へ皆行ってしまったのでしょう。」 (川瀬前掲書、p.160)

川瀬氏はさらに

 「古書善本の購入にかかわると利が伴ないますから、生活のため色々のことが起こりやすいものであります。その間に身を潔く保つことははなはだ難しいことです。」(同)

と余韻のある結び方をされていますが、川瀬氏の本には、ほかにもいろいろと人間臭いエピソードが紹介されていて、学ぶことが多かったです。

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こういう商取引に関わる「ズル」以外に、この本には偽作の話題も出てきます。
私はこれまで書画骨董の世界は偽作・贋作だらけにしても、刊本である古書にもそうした例があることを知りませんでした。

具体的には、名のある蔵書、たとえば古くは北条氏の「金沢文庫」とか、下って太田南畝の「南畝文庫」とかから出た本であることを装う<偽印>、あるいは無刊記の本に他本の刊記を持ってきて補う<目直し>など。もちろん、いずれも書物の「格」と値段を吊り上げるための工夫に他なりません。

(川瀬氏の本に紹介されている偽印の例。右は真正の金沢文庫印、左は偽印三体)

まあふつうの古書だったら、初版本のコレクターが「本当の初版」の見極めに血眼になったり…とかはあると思いますが、意図的な偽作というのは、あまり聞きません(「著者サイン入り」が、別人の筆だった…というのは聞きます)。しかし「古典籍」の世界はまさに生き馬の目を抜く世界で、なかなか油断できないわけです。

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古書と言えば、最近、こんな事実を知りました。
書物研究家の庄司浅水(しょうじせんすい、1903-1991)氏の古書エッセイに教えられたことです。

庄司氏は、愛書趣味の先人、アンドリュー・ラング(Andrew Lang、1844-1912)のいう「ブック・グール(書籍墓発き)」を紹介して、こう書きます(改段落は引用者)。

 「〔…〕「書籍墓発き」に至っては、本を滅茶々々にしないと収まらないと云ふのだから、困ったものである。彼等は題扉(タイトルペーヂ)、口絵(フロントピース)、挿画、蔵書票等を蒐集するを以てこよなき楽しみとしてゐる。これがためには、公私の別なく書庫に忍び入り、湿した糸を挿込んでは己が欲する挿画を切り取り、アラビヤの伝説に伝はるかの不吉な悪魔の如く、巨人の残骸に見入る者である。

この方の代表的人物にジョン・バグフォードと云ふ靴屋の親爺がある。彼は英吉利好古物協会創設者の一人であるが、己が地位を利用して、各国各地の図書館、文庫を歴訪し、貴重珍稀な書籍を見せて貰ひ、監視の眼をごまかしては、さうした本のタイトル・ペーヂを片っ端からちぎり取ったのである。斯くして蒐集したものは、夫々の国々町々によって分類し、キチンと板紙に貼付けたが、二つ折判にして、優に百冊を突破したとのことである。」 (庄司淺水「書蠹」、奥本大三郎・編『蒐集(日本の名随筆別巻34)』、作品社、1993所収)


なるほどと思いました。
古書のカタログを見ていると、よく「タイトルページ欠」という本が売られています。現に私の手元にもあります。あれが一体何なのか、ずっと不思議に思ってたんですが、どうやら意図的に切り取る人がいたんですね。これが美しい口絵なら、それを切り取って手元に置きたいという気持ちは理解できるので、「口絵欠」の本は別に不思議とは思わないんですが、無味乾燥なタイトルページまで集めている人がいるとは、ちょっと予想していませんでした。

庄司氏と同様、私もそうした行為には眉をひそめますが、でもタイトルページがないおかげで、普通だったら手の届かない本が安価に売られている場合もあって、そのおかげをこうむっている私も、実は共犯者か…と、後ろめたいものも感じます。

(タイトルページを欠いたPierre Pomet(著)『A Compleat History of Druggs』、1712(フランスの本草書の英訳本)。パッと見タイトルページがあるように見えますが、これは前の所有者がカラーコピーで補ったもの)