ニコラウス、おめでとう2023年06月04日 19時01分21秒

そういえば…なのですが、ギンガリッチ氏の『誰も読まなかったコペルニクス』の序文は今から20年前の2003年の7月に書かれています(原著刊行は翌2004年)。

その30年前、つまり今から半世紀前の1973年には、ポーランドで大々的な科学イベントが開催されています。すなわち1473年に生まれたニコラウス・コペルニクスの生誕500年を祝う国際的な学術集会です。

(ワルシャワにあるコペルニクスの像。1927年の消印を持つ古絵葉書)

当時、少壮のギンガリッチ氏もその準備に忙しく飛び回っており、自身の研究発表のために、コペルニクスの主著『回転について』を調査している際、英国で詳細な書き込みのある初版本(1543)を見つけたことが、氏の壮大なライフワークの始まりでした。すなわち、現存する全ての初版本(後には1566年刊行の第2版も)を調査し、本の書き込みを読み解くことで、地動説の理解と普及がどう進んだかを解明するという、気の遠くなるような作業です。

(同上・一部拡大)

それから50年が経ちました。
そんなわけで、今年はプラネタリウム誕生100年、パロマー誕生75年、そしてコペルニクス誕生550年というわけで、なかなかにぎやかな年です。

上記のとおり、コペルニクスの『回転について』は1543年に初版が出ており、彼はそれから間もなく没したので、今年は刊行480周年であり、同時にコペルニクス没後480周年に当たります。まあ、こちらの方はあまりキリのいい数字ではありませんが、20年後の2043年には、『回転について』の刊行とコペルニクスの没後500年を記念するイベントが、きっと世界中で大々的に催されることでしょう。

「〇〇周年」という数字それ自体に、あまり意味があるとも思えませんが、人は忘れっぽい存在ですから、キリのいいところで思いを新たにするというのは、好い工夫です。

(コペルニクスとギンガリッチ氏のことで話をさらに続けます。)

太陽黒点に関する授業2023年05月21日 11時13分38秒

昨日不景気な話をしたので、今日は験直しです。


天文学をテーマにした、こんなコミカルな絵葉書を見つけました。

先生が黒点とは何か尋ねていた。
「僕は見たことありますよ」とフレッドが言った。「それもこの近所でね。黒点の問題は、すごそこの通りでも起きてますよ。女の子はそばかすが出来たと言っちゃあ、カッカしてますからね。」


黒点を「そばかす」にたとえるのは、万国共通のようですね。
それにしても、この少年たちのこまっしゃくれた表情ときたらどうでしょう。皆なかなか芸達者で、ひょっとしたら「地」のまま演じてるんじゃないかと思えるほどです。


唇を噛み締めて、「むぐぐぐぐ…」という先生の表情もいいですね。


絵葉書の裏面。この「英国の生活シリーズ(Anglo Life Series)」という一連の絵葉書は、1910年前後、いろいろ面白おかしいテーマで人気を博したらしく、今でもこの名で検索すると、いろいろな作例を見ることができます。

プラネタリウムの誕生2023年04月30日 08時46分10秒

100年前の1923年はどんな時代だったか?
手っ取り早くウィキペディアで1923年の「できごと」欄を見ると、日本では何と言っても関東大震災の年で、海外だとウォルト・ディズニー・カンパニーの設立や、ヒットラーがミュンヘンで武装蜂起して失敗した事件(ミュンヘン一揆)など、いろんなことが項目に上がっています。

そんな時代に産声をあげたプラネタリウム。
ちなみに、上記の「ミュンヘン一揆」が起こったのは1923年11月8日から9日にかけてのことで、ミュンヘンのドイツ博物館でプラネタリウムのお披露目があったのは、その直前の10月21日のことですから【参考LINK】、いいささか不穏な幕開けでした。

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プラネタリウム100年にちなむ「ご当時もの」を探していて、こんな絵葉書を見つけました。


地平線上の建物のシルエット、その上に広がる人工の星空、それを生み出すツァイスⅠ型機の勇姿。これぞ世界初のプラネタリウム施設、ドイツ博物館の情景で、当然のことながら「プラネタリウムを描いた絵葉書」としても世界初のはずです。

ただし、ドイツ博物館のツァイスⅠ型機は、1923年のデモンストレーションの後、いったん工場に戻されて改良が加えられ、再び同じ場所に戻ったのは1925年5月のことです。これが本格的な商用デビューなので、この絵葉書もそれを機に発行されたものと想像します。(ですから、厳密には100年前のものではなく、98年前のものですね。)


消印は9月13日付け。年次が消えていますが、末尾の数字は何となく「6」っぽいので、1926年の差し出しかな?と思います。


この絵葉書には「ドイツ博物館公式絵葉書」のマークがあって、たぶん館内でお土産として売られていたのでしょう。


文面を読めるといいのですが、まったく読めません。でも冒頭第1行に「caelum」(ラテン語で「天空」)の一語が見えます。そして宛先はリューベック。たぶん…ですが、プラネタリウムを見学した人が、ドイツ南端の町ミュンヘンから、北端の町リューベックに住む知人に宛てて、その感激を伝えているのではないでしょうか。そう思って眺めると、当時の人々の弾む心がじわじわ伝わってくるようです。

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さて表面にもどって、プラネタリム本体について。


ぱっと見、「あれ?変な形だなあ」と思われないでしょうか。ツァイス・プラネタリウムといえばおなじみの、あのダンベル型のフォルムをしていません。でも、それこそがⅠ型機の特徴で、その詳細を写した写真がwikipediaに載っていました。


そもそもあのダンベル型は、北半球の星空を投影する球体と南半球用の球体をつないだ結果生まれた形で、1926年に登場したⅡ型機から採用されたものです。Ⅰ型機はまだ北半球の星空(より正確にはドイツから見える星空)にしか対応していなかったので、このような形になっています(お皿に載ったウニのようなものが恒星投影機、その下の円筒のかご状のものが惑星投影機です。)


キャプションには「プトレマイオス式プラネタリウム」とあります。何だか大仰な言い回しだなあと思いましたが、山田卓氏がその背景を書かれているのを読み、納得しました。

■山田 卓「プラネタリウムのうまれと育ち」
それによると、ドイツ博物館(1903年オープン)を創設したオスカー・フォン・ミラー博士は、何事も実物展示志向の人で、宇宙もできればそうしたいが、それは無理なので、それに代わるものとして最新の天球儀とオーラリーを製作したい、できれば両者をドッキングさせたい…というプランを持っていたのだそうです。

 「1913年、ミラーは星の動きにモーターを使うこと、星は伝統の光を使って輝かせて。ミュンヘンの星空と同じ状態が再現できることなど、コペルニクスタイプ(オーラリー)のものも、プトレマイオスタイプ(天球儀)のものも、それぞれ彼の意図を満足させるものにしたいという条件をつけて再発注することにした。

 設計・製作を依頼されたツアイス社は、二つのタイプについて、それぞれ前者はフランツ・メイヤーFranz Mayerを、後者はウオルター・バウアスフェルドWalther Bauersfeldを中心にプロジェクトチームをつくった。

〔…〕

 ウオルター・バウアスフェルドを中心にしたプロジェクトでは、最初の計画とは逆に、星を動かすのではなく、星のプロジェクターを動かすという方式を採用し、さらに多くのアイディアを盛り込んで、ついにプロジェクター方式の近代プラネタリウムの第一号機を誕生させたのだ。」 
(上掲論文pp.9-10.)

最終的に完成したプラネタリウムは、単なる可動式天球儀というにとどまらず、そこに惑星の動きも投影できる装置となりましたが、系譜としてはミラー博士がいうところの「プトレマイオスタイプ」の発展形であり、実際そこで示される天体の動きは、すべて地球が中心ですから、これを「プトレマイオス式」と呼ぶことには理があります。

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100年にならんとする星霜。
たった1枚の絵葉書に過ぎないとはいえ、その歴史的重みはなかなかのものです。

ウラニア劇場へ2023年04月21日 17時02分43秒

今日も「ウラニア」の絵葉書の話題です。
ただし、ところは変わって、舞台は1898年の世紀末ウィーン。

この年、時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は在位50周年を迎え、ウィーンではこの慶事を祝う大規模な博覧会が催されていました。この催しの基調は、過去半世紀に成し遂げられた産業・貿易・技術の発展を謳歌するというものでしたが、中でも特に科学の進歩に焦点を当てたパビリオンが、「ウラニア劇場(Urania-Theater)」です。


それをモチーフにしたのが、このユーゲントシュティール然とした絵葉書。



昨日の絵葉書と違って、今回のは本物オリジナルで、その消印も博覧会場で押された特製スタンプらしく、インクの残り香に1898年ウィーンの空気を感じます。

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ウラニア劇場はこの博覧会のためだけに、急拵えしたものではありません。

1888年にベルリンで、科学知識の普及を旨とした市民教育のための組織「ベルリン・ウラニア協会(Die Berliner Gesellschaft Urania)」が設立され、これに刺激されて、1897年にウィーンでも「ウィーン・ウラニア組合(Das Syndikat Wiener Urania)」が結成されました。その活動拠点として作られたのが、この「ウラニア劇場」であり、博覧会側とウラニア組合側は、お互い渡りに船、ちょうどタイミングが良かったわけです。


三々五々、「星の劇場」につどう人々。


その先にそびえる科学の殿堂と、それを見下ろす星たち。

新古典様式とユーゲントシュティール(アールヌーボー)様式をミックスした建物は、800 人収容のホールを持ち、さらに200人が入れる講堂や、科学実験の実演部屋、さらに口径8 インチ(20cm)を始めとする一連の望遠鏡を備えた天文台、水族館等を擁していました。ここで日夜、幻灯講演会、科学実験、気球による気象観測等々が行われたのです。

しかし、ここはあくまでも仮設の建物に過ぎず、また経費も嵩んだことから、博覧会の終了後まもなくして閉鎖・取り壊しとなり、ウィーンのウラニア組合は、この後しばらく市内の貸会場を転々としながら、活動を続けました。

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最終的にウラニア組合の落ち着いた先が、今も活動を続けているウィーンのウラニア天文台(1910年オープン)です。


同天文台については、13年前に紹介済みですが、そのときは天文台の前史であるウラニア劇場のことが、分かっていませんでした。

■妄想酒舗、ウラニア
■妄想ではなかった酒舗ウラニア

今回13年ぶりに、その経緯を知ることができたわけで、ささやかながら、これも「継続は力なり」の実例だと思います。

山峡に聳え立つドーム2023年04月20日 20時39分11秒

こんなカッコいい絵葉書を見つけました。
ただし、オリジナルではありません。1905年に制作された「ウラニア天文台」のポスターを、お土産用に絵葉書化したものです(原版はチューリッヒ・デザインミュージアム所蔵)。


ここはチューリッヒにある公共天文台で、研究成果を上げるよりも、市民に星に親しんでもらうことを目的とした施設です。

この天文台は以前も登場済み。

■そびえ立つウラニア
■チューリッヒのウラニア天文台(補遺)

ちなみに、以前の記事ではここを1907年のオープンと書きましたが、建物自体は1899年にできており、1907年は運用開始の年の由。


遠くにはアルプスの山並み、眼下には冷涼な湖と瀟洒な街並み、そのすべてを覆う満天の星。


ドームの中では望遠鏡の周りに紳士淑女や少年たちが集まり、階下のレストランでは美味しい料理が湯気を立て、人々が美酒を酌み交わしたのです。何ともうらやましい環境です。

それにしてもこのポスター。山峡に舞い降りた星の女神をたたえるに相応しい、実に美しいデザインです。

海辺の絵葉書2023年03月31日 21時33分00秒

かつて、天文にちなむ絵葉書として、こんなものを載せたことがあります。


発行元はロンドンの「The Regent Publishing」社で、はがきの差し出し日は1921年7月23日となっています。

あるいは、こんな絵葉書も。
 

「運命(Kismet)シリーズ」と題した1枚で、「London E.C. 版権保有」と印刷されています。おそらく1910年代の品。

さらにこんな絵葉書。


こちらはロンドンの「Art and Humour Publishing」社製で、おそらく1920年代の品でしょう。

はたまたこんな絵葉書。
 

こちらは英ヨークシャーのBamforth社製で、かすれた消印の日付は1939年と読めます。

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ここに採り上げた絵葉書は、いずれもイギリス製。そして、いずれも「艶笑」、要するに下ネタで笑わせようという絵葉書です。まあ、こういうのは世の中に多いよね…と思うんですが、今日、私が新たに学んだことは、これらを一括して「海辺の絵葉書(Seaside postcards)」と呼ぶという事実です。

たまたま絵葉書の歴史について調べていて、wikipediaを読みに行ったら、そこにその説明があったので、「なるほど」と思ったわけです。

 
何でも19世紀後半以降、鉄道の発達によって気楽に海辺に遊びに行けるようになり、そして海辺では男女ともに水着姿になることから、それが艶笑と結びついて、「海辺の絵葉書」の名称で、20世紀半ばまで、主にイギリスで大いに人気を博したものだそうです。

最初は文字通り海辺の景を描いたもので、一番上に挙げた品が一例ですが、こういうのは応用が利くので、海辺を離れても発展を続け、それでも「海辺の絵葉書」の名前だけは残りました。上記wikipediaの解説によれば、「1930年代初頭、漫画風の洒落た絵葉書が普及し、最盛期には年間1600万枚も売れた」云々と書かれています。

海辺の絵葉書で、最も有名なのがヨークシャーのバンフォース社で、上に掲げた4枚目のものが同社の製品ですが、これも海辺とは何の関係もない絵柄です。

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試みにアマゾンで見たら、『Saucy Seaside Postcards』とか、


『The Bamforth Collection: Saucy Postcards』というような本が売られていて、「海辺の絵葉書」はすでに確立した収集ジャンルとして、専門のコレクターもいることを知りました。


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人の心に新たな概念が生まれ、それに名前が付く瞬間。
これは盲聾の重複障害を負ったヘレン・ケラー女史が、不屈のサリバン先生の教育を受けて、ついに「water」という概念と言葉を獲得した、あの感動的な瞬間を想起させます。

今回、その瞬間を、私は自ら体験しました。
それがいささか品のない概念であり、「海辺の絵葉書」という、どうでもいい言葉であったとしても、その経験自体はすこぶる貴重なものであった…と申し上げたい。

桜流し2023年03月26日 15時25分05秒

雨の休日。静かに雨に濡れる桜もまた良いものです。
桜をいつくしむために、京都の便利堂さん【LINK】で、美しい絵葉書を購入しました。


左は幕末~明治の絵師、柴田是真(1807-1891)が描いた『対柳居画譜』に収められた桜の図。右は新版画を興した川瀬巴水(1883-1957)の「東京十二景」より「春のあたご山」(1921)。


桜は優しい花ですね。


この花がミリタリズムと永遠に無縁であってほしいと思います。



絵葉書探偵2023年03月25日 11時41分37秒

天文台の絵葉書を整理していて、以下の1枚が目に留まりました。



これはいったいどこの天文台か?
表にも裏にも、何のキャプションもないので、こういうのが一番難しいのですが、じっと見ているうちに、この「S. Fayet」という差出人の名前に、何となく見覚えがある気がしました。


検索すると、果たしてその名はすぐに見つかりました【LINK】。

すなわち、ガストン・ファイエ(Gaston Fayet 、1874-1967)。1917年から62年まで、フランスのニース天文台長を長く務めた人です。(ファーストネームのイニシャルが「S」に見えましたが、これはフランス語の筆記体で「G」ですね。)

ならば当然、被写体はニース天文台のはず。
調べてみると、確かにこれは1883年から運用を開始した同天文台の「小赤道儀棟(Petit Équatorial)」の写真です【LINK】。

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では…と、宛先にも目を凝らすと、そこにも「observatoire」の文字が見えます。


なるほど、よく見るとこの葉書は「ブザンソン天文台 ルブフ台長御夫妻」宛てなのでした。

■Observatoire de Besançon

(ブザンソン天文台。上記ページより)

■Auguste Victor Lebeuf(1859-1929)

結局、これはある天文台長が別の天文台長に送った挨拶状という、なかなか天文趣味に富んだ1枚で、買ったときはそうした事情を一切知らずにいましたから、これはちょっと得をした気分。

(消印は1914年3月1日(1月3日?)付け)

まあ後知恵で考えると、切手の消印がニースですから、それに気づけばすぐニース天文台にたどり着けたはずですが、そうするとたぶん差出人と受取人の探索はせずに終わったでしょうから、これは回り道をして正解です。


なお、写真に写っている人物がファイエだと一層興味深いのですが、この写真だけでは何とも言い難いです。ちなみにファイエは下のような面差しの人だそうです。

(前列左がファイエ。1932年の国際天文連合総会にて。© IAU/Observatoire de Paris。出典:https://www.iau.org/public/images/detail/iauga1932-ship/

名残の空2022年12月31日 17時52分54秒

霽(は)れてゆく 名残の空と なりにけり   大文字

形ばかりの大掃除を済ませ、年越しそばも食べ、あとは除夜の鐘を聞くばかりです。
今年も「天文古玩」にお付き合いいただき、ありがとうございました。
年末は少ししおらしい記事を書きましたが、来年はモノとの付き合いが今以上に濃密になるといいなと思います。そしてもちろんモノばかりでなく、人とのふれあいも。

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白いものに覆われた古びた屋敷。
すでに雪雲は吹き払われて、空には三日月と満天の星が静かに光っています。
1911年の消印を持つ、ドイツ製の美しいクロモリトグラフ絵葉書。当時のドイツは絵葉書を盛んに輸出していたので、これも輸出仕様の英語表記で、差出地は米国カンサスです。


月が沈めば夜の闇はさらに深く、空には新年を予祝する巨大な流れ星が。


「A Happy New Year」を「あけましておめでとう」と訳すと、ちょっとフライングですが、ここでは「良いお年を」の意味に取ってください。

それでは皆さま、どうぞ良いお年を!

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(後編)2022年11月27日 14時30分03秒

(今日は2連投です。)

フリッチ兄弟の父親は、詩人・ジャーナリストであり、チェコの愛国者にして革命家としても著名な人物だった…という点からして、なかなかドラマチックなのですが、二人はパリで少年時代を過ごし、プラハに帰国後、兄は動物学と古生物学を、弟は物理学と化学を学び、1883年、ふたりとも二十歳そこそこで共同起業した…というのは前編で述べたとおりです。

何だか唐突な気もしますが、その前年(1882年)に、兄弟はチェコの科学者の大会に出席し、湿板で長時間露出をかけた顕微鏡写真の数々を披露したのが、大物化学者の目に留まり、その紹介で弟ヤンはドイツの工場に短期の修行に行き、さらに旋盤を購入し…というような出来事があって、それを受けての会社設立だったようです。

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ちょっと話が脱線しますが、ここで「チェコ、チェコ」と気軽に書きましたけれど、当時はまだチェコという国家はありません。あったのは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」です。

(1871年の「オーストリア地図」。オーストリア領の西北部、ボヘミア・モラヴィア地方が後のチェコ、ハンガリー帝国の北半分が後のスロバキア)

1848年に全ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた後、中欧ではハプスブルク家専制に揺らぎが生じ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国が成立します。しかし、チェコやスロバキアの人々はこれに飽き足らず、「自分たちはスラブ人だ。ドイツ人やマジャール人の支配は受けない」という民族意識の高揚――いわゆる「汎スラブ主義」が熱を帯びます。この動きの先にあるのが、1918年の「チェコスロバキア共和国」独立でした。

ここで思い出すのが、先月話題にしたチェコの学校教育用の化石標本セットです。

■鉱物標本を読み解く

(出典:Guey-Mei HSU、”Placement Reflection 3”

台湾出身のグエイメイ・スーさんが手がけたミニ展示会に登場したのは、ヴァーツラフ・フリッチ(Václav Fric、1839-1916)というチェコの博物学者(今回話題のフリッチ兄弟と縁があるのかないのかは不明)が監修した標本セットで、自分が書いた文章を引用すると、こんな次第でした。

 「その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。」

これが当時のチェコの科学界の空気であり、フリッチ兄弟もその中で活動していたわけです。彼らは科学に対する自身の興味もさることながら、科学によって祖国に貢献しようという思いも強かったのではないでしょうか。純粋学問の世界から、精密機械製作という、いわば裏方に回ったのも、そうした思いの表れではなかったかと、これはまったくの想像ですが、そんな気がします。

(フリッチ兄弟社の製品群。Wikipediaの同社紹介項目より))

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話を元に戻します。

フリッチ兄弟はチェコで最初の月写真を撮り、その写真は1886年にポルトガルで開かれた国際写真展で賞をもらったりもしました。彼らの天文学への興味関心は、商売を越えて強いものがあったようです。弟のヤンは1896年、私設天文台の設立を目指して大型のアストログラフの設計図面を引きました。しかし好事魔多し。ヤンは翌1897年に虫垂炎の悪化で急死してしまいます。

兄ヨゼフは二人の夢を実現するために、オンドレジョフ村に土地を買い、建物を建て、後にチェコ天文学会会長を務めたフランチシェク・ヌシュル(František Nušl、1867-1951)の協力を得て、ようやく念願の天文台を完成させます。1906年のことでした。

(写真を再掲します)

そして、そのドームの中には弟の形見として、かつて彼が設計したアストログラフが据え付けれら…というわけで、今回の絵葉書の背後には、そうした「兄弟船」の物語があったのでした。さらにその背後には、チェコの近現代史のドラマも。

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調べてみるまで何も知りませんでしたが、何気ない1枚の絵葉書も、多くの物語に通じるドアであることを実感します。

ちなみにオンジョレドフ天文台は、1928年に国(チェコスロバキア)に寄贈され、曲折を経て、現在は前回述べたとおり、チェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設となっています。またフリッチ兄弟社は、戦後にチェコスロバキアが共産主義国になると同時に国有化され、各製造部門はあちこちに分有され、雲散してしまいました。

(ボーダーに音楽記号をあしらったスメタナ切手。彼のチェコ独立の夢が結実したのが、交響詩「わが祖国」です。)