【閑語】8月15日2023年08月15日 05時52分56秒

今年も8月15日を迎えました。今年は台風の中の8月15日です。

先の大戦が終わってから今年で78年。そして今年は明治156年ですから、あの敗戦を境に、日本の近・現代史はちょうど半々に分かれるわけです。すなわち、3度の対外戦争を経験した前半と、それがなかった後半と。

8月15日は月遅れのお盆でもあるので、先年亡くなった父母、そして祖父母や曽祖父母――まさに日本のザ・庶民といえる人々がたどった156年間を思い起こして、大いに感慨深いものがあります。

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なんだかんだ言って、戦のない世が78年間も続いたのは江戸時代以来のことで、戦を知らぬまま天寿を全うした人も現に大勢いますから、これは大いに慶賀すべきことです。しかし、これからのことは、まったく予断を許しません。

憲法前文の冒頭第一文、

「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

…というのは、当時の人々が後世に託したメッセージにほかなりません。でも78年も経てば、人々の痛切な記憶も薄れ、心のありようも自ずと変わります。要は喉元すぎれば何とやらで、これは人間の性として、いかんともし難いところです。

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ここで改めて自分の考え方を整理しておくと、「精神は単純でもよいが、ものの見方が単純であってはいけない」ということを強調したいです。

戦争で成り上がる人もいるし、戦争で大いに懐を肥やす人もいますが、多くの人は戦争で得るものなんてありはしません。戦争はすべきではないし、平和とはこの上なくありがたいものだ…というのが、単純な精神の例で、私自身が思っていることでもあります。

これに対して、「もちろん好きで戦争するわけじゃないけどさ、でも“向こう”が攻めてくる気満々なら、こっちも武器を取らざるを得ないんじゃないの?」という人も多いでしょう。これも単純な精神の例であって、あながちに否定はできません。

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しかし、ここでさらに「ものの見方まで単純であってはいけない」ということを、私は言いたいのです。

たとえば「向こう」とは何か? 最近だと、もっぱら大陸中国が想定されているのでしょうが、習近平政権も決して永続的なものではないし、政権周辺にも一皮むけば、いろんな利害集団があって、到底一枚岩ではありません。それに共産党と人民解放軍のパワーバランスだって、相当微妙な均衡の上に成り立っているんだと思います。ましてや、そういう政治ゲームとは無縁の大多数の民衆は、われわれと同様「戦争なんて真っ平だ」と思っているはずで、もちろん同じことはロシアについても言えます。そういうのを引っくるめて「“向こう”は攻める気満々」と言ってしまうのが、単純なものの見方の例です。

平和を守りたいのだったら、互いにいろんなパイプを増やし、太くして、知恵を出し合わねばならないはずで、「“向こう”がその気なら…」と、やたら腕まくりをしたり、背後でそれを煽り立てたりするのは、賢明な振る舞いとは到底思えないです。

もちろん、交渉というのは単純な性善説でできることではなく、腹の探り合いもしょっちゅうでしょう。まあ、そこは知恵の使い所です。また信用できない輩もしばしば登場すると思いますが、でも、だからこそこちらの腹の底は、常にきれいにしておかなければならないのです。

あるいは、交渉カードとして軍備を考えるというなら、同時に軍を十分グリップできる算段をしておかないと危険であることを、我々は歴史から十分学んだはずで、そのことの目配りを欠くのは、やっぱり「単純な見方」の例だと思います。

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人跡まれなブログの隅で、こんな床屋政談をしてもしょうがないとは思いますが、われらとわれらの子孫のために、あえて2023年現在の思いを書きつけました。

思えば、日本国憲法の精神というのもずいぶん単純なものであって、単純だからこそ、78年間も抑止力を発揮したのでしょう。単純なものの強さということを思います。