洛中の夏 ― 2024年08月07日 05時58分45秒
毎日「暑い暑い」と言いながら、昔読んだ印象的な文章が頭をかすめました。
最初、予備校の現代文のテキストで読んだと思うんですが、いろいろ記憶をたどるうちに、仏文学者で評論家の杉本秀太郎氏(1931-2015)が書いたものと気づき、氏のエッセイ集『洛中生息』の中に、それを見つけました。ちくま文庫版だと169頁から始まっている「夏涼の法」という文章です。以下はその一節(太字は引用者)。
「友人が冷暖房自在の家を、京都の南郊に建てた。暑いあいだも仕事が捗るだろうと想像されて、悪くないな、と私は思ったものだ。〔…〕新しい家での夏も、ようやく半ばという頃、その友人は、出会うなりさっそく、こんなことをいった。
――やっぱり夏はああ暑う、あついなあ、いうて、なにもせんと、ひっくり返ってるのがええわ。夏は暑がってるのが文化いうもんや。君がうらやましいわ。
クーラーを使ってはいない私の苦笑もかまわず、彼はつづけて、東京の文化人のように別荘避暑地というものをもつ習性のないことを京都人の長所として指摘し、別荘避暑地代りに工夫された町なかの夏の年中行事を称賛するのであった。」
――やっぱり夏はああ暑う、あついなあ、いうて、なにもせんと、ひっくり返ってるのがええわ。夏は暑がってるのが文化いうもんや。君がうらやましいわ。
クーラーを使ってはいない私の苦笑もかまわず、彼はつづけて、東京の文化人のように別荘避暑地というものをもつ習性のないことを京都人の長所として指摘し、別荘避暑地代りに工夫された町なかの夏の年中行事を称賛するのであった。」
予備校生だった私は、この杉本氏の友人の言葉にいたく共感し、その後も折々反芻していました。当の杉本氏にしても、氏は先祖伝来の古い町家に住み、京の伝統文化を称揚する立場でしたから、苦笑しつつも、この友人の言葉に大いに頷くものがあったでしょう。
(祇園祭を迎えた杉本邸のしつらえ。出典:西川孟(写真)・杉本秀太郎(文)・中村利則(解説)『京の町家』、淡交社、1992)
しかし温暖化が進み、暑いうえにも暑くなった今の京都で、これが依然通用するものかどうか? 「あついなあ、いうて、なにもせんと、ひっくり返ってる」うちに、本当にひっくり返ってしまうんじゃないか、そして命をも奪われてしまうんじゃないか…という懸念なきにしもあらず。
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上の杉本氏の文章は、最初、雑誌「きょうと」72号(1973年7月)に発表されたものです。つまりほぼ半世紀前。
ここで気象庁のデータをもとに、過去の京都の気温を振り返ってみます。
下は1890年から1970年までは10年ごとに、1970年以降は5年ごとに京都市の7月の気温を拾ったものです(最後に2024年の値も入れました)。
指標となっているのは、7月の平均気温(日平均)、平均最高気温(日最高)、平均最低気温(日最低)、月間最高気温(最高)、月間最低気温(最低)の5つです。なお、上記のように横軸は時間間隔が揃ってないので、グラフの傾きを見る際は注意してください。
このグラフを見て、ただちに気づくことが3つあります。
1つ目は、温暖化と言いながら、明治のころから2020年まで、意外に気温は変わってないということです。昔の京都も、やっぱり今と同様に酷暑で、都人は耐え難い暑さと戦っていたことが分かります。
2つ目は、そうは言いつつも、各指標の中で月間最低気温だけは、顕著な上昇を示していることです。昔の京都は、7月にも肌寒さを感じるような冷涼な朝が折々ありました。今はそれがなくなった…というのが、たぶん肌感覚上の大きな違いで、京都の暑さが増しているという印象を生む原因ともなってるんじゃないでしょうか。
そして3つ目は、今年の暑さはやっぱり異常だということです。あらゆる指標がぴょこんと異常な値を示しています。こうなると、「あついなあ」とひっくり返っているだけではとても間に合わず、伝統文化も旗色が悪いです。
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来年には異常値から平常に復して、また伝統文化を楽しめればと思いますが、仮にこういう夏が今後増えていくのだとしたら、これはもう新たな文化を創出するほかなく、京都の人にはみやびな「新・夏涼の法」を編み出していただき、他の範となってほしいと思います。
(杉本邸の露地庭。出典同上)
秋立つ。 ― 2024年08月07日 19時06分22秒
暦の上では今日から秋。
…そう言われて、「馬鹿も休み休み言え」とお怒りの方もいらっしゃるでしょう。たしかに私もそう思うし、「どうも最近の暦は、大本営発表が過ぎる」とも思います。
でも、これは気温だけに注目するからそう思うので、日の出・日の入りの時刻、太陽の天球上の位置、夜空の星座の顔ぶれ…それら気温以外の天象は、すべて今が秋の入り口であることを示しています。
「暑いのが夏、涼しいのが秋」、そんな「常識」は捨て去らねばなりません。
そんなことでは、もはや季節は判別できないのです。
天を管掌した古今東西の学者たちのように、我々はじいっと太陽の運行を観測し、ただそれのみによって四季を知るしかないのです。
そう、誰が何と言おうと、すでに秋は立ったのです。
…と力説せねばならないことを悲しく思います。
地球はいったいどうなってしまうのでしょうか。
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